何某
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Matsukawa's Sunday

「ぼくの恋人」アナザーストーリー。松川さんちの子猫の話。

ぺて、と口元に何かが降ってきた。

……?」

ぺて、ぺて、とその「何か」は口元を優しくたたき続ける。目蓋をひらくと、白い毛玉が一生懸命にうごめいて、口元を両手で踏みつけていた。

「おはよ」

みゃぅ。

囁くような鳴き声だが、毛玉の元気いっぱいな返事だ。薄明薄暮性を持つ猫の夏の朝は早い。時計を見ると朝の6時だった。珍しく日曜に割り当てられた公休で、天気も快晴が続く見込みだと昨夜のニュースで言っていたのを思い出す。

「早いね。おなかすいた?」

みゅぅ。

「もう朝だよ」なのか、「おなかがすいたよ」なのか。同じ屋根の下で暮らしていてもわからないのは、毛玉がこの家に来てまだ2週間かそこらだからだ。小さな体にとってこの部屋は、あまりに巨大な迷路なのだろう。

「ごめんね。退屈だったね」

右も左もわからない、見知らぬ広い空間はただひたすらに寂しさを呼び、恐怖を生む。小さな毛玉を抱き上げて喉元を撫でると、くるくると喉で鳴いた。この小さな小さな譲渡猫を引き取ったのは、単にこの家が広すぎるからだった。

去年、仙台市博物館の近くにマンションを買った。大手銀行に勤めて長くなる後輩の知識と少しのコネクションを借りて、難なくローン審査を通過できたのは非常に大きな幸運だったと言っていい。後輩には「ご結婚でもするんですか」と何度か聞かれたが、そのたびに「わびしい独り暮らしだよ」と笑って告げた。本当のことだった。

独り暮らしを続行するのにどうして100平米近い部屋を購入したのかと聞かれればそれは、様々な理由がある。一人にしてはあまりにも広すぎる部屋にしたのは、姉と弟それぞれの子供たち───すなわち自分の甥姪たちに少しでも何かを残すためだった。

それを明言してしまえば「自分の子供のために残すべきだろう」という声が上がりそうだが、そもそも結婚をするつもりがなかった。それに関しては人間の最果てを見守り続けてきてしまったからだと自分が選んだ仕事に責任転嫁する。

恋愛は人並みにしてきた。恋も愛も、それなりにわかっているつもりだ。だからこそ誰かと人生を共にすることを考えたとき、最愛の人を自分の手で棺に入れるなんてことが恐ろしくて仕方がなくなった。その逆なんて、あまりにも残酷すぎて吐き気がするほどだ。

けれどせめて、自分とは別の命と暮らしていたいという希望は薄ぼんやりとでも心の中にあった。魚でもよかったし、鳥でもよかった。休みのたびにペットショップへ足を運んでは、命を「買う」という行為に嫌気が増していった。人間の人身売買は禁止されているのに、動物になるとどうしてこうもすぐに手が出るような価格で取引をされるのか、それがどうしても腑に落ちなくて、ペットショップに行くのもしばらくやめてしまった。

──── 息子の職場で子猫の引き取り手を探しているんだけど……松川くん、どう?

そんな相談を持ち掛けられたのは、ある葬儀がひと段落付いたあとの終業間近のことだ。初老に差し掛かった女性スタッフの長男坊は宮城県の動物愛護センターに勤務しているらしく、新たに子猫が1匹保護されたのだという話だった。

男性の一人暮らしでも引き取れるものだろうかと憂慮したが「松川さんのお人柄はいつも母から伺っています」と女性スタッフの息子さんが一切の手続きを引き受けてくれた。毛玉と面会し、トライアル飼育を経て、無事にこの家の住人となったのが2週間前。しかし部屋が広すぎるあまり、ほんの少し冒険をしてはすぐに足元へ帰って来る。

「みゆさん」

みゅぅ。

「にゃーあ」

むぅ。

「まだ”にゃあ”は早いか……

ころころと足元を走り回る毛玉は舌っ足らずで危なっかしい。事あるごとにこうして抱きかかえていたら変な癖がついてしまいそうだとも思うが、この小さな体を誤って踏んでしまったり蹴ってしまったりするより何倍も良かった。

「ごはん食べようか、みゆさん」

みぁ。

「おなか減ったでしょ」

んむるぁ。

「女の子がそういう声出さないの」

みゃあ。

ちょっとへたくそな彼女の鳴き声で休日が始まる。

そういえば花巻たちがみゆさんに会いたいとうるさかったな、と思い出して、アプリを開いた。


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