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残りの夜が来た
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星矢
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一輝と沙織さん
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年
未だ入梅を迎えない6月の霧雨はやわらかく、ぬるく、蜘蛛の糸のように一輝を撫で続けている。城戸邸の広大な庭には嘘の様にひと気がなく、ただ濡れている。
城戸邸に身を寄せているはずの瞬の小宇宙は、近くには感じられなかった。どこかへ買い物にでも出かけているのかもしれない。それならば今ここに留まる理由は何一つないのだが、それでも一輝は、この雨を持て余しながら芝生を踏んだ。時間の分からない明るさとかすかな雨音の雑音のせいで、あたり一帯はこの世ではないように見える。
その比喩が間違っていることを一輝はきちんと自覚していた。今までに体験した「この世でないところ」のうち、こんな有様だった場所はひとところもない。それなのにそう思った。
白くかすんだような、そのくせ緑色を深くした芝生を見つめながら、どうしてだろうと考える。考えていると、「瞬は」
不意をつかれる。
彼女が足音もなく忍び寄ったのか、それとも自分がこのぬるい世界に飲まれていたのか、沙織が背後に立っていることに、一輝は全く気づかなかった。
「
……
」
一輝のほんの少しの動揺を見て取る様子も無く、こちらに向かって傘を差し出しながら、沙織は「出かけています」と言葉を続けた。
「
…
そのようだな」
沙織の持っている傘は、彼女がこちらへ傾けているその一本だけだった。一輝は腕を動かさずに彼女が傘を自分の体の上に戻すのを待ったが、数秒経ってもその気配は訪れない。仕方なく彼女の手をやんわりと押し戻す。
「風邪を引きますよ」
「お嬢さんがだ」
沙織は口角をかすかに持ち上げた。うっすら開いた唇の間から空気が漏れる。笑い声のようにも聞こえたが、彼女が何故笑うのか分からなかった一輝は、それを単なる吐息だと判断した。息を吐いた沙織は、雨に似たゆっくりとした動作で傘の角度を戻す。その場を動かずにいると、沙織が再び口を開いた。
「瞬に会いに来たのではないのですか」
「
……
」
「
…
中で待ってはいかがですか」
「
……
」
沙織の声は雨と同じようにやわらかくぬるい。
毅然とした彼女の声ばかりを聞いていた一輝は、その声に小骨ほどの違和感を感じた。食道の奥の辺りが、雨音と同じくらいの静けさで波打つ。
奇妙な気分だ。
雨よりも自分の気分を持て余し始めている。そのことを自覚するにつれ、一輝の奇妙な気分は一層増した。不快なのかそうでないのか分からない。ただぬるくさざめく。
得体の知れない気持ちの表面を滑らせるように、一輝は返事をした。
「
…
城戸邸に用はないんでな」
「まあ」
肩をすくめられるが、沙織からは動作や言葉ほどの感嘆は感じられなかった。一輝が当然のことを言ったのと同じくらい、彼女も当然のことだと思ったのだろう。
持て余す。
「それに」さざめきに気を取られているうちに、「会いに来たわけじゃない」
先ほど言わずにおいた言葉が勝手に転げ落ちる。
言い終わらないうちから後悔はしていた。だが事実だったし、それになんとなく、先ほどと同じように、これは当然のこととして受け流されるのだろうと思った。
「
…
そうなの」
「
……
」
「
…
一輝、少し私と付き合ってはくれませんか」
「
……
」
「用はないのでしょうけど、散歩を」
「
…
雨だぞ」
沙織はまたふっと息を吐いた。もしかしたら、やはり笑っているのかもしれない。今度は傘に隠れていて、一輝には確かめることができない。
傘を差す沙織と並んで歩くと、彼女の表情はおろか、髪の毛の先のほうしか見えなかったが、奇妙な気分に苦しんでいた一輝にとってはそのほうが具合が良かった。色素の薄い沙織の髪の先に降り積もった細かな水の粒を見つめながら、そういえば、瞬はちゃんと傘を持って出かけたのだろうかとぼんやり考える。それから濡れて冷たくなった自分の爪先を初めて自覚し、代わりに瞬の爪先を思う。自分のように傘を持っていないのならば、自分のように歩き回らずに、きちんと雨宿りをしているだろうか。
瞬の置かれた苛烈な境遇を差し置いてそんな瑣末なことを心配するのは滑稽、というより、単に瞬や自分の年齢からしても滑稽である。一輝はそれを分かっていたが、それでも瞬のことを考えるのは、息をするより当然のことだった。だって、兄弟なのだ。今までずっとそうだったし、おそらくこれからもそうなのだ。いや、正確には、これからもそうだと思っていた。いや、思いたかった。
…
いや、
「寒くはないですか」
思考の隙間を縫うように、雨粒の間で沙織の声がふわりと浮いた。
「
…
ごめんなさい、傘を使ってしまって」
「お嬢さんの傘だろう」
「
…
そうね、
…
ごめんなさい」
沙織の返事はどこか上の空だった。心がここに無いような声色は、自分達を導くアテナの姿とどうしても重ならない。それよりも、雨の中歩き回っている自分と似ている気がする。
不安なのかもしれない。一輝は。沙織も?
「
…
ごめんなさい、一輝」
「
…
何がだ」
繰り返される謝罪の言葉の意味を図りかねて、それからこの振動を止めたくて、一輝は問い返した。沙織の傘がほんの少し揺れた。
「
…
私は、あなた達に傘を貸してあげられない」
「
……
」
「
…
私は、世界を守りたかったのだけど」
傘はきちんと水をはじいているはずだが、沙織は周りの空気ごと水の中に沈んでいるように見えた。
「俺は風邪を引かないから大丈夫だ」
沙織が顔を上げる。傾いた傘からやっと水滴になった雨水が落ちて、彼女の頬に飛んだ。見えなかった表情があらわになっても、その正体は、一輝にはやはり分からない。
…
なぜ歪んで見えるのか分からない。
一輝は首を振った。多分星矢も、と続けようとして、飲み込む。沙織はそんなことを言ってほしいのではないだろうという配慮ではなく、単に自分が彼女に向かってそんなことを言いたくなかった。
もしかしたら、彼女が自分達に課していることよりずっと重いことを、自分は彼女に課しているのかもしれない。
「
…
やっぱりあんたが風邪を引く。沙織お嬢さん、俺はもう帰る。だからあんたも早く」
「やはり、瞬には会わないのですか」
「
…
会わない」
濡れた芝生に掠れた声が落ちる。こんな声を出すなんて、自分はみっともないと一輝は思った。もしかしたら、先ほどの沙織と似たような顔をしているのかもしれない。
「瞬は、」
霧雨は一輝の体を余すところ無く包む。静寂よりも優しい雨音が体中を侵食する。さざめき続ける心を持て余す。
「一輝のことを待っていますよ」
沙織の声と瞬の顔が重なる。
持て余す。
この優しい世界を持て余す。優しい瞬はきっと愛するこの世界を、一輝は持て余す。瞬を愛しているのに持て余す。彼の血が流れるようなことがあれば、一輝はどこからでも彼の元に向かう。彼の血の代わりに自分の血を流そう。だがそれは瞬の望む世界ではないのだ。瞬の望んだ優しい世界で、
…
もしそんなものが本当にあったとして、一輝はそこでどうして生きていこうか。
彼を守ることが第一義だった時代はもうとっくに終わっている。そのことを、一輝はきちんと、自覚していた。きっと目の前の女神も、慈愛に満ちた戦いの女神も、自覚している。
それでも雨は上がりそうにない。
…
瞬は傘を持っているだろうか。苦しむ女神にかける言葉も持たないくせに、愛する弟に会うこともできないくせに、いやだからこそ?一輝は再びそう考えた。
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