扉越しの会話はもう何度目だっただろうか。ベルナデッタは拗ね始めるとすぐに衣装用の納戸に閉じ篭る。フェリクスはいつも強引に扉を開けるべきか悩んで、こうして扉越しに声を掛けるのが常だった。部屋に鍵を掛けて閉じ篭るよりは幾分ましというものだ。
面倒事を避けるならばベルナデッタを野放しにすることも一手だろう。だが巷で「穴熊」などと呼ばれるだけあって、此奴は本当に一度決めたら梃子でも動かない。
「いい加減出てきたらどうだ」
「嫌です」
フェリクスが帝都での仕事を終えて帰宅してみれば、いつもは玄関口の間で出迎えるベルナデッタがいなかった。使用人によれば、先程まで滞りなく領主の仕事をしていたが、フェリクスが帰宅したと聞きつけてベルナデッタは途端に仕事を放り出して何処かに隠れたという。
邸宅の中で探すところは幾らでもありながら、ベルナデッタはいつもの場所であるここにいた。探してくれと言わんばかりの行動に、フェリクスは面倒なことになったと溜息を吐く。
「……フェリクスさんが約束してくれるなら、開けてもいいですけど」
「まだ言うか。修行はやめたと何度言えば」
「それはわかってますううう! ベルが怒ってるのはそこじゃありませんよ!」
「では何だ」
「自分の胸に手を当ててみたらどうです? ベルは教えてあげません」
胸に手をを当てなくとも此奴が拗ねる理由に一つだけ目星が付いていた。数週間前にベルナデッタを眠らせたまま黙って出立したことだ。
前夜に無理をさせるほど抱き潰したせいで、ベルナデッタは疲れ切っていたのか目を覚まさなかった。このまま休ませておこうと放っていたことが裏目に出たようだ。
「子どもじみた真似をするな」
「誰がさせてるかわかって言ってますよね!?」
勿論フェリクスだとベルナデッタは言いたいのだろう。
「俺が悪かった。……これでいいか」
「不合格ですう〜! ただ謝ればいいってものじゃありませんよ! 理由もきちんと教えてください」
この件においてこんなに面倒な女だったことを、フェリクスは失念していたかもしれない。ここ最近の見送りは騒ぐことなく大人しくしていたからだ。
見送る時の顔は「行くな」と顔に書いてあり耐える姿は子犬か何かのようで、らしくもなく名残惜しさすら感じていた。あの日は眠るベルナデッタのあどけない顔がその顔になるのかと憂鬱さも相まった。
何処まで告げるか迷って、フェリクスは考え込みながら口を開く。
「……見送りをさせなくて、悪かった」
「及第点」
「ならもういいだろう。出てこい」
「駄目です、まだ約束してません」
ベルナデッタが何を望むか、フェリクスにも段々と見えてきた。
「次はベルが起きてる時に出立してください。叩き起したっていいですから、黙って出て行かないで……」
震える声は扉の向こう側で泣かぬと堪えているからだ。
以前、修行に出ると伝えた時の様相を思い返す。戦後処理による戦闘が落ち着いて、鈍った剣筋を取り戻すために数節程不在にするだけのつもりだった。二度と帰って来ないと思われて、大騒ぎして喧嘩までした。あの時のベルナデッタはここでかつてないほどに泣いていた。修行にも旅にも出たりもしないと約束をして今に至る。
今泣かないようにしているのは、そちらの約束をベルナデッタが守るためのものだ。あの約束には「フェリクスが止むを得ず傍にいない日があっても、ベルナデッタはできるだけ泣かないこと」が条件に含まれている。
夫婦が結ぶ約束がひとつふたつ増えたところでフェリクスに不利なことはそれほどない。ここで顔を合わせる機会を失うくらいならば、ベルナデッタの見送りの顔を見るくらい、耐えてやってもいいだろう。
「約束する。約束してやるから出てこい。久しく会っていない。そろそろ、お前の顔が……見たい」
収納扉が開いて、フェリクスはしなやかな重りを受け止めた。肩に顔を埋めたベルナデッタはぐずぐすと泣いている。
「あ、あたしだってフェリクスさんの顔、見たいですよおおお!! こんなぐちゃぐちゃな顔じゃなくて、笑顔でおかえりなさいって、言いたかったんですからね……っ!!!!」
あたしのほうが約束破っちゃったし、とくぐもった声でベルナデッタは此方に顔を呈することなくまだ泣いている。
「お前に約束を破らせたのは俺だ。破ったところで罰を決めてなかったな。何も問題はない」
「……じゃあ罰則作らなくちゃですね」
ようやく気が済んだのか、笑うようになった。これでいい。己は数週間この顔が見たかったのかとフェリクスは今更実感が湧いた。
「約束を破ったら、破ったその人は一日相手を甘やかしてあげる、とか、どうです?」
「それは罰則になるのか」
「ぬぬ?」
「今日は俺を一日甘やかしてくれるんだろう」
わざとベルナデッタの首元に顔を埋めて強請る。数週間、此奴の代わりに国政に携わってやったのだ。これくらい許されてもいいはずだ。
「はっ? 今日はお咎めなしなのでは!?」
「いつから適用するかまでは決めていない」
「わ、わ、フェリクスさんがあたしに甘えてきてる!? 唐突すぎますよお、フェリクスさん!!」
戦いとて手段を選ばなかった。同じことだ。
どうしてこうなったのだか。ベルナデッタと出会ってからの己の変化の大きさを思い知る。
「その罰則、俺にとって利が大きいことに気が付いていないのか」
「えっ、ああっ!?」
「俺が約束を破るに理由としては充分だ」
「えっ、約束破って甘やかしてくれるの!? じゃなくてっ、駄目です!! 駄目です、約束破っちゃ駄目です! あたしから離れちゃ、駄目ですからね!!」
修行に行かない、黙って出立しない、ベルナデッタは泣かぬよう努め、罰則は一日相手を甘やかす。
泣きべそを換算していないことを考えれば、この約束はベルナデッタのほうが遥かに利が大きい。次いでフェリクスにとっては破ってしまったほうが己の欲求は全て叶う。約束として何処か歪で破綻している。
なのにこの約束を守り切る自信もやる気も失っていない。
修行は何処ででもできる。出立の見送りも叶えてやってもいい。泣きべそくらいなら見なかったことにしてやる。
罰則がなくとも此奴が望めば何でも叶えてやりそうで、己の甘さは我ながら滑稽なものだ。
「ふ、ふふ、約束は守ってやる。ファーガスの騎士は約束を違えない」
「笑ってそれを言うのは反則すぎですう……」
とうに騎士でもない。だというのに己に染み付いて離れない性分のせいで、どうしたって約束は果たされる。
丁度いい機会だ。理由がなければ此方は素直に甘えられる性格でもない。今後この罰則をフェリクスが受けることはない。ならば存分に活用してやろう。
「甘やかして、くれるんだろう」
「んんー? 何をお望みですか? 旦那様?」
「そうだな、まずは……」
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