カウンセリングに向かっていた。街中の地下を駆けてゆく地下鉄の中、カウンセリングルームへ続く線路は車内からは見えないが、連結した車内がその上を伝っていることは知識が知っていたから、勝手に実感を覚えていた。
車内にはおれとマネキンの他には誰もいなかった。だから地下鉄は避けていたのに。残念だ。どうせ閉じ込められる。
いや、自分には知覚出来ないだけで、実際には何人も乗客がいるのかもしれない。子供の笑い声が聞こえる。悪魔の笑い声も。
規則的に揺れる列車の音は、頭の中を整理するのに丁度良いらしい。過去の記憶が目の前に浮かび上がって来るようだ。
おれは、孤児院に入っても直ぐに引き取り手が出来た子供だった。新しく両親となった男女は、家の中ではおれを殴った。
両親に対する通常の印象を、おれは記憶として持ち合わせていなかった。だから子供を殴る両親の異常さに気付かなかった。分かるのは痛みだった。だが殴られるのは徹底して服で隠れる箇所だったので、他の誰も気付かなかった。
ある日父親に遊園地に連れて行かれた。両親は外ではどちらも殴らない。外での彼らは良い両親としか見えなかったと考えられる。だから出来れば家にいるよりも外にいたかった。しかし外出を家の中でねだったところで捩じ伏せられるだけで、おれにその選択肢はない。
連れられた遊園地は決して大きいものではなく、いわゆる移動遊園地というもので、期間限定の小さなイベントだった。それでもおそらく子供が楽しめる充分な催し物であり、列車を模した遊具もあった。参加者は催事の規模に対し、その割には多かったように思う。父親に連れられた日は催事期間の中頃だったが、それでも賑わいは色褪せてはいなかった。
そこでおれは誘拐された。無理矢理に父親と引き剥がされ、父親は倒れ、その姿を最後におれは外の光から遠去けられた。父親の罵声と悲鳴は遊園地のけたたましい音と軽快な歓声に掻き消された。おれの手を引く大きな手の相手が歌うから、余計に父親の騒ぎは覆い隠されたように思う。
おれはどこか知らない地下室に閉じ込められた。おれを暗い地下に引き摺って行ったのは、見上げても追い付かないくらい背の高い、細身の仮面の男だった。男はぎらぎらと光る刃物のようなものを持っていたので、その左手で血を流された父親がどうなったのか、分からない。
それからおれは地下で過ごした。美味しいおやつだとか、楽しいおもちゃだとか、暴力以外の色々を与えられたけど、そこでおれは殴られなくてもそこに恐怖は生まれることを知った。列車を模したおもちゃはこちらに気を遣うことなく軽快な音を鳴らしていた。
おれは男に、贈り物は要らないから帰してほしいおまえのことがとても怖ろしいから、と言った。けれど男はおれのことをおれの両親から救い出したのだと言い、おれは男を怖れるべきではないと言った。そうなのかもしれない。男は言った、愉快な仮面を子供はみんな大好きでしょう、と。
男は常に笑っていた。おれはその声を今でも忘れられない。悪魔が笑ったらこんな声なのかと思う。
男が笑った時、おれも笑ってみた。殴って来る両親のもとから連れ出されて以来変化のない地下の現状が、何か変わるかと思って。おれが笑うと、男は今度は歌い出した。おれはやはり、その声が忘れられない。
そうして地下で暮らしてどれ程経っただろう。ある日知らない金髪の女の人が現れて、自分は探偵でおれを助けに来たと言った。おれは彼女に連れられて地下を出た。仮面の男がどうなったのか分からない。
おれを殴る両親はおろか、おれを助けに来てくれた女の人の顔も直ぐに忘れてしまったのに、男の仮面、男の声、男の歌を忘れることは、ひとときもなかった。
おれはまた、おれを殴る引き取り手のもとに戻って来た。戻った家の中にいたのは母親だけで父親はいなかった。家に戻っても、母親は殴って来なかった。
しかし、おれを誘拐していた男のことが忘れられないおれは、暗闇の中に男を見た。
母親に仮面の悪魔がいることを伝えても通じることはなかった。それは、男に連れられる前の家でのことと同じで、おれに選択肢はなかった。悪魔が見えると言うと母親は、おれを頭のおかしい子供だとして、家の地下室に閉じ込めた。
暗闇を追うことにこそ、もしかしたらおれの求めるものはあるのかもしれない。地下で明かりを点けると、流石に母親は殴って来る。以前と比べて殴らなくなったとは言え、全くなくなったということはない。
暫く時間が経つと地下室から出されることは男の時と異なったが、家の外では殴られないという規則性をなぞるようなものであって、おれは以前と変わらないと思った。
母親は殴らなかったが、恐怖が拭われることはなかった。母親が家の中に存在する全ての動きが、何か得体の知れない怪物のように感じた。悪魔の仕草とはこんなものかと思った。
また悪魔を見た。あの長細い影を。しかしそれを母親に言っては、おれはまた地下室に閉じ込められることになるだろう。当時には、寧ろ母親を避けるようになっていた。
だからその時おれは、母親がおれの部屋に近付いたら直ぐに気付けるよう罠を張った。ロープとベルを使った簡単なものだ。自分の部屋を与えられてはいたが、おれはそこを安全だと思えていなかった。おれの部屋は二階にあったから、階段を登ったところに取り付けることにした。
仮面の男はどこにいるのだろう。定番なベッドの下、かもしれない。しかしそうだとしても、爪痕だけ遺してどうせ直ぐに消えてしまうだろう、おまえは。けれど逆とも言える、暗所さえあれば、あいつは何処ででも立ち上がる。
罠が作動した。りんりんとけたたましい音が鳴った。しかしそれ以上にどんどんと何かが落ちる音と金切り声がそれを掻き消した。
母親は死んだ。
仮面の男に血を流された父親のことを思い出した。彼はたぶん死んだのだ。
おれは母親の体を鍵付きのおもちゃ箱にしまった。それはそれで大きな音を立ててしまった。両親はおれに大きな宝箱のような収納ケースを与えた。おれはそこに元々しまっていたおもちゃを取り出した。赤と青の布でつぎはぎされたくまのぬいぐるみだ。空っぽの箱を地下室に移動させ、そこへ運び込んだ母親を代わりに中に入れた。大きくて重たいおもちゃみたいだった。
地下室へ続く階段を支える柱は、くぐると景色が変わる。そこで暮らしていたおれが言うんだから間違いない。暗所にはどうせマネキンしかいない。だからきっとそうそう見付からないだろう。地下は見付かりにくいんだ。おれは暗闇の中にずっといたんだから。
赤い太陽が白い騎士の道を照らす。暗闇を追うことでこそ彼は抜け道を見付けることが出来るだろう。青いドレスの娘が彼に囁いた。騎士は花の草原を解き放つ方法を見出した。彼は暗闇に戻る必要があった。黒い魔女を倒すのだ。だからそうした。すると太陽は黄色い光を輝かせ、緑の大地を隅々まで暗闇から救い出した。仮面の男が絵を描きながらおれに語り聞かせたものだ。
母親は失踪したとして、おれはまた孤児院に送られた。その後おれの引き取り手が再び現れることはなかったので、期限が来て孤児院を一人で出た。
そんな記憶だ。
列車の奥の座席に、金髪のカウンセラーが横たわっていた。死んでいた。
しかし降りる駅に列車が停まったので、おれは座席を後にした。
カウンセリングルームに着いた。
カウンセリングを受ける。
カウンセラーは金髪を揺らしておれに問うた。かつての自分のおもちゃ箱の鍵を未だ持っているか?おれはその問いに答えた。さあな、けれどおもちゃ箱の鍵なんて、ボルトクリッパーでもあれば開けられる。まるで自分で開ける気がないみたい。おれ自身もそう思った。
悪魔が笑った。
聞こえる。ひとときも忘れなかった悪魔が。
あの男は、後から聞いた話だと、彼自身もまた、元々カウンセリングを受ける身だった。その金髪のカウンセラーが診ていた彼には、自身の家族から得られなかった愛に落ち込んだ彼と、家族と愛を自分本位に強引にでも支配しようとする仮面の彼とが存在したらしい。そして彼のカウンセラーは、家族を失った彼に、新しい家族がきっと出来る、と言ったそうだ。すると彼は子供を拐って自分の家族にすることにしてしまった。しかし本来の、仮面の支配的でない彼は、探偵を雇って彼が閉じ込めたおれを見付けさせたと言う。なんなら仮面の彼は、おれが孤児院に行く原因となった実の両親をも殺害したとか。そうして彼は結局、彼自身の直接の手でおれの父親を手にかけ、また間接的におれの母親も殺したのだと結論付けたそうだ。
果たしてそうなのだろうか。
男が父親に流させた血の色を思い出した。遊園地のどんな遊具より鮮やかだった。男が父親を殺したのだ。
おれが母親を殺したのだ。おれは母親を支配することに成功したのだ。
どうして悪魔がこんなにもおれに身近だったのか分かった。
笑い声はおれのものだった。
さて、帰りもまた地下鉄に乗らなければならない。
地下に閉じ込められたおれを、おれは暗闇の中から見付け出すことが出来るだろうか。
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