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残りの夜が来た
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福本
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ただの秘密
幸雄が中学校の非常勤講師で13が生徒で安岡さんだけ通常運行のパラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年
いくらなんでもそれはないだろうと思ったが、まさかそう口に出すわけにもいかないので、幸雄は飲み込みかけた息を喉元で止めてゆっくりと吐き出した。ただの吐息に代わり切らない空気が暖房で濁った教室の中に溶ける。
幸雄に対して闖入者を見る目つきの生徒が半分、残りの半分のうち大多数は寝ていて、こちらを寛大にも受け入れようとしてくれている(上から目線の)生徒は少数派である。そのいずれにも属さずに、こっちをただ興味深げに見ているのは、幸雄に息を呑まさんとした、その生徒1人だった。
深呼吸をする。「えー、と」
動揺を押さえつけるために、幸雄は大きな声を出した。
「矢木先生はしばらくお休みです」
「産休?」
「違う」
「孕ませた?」
目を細めながら言う生徒に追随した数名の男子は笑い、他の数名、主に女子は顔をゆがめ、一部の女子は初めに追随した男子よりももっと大きく、高い声で笑った。くだらん。いつの時代も中学生という生き物はかつての自分を含めておしなべてくだらないが、今幸雄はそれどころではないのだ。
出席簿を教卓に置いて、固い表紙を開く。手が震えている。笑えない。くだらん。
「
…
とりあえず担任はしばらく僕、平山です。よろしく。
…
じゃあ出席、」
こんな時期に、いやこんな時期だからなのかもしれないが、体調を崩して長期療養とやらに入ってしまったこのクラスの担任代わりを勤めることになった非常勤講師の幸雄は、念願の「担任」というものの前に、自分の理想や野望が脆くも崩れそうになっていくのを感じた。別に、教師が優しさや熱さや夢や希望や涙や任侠に満ち溢れた職業だと思っていたわけではない。非常勤とはいえ数クラスの理科を担当している幸雄は、そんなことは十分すぎるくらい知っている。それでも正規採用の教師を志している幸雄を根幹から揺さぶろうとしているのは、
「
…
アカギ、」
「はい」
天使のように柔らかな声でアカギはすました返事をする。幸雄は×だらけの出席簿に久方ぶりの○を付ける。手が震えるせいで、有り得ないほどに不恰好な形だ。
趣味という程楽しみきれておらず、とはいえライフワークになどしてはならないと自分に言い聞かせてはいるが、どういう言葉で説明しようと、幸雄の少ない余暇は確かに麻雀に費やされている。大人の嗜みとしては凡庸なゲームだが、賭博行為に手を染めている幸雄にとって、それは誰にも知られてはならない汚点である。
幸雄は、麻雀というゲームを決して愛してはいない。映像を「記憶」ではなく「ほぼ記録」できる特技を一番生かせて、そして小遣いも稼げるのが、たまたま麻雀だったというだけだ。仲間内、ときおり雀荘の店員から、ゲームを断られない程度の金を巻き上げ、文字通りの小遣い稼ぎで手っ取り早く懐をあたためていた大学時代の幸雄は、残りの時間はきちんと教職単位取得や教員採用試験へ充てていた。表彰されてもいいくらい真面目だったと今でも思う。
真面目な幸雄を犯罪者にしたのは事もあろうに刑事だ。
安岡という胡散臭い刑事に目を付けられてしまった幸雄は、ちらつく紙幣とぼんやりした恐怖、同じくらいぼんやりした快感に負け、卒業後もずるずると刑事と共に違法行為を繰り返している。
「安岡さん、今日の分、下さいよ」
「ああ?
…
お前、教師になったんじゃなかったのか」
「非常勤です」
給料もらってんじゃねえかと言いながら安岡は煙草をくわえる。あんただってそうだろうが、と思いながら副流煙を払う。「正式採用されたら辞めますからね」
「何を。教師をか?なんだその、ハタチになったら煙草やめますみたいな」
「違いますよ
…
!」
この中年は分かっていてこういうことを言う。初めはとぼけた態度がコロンボのように見えていた幸雄だったが、多分雀荘の空気で目が濁っていたのだ。安岡は単に金に汚く喰えないおっさんだった。「ほれ」
「少ない」
「いいじゃねえか、飲みに行こうぜ」
「俺の取り分で!?」
「再来週、女房の誕生日なんだよ、
…
そうだ、プレゼント選んでくれ、相棒」
幸雄は副流煙を払うのをやめた。
「
…
今日はもうどこも閉まってるか。来週」
「
…
俺、センスないですよ」
「知ってるよ」
「
……
」
「女房もねえからな、センスなんざ。大丈夫だ」
「
……
」
かかとを引きずって歩き始めた安岡の背中を追いかけて、幸雄は生ゴミ臭い裏路地を抜ける。このあたりの地理を覚えていないのではなく、これから飲む店の選択権を放棄しているからだ。丸まった背中に被さったコートはくたびれていたが、手入れはされていた。
麻雀よりもむしろ、この丸まった背中の、妻帯者のくせに刑事のくせに違法行為をしているくせに愛妻家のくせに加齢臭が漂い始めているくせに、幸雄を相棒と呼ぶ安岡に対して、自分は執着している。そのことに気づいたのはいつだったか忘れたが、気づいてしまったのがまず何かの終わりだったと思う。終わりだと思ったが、それでも安い日本酒をコップで空ける彼とのくだらないやり取りを幸雄は愛していて、だからこそ教職を志すくせに賭博麻雀に喜んで参加するという、まさに人生を賭けた行為をやめられないのだ。
…
美しいじゃないか。人生を賭けられたらこれはもう極みだ。
…
正式採用されたら、辞めるけど。
達成される見込みの薄い決意を、寝言もしくは呪詛のようにつぶやきながら、幸雄は昨日も同じようにヤクザから金を巻き上げ、別のヤクザに利潤をもたらし、ほんの少しの取り分で席を立とうとした。「おい」
安岡の声がした。ただし、いつものように背後からではなく、違う卓のほうからだった。幸雄にかけられた言葉ではない。
「なんだこいつ」
幸雄は声のしたほうに目を向けた。安い油と煙草と焦げたコーヒーの匂い、牌や点棒のぶつかる音を軽く凌駕して、雀荘全体が熱を帯びていた。
…
熱?殺気かもしれない。
安岡のコートをめがけて殺気をかき分ける。薄汚い人間達が囲む卓では、漫画か何かのように1人だけに点棒が集まっている。幸雄はぎょっとした。点棒ではなく、その前に座っている子供に対して。
全体的に色素の薄い子供は、そのくせ圧倒的な存在感で、安岡を含む周囲の人間の視線をほしいままにしていた。そんなものに興味はないというように切る牌が、子供の隷属のようだった。
「
…
は」
幸雄は息を吐く、事しかできなかったので、また吐く。頭に血が上っていくのが分かる。感情の正体が分からないが、めまいがした。
…
何に対してのめまいだろう。彼の手元の牌に感嘆か畏怖しているのだろうか。それとも詰みあがった点棒に嫉妬か感心しているのだろうか。彼の白い頭や緑の卓に置かれた指で視界がハレーションを起こしている?それとも、子供の着ている制服に。
…
おい。
幸雄の混乱を割るように、
「ロン」
子供が言う。天使のような声だった。
幸雄の取り分から飲み代が捻出されるのはいつも通りだったが、いつもの軽くどうでもいい会話は一切なされなかった。安岡は酒には手をつけず、煙草も半分以上吸わずに灰にしながら、あの子供の麻雀について話し続けた。最後の局しか見ていなかった幸雄には信じがたい四方山話だったが、多分事実なのだろう。あの熱気。あの殺気。
頭ががんがんする。
「
…
ありゃ鬼だ」
「
……
」
「お前も見てりゃあ分かる」
「
…
はあ」
幸雄は返事とため息の中間の音を返しながら、小さな椅子の固い背もたれに背中を押し付けた。油でべたついた床の上で安い革靴が滑る。
安岡の飲まない酒を代わりにといわんばかりに流し込み、数時間前の光景を繰り返し頭の中で上映するうちに、神々しい少年の姿は、幸雄の二重生活を脅かす極めて低俗かつ切実な恐怖、他、雑多なくだらない感情を生み出す何かへと落ち着きかけていた。
頭ががんがんする。
「
…
ねえ安岡さん、」
「
……
」
「どうしよう」
「何が」
幸雄は徳利の中身をまるごと飲み干した。
「変な飲み方すんじゃねえ」
「
…
ねえ、あの子供、俺ンとこの生徒なんですよ」
「
…
なんだと」
ぼんやりした視界の隅で安岡がぎろりと目を剥いた。白目が黄色く濁っている。よりによってそれしかすがるものが無いとは、幸雄は自分をかわいそうなクズだと思った。
「知ってんのか」
「知りません、けど制服、あれ、うちの」
「
……
」
「
…
どうしよう」
「
…
何が」
「学校クビになったら安岡さん俺の生活保障してくださいよ」
「無理だ」
「ひっでえ!相棒を見捨てんのか!」
「うるせえな、大声出すな」
「奥さんにばらしますよ」
安岡は黙っている。できもしねえくせにと思っているに違いない。幸雄もそう思う。「ああ」
絶望に打ちひしがれながら呻く。人生を賭けた博打なんか、美しくもなんともなかった。こんなことで終わるとは。正式採用もクソもない。お笑い種だ。日教組は頭を抱えPTAは殺気立ち俺はお縄だ。ラッキーだったのは俺がまだ学校内で影の薄い非常勤だったことだ。そうだ、俺の理科の授業を楽しみにしている生徒などいまい。そもそも俺は数学が好きなんだ。それだけが救いだ。いや、どこが救いだ畜生!!
めまいがする。「落ち着け」
「
……
は」
雀荘でのめまいとは大分異なった悲しい酩酊感を割ったのは、雀荘での天使のような声とは似ても似つかない、酒と煙草でしわがれた安岡の声だった。
「
…
大丈夫だろ」
「
…
何が」
「大体、お前のやってることが何でいきなりばれるんだ」
「
…
つったって」
「肝っ玉の小さいやつだな。
…
大丈夫だ」
幸雄は悲しくなった。
繰り返される根拠のない「大丈夫」に異様に救われてしまった自分に悲しくなった。こんなしわがれた声に救われる自分はやっぱりかわいそうなクズだ。
…
クソ。どうなってんだ。麻雀なんかやらなきゃよかった。「平山、」
「
…
なんですか」
「お前、あのガキ無事に卒業させろ」
「
…
はあ!?」
「何があっても無事に卒業させろ。それで、」
将来は代打ちにするぞと安岡は高らかに宣言した。
「
……
」
…
麻雀なんかやらなきゃよかったのだ。
昨晩打ち立てられた安岡のむちゃくちゃな野望を叶える気など毛頭ない。これは事故だ。事故だ。事故。
胸中で事故事故とまくしたてながら朝の会を滞りなく終えた幸雄は、平静を装いながら、早足で理科準備室に引っ込んだ。職員室にも一応机はあるが今このテンションであんなところに入れないと思った。冷え切ったここが幸雄の唯一の城だ。
城を温めるべく昭和生まれのファンヒーターのスイッチを入れると、石油と埃の混ざった妙な匂いがした。
「くっせえな」
慣れ親しんだ匂いに対して今さらすぎる暴言を吐きながら、幸雄は椅子に腰を落とした。潰れたクッションから空気が抜けて間抜けな音がする。
あの子供はアカギというらしい。赤木しげる。嘘みたいに凡庸な名前だとぼんやり考える。
嘘みたいに凡庸な名を持った鬼のような子供は、天使のような声で返事をしたきり、幸雄と言葉を交わすことはなかった。もしかしたら、安岡の言うように、大丈夫なのかもしれない。今考えてみれば、あのギャラリーの中で子供が幸雄の顔を見たかどうかすら定かではない。
…
そうだ。大丈夫だ。大丈夫。安岡のように繰り返してみるが、自分の言葉では昨晩ほどの救いは得られなかった。クズめ。
幸雄は安岡と自分の両方にいらいらしながらポケットに手を突っ込む。普段吸わない煙草は雀荘での暇つぶしだけのためにポケットに入れっぱなしにしている。校内は禁煙だが、この時間はどこのクラスも授業が無いし、換気扇をつければ分からないだろうと思ったのだが、
「
……
」
煙草の箱に入れているライターがない。昨日雀荘に忘れたのかもしれない。舌打ちをしたかったが、幸雄の下手糞な舌打ちではなんの苛立ちも解消されないだろうと思い、代わりにため息をついた。
…
いい。100円ライターなどどうでもいい。実験で使うマッチがどこかにあったはずだ。それを使うしかな「平山先生」
「な」
呑んだ息をつまらせて、幸雄は惨めにも咳き込んだ。ついでに気管に唾液が入りこみ、視界が涙でにじむ。その向こうに白っぽい影が見える。
「っ
……
」
「
…
大丈夫?」
「っ
…
いじょっぶ
…
」
掠れ声を搾り出す。アカギは幸雄が咳き込む姿を面白そうに見ている。なんでよりによって。
アカギに見られていては止まるものも止まらないのではと思ったが、幸雄は何とか呼吸を正常のリズムに押し戻した。ぜえぜえする声帯を咳払いで整えながら煙草の箱をしまう。声が震えていても咳のせいにしようと小さいことを真っ白になった頭の片隅で考えながら、「授業は」と言った。
…
言った。なんとか言えた。「お前、1時間目」
「まだ始まってないよ、」
「
……
」
事も無げに言った彼は、幸雄が時計を見てその虚実を確かめる前に、猫のようにするりと準備室に入り込んできた。ああ、俺の城が。
「
…
でも、もうすぐ始まるだろ」
できる限り声を張って抗議する。入ってくるなという気持ちをこめたが、アカギには1ミリも届いていないだろうと思われた。「おい」
「平山先生に届け物があって」
「
…
は?」
アカギはこちらを見上げる。
黄色いライターを差し出す手は、まだ出来上がっていない子供のものだ。
「平山先生、昨日忘れたでしょう、これ」
「な」
子供のくせに。
絶句している平山に向かって、アカギはクククと笑った。いっそすがすがしいほど無邪気な笑いが、子供というより妖怪じみていた。
…
そうだ。安岡さんは鬼とか言っていたけれど、そんな分かりやすいものではない。きっとこれはまだ名前すらつけられていない妖怪に違いない。
「な」ともう一度呻くと、アカギはさらりと「雀荘に」と付け加えた。いらない。そんな補足はいらない。
「
……
」
麻雀なんてやらなければよかったのだ。あと何百回こう思うのだろうと、幸雄はぼんやり考える。この妖怪を無事に卒業させるまでの辛抱、
…
それで終わるのか?
「火、つけようか、
…
平山先生」
「
…
いらねえよ!!」
やけっぱちな気分で叫ぶと、アカギはまた声を出して笑った。とても楽しそうに笑った。こいつは何も言わないが、きっと何もかも見透かしているのだろうという笑い声だった。
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