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残りの夜が来た
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福本
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黒崎様と一条
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2010年
黒崎が一条を目撃したのは、彼が失態を犯してから丁度2年ほど経った頃、会長の命で地下の視察に行った時だった。会長の暴言に対する反抗か、それとももとよりそういう性質だったからか、カジノ時代には癇に障るほど小奇麗に整えられていた姿は、もはや見る影もなかった。周囲の労働者と比較すれば、彼が今でもかつてのように小奇麗であろうとしていることは何となく分かる。だがそれは今まで以上に見る者の癇に障る。苛立ちを通り越し、薄いコーヒー程度の哀れみを覚えながら、黒崎は、鞄の中に入れたきりでいつまで経っても読み終わらない文庫本のことを思い出した。正確には読み終わらないのではなく、そもそも読んでいない。読みもしないその文庫本は鞄の中ですっかりくたびれている。そのくせ中を開くと新品同様で、それが何となく癪に障って、黒崎は今でもその本を鞄の中に入れっぱなしにしている。現在の一条はその薄汚れた文庫本に似ている。
彼に声をかけるつもりなど毛頭なかったし一条がそれを望んでいるわけもなかろうと黒崎は思っていた。そんな必要があるとも思えなかった。ところが、作業場と監視室とをつなぐモニタ越しに彼と目が合った気がした瞬間、同行していた黒服が口を開いた。
「黒崎様」
目が合うわけが無い。それなのにそのような錯覚を覚えた自分を自覚する前に声をかけられたので、黒崎は一瞬だけ息を呑んだ。一瞬だ。
「
…
なんだ」
「会長より伝言です。一条との面会を許可するとのこと」
許可も何も申請などしていない。会いたくもない。地下に落ちた一条は黒崎にとって汚点でしかなかった。それが自身の成長に繋がるならまだしも、過去の自分の汚点と戯れで向き合いたい人間などこの世にいるだろうか。だが、会長がそんなことを言うのならば、それは彼と会えということだ。そしてそれは単に嫌がらせなのであろう。会長は随分一条にご執心ではないか。
…
いや、私の事が憎いのかもしれない。あのような汚点を育てた私が。ならば仕方があるまい。「そうか」
「一条は間もなくこちらに来ますので、おかけになってお待ちください」
「
…
私が降りよう」
「いえ、お待ちください」
駒として非常に優秀であろう黒服はそう言って部屋を出た。同席するのかと思っていたがそういうわけでもないらしい。監視の必要すらないほど自分達が会長の手中に収まっているのか、監視の必要すらないほどの茶番なのか、おそらく後者であろう。
ノックの音がした。黒崎は返事をしなかった。一条は勝手にドアを開けて室内に踏み込んだ。途端に汗と土ぼこりと垢の嫌な臭いが漂ってくる。黒崎は鼻呼吸を口呼吸に切り替えた。それでも吐き気がした。
「お久しぶりです」
「ああ」
「
…
こんなところにおいでとは」
皮肉か。誰のせいだと思っている。
脳内でぼやいたが口には出さなかった。苛立ちもない。彼から投げられる皮肉など心底どうでもよかった。
「
…
熱心に働いているようだな」
「おかげさまで
…
妙な咳が出ることもなく」
「
…
板についてきたじゃないか」
一条はくっと笑った。汗が流れたのか汚れた皮膚に残った一筋の白い皮膚が少しだけ歪んだ。「私の体も案外丈夫なものですから」
そうだろう、と黒崎は思った。一条は苦境にあって心身を弱めるほど可愛気のある人間ではなかった。その程度だったらもう少し哀れむこともできたのに。その程度だったらこうしてこんなところで下らぬ労働にいそしむこともなかっただろうに。
…
いや、彼の今までの労働は全て下らない。それはかつての利根川も、そして現在の黒崎も同じである。帝愛においてはトップに上り詰めない限り下らぬ業務しかなかった。
腹の底で渦巻く何かを、息と一緒に少しずつ吐き出した。
「
…
負債は減っているのか」
「ええ、順調です」
「伊藤カイジの一件以来、労働以外の一切の収入は認められないはずだが」
「
…
そのようですね。ですから、あと1048年です」
「
……
」
いけしゃあしゃあとそう言う一条は、禁じられているギャンブルで収入を得ている。会長はそれを泳がせている。余興なのだろう。だから今回の視察の目的は、首謀者として挙げられた数名の様子を見ることだけだった。彼らの儲けが返済を終えない程度で済んでいるのかどうか、ただそれだけの確認だ。黒崎は目を細めて一条を眺めた。
彼が返済を終えることはまずない。そもそも元手がペリカだ。何をどう間違ったからと言って、7億円という金額に届くはずはなかった。それなのに、薄汚れた労働者の顔に張り付いたぎらぎらした目玉が不快だった。不快感は、一条が金を稼いでいることに対する不安に起因するものではない。彼が無意味に夢を見ていることが、そういう阿呆な人間と対峙することが不快だった。返済はない。黒崎は再び胸中でつぶやいた。
「1048年も生きられそうか、よほど地下が性に合っているんだろうな」
「ええ、その程度どうということはありません」
不快だ。「伊藤カイジ」
不快感のせいで、黒崎は無用な名前を口にした。伊藤カイジという音に反応して、まるでそういう動物か何かであるかのように、一条は一層目を輝かせた。不快だ。
不快だが、仕方なく黒崎は先を続けた。自分も大概情に厚い。元部下に対してこんなリップサービスができる人間だとは、黒崎自身思ってもいなかった。
「
…
伊藤カイジを倒すためなら1048年生きられそうか」
「
…
さすが、黒崎様、私のことなど全てお見通しですね」
一条はククと笑った。細かく振動した服からほんの少しだけ土ぼこりが落ちる。それが空気に混じって黒崎の肺に入ってくることを想像してますます不快になる。黒崎の不快感に気づいているのかいないのか、
…
おそらく気づいている。気づきながらそれを煽ることを楽しんでいる様子で、一条はまた笑った。「ククク」
「黒崎様、私は安住していました。裏カジノで帝愛に金をもたらし、
…
いや、何をしていたっていい、黒崎様の元にいれば、いつか帝愛のトップに行けると、そのビジョンに安住していました。安住は人間の脳を腐らせます。その結果がこの労働です。そう思いませんか」
「
……
」
「ですがお陰で腐った自分に気がついた。気がつければもうこちらのものです。気づかせてくれた伊藤カイジは必ず俺が殺す。この野望が胸のうちにあって、どうしてやすやすと死ぬことができるでしょうか、この地下で、ひっそりと、死ぬなんて、カカ」
「
……
」
一条の頬が興奮で紅潮しているのが、土ぼこりの上からでも分かった。道化じみたこの男は本気だ。
黒崎は考えた。現在の伊藤カイジについて、彼に言うべきか、言わざるべきか。
…
いや、考えるまでもない。言う必要性などかけらもなかった。
「
…
そうか」
「
…
ええ」
「
…
せいぜい地下を拡張してくれ」
「楽しみにしていてください、シェルターは完成します」
「
…
俺は1048年も生きたくはない、シェルターにも興味はない」
「それは残念です」
気分が悪かった。悪臭のせいだし、この阿呆の上司だった自分のせいだし、この阿呆と対峙している事実のせいだし、こんな茶番を繰り広げているせいだった。
伊藤カイジに恋でもしているかのような調子で、道化の一条は「地下を出て、俺が殺す」と、もう一度言った。熱に浮かされたような言葉の一音一句が本当に不快で、自分にはまだ自制心が足りないと黒崎は思った。思いながら、さっさと別離の言葉を投げ、部屋を出る一条を見送った。
黒服が戻ってくるまでの数分間、黒崎は考えていた。伊藤カイジは這い上がって来いと一条に言ったという。とんだ茶番だ。道化じみている。そして茶番の結果、伊藤カイジは、会長の暇を潰す道化を一人増やしたことになる。だがその道化のうちの一人に、利根川は失脚させられたのだ。
まるで伊藤カイジが乗り移ったような一条のぎらついた目。
返済はない、と、黒崎はまたつぶやいた。それからあの不快な目を忘れようとした。だがあの目は魚の目のように黒崎について回るのだろう、という予感がした。会長の嫌がらせは常にクリティカルヒットだ。あれほど有能な人物が道化に倒されるのならば、それはそれでいい余興かもしれない。とはいえ、やはり、返済はない。さようなら一条。地下で踊って、安らかに死ね。
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