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残りの夜が来た
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星矢
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氷河とアイザック
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年
あたりの景色があまりに透明で光っていて、まるで水底のマーマのようだったので、氷河はこれが夢だと気づいていた。氷河は列車のボックス席に腰掛けていた。日本の無機質な電車の作りと違って、座席の背もたれや網棚の細部に細かい装飾が施されていた。これはシベリア鉄道の二等車だったかな、と考える。氷河はシベリア鉄道に乗ったことはないけれど、マーマが遠い目をして話していた列車の姿は、こんな様子だったような気がする。
マーマの口にしたことは、内容から声のトーン、息継ぎの場所まで覚えているつもりだった。ずっと覚えているつもりだった。だが、時間の経過と共に、それから、忘れたくない人や物事が増えると共に、マーマの姿は美しくぼやけ、彼女の話の全容は、話の最後に「氷河」と呼びかける優しい声に集約されつつあった。かつて氷河は、これを恐れていた。だから、冷たい水底のマーマの元へ、訓練後のボロボロの身体で、何度も何度も潜ったのだ。深い水底に達するためにはそれなりの時間が必要で、その間氷河は他に何もせず、ただマーマの事を思い出すことができた。贅沢な時間だった。
ノーザンクロスに触れる。金属は氷河の体温でぬるく温まっている。
「まだそんなものをぶら下げているのか」
アイザックは氷河の斜め前に座っている。
「
……
なんて、今更、取れなんて言わないけどな。取らないだろうし」
「
……
」
通路側のアイザックは腰を上げ、窓際の氷河の向かいに座り直した。左目の傷跡が窓の外で発光する星屑に照らされて、彼の頬に、氷河には無い影を落とした。
「本当は、もういらないんだがな」
「
…
何がだ?」
「
…
ノーザンクロスだ。マーマは、この氷河の心のなかに、いてくれているから」
「
…
何を言い出すかと思えば。相変わらず、全然クールじゃない」
アイザックはフンと鼻を鳴らしたが、口元が緩んでいた。氷河に言わせれば、アイザックだってクールなどではなかった。カミュの弟子なのだから、当たり前なのかもしれない。
「
…
何を笑っているんだ、氷河」
「
…
別に」
アイザックはもう一度鼻を鳴らし、足を組み直した。左足が氷河の膝にぶつかり、「狭いぞ」と文句をいう。「お前、通路側に行けよ」
「アイザックが後から乗ってきたんだ」
「お前は十分堪能しただろう、この景色。今度は俺の番だ」
「順番なんかない。俺だって、今乗ったばかりだ」
「何だと?俺の足は長いんだ、お前が向かいに座っていたら、窮屈で仕方ない」
「俺だって同じだ」
「
…
何が?」
「足の長さ」
視線が合う。途中から堪えていた笑いが、間欠泉のように吹き出した。アイザックと氷河は大口を開けて笑った。こんな笑い方をするのは久しぶりだった。表情筋が痛くなるくらい笑い、溢れてきた涙を拭う。窓の外の青色は徐々に深さを増し、深夜か、深海のような色に変わっている。
「
…
海なのか」
氷河はつぶやいた。昔読んだ童話のように、ここは夜空なのだと思っていたが、もしかしたら海だったのかもしれない。星屑だと思っていたのはクリオネだったのかもしれない。
ぼんやり考えながら、ちらちらと舞うその光に焦点を絞ろうとする。掴みどころのない光は氷河の視線からすぐに外れ、視界の外へと逃げてしまう。
アイザックは氷河と同じように外を見ながら、
「
…
海じゃない」
と答えた。
「
…
そうか」
「
…
そうさ。海だったら、お前が来られるわけがない」
「
…
そうだな」
氷河は目を閉じる。
冷たい海は、いつでも氷河を拒んだ。氷河はマーマをあの海から引き上げたかったのだが、本当は、自分もあそこに行きたかったのかもしれなかった。それでも、マーマも、アイザックも、師カミュも、それを許してくれなかった。海底神殿に沈むことも、コキュートスにすら拒まれた。きっと氷河はこの先も、底に沈んだ人びとの手によってどこかへ押し上げられたまま、永遠に彼らに会うことは出来ない。
それが、罰なのかもしれなかった。
「
……
勝手なことを考えるな」
「
……
そうだな」
「
…
俺がお前を助けたのは、俺がお前の兄弟子だからだ」
「
……
そうだな」
「
…
俺が海底神殿と共に沈んだのは、俺が、選ばれた海闘士だったからだ」
「
……
そうだな」
「
…
泣くな。みっともない」
「
……
」
ノーザンクロスの鎖が揺れる。
マーマと同じように、氷河は忘れたくなかった。宝瓶宮を覆う絶対零度の小宇宙を、無意識の中で聞いたカミュの魂を削るような願いを、蘇ったカミュの流す血の涙を、
…
アイザックに拳を向けられたことを、彼の口からあふれた血の塊を、全てを。それなのに、それらを思い出すたびに、記憶は丸く、優しくなっていく。氷河とアイザックはシベリアの雪原で笑いあい、カミュはそれを見守ってくれている、あの一瞬の時間が、彼らの全てになってしまう。違うのだ。本当は、そんなのでは、ないのに。
「
…
アイザック、許してくれ」
「
……
」
「
…
俺は、忘れたくないのに」
「
……
」
「
…
これが、俺の、甘さだ」
「
……
」
線路を走らない列車は揺れることもなく、ただひたすら青い空間を走り続けた。氷河はこのまま行きたかった。だが、許されるはずがないことは分かっていた。氷河には使命がある。それは、それだけは、裏切ることはできなかった。それを裏切ってしまえば、こんどこそ本当に、氷河は二度と、誰にも会えなくなるだろう。
「
…
なあ氷河、」
「
……
」
「
…
俺はお前がうらやましかったのかもしれない」
「
……
」
「
…
だがもう、昔の話だ」
列車はただひたすら。
「
…
氷河、着いた」
肩を叩かれて、氷河は顔を上げた。外は明るくなっていた。あれほど光をまき散らしていた何かはもう見えず、ぼんやりと白い空間があるだけだ。
「俺は降りる」
「
…
アイザック?」
「
…
これはお前の列車だ、氷河」
「
……
」
「邪魔して悪かったな」
立ち上がったアイザックは少しだけ笑っていた。いつかのように優しい目だった。「
…
アイザック!」
同じように立ち上がりかけた氷河の頭を叩いて諌め、彼は背を向ける。その背に向かって、氷河は手を伸ばした。邪魔などでは、ない。邪魔なんかじゃない。叫びたかったが、喉に何かが張り付いてしまったかのように、息が苦しかった。それでも氷河は何とか搾り出した。
これが夢だと気づいていた。気づいていても、氷河はどうしても言いたかった。
「
…
また、気が向いたら、」
「
……
」
「
…
来てくれ、アイザック」
アイザックは振り返らずに片手を上げた。
氷河は目を開けた。何か夢を見たのか、頬が濡れていた。もしカミュやアイザックが生きていたら、こんな顔はとても見せられないな、と思う。自分はまだ幼く、どれほど足掻いても、どれほど壁を打ち砕いても、彼らの背中に追いつける気がしなかった。それでも、その日を夢見て、氷河は生きていかなければならない。
窓を開けると、冬よりも湿り気の多い、冷涼な空気が流れこんできた。これが夏だと言ったら、星矢あたりは何も考えずに、ただこの涼しさをうらやましがるのだろうと思い、氷河は少し笑った。まだ三時だというのに、大粒の星がひとつふたつ輝くだけの明るい空を見ながら、伸びをする。
シベリアは白夜だ。
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