サイレントスノウストリーム

シュラとデスマスク
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2012年

 その冬は欧州中を寒波が襲っていて、雪など降らない聖域の空も、そのときばかりは毎日低く重い雲に覆われていた。アイオリアやミロは冗談めかして「もう少しで降るのではないか」と言うが、その言葉には冗談の他、ほんの少しの懸念と期待が込められている。だが彼らを含めた大方の人間は、ほぼ確信に近い気持ちで、聖域に雪は降らないと考えている。
 寒い土地をよく知っているであろうアフロディーテやカミュあたりは、温度や湿度といった体感的なものからそう思っているのかもしれない。生まれも育ちも温暖な土地のデスマスクは、寒い土地のことなどろくに知らないが、所詮地中海に面した聖域に水蒸気が凍ったまま降ってくるようなことはあり得ないという知識から、またここに来てから今まで一度も雪の降る聖域など見たことがないという経験から、そう考えていた。きっと皆そうなのだろう。もっとも、シャカあたりの頭の中は分からない。あの男は雪が降ろうが槍が降ろうがそういうものだとしたり顔で言う気がした。それも一理あり、ここに雪が降ろうが槍が降ろうが、いまさら驚くこともないと言えばない。それでもやはり、聖域に雪は降らない。
 訓練後、冷気によって鼻先と頬を赤くしたミロを、カミュが文字通り涼しげな顔で見ていた。シベリアから一時帰還している彼にとってこの気温は冬ですらないのだろう。3000m台とはいえ冬には雪を被る山で修行をしたこともあったので、それなりに慣れていると自分では思っていたが、アテネに近い気候のシチリアはやはり暖かったのだとデスマスクはぼんやり思った。
 だから自分にとって今日は寒い。雪は降らないまでも寒い。冷気の立ち昇るような石畳の階段を登りながら、デスマスクは吐息で指先を温めた。それを、訓練場のカミュと似た様な、涼しげな顔でアフロディーテが一瞥する。
「寒くねえの」
「寒い」
「全然寒くなさそうだが」
「寒いが凍えて震えるほどではないな」
「そりゃーなー、そうだよな。フィンランドとかグリーンランドとかに比べたらそうだろうな」
「シベリアほどではないさ。カミュは今日も暖かいと思っているのではないか。私は寒い」
「俺にとっちゃ火星と金星どっちが近いのママっていう次元の話だ」
「わかりづらい」
「わかりやすいだろ。ていうかさ、お前なんで寒い国で修行してたの?薔薇咲くの?」
「夏は咲くだろうな。冬は私のでなければ咲かない」
「はあ。それが修行か」
「冬の薔薇は高く売れたぞ」
いいな。お前聖闘士じゃなくてもやっていけるぞ」
「アテナの与えてくださったお力のおかげだ」
 さらりと言う彼に、よく言うぜ、とデスマスクは思った。思ったが、一向に温まらない身体と、それを更に冷やすように吹いてきた北風に身震いしたせいで、言葉にはならなかった。繰り返し指先に息を吹きかけ、その水蒸気が端から冷たくなっていくのに辟易しながら、ようやく頭を出した磨羯宮の屋根を白い息の合間から見る。
 登った先には、久々に任務から戻ったシュラが突っ立っている。
 聖闘士にとって誕生日というのはある程度の意味があって、黄道上の十二星座より加護を得ている黄金聖闘士はそれが特に顕著だということになっていた。だから、余程の事態、例えば聖戦でもない限り、任務中であろうが修行中であろうが、聖闘士は自らの誕生日には必ず聖域に招集される。別に祝われるためではない。儀式のためだ。
 今となっては茶番以外の何者でもないその慣習は、偽教皇によってしっかりと執り行われていて、シュラも、よりによってこんなに寒い日に、そのためだけに呼び戻されたのだった。
「やあ、久しぶり。シュラ」
ああ、」
 寝起きのような声で返すシュラがぼんやりしているように見えるのは、その儀式を真面目にこなしてきたことや、またその直前まであたっていたであろう任務に疲れきっているから、というわけではない。それらも少なからず含まれているのだろうが、シュラがぼんやりしている姿はそう珍しいものではなく、少なくともデスマスクとアフロディーテにとってはこれが普段の彼で、飽きるほど見慣れた姿だった。切り立った崖っぷちのような空気を始終周囲に纏わせていてはいくら彼とはいえ疲弊するだろうし、そもそも数年前まで彼は、戦闘訓練のときくらいしかそんな小宇宙を発することはなかったのだ。
 緊張と緩みの頻度が入れ替わったのは、修行といくつかの実戦を経た彼が『聖闘士として』成長したからなのか、それともそうでない理由からなのか、考えるだけ愚かだと思うので、デスマスクは考えない。考えないが、彼と顔を合わせる機会が少なくなる度に緩みの頻度は減少していく。自分たちの前でだけほんの少し緩む空気は、デスマスクに薄暗い喜びと、安堵感のような悲哀をもたらす。それは認めるし、そのまま受け入れる。ただ、自分にはまだその程度のことしかできないのか、とは思う。
 久しぶりという代わりに、デスマスクは「お前も寒くねえのかよ」と言った。シュラも挨拶はせず、事もなげに
「寒い」
と答える。
「アフロディーテとおんなじ様に答えるなよ。俺だけものすごく寒がりの文句言いみてえじゃねえか」
「実際にそうだろう」
「実際にそうだな」
「はいはいそうですね」
 おざなりに答えておいて、デスマスクはさっさと磨羯宮に足を向けた。風通しの良すぎる磨羯宮は居住スペース以外ほぼ外気温と同じだったが、それでもはやく屋内と呼べるところに行きたかった。誕生祝いにかこつけた宴のための荷物が肘の内側を圧迫し続けていて、それを早く下ろしたいという気持ちもあった。寒さに関しては分からないが、荷物に関してはアフロディーテも同じだったようで、彼もデスマスクに続く。だがシュラはその場を動こうとしない。
なあ、俺寒がりなんで早く中に入りたいんですけど」
 先に行くぞと言ったアフロディーテの後ろ姿は磨羯宮の中に吸い込まれてしまったが、デスマスクは仕方なく足を止めた。身体は入口の方に向けたまま彼を振り返る。ぼんやりと空を眺めているシュラの視線の先には、重くて白い雲しか見えない。少なくともデスマスクにはそれしか見えない。
「おーい」
「先に入ればいい」
「家主がいねえとよー。お前今日主役だし」
「今更何を」
 シュラがこちらを振り返る。黒く小さな目は刺すようにデスマスクを見るが、それでもやはり彼はぼんやりとほうけている。彼のこんな顔を、昔はよく見ていたこんな顔を、やっぱり久しぶりだなあと思う。
……
 そのことが無性に悲しくなり、また浅ましくも安堵し、そういう自分の気持ちが腹立たしく、デスマスクはそっと感情をせき止めた。それから、
「雪でも降りそうだな」
と、心にも無いことを言う。
 シュラはほんの少し眉を上げ、それから「降らんだろう」と答えた。
 降らないと答えているくせに、聖域に雪が降らないことなど充分すぎるほど知っているくせに、雪の聖域など見たことがないくせに、彼は空をぼんやりと見る。
 まるで雪を待つ子供のようだと思う。
……
 ああそういえば、と、デスマスクは今更思った。こいつはこんなに寒い季節に生まれたのだった。
 彼の故郷に雪は降るのだろうか。
 デスマスクは知らない。
……
 再び溢れ出しそうになる何かを止めるために息を潜めると、風の止んだ磨羯宮は一層静まり返り、その静寂と低い雲と冷気に閉じ込められたような気分になる。シュラの空気は緩んでいるが、今やデスマスクとアフロディーテの前だけで緩むその空気が、それこそが、彼との隔たりのように思える。
 そう思ってしまってから、デスマスクはぼんやりと後悔した。そんなはずはないのだ。いや、違う。そうだとしても、それに悲しくなったり、安堵したり、苛立ったり、する必要などないはずだ。
 それでもその見えない壁が嫌で、頭で考えていることとはまったく無関係に、デスマスクはシュラに歩み寄った。いくら待っても雪は降らない。そう宣言してやりたい。いや、シュラはそんなこと知っている。それなのにシュラはまだぼんやりと空を見ている。紅潮すらしていないその頬は、きっと冷え切っているのだろう。
 手を伸ばしかけてからやっと、柄でもないと思い直したデスマスクは、腕の軌道を変える。「ほれ、風邪引くぞ」
 肩を小突かれたシュラはフンと鼻を鳴らした。
「風邪などひくか」
「うるせえな。俺が引くんだよ」
「怠惰な生活を送っているからだ」
「羨ましいだろう」
「全然。全く」
「無駄話してるとアフロディーテが酒全部飲んじまう」
 それは由々しき事態だ、とシュラは言った。どのみち今日はどいつもこいつも酒やら何やらを持って磨羯宮に訪れるのだろうから、アルコール類が無くなる心配はない。ただアフロディーテは美味いものから順に片付けてしまうだろう。それは由々しき事態だ。
「あとで教皇様にも差し入れてやっか」
「残り物をか」
「そりゃあ、お前が決めろよ」
残りで良いだろうか」
「俺は何も言ってないぞ」
 現金な発言に対して無意味な予防線をはっていると、せき止めていた感情がゆっくりと拡散していくのを感じる。拡散はするが、消えはしない。消えはしないのだ。これはいつでもデスマスクの中にあって、事あるごとに氾濫する。いつまで抑える必要があるのか、そもそも抑える必要があるのかどうか、デスマスクには分からない。拡散させたままにしておきたいのか、それともぶちまけてしまいたいのかどうかも分からない。
 シュラはようやく磨羯宮に向かって歩き出す。自分を追い越す背中に向かって、シュラの故郷に雪は降るのか尋ねてみようか、どうしようかと、デスマスクはぼんやり考えた。そして、
「ま、どっちでもいいんだけど」
何?」
「何でもない」
 心にも無いことを言った。