さもゆ
2024-11-21 17:14:24
25828文字
Public BBB
 

【ステクラ】氷の部屋

子ども時代の副官みたいなの(捏造過多)が出てくる話。
流血表現あり。限りなく友情に近い。
あと見た目の色をなんとなく原作寄りにしています…。

2020.6.25 たまごのお粥pixiv投稿作品

 幼いころ、誰にも開けられない氷の部屋をつくったことがある。
 自分ひとりだけの、足を伸ばして座ることもできないほど、狭い子ども部屋。
 まず硝子の混じる地面の上で、裸足の裏を叩きつけた。血が滴り、染み出すのを助長させて自分を取り囲むように円柱を立ち上げる。地面から生えた氷柱 つららのような柱と柱の間にも氷を張り巡らし、それだけでは自分の姿が外から丸見えだったので血に塗れた硝子片を拾い上げて手のひらを傷つけた。
 薄氷の壁に両手を這わし、冷たく凍えるそこをつるつると撫でていく。血は凍りつき、円の中を撫でて回るたび分厚く堅牢になっていく。首から体へと伸びる刺青のおかげで寒さは感じず、しかし指先は血の気が失せ真っ白くなっていた。吐息が凍る。まつ毛が重くなる。もう少し、もう少し……
 最後に背伸びをして天井をつくった。手のひらから氷を生み出し、それで蓋をした。
 自分にしか、開けられない。
 膝を抱えて座ろうにも、散らばる硝子片をどかすことも億劫だ。
 指先と足裏から血を滲ませ、ただそこに突っ立って目を閉じる。

 自分はその部屋の住人だった。



氷の部屋




 クラウスの目の前に子どもがいる。
 どこかで見たことがあるような子どもだ。

 癖のある、子どもにしては艶のないくたびれた黒髪。雨上がりの湿った暗がりのような濃紺の瞳。垂れた目尻のわりには、凛々しく跳ね上がった眉毛。雪の冷たさを感じさせる生白い肌に、それから、左の目尻の横、髪に隠れたこめかみから、血の気の薄い唇の端近くまで歪に走る大きな傷痕。
 襤褸切 ぼろきれじみた衣服は足の長さに合っておらず、傷だらけの脛をあらわにしており、一瞬襤褸の延長かと見間違う暗色の刺青が裸足の足に這い巡っている。それは首筋からも覗いていて、細い首を絞めているようにクラウスには見えた。
「スティーブン」
 思ったより、確信めいた声音が出たと思う。
 目の前の子どもはクラウスの知る、この事務所がある秘密結社ライブラの優秀な副官、スターフェイズにそっくりだった。そっくりというか、彼をそのまま小さくして若返らせたらこんなような外見になるだろうと予想をしたら、まさに目の前の子どもに辿り着く、疑いようのない整合性を感じさせてくる。
 普通ならば、大人である彼と十にも満たない様子の子どもを同一人物とは想定しないが、生憎とここはなんでも起こる世界の中心街、ヘルサレムズ・ロットである。もしや彼が縮んだか、分裂したか、とにかくクラウスは子どもが自分の副官に関係していると思い込んだ。だってここは、そりゃ何度か破壊されたり侵入されたりもしたけれど、科学的にも魔術的にもセキュリティ抜群の秘密結社なのだし。何某かが誰にも気づかれず侵入したとは、まあちょっと、そんなに、考えられない。
 クラウスは多少の驚愕と警戒からなる硬直を解き、開けた執務室の扉から一歩部屋の中に踏み入ろうと動いた。すると部屋の中ほどで突っ立っていた子どもがびくりと後退る。
 ああ、怖がられている。
 よくあることだった。クラウスは自分の容姿が優しくないことを知っている。加えて察するに、彼がスターフェイズ本人でもそうじゃなくても、どうやらこちらのことを知らないのだろう。瞳の色は一緒だが、視線は凍てついた刃物だ。大人の彼は、そんなあからさまな目つきを滅多にひとに向けない。眼光鋭い自分とは正反対の、柔和な目つきをしている。
 そこでクラウスはゆったりとした動作で膝を折り、床に跪いてから、「私はこの建物の統括責任者、クラウス・V・ラインヘルツ。きみは? ……私はきみの敵ではない。望むなら、ここにこうしていよう」大きな両手を開いて掲げ、膝の上で組んで見せた。“敵意や悪意はありません”
 子どもは瞬きもせずじっと見つめていたかと思うと、ふと目を伏せた。尖った氷の視線が暗いまつ毛に隠され、そして次にこちらを向いた時には、にこりと笑っていた。
 頬が引き攣れた笑い方は、左頬の傷がまだ真新しいからかもしれない。小さな顔に大きな傷痕はあんまり痛ましい。
 子どもはにこにこ笑いながら、ひょこひょこ歩み寄ってくる。見れば、刺青の這う足に赤黒い血がこびりついている。裸足で歩くたびに床が濡れる音がし、血の足跡ができている。クラウスは自分が動かない選択をしたことを後悔し、やはりと思った。どう少なく見積もっても、エスメラルダ式血凍道の使い手に見える。
 クラウスの前に来ると、微笑んだまま、けれど用心深そうに口を開いた。

……万年筆、を、お持ちですか。ミスタ」
 
 スパニッシュ系の英語だ。
 クラウスの知るスターフェイズは、完璧なアメリカ英語を話す。
 数瞬迷ってから、相手が合わせてくれたのだからと普段よりもゆっくりと英語を返した。
「持っているよ」
 ベストのポケットから取り出し、万年筆を見せる。貸してほしいのだろうか? その疑問を発したり、子どもが何かを言おうと開口したりすることは、背後から襲いくる冷気によって少しもできなかった。
 クラウスの後ろから圧倒的な敵意とともに噴き出した冷気は凍りつき、そばの床を這って子どもの足に伸びる。視認しても、止められる速さではない。「スティーブン!」しかしクラウスは後ろにいるであろう彼に声を上げたし、足と腕を凍結されかけている子どもを助けようと立ち上がりかけた。
 だが肩を制すように手が置かれる。
  
「そのクソガキに万年筆だとか、フォークだとか、間違っても渡すなよ」

 クラウスの肩に手を置き、自分によく似た正体不明の子どもを凍らしかけているスターフェイズが、肩越しにクラウスの握る万年筆を押し留める。

「きみは眼鏡をかけているから、下手すりゃ喉仏一直線だった。どうかそれを仕舞ってくれ」
 
 掴む手はいつになく強張っていて、有無を言わせない必死さがこめられていた。
 半凍結され身動ぎも許されない子どもは、自分のするはずだった恐ろしい計画を言い当てられたにも関わらず、暗澹たる面差しでクラウスの頭上を睨みつけている。本人説は消えた。クラウスは懇願じみた言葉に従って万年筆を仕舞い立ち上がると、副官に向き直ろうとした。
 体の横を足が振り下ろされた。
 一体どうしたというのか。明らかに子どもを蹴り砕こうとしている足を咄嗟に掴み、彼に組みついて阻止する。「落ち着きたまえ、私はまだ状況を把握していない」
「そうかい」子どもを睨みつけていた濃紺が、クラウスを見上げて言う。「なら把握してくれ。最近HLで流行している現象らしくてね。どうにも、子どもの頃の自分とよく似た存在が現れて、叶えられなかった願望を託してくるらしい。異界の幻視術や時間操作の残滓が混ざり合ってそういう現象が起こっているんじゃないかとか、はたまた神性存在のお遊びとか、そういうふうに専門家たちは言っているよ。まあうちの出る幕じゃない、大きな被害もないし、けど、なあ。子どもとは言え悲惨な被害を予測させるなら、早々にやっつけちまっていいんじゃないか?」
 硬質な踵がコツコツと床を叩き、空気が凍る音が鳴る。
「良くはない」クラウスは整然と返す。「つまり、きみはこの少年を害ある者として対処しているのだね。そうであると自分が一番よく知っていると。論理的なきみらしい。なら、早々にやっつけてしまった場合に起こり得るかもしれぬ事態についても、予測済みだろう。こういう場合、ただ消滅するだけとは考えにくい」
「さあね。何せ昔の自分を殺した例はないらしいから。僕が第一人者になってやるよ」
「スティーブン。らしくない」
「きみこそ、らしい話をしてくれ」
「子どもを殺すなど、非道だ」
「ハッ」大人はおかしそうに笑い、すぐに目尻を穏やかに緩めた。その変化は先ほど子どもが笑ったときとよく似ていた。ただ、子どもより遥かにスムーズだ。「そいつはガキの見た目をしているだけで、全く子どもじゃない。いや、愚かなところはそうかな。無知で、無教養、おまけに不細工。刃を誰にだって向ける無法者さ。きみ、万年筆で刺されるとこだったんだぜ。俺には分かる」

 ばきばきと氷が砕ける音がした。
 二人揃って目をやると、凍結から身を引き抜き血を流している子どもが寸の間惚けて佇み、流れる血に気づいて口角を上げたところだった。子どもはぼそりと言った。「エスメラルダ式血凍道――

「このガキ……ッ!」スターフェイズがクラウスには聞き取れないスラングを叫び、制止を振り切って足を振り上げる。

 刹那、執務室の空調が壊れた。



 レオナルドがザップと小突き合いながら出社したとき、執務室の扉は半壊していた。
 肩に乗っていたソニックがいち早く異変を察して姿を消し、次いでザップがそれまで首をホールドしていた後輩を不意に立ち止まらせる。「ザップさん?」唐突にじゃれ合いが緩んだことで怪訝にした糸目を、ザップの視線を辿って扉に向けると、なんとあの重厚な扉が半壊しているではないか。
 先輩と目を見合わせ、それからまた戻した。扉は蝶番が弾け傾き、部屋の中から廊下に氷の残骸を飛び散らせている。廊下の壁まで凍結しかけている。
 ぶる、と身震いしたレオナルドはあんまり気づきたくなかったことに気づき、うげっと嫌そうな声を出したくせにすぐさま駆けて行ったザップのあとを追って走った。争う物音が、室内で断続的に続いている。何があったか知らないが未だ交戦中ということだ。少なくとも氷使いの副官が。
「スターフェイズさん!」 
 部屋に入りざま叫んで己の指を傷つけたザップは、一拍遅れて追いついたレオナルドを引き込んで飛び退いた。さっきまで自分がいたところを観葉植物が飛んで行く。ひえっと悲鳴を上げたレオナルドは床に這いつくばったままエッ観葉植物? と恐れた。それは不味い。我らがボスが大事に育てているもので、弱点で、部屋が半壊するだけじゃ留まらないものだ。がしゃん、廊下の壁にぶち当たった破損音。
 しかしもう既に部屋の中はとんでもない荒れ具合だった。
 がち、と歯の音が合わなくなる。歯列の隙間から漏れた息は白く濁り、肺が痛んで胃を脅かす。この感覚には、覚えがある。クラウスの闘気に当てられて、嘔吐した、あの体の隅々まで支配する畏怖。
「やっべーなコレ」
 ザップが本気で怠そうにぼやいた。「俺でもキツイ。おめー帰った方がいいぞ」適当なことを言ってくれる。喋ることはおろか、這いつくばったまま動けないくらい身体が恐れているのに。
 せり上がる嘔吐感をやり過ごそうと下手くそな呼吸を繰り返しているうち、糸目は徐々に開かれ状況を把握し始めた。飛んでくる何かの破片や物を血法で防いでくれているザップは、薄々勘づいていたのか、何がどーなってそーなるんだと多少の焦りを含んで言う。「旦那と番頭じゃん。こりゃマジで帰っていいやつ」
 クラウスが殴り、スターフェイズが蹴っている。
 お互いを。
 拳と足が交わる際に風圧と氷が生まれ、あの頑丈な窓硝子を震動させ部屋の寒暖差を狂わしている。
「何かに操られてるとかか?」
「い……、」レオナルドは喘ぐ胸を押さえてなんとか答えた。「いや、何も、そーいうのは……」見当たりません、言おうとして更に気づいた。クラウスはまるで何かを庇うように、背の向きを変えていない。彼から少し離れた背後、置物のように蹲っている子どもがいる。血を流し、赤黒く染まった氷上に伏せている。
「あの子、」
「ああ?」
「子どもが、あれ、スティーブンさんに似て……子どもが!」それはレオナルドより明らかに小さな子だった。そして分からないことだらけだったが、確かにクラウスはその子どもを守ろうと動いている。それだけ分かっていれば、レオナルドにとって充分な気がした。
 限界まで義眼を押し開く。凍える風が目に突き刺さって涙が滲み、一滴零れる前に叫んだ。

視野混交 シャッフル!」
 
 二人の目の前に浮かんだ不躾なサーチライトは視界を入れ替え、片足を軸に回し蹴ろうとしていたスターフェイズと、体勢を低くし拳を突き上げようとしていたクラウスを、つんのめってこけさせた。
 ひゅう、隣に立つザップが口笛を吹き、レオナルドの背をばしんと叩いてきた。「しまった録画しときゃ良かった」悔し気に、あんなん初めて見たわ、言うザップにアンタマジでクズですねと返しそびれる。だってちょっとレオナルドもそう思ってしまったのだ。
 視界を掻き回したまま立ち上がり、レオナルドは子どものもとまで駆け寄った。怒れる大人二人が膝をついたおかげで、随分息がしやすくなる。慎重に視界の支配を解き、頭と目を押さえしばし呻いている二人を放って子どもの前に屈んで手を伸ばした。「だ、大丈夫? きみ……」俯いていた顔が上げられ、息を呑んだ。似ている、どころか。限りなく同じではないか? 義眼は差異を見逃さない。この子どもは副官とオーラまで一緒だ。
 細い手足は完全に凍らされ、あちこち傷だらけで血を流しすぎていた。
「う、痛そう……
 子どもの代わりに唸り声を漏らしたレオナルドの後ろで、ザップがウワッと驚いた声を上げた。「番頭? ……隠し子にしちゃそっくり過ぎだわな」 
「アンタじゃねーんですから。これもHLのなんやかやでしょ」
「いっちょまえに冷静気取っちゃってまァ」
「楽なんすよ、まずHLだからって思い込んどけば……っていうか早く氷溶かしてくださいよ。できるんでしょ、ザップさんの炎で、」
 見上げると、胡乱な目つきで見下ろされ、アホ、と言われた。
「お前なー……あのスターフェイズさんが無害のガキ凍らすわきゃねえだろーが」
 え、レオナルドが一音漏らし、そう言われるとそうかもしれないと思ったとき、慣れた視界を取り戻したスターフェイズが鋭く言った。「レオナルド ・・・・・、そいつから離れろッ!」
 そのとき既にレオナルドの床に着いた膝は子どもの血で汚れていたし、それはひょっとするとスターフェイズ自身の血も混ざっていたが、この場でそれをすぐさま操れるのは子どもしかいなかった。当然そのことを知らないレオナルドは、自分の膝が生まれて初めて凍りつく感覚にぎょっとして目を見開き、慌てて義眼に子どもを映した。口許だけが歪に笑っている。「こ、」――怖っ、素直に恐れおののいて上体を反らすと、視界の端に火が踊る。
 指先から垂れる血をジッポで燃やしたザップは、躊躇いもなく手のひらを凍った膝に押しつけた。じゅうっ、蒸気が一瞬で噴き出したところでレオナルドは盛大にうぎゃあっと叫ぶ。自分の身が凍る実感よりも、燃える実感の方が現実的だ。しかしそういうことで彼が失敗するわけがない、氷だけを溶かし尽くしたザップはレオナルドの首根っこを掴んで少年から引き剥がすと、燃える血刃を頬の傷痕に向けた。

「ザップ」
 呼んだのは副官とボス、同時だった。「そいつを殺せ」「その子を傷つけてはいけない」

 顔を思い切りしかめ、振った血刀は迷って切っ先をずらした。「どっちっすか」

「見ただろう。そいつはこの場で最も非力そうな少年にすら容赦しない。血も涙もない。今に誰か殺すぞ」
「怯えて困惑しているだけだろう。話をするべきだ、交渉の余地もなく殺すなど、早計だ」
「紳士もいい加減にしろ。お前は子どもに甘すぎる。小さくったって刃物は振れるし、その上制御の仕方を知らないんだから余計にたちが悪い。ザップ」
 立ち上がった副官が踵を踏み下ろす。「そいつに少年を殺されたいか?」他者の思考を誘導させる響きに聞こえる。
 堪らずレオナルドは口を挟んだ。「ザップさん」白いジャケットを掴み引っ張る。「その子を殺さないでください」
 現に攻撃されかけたレオナルドがそう言い募るのを、スターフェイズだけでなくザップも苦い顔して見やった。いや、副官の方は睨んできたと言った方が正しい。忌々しそうに唇をひん曲げ、どいつもこいつも、と靴先を床に打ちつけている。「いいから黙って俺に殺させてくれよ。気味悪いだろう、自分のガキのころと生き写しの存在がいるってのは……」気味が悪いだけで殺しはしないだろう、レオナルドは普通に突っ込みたかったがごきゅっと飲み込んで耐えた。この上司が本当にそうしたがっているのを、ひりひりと肌が感じ取っているので。

 また吐き戻しそうな膠着状態がじわじわ部屋隅まで伸びていったが、唐突にその緊張を撃ち抜く雷撃が響き渡った。レオナルドの目はしかと一閃が真っ直ぐスターフェイズの太腿まで走り、着弾して彼の膝を折らせたのを視認した。くずおれる副官にボスが手を差し伸べ、ひとりで立つこともままならないらしい体を支える。筒のような弾が、無茶な争いで薄汚れてほつれたスラックスの上から足に突き刺さっている。「何を……」彼は支える腕を突っぱねるようにして半壊しているドアに目を向けた。「……撃ち込んだ? K・K」敵意が濃かった夜色の瞳には、半分瞼が下りつつあった。

 ドアから姿を現したのは主婦のスナイパー、K・Kである。ハンドガンの口から立ちのぼる一筋の煙を溜め息で消し、その後ろから現れたツェッドを労わるように示す。
「ツェッドっちに呼ばれて何事かと来てみれば……
 ナイスですツェッドさん、レオナルドは思った。
 金の眉毛を不機嫌そうに歪め、K・Kが言う。
「朝から、喧嘩? うちの子たちだってもっと控えめにやるわよ。ったく、いくつになっても男ってやつは」
「K・K」
「眠りなさい、スティーブン。アンタが悪い」
 言われた彼は最後の抵抗とばかりに顔をしかめて吐き捨てた。「親ってやつは。どうしていつも末っ子に甘いんだ」そしてがくりと項垂れた。
 クラウスが完全に気を失った男を難なく抱き留めつつ、真面目に、彼だけが悪いわけでは、と汗を飛ばし始めている。

 ……姐さんが一番おっかねー、血刃を下ろしたザップがぼやく。真理だろう。







 部屋の中を最低限片づけたあと、包帯だらけの老人に包帯だらけにされた子どもは、大人しくソファの端っこに収まっていた。
 どこから持って来たのか身なりの良い子ども服に着せ替えられ、そのシャツの襟を鬱陶しそうにつついている。サスペンダーつきの長ズボンの足をぷらつかせては頑なに靴を拒んだ裸足の足を擦り合わせ、包帯を爪先で引っ掻いていた。スーツの似合うスターフェイズからは想像できない様相だ。

……スティーブンさんて、子どもの時からかっちりしたひとかと思ってたんすけど、そーでもないんですかね……?」
「かっちりしたひとォ? 俺はわりかし不良じゃねえかと思ってたぜ。まさにあんな感じ」
「ええ、そー……まあ……確かに……ツェッドさんは?」 
……僕はもう少し、今みたいによく笑っている子ども時代を想像しましたよ」
「あ、それは僕も」
「はあ~~そうか~~? あの笑顔は後から身に着いたショセージュツ的なあれだろ」
「ザップっちに同意」
「えええ……?」
 
 皮が破けてはいるものの無事だったソファに各々腰かけ、密やかに話している四人の会話を耳にしながら、クラウスははてどうだろうと考えてみた。自分の隣に立ち並んでくれる、副官の幼少時代を、想像したことは?
 なんとなく、ある、ような気がする。でもそれは、彼本人のことではなく、幼いときに見た街並みや食べ物、風景についてだ。というのも、彼は子ども時代の話に及ぶと冗談が多くなり、いつの間にか話題転換をすることが多かったのだ、と今になって気づく。あれは、もしかすると、目の前の子どもを知られたくなかったからか、自身が思い起こしたくなかったからなのかもしれない。
 けれど厳密には、目の前の子どもはスターフェイズではない。過去そのものではないということだ。
 K・Kに催眠弾を撃ち込まれ仮眠室に運ばれた副官に代わり、資料を集めてくれた人狼局のチェインによると(彼女は話を聞いて、出社するよりも情報収集に向かってくれた。電話越しの声はいつも通り冷静だったが、彼が子どもを殺したがった場面に及ぶと、事情があったんでしょうね、と一言漏らした。クラウスは、彼女が、彼女の存在の全てを副官に託していることを知っている。その一言に万感がこめられているのをきちんと耳にし、できるだけ情報を頼む、と申し訳ない気持ちで返した)、最近HLを目立たず賑わせているこの子どものころの自分が現れる現象は、やはり原因や仕組みは分かっていないのだが――この街においてはそれが分かっている方が稀だ――解決法は分かっていて、子どもの望むものを与えてやったり、行動してやったら姿を消すらしいとのことだった。そしてその子どもは、別に過去から飛ばされてきたり自分から分裂したわけではなく、当時の望みのものを与えられなかったときの強烈な精神が相応しい形で肉体を得たようなもの、らしい。
 つまり、目の前の子どもは、望みを叶えられず不貞腐れて当時は確かに怒るか悲しむかしていたのに、大人になるにつれて忘れられていったその部分を、切り取って具現化した存在、である。
 実際に、幼少時代のスターフェイズがこういう様相だったのかは、本人にしか分からない。
 しかし柔和で冷静で、かと思えば人懐こく相好を崩したり笑顔で怒りを湛えたりする彼が、……加えて言うならばクラウスの言には必ず聞く耳を持ってくれる副官が、一切の余念もなく子どもを殺そうと動き、庇うボスにも足を振り上げた。だからきっと、この十にも満たない子どもは間違いなくそのときのスターフェイズなのだろう。容姿は分からないが、動作や心は報告からして絶対にそうと言える。
 幼少時代の己の危険性を知り尽くし、躊躇いなく始末をしようとした彼は、覚えているのだろうか?
 子どもの自分が、望んだのに叶えられることのなかった、夢の内容を?
 覚えているからこそ強行に出たのかもしれない。

「きみは一体、何を望んでいるんだい」
 クラウスは離れたところに座る子どもへ、なるべく恐れられないよう身を低めて問うてみた。
「何か我々に、してほしいことは?」
 副官にそっくりな、なのに自分より遥かに小さな存在との正しい接し方が分からない。
 子どもはじっとこちらを見つめてきた。暗く、黒く、青みがかっている。クラウスのよく知る瞳だ。けれどもまるで知らない暗鬱さを潜ませている。大人の彼のように大口を開け目に涙を滲ませて笑う姿はどうにも想像つかなかった。

……アタシ、あの腹黒男のやけに愛想のいい感じが気に入らなかったんだけど、」K・Kが言う。「あれがないとただの陰気なやつなのかも。愛想笑いって大切なのね」
……彼の笑顔は、ちゃんと愛嬌があると思う。私よりは、ちゃんと」
「それでもクラっちの誠実さの方が大事よぉ」
「いや……」そのようなことは決して、と困って汗を飛ばすと、彼女もまた困り笑いで、まあだからこそアンタたち二人が並ぶとちょうどいいんでしょうけど、と言う。クラウスも頷いて応えた。
 彼ができないことは自分が、自分ができないことは彼が。責任者と補佐役として、これ以上ないほど均衡が保たれていると思っている。
 その均衡が、先ほどの“喧嘩”でおそらく、崩れかけたのだろう。
 スターフェイズは子どもを殺そうとしていただけで、クラウスに刃を向けはしなかった。庇う過程で結果的にいくつか蹴りわざを受けたが、そのときの彼の表情を思い返すと胃がきりきり痛んでくる。自分がしたことを間違ったこととは思っていないけれど、あんな顔を、させたいわけではなかったのだ。あんな、血を流すよりも傷ついたような顔。

 自分たちはお互いを支えて今まで来ていたのに。
 あのときばかりは、クラウスの支えを必要とせず、自分ひとりだけで凍結させ蹴り砕いて何事もなかったかの如く血を流す足で立っていたかったに違いない。その足の下に、子どもを敷いて。

 阻止できて良かった。
 そして、解決しなければ。

 クラウスは、傷ついた顔をして歯向かってくるスターフェイズよりも、子どもである自分を殺して血塗れで笑っているスターフェイズの方が見たくなかった。そんなのは、気づいてしまったらもっとつらくなる。
 この子どもも大人の彼も安心させる術が知りたい。
 
「どうか、私に教えてはくれないだろうか。きみが何を望んでいるか」
 
 答えは返ってこない。
 怯えているふうには見えないが、面接みたいになってますよと進言したレオナルドが、身を乗り出して子どもに向き合った。「何か、欲しいものとかありませんか? してほしいこととか。僕たち、それを叶えられるかもしれません」副官に接するのと同じ丁寧さであり、それ以上に幾ばくか親密感が滲んでいた。
 濃紺の瞳は彼を映すが、口が開かれることはない。
……よー話しかけるわお前」ザップが呆れて半目になった。「凍らされかけたの忘れたんかよ。陰毛だけじゃなく鳥頭かっつの。ガキだからって甘すぎ」ビシリ、人差し指。
「いや、そーいうわけじゃ」突きつけられた指を払う。

「そーいうことだよ」
 部屋隅から落とされた声はひどく眠たげで掠れていた。仮眠室のドアに背を預けて佇むスターフェイズがいる。

「げっ、やだスカーフェイス。もう起きたの」
「お陰様で、よく眠れた。ああけど……ちょっと頭痛がひどいぜこれ、何混ぜたの」
「市販の睡眠薬と、異界産の弛緩薬を少々。パトリック監修のもとよ、下手に買うより確実でしょ」
「優秀な仲間が多くて嬉しいよ」全然嬉しくなさそうにこめかみに手をやり、後頭部もドアへ反らした。立っているのもやっとなのだろう、そこから離れる様子がなく、クラウスは助けになろうかと腰を浮かしかけたもののまた子どもに手を(足を)かけられては堪らないので、座ったままに気遣わしく視線をやるだけに留める。するとスターフェイズはこちらの視線に気づき、少しばつが悪そうに眉を下げた。「色々……謝りたいな。悪かったよクラウス。腕は平気? 凍傷になってないかい」
「問題ない」腕を振って見せる。「きみが私を傷つけることはなかった」
「ううん、自信なくすなあ」おどけて言うも、だってあれはクラウスを傷つけようとして攻撃していなかったのだから、当然だ。「それできみ、まだそいつを庇うのかい」子どもを顎でしゃくる。
「アンタ今何に対して悪かったって言ったわけ?」
 K・Kが眉をひそめて言った。
「自分が仕出かそうとしたことについては、反省してないのね」
「驚いた、きみもそっち側か」
「大人は子どもを守るものでしょう」
「そのガキは僕だぜ」
「同じことよ。ムカつくし、可愛げがないけど」苦虫を噛み潰す。「アンタ今子どもみたい」
 
 スターフェイズは反論しようと頬を歪めたが、やがて深々溜め息を吐き出すと顔を手で覆った。「泣き喚いてやりたい」言葉のわりには、次に指の隙間から顔を上げたときはちっとも泣き喚きそうな顔つきではなかったし、副官らしい色を取り戻していた。「でも僕は大人だ、そしてここは秘密結社。この問題には僕の指示に従ってもらう」

「スティーブン」
「分かっているよクラウス。分かってる。妥協してやる。そのガキの望みを叶えるんだったか? 生憎とそのころの自分が最悪だったことは覚えてるんだが、何を望んでたかまでは覚えてない。たぶん温かい飯が食いたいとか、寝たいとか、そんなとこだろ」クラウスの目にはその言葉が真意かどうかは分からずただ投げやりに映った。「そいつを消せるならなんでもいい。けどそいつばかりには構ってられないだろ、普段通りといこうじゃないか。街を奔走しつつ、片手間にそれの望みを考える。いい案だろう」
……うむ」
「考えてる間にアンタが殺しやしないでしょうね」
「分かった。じゃあ僕を見張っといてくれ。ただしそれも見張っといてくれなきゃ困る」完全に子どもを忌まわしく思っている言い方だ。
「この子は事務所に預かろう。今日は事件が起きなければ外に出向く用事もない。二人とも、私が見れば問題ないだろう」
「それがいいね」
 スターフェイズはまた溜め息を吐き、事件が起きなければね、と窓に胡乱な目を向ける。霧は濃く、爆発音などは通常通り。子どものことを考えるともう既に事件は事務所内で起こっているけれど、内勤ばかりでは街はあっけなく崩壊するだろう。内も外も物騒とはこれ如何に。
 しかし、まあ。
 誰かを殺したり何かを壊したりするよりは、幼い子の要望を叶えようとする方がよほど安寧だと思う。
 たとえ万年筆で喉仏を突き刺そうとしてくるらしい子どもでも、だ。

「さ、そうと決まればお前たち。見回り行ってこい」
 スターフェイズはようやくドアから背を離し、窓の外を親指で示した。
 示されたザップは不満そうな声を上げ、レオナルドとツェッドはいいんですか? と不安そうな仕草をとって首を傾げた。「僕らも何か、お手伝いしますけど」
「レオ。義眼で見たか?」
「え? はい。オーラが一緒で、でもそれ以外は特に怪しいものは……
「ならきみの仕事はしばらく事務所に近づかないことだ。少なくとも、それが消えるまで」
「ど、どうして」
「僕にきみを殺させないでくれ」
 レオナルドはぴしりと固まる。「I」は子どものことを言っている。「そんな、殺されませんよ」言った隣でザップが唇をひん曲げた。“凍った膝を忘れたのか”
 子どもは静かに座っている。興味がないのか、物思いに耽っているのか、暗い瞳を茫洋とさせている。
「殺すよ」
 スターフェイズが同じ色をしてぽつりと漏らした。
「本当に。容赦がないんだ。力の加減もまだ知らない。刃物を振れるから、手当たり次第に振ってるだけの、社会秩序のないガキなんだ。特にきみみたいな……
 言い淀んだ続きをレオナルドが引き継いで言う。「……なよなよして甘ったれたクソガキ?」
 彼は意外そうに目を丸くした。
「まさか、違うよ。根っから優しくてお節介で、ひ弱そうなやつ。そういう相手には本当に、簡単に殺せるからって理由でわざをかけるんだ。きみは格好の餌食なんだよ。だから近づかないでくれ、頼む」いつの間にかレオナルドの癖毛頭に乗っていた音速猿にも目をやる。「ソニックにも言い聞かせといてくれ」
 ……ぼかぁ褒められたんですか? いまいち複雑な表情で首を傾げたレオナルドは、分かりましたと頷いた。頭から鼻を滑り台にしたソニックがまた音もなく消える。「ソニック」ただひとり、音速を視認できる少年が給湯室へ目を向け声を上げた。「聞いてたか? あんまりここにいちゃ駄目だよ。あとギルベルトさんにもあんまりねだってやるな」食いしん坊の友人を諫める調子に、ああそういえば子どもの彼は腹を空かせてはいないだろうかとクラウスは思った。

 ――温かい飯が食いたいとか、寝たいとか……

 それすらも、叶わなかったのか。
 クラウスの胃がきりりと痛んだ。



 しかしどうやらソニックは子どもに危機感を持っていないらしかった。
 自宅待機に戻っていったK・Kや、てっきり若者三人組の外回りに着いていったと思ったが、賢い音速猿はテーブルの上でさくさくとギルベルトお手製のクッキーを齧っている。向かいのソファに座ったままじっとしている子どもを気にかけては、窺うように姿を消したり現したりしていた。
 その様をクラウスも自分の執務机から気にかけ、そして同じくパソコンに向き合っているスターフェイズに目をやっては落ち着かない気持ちになっていた。彼はもう、子どもをいないものとして扱っているような気がする。……そんなに、幼いころの自分が嫌いなのだろうか。クラウスは自分の場合ならどうだろうと考えて、確かに未熟で今よりもっと愚者だったころの自分が目の前にいたらなんとも恥ずかしくなるかもしれない、と納得しかけるも、いや彼ほどの苛立ちと敵意を剥き出しに殴りはしないと思い直す。彼は子どもを嫌っている。それは、なんだかとても悲しいことのように思う。

 キ、とソニックの、この静かな室内でなければ聞き逃しそうな鳴き声が聞こえた。
 小さな手用の小さなクッキーをひとつつまんだソニックは、子どもの肩に乗って空いた手を傷痕に押しつけている。レオナルドの肩に乗っているときもクラウスの手のひらに遊びにくるときも彼はすばしこくか弱い小動物だったが、少年の細身の肩に乗る様はいつもより大きく、のんびりとして見えた。
 いや、そう見ている場合ではないだろう。クラウスとて少年の凶暴性に素知らぬ振りをしているわけではない。椅子から腰を上げ、ソニック、名を呼ぼうと口を開くが、そこから順当に音が出ることはなかった。

 傷痕を押された少年は一瞬びくりと驚き、いつの間にか肩に乗っている音速の不思議な猿を訝しんで見やる。
 雨の日の暗闇の瞳を向けられたソニックはまた姿を消し、数秒してまた肩に戻った。クッキーをさくさく齧りながら、つんつんと頬の深く大きな傷をつつき始める。
 少年はしばしそのまま固まり、やがてゆっくりと反対の腕を持ち上げ指先を小猿に差し伸べた。肩に落ちたクッキーのくずを拾い上げ、ソニックの口許へ運ぶ。ソニックが受け取り、小さな口の中へ。ソニックはひとの肩の上でそうやって全て平らげると、しゅんと音もなく消えた。気まぐれな行動に、子どもは少々残念がっているふうに、つまらなそうにソファに身を預け直した。

 数十秒の穏やかな光景を見入っていたら、離れたデスクから副官のウワっという声が聞こえそちらを見やる。
 ソニックがスターフェイズの肩に乗ってこめかみから口許に走る傷痕をつついていた。「な、なんだ。どうした。ソニック?」副官は明らかに狼狽えていた。ああやって来られると、高確率で面食らっている。ちょっと面白い。クラウスはスターフェイズがそれほど草花に興味がないことを知っていたが、その代わり小動物や幼子には普通にかわいいと思いなるだけ優しくあろうとする姿勢も知っていた。では、やはり、あの子どもは彼なのだ。昔から小さな生き物が好きだったのではなかろうか。レオナルドに攻撃したのは、あの彼から見れば大人に見えるからで。
 都合よく考えすぎていると言われれば、そうかもしれない。たぶん、クラウスは、あの子どもがただの凶暴で粗野な子どもとして思いたくないのだろう。
 だって自分は大人になった彼の優しさに、感謝してもしきれないほど、助けられているのだから。
「スティーブン」
 肩に音速猿を乗せた彼は不慣れそうに振り返った。
「なんだい、クラウス」
「きみ、何か動物を飼いたかったりしたことは」
「動物? いやあ、そんな暇はないよ。世話しきれない」ソニックの頭を人差し指の腹で撫でる。
……子どもの時分も?」
「ああ。だって自分ひとりで精一杯……おいおい待て待て、そいつが小動物を望んでいるかもしれないって?」
 濃紺が一気に剣呑になり、ソニックがしゅんと消えた。
「有り得ない」スターフェイズが言う。「動物って。子猫とか、子犬とかか? きみまだあれに幻想を抱いてるのか」
……自分に、あれなどと言うものではない」
「僕であり、僕じゃない。あれで充分だろ。しかし動物か。いいね。異界の人食いペットでも与えてみるかい」
「スティーブン」
「そんな顔をするなよ、クラウス」子どもに目を向け、デスクの下で靴を鳴らす。「たぶん、違うよ。そういうのじゃないんだ、そういうのじゃ……
「何か心当たりがあるのかね」
 クラウスにはその予感があった。
 けれどスターフェイズはゆるりと首を横に振ってしまう。
「いや。だから飯とか、寝床とか。でもあいつ、せっかく用意してくれたクッキー食わないんだから、それも違うんだろうな。はは、ぜーたくなクソガキだよ」言葉に一度は貶していないと子どもについて喋れないのだろうか、クラウスは思った。そして彼が本当は『子どもの自分が望んでいるものごと』に察しがついているのではと更に強く思う。
 言ってくれないのは、言いたくないからだ。
 
 自分たちでは叶えられないことを望んでいるか、ひとに言えないほどの望みなのか。
 どっちにしろ、クラウスはあの子どもが何を不足に思い、そしてそれを叶えられたときどんな反応をするのか、ひどく知りたくなっていることを自覚した。

 ところで、この街では、ひとつの物事に打ち込め続けられることは稀である。
 なぜならひとつのことに集中など、この喧騒激しい街では最も難しいことなので。

 端末の着信音。
 結局のところ、やはり、内勤のみで終わるなどということは、街の喧騒がなくならない限り無理なのだった。

 


 


 クラウスとスターフェイズが街に散らばる鈍足の魔獣を片し尽くし、その騒ぎに便乗してあっけなく世界が終わりそうなテロ行為をなんの気なしに行おうとしていた組織もついでに潰し、疲労困憊で事務所に戻ってきたのは夜も更けるころだった。普通ならその場で解散する時間帯だったのだが、何せ事務所には子どもと、見張り役のギルベルトを置いてきている。スターフェイズは事務所から慌ただしく出る前、子どもを仮眠室に押し込んだ上に厳重に鍵までかけさせ、執事に何かあったらすぐに連絡してくださいと言っていたものだから、その連絡が来るかどうかを戦闘中、とても気にしている素振りだった。

 こちらを気にかけてくれたツェッドと別れ、コツ、コツ、コツ。いつもより隣を歩く踵の音が硬質だ。
「そんなに慌てなくとも」
 アムギーネを下り、仮眠室に続く廊下を真っ直ぐ歩きながらクラウスが言うと、スターフェイズは不機嫌を隠さずに言った。「慌てるさ。ギルベルトさんを傷つけていたら、今度は止めてくれるなよ、僕はあいつを殺して、砕いて、踏み躙ってやる」まだ戦闘の脳内麻薬が抜けていない目をしている。
「きみは昔の自分を信用していないのだな」
「信用? してるから警戒してるんだ。……いい加減信じてくれよ。あれは……あいつは……、僕は、」カッ、踵が鳴る。「案外誰でも殺すぞ」
……」クラウスは迷って口を開け、閉じて、力なくまた開けた。「なぜ、そこまで自分を貶めることを?」
「卑下してるわけじゃないよ。事実なんだ」
「きみは信じる仲間に、その足を振り上げはしないだろう」
「そうかな」咄嗟に出た言葉だったのか、彼は気味が悪そうに唇を歪めた。「でもあのころの俺にとって、きみたちは信頼できる仲間じゃない。関係ないよ。凍らしちまう。……きみだって殺す。まァ返り討ちに遭うだろうけど、でも凍った刃を向ける。見ただろう?」
「ああ」
 素直に頷くと、スターフェイズは満足したように眉間の皺を緩め悪いと謝った。「本当に……とんでもない。俺がお前に歯向かうなんざ」背信行為をした敬虔なる信徒の気持ちだ、十字架を常に足蹴にしている男がつらそうに言った。そういうものなのだろうか、クラウスは思い、彼が最も赦せないことは子どもの自分がクラウスに牙を剥こうとしたことなのではと悟り、胃と肋骨のあたりがおかしな具合になった。い、痛い。そんなこと、気にしないでほしいと言いたい。言いたいが、言ったらまた不機嫌な顔つきになるだろう。個人的に、友人として、彼には、徹夜明けの疲れた顔や敵を追い詰める悪い顔より、楽しそうな笑顔でいてほしいと思っている。クラウスがあまり得意ではない満面の笑みを見ているのは、大変好ましい。
「どうしたらきみを笑顔にできるだろう」
 クラウスが真面目に呟くと、彼は見上げて笑いかけてくれた。
「あのガキを消させてくれたら」
……
「はっはっは、あー、そんな顔をするな。大丈夫、あいつが何もしてやしなかったら、別に何も――

 言葉は不自然に途切れた。ちょうど仮眠室のドアが見えてきて、その部屋の前に佇む執事の後ろ姿が、珍しく困ったふうに振り返り、お帰りなさいませ、と恭しく腰を折ったからだった。
 ああ、異変が目に見えて存在している。

 スターフェイズが言った。
「俺あのガキ殺していいか?」  



 仮眠室のドアは見事に凍りついている。
 僅かの隙間にも氷が張り巡り、一切の侵入を拒絶している。近づくと冷気が肌を撫で、あれを偽りの冷たさではないことを示し、そうしてスターフェイズの靴音を更に鋭くさせた。
「ギルベルトさん」
 執事は恭しく後ろに下がり、申し訳ありませんと謝罪する。「部屋に押し込められてから、ほんの数刻でした。気がついたときには、もう」
「怪我はありませんか。何かされたりは」
「いいえ。誓って。あの少年は無体を働きはしませんでしたよ」……ただ少し、とギルベルトが穏やかに言う。部屋を凍らせただけです。
 スターフェイズはそうですか、とにかく何もされなくて良かった、と安堵して答え、クラウスさえも後ろに下がらせるとひとり、氷と霜と氷柱で分厚くなっているドアの前に立った。彼の靴裏が牢獄の入口のような凍った床を踏み締め、パキリと音がする。閉じたドアから凍える切っ先が伸びて喉元に迫った。
「ス、」
 クラウスが名を呼ぶより、スターフェイズが迫りくる切っ先を掴みへし折る方が速く、何拍か置いてぽたぽたと床に液体が落ちていった。クラウスはそれをまた数秒、溶け出た氷の雫の音かと思っていたが、色が透明ではなく赤かったことから彼が手のひらに傷を負ったのだと悟る。「スティーブン」今度は口にできた名前に多大な心配が含まれていると知っているスターフェイズは、問題ないよと言わんばかりに手の甲を見せて振る。心配しているのは、皮膚が裂けているはずの手のひらだ。しかし彼はそちらを見せはしなかった。
 後ろに立っているようでいて、彼の右隣に立っているような錯覚に陥る。傷と刺青のない右側。彼は右から見るときと左から見るときとでは印象が異なる。まるでコインの表と裏。白と黒のルビンの壺。クラウスが見ていたスティーブン・A・スターフェイズと、クラウスが見ることのできなかった子ども時代のスティーブン・A・スターフェイズ。
 どちらの彼にも共通していることは、ひどく寒かろうということだ。クラウスはもう慣れたが、彼とともに戦うようになった最初のころは、血凍道を使われるたび肌寒く感じていた。
 子どもは氷の部屋の中にいる。
 凍えないわけがない。現に、制御が効かないと言っていた通り、慣れたクラウスでさえ廊下にいるだけで子どもの血凍道に指先が冷たくなっている。血を流す手のひらを握り締めたスターフェイズは、白息を吐きながら口を開いたようだった。
「満足か? お前」
 存外、諦めた声音だ。
……満足しているはずだ。仮眠室っつったって、そのくらいの歳の俺にとっちゃ、すごくいい部屋なんだから」
 中から返事はない。
「望んでたんだろ。じゃなけりゃ、わざわざ凍らすはずがない。覚えてるよ。今じゃすっかり薄くなったが、お前の手のひらには傷が多くついてた。それは部屋をつくるのに欠かせなかったからな」
 スターフェイズは右の手のひらを氷のドアに押しつけ、血を擦りつける。赤は、すぐさま透明度の高い壁となり、ドアを強固にさせる。
「これはお前だけの部屋だ」
 自分に落とし込むように言った。
「僕が欲していたものだよ」

「違うよ」

 子どもの高い声が返ってきた。
 クラウスは当たり前だが一瞬それを耳慣れない音として拾い上げ戸惑い、スターフェイズも面食らって息を呑む気配がした。否定されるとは思っていなかった様子だ。

「違う? まさか。嘘を言うな」
「嘘を言っているのは、お前の方だ。全然、分かってない。自分のことなのに」
「はあ?」
「不正解だよ」子どもが言う。「それは僕の欲しいものじゃない。あなたはそれに気づいていない。大人になってもそのままなんて、とてもかわいそうだ。愚か、だと思う」

 実際に子ども時代のスターフェイズがそういう喋り方をしていたかは怪しいが。
 彼は氷にくっつけていた手を引き剥がすと、ギルベルトを振り向いた。優しげで、穏やかな顔をして訊く。
「ギルベルトさん。ラインヘルツ家のご子息の耳に、聞くに堪えない言葉が入るのは困りますか」
「いいえ。こんな街です。坊ちゃまも大人ですから」執事も穏やかに返した。

 スターフェイズは扉に向き直って足を勢いよく振り上げた。「このッ××××――!!」

「スティーブンッ!」クラウスは彼を羽交い絞めしに行った。



「すまん。取り乱した。きみの言うように、たぶん、僕はらしくなくなってる」
「いいや。きみの新しい一面を見れたようで、その、楽しい」
「お前はすぐそーやって……大概のもんを受け入れる……
 スターフェイズは溜め息を堪えるように包帯の巻かれた手で紅茶へと口をつけた。

 氷の仮眠室から怒れる彼を引きずって執務室のソファに座らせるまで、クラウスにしては苦労を強いられたように思う。というのも足技主体の彼の強靭な脚力といったら! クラウスの方が単純に重量があるのに、彼にはそれを躱す技巧と狡猾さが備わっている。一度羽交い絞めにして引き剥がし、彼が皺ついたジャケットを直して大人しく言うことを聞いて数歩自分に着いて来たと思ったら、瞬く間に踵を返して再度ドアを蹴破ろうとしたのだ。もちろん阻止した。――止めるなクラウス、このクソガキを一度蹴らなきゃ気が済まない! 駄目だスティーブン、一度で済む気じゃないだろうッ? おっとよく分かったな、右と左ずつ蹴って、三回目の右で殺すよ! スティーブン!! ――一週間分の彼の名を呼びまくった気がする。それほど執念深く、半ば本気でクラウスを欺いてあのドアを蹴り破ろうとしていた。彼が味方で良かったと再認識までさせたのである。

 ジャケットを背もたれにかけ、ギルベルトの用意してくれた紅茶を飲む彼はいくらか落ち着き払って目を伏せている。光量を小さくしている事務所内の明かりに照らされた顔の影には、疲れが滲み出ている。それもそうだ。数時間前まで街を駆け回っていたのだから。

 ネクタイを緩め向かいに座るクラウスは、膝の上で手を組み、多少、身を彼の方へ寄せて訊いた。
……部屋を欲していた?」
 伏せていた目がこちらに向き、また手元の紅茶に戻る。カップをソーサーに置くと観念したふうに乱れた黒髪を掻き回した。
「ああ、ウン。そーだと思ってたんだけど……。子ども部屋が、欲しかったんだよ」
「子ども部屋」
「そー。自分ひとりだけの、……なんというかな、子ども部屋って、その子どものためだけの部屋だろ。壁があって、屋根があって、床があって、自分の背丈に合わせた家具も……自分ひとりだけの、安心できる空間が、欲しかった。……きみには分からない感覚だろうけれど」
「そんなことは」
 言ったものの、クラウスには分からない感覚だった。クラウスには姉と兄がいる。自分ひとりだけの子ども部屋が安心するという感覚は分かるが、それ故それを欲する気持ちは、きっと四兄弟きっちりひとりずつの部屋があった自分には、分からない感覚だ。だからこそ分かりたいと思うのはひどく傲慢で、スターフェイズも望んでいない歩み寄りに違いなかった。曖昧に返したクラウスの、そんな心境を慮ったのだろう、彼は笑って言う。
「いいんだ。薄々勘づいてるだろ、あんまり恵まれた子ども時代じゃなくて……ああ、嫌だな。この言い方だときみを妬んで、拒否してるみたい」
「それはない。私は分かっている」
「ほんとに? 助かるよ」
 それから背もたれに体重を預けた。
「でも、嘘だって言われちゃったな。嘘じゃないのに。俺は確かに……
……欲しいものにも、順位があるのではないかな。だから、嘘ではないさ。きみが欲した子ども部屋は、きっと一番ではなかっただけで……
「順位か。……なるほど。じゃあ、ああ、うわ」スターフェイズは高く形良い鼻を天井に向けたまま唸り声を上げた。「俺はあいつを殺すしかないぞ」
「なぜ」
「一番欲しいものは、どうしたって手に入らない。あの時分じゃ無理なものだ」
 反らされた喉仏の動きを見ながら、クラウスはそれはどのようなものかなと問うた。答えそのものを訊くのは、やはり嫌だろうかと考えて。
「王様」
 なのにスターフェイズは直球で答えた。
……王様?」
 答えそのものを用意されても、結局意味が分からず首を傾げる。
 首の向きをこちらにして、紅茶が混ざった夜色の瞳がクラウスを見据えた。

「凍える刃をそいつのために振りたいと思わせてくる、純然たる王様」 
  
……それは、」

「ま。子どもがヒーローに憧れるみたいに、騎士か何かになりたかったんだ。そいつに、この血の全てを懸けられるような……王冠を授けられるような……そうしたら俺は、」彼はふと表情を緩めた。「けど、無理だな。あのガキには到底叶えられないよ」
「どうして」
「だって大人になったらそれは叶っちまうんだもの。ガキに王様なんて、荷が重い」
 クラウスは胃が痛んだ。胃というよりは、肋。肋というよりは、胸か、肺。とにかく痛みで寸の間、呼吸が浅くなった。
「クラウス?」
 突然胸を押さえだした友人に、スターフェイズが訝しんで心配する。「なんだ、今何か、不安事があったか?」
 不安事。
 ではある。
 いつも傍でともに戦ってくれた副官に、その血肉の全てを懸けられる王様なる存在がいるだなんて、クラウスは知らなかったのだ。「む……」テーブルを回って来そうな副官を手で制し、クラウスはできるだけ丸くなった背を正そうと頑張ったが無理そうだった。そのまま言う。「きみ、そのようなひとが、いたのかね」
……」スターフェイズは暫し黙り、「おい」噴出して言った。「おい、待て、なんでそこで勘違いしてるんだ。自惚れろよ、王様はきみだ」
…………私?」痛む胸を押さえてちょっと顔を上げる。
「当たり前だろう。むしろ今の話の流れで赤の他人を王様にして堪るか」
「そ、そういうものかね」
「そういうものだ」
「む、胸が痛くなくなった」
「不思議だなあ」
 スターフェイズが笑って言った。
 なんだかとてもおかしな会話をしたような気がする。ひとまずクラウスはなぜか痛みが忽然と姿を消した上体を起こし、しかし私は王などという器では、と返そうとするも、目の前の男がまたなぜか嬉しげにしているので謙遜することはできなかった。やはりと言うかなんというか。彼には笑っていてほしいらしい。
「そ、それで」ごほん、咳払い。「あの子も、王様を一番に望んでいると?」
「お前に出会うまで、常に欲してるものだったから。たぶんあのころも、無自覚的に探してたと思うぜ。王様を」
……小さなきみにとっても、私は王様になれるだろうか」
「なれないわけがないけど、俺が嫌だ」眉根を寄せる。「それに、この望みはもう叶ってる。既に満たされてるもんをガキにも与えるって、傲慢すぎやしないか? 確かこの現象に同様の事例はなかったしな。子どものころに望んで、今も叶っていないことじゃないと」
……つまり、」
「お手上げだ」
 彼は両手を上げた。右手の包帯には血が滲み、まるで不安を助長させてくる。彼が思いつくものがないということは、手当たり次第にやっていかねばならないということだ。それも、もう子どもにあげた食べ物や服や治療、部屋以外で。もっと細部のことを望んでいたのなら選択肢は万別に渡る。
「一歩ずつだな」
 クラウスは拳を握って言った。
「きっと、一歩ずつ歩み寄って行けば、彼は望みを叶えられる」
 ……そうなる前に強制的に消しちまった方が早いぜ、スターフェイズの顔が珍しく、分かりやすくそう表現したが、諦めて吐息を零した。「なら、もう今日は休もう。正直へとへとだ。俺はここに泊まるけど、きみは?」
「無論、私も。見張り役なので」
「ああ……
 世界一頑強な見張りだ、スターフェイズが残念そうに首を振った。



 一日の汚れを落としにシャワールームへ向かったスターフェイズに対し、クラウスはソファに腰かけたまま黙考していた。シャワーの個室はいくつもある。湯を浴びるべきだろうが、どうにも風呂に入ってから子どもが閉じこもった部屋とは別の仮眠室でさあ寝ましょうという気になれない。今日は結局すぐ街に出てしまって、子どものためにしてやれることがなかった。
 たとえば街に出たいとか?
 それなら明日にでも一緒に出かけてあげたいと思う。しかし、このヘルサレムズ・ロットが子どもの彼の望む街でなかったら? 幼少期はほとんどが夢見がちだ、空想も好きだろう。だが地獄が剥き出しになったこの街を、果たして心から望んでくれるだろうか? ……大の大人の喉仏を借りた万年筆で突き刺そうとし、無害そうな青年の膝を凍らしかけたあの少年なら、それも有り得るかもしれない。現にたぶん、スターフェイズはクラウス同様、この街を憎からず思っているはずであるし。

「坊ちゃま」
 とギルベルトが歩み寄ってくる。忠実な執事に今日はもう休んでおくれと告げようとした口は、彼が手に持つブランケットを見てあ、と一音のみ漏らした。「今宵は普段より寒うございます。まだお眠りになられないのでしたら、どうかこれを」ブランケットは二枚あった。「スターフェイズ氏にも」
 今このとき、一等寒いのは誰か。
 それを思いついてしまったら、クラウスは居ても立ってもいられなくなった。



 ひとり、凍った子ども部屋の前に立っている。
 氷は先刻と変わらず尖り、ドアの隙間をなくし、クラウスの立つ床や壁まで冷たく覆い重なっている。
 扉の前に立っても攻撃が来ることはなかった。眠っては、いないだろう。気配を探れば分かることだが、そんな気がするという直感に任せている。子どもはクラウスが来たことを理解し、こちらの出方を窺っている。
 間違ってはいけない、と思った。
 彼はこれを自分だけの子ども部屋だと言っていた。安心のできる、自分ひとりだけの居場所。
 ならば無作法に訊ねるのはご法度だ。(そうでなくとも育ちの良いクラウスには無作法な訊ね方をする方が難しいが)
 左手に持つブランケットを目で確認し、ドアに右手の甲を向けた。

 コンコン、コン。

 凍ったノック音が硬く落ちる。
……こんばんは、スティーブン」
 クラウスは囁きに近い声で言った。
「先ほどは、悪かったね。私の友人が。きみも知っての通り、悪いひとではないのだが……その、」喋るたびに息が白く濁る。「寒くはないかい? ブランケットを持って来た。良ければ、きみに渡したい」
 ――ぴしり、ひび割れる音がした。
……スティーブン?」

「この部屋は、僕にしか、開けられないんです。ミスタ」
 たどたどしく声音の高い英語が思いのほか近いところから返ってくる。クラウスは彼との身長差を考えて床に片膝をつけた。「開けてほしいですか?」
「きみさえ良ければ。ぜひ」
「凍える部屋ですよ」
「きみの部屋だ。気になるよ」
……そうですか」
 ぴしり、ぴしり。
「でも扉を開けた瞬間に殺されるかもしれない」普通の子どもなら到底危惧しそうにない言葉は、温度も抑揚もなかった。
 それをされたことがあるのか。クラウスは思って悲しくなる。
「私はきみを傷つけないと誓おう」
「何に? キリスト?」
「いいや。きみは将来、かの救い主を常時踏みつける。私も神には背く身だ。そうだな、では、……きみの将来の王様に」
 ビシッ、一際大きな亀裂音が走った。
 
 ドアの隙間を埋めていた氷が砕け、瓦解していく。
 立ち上がって避けたタイミングで軋みを上げてドアが内側に開いた。子どもがドアノブを掴んで半分姿を見せる。黒いまつ毛には霜が下り、傷の目立つ頬と高い鼻は血の気がない。
 にも関わらずクラウスを見上げた彼は下手くそににっこり微笑み、白っぽい小さな唇で言った。
「どうぞ、ミスタ。僕のことを受け入れてくれるひとを招くのが、夢だったんです」



 部屋内は見事に氷で閉ざされていた。
 四方の壁全てが凍結し、本来大人ふたりが入っても余裕なはずの空間を狭めており、壁際のハンガーラックなど完全に氷像と化している。ベッドから三歩歩けば氷の壁にぶち当たるほどの、まさしく冷凍室。つるりとしている床を踏み締め、ベッドに腰を下ろした子どもへクラウスは「招待をありがとう」と礼儀正しく感謝してから、いつもより窮屈な部屋でおもむろに膝を折った。「その怪我は」子どもの目線に合わせる。「血だらけだ」
 包帯を巻いていたはずの裸足の足裏からは血が滴り落ちているし、手のひらも赤く染まっている。
 先刻スターフェイズは、手のひらの傷は部屋をつくる際のものだと言っていた。
……血凍道は、どうやって」
「傷に爪を立てた」手は指先まで赤くなっていたが、半ば白く結晶となっていた。足から落ちた雫が、小さな礫となって床と同化する。ああやって床を高くしているのだ。自分ひとりだけの、子ども部屋をつくるために。「壁をつくるには、手のひらで撫でていくのが、うまくいくんですよ。何回も、何回も、順番に撫でていって、分厚くする。そうしたら、自分にしか開けられない、頑丈な牢になる。氷の地層みたいでしょう」……でもさすがに、この部屋は広すぎて、狭くするためには血が足りなかったみたいです、子どもが言う。天井まで届かなかった、と。

「私が傷つけずとも」

 クラウスは青白く凍りついている指先を見つめた。
「きみは既に、ひどく傷ついているように見える」

「顔に傷を負ってから、僕は傷ができるのが怖くなくなりました」

 相変わらずスパニッシュ系の英語だったが、それは子どもが話しているというよりは当時のスターフェイズの本人でさえ知らない内面を解説しているような丁重さだった。 

「凍るので。凍えてしまえば、痛みも麻痺する。でも、自分の部屋に招くひとには、傷つけられたくないものでしょう、……普通」彼は“普通”という言葉の意味を正しく使えているか訝しんだらしい、凛々しめの眉をひそめ、垂れた眦をきゅっと細くする。「僕はたぶん、普通にはなれない」
……普通に、なりたかったのかね」
「とんでもない。それを望むには、僕はほかのことが足りすぎている」裸足の冷たい足を擦り合わせる。「だから、せめて、普通の子どもみたいに、自分の部屋に誰か来てほしかった」
「私で良かったのだろうか」
「あなたは僕の王様でしょう」口端をニヤリと上げた。「もっと早く出会いたかったけれど、でも“僕”が満足そうだったから、きっと運命だ。ものすごく嬉しいんですよ」凍傷の指で引きつれている頬の傷痕をなぞる。「うまく、笑えてます? 傷のせいで皮膚が突っ張っちゃって」

 大人の彼を思うとやはり子どものその笑みはまるで下手くそだった。
 けれども邪気がなく、懸命で、クラウスにはとても綺麗に映った。おそらく自分の赤茶けたまつ毛にも霜が下りている。重くなった瞼で瞬き、皺ついた靴を厭わず立ち上がる。「とても素敵な笑顔だ。しかし、寒そうでいけない。きみに毛布をかけても?」ブランケットを示す。
 子どもは唇では笑っているものの、目を丸くして足裏を床にくっつけた。
「凍らせるかもしれないのに?」
「私は鍛えているので」
……どういう意味?」
「凍らされても、なんとか平気だ。筋肉量が違う」
 真面目に答えたクラウスを、子どもは呆けた表情で見上げてきた。一寸後、ひくりと唇が痙攣し瞬く間に笑い声を上げる。びっくりして見つめたが、決して嫌ではない。スターフェイズそっくりだ。
「な、何かおかしかったかね」
「はー、痛い、ほっぺが痛いよ」ぐにぐにと歪んだ傷痕を揉む。「それに、寒いし、凍りつきそう。毛布がほしいな」
 素直に手を伸ばしてくれた子どもをかわいいと思ったクラウスは、手のひらが傷だらけで皮膚を捲るように氷結しているのに胸を痛め、歩み寄って小さな肩にブランケットをかけた。布の中にすっぽり包んで、合わせ目を握って跪く。
「ほかに、何か、望むことは」
「もう叶ったよ」
「でもきみは消えない」
……そういえば、そうだね」
「私はたぶん、スティーブンのことをそこらの者より知っていると思う」
「と言うと?」
「きみは真実で真実を隠す」
 クラウスはそっと子どもを抱き寄せた。毛布の中の体躯は小さく、回した腕が有り余る。氷の部屋の、氷の少年だ。布越しでもこちらの血管が縮こまりそうなくらい冷たかった。
 腕の中の子どもが眠たげに言う。
「気づいていたの」
「ほとんど、直感で」喋るたびに開いていた口の中は冷気に侵され、喉元まで痛くさせる。「きみの言う普通でも、そうでなくとも、凍える子どもは、まず大人に抱きしめてほしいものではないかと」
 黒くぱさついた髪の頭が、力なくクラウスに預けられた。
「正解」
 子どもは言い、同時に氷の割れる音がした。
「大正解。ありがとう、ミスタ・クラウス。さすが僕の王様だ!」

 ……そうして忽然と。
 子どもも、氷も、凍える冷たさも。
 全てがクラウスの前から消えてしまった。






 クラウスは勢い良くシャワールームの扉を開け放った。
 ちょうど上がったときなのだろう、シャツのボタンを留めようとしていたスターフェイズがウワッと叫んで振り返った。
「どっ、な、どーしたクラウス!?」
 慌てた彼の濡れそぼった髪は子どものころより艶やかで湿っていたし、首筋から留まっていないシャツの合間まで見える暗色の刺青は偉丈夫を守るように刻まれていたし、頬の傷痕は表情の妨げにならずむしろ形の良い頬骨に馴染んでいた。ズボンを履いた裸足の裏はもちろん流血していない。手のひらは尚のこと。
 けれども一体どういうことか、クラウスは手に持ったままでいたあのブランケットを、風呂上がりで寒いはずのないスターフェイズにかけに行っていた。
 突然ブランケットに包まれた大人のスターフェイズは目を白黒させて、半ば抱きついてきたクラウスの広い背中にしがみついた。何せ身長差と体重差があるので、上から迫られるとたとえ屈強な両脚でも腰が折れてしまいそうになるのだ。
「お、おい、なんだ、クラウス。何かあったのか?」
「何かを起こしたくなった」
「は?」
「きみの家に遊びに行きたい」
「は」
「きみの家の呼び鈴を鳴らして、私は自分の名を言う。するときみは安心して私を部屋に招いてくれる。温かいものを持っていこう。玄関先で、私たちは友人なので、ハグだってできる」
「はあ」
「スティーブン」

 クラウスは何も知らない大人に言った。

「きみが氷の部屋でひとり凍え、寒さに麻痺しても、私はきみを抱きしめたいと思うよ」

……よ、よく分からないんだが、それって、きみも凍えることにならないかい」 

「構わない」
 クラウスは知らしめるようにぎゅうと力を強めた。
「私は鍛えているので」

 わけが分からないなりに、スターフェイズは思うことでもあったのか。
 一拍置いて、子どもみたいにけらりと笑って氷を溶かす抱擁を返した。