何だかんだと理由をつけては断り続けていた会社の飲み会に、とうとう引き摺り出されることになってしまった。そう聞いたのが一昨日の夜。
心底嫌そうな表情でスーツ姿のままベッドに突っ伏してしまった恋人を無理にひっくり返すことはせず、シーツに沈むまるい後頭部を撫でながら「ドンマイ」と声をかけると、珍しく小さな唸り声が上がっていた。相当嫌なんだなと理解しつつ、「一回くらいは参加しておけ。後学のためだって」とそれらしいフォローをつけながら何とか風呂に連れていってやったのがつい昨日のことだ。
一緒に入ってくださいと眉間に皺を寄せながら懇願してきた表情を思い出すと、出先でも口元が緩みそうになる。あいつ今ごろ質問攻めにでもあってんだろうな、と氷が溶けて水っぽくなったクエン酸サワーを呷った。酸味が一気に口内と喉を駆け抜けて、胃に落とし込まれる頃には何だか元気を取り戻せているような気分になる。取り立てて気落ちしているわけではなく、上の空めいた気持ちが現実と想像の間で彷徨うことを宥恕してくれるような酒に、どこか救われているような感覚だった。
「花巻」
「ん?」
意識を現在へ完全に戻すと、目の前で激動の3年間を駆け抜けた親友━━松川一静が少し呆れたように微笑んでいる。2杯目のハイボールをひとくち含み終えたばかりのようだった。
「何考えてた?」
「今?かわいー恋人のこと」
「ええ?親友と飲んでるってのに、失礼しちゃう」
おどけたように片頬を膨らませながら首を小さく振る様子は、高校時代から変わらない松川の相槌のひとつだった。当時、及川がこの仕草を真似ようとして岩泉から突き抜けて冷ややかな罵倒を受けていたのを思い出す。男臭すぎず、かといって軟派にも振り切らない松川の「ちょうどよさ」は天性のもので、少しも気構えることなくくだけて接せる存在のうちのひとりだった。
「ごめんって。けど、さっきも言ったじゃん?あいつとうとう、」
「ああ、引き摺り出されたんだっけ。飲み会」
「そう」
「質問攻めされてんじゃねえの」
「俺も今それ思ってた。ほっとかれるはずねえもん」
「国見ってぱっと見ミステリアスだしな」
「ぱっと見はな」
「お。本彼くん余裕だね」
「そんなんじゃねえって。心配してんの」
「はいはい。さっきからずっとスマホ気にしてんの見てたらわかるよ」
「……まじ?そんなんしてた?」
「してた」
「まじかあ」
テーブルを見下ろすと確かに左手の中でスマホがおとなしく横たわっている。無意識のうちに触りつづけていたらしい。
松川がそっと塩キャベツを取り分けて、空になった皿を隅へ避けた。一連の動作は同性の自分から見てもかなりスマートで、どうしてこいつは恋人を作らないんだろう?と唐突に思わされるほどの自然さだ。
「なー松川」
「ん?」
「お前はどうなの」
「俺?なにが?」
「恋人。つくんねえの」
「……、……」
そんなことを聞かれるなんて思ってもいなかったのだろう。ぱち、と音が聞こえてきそうな瞬きをひとつして、松川がしばらく固まった。
「タブーだったら謝る」
「いや、全然タブーじゃないけどさ」
松川とは高校3年間のほとんどと言っていい間つるんでいた。クラスが同じになることはなかったけれど、授業以外の時間はなんとなく一緒に過ごして、及川や岩泉もいつの間にか加わっているということが多かった。部活が一緒だったということが最大の理由だろう。けれどそれだけじゃない。松川は誰からみても優しくて、疑いようのないほど物事を明確にやわらかな言葉で示してくれるような、紳士で真摯なやつだった。
「好きな人とかいねえの」
「んー……」
幸せであり続けてほしいと思うのは、純粋に親友としての本心だ。誰といても松川は松川のままで、一緒にいるのが男であろうと女であろうとその優しさは変わらない。分かりやすく言えば、松川はどこまでもいいやつだ。人間だから多少の裏表はあっても、相手にそれをすぐには悟らせない。本当に嫌だ、と思う前にうまく距離を取ったりするから、たぶん誰も傷つかない方法で関係を消滅させたり維持したりができるタイプの人間だ。すげえな、と思う。世渡りと言ってしまえば簡単だけれど、そんな風に日々をやり抜いていくなんて、きっと自分には簡単なことじゃない。
友人として素直に松川を尊敬している。生き方も考え方も。
「まあ、無理には聞かねえから。言えそうだったらその時教えてよ」
「…………恋ってさあ、」
「え?」
「恋って、するものじゃなくて落ちるものだと俺は思うんだよ」
「……なに急に」
「俺の好きな人の話だろ?」
「そうだけど……恋って、」
「最近落ちた」
「うっそ!まじで!?」
思わず大きく張ってしまった声に、客の何人かがこちらを振り返った。すみません、と小声で謝ると、松川は愉快そうに笑って、ばあか、と唇の形だけで呟いた。
「どんな子?」
「かわいいよ」
「ざっくりしすぎだろ」
「だって可愛いんだもん」
「もっと他にさあ、あんじゃん。特徴とか」
「んー……小さい、かな」
「小柄なんだ?」
「うん。だから寝るときめちゃくちゃ神経使うんだよね」
「寝ッ、……!?」
何でもないように言い放たれた単語がダイレクトに突き刺さった。こちらの驚愕なんかよそに、松川のグラスが呑気な音を立てる。かららん、と氷が転がって、グラスの中の液体が緩く混ざっていった。
「潰しちゃってないかって、毎朝ヒヤヒヤすんの」
「毎ッ……?!」
松川を尊敬していることに変わりはない。目立たないところでしっかりしている友人は、そっちの方面でもしっかりしているんだと勝手に思っていた。だって素面だと、あの岩泉と波長が合う男だ。
「さっきからポンコツなオウムみたいになってっけど、腹でも痛えの?」
「ッ、いやいやいや!え、だってお前、その子と最近付き合ったんだろ?」
「まあね」
「……ちなみに最近ていつ?」
「2週間くらい前」
「2しゅ、ッ……!…それでもう一緒に寝てんの?」
「うん」
「毎日?」
「ほとんどそう」
「ええー…………」
別の意味で尊敬しそうになる。昔からいくら大人びているところがあった男だとしても、さすがに展開が早すぎるような気がした。何を思い返しているのか、松川は口元だけで笑っている。国見のことを思い出すとき、自分もこうなるだろうという微笑み方だった。
「おやすみのちゅうは?って顔しながら俺のとこに潜ってくるからさ」
「………すげえね」
「可愛いっしょ?」
「んん、まあ、そう、……いや、なんかもう色々すげえ」
「ははは」
マウントを取るでもなく、誇らしげにするでもなく、松川は単純に惚気ながらもからりと笑った。あまりの驚愕に言葉を失いかける。そんな恋人ができていたなんて知らなかったのもそうだが、松川が惚気ているという事実がかなり意外だったことが大きい。それでも慣れというのは時に救いともなるもので、心より先に頭が冷静さを取り戻してくれた。
「なんて呼んでんの?」
「ん?」
「その子のこと。やっぱあだ名?」
「いや?みゆさん、って普通に呼んでる」
「ふぅん、」
恋に落ちて、とんとん拍子に進んで2週間。松川と自分とじゃ時間の流れがかけはなれているのか、物事の進め方があまりに違いすぎるのか、松川一静という親友の知らなかった部分を初めて知らされたような気になった。国見と付き合っていると打ち明けた時も、松川は松川のままだったのに。
「さん付けってことは年上か」
「や。けっこう年下」
こんな小さなどんでん返しじゃもう驚かない。何が来ても被弾するだけだと腹をくくって、いっそ冷静さを貫こうと決めた。
「へえ。いくつ離れてんの」
「正確には分かんねえけど、」
「……え?」
「13くらいじゃね」
前言撤回の最速タイムをたたき出してしまった。仕方がない。だって人間だから、驚くときは驚く。
「はァ!?じゅうさん!?」
「たぶんね」
「多分って……え、正確に分かんねえってどういうこと?」
「推定だからさ」
「推定?」
「女性の年齢を暴くのは失礼でしょ」
「や、うん、そりゃそうなんだろうけどさあ。いや13も下ってさすがに……」
セーフとアウトの際どいラインだ。察するに親の保護下から巣立って間もなすぎるくらいの年齢だろう。もはや改まって数えることすら恐ろしい。数字は現実を示す最も有効なものだけれど、生々しさを飛び越えて不安になるなんて経験したことがない。
「かわいいよ」
「……やめて。おれ今すげえ混乱してっから」
「若いっていいよなあ。ずっと元気だし」
「やめろってまじで……」
「毎日しれっと教え込んだら、”にゃあ”って言うようにならねえかなって思ってんだけどさ」
「俺の声とどいてる?どんなプレイだよ……情報が多すぎて溺れ死にそうなんだけど」
「そう?普通じゃね?」
「お前の普通と俺の普通は180°違うということが、たったいま明らかになった」
「10年越しに分かった価値観の違いってやつ?」
「どっちかっつったら倫理観だろ」
「はははっ、何だそれ」
本気で頭を抱えそうになった瞬間、ヴヴ、とスマホが震えた。国見からメッセージが入っている。もう終わったのかとアプリを開くと、やけに素直な言葉が飛んできているのが見えた。
「あいつ早すぎだろ……」
「国見?」
「そう」
「なんて?」
「迎えに来いって」
「やべえな」
「おもしれえから10分だけ放置しよ」
「後輩で、っつーか恋人で遊ぶんじゃねえよ」
ずっと見慣れていた「いつもの松川」が顔を出した。心の底から呆れている顔で小さく溜息をついて、ハイボールを口に含んでいく。微かに咎めるような視線を受け、お前がそれを言うのかよとこちらのほうが呆れそうになった。
「13も年下の子をどうにかした悪い大人が何まともっぽいこと言ってんだ」
「はあ?」
飲み下しざま、何言ってんだお前と言わんばかりの渋い表情で疑問符が飛んできた。丸く小さくなった氷を齧って、松川の疑問符をそのままレシーブしてやる。
「はあ?って、はあ?」
かたい塩キャベツをひと口かじり、渋い顔を返してやった。松川は訝しげな表情のまま何度か瞬きをして、わずかに口元を緩めた。ふらふらと頭を縦に揺らしていたのは、なにかが腹に落ちたときの仕草だった。
「………ああ。ね」
「なに?」
「いや?」
「なんだよ?」
どこか楽しそうに笑んでいる松川は追及に答えようとせず、自分のスマホを手繰り寄せて明かりをつけた。時刻を一瞥し、思いついたように口を開く。
「国見が飲んでる店、ここから近いんだっけ。連れてきたら?」
「は?」
「待っててやるからさ」
「なに急に」
「いいからいいから」
連絡してやりな、と松川が笑う。どっちみちお開きの頃合いに迎えに行く予定だったし、本人から要請がきていることもあって「5分くらいしたら店出て」と国見にメッセージを送ってやる。へちゃむくれの猫が不満そうにしているスタンプがひとつと、たった一言、短い言葉が返ってきた。
“はやくきて”
—
ネクタイを首元でキッチリ留めたままの姿で、国見は店の前に立っていた。おおよそ飲み会帰りとは思えない姿に思わず笑いがこみあげてしまう。
「おぃーす。お疲れ」
「……遅いんすけど」
「ごめんって。てかお前飲んだの?」
「まあ、軽くは」
「まじ?スーツ全然崩れてねえじゃん」
「すぐ帰るって意思表示ですよ」
「うはは」
国見は人が嫌いというわけではない。どちらかといえば少人数か1人飲みを好むタイプで、不特定多数の人間に愛想をもって接するのも1日のうち数時間が限度という集中型だった。
その反面、懐いた相手には遠慮がない。程度はあれど、ひとたび懐けば年上相手だろうと容赦なく我儘も言うし、スキンシップだってそれなりにしてくる。高校のころ、金田一の背中を叩いたりふくらはぎを蹴り飛ばしたりしていたのもその一環だったのだと思う。こちらからしてみれば不器用なやり方ばかりで可愛いなと思うほどだった。
「今度は松川さん待たせてるんじゃないですか」
「えっ、なんで知ってんの」
「花巻さんが来る前に連絡ありました。迎えに行ったから一緒にこっち来いって」
「あいつ抜かりねえな……」
「置いて帰るつもりだったんすか?」
「そうじゃねえけど」
あの場に国見を連れて行ってもいいんだろうかと不安にはなっている。なにも生娘を連れていくわけじゃないのだから合流させたって構わないのだが、良い予感はしないというだけで躊躇うには十分な理由だった。
「人を待たせるは不義理ですよ」
「うーい……」
国見にそう言われては何も言い返せなかった。手でも繋ぐ?と冗談めかして聞いたと同時に、国見のスマホが何かメッセージを受け取った音がして、それは叶わなかった。
-
お帰りなさあい、と入店一番に店員が声をかけてくれた。国見はきょとんとしていたが、迎えに行くときに言っておいたんだと言えば納得したように店内を見まわし始める。
こっち、と国見の手を引いて松川の後ろ姿をみとめた。
「おかえり」
「おー」
「こんばんは」
「久しぶりじゃん国見」
「そすね」
松川の正面、テーブル席の壁際に座らせようと促すと、国見はあっさり俺こっちと言わんばかりに俺の背中を押した。オーダーを取りに来た店員にさりげなく「生で」と頼んだ横顔を見て、ああ早く帰りたいと切に思う。
「国見も来たことだし、続き話すけど」
「おぉい……いきなりぶっ放すなよ」
「何の話ですか?」
「こいつの恋人の話」
「松川さんの恋人さんの話……ですか」
「そう。ちょうど盛り上がってきたから、国見こっち呼んでって花巻にお願いしちゃった」
「えげつねえから深掘りすんなよ国見」
「えげつないって、むしろ気になるんすけど」
「お。聞いてくれる?」
「やめろって。国見に変なこと教えんな」
「まだ何も言ってねえよ」
「馴れ初めがやばいとかですか?」
「いいや全然」
「じゃあ、恋人さんの血筋がエグいとか」
「見たところ普通だったから、それもハズレ」
「……? めっちゃ噛むとか、ヒス起こして暴れるタイプ捕まえちゃったとか?」
「ブー。てか、国見からそういう言葉出てくんの意外なんだけど。誰に教わったの」
「大体は花巻さんすね」
「こいつ変態だもんね」
「断じて俺じゃねえから」
これ食っていいですか、と食いかけていた出汁巻きを横から奪われる。可愛いもんだ。国見は何かとこうして食いかけを横から攫っていくけれど、きちんとお返しもする。現に今だって、出汁巻のお返しにチーズもちがひとつ取り分けられて皿に返ってきた。
「なんか、お前ら見てたらさあ」
「なに?」
「なんすか?」
「帰ったらあの子をめためたに甘やかしてあげようって思うわ」
視界の端で国見の頭が揺れた。たぶん首を傾げたんだろう。
「……はあ、…?」
「すっげえ甘えたがりなんだと。松川の恋人さん」
「へえ。どんなふうに甘えられるんですか?」
ときおり好奇心に駆られてどこまでも走っていく恋人は、なぜか爆薬を注ぐような勢いで松川の話を掘り下げようとした。こうなってしまうと止めたってたぶん聞かない。深掘りをするなという牽制はさっさとアルコールに溶けてしまったようだ。それでも何より国見が自由であることは、自分にとっても喜ばしいことだった。
「膝の上に乗ってきたり、指の背をこう、甘噛みしてきたり?」
「松川……頼むからそのジェスチャーやめてくんね?」
「なんで?」
「お前の話し方だとリアルに映像浮かぶから怖え」
「えー。分かりやすいって言って欲しいわそこは」
「分かりやすくなくていいんだよこういうのは」
いっそ悪酔いしそうな映像が脳裏に浮かぶ。そりゃあ友人が幸せであることは素直に祝福できることだが、初耳で情事スレスレの話をされても困惑するだけだ。国見の両耳を塞ぐタイミングを窺っていると、その本人が呆れたようにこちらを一瞥し、ちいさい溜息をついて松川に向き直った。
「……あの、松川さん」
「ん?」
「もう良いんじゃないすか。ていうか後が面倒なんで、そろそろ」
「そう?」
「俺、行きたくもない飲み会で散々な目にあって疲れてんすよ」
「うん。そんな顔してんね」
「帰ってから花巻さんをフォローする余力とかマジで無いんで」
予想だにしていなかった会話が飛び交う。名実ともに突然置いてけぼりにされて、とうとう本当に困惑した。ほんの少し前までなら、こんなふうに置いてけぼりにされる役回りは及川だったというのに。当の男は今やアルゼンチン国籍の人間になって世界大会常連の大セッターにまでなっている。あの頃は本当にありがとう我らが主将……と意識を斜めに飛ばしていなければ現状を保てないでいた。
「国見も苦労してんだね」
「いや、まあ、それなりに」
「待ってマジでなんの話?」
「花巻さんちょっと黙って」
「ええー……?」
どうしてか2対1の図式になっているような気がする。松川と国見の間でなにか、こちらの知り得ない情報が共有されているように思えてならない。
「ま、可愛い後輩の頼みときちゃあ、しょーがねえか」
「あざす」
「ちょっと待って、俺だけ状況わかってねえんだけど」
「花巻」
「なに」
「俺の恋人はね、」
「ッ、うぉおおいやめろって!丸腰だって俺!」
松川が制止も聞かずテーブルの上へ軽く身を乗り出した。話を止める気はないとでも言うように頬杖をついて、それはもうにこやかに口を開きかける。いくら10年以上の友人だからって、ここで犯罪スレスレの片棒を担ぎたくはない。むしろ友人として止めなくてはならない事案だというのに、松川は容赦なく声を発した。
「ねーこ」
「………………は?」
「だから、ねこ」
「…………ねこ?」
「そう。子猫」
「……ガチの?」
「ガチの。ほら、」
言ってスマホを差し出し、1枚の画像が現れた。とん、と右肩に体温がぶつかって、国見がのぞき込んでいるのだと分かった。
「わ。本当に小さい」
「でしょ」
「……え、なんで国見そんな普通でいられてんの?」
「これから恋人の話をするけど子猫のことだからって、ここ来る前に松川さんから」
「…………………はああああああ!?」
店員の迷惑そうな視線も気にする余裕がなくなるほど、声を張り上げていた。
「じゃあなに、松川お前、俺が猫の話だって気づいてねえことに気づいてたのかよ?!」
「そうなるよね」
「よね、じゃねえよ。よね、じゃ」
このとき、松川の揶揄に腹を立てていたことが半分、国見が松川と秘密を共有していたことへのさみしさが半分。ふたつが混ぜこぜになって疎外感という形で圧し掛かってきたことへの抵抗として、「……ちょっと煙草吸ってくる」と席を立った。こんなことで拗ねるなんて子供じみていると痛いほど分かっていたけれど、酒のせいにすることにした。
その場を離れたせいで、国見と松川の間でこんな会話がなされていたとも知らないまま。
「………あーあ。どっちにしろ面倒くせえパターン」
「あいつがあんなにキレるとは。計算外」
「大丈夫ですよ」
「ん?」
「そんなに怒ってないです、あれは」
「そう?」
「たぶん羞恥のほうが強いやつなんで」
「ふふ」
「つーか財布とスマホ置いてってるし。はー……」
「なんかごめんな」
「大丈夫です。何とかします」
「さっすが。頼りにしてるよ」
「……俺も松川さん頼りにしてますけど、」
「あら嬉し」
「あんま花巻さんで遊ばないでくださいね。拗ねると変に長いんですから」
「大丈夫でしょ。あいつが拗ねるのは国見がらみのことだけだし」
「………」
「お前も然り。でしょ?」
「……まあ、多少は」
「はははっ。素直なのはいいことだと思うよ」
「……ども」
「お詫びにここ持つから。あとよろしくな」
「はあーい。ごちです」
「おー。おやすみ」
-
大人げがねえ、と自己嫌悪に陥りそうになる。せめて恋人の前では余裕を持った人間でありたいと思うのに、なぜかいつも切羽詰まってしまうのは、たぶん国見のほうが何倍も落ち着いているからだ。……落ち着いているというよりは「興味をひくものがそんなに多くない」というほうが近いような気もするが。
喫煙所までやってきた国見は「さっきの店、ぜんぶ松川さん持ちになりました」とネクタイを緩めながら言った。
「ああもう松川のやつー!なんだよ猫って!最初っからそう言えっての!」
「花巻さん声でかい。通報されるんでやめてください」
「だぁってさあー」
「おちょくりモードの松川さんに口で勝つのは無理ですよ。あの人頭いいし」
「俺も同じ学校出てますけどお」
「花巻さんは人が良すぎるんです。ほら、荷物」
「ッ、…………ありがと」
「いいえ」
もとより国見に対して怒ってはいないし、松川に対しても怒っていない。相手のリアクションを面白がるなんてこと、やられたりやり返したりが俺らの在り方だ。だから怒りなんて少しもない。今もっとも自分の内部を占めている感情に名前を付けるとしたら「恥」だ。
松川は頭がいい。話術もある。高校の頃からそのことは十二分に認めていた。そしてそこに、なぜか寝ぼけたような状態でも好成績を残し続けていたような国見が加わっては俺に勝ち目はなかった。恥と悔しさ、たぶんそれだけのことだった。
「……、……」
追い抜きざま、国見が何かちいさく呟いたような気がした。
「ん?今なんか言った?」
「花巻さん」
「なに?」
「俺、こう見えてかなり妬いてますからね」
「……え?」
「今日だって、家で花巻さんと飲んでる方がよっぽど良いって分かったからさっさと連絡したのに」
「国見……」
「でも、だからって松川さんと仲違いとか絶対して欲しくないです」
「……お前、いい、」
いい子だなあ、と言いかけて、先に国見が振り返って言った。
「タダ飯食えなくなるんで」
「ッ、お前なあ!」
いい話で終わる流れだったじゃん!とその日いちばんの大きな笑い声が出た。
松川のことはやっぱり翌朝になるとすっかり許せていて、「今度みゆちゃんに会わせろ。それでチャラな」と朝イチでメッセージを送った。まだ寝ぼけ眼の状態だった国見の前でそんなやり取りをしたものだから、誰にも猫の名前を聞かされていなかった国見がその日1日えらく拗ねてしまったのはまた別の話である。
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