高慢に高鳴る足音よりも、恍惚と匂い立つ芳香よりも、何より先ず、男の意識がこちらに向いたことを敏感に感じた気配に震える。喜びだ。
「おい。犬。」
男の大きな一歩分をおいて、その場の頭上から横柄に呼び付ける男は、そこをそれ以降動かない。それ以上は無駄であるとでも言うように。
しかしそれに応えるために体を起こす。
「どうした?」
従順に。触れることすら許可の要る相手を、出来るだけ優しく諌めるように。
「簡単なこと、ちょっとしたお遣いです。」
「おれが?」
「もう一匹の方でも構いません。一緒でしょう。」
駄犬を見下すように肩を竦めるポーズすら面倒がるように男は吐き捨てた。逆にこちらが宥めるように竦めて見せ、素早く姿勢を正す。
「そうだな。直ぐに行く。」
本人が言ったように、この男はおれ達を同一のものとして扱う。同じものが二つある、という認識に似ていると思う。だからいつも、どちらでも良い、と言う。確かに言い付けられる「お遣い」に求められる能力に差異はない。
本当には、見分けが付く多少の特色を持つおれ達だが、おれ達を纏めて面倒見てくれてるこの男はこれなので、本当に興味も関心も無いらしい。
面倒を見て貰っていて、面倒を掛けて居るおれ達からすれば、それに文句はない。言える立場でもないが、実際不満はない。
寧ろ変に区別されることでおれ達の用途を変えられては、おれ達の間で差異が生まれる。それは互いに格差を生み、それこそ不満に繋がる。あるいは、そうやって外部の手によって引き離されることによる物理的な隔離も、おれ達は良しとしない。
そういう事情のあるおれ達は、なので主人であるこの男のご機嫌取りが勤めだ。褒美とも言う。
「感染は丁度散歩に出ている。」
そう言った、おれ達の内のおれの片割れは、主人に花を摘むのだと張り切って尾を振っていた。男が素直に受け取ってくれるかは知れぬが。
男とは反対に、その言い付けに素直に従ったつもりのおれは、しかしその男に苛立たしげに首を傾げられた。
「感染はおまえでしょう?」
思わず相手の顔をまじまじと見詰める。
しかし男はそれさえ鬱陶しそうにしたので、その短い堪忍袋の緒がちょっきりと切れてしまう前に、急いでお遣いの内容を聞き出す。
「……その通りだ。寄生は今出ている。おまえの遣いは、このおれ、感染が赴こう。」
そう、見分けの付かない程ではないおれ達、差別を厭うおれ達、区別に頓着のない主人、見分けの付いていない筈のない男。
あゝ、この男に従うことの、なんと甘美なことか。
そしてこの美食は、おれ達のどちらか片方しか受け取れないということでもない。何故ならこの主人がおれ達の区別に無関心だからだ。だから幸福も差別など生まれよう筈もなく、おれ達のそのどちらにも与えられる。
あゝ、褒美とは、こうでなくては。おれ達が幾らこの平等さと対等さに価値を見出したところで、この主人にとってはそうではない。
おれ達のことを、同じものが二つあると思っているし、同じものを二匹飼っているのは、単に便利だからだ。どちらか片方に言い付けたことは、もう片方にも通用する。男は自分の身の回りに飽いているようだったから、代わりに男の世話を焼く手は多い方が良かったのだろうと思う。
男は価値観が違う。おそらく、二匹あるものを、せっかくだから、という、多くの誰かの身勝手な価値観による、一匹ずつ別の主人が飼うという考えと同じように、男は自分が同じものを二匹とも自分ひとりが飼っていることに疑問がない。男は身勝手だったから。男のその価値観こそ甘美として、おれ達はその身勝手さに付いて来た。
軽くこうべを垂れただけで、首輪は容易く鳴き声を上げる。無関心な男の視線を感じながら、それを浴びる喜びに浸りつつ、さあ、遣いの用事を聞こうじゃないか。
「花瓶を買って来てください。」
意外なお遣いだった。上げた顔にそれが現れていたのか、主人が無感動に続きを語る。
「花を摘まれて持って来られたところで、この儘ではワインの空き瓶に挿すことになります。」
驚いた。
「寄生は出掛ける内容をおまえに伝えたのか?」
「いいえ。」
電話が、と男が言った。誰か親切な、花園の通い人が主人に連絡を入れたのだろう。
「空き瓶では情緒がありません。」
気怠げな主人は、言うだけ言ったとばかりに、さっさとそっぽを向いて引っ込んでしまった。
なるほど。
寄生が花の保たせ方を教わっていなければ、主人に相談する必要があると算段を付ける。おれ達のどちらが先に帰って来られるか分からないが、どちらが先に帰っても、それは通用することだ。
今から花の世話が楽しみだ。それは新しい褒美だから。
花瓶を買いに歩き出せばお遣いに張り切った首輪がちゃりと鳴いた。自分の尾が揺れているかは、見なくとも分かる。
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