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残りの夜が来た
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その他
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ディオとジョナサンの幸福の王子
初出・多分旧苦行クラブのブログ 2006か2007
町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。王子の像は全体を薄い純金で覆われ、目は二つの輝くサファイアで、王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。この風見鶏のように美しく天使のように清らかな王子は、皆の自慢でした。
ある晩、その町にツバメが飛んできました。ツバメの名前はディオといました。ディオの仲間たちはすでにエジプトに出発していましたが、ディオはまだヨーロッパに残っていました。もう冬はすぐそこ、ひんやりとしてきた風の中をディオは飛びました。目指すは小さな町、その高台、柱の上、彼は幸福の王子に用がありました。
一日中ディオは飛び、夜になって町に着きました。彼は王子の肩に止まると、挨拶もせずに本題を切り出しました。
「なあ、君、幸福の王子」
「僕はこの世のほんとうの幸福を知りたい」
「僕はたくさんの国を回ったが、この世のほんとうの幸福だけまだ見たことがない」
「聞けば君は幸福の王子だっていうじゃあないか」
「なあ、君、幸福の王子。教えてくれないか、ほんとうの幸福ってやつのことを」
幸福の王子は青く輝く瞳をディオの方に向けました。その美しい双眸が涙に濡れていたことにディオは驚きました。そしてその光景をとても美しいと思いました。
「何故泣いているんだ、幸福の王子」
「まだ僕が生きていて、ジョナサン=ジョースターという人間の心を持っていたときのことだった」と像は答えました。
「僕は涙というものがどんなものかを知らなかった。僕の宮殿には悲しみが入り込むことはなかったからだ。庭園の周りにはとても高い塀がめぐらされていて、僕は一度もその向こうに何があるのかを気にかけたことがなかった。周りには、非常に美しいものしかなかった。廷臣たちは僕を幸福の王子と呼んだ。もしも快楽が幸福だというならば、僕は実際に幸福だった。僕は幸福に生き、幸福に死んだ。死んでから、人々は僕をこの高い場所に置いた。ここからは町のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える。僕の心臓は鉛でできているけれど、泣かずにはいられない」
王子の目からついに涙があふれ出て、金色の頬を転げおちていきました。
「ずっと向こうの」と、王子の像は低く調子のよい声で続けました。「ずっと向こうの小さな通りに貧しい家がある。窓が一つ開いていて、テーブルについたご婦人が見える。顔はやせこけ、疲れている。彼女の手は荒れ、縫い針で傷ついて赤くなっている。彼女はお針子をしているのだ。その部屋の隅のベッドでは、幼い息子が病のために横になっている。熱があって、オレンジが食べたいと言っている。母親が与えられるものは川の水だけなので、その子は泣いている」
「王子の脳も鉛で出来ているのだろうか?」とディオは思いました。ディオはこの世のほんとうの幸福のことを聞いているのに、この王子はつまらない昔話や遠くの不幸の話をする。ディオはそんなありふれたことにぜんぜん興味がないのでした。とてもいらいらしたディオは、王子の肩を足でがりがりとこすりました。金色の膜が少し削れ、きらきらひかる粉が冷たい空気の中を舞いました。ディオはとても悪いことをしているような気分になりましたが、悪いのは幸福の王子なのだと思い直しました。
「僕はエジプトに行くんだ、幸福の王子」ディオは言い、ねぐらを探すため飛び立とうとしました。そこに王子の悲痛な呼びかけがとびだしました。「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」
「君の悲しみにつきあっている時間なんてものは、この僕はもちあわせていない」
王子はかまわず続けました。「僕の剣のつかからルビーを取り出して、あの婦人にあげてくれないか。両足がこの台座に固定されているから、私は行けないのだ」
「僕はエジプトに行くんだ、幸福の王子」とディオはもう一度言いました。
「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」と王子は言いました。「一晩泊まって、僕のお使いをしてくれないか。あの子はとても喉が乾いていて、お母さんはとても悲しんでいる」
「僕は彼らが嫌いだ」とディオは答えました。「彼らは石を投げてくる」
幸福の王子はとても悲しそうな顔をしました。その顔がほんとうに美しく、ディオは、この世のほんとうの幸福について、彼以外の誰が知り得るのだろうと考えました。そしてディオは、「帰ってきたら、ほんとうの幸福を教えてくれよ、幸福の王子」と言い、王子の剣から大きなルビーを取り出すと、くちばしにくわえ、町の屋根を飛び越えて出かけました。
ディオは白い大理石の天使が彫刻されている聖堂の塔を通りすぎました。宮殿を通りすぎるとき、ダンスを踊っている音が聞こえました。美しい女の子が恋人と一緒にバルコニーに出てきました。女の子は恋人と愛を語りました。
「こんど私の新しいドレスをみせるわ」と女の子が言いました。「ドレスにトケイソウの花が刺繍されるように注文したのよ。でもお針子っていうのはとっても怠け者」
ディオは会話をここまでしか聞きませんでした。ディオは一族で一番速く飛べるのです。川を越え、貧民街を越え、老いたユダヤ人たちが商売をして、銅の天秤でお金を量り分けるのを見て、あの貧しい家にたどり着くと、ディオは中をのぞき込みました。男の子はベッドの上で熱のために寝返りをうち、お母さんは疲れ切って眠り込んでおりました。手元には、このぼろ家にはそぐわない、トケイソウの花が刺繍されたドレスがありました。ディオは中に入って、テーブルの上にあるお母さんの指ぬきの脇に大きなルビーを置きました。
それからディオは幸福の王子のところに飛んで戻りました。
「ここは寒い」ディオは言いました。「幸福の王子、僕にほんとうの幸福ってやつを教えてくれ」
しかしディオはあまりにも長く飛びすぎたために、眠くなってきてしまいました。ディオははっきりとした意識でほんとうの幸福について知りたかったので、今晩はもう眠ることにしました。
朝になり、「今日、エジプトに行く」とディオは宣言しました。「なあ王子、ほんとうの幸福のことを教えてくれはしないのか」
ところが王子は「もう一晩泊まってくれませんか」と言いました。ディオは面くらい、「僕はエジプトに行くんだ」と言いました。「ここはほんとうに寒い。そして、ありふれた物しかない」
「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」と王子は言いました。「ずっと向こう、町の反対側にある屋根裏部屋に若者の姿が見える。彼は紙であふれた机にもたれている。傍らにあるタンブラーには、枯れたスミレが一束刺してある。彼の髪は茶色で細かく縮れ、唇はザクロのように赤く、大きくて夢見るような目をしている。彼は劇場の支配人のために芝居を完成させようとしている。けれど、あまりにも寒いのでもう書くことができないんだ。暖炉の中には火の気はなく、空腹のために気を失わんばかりになっている」
ディオはもうほとんど聞いていませんでしたが、
「でもルビーはもうないから、残っている僕の目玉を持って行ってくれないか」
という王子の言葉を聞いて耳を疑いました。
「王子、君、」ディオは言いました。「目が見えなくなるぞ」
「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」と王子は懇願しました。その顔がやはり今まで見た何よりも美しく、この世にふたつと存在しない物のように感じられて、ディオは南に飛び立つのをこらえました。この世にふたつと存在しない王子ならば、やはりほんとうの幸福を知っているような気がしました。そこでディオは王子の右目を取り出して、屋根裏部屋へ飛んでいきました。屋根に穴があいていたので、入るのは簡単でした。ディオは穴を通ってさっと飛び込み、部屋の中に入りました。その若者は両手の中に顔をうずめるようにしておりましたので、鳥の羽ばたきは聞こえませんでした。そして若者が顔を上げると、そこには美しいサファイアが枯れたスミレの上に乗っていたのです。
「私も世の中に認められ始めたんだ」若者は大声を出しました。「これは誰か、熱烈なファンからのものだな。これで芝居が完成できるぞ」若者はとても幸福そうでした。
ディオは、当たり前だ、これは幸福の王子の右の目玉なのだ、この世にふたつと存在しない幸福の王子の右の目玉なのだ、と叫びましたが、若者の耳にはディオの言葉はわかりませんでした。
「幸福の王子」
ディオは高台に戻り、正面から王子の顔を眺めました。右目は深く暗い穴の様でしたが、左目はまだディオのことを映していました。
「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」と王子は言いました。ディオはなぜだか深いブルーの左の目より、真っ暗な右目を見つめました。
エジプトでは太陽の光が緑のシュロの木に温かく注ぎ、ワニたちは泥の中に寝そべってのんびり過ごしているだろう。仲間たちは、バールベック寺院の中に巣を作っており、ピンクと白のハトがそれを見て、クークーと鳴き交わしているだろう。
ディオが青く輝くサファイアを抜き取ったせいで、真っ暗な穴になってしまったこの右目はしかし、今まで見たどんな黒よりも美しいのではないかと思われました。
「下のほうに広場がある」と幸福の王子は言いました。「そこに小さなマッチ売りの少女がいる。マッチを溝に落としてしまい、全部駄目になってしまったんだ。お金を持って帰れなかったら、お父さんが女の子をぶつだろう。だから女の子は泣いている。あの子は靴も靴下もはいていないし、何も頭にかぶっていない。僕の残っている目を取り出して、あの子にやってほしい。そうすればお父さんからぶたれないだろう」
ディオは王子のもう片方の目を取り出して、下へ飛んでいきました。ツバメはマッチ売りの少女のところまでさっと降りて、宝石を手の中に滑り込ませました。「とってもきれいなガラス玉!」その少女は言いました。そして笑いながら走って家に帰りました。
それからディオは王子のところに戻りました。「王子、君はもう何も見えないんだな」とディオは言いました。真っ暗な彼の双眸は、今までみたどの生き物の瞳よりもディオを魅了し離しませんでした。ディオはふと思い立ち、
「王子、さっき、金持ちが美しい家で幸せに暮らす一方で、乞食がその家の門の前に座っているのを見たよ。それから暗い路地に入っていき、ものうげに黒い道を眺めている空腹な子供たちの青白い顔も見た」
と言いました。王子はやはり、とても悲しそうな顔をしました。「ツバメさん、ツバメさん、ツバメさん」
「僕の体の純金を、一枚一枚はがして、貧しい人にあげてきてくれないか。生きている人は、金があれば幸福になれるといつも考えているから」
ディオは純金を一枚一枚はがしていきました。その純金を一枚一枚貧しい人に送ると、子供たちの顔は赤みを取り戻し、笑い声をあげ、通りで遊ぶのでした。「パンが食べられるんだ!」と大声で言いました。
「しかし王子」ディオは言いました。とうとう幸福の王子は完全に輝きを失い、灰色になってしまっていました。それはあるさみしい田舎の教会で、ひとりぼっちで打ち付けられていた人間の像と同じような色でした。そしてそんなものを、ディオはこれまでたくさん見てきました。その王子を見て、ディオは皮肉げに続けました。
「貧しいことや醜いことは、世界中のどこにでもありふれている。君はこの小さな町の、僕が目にしたありふれた一部の出来事にだけしか干渉できないよ」
そう言えば王子は悲しい顔をするだろうとディオは思ったのでした。ディオがこの世にふたつと存在しないと思うのは、王子の青い双眸でも、太陽のように輝く頬でもありませんでした。このみすぼらしい王子の、悲しい顔は、ほんとうに美しい。
ところが王子は笑ったのでした。
「わかっているよ、ツバメさん」
「ほんとうの幸福とはなんだ、」
ディオは彼を王子と呼びかけましたが、もう王子と呼べるような外見ではなくなっている彼を見て、「ジョナサン=ジョースター」と言い換えました。
やがて、雪が降ってきました。その後に霜が降りました。通りは銀でできたようになり、たいそう光り輝いておりました。水晶のような長いつららが家ののきから下がり、みんな毛皮を着て出歩くようになり、子供たちは真紅の帽子をかぶり、氷の上でスケートをしました。
ディオはへまをしたと思いました。ここはとても寒い。あまりにも寒い。エジプトではパピルスのしげみの間でカバが休んでいるだろう。そして巨大な御影石の玉座にはメムノン神が座っているだろう。メムノン神は、星を一晩中見つめ続け、明けの明星が輝くと喜びの声を一声あげ、そしてまた沈黙に戻るのだろう。
ディオには、王子の肩までもう一度飛びあがるだけの力しか残っていませんでした。ディオは王子の耳元でささやきました。
「ジョナサン、ジョナサン=ジョースター、君のおかげでわかったことがある」
王子はこっちを見ているのだろうか。ディオには見えませんでした。
「ほんとうの幸福なんて物は、この世には無い」
ディオはそう言ってかすれた声で笑いました。「さようなら、愚かな王子よ」
「あなたがとうとうエジプトに行くのは、僕もうれしいよ、ツバメさん」と王子は言いました。ディオはエジプトへ行くのではありませんでした。ディオは王子の足元に落ちていきました。王子はそれに気づき、大粒の涙を流しました。それはディオの体をぬらしましたが、ディオはもう死んでいたので、ありふれたたくさんの不幸を見たときと同じように王子が泣いたことは、全然知らないままでした。
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