闇を這う

佐一 佐原と一条…
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年

 日の光を黄色く反射した何かが窓にぶつかった。イチョウは実を落としつつあるが、まだ湿っぽい緑色をしていたはずだ。不審に思って目を凝らすと、黄色い蝶々だった。こんな季節に蝶がいるのか。一条は目を細めて蝶を見て、気味が悪いと思い、それから、いやこの季節にも蝶がいるのかもしれないと思い直し、冷めかけているコーヒーをすすった。黄色の蝶はこの時期にも羽化するのか後で調べてみようと考えながら、もう片方で、多分調べないだろうな、とも考えた。カフェインが頭にじんわりしみていくような錯覚と一緒に、今日の午後からすべきこととしたいことのリストが頭を占めていく。仕事は快感だ、将来のビジョンが見えているから。
「店長」
 村上が後ろに立っていた。足音が大きすぎるのを注意したら、あまりにも静かに近寄ってくるようになったので、それはそれで気味が悪い。とはいえ注意しなおす程のことではないので放置している。この男は有能だし有用だ。放っておいてもそのうちに自分の望むとおりに行動してくれるだろう。
「何だ」
「会長がお見えです」
……
 有能な部下は放っておいてもそのうちに自分の望むとおりに行動してくれるだろうし、仕事は快感だ。例外はただひとつだ。コーヒーを飲み干す。俺の淹れたコーヒーはうまい、冷めても。
 四角く暑苦しい村上の顔が同情のような色を帯びていたので、少しだけ頭にくる。頭にくるが、それがかえって苛立っている気持ちを押さえつけた。だから笑顔で
「カップ、洗っておいてくれるか」
と言ったのに、この四角く暑苦しい顔の村上がよりいっそう同情の表情を浮かべるのは何故だ。腑に落ちない。腑に落ちないことばかりだ。黄色い蝶が頭を掠めた。

 半分体当たりするように自宅のドアを開けた。アルコールで脳みそが破裂する。吐かないと、今すぐに。いや、横になりたい。寝たい。あの糞じじいを殺したい。流しに置いてあったグラスをひっつかんで蛇口をひねった。麻痺した舌ではこのアパートの臭い水の味もわからず、がむしゃらに飲み続ける。2杯。3杯。
「あ、お帰んなさーい」
 能天気な声が脳をさらりと撫でた。4杯目の水道水を飲み干したらやっと吐き気が具体的に腹からせり上がってきたので、返事をしないでトイレに倒れこんだ。指を咽喉につっこむ。じじいの足が浸かっていた液体がそのまま出てくれば良いのに、出てくるのは消化されかけた食べ物と透明な胃液ばかりだ。思い出してもう一度吐く。一条はトイレットペーパーで鼻をかみながら、涙でにじむ視界で、吐瀉物を眺めた。
「だいじょーぶですか」
 全然心配していないような声が飛んでくるが、返事はしない。うずくまったまま手を伸ばしてコックをひねると、透明な水が渦を巻く。何事もなかったように吐瀉物が消えた。
 よろよろとリビングに入ると、金髪を短く刈った若い男がソファからこちらを振り返っていた。こいつのたった一つの褒めるべきところは、吐いている自分を見になど絶対に来ないところだ。佐原は飲んでいたのか、頬が少し赤い。それに理由もなく安堵して、一条はジャケットをぞんざいに折りまげ、ソファの背に引っかけた。
 佐原は今更「水いります?」と尋ねてきた。やっぱりこいつも酔っている。テーブルには、半分つぶされた安いビールの缶が何個か並んでいた。食べかけの焼き鳥のタレが冷えて固まっている。無性にそれがうまそうに見える。
いらん」
「うわ、声がらがら
 佐原がへらっと軽薄に笑う、その肉付きの薄い頬に爪を立ててつねってやろうかと思ったがやめた。代わりに残っていた焼き鳥に手を伸ばして口に入れた。安い味だ。冷えた鶏肉は力の限り咀嚼してもなかなか細かくならなかった。
「あっためればいいのに」
「冷えた鶏肉が好きなんだよ、佐原君、タバコくれないか」
「吸うなって言うのに、部屋で」
「俺の部屋だよ」
 受け取ったタバコは水道水と同じように味がしなかった。かすかな刺激だけを喉に感じる。煙を吸い込むと一瞬酔いが醒めたような錯覚に陥り、それからすぐ猛烈な酩酊感に襲われた。わかっていたのに、タバコを吸ったらこうなることは。後悔したが火は消さなかった。煙がひらひらと天井に向かって昇り、消える。昼間の蝶を思い出した。
「佐原君、君、虫に詳しい?」
「いや、全然」
 あ、そう。一条は空き缶をひとつ手元に寄せて、飲み口の中に吸殻を落とした。吸殻は黒い穴に落ちてじゅ、といった。それをしばらく眺める。黒い穴の中を眺めていると糞ジジイのことを思い出す。一条のボスは完全に常軌を逸脱している。しかしそれが自分の目指すところなのならば、自分も常軌を逸脱するしかないのだろうか。缶を握りつぶす。
「今日、蝶々がいたよ」
「へえ、秋なのに。それで?」
「それだけ」
「そうですか。ねえ一条さん、取らないんですか、ネクタイ」
「取るよ」
 そう返事をしながらも缶から左手を離さず、右手を上げもしない一条を、佐原はただ眺めている。
「一条さんって、仕事の話しないですよね」
「フリーターの君に仕事の話したって徒労だからだよ」
「同じ労働者じゃないですか。あ、やっぱり、人に言えない仕事してるからですか」
「違うよ」
 どちらも違う。いやどちらも合っている。佐原の目を見る。酔っ払いの目だった。おそらく自分の目も同じだろうと思った。なかなか焦点が合わない程酔っているのを悟られないようにじっと見つめてから、一条は、鼻で笑った。
「俺、働きたくないなあ」
「労働者じゃなかったのか」
「働かないでどかっと欲しいな!」
 そんなことを言っている奴で金を持っている奴を見たことが無いよ、と言おうとして、一条はやめた。面倒だった。面倒だったし、佐原はおそらくそんなことはどうでもいいのだろう。こいつはそこまで阿呆ではない。阿呆ではないくせに、底辺ぎりぎりのところを、ハイエナのように這い回っている。カジノに来る客の目と佐原の目の違いを、一条はまだうまく定義付けられない。もしかしたら一緒なのかもしれない。酔っていて良くわからない。
 ようやくネクタイをはずす気になって結び目にひとさし指を掛けたら、その指を佐原に掴まれ、手の甲の方に反らされた。痴戯じみた仕草にしては尋常ではない力でそらされたので、一条は空いている手で佐原を殴ろうとした。本気だったのだが、その手もあっさりと掴まれた。
「何すんだ」
「ね、一条さん、こんなに酔ってたら入るんじゃないんですかね?」
「何がだ、死ねっ
「やらせてよ」
「死ねっつってんだろ、ガキはクソして寝ろ!!」
「俺、愛の無いセックスがしたいお年頃なんすよ」
 一条は佐原の股間を蹴り飛ばした。半分も勃ってもいなかった。
「っっったあ!!」
「そのまま寝てろっ
 やっと離された手でネクタイを解きながら、のけぞる佐原に吐き捨てる。天井を仰ぐ彼の顔が笑っていたので、一条はなぜか安堵した。それから、こいつの褒められるところは、俺のことに首をつっこむ気が全然ないところだな、と、また思った。それだけが心地良いから、ストーカーみたいに追っかけてきて、果ては家まで転がり込んでいるこの男の存在を許せるのだ。そうして、常軌を逸脱した自分のバランスを取っている。いや、嘘だ。俺はもうとっくに常軌なんて逸脱しているから、佐原がいなくても十分やっていける。
 一条は自分の酔っ払った思考に半分驚き、半分恐怖しながら、そう訂正した。何でそんなことを考えてしまったのか、腑に落ちない。大量のアルコールとたったタバコ一本分のニコチンにしびれる頭のなかを、黄色い蝶が飛んだ。
「佐原君、マニキュア塗ってあげようか」
「は?」
「塗らせてくれたらやらせてあげるよ」
「何それそっちなんですか一条さんって
「そっちもどっちもないな。じゃあ、お休み」
 外したネクタイとさっき投げたジャケットを持って、一条はドアに向かった。電気を消したら一気に眠気が襲ってくる。暗闇でも黄色い蝶は光っている。
 だが、生まれる季節を間違えたあの蝶はすぐに死ぬだろう。