もしもピアノが弾けたなら

13赤平・初出 同人誌(合同)「幸せな男」2009年

 捻挫した。
 幸雄はいつもの三倍の時間をかけて家まで戻ってきた。車でも拾えと安岡は言ったが、そんな金はなかった。今夜稼いだ金の大半は、その安岡がマージンとして持って行ってしまったからだ。今更だがあの人は鬼だ。左の足首をかばいながら、妙なリズムで階段を登る。たった二階分の道のりがえらく遠く感じる。いつもは使っていないのであろう筋肉が悲鳴を上げているのを聞きながら、やっとのことで部屋の前にたどり着いた。冬だというのに汗をかいていることにうんざりしながら、錆にきしむドアノブをひねる。うすっぺらい安普請のドアが重く感じるが、これは、幸雄の捻挫のせいではない。
 ドアの向こうの暗闇で、子供の白い頭がすうと動いた。
「お帰り、平山さん」
 幸雄は何も言わずに靴を脱ごうとしたが、無意識に捻挫している左足で立ってしまい、悲鳴を上げた。靴すら脱げないのか。滅多に怪我などしない幸雄は舌打ちをした。舌打ちも滅多にしないため、これまた不恰好な音だった。何だか自分が嫌になりながら、仕方なく腰を下ろし、大事なものでも扱うような手つきでそおっと足を皮靴から引っ張りだしていると、首筋に体温を感じてぎょっとした。近寄ってきた子供が後ろから幸雄の手元をのぞき込んでいるのだった。「どうしたの」
捻挫した」
「ドジだね」
「うるせえ」
 彼を押し退けて立ち上がろうとして、幸雄は再びしゃがみ込んだ。声にならない悲鳴を上げる。クソ、なんでさっきから。ああ、俺、左足が軸足なのかな。知らなかった。
慣れてないんだ」
「悪かったな」
「妙な仕事してるくせに」
「俺は品行方正なんだよ」
 お前と違って、と付け加えると、子供はクククと笑う。自分は別に面白いことを言ったつもりはない。幸雄は憮然とした。
 先々週の水曜あたりから、幸雄の家には闖入者がいる。客ではない。知り合いですらない。座敷わらしかもしれない。いつも何をしているのか知らないが、この座敷わらしはちょくちょく怪我やら返り血やらと一緒に帰ってくる。はじめはぎょっとしたが、その頻度があまりにも多いのと、説教をしてやる権利も義理もないと思ったので、幸雄は子供を放置している。彼は彼で、どんな怪我をしていてもけろっとした顔をしているので、もしかしたら本当に妖怪なのかもしれない。なんて、くだらないことはどうでもいいのだ。
 湿布を探そうとして、そんなものを買った覚えはとんとないことに気づいた。がっくりしている視界の端に雑巾がうつり、あれでもいいだろうかとぼんやり考える。左足首は幸雄に恨みでもあるかのように、どくどくと脈打って存在を主張した。
くっそー
なんだってそんな怪我」
俺は悪くないぞ」
 言い訳から始めるのは幸雄の悪い癖だ。それをやめないととてもじゃないが百戦錬磨の勝負師には見えないと安岡に言われ、理由はともかくそんなことを注意してくるのは郷里の母親以来だったので、幸雄はちょっと感動すら覚え、素直にこの悪癖を直そうとしていた。が、一向に言い訳は引っ込みそうにない。幸雄は仕方なく麻雀を打っている時は極力喋らないことにした。幸雄が成りすまそうとしているアカギとやらはそれほど無口という訳でもなかったらしいが、安岡さんにとって幸雄の素よりはましだということになったらしい。ついでに表情も隠しちまえ、というわけで、最近の幸雄は、サングラスをかけた、無口でポーカーフェイスのミステリアスな青年として麻雀を打っている。安岡の語るアカギ像とはなんとなく違う気もしたが、仕掛け人の安岡がこれで良いと言うのなら良いのだろう。
 ただしそんな青年像は幸雄の素とも大分かけ離れており、そんな外での無理がたたって、家に帰ると悪癖の飛び出ること飛び出ること。座敷わらしだろうがなんだろうが、話し相手がいると拍車がかかってしまうのかもしれない。つまり何が言いたいのかというと、俺の悪い癖が直らないのはこの子供が悪いのだ。
「俺の勝ち方が気にくわねえだのなんだのいう奴らがいてよ、いちゃもんつけてきたからのしたんだ。のしはしたんだが、最後に誰かの手首を踏んづけて」
「転んだんだ」
そう」
「それ、自分のせいじゃない」
 もっともだ。幸雄は笑った。ははは、はあ。この笑い方も似ていないのだという。幸雄のため息の隣では子供がクククと笑っている。爆笑とは行かないまでもせめてもうちょっと呼気を外に出してみろ、子供なんだから、と思うが、そんな愛想笑いを子供にされたら余計に傷つくかもしれない。
 雑巾では気分が悪いので濡らした手ぬぐいを足に巻く。水気を切りすぎた木綿の布を冷たく感じたのは始めの一瞬だけで、あとは余計に熱気をこもらせているような気がする。次の仕事は明後日だったか、それまでには痛みがひいているといいのだが。あの不恰好な歩き方をしていたら、安岡はちょっとくらい我慢しろ、とか何とか言って、普通の歩き方を強要するだろう。鬼のような相棒だが仕方ない。幸雄の存在意義は今のところアカギとやらに成りすますことなのだから、アカギは捻挫して足を引きずるような人間じゃないといわれたら、逆らう権利がないのである。足くらい引きずってくれ。頼む。幸雄はまだ見ぬアカギに内心で懇願した。
 子供は未だ成長過程にある棒のような足でふらふらと歩き、窓際に寝そべった。右腕を枕代わりにする仕草が妙に子供らしく、子供なのに奇妙だった。子供は寝そべってすぐに寝息を立てた。幸雄が帰ってくる前も寝ていたのだろう。こいつは一体何をしているのか、何者なのか、幸雄はこの二週間ずっと疑問に思っていたが、聞いたら最後、闖入者系の妖怪は襲ってきたり出て行ったりするのが常套だ。出て行ってくれるのなら構わないが、怪我をしてけろっとしている子供に襲われたら幸雄はひとたまりもないだろう。喧嘩を覚えたのは最近なのだ。おお、恐ろしい。
 恐ろしくもなんともない、平和な寝顔を見て幸雄は身震いをする。子供は、少年と呼ぶには得体の知れない獰猛さがあった。虫を殺して喜ぶのではなく、殺しても何とも思わないような獰猛さだ。鼻筋の通った整った顔や、柔らかな頬を覆う真っ白な肌は、全部その獰猛さを引き立てるお膳立てのように見えた。人間なのかな、と思うのは、片頬に畳の跡がついているところだけだ。
 ああ、またくだらないことを考えている。幸雄はあくびをした。明け方になってしまうと、明るくって眠れなくなる。神経質なのだ。早く寝ようと思い、幸雄は服を脱ぎ捨てた。布団を敷きながらまたあくびが出た。息の止まっている瞬間、左足の血液が、腫れ上がった箇所にどくんどくんと溜まっていくのを感じた。
 わかった、わかったから。今後はもうちょっと大事に扱うよ。
 眠りに落ちる瞬間、子供が身震いをするのが見えた。寒いのだろう。子供はまだ半袖のシャツを着ている。妖怪のくせに仕方ねえなあ、と思い、幸雄は掛け布団を九十度回転させ、半分を子供に掛けてやった。足が寒いが、捻挫したところが冷えて丁度良いだろう。

 夢を見た。幸雄はすっかりアカギになっていた。アカギになってはいたものの、髪も立てずサングラスもせず、ヤクザ相手にべらべら喋りながら対局していた。安岡はすぐ後ろにいるくせに今後の代打ちで稼げる金を勘定していた。ヤクザを含めみんな上機嫌だった。いいじゃねえか、平山。お前、強いよ。本物のアカギとはちと違うが。そりゃあ違うよ安岡さん。言い訳もするし、怪我したら痛いんだ。だがあんたがそんなに嬉しそうだと、俺は正体を明かせないよ。
「いいじゃねえか。俺は知ってるぞ」
 そうか、あんたが知ってれば、いいかな。そのうちアカギが現れて、俺のこと見て笑うんじゃねえか。笑うかもな。ははは、はあ。
 このまま打っていれば、いつか幸雄は平山幸雄として名を馳せることができるのだろうか。
 必要ないだろ、そんなもん。
 ははは、はあ。まあいいか。あいつも知ってるんだ。俺が平山だってこと。ああ、なんか、足がいてえ。
 
 幸雄はくしゃみをした。とてつもなく寒かった。妙な親切心を出したのがいけなかった。布団をたぐり寄せようと引っ張ったが、子供が頑としてそれを許そうとしない。幸雄は諦めて体を丸めた。せめて子供が湯たんぽ代わりに布団に入ってくればいいのだが。生まれた家の寒い夜、勝手にもぐりこんでくる猫を思った。
 安岡にあんなことを言ったことはない。あんなことを言われたこともない。悲しいかな、そんな余裕はなかった。やくざの家に出入りしたこともなければあんな大金を手にしたこともないのだ。雇われアカギの幸雄はただ必死だった。勝たなければ笑われる。薄っぺらいプライドだ。手段が目的にすり替わっていたが、安岡はそんなことに興味がないようだし、幸雄はそれに目をつぶっていた。誰も幸雄を知らない東京で、幸雄を知っているのは、安岡と、この子供だけかもしれない。侘しいなあ。おい。
おい、」
 幸雄は半身を起こした。間違って左足に体重をかけてしまい一瞬動きを止めたが、それほど痛みを感じなかった。寝ぼけているからだろう。子供を揺すると、いかにも子供らしい、熱い体温が掌をじんわりと暖めた。
「おい、布団入れ、寒いから」
……
 薄目を開けた子供は焦点の合わない目でうっすらと笑った。ちなみに寒いのは俺だからな。そう言うと、子供は何か言い返してきた。かすれ声でよくわからなかった。

 再び目を覚ますと、もう夕方になっていた。平山幸雄の人生はこうやって消費されていくのだろうか。ずいぶん簡単な人生だ。いつか正体をばらしてやる。勝負中にな。
 寝起きの頭で憤っていると、幸雄より先に起きていた子供が、立て付けの悪い木の枠の窓を無理やり開けてタバコを吸っていた。どうしようもない不良だ。ずぶ濡れで勝負に乱入してきてやくざ相手に大立ち回りを演じたアカギってやつも、こんな奴だったのかもしれない。
今日は何曜だっけ」
さあ
 まあいいか。幸雄は立ち上がろうとし、また左足で踏ん張ってしまった。「あああ」
ドジだなあ」
「うるせえ」
 子供はクククと笑ってタバコを消すと、崩れ落ちた幸雄に手を貸してくれた。「大事にしなよ。治らなくなる、癖になると」
 お前でもそんなこと言うのか、と、幸雄は口には出さなかった。そんなこともあるだろう。幸雄のような間抜けがアカギをやっているんだから、妖怪が実家の猫のようにぬくかったり、たまにはやさしいってことも。
幸雄さん、腹減った」
 幸雄はため息をついた。成長期の子供は、当然幸雄が飯を用意してくれるものという目でこっちを見ていた。幸雄はまたしても実家の猫を思い出した。俺は奴隷だ。
 足首に巻いていた手ぬぐいはどこかへ行ってしまっていた。

 捻挫が治ったのが先か、子供がいなくなったのが先か、よく思い出せない。来た時と同じように子供が消えて、幸雄としてのはけ口が安岡しか無くなったころ、幸雄はアカギとして裏社会に名を馳せ始めていた。幸雄はもう妙なことでは憤りを感じなくなっていた。手段は目的に、目的は日常に変わっていた。奇妙な人生は癖になって治らなくなっていたのだ。
 自分に薄っぺらいプライドがあったことを思い出したのは、そのプライドがせんべいのように簡単に叩き割られたときだ。叩き割ったのはあの子供がそのまま大人になったような、獰猛な目をした赤木しげる本人だった。