ミロ幼少期捏造

初出・Webサイト「残りの夜が来た」2011年

 ミロは祖母と暮らしていた。よその子供には父と母がいるものだということを知った時のことをミロは覚えており、だから何だ、と思ったことも覚えていた。ミロはそれらの存在について詳しくは知らないが、よその子供と同じようにパンを食べ、ジャジキを食べ、オリーブを食べ、それから時折揚げた魚や肉も食べることができた。祖母がミロを育ててくれているからだ。
 ミロの祖母は小さな島の小さな街角に皮のほろを張り、そこで花を売っていた。白い壁やその合間から見える痛々しいくらい青い空と、商人が本土の市場で仕入れてきた色とりどりの花に、軽装の観光客は必ず足を止めた。こんな街角だけではもったいない、世界中の人たちに見せて回りたいくらいだ。ミロがそう言うと、祖母は、昔はこれをかごにいっぱい入れて、島中を歩いたのだと言った。私が仕入れてきた花を抱えて舟から降りてくると、恋人に似合う赤い花を探しに、顔を赤らめた青年が真っ先に走ってやってくる。角を曲がると、窓から太った母親が手を出して、暗い室内を明るくする黄色い花をくれと言う。それから、墓地に向かえば、死人に手向ける青い花を、悲しい顔をした人たちがいとおしげに買っていった。遠くを見ながら祖母はかすれた声で言う。昔はもっと朗々とした声で歌ったんだけどねえ。
 日よけのために張った皮のほろは大分くたびれてきていたが、太陽はきちんと遮られていた。時折海風が花を揺らす色、その反射がまぶしい。日光の当たらない冷えた石畳に手を当てながら、ミロは、いや、やっぱりここで十分だ、ここでみんなが花を買いにくるのを待てばいい、と言った。本当は、祖母の言うように、この花を持って島中を回れたら楽しいだろうなあと思っていた。思っていたが、祖母はもう、足腰も視力も弱っていて、ミロの助けなしでは歩けない。ところがミロはまだ小さく、祖母と花の両方を抱えて島中を歩くことはできなかったのだ。だから、ミロは早く大きくなりたかった。
 その日は夏の終わりで、風がとても強く、大分長い間張りっぱなしだったほろが、ついに支柱から落ちてきてしまった。穴だらけの皮の下、花は色々な色の点々になって押しつぶされる。枯れた喉では悲鳴も出なかったのか、祖母はひゅうと息を吐いてその皮に巻き込まれた。とっさに路地に走り出てしまったミロは、すぐに祖母のところに舞い戻った。取り残された祖母は、身じろぎもせずじっとしていた。ほろの端から赤い花びらが、ほろの穴からは祖母の青い小さな水っぽい目が覗いていた。ミロは謝りながらほろをつかんだ。必死で手繰り寄せる先から、もう終わりだねえと掠れた声が聞こえる。小さな体にはあまりにも大きすぎる、重すぎる皮を持ち上げるのに必死だったので、ミロは返事ができなかった。汗は乾燥した風ですぐに塩になり、ミロの首を白っぽくざらざらにした。
「もう終わりだねえ」
 祖母は、筋張って関節の大きく膨らんだ乾いた手で、潰れた花をかき集めながら何度も言う。
 ほろがなくては、晩夏とはいえ炎天下の屋外で花を売ることなどできない。ミロは埃っぽい裁縫道具を引っ張り出し、皮の穴をふさぐために太くて長い針と格闘した。どうしてもふさげない大きな穴には、誰のものかわからないスカートを切り裂いて縫いつけた。祖母は目を細め、それはお前の母さんの服だよ、と言った。でも、これは誰も着ないし、ほろがなくっちゃ、あそこで花なんか売れないよ、とミロは答えた。祖母は返事をしなかった。暗い家の中で細められた祖母の青い小さな目。いつもどおり水っぽい彼女の目。彼女は、この布を通して何を見ているのだろう。
 ミロは早く大きくなりたかった。ミロの母さん、は、おばあちゃんの娘だ。母さんがいないのならば、ミロはおばあちゃんに新しい娘をあげたかった。そうだ、ミロが早く大きくなって、この家に眠る服を着ることができる娘と、結婚すればいいのだ。そして、その娘が花を抱え、ミロが祖母を背負い、島中を歩けばいいのだ。
 ミロはそう言ってみた。祖母は返事をしなかった。代わりに、筋張って関節の大きく膨らんだ乾いた手で、ミロの金髪を撫でてくれた。花をかき集めるように。
 せっかく直したほろを数回使うか使わないかのうちに、祖母は突然外に出なくなってしまった。目が見えづらくてねえ、と彼女は言う。家の中が暗いからだとミロは主張した。秋の終わりから曇りがちになるこの島は、夏ほど明るくないけれど、それでも太陽はのぞくのだ。外に出れば、見えるはずだ。
 だが、祖母は出なかった。ミロは彼女の代わりに商人から花を買い、大人に手伝ってもらいながらほろを張り、仕入れた花を石畳に並べたが、冬が近づいて、観光客が姿を消しはじめると、花はたくさん売れ残るようになった。ミロは売れ残ったものを全部持ち帰って、家の中に飾った。一番暗いところには、明かりをともすような黄色い花を。窓際には、祖母を外に誘うような赤い花を。そして誰も着ない服が眠るクロゼットには青い花を置いた。
 家の中に息のつまるような花の匂いが充満したが、それだけではお腹はいっぱいにならない。空腹のミロがすっかり痩せた膝を抱え、それでも花を並べていると、優しい島の人々は、パンや野菜をくれた。ミロはそれをきちんと半分ずつに分けて祖母に渡したが、祖母はいらないと首を振った。代わりに金髪を撫でる手の力がとてもか弱くなっていて、ミロは毎日泣きたかったが、泣くのにエネルギーを使いたくなかった。神様、泣かない分早く大きくしてください。ミロはパンを口に詰め込む。
 祖母が動かなくなってしまってからしばらくしても、ミロはこの家から彼女を出してあげることができなかった。いや、抱き上げようと試みはしたのだが、小さいミロでも容易に動かせそうな、あまりにも軽い彼女の体に恐れをなしてしまったのだ。死んだ人間はこんなにも軽いものなのだろうか。それとも祖母はもとよりこんなに軽かったのだろうか。こんなに軽いのだったら、ミロが祖母を背負って、花と一緒に島中を歩き回ればよかったのだ。船着場にかけてくる青年に、テーブルを飾りたい誰かの母親に、死人を弔う人々に、花を売ればよかったのだ。
 それでもミロは泣けなかった。溜め込んでいる力がどこかへ行ってしまう気がして泣けなかった。もう祖母はいない。祖母が居ないのならば、大きくなっても無駄なのに。
 枯れた花と、ゆっくり朽ちる死体の甘い香りがあまりにも濃くなった冬、ミロの家の扉が叩かれた。自分より少し大きな少年は、この香りにとても悲しそうな顔をして、そっと祖母を抱き上げた。
葬式をしよう」
 祖母の体がやっとこの家から引き剥がされたとき、ミロは久しぶりに泣いた。わんわんと泣いた。ミロの頭を少年の手がそっと撫でた。祖母とは違う、肉の引き締まった、少し固い、湿った手のひらが悲しくて、余計に大声が出た。
 溜め込んでいた力をすっかり出し尽くしてしまって、自分はこのままずっと子供なのかもしれないと思っているミロに、少年は言った。
「一緒に強くなろう」
 少年はミロに女神の話をした。地上を守るアテナの話をした。アテナを守る戦士の話をした。
「君は、女神を守る戦士なんだよ」
 大きくなっても無駄なミロに向かって、そんなことを言った。
「選ばれたんだ。生まれたときから選ばれていたんだ」
……
 ミロは、分かるような分からないような話をぼんやりと聞いていた。生まれたときから選ばれていたなんて。
 だから何だ、と思ったことは、今でも覚えている。
女神は」
「ん?」
「花が好きかな」
好きさ、きっと」
きっと」
「アテナは、豊穣の女神だ」
そっか」
 だったら、守ってあげてもいい。
 それでもミロは、さようならと言った。白い壁と痛々しいくらい青い空、その間で祖母を背負う大きくなったミロと、隣で花を抱える娘の姿にさようならと言った。そのことは、今でも覚えている。