息を吹きかける人と枕を噛む人

蟹山羊蟹
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年

 頭の上でライターの音がして、それでシュラは目を覚ました。自分も吸いたいという欲求と、まだ目を開けたくないという欲求を天秤にかけながら、うつ伏せのままぼんやりとまどろむ。冬が近い磨羯宮の周辺は、自分の星の季節がやって来ることを待ち望んでいるかのように、ますます静まり返り、ますます凛としているのだろう。ただし、それはシュラの意識とは全く無関係だった。シュラは寒いのが苦手だし、真っ暗な朝も苦手だ。
 煙の匂いはシュラの皮膚をゆっくりと撫でるが、鼻腔の奥まで入り込む前に、どこかへ逃げて行ってしまっているようだった。凛とした外界と違い、この寝室はぬるく温まり、弛んでいる。その中で逃げ場をなくした紫の煙が右往左往し、やがて所在なげに消えていくところを瞼の裏側で想像しながら、シュラはまだぼんやりとしている。次にライターがかちりと鳴ったら目を開けようと考えながら、ぼんやりとしている。
 寒いのが苦手なのは、自分がこの弛んだ世界を決して憎くは思っていないということを思い知らされるからだった。真っ暗な朝が苦手なのは、この弛んだ世界で爛々と輝く彼の瞳に負けてしまいそうになるからだった。
 彼の世界の内側に向け、正確には、彼の愛したもので構成される世界の内側に向け、あの瞳は、自分には信じがたいほどの大量の愛を注ぐ。あるべき正義やあるべき理論やあるべき秩序を全て洪水の中に飲み込んで、彼は彼の愛する世界を守ろうとする。そこさえ守れればそれで良いとでもいうように、暴力的に、献身的に、ひたすらに。
 洪水の中に飲まれるのは心地良く、シュラはいつまでも、その獰猛で生温い波に溺れていてしまいたくなる。一方で、それは自分の望んだ世界から逃げ出していることと同意だとも強く思う。シュラの望む世界は、あの中で溺れていては決して完成しないものだった。例え彼の愛が、自分達だけでなく、文字通りこの世界中全てを覆ったとしても、それはシュラの望む世界ではなかった。それでも、
 いや。
……
 ほとんど音を立てずに彼は煙を吐く。
 寝息はうるさいくせに、覚醒した彼は、声を出しさえしなければ、本当にひっそりとしていた。その真意がどこにあるのかシュラは知らない。意図があるかどうかすらも知らない。元来彼はそういう習性の生き物なのかもしれない。それでも今は、ため息なり、あくびなり、くしゃみなり、軽口なり、音を立ててくれればいいのにと思う。無音で暗く、外界よりずっと温かい寝室を、シュラは壊すことができない。このままではいつまで経っても壊すことができない。それは甘えだ。だから嫌なのだ。冬も朝も彼も。
 もう頭はすっかり覚醒しきっていたが、次のライターの音は鳴る気配がない。シュラは疑念と苛立ちともどかしさを持て余しながら息を殺す。うつ伏せの体勢には疲れ切っていたし、そろそろ起きなければならない時間のはずだ。それでもシュラは、自分で作った些細なルールを破るのが嫌で、頑なに目を閉ざし続けた。はやく、もう一本吸え。そうすれば俺の勝ちなのに。そうすれば、
……
 微かな衣擦れの音がして、シュラは安堵の息を吐きかけた。が、彼は煙草を吸うのではなかった。
……
 落ちて来る体温が世界を一層弛ませる。
……
 耳朶を撫でる湿った空気が、この世界ごとシュラを押し流す。
……
……
 彼の体温を押し戻すことも、彼の吐息を振り払うことも、歯軋りをすることも、それどころか目を開けることすらできない眠ったシュラは、ゆるゆると唇を開き、隙間から漏れる自分の息が彼に聞こえないように、枕を噛んだ。押し流されてはいけない。溺れてはいけない。でも、壊したくないのだ。自分は彼の世界を壊したくないのだ。その中に内包されていることにこれ以上ない程安堵し、同じくらい深く絶望しているシュラに、彼はひっそりと、湿った温かい息を吹きかけ続ける。はやく、辞めてくれ。そうしなければ、俺は。
……、」
 吐息はふうと笑い、シュラの上から消滅してしまった。
 代わりに唐突に現れた湿った指が、強張った頬をぎゅうと摘まむ。
「起きろよ」
 起きてんだろ、ではなく、起きろよ、と、彼は言う。
 それでようやく世界にひびが入る。
 シュラはゆっくりと目を開けた。寝室はやっぱり薄暗く、生温かく、弛んでいた。それでもこの空気は忍び込んで来る凛とした冷気に少しずつ侵され、輝く彼の目は太陽に少しずつ掻き消されていくのだろう。やっと生を与えられたような気分と、崩壊していく世界を口惜しく思うような気分に、身体の内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜられながら、シュラはようやく枕から口を離し、「うるさい」と言った。
「うるさいってお前、」
「言われなくても起きる」
「かーっ、かわいくねーっ」
「貴様に可愛がられて喜ぶ趣味はない」
「んだよ、優しく起こしてくれてありがとダーリンくらい言ったら?」
「誰がダーリンだクソ蟹。いい加減に指をはなせ」
「お、れ、だ、バカ山羊」
 音節ごとに湿った指は食い込み、最後にシュラの頬をぴんと弾いた。じわりと広がっていく痛みを手の甲で拭いながら身体を起こす。冷たい空気に身震いし、シュラはライターに手を伸ばす。
 カチリという音がして、それでようやく朝になった。デスマスクが「俺にも」と煙草をくわえた口を近づけてきたが、火を分けてやることはせず、シュラはライターを投げてよこした。