ぶるりと震えた身体に、やはり1月の京都は寒いなと村雨はそんな当たり前のことを再認識する。いくら高級旅館と括られる施設でも創業云年の格式を売りにするのであれば、空調管理の甘さも多少は目をつぶるべきだろう。広縁に用意された椅子に腰掛けていると、大きく面した窓から伝う冷気が薄ら寒さを覚えさせる。ただ、それも酒気を帯びた身体にはまだ心地良く思える程度だった。
襖と廊下が隔てた先からドアの開閉音が聞こえた十数秒後、トイレにと席を立っていた恋人が襖を開けひょっこり顔を覗かせた。さっきまでいたはずの座椅子に村雨が座っていないことに一瞬きょとんとしたものの、すぐに居所が視界に入ったらしい。間の抜けた顔をしたことに少しきまり悪そうにしている。
「なにしてんだよ」
「少し酔いを冷ましていた」
「んだよ、もう酔っぱらったのか?」
「そうならんようにするためだ」
心地良いとはいえ、浴衣一枚に羽織を引っ掛けた姿では流石に身体はすぐ冷え切ってしまう。村雨は立ち上がると、さっきまで食事をしていたテーブルに戻り座椅子にどっかりと腰を下ろした。その様子を獅子神は中途半端に開かれた襖の隙間から半身のみを覗かせたままで見届ける。既に食事を終えた卓上からは食器が下げられ、茶器と茶菓子の載った盆があるくらいだ。
さあ、これでいいだろう? と言わんばかりに獅子神を見れば、獅子神も襖の向こう側の状態が既に村雨に察せられてると悟ったらしい。これだから察しの良い奴は困ったものだ、とわざとらしく瞳をくるりと動かし肩を竦める。タンッと獅子神の手により襖が音を立てて開け放たれる。隠れていた半身が姿を現すと、その右手に載せられた小さなホールケーキが村雨の目を引いた。
もう留まっている理由もなくなった獅子神はずんずんと村雨目掛け近付いてくる。
「あー……っと、なんつーか、改めてになるけどよ、誕生日おめでとう」
少し照れくさそうにしながらも獅子神は祝いの言葉と共に村雨の前へ手にしていたものをスっと差し出す。苺をふんだんにあしらい彩られたケーキのサイズは目測で4号といったところか。その出来栄えは専門店と肩を並べると言っても過言ではなく、そこらの名だたるパティシエが束になっても敵わないほどの価値があるように村雨には思えた。以前、友人同士の集まりで急遽作り上げたケーキよりも数段洗練されている。それが何度も試作を経た賜物であり、更に言えばその行動の基となったのが村雨への愛情だということは明らかだった。それが分からない程、村雨は愛情に無頓着な人間ではない。
ただ、そんな村雨でも内心首を傾げることがある。それがこのケーキのサイズだった。目の前のケーキは一般的に二人で食べるには妥当な大きさだが、二人のうちの一人が村雨であることを鑑みると話は少し変わってくる。旅館の食事が大抵は量が多く用意されることを考慮したのだとしても、村雨の胃袋がちょっとやそっとの量では動じないことは、それこそ獅子神が嫌というほど分かっていそうなものなのに。誤解がないように言えば、村雨は不満があるわけではなかった。ただ単純に不思議だった。違和感とも呼べる。
村雨はケーキの作り手へと視線を移す。アルコールのせいか、いつもよりも少し緩慢な動きで獅子神は向かいの座椅子へと腰を下ろしていた。目線の高さが同じになると、獅子神の視線はケーキと村雨の間をうろうろと彷徨いはじめる。
「まったく。あなたの勤勉さには脱帽する」
「あ? どういう意味だよ?」
少し行儀悪く卓上に頬杖をつくと村雨の真意を探ろうとしているのか、獅子神はじいっと掬い上げるような視線を寄越してくる。それが上目遣いになっていることには気が付いてないようだ。
「素人の手仕事には見えんということだ」
そう続く説明に少しだけ目が見開かれ、そうしてくしゃりと嬉しそうに相好が崩れる。
「そっか……まあ、なんだ? 喜んでもらえてんなら良かったよ」
獅子神は気恥ずかしそうに頬を掻く。そこに差す赤みが一層増したのを村雨は見逃さず、満足気に小さく口角を上げた。
「見た目も気合い入れたけどよ、味も悪くねぇはずだから食ってみろよ」
褒められ誇らしげに言う様は多少の酔いのせいかどこか幼さも感じさせる。
「それは期待が持てるな。獅子神、あなたはどの程度食べる?」
糖質に制限をかけているだろうが、獅子神が特別な日までそのルールに固執しないことは知っている。それでも多少の後ろめたさはあるだろう。
そう慮っての問いだったが、獅子神から発せられた返答は想定を外れたものだった。
「は? 食うはずねーだろ」
「……なぜだ?」
端から選択肢にも上がらないとばかりの返答に村雨は不可解そうに問いを重ねる。村雨の言葉に獅子神は頬杖を外し座り直すと眉をひそめた。
「なぜもなにも、オメーの誕生日ケーキだからだよ。それをなんでオレが食うんだよ。全部オマエのに決まってんだろ」
「あなたの目の前でこれを一人で抱えて食べる程、私が狭量だとでも思っているのかあなたは」
心外だと不貞腐れてみせる村雨に獅子神は困惑し始める。
「何言ってんだ? 狭量だなんだっつー話じゃねぇだろ。誕生日ケーキだぞ? 誕生日の奴が全部食うに決まってんだろ」
村雨はますます表情に不可解さを滲ませる。どうにも話が噛み合わない。獅子神もおそらく同種の違和感を感じ取っている。
「ケーキはプレゼントだろ? だから貰えたやつのもんだし、それを欲しがんのは行儀が悪いこと、で……」
獅子神の言葉尻が徐々に窄まっていく。今の今まで常識だと思い説いていたものに、もしかして? と猜疑心が生まれたらしい。たしかなものだと踏みしめていた足元がグラリと崩れる瞬間に、人はこんなにも心細そうな表情を浮かべるのだなと村雨は思った。疑いようもなく信じていたものが根底から覆される心許なさは相当だろう。
獅子神の中で己の常識と今までの経験や村雨との食い違いの擦り合わせが終わったのか、その顔から表情が抜け落ち、次の瞬間にはカッと赤くなる。信じていたその常識を誰が与えたのか、どういう状況でそうと信じざるを得なかったのか。想像したところで快いケースが浮かぶはずもなく、村雨は内心で苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
言いようのない羞恥を覚えていた獅子神はハッとし、探るような視線が村雨に向けられた。
自分が今どう振る舞うべきか、村雨が見誤ることはなかった。多少酔いが回っているとはいえ、酔って鈍感になった真似を装い、獅子神からの視線に気付かない素振りをしてみせることは村雨にとって難しいことではない。
村雨はあえて獅子神と視線を合わせないままで思案気に目の前のケーキを注視する。
「なるほど。こういったものは地域性やコミュニティに由来するローカルルールがあるものだ。私の周りではどちらかというと縁起物に近い扱いだったな」
「縁起物?」
今の話題に似つかわしくないワードが引っかかったのか、獅子神の関心がたしかにそれに向いたのが分かる。手応えを感じながら村雨は言葉を続ける。
「幸せのお裾分けといったところか。鏡開きをした酒をその場にいる者で分け合いながら祈願の成就を皆でするだろう? それに近い」
「お裾分け」
「ちなみに幼少期の私にはそれが耐え難かったらしく、ホールケーキの皿を抱えて泣きながら口いっぱいに頬張っている写真が残されている」
「いや、ひとりで食ってんじゃねぇかよ」
「年端のいかん幼児の頃だ。かわいいものだろう」
村雨はケーキと一緒に添えられたフォークに視線を落とすと指先で抓み上げる。一つしかないフォークも獅子神の前提が分かれば納得だった。ひんやりとした華奢な造りのそれは、握り込むと徐々に村雨の体温と馴染んでいく。
「ケーキや料理の類も心を込めて贈られていると考えればたしかにプレゼントと言える。であれば、あなたからの愛情を独り占めするのも吝かではないが……」
そうして初めて村雨は獅子神を見据える。
「あなたと二人で幸せを分かち合うのも悪くない」
「取り分減って泣いちゃうんじゃねぇの?」
動揺を取り繕うように軽口を叩く獅子神に、村雨はフンと小さく呆れて見せた。
「マヌケ。私の取り分は減らない」
「あぁ? 減るだろ。どう考えても」
続けざまにおかしなことを言い出す村雨に対し当然の疑問だった。少しでも獅子神に渡るのなら、村雨の取り分は減る。こんなことは小学生じゃなく幼児でも分かることだ。村雨は手にしたままのフォークを指示棒のように獅子神の方へと向けた。
「あなたの幸せがひいては私の幸せに通じる。よってあなたに幸せが渡る分には何の問題もない。巡り巡って私の取り分は全く減らない。どうだ? 分かったか?」
暴論にも思える理論が、よりによって村雨の口から飛び出してきたことに獅子神は思わず吹き出してしまう。小学生みたいな言い分に呆れて笑いがこみあげているようだった。
「っとに、頭の良いヤツは屁理屈捏ねんのが上手なこった。あなたも私も得をします、なんて口車、胡散臭すぎて仕事だったらぜってぇ乗らねえな」
「だがあなたが乗ろうが乗るまいが、これは揺るぎない真実だ」
村雨はしたり顔でそう告げると目の前の獅子神へとフォークの持ち手を差し出す。
「分かったよ。オレも食うけど、さすがに最初の一口はオマエが食えよ」
「なにを言っている。当たり前だろう。これは私に贈られたものなのだから、私が最初に口にするのが道理だ」
「じゃあ、なんでこっちにフォーク渡してんだよ」
「どうせなら、あなたの手ずから贈られるのも悪くないと思ってな」
その言葉が意味することを悟ると獅子神はなんとも言えない表情を浮かべる。村雨はこの要望が跳ねのけられるとは微塵も思っていない。そして、その自信は隠すことなく獅子神にも分かるほどにありありと顔に表れていた。
「〰〰〰っとにっ! とんだ甘えただな、お誕生日の先生は」
「恋人に甘えることをためらってどうする。相手もまんざらではなく、加えて今日は私の誕生日だ。何の不都合もない」
村雨がニンマリと笑みを浮かべ口を大きく開けてみせる。易々と言うとおりにしてやるのはどこか癪に障り、一言二言言ってやらないと気恥ずかしくて仕方ない。そんな獅子神の思いは筒抜けだった。獅子神は開きかけた口を閉じ、受け取ったフォークを目の前のケーキに勢いよく沈める。なにを言ったところで、やり込められ墓穴を掘るだけになると悟った獅子神は粛々とケーキを切り出す。それは、おおよそ一口では入りきりそうにない大きさだった。
「オレからの愛情だってぇんなら、零さず全部食って飲み込めよっ」
なかばやけっぱちの獅子神がそう言い、嫌がらせ半分でフォークに載せた塊を自分目掛けて突っ込んでくるのを眺めながら、村雨は目一杯大きく口を開いた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.