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残りの夜が来た
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星矢
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ミロとカミュ高校生パラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年
カミュは野菜が嫌いなのだと、ミロはずっと思っていた。野菜どころか、ひどい偏食家だと思っていた。カミュとコンビニに行くと、彼はでろでろに延びたパスタか、しょっぱい麺つゆをまぶしても全く解れない蕎麦か、腹にたまらなそうな菓子パン、それと、アイスしか買わない。
対する自分は焼肉弁当、だけでは足りないので菓子パンも買うが、母親に野菜も食べなさいと言われているから、きちんとサラダも買う。それだけで1000円くらいになってしまうけれど、学校のある平日は母親の弁当を食べているから、たまにはいいだろうと思う。部活を引退し、受験勉強なるものを始めてみたミロが、たまたま志望校が同じだったカミュと図書館に行くようになってから覚えた贅沢だ。
館内は飲食禁止なので、ミロとカミュは図書館の外の公園のベンチで昼飯を食べる。もう秋口になっていて、イチョウの葉っぱは急に弱々しく薄っぺらくなり、今にもばらばらと落ちてきてしまいそうだった。先週までは長袖のワイシャツだけで済んでいた外での昼食も、今日はカーディガンが無ければ心許ない。それなのに、カミュは真っ先にアイスを開ける。しかも、白くま。
カミュが数ヶ月間この姿勢を崩さないので、ミロはついに尋ねてみた。
「寒くねーの」
カミュは白くまにスプーンを刺しながらうなずく。
「寒い」
「寒いんじゃん」
「ああ。カーディガンを着てきてよかった」
「
…
でもアイス食うんだ」
「
…
先に食べなければ溶けてしまうだろう」
「
……
」
そうか、と思いながら焼肉を頬張る。コンビニ弁当は贅沢のはずだったが、自分が何となくこの味に飽きていることにミロは気づいていた。「
…
って、違う」
「
……
」
カミュは黙々と白くまを口に運ぶ。黒豆がこぼれて落ちそうになるのをきちんとキャッチもする。目ざとくあつまってきた鳩がつまらなそうに解散していくので、ミロは、落ちていくはずだった黒豆の代わりに、プラスチックの容器の端にほんの少しだけ鎮座している、正体のよくわからない煮物を投げてやる。正体のよくわからないものにたかる鳩をぼんやりと眺めていると、カミュに眉を顰めて「やめろ」と言われた。
「なに?」
「弁当をやるのを」
「え、なんで?」
「なんでって
…
」
カミュは「鳩がかわいそうだろう」と言った。
それからアイスに視線を戻す。
「
……
」
ミロは、心底驚いてしまった。その後たいそう感嘆し、ほんの少しだけ苛立ち、同じくらい恥ずかしくなった。「変」の塊だと思っていたカミュに、そんなことを言われたからかもしれない。
ミロが餌を投げるのをやめても、鳩は未練たらしく自分たちの足元をうろうろしていた。それを眺めながら、ミロはパサパサのサラダを口に入れる。
それからミロは、今まで以上にカミュにつきまとった。
カミュはミロと比べると口数が少なく、こちらが話す時間に対して、カミュが言葉を零すのはその10分の1にも満たない。ミロだって、どちらかと言えばおしゃべりなほうではなく、今までは、目の前の課題のことや明日の小テストのことで沈黙を埋めていただけだった。だが、カミュが気になり始めてしまった以上、彼のことを知りたいと思うのは至極当然のことだし、そのためには自分のことを知ってもらわねばフェアではない、と思う。それで、ミロは自分のことをべらべらと話し続けた。お陰で、こちらのとりわけ特筆すべきところもない個人情報は駄々漏れだ。
締め切られた図書室にこもりきり、暖房で火照った頬に当たる晩秋の風は心地よかったが、アイスを食べるほどではない。それでもアイスを食べているカミュに向かって、ミロは言葉を垂れ流し続けた。
「うちのかーちゃん、料理すっげー上手いんだよ」
「そうなのか」
「最近パン焼く機械買ったんだけど、その焼きたてのパンがもうもんのすごく美味くてさ、デザートで1斤食える」
「それは」
スーパーカップを一口。カミュの視線は上がらない。「羨ましいな」
カミュはいつもこんな具合だが、真剣に聞いてもらえなくてもいいとミロは思っていた。リズムにのって、例えうっかりでも、返事さえしてくれればいいのだ。
「今度持ってくる」
「楽しみだ」
「
…
カミュは?ばあちゃんの料理何がうまい?昨日何食べた?」
このように涙ぐましい努力の甲斐あって、カミュの家が学校から2時間も離れたド田舎にあることや、両親がおらず祖父母に育てられているということを、ミロは最近やっと知った。秋も大分深まり、二人がコートを羽織り始めてからやっとだ。
その断片的な情報も、もはや自分が開示する情報など何もないという時点でやっと得られたものだったけれど、ミロは満足だった。
…
いや、嘘だ。もっと知りたかったし、もっと教えたかった。教えたかったけれど、手元には、冷えかけているココアの缶以外に何も無い。それ以外には、こんなつまらない話しか。
落胆と、それでもほんの少しの期待を持ってカミュの返事を待つ。カミュは木のスプーンから口を離す。アイスがほんの少し残っている。「
…
最近は」
「うん」
返事が帰ってきたことへの興奮を抑え、きれていたかどうかは分からないが、ミロは思いきりカミュを見た。
「最近は?」
「小松菜ばかりだ」
「え」
「それと白菜か」
「
…
鳥?」
「
…
失礼な」
カミュは、アイスが柔らかくなるのを待っているだけだと言うように、それでも呼吸と同じように言葉を吐く。それだけのことになぜ興奮しているのか未だに分からないまま、ミロは、むずがゆさともどかしさに唇を歪める。どうでもいい会話だ。どうでもいいのだけれど、どうでもよくないのだ。どうでもいいことのように、彼が自分のことを話してくれるのが、ミロは嬉しかった。嬉しかったし、いつでもこれを待っているのだ。
「生ではないぞ」
「
…
いやすまん。ていうか、俺、カミュ野菜嫌いだと思ってた」
「別に嫌いではない。飽きたが」
「ばあちゃんが好きなんだ」
「
…
というか、畑に出荷できないものが腐るほどあって」
「出荷?」
「ああ」
「え、カミュ、農家の息子!?」
ミロが髪の毛で風が巻き起こるくらいの勢いで顔を上げたせいで、カミュは初めてこちらを見た。訝し気な表情をしているかと思ったが、彼はそんな顔すら見せていない。「孫だ」
「あー、」
返事にならない返事をしながら、ミロは興奮と、それからなぜか、秋口の公園のときと似たような、もやもやした気分を覚えた。
「農家すげーな」
「
…
何もすごいことはない。それに農業だけで生計を立てているわけではない」
「や、すごいよ」
何故かは分からない。単に、自分の周りにそういう人間がいなかったからかもしれない。地方都市の中心で生まれ鉄筋コンクリートのマンションに暮らしアスファルトを歩いてスーパーで買った野菜を食べるミロの周りには、一人もそういう人間がいなかったからかもしれない。いや、いたのかもしれないが、ミロは知らない。とにかく、カミュがそうだったから、自分はおかしな気持ちになっている。
「
…
でもお前、農家の子なのに野菜嫌いなの」
「
…
だから、別に嫌いではない」
「何でいつも食わないの」
「食べている」
「でも、コンビニでアイスと麺かパンしか買わないじゃん」
もやもやとしているせいで詰問口調になっているミロに、カミュは少しだけ言いづらそうに「コンビニの野菜はぱさぱさしているから」と言った。
「
……
」
不穏な気持ちだ、と思う。ミロはぼんやりしながら、さらにどうでもいい質問を重ねた。
「
…
ごはんは?」
「
……
」
カミュは一層言いづらそうに「米を買うのがいやなのだ」とつぶやく。つぶやいてから、どうでもいいだろう、とかなんとか付け足して、スーパーカップにスプーンを刺した。こんなに短い時間では、アイスはまだ柔らかくなっていないようだった。
「
……
」
不穏な気持ちだ。
…
何故だろう。
別に、怒ったわけではない。怒ることなど何もない。米が家に腐るほどあれば買わないだろうし、コンビニの野菜がうまくもなんともないことも、ミロは分かっていた。それどころか、彼がいつもコンビニで弁当を買う自分を気遣ったのだろうということも分かっていた。それに、偏食家だと思っていたときよりもずっと、カミュのことが気に入ったと思う。
それでもミロは不穏な気分を拭い去ることができない。不快なのではない。ただ夕立前の空のように不穏なのだ。
「
…
どうでもいいだろう」
「
…
いいけど」
カミュはアイスを口に運ぶ。
「
…
アイスは?」
「好きなのだ」
即答するカミュに対して、今度はミロが言葉を失ってしまった。せっかくこんなにたくさんのことを知ることができたのに、いや、多すぎて、処理しきれていないのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。
…
それにしたって、今の返答は無茶苦茶だ。
すっかり冷えてしまったココアのねちっとした甘さが舌にまとわりつく。
「
…
なー、一口ちょうだい」
「
…
自分で買え」
「俺、カミュんち行きたい!」
「
……
」
しし座流星群が来る。ミロは、携帯電話の画面に呼び出した天体ニュースを、カミュの目の前に掲げた。
「
…
いつだ?」
「今週の木曜日。の深夜」
「
…
明後日か」
カミュはミロから携帯電話を受け取り、まじまじと画面を眺めている。
ミロは決して星に詳しくなかったが、ニュースで騒いでいるのと同じくらいには興味があった。それに、これはいい口実だと思った。ミロは、星よりもカミュに興味があるのだ。カミュのうちや、カミュの家族や、きっとミロの見たことのないカミュの周りの風景に。それを目にすれば、きっともうあんな不穏な気分を味わうことはないだろう。
「
…
で、何故私のうちなのだ」
「俺んちのほう明るくて見えないんだもん。星」
「まあ、そうかもしれないが」
「だから、カミュんち行きたい。お前んちのほうなら見えるだろ?」
「
…
まあ、そうかもしれないが」
カミュは尖った顎に手を当てている。「平日ではないか」
「そのまま学校行くよ」
「
…
遠いぞ」
「お前はいつも来てるじゃん」
「
…
もうすぐ模試だ」
「勉強合宿でいいじゃん。で、星も見よう」
ミロの駄目押しで、2人は電車に揺られている。新幹線で1駅分離れているカミュのうちまでの鈍行列車は、もはや小旅行の車内だった。
「遠いなー」
「だから言っただろう」
ミロがいつも使う路線にはないボックスシートの対角に腰掛けているカミュは、すぐに寝てしまった。見知らぬ電車では眠気も訪れず、かと言って単語帳を開く気にもならなかったミロは、ほんの少しだけ冷たい空気の漏れる窓に額を近づける。足元から漏れる暖房の熱で、ふくらはぎばかりが熱い。徐々に乗客が少なくなっていく電車の中で、ミロは足を曲げたり伸ばしたりした。
窓の外は真っ暗で、電車から漏れる光だけがあたりを映す光源だった。刈入れが終わり寂しい田んぼばかりの風景を断片的に目に映しながら、ミロは唐突に思い出す。そういえば、両親が、直売場で野菜を買うのだと、車に乗ってこっちのほうまで出かけていたような気もする。一度付いていった自分は退屈で寝ていたのだった。
同じ車両の遠い席から響いてくる甲高い女の子達の声を聞きながら、ミロはぼんやりした。これだけ暗ければ、きっと見たことのないくらいの星が見えるだろう。きっと見える。
「
……
」
電車は寂しい駅にばかり止まる。まだかな、とミロは思う。せめて、カミュが目を覚ましてくれればいいのに、と思いながら、眠くもない目を閉じる。
カミュのうちは門から玄関まで何十歩も離れていて、その間に飛び石や池まであった。
「で、けええ
…
」
「
…
大きいだけだ」
「池あるし」
「今は水も入れてない、蚊がわくから」
「もったいない」
「
…
大変なのだぞ」
少し口を尖らせたカミュを見て、ミロはにやりとする。
「
…
なんだ」
「いや、別に」
普段のリズムで覚醒したのであろうカミュと、今更眠くなってきたミロは、鈍行列車の終点からさらにバスに乗って、ようやくここまでたどり着いた。温かいバスの中ではもうこのままずっとエンジン音に揺らされていたいとすら思っていたが、湿って冷たい土の青臭い空気を吸い、それから多分カミュが起きているので、ミロは急激に目を覚ました。それどころか、やっぱり興奮している。
「ただいま」
「お邪魔します」
馬鹿みたいに広い玄関には小さいおばあさんがいて、歳の割にはたくましく綺麗な手でミロを迎えてくれた。母親が張り切って焼いたパンをほんの少し躊躇いながら手土産として渡すと、カミュのおばあさんは「あら」と目を細める。ミロは、肩の荷が降りたような気分とこれで良かったのだろうかという疑念を半々に感じていたが、
「この子が友達を連れてくるなんて、初めてで」
というテンプレートのような台詞によって、それらは簡単に、飛び上がりたいような気分に塗り替えられた。
「俺も初めてです!友達のうち泊まるの!」
「
…
そうなのか?」
「部活の合宿とかはあるけど」
「意外だ」
「え?」
「何でもない」
「?」
薄暗い玄関ではカミュの表情がよく見えない。覗き込もうとしたところで、「夕飯、田舎の料理だけど」と手招きをされる。
長い廊下の途中で、カミュはミロに顔を寄せてきた。体温を感じてびくりとしたミロには全く気づかない様子で、カミュは「ほんとうに田舎の料理だぞ」と囁く。
「え?
…
うん」
「
…
お前のうちのように、洒落たものはないぞ」
「
……
」
薄暗い廊下ではカミュの表情がよく見えない。それでもやっぱりミロは、興奮した。ひそひそ話なんて初めてだったからかもしれない。やっぱり来て良かった。
…
来て良かった、のだけれど、
「俺、嫌いなものないよ」
言葉がふわふわとどこかを滑っていく。積乱雲のような何かが胸の中にこみ上げてくるのも感じた。そんな筈はないのに。いいことしかないはずなのに。
いつかカミュの言っていた通りの野菜中心のおかずを頬張りながら、大きな炊飯器をまるごと空にし、カミュの部屋に引っ込んでからもさらに夜食として自分で持ってきたパンを齧っている途中で、ミロは結局寝てしまっていたらしい。勉強ができるとは端から思っていなかったが、寝てしまうつもりはなかったので、揺り起こされた瞬間「しまった!」と叫んだ。
「
…
静かにしろ」
「あ、わり」
「
…
まだ、ピーク時間まで15分ある」
しまったとは無論そういう意味ではなかったのだが、ミロは黙って頷いた。真夜中の部屋の中は二人分の呼気でぼんやりと暖まっているが、刺すような冷気が壁を押しているのも感じる。黙々と着込んだ防寒具で着膨れした二人は、無言のままきしむ階段を降り、長い廊下を歩き、玄関の引き戸を閉め、門まで何十歩か歩く。
雑に舗装された公道に出てからやっと、ミロは白い息を吐き出した。正確には笑い出した。
「
…
なんだ」
「
…
や、なんか、泥棒みたい」
「
……
、」
マフラーとカミュの顔の隙間から、ふうと白い息が舞い上がった。笑ってる、と思いながら、ミロは目を細めてそれを見る。
カミュのうちの馬鹿でかい懐中電灯は足元を照らすには充分すぎる明るさだったが、それでも辺りはひどい暗さだった。家の明かりというものがない。あるにはあるのだが、遠すぎるし、低すぎるのだ。星は見たことのないくらいぎらぎらと輝いているが、綺麗というより不気味だった。そのくせ遠くには峠を攻めているらしい暴走族のバイクの音がして、ミロは訳のわからない恐怖を感じた。
「なー、いっつも暴走族いるの?」
「いるときはいる。だいたい寝ているから気づかない」
「図太いな、お前」
「もう少し行くと養豚場がうるさいし、夏はそれよりも蛙がうるさい」
「
…
すげー」
くらくらしながら、危なげ無く暗闇を進むカミュの背中を追いかける。
「どこいくの?」
「使っていないビニールハウスがあるから、そこへ」
「上見えんの?」
「見たくなったら外に出ればいい。ずっといたら寒いぞ」
「確かに」
とてつもなく頼もしい。素直に関心しながらカミュの顔を覗き込むと、カミュは少し顎を引いて「なんだ」と言った。
「
…
カミュって、志望校俺と一緒だよな」
「
…
そのつもりだ」
「東京だろ。いいの?」
「なにが」
「ここと全然ちがうぞ」
「
…
お前、」
半眼で睨まれて、そのことに例によって内心にやりとしながらも、ミロは慌てて首を振る。冷気が寝起きの瞼を擦る。
「いや別にここが田舎って言ってるわけじゃなく」
「言っているだろう」
「
…
ごめん」
さすがに申し訳なくなったミロがマフラーに首を埋めると、カミュは今度は溜息と思われる白い息を吐いた。「場所で志望校を決めたわけじゃない」
「
…
そうだけど、」
「
…
だけどなんだ」
「ここ、いいとこじゃん」
「
…
ほんとうにそう思っているのか、お前は」
「半分、
…
いや冗談、
…
だって、ばあちゃんとじいちゃんいるじゃん」
「
…
いるが、関係あるのか」
「
…
いいの?」
「
…
まだ元気だ。殴られるぞ。
…
それに、帰らないわけじゃない」
「そりゃそうだけど」
「
…
お前だって、こちらに両親がいるだろう」
カミュの声色は徐々に荒くなっていった。こんな声色を聞くのが初めてで、自分の胸の奥で低い音が鳴るのをミロは聞いた。いつもの不穏な気持ちと、怒らせたかもしれないという焦燥感とが、脳を少しずつ焼く。「いるけど、」
「私が決めることだ」
「
……
」
脳を焼いた渦巻く気持ちは、毒のようにゆっくりと身体中を巡っていった。巡るだけならばよかったが、それだけでは済まなくなるような気がした。なぜだろう。ミロの見たことのない風景を見たのに。せっかく彼は教えてくれたのに。
どんなに理由を探しても、ミロにはいつものように分からない。分からないまま無言で渦か何かを持て余す。遠ざかったはずのバイクの音がまた戻ってきて、ミロの思考をかき混ぜる。
「
…
お前はどうして」
「え」
「いや、どうやって志望校を選んだ?」
「
……
」
どうやって。どうして。なんでだっけ。有名だから。がんばれば受かりそうだから?いや、最初はもうちょっとあったはずだけど、最近はずっと、
「
……
」
カミュは立ち止まってミロを振り返った。
懐中電灯の落とす濃い影のせいで顔は全然見えないのに、無言の彼から、どうして答えないのだと責められているような気がした。ミロの言葉はどこかへ消えてしまい、その代わりに、渦か、積乱雲か、毒か、何かが渦巻く。
…
最近はずっと、カミュが行くからという、その動機ばかりだった。
カミュに向かって、そんなことを言ってはいけないような気がした。いや、言っていいのだと思う。それを言って何が悪いのだとミロは思う。ではなぜ、何に、恐れているのだろう。
「
……
、」
口を開こうとすると、先にカミュが動いた。「
…
時間が」
「
……
」
「ああ、ハウスはここだから、」
何でもない、どうでもいいことのように、再びこちらに背を向けてビニールハウスに足を踏み入れたカミュの肩に、ミロは手を伸ばした。
「カミュ、」
「
…
?」
ミロが触る前に、彼は振り返る。白い息で顔が見えない。「あのさ、」
自分のものではないような言葉が、ふわふわとどこかを滑って消えていく。言いたいのに。いや、こんなのどうでもいい会話だ。カミュの言葉を引き出すためだけの、どうでもいいことだ。だけど、じゃあこれはどうすればいいんだろうと、ミロは途方にくれた。不穏な気持ちは、雲は、渦は、毒は、この訳のわからないものはどうすればいいんだろう。
「
…
なんだ?」
「
……
」
答えられない。無言の自分に首を傾げ、再び前を向きかけたカミュの肩を、ミロは今度こそ掴んだ。
…
掴んでしまった。掴んでしまったのに、手のひらが冷たすぎるせいで、いや、カミュが厚着をしすぎているせいで、彼の体温すら分からない。
…
顔を触ったら分かるかな。
それともやっぱり、自分には分からないのだろうか。
「
…
ミロ?」
「カミュ、ちょっと、」
カミュのことを知って、それで自分は何をしたいのだろう、とミロは考えかけた。考えかけたのに、
「
……
」
バイクの音に途切れた思考で、あ、とだけ思う。
…
あ。
間抜けな母音と一緒に、あれが湧き上がってくる。どうしようもないあれが、もう自分の身体の表面だけでは抑え切れないあれが、湧き上がってくる。
「ミロ、」
ミロは拳を握ってカミュを殴った。
拳が彼の頬に到達する前から、やってしまった、とミロは思っていた。やってしまった。やってしまったやってしまったやってしまった。こんなことがしたかったわけじゃないのに。こんなこと、カミュにはしたくなかったのに。だが一度勢いのついた手は止まらなかった。止めなくてもいいとどこかで思っていたのかもしれない。本当は始めから殴りたかったのかもしれない。いや、そんなことは絶対にない。ないのに、
「
…
っ!?」
鈍い音とカミュの息を呑む音と、バイクの音がする。うるさい。うるさいなあ、クソ。
「なっ
…
!?」
「
…
あ、」
「
……
」
「
…
ごめん」
呆然としながら、そして脳の全く別の部分でバイクの音を罵り続けながら、ミロは破裂させてしまった自分の感情の前に崩れ落ちそうになっていた。
…
違うんだ。いや、違くない。何がしたいのか分からない。
…
分からないのなんか今に始まったことじゃない。始めから分からなかった。公園で不穏な気持ちになってから、あれから何度も、いつでも、彼のことを知りたいのに、知る度に、あの雲は湧いてくる。雨を降らせて晴天をもたらすのに、また湧き上がって雨を呼ぶ。知る度に自分の知らない彼が出てくる。正論を説かれる度に、無茶苦茶なことを言われる度に、知らない顔を見る度に知らない声を聞く度に、もっと知りたい、いや羨ましい成り代わりたい、
…
彼になりたい、
…
いや、俺になってほしい?いや、違う。でも、「ごめんだと?」
今度は自分の顎が鳴った。
ミロが自分は倒れていると気づいたのは、骨の音から一瞬の空白の後、舞い上がる土埃と肥料の匂いを吸い込んで思い切りむせたからだった。咳き込み、ぜえぜえ鳴る自分の気管の音の向こうに、拳を握ったままのカミュが立っているのがぼんやり見えた。
殴られた。
「
……
」
「
……
」
殴られた。同じように殴られた。それどころか自分は吹っ飛ばされた。
ミロは目を閉じて、息を止めた。腹の底から脳の中から背筋の裏から足の付根から、あれが湧き上がってくる。ミロの皮膚たった一枚の下で、それは再びの暴発を待っている。
暗闇の中で、ミロは考えた。不穏な気分は、積乱雲は、もしかしたら多分、
多分俺はすごく、
目を開けて飛び起きる。それからカミュに掴みかかる。カミュは舌打ちをして「何なんだ!」と叫ぶ。何なんだろう。
「っ!!」
喧嘩なんてろくにしたことのないミロの不恰好な拳が、カミュの皮膚に触れ、骨を鳴らす。同じようにミロも触れられて鳴らされる。草の潰れた青臭い匂いが汗に混じって、土の上に落ちる。
いてえと呻く自分の声が、背中を伝って土を震わせている。
もはやどこが痛むのか自分でも知覚できないほどの痛みで、身体のあちこちがずきずきと脈打っているというのに、そんな些細な震えは分かるのだなとぼんやり思う。それでも痛い。やっと呼吸が収まってきたと思ったらこれだ。鼻血が喉に入って気持ち悪いし、涙だか汗だか鼻水だかがかわいた跡ががびがび皮膚を引っ張るし、これじゃあ、流れ星なんか探せない。
「
…
すっげーいてえ
…
」
ビニールが破れて骨組みから垂れ下がっている、その間の穴の向こうの暗闇を、土の上に倒れたミロは、いつもの半分の広さしかない視界で眺めている。
「
…
私だって痛い」
「
……
」
隣で同じように手足を投げ出しているカミュの低い声に返す言葉もなく、ミロはただ「ごめん」と謝った。
「
…
意味が分からない」
「
…
俺も分からん」
「
…
それで許されると思っているのか」
「
…
思ってない」
「
……
」
「
……
」
カミュの細くて長い溜息に、食道のあたりを刺される。刺されるが、こんな気分になるのならばこんなことしなければよかった、とは、何故かどうしても思えなかった。
解放というよりは抜け殻の気分で横たわっていると、
「
…
私は」
と、小さく空気が震えた。
「
……
」
「お前のことが分からない」
「
…
うん」
「
…
他にたくさん友達がいるのに私と一緒にいるお前が分からない」
「
…
うん」
「
…
私のどうでもいい話を聞き出そうとするお前が分からない」
「
…
うん」
「
…
聞き出そうとするくせに、聞く度に、」
「
…
うん」
「どうでもいい話に、悔しそうな顔をするお前が分からない」
「
……
」
ミロは相槌を打てなかった。
…
なんだ。気づかれていたのか。
…
いや、それよりも、自分のことを見ていたのか、カミュは。
それでも話してくれていたのか。
「
…
そのくせ、家にまでやってきて」
「
……
」
「
…
殴っておいてごめんだなんて」
「
……
」
全くだ。
全くだ。ミロは声に出さずに同意した。カミュの言うことはもっともだった。それに、ミロにだって分からないのだ。
分からないけれど、
「俺さあ、」「私は、」
言いかけたミロの細い声をカミュが遮る。カミュがミロの言葉を遮ったのはこれが初めてで、その事実に息を呑む。呑んでしまってから、自分は性懲りもなくそんなことに興奮するのだとかすかに落胆しているミロに、カミュの言葉が降ってくる。
「私はそれでもお前が自分のことを話してくれるのが嬉しかったし、うちにきてくれたのも嬉しかったし、お前のことが羨ましかったし、お前のようになりたかったし、同じ大学に行きたかったし、」
降ってくる。
「
…
私は、それでも、お前と友達になれたのだと思って、」
ああ、また、性懲りもなく。
…
カミュは、
「
……
」
カミュは、自分のわがままに付き合ってくれているのだと、ミロはずっと思っていた。それどころか、自分になど興味がないのだと思っていた。そう思っていたけれど、自分が知りたかったから、自分が彼と近い場所に行きたかったから、その欲望だけで、目を閉じたまま突進して、
「
…
いたのに、」
カミュはそこで息をつく。
「
……
」
ミロは息を止めたまま、まだ性懲りもなく身体の中で暴れるそれをどうしようか、必死で考えた。もしかしたら、はじめから、目を開けていればよかったのかもしれなかった。いや、仮にそうしていたとしても、いつか自分は今日と同じ事をしたのかもしれない。ミロには分からない。分からないし、これはミロに止められるはずもないし、
…
いや、きっと止める必要もなく、「カミュ、」
でも、今度は殴るのではなく、違う方法でこれを自分の身体から離してやりたかった。違う方法でカミュに触れさせたかった。
「
……
」
唐突に名前を呼ばれたカミュの、もしやまたやりあうのかと身構えている気配を隣に感じながら、ミロは、湧き上がってくる何かを、息と一緒に吐き出す。
「多分俺、すごくお前のこと好きなんだ」
それでやっと、ふわりと解放される。
ああ、なんだ、とミロはぼんやり思った。こうすればよかったのか。
…
いや、きっと、殴るまで分からなかった。カミュには申し訳ないけれど、同じくらい殴られたので許してもらいたい。正確には、カミュのほうがずっと強かった。カミュは瞼も腫らしていないし、鼻血も出していない。
綺麗な顔のままの彼を見ようと思ったが、ようやく霞む視界に星が映り始めたので、ミロは暗闇を凝視し続けた。
「
……
」
「
……
」
「
……
は?」
「
……
え?」
「
……
ミロ、お前」
「
…
あ、」
ミロはがばりと身体を起こした。半分しかない視界の中で、今確かに、「お前見た!?」
「
…
は?」
「今流れた!」
「
……
」
指さそうとした腕が上がらない。示したところでもう星は燃え尽きて消えてしまっているのだが、どうしてもカミュに教えたくて、ミロは不恰好な位置で固まった右腕を突っ張った。「あの辺!あれが獅子座!?」
「
……
」
返事はない。
無理な体勢のまま首を捻る。目を凝らすと、カミュは目を閉じて唇を歪め、今まで見たことのない、おかしな顔をしていた。
「
…
カミュ、」
「
……
」
「
…
ごめん」
「
…
お前
…
、」
それで許されると思っているのか、という低い声が土の上に落ちる。それでもそれはふわりと舞い上がって、ミロの鼓膜を震わせた。
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