一条聖也の人生

映画2の一条聖也プレスリリースを見ただけで書いたやつ
映画設定に対する疑問と萌え(一条が鉄骨経験者=元劣悪債務者!?)から来た捏造
初出・無配コピー誌「一条聖也の人生」2011年

 一条聖也の人生はありふれている。ありふれすぎていて語るに値しない。値しないものを敢えて語ってみると、まず彼の生家は借金まみれだった。豪雪地帯の一条家に父親はおらず、母親は田舎の風俗店で働いていた。借金がそもそも何を発端に生まれたのか、一条少年は知らなかった。ただ、母親の生活を見る限りでは、それを元手に何か大きなことに着手しようとするためのものでも、この生活から逃げ出そうとするためのものでもなかった。一条少年が物心ついたときから、それは狭い家の中に当たり前に存在していた。母親はただ借金の返済のためだけに生きていた。そのように一条少年は考えていた。
 一条少年が義務教育を修了できたこと、それ以前に、母親が一条を殺したり放置したりしなかったという事実を鑑みるに、一条少年は、こういったありふれた話の登場人物としては、かなり幸福な部類に属していた。一条少年も、母親という存在に感謝しようとしたことがなかったわけではない。ただ、そのとき一条少年は思春期だった。
 一条少年は彼の母親を嫌悪した。ひたすら嫌悪した。彼女を楽にするためではなく、彼女の人生を否定し、見下し、蔑むために、自分は豊かにならなければならないと考え、まずは勉学に励んだ。田舎とはいえ、彼が通学できる範囲で一番の高校に特待生として入学できたことは、母親の誇りだったかもしれないし、単に将来への希望と金銭的余裕を一条家にもたらしただけかもしれない。どちらかは分からないが、彼女は一条少年が高校に通うことを止めようとはしなかった。こういったことからも、一条少年はかなり幸福な部類に属していたのだ。
 高校に入学した一条少年は勤勉だった。少なくとも、周囲の秀才達よりはずっと勤勉だった。よくある話だが、彼は、同じ年の少年と比べて、自分のほうがより世界を知っていると考えていた。努力家の彼にとって高校程度の授業は退屈だっただろうし、周りよりもほんの少しだけ成績の良い思春期の少年がそういったことを考えてしまうのも、仕方のないことだろう。
 一条少年はよく本を読んだ。本だけでなく文字を片端から読んだ。だから、出版物として世に出回るくらいの事象については、大概理解した気になっていた。それらの知識を元に自分の短い人生を振り返り、彼が一つ真理だと考えたのは、世の中は金だということだった。政治家や企業家はもとより、学者や、芸術家や、宗教家だって、金がなければ何にもならない。金だ。それも、日々の生活で目減りしていくような額ではなく、成し遂げたいことに全力で取り組んでもなお余りあるような、莫大な金額が必要だ。金を稼ぐためだけに働いて終わる人生など、何の意味があろうか。そんな人生は無駄だ。母親への嫌悪と共に、井の中の幼い蛙はそう考える。金だ。莫大な金だ。
 一条少年が、その漠然とした物質に対して憧れよりもはっきりとした野望を抱き始め、周囲の少年達に蔑まれていた頃、彼の母親は死んだ。母親は一条少年を代理して彼を保証人としており、取立屋はそれを根拠に、一条少年に対して強く返済を求めた。
 一条少年は未成年だったし、またこの負債を追認しない限り、彼が借金を返す義務はなかった。なかったのだが、彼はその選択をしなかった。母親が借金をしていた金貸しの元締め、そこからある条件を提示されたからだった。
 その条件を飲み、初めて故郷を離れた一条少年が赴いたのは、日本のどこにあるかすら分からない、地下施設の掘削場だった。周知のことかと思うが、兵藤会長はシェルターを掘っている。いつ起こるかしれない核戦争に備えて、私財として掘っている。
 一条少年はその作業員として過酷な労働に耐えた。労働後のビールの味も知らず、一時の快楽に身を任せる喜びも知らず、そのような些細なものに流されていく人間達を母親と重ねて侮蔑しながら、ひたすらに侮蔑しながら、機を待っていた。こんな下らない仕事で金を稼ぐ必要などないこと、むしろここは金を稼ぐ場所として成り立ってなどいないことを、一条少年はきちんと理解していた。だがそれでも、金が必要だ。それも、莫大な金額が。高卒の人間がせせこましく働いて得る金よりも、もっと莫大な金額が必要なのだ。
 ギャンブルがある、と元締めは言った。
 時期が来れば、作業員から参加者を募る。お前競馬やるか?やるわけねえか。まあでも、知ってるだろ。勝ったら、借金以上の金が、聖也君の手に入ることになる。どうだ。
 一条少年はそれを待っていた。もともと細かった体は伸びた身長のせいでさらに痩せ細ったように見え、その上に肉体労働による偏った筋肉がついていた。長くなった髪を括ると、嫌な光を発する黒い瞳が目立つようになった。埃で黒くなった唾を吐き、こちらに擦り寄ってくる汚らしい手に耐え、それでも待った。そしてようやくチャンスが訪れる。ギャンブルへの参加を志望した一条少年は、その歳の平均的な少年としては、莫大な金額の金を手にすることになった。但し、一千万分とは言え、紙ぺら一枚の引換券は何の重みもない。重要なのはこの後だった。
 棺のような入れ物に入れられた一条少年が文字通り運ばれてきたのは、海の近くのビルだった。ビルの間には鉄骨が数本渡してあった。あれを渡るんだ。お前らは馬だ。競い合ってこれを渡る。それだけだ。簡単だろう。
 一条少年は、ビルの上で久々に海の臭いを嗅いだ。体中に纏わりついてくるように粘度の高い潮風には、排気ガスの粒が混ざっていた。地下の風は不気味に湿っていたし、故郷の風は冷たすぎた。そのどちらとも異なる風にあおられながら、一条少年は目を細めて鉄骨を眺める。その下の暗闇と、その向こうからこちらをまなざす視線を眺める。帝愛に利益の伴わないチャンスが、その労働力に対して与えられるはずが無い。この競馬場では、自分が得るであろう金額の数倍、数十倍、数百倍の金が動いているのだろう。あの元締めも参加しているに違いなかった。
 恐怖はしていた。落ちたら死ぬのだ。だがそれよりももっと別の感情で、一条少年は興奮していた。空腹を抱え故郷の雪道を歩いているときにも、地下で穴を掘りながら生活しているときにも感じたことのなかった感情だった。
 これを渡れば一千万。一千万だ。こんなことで返せる金ですら手に入れられずに母親が人生を閉じたことや、自分にはそのチャンスが与えられていることや、それから、この一世一代の勝負を眺めて、彼らにとっての端金を得たり失ったり、それで一喜一憂している人間達がこの世に存在していること、それら馬鹿げた事実の全てが、一条少年の脳を焼いていた。焼き続けていた。どうしてこんなことが起こり得る?一条少年は興奮したまま足を踏み出す。
 狂気にあてられたたくさんの馬たちは、一条少年が背中を押し退けるまでもなく暗闇に吸い込まれていった。それを、ものが落ちるように眺める。現実感が伴っていなかった。いや、これが現実なのだ。吸い込まれていく悲鳴が、前を歩く人間のふるえる膝が、ビルの向こう側からの興奮した視線が、知らない海風が、馬鹿げた現実が、一条少年の脳を静かにかき回す。混沌とした星空の中で、それら全てに蹂躙されて、一条少年はたった一人だった。たった一人。
 一条少年は金を欲していた。しかし、豊かになることが最終目標ではなかった。もちろん、貧困などあり得ない。死ぬのはもっといけない。依然として一条少年は母親を否定したかった。だが、豊かさなどたかがしれていることも感じ始めていた。金を得ればもっと欲しくなる。この世の富をすべて手に入れたら、それで人生が終わるのか?そんなことはない。だからこのショーに観客がいるのだ。だからここで自分は命を張っているのだ。金を手にしたところで、何かを成し遂げたところで、行き着く先に何がある?何をしたところで、下らない、クズみたいな人間どもにまみれて、生きて行かなくてはならないではないか。何のために。何のために?
 たった一人で星の海を綱渡りしながら、一条少年は暗闇の底、見えない地面のさらに奥に、冷えたシェルターの壁を見た。
 一条少年は、いつ起きるか知れない核戦争に思いを馳せたことなどなかった。シェルターを欲する老人など気違いだとしか思わなかった。だが不意に考える。あの地下で、いつか、もがき苦しむクズどもを馬鹿にして笑うことができたら。愚かな母親の嬌声も、足掻く負債者のふるえる膝も、それら馬鹿どもを見て楽しむクズどもの視線もない。誰もいない。たった一人の勝者のための、深海のような、宇宙のような、
 暗闇に酔い、吸い込まれそうになった一条少年は、バランスを崩さないようそっと顔を上げた。まだだ。ここはまだ違う。ここを渡って、クズどもを押しのけ、登り詰めなければならない。そうしなければ手に入らない。
 先を見据えた一条少年は、自分一人だと思っていた視界の中に、汗だくの背中を見る。ふるえる膝の人間は、まだ一条少年の前を歩いている。その背に手を伸ばす。一条少年と同じように、異様な状況に興奮している一人の人間の体温が、汗で濡れた掌を温める。
 一人にしてくれ。
 一条少年は、温かい背中をそっと押した。
 ふるえる膝は崩れ落ち、鉄骨とぶつかって放電した。肉の焦げる臭いと悲鳴と共に、彼は星の海の中に吸い込まれていく。
 母さん。俺はあんたを軽蔑する。こんなに簡単なことで人生を塗り換えられるのに、あんたはそれをしなかった。しようともしなかった。そんな人間がいるから、この馬鹿げたショーが成り立つ。そんな立場に甘んじる馬鹿がいるから、より多くの馬鹿が生まれる。母さん。あんたのような存在は、罪悪だ。
 ガラスの階段に足をかけながら、一条少年は、やはり自分の考えは正しかったのだとぼんやり思った。豪雨に遭遇した後のように汗だくの体が、脳と反比例して急速に冷えた。自分はそのせいでふるえているのか、それとももっと異なる理由によるものなのか、一条少年にはわからない。わからないが、一条少年は、何かを理解しかけた気になっていた。
 がちがちと歯を鳴らしながら、一条少年は拍手喝采を浴びる。そして、彼の手にしていた引換券の持つ価値が、「惜しくも」返済額に届かなかったことを知る。残念だったね、かわいそうだね、でも、次もがんばってね。
 がんばってね。
 は、は、は、は、は。

 その後、一条聖也が帝愛への入社を志したのは当然のことと言えよう。彼は兵藤会長を憎んでいたが、彼ほど兵藤会長のシェルター思想に理解を示す人間はいなかった。会長の息子でさえさしたる興味を示さないそれに、一条聖也は異様なまでの執着を見せていた。彼が本当にその思想を理解していたかどうかはともかく、彼はそのために働いていた。全く、偏執狂じみた働き振りだった。
 端から見れば滑稽以外の何者でもない。会長と一条聖也の間には天と地ほどの差がある。勤勉な彼がいくら努力し、いくら大金を手にしたところで、結局のところ、それは王である会長の手元に集まる資金の一部に過ぎないのだ。あの地位の人間に必要なのは、金や努力や勤勉さなどではない。断じて違う。そんなものは、後から何かを評価したがるくせに、見えない力を説明できない愚かな人間が、別の愚かな人間の為に言い換えた、飾りに過ぎない。
 そのことに、聡明な彼が気づいていたのかどうかはわからない。わからないが、生を受けたときから借金まみれだった一条聖也は、裏カジノの店長という地位まで到達する。そして7月、伊藤カイジに出会う。
 伊藤カイジはおそらく、一条聖也が最も蔑む人種であっただろう。母親以上に蔑み、忌み嫌い、そして馬鹿にしていたに違いない。だがそれゆえに、彼は落ちた。最も蔑んでいた人種、罪悪とまで言った人種によって、一条聖也は彼の望んだ地下へ逆戻りだ。
 その後の一条聖也の人生こそ、語るに値しない。だが、彼は勤勉だし、努力家だし、野望も持っている。いつか必ず、地下での安寧な生活を手に入れられることだろう。それが彼の幸せかどうかは、それこそ他人が語るに値しないことだ。