さもゆ
2024-11-21 17:27:53
9593文字
Public BF
 

【BF腐】風邪っぴき英二の三時間

59丁目、タイトルの通りな話。

2020.7.9 たまごのお粥pixiv投稿作品

 風邪をひいた。
 予兆はあった。
 たとえば、ケアなんてしていない唇が、いつもと違う荒れ方をしたこととか。痛いような痛くないようななんだか違和感のある喉を、ニューヨークの冷たいビル風が鼻から入り込み刺激して、それだけでうっと少し嘔吐きかけたこととか。階段の上り下りをしんどく感じたこととか。あ、これ、明日にでも喉痛がひどくなるな、と思った。そして今までのことを考えると、熱も出るな、とも。
 さすがは十九年ものの体でいらっしゃる。ぼくはぼくの体のことをよく分かっている。
 ぼくは予兆通りしっかり風邪をひいた。



風邪っぴき英二の三時間




 英二の体調不良にいち早く気づいたのは彼の同居人ではなく、同居人の仲間たちでもなく、彼の行きつけスーパーの最近よく話すレジ店員でもなく、彼の部屋の隅にいる埃食いたちだった。
 埃食いというのはその名の通り埃を食って生きるもののことで、一見するとただの埃なのだが見る者によってはほんの小さな毛むくじゃらの手足が見え、これはただの埃ではないと気づく。とはいえそんな者がいたら今頃彼らは学会で発表され一躍有名になってこんな59丁目の高級アパートという怠惰な牢獄で埃を食って生きてはいけないだろうから、人間にとっては本当にただの埃だった。

 さて。

 彼らはここ数週間とても良いご飯を食べることができていた。もちろん埃のことである。
 しばらく空き部屋であったこの部屋で、人間の皮脂の混じっていない味気ない埃を味わい、ダニのトムや花粉のエリーと友だちになり戦い食らいつくすという荒んだ生活を送っていたのだが、ようやく人間が住むようになってから彼らは楽しい生活を送れるようになった。
 人間が通ることで風が生まれどこにでも行けたし、掃除されるようになって身が削れ軽くなれたし、そして何より。良質な埃を摂取できる。
 埃食いたちは驚き、引っ越してきた人間二人に感謝した。二人というよりは、観察によってほぼ一人ということが分かった。
 黒い髪を落とす人間と金の髪を落とす人間がいるが、この黒い方の人間が部屋の埃を良質にしているのだ。
 掃除は小まめにしてくれ、使っていない部屋の換気もしてくれる。黒髪の人間は働き者で、料理もし、そしてその料理がよほど良いものらしかった。それを食べた彼と金髪の彼の皮脂が埃に混ざって彼らの食事となる。これがとても質が良く、美味しかった。皮脂自体は素朴な味わいなのだが部屋の埃と混ざると優しい甘さやピリ辛い味が繊維の隙間に満ちていく。埃食いたちは荒んだ気持ちがたちまち穏やかになっていくのを感じていた。
 
 ところが、そんな良質な味が一昨日から急変したのである。
 それは埃を食う埃食いたちにしか気づけない変化だったろう。
 もしかすると、彼本人も気づいていなかったのかもしれない。
 金髪の彼の皮脂は変わらずピリ辛で美味しかったが、黒髪の彼の皮脂が苦味を伴った。埃食いたちはその味を知っていた。以前、この部屋で住んでいた人間も同じ味になったことがある。(あれは比にならないくらいひどい味がしたが)これは、病の味だ。人間は病気になると、皮脂がべとべとと埃にくっつき不味くなる。埃食いたちは痺れる小さな舌で自身の毛繕いをしながら、どうしたものかと考えていた。基本、埃食いたちはそんなことを考えない。埃のように流されるまま生きていくのが常だからだ。
 けれど、彼らにそんなことを考えさせるくらい、黒髪の人間はいい人間だった。
 なんとかしなければ。
 埃食いたちは部屋隅で寄せ集まって喧喧囂囂と埃を散らした。







 ベッドの中でみのむしになっている。
 体の節々は骨の隙間に刃物を差し込まれているみたいに痛いし、腫れた喉は鼻詰まりも相俟って最悪なほど粘着質だし、そのくせ口の中は渇いて仕方ない。せめて眠れたらいいのに、うーとかあーとか唸るばかりで一向に眠気がやってこない。本当はやってきているのかもしれないが、茹った脳みそがそれを簡単に出迎えてくれなかった。
「しんどい……
 呻き声は言語を紡げず最早日本語か英語かも分からない。
 風邪を引くだろうとは思っていたけれど。
 まさかここまで急に悪化するとは思わなかった。
 でもひとつ、幸いなことがある。
 三時間前、夕方六時に出て行ったアッシュは明日の夜まで戻って来ない。彼が出て行った瞬間気が抜けてベッドの住人となってしまったが、元来自分は頑丈だ。ご飯は食べたし、薬も飲んだ。じきに良くなるだろう。
 なんとか明日の夜までに、せめて立ち上がってキッチンにいれるようにならなければ。一昨日からの倦怠感もあり、掃除だってまともにしていないから、掃除機もかけておきたい。
 ぼくはごほごほと咳き込んだ。



 僅かに空気が動いたため埃食いたちはぴたりと口を閉ざした。ふわふわと浮き上がりそうだったのを仲間たちと手を繋いで耐え忍ぶ。するとおもむろに仲間のフィーピーが口を開いた。
“どうやら彼、相当苦しんでいるわよ”
 フィーピーは埃食いたちの中でもひときわ風に敏感で、その風が何を運び見てきたかを察するのが上手かった。
“苦しんでいるって、どのように”
 フィーピーの右手と手を繋いでいるのんびりもののドナスが訊いた。
“どのようにも、このようにも、とってもひどい。そのうち、彼の肺から全ての空気が吐き出されて、萎んで、死んじゃうくらい、ひどい” 
 フィーピーは大袈裟なところがあった。しかしそれも致し方ない。小さな埃食いたちにとって人間の一挙手一投足は文字通り大きすぎるものであったし、咳によって生じた不穏な風はちくちくと攻撃性を持っていたので、会議は益々悪い予想へ行きつくというものだ。
“死んじゃうと、どーなるの?”
 仲間のうちで一番幼いピパブが訊いた。
“そんなのは決まってる。食事にありつけなくなるんだよ”
 食いしん坊のゲダンが言う。 “もちろん、良い食事にな。普通の食事か、それより悪い食事にはありつける”
“ぼくそんなのやだな”
“誰だってイヤさ”
“どーしようか” ドナスがのんびり自身の埃を揺らした。
 ふわふわと舞う埃の粒子を食いながら、フィーピーの左手と手を繋いでいた最も思慮深く人間に興味を持っている研究熱心なゾナが、“彼を呼んだらどうかしら” と言った。
“彼?”
“そう。金髪の、ちょっとピリ辛でハンサムな彼よ”
“おれの方がハンサムだろ?”
“そうね、あなたの立派なお腹はとても素敵よ、ゲダン” ゾナは笑って続けた。 “でも彼らには、あたしたちと違って、もっと素敵なことが必要だと思うの”
“素敵なこと?” とフィーピー。
“そう。ねえ、聞こえる? 地鳴りのような呻き声。とっても不幸だわ。不幸な時って、人間は、ひとりになりたくないものよ。かといって、誰でもそばにいていいものじゃない。一等、特別なひとでなくちゃ”
“それが彼なの?”
“あたしの見解によれば” ゾナは重々しく頷いた。 “彼らはきっと恋人ね” その見解は間違っていた。
“へえ、恋人!” ゲダンが驚いて声を上げる。 “で、恋人って? 食えるの?”
“とにかく”
 フィーピーがまた吹いてきた乱暴な風に鼻先をひくつかせて言った。
“何か手を打たなきゃ、この風がやまないのは確かだと思う。金髪の彼は一体、どこへ行ったの?”
“どこへ行ったにしろ” とゾナ。 “なんとか、彼に気づいて戻って来てもらわなければ”

“それならいい案があるよ”

 幼いゆえに発想が柔軟なピパブが声を上げた。

 埃食いたちは一層ぎゅっと身を寄せ合って話を聞く。こそりこそり、部屋隅の床で、人間の耳には決して届かない音を立てた。  







 冷たい風がくすんだ金髪を乱してくる。
 ポケットに手を突っ込み、目立たないよう街中を歩いている。リンクスの集会所は今回は比較的街中、一時間も歩けば辿り着く安いバーだった。
 夜のとばりが下り始め、排気ガスを撒き散らす車体はヘッドライトで影を伸ばしたり引いたりしていた。傍の歩道を歩き続けて行くうちに、その影が自分の足下にへばりついて歩みを止めさせようと動いている錯覚に陥る。止まってしまったら、おそらく駄目だが、そうなったらどうなるんだろう。
 影に飲まれて、押し込まれて、おしまい。
 足がとんでもなく重くなり、出かける間際に見た日本人の顔が思い浮かんだ。
 何かが、おかしかった気がする。
 それは影みたいにちらつき、足を鈍くさせ、眉間の皺を深くさせる。
 いつも通りに見えたけれど。たぶん、普段は生きるために働く勘のようなものが、違和感の発し方に戸惑っている。感じたことのない違和を、どうやってこの体の主に知らせようか、悩んでいるのだ。
 車が途切れ、風が吹いていったあと、側溝を何かが駆け抜けて行く音がした。
 鼠?
 そんなようなものだろう。足を止めさせるには些細すぎる足音だ。目も向けずに構わず歩き続けた。
 もう少しで、部屋を出てから一時間が経つ。



 ごほごほと部屋の空気が淀んでいる。
 布団をいくら被っても寒くて寒くて、そのくせ汗が浮かぶほど熱が滲んで仕方ない。
 汗をたくさんかけば治る。
 ご飯は食べた。
 薬も飲んだ。
 あとは眠るだけだ。
 そうしたら治る。
 ぼくはぼくのことを一番よく分かっているので、そう思い込むことで本当に体がいくらかマシになることを知っている。いま苦しいのは好転反応というやつで、あとから必ず良くなるという前触れなんだ。この状態がずっと続くわけではない。耐えて、我慢すれば、あの病み上がりのしんどさに安堵するときがくる。動かすのもつらい筋肉が、衰えながらも正常になり、お腹が減って、妙に意識だけが先行して元気になるときが、必ず。苦しいのはいまだけ。あとちょっと。そのうち治るから。
「うえ……
 本当にそうだったっけ、ぼくは重い頭をずれた枕に擦りつけた。
 分かっている。熱があるときって情緒不安定になるんだ。いくら何かを信じていたって大抵のことにネガティブになってしまう。それもまた思い込みだ。
 けれどどうして、悪い状況が必ず良くなるなんて信じられるんだ?
「げほっ……
 咳と同時に鼻水が出た。ティッシュ。サイドテーブルに置いてあるティッシュ箱を取ろうと手を伸ばし、届かず、一通り身じろいでからなんとか起き上がって鼻をかむ。ずびびびっ、ひどい音だ。ヘッドボードに背中を預け、座ると腰が痛いが咳は多少マシになって荒れた口呼吸を繰り返す。水も置いておくべきだった。馬鹿だ。
「あー、クソ」
 何がクソかって、そもそも体調管理を怠った自分がまずそうだ。アッシュにはあれだけ健康志向を押しつけといて、自分はこの体たらくぶり。これで日本食が万全じゃないことが露呈してしまう。
 それから、もし明日の夜までに少しも回復せず、アッシュの帰りを布団の中から出迎えるなんてことになったら、いよいよただ部屋の中にいるだけのお荷物になってしまうだろう。
 そうしたら彼の友人としてどころか人間としての存在価値すら見失ってしまう。
「ごほっ」 
 おまけにウィルスだってうつしてしまうかも。
 熱い涙が滲んできて、汗のついでに手で拭う。皮膚がべとべとして気持ちが悪い。タオルで拭くべきだ。水分も補給するべき。
 ぼくはぼうっとした頭で『水』とだけ考えてベッドから下りようと動いた。
 どてっと落ちた。埃が舞う。

 

 どてっとした強風に見舞われた埃食いたちは部屋隅を波のようにうまく漂いながらあっと埃を散らした。
“あれって死んだんじゃない!?” 
 一番高くまで風に乗ったフィーピーがそう叫んだ。
“どーなってる!?”
“それが、なんというか……死んだみたいなの! ぐったりって感じ”
“ぐったりなら、まだ死んでないよ” 根拠のないことを自信満々に言ったのは風のせいでドナスから分裂したまだ名前のない埃食いだった。ドナスがのんびりそいつを追いかけて行って腹に押し込む。“しかし、やだな、急がなきゃいけない?” 床に不時着したドナスが訊くと、ほかの埃食いより重いゲダンが、舞い飛んで行ってしまいそうだった幼いピパブを引き寄せつつおれも忙しいのは嫌だなと言った。“このままじゃ痩せちまう”
“彼らのご飯のためなら、一時的な痩せくらい、どうってことないわよ。どう思う、ゾナ? 彼、死んでる?”
“死んではいないわ”
 ベッド足の近くまで自分の細かな埃を飛ばして様子を窺っていたゾナは、一段小さくなった体でふわふわと宙を漂っていた。
“しかし、だめね” と難しく言う。“人間って、あんなふうに床にへばりついて生きていくには、硬すぎるし、重すぎると思うの。つまり”
“つまり?”
“彼、とっても死にかけてる。胞子の苗床になるにはあと……もって一時間というところね” ゾナは人間について探求心が一際深かったが、異種族である人間を全て理解するにはあんまり埃すぎていた。
 ああ、そんな、埃食いたちに悲しみが広がる。
“どうにかならない、ピパブ?”
 ピパブは幼いもの特有の明るさでどうにかしてみせるよと頷いた。

“ぼく、鼠のほかにも、いっぱい友だちがいるんだ! 今夜ちょうど降ってくれると思う!” 
 






 どうにも自分の機嫌が悪いらしいと気づけたのは、話していたリンクスのメンバーが視線を気遣わしげに投げてくるからだった。
 報告を聞き、一通りの指示を飛ばし、今後のことを話している最中、薄暗いバーの照明に照らされた各々の顔が時折窺うようにこっちを見たり、隣同士で見合ったりする。それに気づいて、うるさい視線を一発で黙らせたりもしくは何も気づかなかったふりをするのは得意中の得意のはずなのに、おれは一区切りつけてから「休憩」とぼそっと言った。
 一帯から抜け出しカウンターに居座る。ここのマスターはいないも同然で、というのも限りなく違法に近い内部なので誰を見ようが何を聞こうがカウンターの奥でマスター然として立つだけの、有り難く透明な大人だった。
「ボス」
 一席空けて、アレックスがカウンターにもたれかかった。やはり思案気な顔をして、何かを言い淀んでいる。離れたところでコングとボーンズがジェスチャーしていた。“頑張れ、言えって”
 それおれに見えてるけどいいのか。アレックスが意を決して口を開く前に、呆れた気持ちで訊いていた。
「そんなに機嫌悪く見えたか、おれ」
 アレックスは面食らったふうだったが、素直に「ああ」と頷いてから「あ、いや、そーいうわけでも」と慌てふためく。
「別に怒ったりしねーよ」
 なんだか疲れた気持ちで頬杖をつくと、彼はちょっと迷ってから言った。
「英二に、何かあったんじゃねえかと」
「英二に?」
「みんな、わりと心配してる」
 見ると、休憩に散らばったものの大体が固まってこちらの様子を見ている。目が合った者はサッと視線を逸らした。あからさまで、下手くそで、かわいくはないが仕方ない気持ちにさせる誤魔化しだ。しかしまあ、つまり、あいつらはボスの機嫌の良否に日本人が関わっているのではと真っ先に思ったということだ。食事や怪我の治療で世話になったやつもいるし、ただ単にあの毒気のない性格に敵意を奪われたやつもいる。そして自分たちのボスが許すなら、と文句を飲み込み見守っているやつも。
 居心地の悪い気分にる。
 意味もなく座り直し、別に何も、と返そうとしたところで「別に何も」なかったのなら自分はこんなにも違和感を覚えていないと思う。
 何かあったのではないかと疑っているのはおれも同じだ。
 でもその何かがよく分からないし、現に英二はいつも通りに見えた。いつも通りおれを起こして、いつも通りご飯をつくって、掃除はしていなかった気がする、いつも通りおれを見送って……
 本当にいつも通りだったか?
 朝も昼も夕刻も、どことなくあの鼻の低い柔らかな表情に影が落ちていたのは?
 けれどそんなのは、自分と暮らしていく以上、当然の顔つきだ。何も常に笑っていろと言うわけではない。そりゃできるなら笑っていてほしいけれど、おれの最も望むことはあいつが無事でいることで、それ以上を望むなんてことは。だから多少あいつに元気がなくても、ただあの家の中にいてくれたら……
 何がなかったって?
「元気が」
 不意に呟いた言葉に、アレックスは訝しんで訊き返してきた。「何って?」
「元気がなかった気がする」
「誰の?」
「英二だよ、決まってンだろ」むしろ今の話の流れで別の名前が出るわけがない。「そうだ、おかしい。おれはあいつが笑って暮らせないのを覚悟して同居させてたんだ。けど、いつだって楽しそうに笑うし、だから今日の様子は絶対おかしかった。変だ」
……アッシュ」
「あんな作り笑い。違和感てレベルじゃねえだろ。なんで気づかなかったんだ?」
「アッシュ。帰った方がいい」
 アレックスと目を合わせる。“帰った方がいい” まるで不思議な響きを持つ英語だ。
「いや、」
「アンタ気づいてなかったのか? いつにも増して効率的に指示を飛ばしてたし、本来なら何時間もかけて話し合うものを一時間で決めちまった。もちろんそこに穴はなかったよ。おれの頭で考えつくレベルの穴だけど」
「お前は自分で思ってるより賢いよ」本心だった。でなければ右腕にしない。
「マジか」アレックスは照れたふうに笑い、すぐに気を引き締めてだからと言った。「帰るべきだ。ここでのアンタの仕事はもう終わったし、あとは英二のそばでアッシュをしてろ」
 おかしな言い方だと思ったが、おれは一寸考えてから黙って頷いた。椅子から下り、アレックスの肩を叩いてドアへと向かう。その際店内の片隅、闇になっているところで鼠が走った気がして、今からこの薄汚い暗闇からあの綺麗な明るい部屋に帰るのかと思うとまた足が重くなった。気分だけが急いている。
 
 ドアを開けると外は雪が降っていた。一瞬で広がる白息を吐き出しながら、道に出る。この街の雪は、きっとどこの街の雪よりも汚い。水道水は飲めたものじゃないし、そうすると水蒸気も汚れていて、塵や埃は何が混ざっているか分かったもんじゃない。雪なんて見た目が綺麗なだけで、本当は部屋隅の黒ずんだ埃と同等だ。そういうものが降り積もった雪山に埋もれて死んだら、自分は一体どっちなんだろうと沈んだことまで考えてしまう。

 と。足元を鼠が駆け抜けて行き、確かにニューヨークは溝鼠やゴキブリの巣窟だが今日はやけに目につく気がして鼠を視線で追う。あっ、と目を疑った。

 歩道、人の足跡を巧みに避けて、小さな足跡が雪にアルファベットを形作っていた。

 ――Hurry up! (急いで!)
 
 不思議な現象に思考が考えるのをやめ、足がようやく心に伴って急ぎだした。







 ベッドから落ちたまま呻いているうちに眠ってしまい、そして目を開けたときには硬い床ではなく再びベッドで寝かされていた上そばにいるはずのない同居人がそばにいて心底びっくりした。
「げほっ」
 びっくりした、と言いたかった。
 椅子にも座らず、床に跪いて自分を見ていたアッシュは、ぼくの黒目と目が合うとベッドランプの灯りでも分かるほど眦をつり上げ怒りを露わにした。かと思ったらすぐにその感情を押し込んで笑いかけてくる。「大丈夫か」
 大丈夫ではなかった。
 相変わらず風邪を引いている。
「なんで……」掠れまくった英語を紡ぎ出す。「いるの? ここに」ぼくとしてはその質問は、もう一日経ってしまったの? じゃあぼくは風邪に負けて、きみにみっともないお荷物な姿を晒してしまったんだ、悲しい、悔しい、という意味合いの問いかけだったのだが、なぜかアッシュは傷ついた顔をしたので、彼の自虐性に触れるような全く意味合いの違う問いとして受け取られたかもしれない。
 証拠に、アッシュは鈍い痛みの続く頭に優しく低く囁いてきた。
「戻って来ない方が、良かったか」
 どうしてそんなことを訊かれるのか分からない。病人に対する配慮がないと思う。
「なんで。そーじゃなくて、時間が……もう明日になったの?」
「明日? ああ、違う、おれが夕方に出て行ってから、三時間くらいしか経ってないよ」
「そう……
 ぼくはどっと安心して、体ごと彼に向き合った。意識はぼうっとして、視界はやっぱり熱っぽく潤んでいる。それでもアッシュの首筋や額に汗が滲んでいるのが分かった。「……汗すごいよ」
「走って来たから。あと雪」
「風邪引いちゃうよ」
「お前のなら、うつってもいい」
「ばかを言うな」なんのために明日きみが戻ってくるまでに治そうとしたと思ってるんだ。「ちゃんと拭いて、それか風呂入って汗流して、あったかくして」
「おれのことはいいんだよ」苛立たし気に言う。「何か、してほしいことは。薬は飲んだ跡があった。おれにできることは、」
「きみの汗を拭いて」
……分かったよ。それから?」
 それから、って。
 ぼくはその途方の暮れたような態度に覚えがあった。大体の人が経験したりするかもしれない。ぼくの場合はやはり実家、小さいころのことで、妹が熱を出して寝込んだときに、忙しく動く母親に何か手伝えることはないかと訊ねて、すげなく断られたことがある。ぼくはそのとき、どうしようもないくらい悲しくて寂しかった気がする。ので、妹の方に何かしてほしいことはないかと訊きにいったら「怖い夢を見るからそばにいて」と今思えば大変かわいいことを言われて、自分にできることがあるのが嬉しくて喜んで妹のそばにいた。風邪はうつった。交代で熱を出したぼくを母親はえらく怒っていた。それで、熱を出したときひとりでいる恐ろしさを知っている妹がそばにいてくれようとしたけれど、部屋から追い出されてお互い泣いていた。かわいい話だ。今じゃ考えられない。
 今じゃ考えられないけれど、ぼくのために何かをしたいらしいアッシュの気持ちと、思い出のことが頭に浮かぶと、ちょっと泣きそうな気持ちになった。
 寂しかったんだ。
 風邪を引くと、体も心も弱る。
 難しいこと全部取っ払って、ただ誰かに自分のそばにいてほしい。
 ……するとアッシュはいつだって風邪を引いているのかもしれない。
 涙が滲んだ。
「マスクをして」
 ぼくは鼻声を出す喉で喘ぎながら言った。
「汗を拭いて、マスクをして、手洗いうがいも。それから、……水。水も、取ってきてほしい」
「ああ、分かった。取ってくる」 
「それから……
「それから?」
「そばにいてほしい」
 ずびっ、鼻水。
「ほんとは、明日の夜までに、治すつもりだったのに……うつしたくないし、そーいう、顔も、させたくなかったし、荷物の……荷物に……なりたくなかったし、」気を抜くと英語を紡げなくなる。「けど、まあ、いいや……ただの、風邪で、二人だけだし、きみがうつったら……ぼくが面倒見るから……」布団の隙間から手を伸ばして、彼の指を手探りで握り込む。「だから、はやく、準備をしてきてくれ……」指から手を離して、眠りの体勢に入る。
 アッシュはばたばたと寝室を出て行った。
 戻ってくるまでの僅かな時間を、ぼくは眠らないように頑張らなければならなかった。

 風邪が良くなったら、二人で掃除をしよう、舞い飛んだ埃を見てそう言いたくなったので。