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残りの夜が来た
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福本
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私生活
ひろ赤
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2010年
二日酔いだからと同僚の誘いを断り、それどころか営業先から直帰するということにして、ひろゆきが電車を降りたのはまだ営業時間内、17時を少し回ったころだった。主婦でごったがえす近所のスーパーで、晩飯の食材でも総菜でもなく、いつもの缶ビールを2本だけ買う。この消費ペースならば半ダースで買った方が経済的かつ合理的であるということは百も承知だが、それを実行に移せば、もう二度と家から出られないような気がして、ひろゆきはどうしても陳列台の端にうず高く積まれたケースをつかむことができなかった。
いや、買ったところで、自分は朝になればスーツを着込んで家を出るだろう。出ざるを得ないのだ。そのラインを越える妄想は常に頭の中に居座っているが、それでも、ビールをたった6缶買うことさえできない。
交通量はそれほど多くないくせに、他より数円だけ安いガソリンスタンドがあるせいで、ここら一帯には常にガソリンの臭いが漂っていた。昔はこの臭いが好きだった気がするが、今は悪心を増長させる原因にしかならない。二日酔いというのは本当だった。二日どころか、ここ数ヶ月、ずっと重い胃を引きずっている。それは会社のせいでもなんでもなく、元々酒に強くない自分が、断れる状況でも自ら進んでアルコールを接種し、のみならず自宅でも水の代わりに缶ビールを開けているからに他ならない。少し前まで、自分の酒量を測れない人間は嫌いだった。侮蔑さえしていた。だがいざ自分がそうなってみると、いつの間にかそれは仕方のないことなのだと思い始めていた。
スーパーから5分ほど歩き、吐いた息の味が昨日飲んだ酒なのかガソリンなのか分からなくなる、そのくらいで安普請のアパートにたどり着く。勤め始めた時はここが自分の城になるのだと思っていたが、何年立っても、ここは城どころか穴ぐら以下だった。部屋にあるのは読みもしない新聞と空き缶と吸い殻だけで、ひとつ思うところがあるとすれば、もしあの人がこうやってひとところに住んでいたら、きっとこんなふうな部屋になっているのではないか、ということだった。だがそんな妄想には1グラムの価値もない。だってあの人は絶対にこんな生活をしないだろうから。
薄いドアを開ける度にこの妄想を何回繰り返しただろう。だがそれも仕方のないことなのだ。ひろゆきにはこれ以外に道がなく、さらにその道はあの人とはかけ離れた場所にある。妄想くらい許してほしい。
誰に?
誰に許しを請うんだ。
笑う気力もなく、ひろゆきは笑いの代わりに弱い息だけを鼻から逃がす。くたびれた革靴を脱ぐと、むっと湿った嫌な臭いが黴臭い玄関にゆらりと立ちこめた。鞄の中で携帯電話が震えていたが、取り出しもせずに鞄ごと、それから缶ビールの入った袋も一緒に、畳の上に放り出す。さっさと着替えればいいのにそれすら面倒で、ジャケットを脱ぎネクタイをゆるめただけで、ごろりと横になった。西日の射す窓際の畳はすっかり痛んでいて、ささくれだったい草はぱさぱさに干上がっていった。
このアパートは大学時代に住んでいたアパートと似ていた。それで選んだわけではなかったが、今となっては、過去の自分がここを選んだ理由はそれくらいしか見あたらなかった。壁は薄く西向きで洗濯機は外にしか置けず、両隣の学生が夜な夜な開く宴会の音がけたたましい。そして雀牌の混ざる音。似ているどころかそっくりではないか。違うのは、その喧噪の中にひろゆきが混ざることが決してないということと、あの人たちならば友人同士の対決だけで夜を明かすことなどないだろうということだった。
混ざりたいなど爪の先ほども思ったことはない。あんな勝負をした人間が、学生同士の麻雀で満たせるものなどない。それでもあの音をここで聞きたくなくて、ひろゆきは酔って前後不覚になってから帰るか、夕方から飲んで寝てしまうか、その二つのうちどちらかだけを毎日選択していた。自分を置いていってしまった何かを思い出すのが嫌だった。自分を置いていってしまった何かを、その本質とかけ離れたものからすら思い起こしてしまう自分が嫌だった。
こんな穴ぐらを捨ててどこかに行きたい。だが、そのどこかというのがどこにあるのか、その輪郭すら、ひろゆきにはちっとも分からなかった。
そんなこと、こんな歳で考えることではない。もう自分は28だ。
28といえば父親が結婚した歳ではなかったか。
空想して、結婚という言葉が自分にとってあまりにも現実味を帯びないことに、ひろゆきは少しだけ快感を覚えた。それくらいだ。それくらいか。自分には。
傾いた日の光が直接目玉を突き刺す。眼鏡をずらして手の甲で瞼を覆う。網膜が焼かれたせいで視界が茶色い。素面で目を閉じるのは、よくない。ありありと思い浮かんでしまう。思い浮かべてしまったら、もうそれを追いかけるしかなくなるのに。
胸部の圧迫感で吐きそうになったが、ひろゆきは動けなかった。茶色い背景の奥に赤木がいるからだ。
追いかけてはいけない。
こんな自分に追いかける資格も権利もない。いや、あれは赤木さんではない。ならば妄想くらい許してほしい。
誰に許しを請うんだ。
誰も俺を責めていない。責めすらしない。
圧迫感はますます肥大してひろゆきを襲った。吐き気は簡単に涙にとってかわろうとする。そんなに美しいものでも、生温いものでも、ないのに。
置いて行かれた訳ではなかった。どんなアドバイスを受けたにしろ、最後にはひろゆき自身がこれを選んだのだ。穴ぐらに定住し、誰でもできる仕事を自分にしかできないように見せかけ、自分だけの場所を取り合うような人生を選んだのだ。その舞台の登場人物を馬鹿にしている訳ではない。悪いのはそこに身を投じることのできない自分だ。そうでない人生から自分で身を引いたくせに、どちらにも飛び降りることのできない自分だ。缶ビールを半ダース買うこともできない、新聞を止めることもできない、ひろゆき自身だ。
追いかけられるはずがない。行かないでなんてもってのほかだ。ましてや、あの人がこんな生活をしていたらなんて、自分のレベルにあの人を貶めるなんて。
そんなことは分かっているのに。
この気持ちが、穴ぐらに住まないで生きていける才能を持つ人間に対する嫉妬なのか、あのときの勝負に対する渇望なのか、それともあのたった何日間かの生活への憧憬なのか、もはやそれすら判別がつかなくなっていた。判別の付かない気持ちは、ひろゆきの中ですべて赤木に集約され、それは彼への醜い執着心となって、いつまでも落ちない染みのようにひろゆきの全身にこびりついていた。赤木さんが今、ここに現れたら、何と言うだろう。また俺をあの熱の渦の中に導いてくれるだろうか。
…
こんな自分を?どこにも身を投げられない自分を?それでもまだ穴ぐらにしがみついて、地面を這い蹲っている自分を?
ああ、赤木さん、
「
……
、」
ひろゆきはかさついた唇をゆっくり開き、言葉にする事を徹底的に避けていた単語を漏らした。誰も聞いているはずがないから、いいと思った。
仕方のないことなのだと思ってしまった。
こうやってひとつひとつ許していって、自分はいつか、赤木のことすら思い起こさない人間になるのだろう。
許してほしい。赤木さん。
…
いや、許さないでくれ。責めてくれ。赤木さん、
(助けてください)
しかし、
その欲求のうちのどれひとつとして、赤木は決して叶えはしないだろう。あの赤木はそんなことはしない。
しないのだ。
だからすがるのだ。
はは、と笑った。笑うくらいには回復したようだった。張りぼてのような気持ちだったが、それでもあの人のことを、自分からはるか遠くにいる赤木のことを考えると、ひろゆきは笑えるのだ。それだけで生きている。赤木は自分の愚かな望みなどひとつも叶えないが、だからまだ、生かされている。
赤木のことすら思い起こさない人間になったら死ねるだろうか。
そうなったら会える気がする。
隣人が帰宅し、揺れる部屋に負けて、投げ出したままの缶ビールが崩れて音を立てた。ひろゆきは目を閉じたままそれを聞いた。こめかみのあたりがじっとり濡れている感触があったが、自分には涙を流すような資格はないので、これはきっと汗だろう、と思った。
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