サガとカノンの幸福の王子

初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年

 町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。 王子の像は全体を薄い純金で覆われ、 目は2つの輝くサファイアで、 王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。
 王子は何もかもを持っているように見え、その完全な姿がますます彼の姿を美しく輝かせていました。王子は街の人びとの誇りでした。
「どうしてあの幸福の王子みたいにちゃんとできないの」 月が欲しいと泣いている男の子に向かって、賢明なお姉さんが諭しました。「幸福の王子は決して何かを欲しがって泣いたりしないのよ」
「この世界の中にも、本当に幸福な人がいる、というのはうれしいことだ」 失望した男が、この素晴らしい像を見つめてつぶやきました。
「天使のようだね」と、養育園の窓から身を乗り出した少年が、にこにこしながら言いました。別の少年は、「いや、お母さんのようだ」とつぶやきました。
「どうしてそんなことがわかるんだ」と、彼らの兄貴分の少年は言いました。「見たことがないのに」
「夢の中で見たことはあるよ」 と少年たちは答えました。

 ある晩、その街に、ツバメが1羽飛んできました。ツバメはカノンといいました。カノンのの仲間達は6週間前にエジプトに向けて出発していましたが、彼はまだヨーロッパに残っていました。王子の放つ光のお陰で、この街は他の街よりもほんの少しだけ暖かいような気がしましたが、冬は確実にやってきます。6週間分歩み寄ってきている冬の匂いを嗅ぎながら、カノンは、幸福の王子の像を目がけて、夕暮れのカーテンの間を飛びました。彼は王子に用がありました。
「王子」と呼びかけながら、カノンは彼の黄金の足元に着地しました。
「幸福の王子」
 王子の足元には、水たまりができていました。ここ数日、雨は降っておらず、今も空には宵の明星が輝いています。それでも、王子の足元は濡れていました。そして、また一粒、水が降ってきます。
 水たまりからはね返ったしぶきを羽ではじきながら、ツバメは幸福の王子を見上げました。
 幸福の王子の両眼は、涙でいっぱいになっていました。 その涙は王子の黄金の頬を流れていました。水たまりは、王子の涙だったのです。王子の顔は、月光を反射して、美しく濡れていました。
「王子」
 カノンは濡れた頬を眺めながら言いました。「王子、お前は幸福の王子なのだろう」
 王子は低く美しい声で、「そうだ」と答えました。「私は幸福の王子と呼ばれている」
「何でも持っているそうではないか。本当に幸福な、天使のような王子だというではないか」
……
「ではなぜお前は毎晩こうして涙をながすのだ」
 街の人びとからその水たまりは見えませんでしたが、カノンは、彼の足元が水でぐっしょり濡れているのを知っていました。街の人々全てが誇りに思っている王子が、どうして泣いているのか、カノンはそれをどうしても知りたかったのです。
 また一粒水が落ちてきます。「なぜだ?」とカノンは問いかけました。
「ここは街で一番いい場所だ」と、王子は悲しげな声で言いました。「街の人々は私をここに置いてくれた。ここは空気も澄んでいて、眺めも素晴らしい。朝は煙突から立ち上る水蒸気の粒が、夜には輝く星々と暖かい光が、夏には南風が遠く南国の香りを運び、冬には雪の結晶が見える」
「ではなぜだ」
 カノンはいらいらと、水たまりをけちらしました。
「お前は幸せだ。結構なことだ」
「だが、ここからは、街のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える」
 カノンは一瞬押し黙り、それから、鼻で笑いました。「フン」
 お笑い草だ、とカノンは思いました。皆の誇りの幸福の王子が、そんなことで毎晩金の頬を濡らしていることに、少しだけ失望したからでした。
「街の醜悪なことや悲惨なことなど、お前には関係の無いことだろう」
私の心臓は鉛でできているが、泣かずにはいられない」
「なぜだ」
 王子は憂いを帯びた声で言いました。
「理由などない。私には耐えられない」
……
 カノンはここから飛び立とうと、台座の端まで歩きました。王子の泣く理由が、ごくありふれた、とてもつまらないものだったからでした。せっかく仲間から離れてこの街に立ち寄ったのに、こんなところで道草をくうのではなかった、と思いながら舌打ちをすると、
「ずっと向こうの」と、王子の像が言いました。
?」
「ずっと向こうの小さな通りに貧しい家がある。 窓が一つ開いていて、テーブルについたご婦人が見える。顔はやせこけ、疲れている。 彼女の手は荒れ、縫い針で傷ついて赤くなっている。彼女はお針子をしているのだ。その婦人はトケイソウの花をサテンのガウンに刺繍しようとしている。そのガウンは女王様の一番可愛い侍女のためのもので、次の舞踏会に着ることになっているのだ。その部屋の隅のベッドでは、幼い息子が病のために横になっている。熱があって、オレンジが食べたいと言っている。母親が与えられるものは川の水だけなので、その子は泣いている」
……
 カノンは黙ってそれを聞き、それから、「そんな光景は、どこにでもあるものだ」と言いました。事実、カノンはこの街に来るまでに、似た様な母親を、似た様な子供を、たくさん見てきました。
 ですが、王子はまた一粒涙をこぼし、「ツバメよ」と言いました。
「私の剣のつかからルビーを取り出して、あの婦人にあげてくれないか」
何だと?」
「両足がこの台座に固定されているから、私は行けないのだ」
「俺はエジプトに行くのだ」とカノンは言いました。「まもなく冬が来る。こんな街で冬は越せない」
「ツバメよ、小さなツバメよ」と王子は言いました。 「もう一晩泊まって、私の使いをしてはくれないか。 あの子はとても喉が乾いていて、母親はとても悲しんでいるのだ」
「俺の知った事ではない」
……
 温かい水滴が降ってきます。
 カノンの体はすでにびしょびしょに濡れていました。こんな羽では、街の中はともかく、遠くまで飛べそうにありません。
お願いだ」
……
 カノンは舌打ちをしました。それから、王子を見上げました。王子はたしかに全てを持っていました。ころげ落ちる水滴さえ、宝石の粒のように見えました。
 カノンは黙ったまま、王子の剣から大きなルビーを取り出すと、 くちばしにくわえ、町の屋根を飛び越えて出かけました。白い大理石の天使が彫刻されている聖堂の塔を通りすぎ、宮殿を通りすぎ、ダンスを踊る音楽を冷たい風の中に聞きました。宮殿のバルコニーに、美しい女の子が恋人と一緒に出てきていました。

「何て素晴らしい星だろう」彼は女の子に言いました。 「そして愛の力は何と素晴らしいことだろう」
「私のドレスが舞踏会に間に合うといいわ」と女の子が答えました。 「ドレスにトケイソウの花が刺繍されるように注文したのよ。 でもお針子っていうのはとっても怠け者だから」
 カノンはそれ以上聞かずに川を越え、船のマストにかかっているランタンを見ました。貧民街を越え、老いたユダヤ人たちが商売をして、銅の天秤でお金を量り分ける上を通り過ぎ、やっと、あの貧しい家にたどり着くと、カノンは中をのぞき込みました。 男の子はベッドの上で熱のために寝返りをうち、母親は疲れ切って眠り込んでおりました。カノンは中に入って、テーブルの上にある母親の指ぬきの脇に大きなルビーを置きました。
 それからカノンは幸福の王子のところに飛んで戻り、「望みどおり、おいてきてやったぞ」と言いました。カノンは寒さに身震いして、王子の足元の濡れていない部分に移動すると、その黄金の足に仕方なく身を寄せました。
「ありがとう」と、王子は世にも美しい顔で微笑みましたが、カノンはそれを見ないうちに眠りにつきました。

 翌朝、北からやってくる風に体をなでられて目を覚ましたカノンは、黙って王子の元から飛び立とうとしました。王子の光はたしかにこの街を暖かく照らしていましたが、それが実際に暖かい温度を持ってなどいないことを、カノンはいまいましく思っていました。
 ところが、王子はまたあの悲痛な声で、「ツバメよ」と呼びかけてくるのです。
「もう一晩泊まってくれはしないか」
「俺はエジプトにいくのだ」
 カノンは王子の肩まで飛び、彼の耳元でそう言ってやりました。「聞こえているのか、王子。俺はもうお前に興味はない」
 王子はサファイアの双眸を悲しみに曇らせて、「ずっと向こう、町の反対側にある屋根裏部屋に若者の姿が見える、」と言いました。苛立ったカノンは、王子の肩をがりがりと引っかきました。金色の粉があたりを舞って、王子の涙と混ざって落ちます。はじけた水滴は朝日に反射してきらきらと光っています。
「そんな人間は、どこにだっている」
「だが、見えてしまったのだ、」
 王子は言いました。
「彼は紙であふれた机にもたれている。傍らにあるタンブラーには、枯れたスミレが一束刺してある。彼は劇場の支配人のために芝居を完成させようとしている。けれど、あまりにも寒いのでもう書くことができないのだ。暖炉の中には火の気はなく、空腹のために気を失わんばかりになっている」
「もう一度言うぞ、王子、そんな人間はどこにだっている」
私には耐えられないのだ、」
 王子の声は、地中奥深くから響いてくるようでした。
なぜだ」
「見てしまったから、」と、王子は繰り返しました。「もうルビーはない。ツバメよ、私の片目を抜き出して、彼のところまで持って行ってくれ」
 カノンは、幸福の王子と呼ばれている男の瞳を覗き込みました。切れ長の目に埋め込まれたサファイアの深い青は、深い海のようでも、深夜の空のようでもありました。カノンはこれほど美しい青色をみたことがありませんでしたが、彼が幸福だとはちっとも思えませんでした。カノンの知っている幸福な人間は、世の中のたくさんの不幸にいちいち目を止めて、そのために涙を流したりしませんでした。そんな必要はないのです。
 この街の人間は、一体何を考えて、この王子を幸福の王子と呼んでいるのか、カノンには分からなくなってきました。
「お願いだ」
 カノンは王子の右目を取り出して、屋根裏部屋へと飛びました。
 若者の住む家は屋根に穴があいていたので、入るのは簡単でした。カノンは穴を通ってさっと飛び込み、部屋の中に入りました。その若者は両手の中に顔をうずめるようにしておりましたので、鳥の羽ばたきは聞こえませんでした。 そして若者が顔を上げると、 そこには美しいサファイアが枯れたスミレの上に乗っていたのです。
「私も世の中に認められ始めたんだ」若者は大声を出しました。 「これは誰か、熱烈なファンからのものだな。 これで芝居が完成できるぞ」
 若者はとても幸福そうでした。当たり前だ、とカノンは思いました。今まで旅したどの国にも、あんなに美しい青はなかったからです。
「さあ王子、」と、戻ってきたカノンは言いました。「言ったとおりにしてやったぞ。お前の望みどおり、奴は芝居を書き上げるだろうよ」
「それはよかった」
「だが、俺は帰り道で、マッチを売る少女を見た。少女はマッチを溝に落としてしまい、売り物は全部駄目になってしまっていたぞ。金を持って帰れなかったら、あの少女の父親は彼女をぶつのだろう。だからその少女は泣いていた。靴も靴下も履かず、頭になにもかぶらず、この寒空の下で、ただ泣いていた」
……
「だが、お前にはもう左目しか残っていない。それをとってしまえば、お前はもう不幸を見つけ出すこともできなくなるだろうよ。お前はそれで満足か?幸福の王子よ」
「ツバメよ、頼む、私の代わりに、」
 王子は懇願しました。「私の左目を、彼女のところへ」
 カノンは笑い出しました。「は、は、は」
「お願いだ、分身よ、」
「王子よ、お前は、見たくないだけなのではないか」
「早く」
「耐えられないのはお前のエゴだ」
「あの子が凍えてしまう」
「お前の周りの不幸は、残ったひとつの目玉だけでは終わらないぞ」
「ツバメよ、」
 王子は涙を流しました。左目のサファイアだけでなく、右の暗い穴からもその水滴はこぼれ落ち、王子の端正な頬を伝います。
 カノンは力いっぱい彼の左目を突きました。涙と混ざって落ちてきた青い宝石を受け止めて、カノンは少女の元へ飛びました。宝石を少女の手の中に滑り込ませると、彼女は 「とってもきれいなガラス玉!」と言い、そして笑いながら走って家に帰りました。
 王子の元に舞い戻ったカノンは、彼の暗い双眸に向かって高笑いました。カノンはおかしくて仕方がありませんでした。街の人々が目を細めて愛でていた彼の深く青い目は、今や単なる穴でした。
「満足か、王子!お前の偽善は、この世のたくさんの不幸のうちのひとにぎり、ほんのひとにぎりを薄めたにすぎないぞ」
 そう叫びながら、一方で、カノンは苛立っていました。暗い目をした彼のことを、街の人びとは、これからなんと呼ぶのでしょう。彼のこの姿を見て、幸福になる人間はいるのでしょうか。
 どうして自分がそんなことに苛立っているのか、カノンにはわかりませんでしたが、王子が話を聞かなかったときや、自分を呼び止め続けたときよりも、ずっと苛立っていました。
「わかっているのか、王子。まだ街にはたくさんの不幸があったぞ。金持ちが美しい家で幸せに暮らす一方で、乞食がその家の門の前に座っているのを見た。暗い路地には、物憂げに黒い道を眺めている空腹な子供たちがいた。橋の通りの下では、小さな少年が二人、互いに抱き合って横になり、暖め合っていたぞ。彼らは夜警に追い立てられ、二人は街へとさまよい出るだろう。石をぶつけられにな。さあ、王子よ。お前は一体、彼らをどうするつもりだ!」
 最後にもう一度高笑ってから、カノンは息をつきました。カノンにとって、今日の空気は冷たすぎました。それに、寒空の下で無理をして飛び回っているおかげで、羽がところどころ抜けてさえいました。早くエジプトに飛び立たなければならないことは、カノンにも分かっていました。王子の偽善に付き合っている暇など、カノンにはありません。
 それでも、カノンはそこに留まりました。王子が何と答えるのか、うっすら予想はできました。それでも留まりました。偽善を暴いても、彼を糾弾しても、何の意味もありません。それでも留まりました。
「私の体は純金で覆われている」と王子は言いました。 「それを一枚一枚はがして、貧しい人にあげなさい。 生きている人は、金があれば幸福になれる」
 カノンは純金を一枚一枚はがし、その一枚一枚を貧しい人びとに送りました。子供たちの顔は赤みを取り戻し、笑い声をあげ、通りで走りまわりました。「パンが食べられるんだ!」と大声で言いました。
 王子の体中を輝かせていた黄金は、あっという間になくなりました。王子の黄金は、それくらいしかありませんでした。
 やがて、雪が降ってきました。その後に霜が降りました。通りは銀でできたようになり、たいそう光り輝いておりました。水晶のような長いつららが家ののきから下がり、みんな毛皮を着て出歩くようになり、子供たちは真紅の帽子をかぶり、氷の上でスケートをしました。漆黒になった王子は、もううっすらとも暖かい光を発せず、それどころか、光を吸い込む夜の闇のように冷え冷えとした姿で、その冬の街にそびえ立っています。
「王子」
 カノンはすっかり小さくなってしまった声で呼びかけました。寒さに弱いカノンには、もう、王子の肩まで飛び上がるだけの力も残ってはいませんでした。王子が聞いているのかいないのか、それすらも分からないまま、彼の足元で、カノンは続けました。
「もう誰一人、お前の姿を見て、幸福の王子などと呼びかける人間はいないだろう。お前の分け与えたつもりの幸福は、もうとっくに消費されてしまった。人間は、あんなものでは幸福になれない。あんなものを与えたところで、お前は誰も救えないのだ」
……
「それどころか、お前を見て弟を諭した少女や、お前を見て失望から立ち直ろうとした男や、お前を見てなくした母親を思った少年や、お前を見て天使のようだと笑った少年は、もう二度と、お前の姿で救われることはないだろう」
……
「お前よりも、十字架に縫いとめられて干からびた男の像のほうが、まだましだ」
……
「お前は満足か」
……
なあ、王子。いや、もう王子でも何でもない」
……
「お前は誰だ。神にでも、なった、」
……
「つもりだったか、」
……
……
 漆黒の像は、カノンの問いにはひとつも答えませんでした。もしかしたら、もう彼は、ツバメの声を聞くことができなくなっていたのかもしれません。
「私は間違ってなどいない」
 漆黒の像はそう独りごちました。その後、冷たくなったツバメの体に、温かい水が一滴落ちてきましたが、その水はすぐに、夜の空気で氷になりました。