車輪の唄

開店
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年

 その辺に捨ててあった自転車の後輪は大分空気が抜けていて、後ろに乗った一条は小さな段差の度に不平を言う。深夜どころか明け方近くに帰宅して寝ているカイジを叩き起こした挙句窃盗行為までさせておいて何様だと思ったが、カイジは何も言わなかった。息が切れていたからではなく一条のテンションが不気味だったからだった。
 一条は惨めだった。どんな考えがあるにせよ、どんな手段で地下から上がって来たにせよ、自分ならば何があっても帝愛になど戻らない。だが一条は当然のように帝愛に再び身を捧げ、課せられる下衆な仕事に手を染め、苦々しげな顔で帰ってくる。自分への戒めのようにカイジを置いた部屋に帰ってくる。
 いや、それに付き合っていた(正しくは寝床が無いからありがたく甘んじていた)自分のほうがずっと惨めかもしれない。とにかく、一条とカイジは支離滅裂だった。支離滅裂だと考えるのがカイジにとっては一番理論的な答えだった。
 夜明け直前の放射冷却で気温の下がった外気がカイジの目と頬を刺した。皮膚とその下の筋肉が、口を動かすのも億劫なくらい冷えていた。それでも一条は不気味なテンションで喋り続けた。
「おさらばだ、カイジくん!」
 こんな生活終わりだ。長かった。クソみたいな仕事だ、俺はあと7年これをやるのかと思っていた。リセットさせられたんだからな。それでも仕方ないと思っていたが、でも、終わりだ。カイジ。ざま見ろ。カカカ。
 一条の高笑いは耳元で聞くものではないと思った。神経を逆なでされ、脊髄をひとつひとつひっくり返されるような気分になった。苛々しながら適当に返事をする。「よかったな」
 乾いた風が口内を干上がらせた。
「ああ、祝えっ!」
なんで俺が」
「カカカ、冗談だカイジくん」
 支離滅裂な一条の言葉では、何が冗談で何が正気かも分からなかった。救いようのないくらい油不足で、ひと漕ぎごとに悲鳴のような音を上げる車輪が耳障りだ。
「またやるわけカジノの店長とか
「カジノ?ああ、あれはもう別の人間がやっている」
「ああ、そう」
「今度は別の仕事だ、ククク」
お前の笑い声、うるせえんだよっ
 言ったら余計に一条は笑うような予感がしたが、言ってしまった。案の定一条はまた高笑う。一条はカイジに1センチも触れていないが、二人の間の狭い空間の空気が、一条の発する熱で少しだけ温まった。その空気と汗で背中が湿った。
 住宅街を抜けると唐突に川が現れる。都会の川は川というより用水路に見える。コンクリートを流れる臭い水の脇の坂道を、カイジはぜいぜい言いながら登った。何故一条に付き合ってやっているのか、自分でもよく分からなかった。まあいいか。祝福してやろう。
 おかしなことに、カイジ自身も不気味なテンションになりつつあった。解放のような喪失のような。おそらくその例えは的を得ていると思う。おさらばだ、カイジくん。
 ふと嫌な予感がして、カイジは恐る恐る訊いた。
「なあ、俺の家って
「知らん。俺は越すから出て行けよ」
……
「働け、ニート」
……
 ちくしょう。
 坂を登りきったら何もかもどうでもよくなってしまい、カイジはブレーキをかけずに自転車を手放して、降りた。振られる後輪から投げ出された一条は器用に着地したが、かわいそうな誰かの自転車は、カイジたちを非難するような騒音を立ててアスファルトを擦った。
 横倒しのまま坂道を少しだけ下る自転車が動かなくなるのを見守った後、一条は舌打ちをしてカイジを振り返った。
あぶねえだろうがっ」
疲れたんだよ」
「何か言ってから止まれ」
「あーもう、うるせえ、うるせえ!」
 手を振って会話を終わらせようとする。向こう側はどうしてこんなにというくらい建物が密集してたが、川のお陰でそれが少し途切れていて、そのぽっかりあいた空がだんだん白くなる。山も情緒も見あたらなかったが、やうやうしろくなりゆくやまぎは、とぼんやり考え、車道と歩道を隔てる柵に腰掛けて、カイジはタバコに火をつけた。むらさきだちたるくものほそくたなびきたる。
 雲ではなく煙を吐き出す。
「なあ、お前、何がしたかったわけ」
 疑問は2つあり、ひとつは自転車を漕がせたことについて、もうひとつはカイジを家に住まわせていたことについてだった。一条はどちらをどう答えるだろうかと思い、敢えてそれだけの言葉で尋ねてみたが、一条ははんと鼻を鳴らして「別に」と言っただけだった。
「別にって、何だよ」
「カイジくんがひいひい言ってるところを見ておこうと思ってな」
 日がな一日中引きこもっていたから、と一条は言った。
「最後に運動させておいてやったんだよ」
「てめえ、人を犬かなんかみてえに」
「犬だろ」
 一条は吐き捨てて、笑うかと思ったが笑わなかった。カイジの斜め前に立って、ぼんやりドブ川を見ていた。タバコを1本吸い終わったのでそれを地面に落とす。スニーカーの先で火を消していると、少しだけ振り返った一条の心底嫌そうな顔が目に入った。
「ああ、嫌だ嫌だこれだから喫煙者は!」
うるせーな、お前が普段やってることほど反社会的行為じゃねえよ」
「何を言ってる俺は社会的だ」
 群れる動物って意味でか。
 とカイジは考えたが、口には出さなかった。カイジと一条を分かつ明確なラインについて今更言及するのは徒労で面倒だったし、それ以上に、また奇妙なテンションになったからだった。解放。喪失。後者を否定したかったが、否定する別の感情は見つからなかった。まあいいか、と思う。家を失うわけだし。クソ。
「せいぜいやってろ帝愛の犬」
「は、」
 一条は再び鼻を鳴らした。「言ってろ、犬。死ね」
「誰が死ぬかっ
そうだな、せいぜい這いつくばって生きろ」
 前を向いたままの一条の頬の筋肉が動いた気配がしたので、彼はまたあの恐ろしい顔でにやりとしたのだろうと思った。見えなかったが。「そして核戦争の折には泣いて土下座しろ」
「はあ?」
 最後まで支離滅裂だ。
 カイジはタバコをもう一本吸おうか、それとももう少しさっきのタバコの余韻を味わおうか、少しだけ考えた。残りが少なかったし、もう1本吸ったら一条は行くんだろうな、と何となく思ったからだった。昇ってきた朝日がビルに反射する。寝不足の目に刺さる光が痛くて目を細めた。ついでにあくびをしたら、ぼろりと涙が落ちた。