青い紅玉は手に負えないので遠慮しておきます

大逆転裁判1-4と1-5の間の冬の日の話
大逆転裁判2をやる前に書きました

 東京にいた時も冬の寒さは身に染みたものだが、ロンドンの冬は寒さは我らが帝都のそれとは根本から質が違うように感じてならない。気温という実に明快かつ公平な基準に照らし合わせた場合、東京とロンドンでは特に大差がないらしいのだが、ロンドンの寒さの方がより一層堪えるのは一体全体どういったカラクリなのだろうか。毎朝寿沙都さんやアイリスちゃんのハーブティーを暖かい暖炉の前で楽しみおながら、この疑問に思い馳せ続けていたが、ホームズさんに「朝市に行くからキミも荷物持ちとしてついてきたまえ、ナルホドー!」と221Bから引きずり出されて、ようやく自分の中で得心のいく答えに巡り会った。
 ロンドンという街の夜は、東京のそれよりも容赦なく長いのだ。
 引きずられるままに確認した時計の針はもう八時を回っていた筈なのに、今僕の目の前の太陽ときたらまだ登り始めたばかりの傾き様である。この時間にまだこの朝焼けぶりは流石に寝坊助にも程があるのではなかろうか。
その上この陽は大層な恥ずかしがり屋のようで今日も今日とて分厚い雲の向こうにもったいぶっており、例え登り切った後でも爽やかな冬晴れを見せてくれそうもない。というかまともに晴れた青空をまだ拝んだことがない気がする。これは結構恐ろしいことなのでは? この幽玄たる空模様はこのロンドンの煉瓦作りに実にお似合いではあるが、こうも太陽に出会えないと気も滅入ってくる。
当然、ロンドン名物の霧も健在なので、僕の歩幅に合わせて歩くという発想がないホームズさんは小走りで追い続けなければ十秒後にも見失ってしまいそうなほどだ。
……、いや別に僕はそれでもいいな? だって今日もロンドンはとっても寒いもの。ホームズさんを見失ってしまったなんてのは言い訳に丁度良いのではないかしら。
そんな思惑を抱きながら歩を少しばかり緩めると、ホームズさんはまるで後ろに目がついているかのように立ち止まって振り返った。相変わらず目の付け所だけはいつも完璧だ。ステーキ一つ盗めやしない。
「ミスターナルホドー、何をしているんだい。キミがそんな調子ではこのボクがガチョウを持ち帰らなければならなくなるじゃないか。もっと迅速に足を動かしてくれないと困るよ」
「え、僕達、今からガチョウを持ち帰るんですか」
 こんな寒空の早朝――っていう程で早くもないけれど。それでも確かにまだまだ朝の時間帯に、わざわざガチョウを。
「そうだよ。今年はキミ達もいるからクリスマスディナーにはガチョウをローストにしたいとアイリスが言い出してね。キミやミス・スサトも相伴にあずかるのだから良いモノを選びたいだろう? 早起きは三文の徳というのはキミの国のコトワザじゃないか。朝からキビキビと働きたまえ」
「微妙に意味が違うと思いますが、まぁ理由はわかりました。そういうことならサボらずにちゃんと働きます」
「やっぱりサボろうとしていたのかい。キミも大概いたずら坊主だね」
「ただの寒がりですよ。ところでホームズさん」
「なんだい、ミスター・ナルホドー」
「クリスマスって十二月二十五日に行うものだって聞いたんですけど」
「正しい認識だね」
「今はもう年始すらとっくに通り過ぎたんですが……
 クリスマスになると特別な装いになると聞いているが、このロンドンも今はもう新年の装いすら脱ぎ捨てて、そろそろ日常を取り戻してきている頃合いである。白く化粧したこの姿は間違いなく美しいものだが、クリスマスの如しとは言うまい。
 なにせ知らないのだから。
「いい質問だ。目の付け所が鋭くなったんじゃないか?」
「多分誰でも疑問に思いますよ」
「でも今は、まぁ細かいことはいいじゃないか。祭りは多ければ多いほどいいと思っているよ、ボクは」
「発想がお祭り人間すぎる……
 しかしそれで納得してしまうのも彼という人間である。探偵ある所に事件ありと言うらしいが(アイリスちゃんから聞いた)、大探偵のいくところは概ね大声が鳴り響く。四捨五入をすれば祭りといって差し支えない。どんな嵐の中でも彼は大体笑っているし。
 そんな彼がそう言っているのだから、じゃあもうそういうことにするしかないのだろう。亜双義と違って、トリニクのご馳走は僕にとって非常に美味だ。それもアイリスちゃんの作ったものとなれば、この寒い街を歩く十分な理由になる。
 そういうことならば仕方がないと自分で自分を説得していた所に、僕なんかじゃ及ばない程のいたずら小僧から新たな情報が落とされた。
「それではそろそろ真面目な理由も明かすとしよう」
「やっぱりふざけてたんじゃないですか」
 なんだよ、もう!
「今年のクリスマス、ボクはどこで何をしていたと思う?」
「知りませんよ、そんなこと。うん? いや、違うな。アラクレイ号だ!」
 去年の年末、僕があのアラクレイ号のあのクローゼットにすし詰めにされていた。ということは同じ船に乗っていたホームズさんも然りであると推理できる。
「その通り。キミもボクも、クリスマスはあの船でクルージングと洒落込んでいただろう?」
「ボクはそんな優雅な状況ではありませんでしたが……、それがどうかしたんですか?」
 今思うと何度か豪華なご飯が出てくるタイミングがあった気がするが、そのうちの一つはもしかしてクリスマスディナーだったのかもしれない。となれば尚更二度目のクリスマスなんかを開催する必要がないように感じるが……、一体何が不服だったのだろうか。
 あの船のご飯はそこそこ美味しかった筈だが。
「この国ではね、クリスマスは家族と過ごすものとされているのだよ」
「あー、それは……
 アイリスちゃんとホームズさんは血の繋がっていない家族だと聞かされている。
 それでも、彼女にとって共にクリスマスを過ごしたいと思う相手が誰であるかなんて疑う余地もない。クリスマスというやつを僕は知らないが、この国の中でもとびきりの祭りだと聞いている。街を染め上げるほどの。
 そんな年に一度の大切なクリスマスを、今年の彼はフイにしてしまったのだ。なるほど、事情が読めてきたぞ。
「最初に言っただろう? アイリスがガチョウのローストをキミ達に振る舞いたがっていると。歓迎会がしたいんだよ、豪勢にね」
「とっても楽しみになってきました。とびきりのガチョウを買って帰りましょう」
 なるべく元気に返事をすると、ホームズさんは満足げに頷いた。
「祭りは多ければ多いほどいい。キミ達もロンドンに留学に来たんだ、クリスマスを満喫して帰らないなんてありえない。散々楽しんで、是非国に持ち帰りたまえ。祭りは多ければ多いほど良い」
「それは……ドリョクします」
 年末年始は日本だって忙しいのだ。根付くかなぁ、クリスマス。あれば楽しいと思うけれど。

 ○

「おやおや。おやおやおやおや。ご覧よ、ミスター・ナルホドー。チンピラだ! それも悪質な! 通行人から金品を巻き上げる類いの!」
 朝市に行く最中、トテナム・コート・ロードの看板を確認して真っ直ぐに道を歩き、角にさしかかった所で、ロンドン一落ち着きのない人間が喜色一杯の声色であまり喜ばしくないニュースを伝えてきた。彼の言うままに指さす先を見遣れば、確かにガチョウを抱えた初老の男性が悪漢の類いに絡まれている所だった。絡まれている男性に覇気がないわけではないようで、ステッキで果敢に応戦していたが、それでも二対一は多勢に無勢、と表現するほどの絶望的な状況ではなかったが、チンピラ達との年齢差を思えば心細い胸中を察する様である。
 なんと可哀想な……。確かに助けにいかなければならないだろう。
「それで、ホームズさんはなんでそんな嬉しそうなんですか」
「キミも知っての通り、私はボクシングの達人なわけだがね……
 全然知らない。まずボクシングとやらが何なのかから知らないです。
 だが話の流れから察するに、ホームズが時折とる珍妙な行動の内今まさに実行中のそれはボクシングなるものらしい。恐らく話の流れから格闘技が護身術の類いに違いない。スサト投げのように。
「そしてここからが重要なのだけれどね。実は人が人を殴ると……、怒られてしまうのだよ! 凄く! 時と場合によってはキミの世話にならざるを得ないほど……!」
「それはまぁ、そうでしょうねぇ……
 弁護士になる前からそれくらいは知っていた。少なくとも日本ではそうだ。
 英国もそうであるに違いない。多分。じゃないと怖すぎる。
「ところがどっこい。人助けだと逆に褒められるんだなぁ、これが」
「あぁ、話が読めてきました」
 つまりこの人は人助けという名目で今から暴れ倒そうとしているのだ。我が国のお祭り人間達が言っていたとされる言葉にこんなものがある。“祭りと喧嘩は江戸の華”と。そしてこのロンドンでは探偵ある所に事件ありとも聞く。
 うん、どっちも好きそうだな! この人!
 実際あの老人も困り果てていらっしゃるようなので、もう好きにしたらいいと思います。
「ではいってくるよ。キミもその腰の日本刀の切れ味を試したいのなら奮って参加したまえ。『キリステゴメン!』と言うのだろう?」
「いいえ、『マタクダラヌモノヲキッテシマッタ』と言います。亜双義の魂に下らぬものを斬らせるわけにはいかないので、ここはホームズさんにお任せしますよ」
「そうか、ならそこで見ているといい。とう!」
 冬だと言うのに元気な人だ。ああなりたいと見習いたいわけではないが、この冬の寒さと暗さに負けない元気は僕も備えたい所である。
 あれほどの落ち着きのなさは本当に要らない。

 ○

「見ていたかい、ボクの八面六臂の大捕物!」
「あれもこれも混ぜすぎですよ……、どこから仕入れてくるんですかそのトンチキ語彙は。いえ、まぁ本当にそれくらいゴチャゴチャしましたが……
 なにせこの大探偵を自負するこの男。チンピラに絡まれた男を颯爽と助けにかけつけたまでは良かったがそこから先は、オドロキ極まるなにかしらスイッチだったのだ。全てをホームズさんのせいにする気はないが、今目の前で割れているショーウィンドウの責任の五割は彼に帰属するだろう。
 結果、チンピラに襲われていた哀れな老人は被っていたフェルトの帽子と丸々と太ったガチョウを置いて逃げ、彼にちょっかいをかけていたチョコマカと動くチンピラ達もその騒動に乗じてそそくさと逃げてしまった。チンピラの割には根性がないが、こんな奇っ怪の動きをする人間に俊敏に迫られたことを思えば考えるとむべなるかな。
 結局この場に残ったのは老人の帽子とガチョウ。そして流れ大探偵によって割られたショーウィンドウを前に眉をつり上げている街角の商店の親父さんだけである。警察が到着して事情を話すまで僕らを帰してはくれないだろう。
 やはり暴力はむなしい結果しか生まないものなのだなぁ。
 これだけの惨状を生み出した張本にはというと、ご機嫌そのものといった様子でガチョウとフェルトの帽子を拾い、ガチョウの方を僕に押し付けた。ずるい、僕もそっちが良い。このガチョウまだ生暖かくてちょっと……、いや、かなり嫌です!
「ボク達は実に幸運だ。思いがけずに手に入れてしまったね、丸々と太ったガチョウを」
「いや、手に入ったわけがないでしょう。人の物ですよ!」
 そういうのは何週間もクローゼットに箱詰めにされつつ親友と一人分の食料を分け合う生活でもしない限り許されないというかぁ……
「おや。では返してあげようというのかね、そのガチョウを」
「そりゃそうするべきでしょうよ」
 例えガチョウを食べてしまうにしたって、その帽子くらいは返してあげないとあの老人があんまりではないか。そしてその時にガチョウがなかったら、それはもう酷く気まずい思いをするに違いない。そも、あの不幸な老人に両方返してあげようと思うのが人の道だ。
「そうか、キミがそう言うのならば始めねばならないだろうね」
「始めるって、何を――
 ギモンの正体を問いただそうとした僕に、ホームズさんはいたずら小僧の笑みをにんまりと浮かべた。まだまだ付き合いは短いが、概ねロクなことをしない時の笑顔である。今引き起こされた惨状よりもなお、だ。そしてこのいたずら小僧がこの場で引き起こしそうな惨劇は一つしかない。
そんな。ここにはスサトさんがいないのに。僕一人でこの人を――!?
「決まっているじゃないか、シャーロック・ホームズの『論理と推理の実験劇場』をさ……! さぁ、あのご老人の素性を突き止めよう!」
 閉鎖しませんか? それ。と提案したい気持ちで一杯だったが、このガチョウと帽子を持ち主に返してあげようと提案したのは他の誰でもない僕であるという事実が両肩に重くのしかかった。この話を振ったのは僕である以上、最後まで付き合わなければならない責任が僕だけにはある。
 仕方がないので極力早く切り上げようと思う。寒いし、家でアイリスちゃん達が待っているし。

 ○

「この帽子は実に良いこしらえだ。しかしいささか型が古いな、三年程前の流行だ。その上、手入れもロクにされていない。実際さっき見かけた彼の身なりも大して良くなかったしね」
 フェルトの帽子を片手に、彼はつらつらと観察結果を並べだした。相変わらず目の付け所はいつだって素晴らしく鋭く、まるで名探偵のように詳細な観察結果を並べている。
ひょっとして今回ばかりは、名探偵な所を見られるんじゃないかしら。
「つまり……、彼はもうとっくに身なりを気にする必要のある職の辞してしまったと推理できる! このような帽子を購入できるほどの稼ぎをやめてまで就くほど稼げるにも関わらず、身をやつした格好をする職業といえば……。当然、物乞いだね」
 あーもうダメだ。また鋭くなりすぎて何かを抉ってしまっている。どうしてそっちにいってしまったのだろう。
第一僕達が知りたいのはこの帽子の持ち主の職業ではない、所在の手がかりなのだ。もっと真っ当でかの老人に迫れる手がかりはどこかにないものだろうか。
 何かしらの情報を求めて我が手の中でどんどん体温を失っていくガチョウにとりあえず目を向けてみると、なにやらきらびやかなカードが添えられてあるのを見つけた。
“ヘンリー・ベーカー夫人へ”とだけ記されている。この国に来て日が浅く、まだまだ習俗の類いに詳しくない僕だが、この文面は夫が妻に贈る時のものが妥当であると考えてもよい筈だ。
「ええっと……、そのアタリは僕にはよくわからないんですけど……。とりあえず結婚していることと、名前はわかりましたよ。こっちのガチョウには“ヘンリー・ベーカー夫人へ”と書かれたカードが付属されていますから。どんな事情かわかりませんが今晩、奥様と一緒にこのガチョウでディナーにする予定だったんじゃ? うちと一緒ですね」
 理由は多分、うちほどトンチキでもないだろうが。それでも夫婦水入らずで一緒にご馳走を共にする予定だったのだろう。……本当にタイミングの悪い人だったんだなぁ。
「そう、それが言いたかった」
「ハイハイ。でもこれでなんとかなりそうですね」
「なんとかって、どうやってだい?」
「え、それは……。名前がわかったんですから、なんとかなるんじゃ……?」
 名前さえわかれば、持ち主に辿り着くのもそう難しくないに違いないと思ったのだが、違うのだろうか。
「いいかい、ミスター・ナルホドー。このロンドンは四百万もの人間が住んでいるのだよ」
「四百マン……!」
「しかも、キミの国ほど名字も名前もバラエティに富んでいなくてね……
「え、そうなんですか……?」
 結構色々愉快にあるなと思っていたのに……。メグンダルさんとか……
「そうなんだよ。よって、ヘンリー・ベーカーという人間はこのロンドンにはゴマンといるのさ。それで、キミはどうやって四百万の内の大勢のヘンリー・ベーカーさんの中から、たった一人の“ヘンリー・ベーカー”を見つけ出そうと言うんだい? 鮮やかな手段があるなら御教授願おうか、ミスター・ナルホドー。」
「それは……、その……! ほら、こんな時間にここで買い物をするくらいだからご近所さんとか……!」
「ロンドンっ子は買い物の為に平気で数時間を歩くよ? 特にこういう滅多に買わない類いのもの為にはね」
 冬は窓を閉じて部屋の中に閉じこもる癖に、元気で健脚だなぁ!
「で、でも! 今朝ガチョウを落としていってしまった“ヘンリー・ベーカー”さんは! きっとこのロンドンにもただ一人ですよね!」
「それはそうだろうとも」
「じゃあ何かしらのお知らせを出せばきっと!」
「真っ当な解決策だ。どこに出すのが適切だい?」
「駅の掲示板に……、あとは新聞とか……?」
「いい案だ。では具体的に詰めよう。掲示板はともかく、どこの新聞に広告を打とうか?」
「えっと……、一番購読者数が多いところに……?」
「この国の新聞は地域密着型なのだよ。このロンドンだけでも多くのローカル紙が発行されている。故に一番発行部数が多いところでも、ボクらが探すヘンリー・ベーカー氏に当たる確率はそう高くないよ。グローブ、スター、ポール・モール、セント・ジェイムズ、イブニング・ニース・スタンダード、エコー……、ざっと思いつくこれら全てに出すくらいの気概がなければ到底みつからないだろうさ。勿論、キミが豪運の持ち主なら別だがね?」
「うっ……!」
 なんて気が遠くなる程の数。なんで名字は少ないのに新聞はそんなに多いのだろうか。
「これらを回ればボク達はどうなると思う? 推理したまえ」
「推理というより推測ですが……。一日中ロンドンを駆け回ることになると思います……
 それだけの、それも地域密着の新聞社があるのだ。一カ所に会社が固まっているとは考え難い。それなりに広範囲と馬車で向かったり歩いたりする羽目になるのだろう。ロンドンは帝都よりもなお広いと聞く。そう簡単に終わる作業ではあるまい。
「そして勿論だが、新聞広告を打つのもタダではないよ?」
「で、ですよね……
 広告を出すのに一回あたりどれくらいの値段がかかるのかは知らないが、タダではないだろう。例え安くとも、積もればそれなりの値段になるに違いない。
「つまり、その帽子を当人に届けるまでにボク達は多大な時間を浪費して、ついでに少なくない出費が嵩むのは確実なわけだ。その上直にくる警察への説明までボクらの仕事になる予定だよ、ミスター・ナルホドー。」
「ハイ……
「もっとわかりやすく表現するのならばこうだね。“見事なガチョウを買うのに必要な時間とお金が消し飛んでしまう”くらい手間がかかる! ……そろそろキミも、ボクと同じ結論に辿り着いてきたころなんじゃないかな?」
 突きつけられた一本の指が、僕がとるべき行動は一つだけだと迫っている。
でも、そんな、いいのだろうか、そんなこと……。人として……
 ……でもなぁ。うん……
 ホームズさんと長々と話し込んでいる内に、我が手の中で永眠したまうガチョウの体温は気づけば完全に失せてしまっていた。もうすっかり虫の息である。鳥だが。そして最初から死んでいるが。
 これは先ほどの話した通りだが、僕は亜双義と違ってトリニクも美味しいなと思う人間である。まだまだ人生経験不足故にガチョウは食べたことがないが、アイリスちゃんの見事な腕前で調理されたそれは絶品料理に違いない。当然僕の胃袋も非常に楽しみにしているし、少女の思いもそう何度も無碍にするものではないなーとも思っています。ハイ。こうして長考している間にも、心なしかこの僕の体温でどんどんお肉がダメになってしまっているような気さえもしてきましたね、ハイ。
 ……、よし。論理的に考えよう。
僕達が今から方々に手を尽くしても、“ヘンリー・ベーカー”さんがいつこのガチョウをとりにくるタイミングはいつかわからない。あの老人が221Bの扉を叩く頃には腐る可能性もあるしいつまでも取りに来ない可能性だってゼロではないのだ。しかし帽子は腐らないので、いつ来ていただいても確実にお渡しができる。その場合、帽子だけでも帰ってきたことにヘンリー・ベーカーさんも喜んでくれることだろう。ホームズさん曰く、高級品らしいしナマモノのガチョウはこっちで適当に処理しておきましたと言われても、きっと笑顔で許してくれるに違いない。
そして警察に落とし物を渡しても、例え相手が職務に熱心なおまわりさんだった場合ですらアテにならないのは英国に来た翌日には思い知らされた。僕達が責任をもってこれらを預かった方が良い結果になるとお約束できる。
 つまり、僕達がとるべき最善手は――
「ホームズさん。思いがけず手に入りましたね、丸々と太ったガチョウが」
「Elementary!」
 ロンドンの寒空の下、ホームズさんの指の音が綺麗に鳴り響いた。