悪夢

佐一 佐原と一条・・・
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年

 一条はよくうなされている。
 佐原の知る限り、彼がうなされない日はこれまで一日もなかった。彼の寝室から、佐原が勝手に寝床にしているリビングまで聞こえてくるほどの呻き声に対して、佐原は初め、この原因は限度を超えたアルコール摂取のためだと考えた。佐原は、サラリーマンの彼を哀れみ軽蔑し、またほんの少し嫉妬したのだが、どうやらアルコールのせいというわけではないと気付いたのは最近のことだ。素面の夜でも彼はうなされ、もがき、それからぱたりと手を落とす。寝息。
「一条さん、何の夢見てんの?」
 彼が寝室に引っ込む前に、佐原は訊ねてみた。
「あ?」
「ゆめ」
知らん。そんなものいちいち覚えていない」
「えー、でもさ、夢って覚えてたほうが楽しくない?ネタになるし」
「何のだ」
「合コン」
「他人の夢の話ほど面白くないうえに興味もない話はないと思うんだがな、佐原くん」
「俺は一条さんが何の夢みてんのか興味あるんですけどー」
……
 一条は無表情のまま鼻を鳴らす。
 佐原は一条の無表情が好きだった。何故かというと、彼の感情がニュートラルになっている瞬間など千分の一秒たりともないくせに、それを装っているのが透けて見えるからだった。だから、厳密に言えば、佐原の好きなのは無表情ではない。無表情の振りをした何らかの顔が好きなのだ。
 今日は自分のことを気味悪がっているな、と思ったので、佐原は黙ったまま、彼が何か言葉を続けるのを待った。
 一条は佐原のつけていた誰も見ていないテレビを消し、
「期待に沿えず残念だが」と言う。
「本当に覚えていないんだ、佐原くん」
じゃあ今度、起こしていいですか?」
……
 一条は佐原を無表情で睨みつける。無表情の振りをして、本当に嫌がっている。

 本当は、佐原だって一条と同じで、他人の夢なんかにさほど興味はなかった。一条にあんなことを言ったのは、安眠妨害だと思ったからだ。転がり込んでおいて安眠もクソもないことはわかっていたが、現実問題毎晩起こされてはたまったものではない。
 今晩も呻き声が聞こえたので、喜び勇んだ佐原は踵をソファから床に落ろした。音を立てないように押したリビングのドアが、きいきいと鳴く。静かに。一条さんが起きてしまう。いや、起こしに行くんだけど。
 暗い、本当に鼻をつままれてもわからないくらい、暗い廊下を歩きながら、佐原は実家の父親を思い出した。父親は歯ぎしりがひどく、母親が毎朝不機嫌になっていたのだ。不機嫌になるより先に心配することがあるだろうと当時の佐原少年は考えたものだが、そういうことでもないんだな、と、やっと目の慣れてきた廊下の板を眺めながら思う。一条宅は間接照明も全て消されているが、物が何一つないので、歩くのに苦ではなかった。
 断続的に聞こえてくる呻き声が徐々に大きくなってきて、佐原は一歩毎に息が浅くなっていくのを感じた。興奮しているなとぼんやり思う。
……
 他人の夢なんかに興味はない。ないけれど、少しも押し殺せていない感情を、それでも無表情に隠そうとする一条が、何に対してあんなにうなされているのだろうとは、思う。あの目の裏で、彼は何を見ているのだろうとは思う。彼は何に感情を開放させられているのだろうとは思う。彼はどんな気持ちで呻きもがいているのだろうとは、
……
 佐原は呼吸を殺した。彼の呻きに合わせて少しずつ増えていく心拍数がうざったかった。静かに。今はまだ起こしてはならない。絶頂で起こしてやるのだ。彼の感情の絶頂で。覚えていないというのならば、その瞬間を焼き付けてやるのだ。
 目覚めた一条は、それをどうやって押し殺すのだろう。
 もしかしたら、無表情なんか作れなくなるかもしれない。もしかしたら、あの人が押し殺しているものが全部剥き出しになるかもしれない。
……
 口元が緩んだ。あと3歩。あと2歩。あといっ、
っ、」
 呻き声が止まる。
……
……
 一条の寝息はほとんど聞こえなかった。
はー?」
 佐原は声を漏らした。
 それからぼんやりと一条を見下ろす。
……
……
 一条は、起きているのではというくらい、安らかな顔で横たわっている。先ほどまでの声は佐原の幻聴だとでも言うような顔で横たわっている。今までの悪夢を押し殺すかのように、
……、」
 クソ、と、声に出すことは出来なかった。出来なかったが、奥歯をかみしめた。本気で悔しかったのは久しぶりだった。クソ。せめていびきでもかいていてくれれば、馬鹿にできたのに。
 彼が夢なんか覚えていないと言ったのは、本当なのかもしれなかった。本当に、彼は何も覚えていないのかもしれない。あんなに苦しんでいるくせに。あんなに抗っているくせに。彼はそれを、自分には見せてくれないのだ。
 佐原は裏切られた気分になった。それから敗北した気分になり、何故か少しイライラした。手持ち無沙汰だったので、そのまま、彼の鼻をつまむ。彼が上半身を起こすまで何秒かかるのだろうと思いながら、彼が枕元においた腕時計の秒針が進むのをぼんやりと聴き続ける。一生このままだったらいいのに。いや、それではつまらない。早く起きればいいのに。起きて、あの無表情で、俺を見てくれればいいのに。いや、そんなに、このひとに興味なんかないんだけど。
 どうでもいい感情に夢中になりすぎて、佐原は、秒針の動きをカウントするのを忘れてしまった。何秒経っていたとしても、どうせ一条は何も覚えていないのだろうとは、思った。