千代里
2024-11-21 14:11:48
12037文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その13


 錬金術師のヒューイから薬を購入した後、ノエはゲルダとオデットと共に軽食をとってから、次なる目的地――貧民街の境にあるという孤児院へ向かっていた。そこに、ノエたちが探し求めていたオデットの記憶の手がかりを握る人物がいるはずだったからだ。
 だが、目的地が近づくにつれて、オデットの足取りは重くなっていく。期待よりも、不安が大きくオデットの心に影を落としていた。
「ねえ。オデットのことを知っている人って、どういう人なの?」
 オデットの事情は掻い摘んで聞いているだけだったゲルダが、のろのろとノエの背中を追うオデットの隣にやってきて尋ねる。
「えっと……たしか、その人はイシュガルド正教の司祭様……という話です」
「それだけ?」
「は、はい。わたしも、会うのは初めてですから」
 ゲルダに説明したように、オデットが例の司祭について知る情報はあまりに少ない。なのに、向こうはこちらについて知っているのかもしれないという状況は、どうにも気持ちを落ち着かなくさせる。
「ユーガンさんの話では、この地域を治めている貴族が別の家から引き取った、魔法に纏わる遺産の解析もしているそうです。だから、魔法についても詳しい方なのだと思いますよ」
 言葉に窮しているオデットに代わって、ノエがゲルダへの説明を引き取る。
 ユーガンとは、数ヶ月前にグリダニアにて起きた一連の依頼に関わっていた人物だ。
 ノエたちは、イシュガルドの貴族の元から追放されるようにしてグリダニアにやってきた女中母子を護衛するように、別の貴族から依頼されてきた。
 ユーガンはは、女中母子が以前仕えていた貴族の従者である。彼もまた、別口の依頼で母子の護衛に参加し、ノエたちにも助力してくれた人物だ。
 彼は、イシュガルドの貴族に纏わる様々な事情に精通しており、オデットの記憶に纏わる情報や、ノエの父の近況を一行に齎してくれた。
 事件が収束した頃に、ユーガンはノエたちの前から姿を消してしまい、以後は一度も会っていない。貴族に仕える従者ともなれば忙しいのだろうと、ノエは彼が健やかに日々を送れるようにと祈ってはいたが、特段連絡をとってはいなかった。
「それと、その司祭様は、オデットが関わっていた復興事業の横領を暴いた方でもあるそうです。彼宛の手紙をティエリーさんに預けておいたので、入れ違いになっていなければ、僕らのことは知っていてくれると思うのですが……
 例の母子の護衛任務の際に出会った人物――それがティエリーだ。彼もまたイシュガルドの貴族に連なるものであり、今から会いにいく司祭とも顔見知りでもあった。
 ならばオデットのことを伝えられたらと、ノエはティエリーに司祭宛の手紙を託していた。
 すでに、その頃から一ヶ月以上の時が流れている。ティエリーが無事にイシュガルドに帰還していたのなら、司祭に手紙は届いているはずだ。
「ふーん。なんだか、ノエの話だとなんでもできる偉い人って感じがするね。オデット、そんな人と知り合いなんだ」
「そう言われていますけれど、わたしは……その方のことは全く知らないので、実感はないのです」
 特に、復興事業に従事していたと言われている頃の記憶は、オデットの中には欠片も残っていない。
 記憶を本とするのなら、特定のページだけ破り捨てられてしまったか、日焼けして色褪せてしまったかのように、すっぽり抜け落ちてしまっていた。
「わたしの知らない頃のことを、当たり前のように知っている人がいるのって……わたしは、怖いと思ってしまいます」
 そこで、オデットは隣に並ぶゲルダを見やる。
 同じように記憶を失っているはずなのに、ヒューイというかつての主治医である人物に出会っても、彼女はけろりとしていた。
 念のためと行われた診察の際に二人きりになっていたが、戻ってきた彼女は緊張も困惑もしておらず、いつも通りだった。ヒューイによれば、ゲルダは無口で物静かな人物だったらしいが、己の変化を指摘されてもゲルダは平然としている。
「わたしも、ゲルダさんにみたいに堂々としていられたら良いのですけれど」
 重たくなっていた足がついに止まり、代わりにオデットは視界の向こうに見える建物を見上げる。視線の先には、目的地である孤児院があった。
「オデット。君が嫌だと言うのなら、君は宿に戻ってもいい。話なら、僕だけでも聞けるからね」
…………
 ノエはいつだって優しい。今も、オデットが逃げる道を示してくれている。
 オデットが思い出せないことも、思い出すことも、両方恐れていると察したうえで、記憶と関わりのない場所で待っていてもいいと言ってくれる。
 ここで頷いたら、ノエはオデットを宿に帰して司祭に自分だけで会いにいくだろう。
 その末に、司祭から得た情報はノエを経由して、オデットに届く。もし、オデットが忌避感を覚える内容が含まれていたなら、ノエはオデットが最大限傷つかない配慮をした上で伝えてくれるだろう。
(それは確かに、わたしにとってはとても楽な道なのでしょうけれど……
 ちらり、とゲルダを見やる。
 竜を母と慕う娘は、たとえ周りがなんと言おうと母親への思慕の念は捨てていないようであった。彼女は、自分の判断を人に委ねた末に、望まぬ形で人を傷つけた。それを悔いたから、今こうして自分なりの考えを元に行動している。
 行き当たりばったりであっても、ゲルダは当事者として現場に居続けた。
 ノエの優しい提案を聞きいれてしまうのは、彼女のように自分の意思で歩く志を捨てることになる。
「わたし、ちゃんとその人に会って話を聞きます。わたしのことを知らなかったら、それはそれで構いません。もし知っていたなら……わたしは、ちゃんとわたしのことを知っておきたい、です」
 勢い込んで口にした言葉は、自分でも強がりだとわかるものだった。そのせいで少し早口になり、舌ばかりが先走って危うく噛みそうになった。
 それでも、オデットの熱意は十分に伝わった。ノエは、改めて少女の紫紺の瞳を見つめてから、
「無理はしないように。辛くなったらすぐに言うんだよ」
 月並みではあるが、何よりもオデットを気遣う言葉に、彼女は深く頷き返した。ノエの提案を断ったとしても、彼の心遣い自体は何よりもオデットを安心させてくれるものだ。
 オデットが決意を固めたのを確かめてから、改めて三人は前方の建物へと目をやる。
 お馴染みの黒ずんだ石で組み上げられた建物は、周囲の家々よりも一回り大きい。孤児院というよりは、本来は名のある立場の者が住まう邸だったのかもしれない。今は、それを孤児院として再利用させてもらっているということか。
 子供特有の甲高い声は少し離れているこの位置からも、一部が漏れ聞こえている。いくら石造りの建物といえど、声の全てまでは消せないらしい。
 寒冷化の厳しいこの地域では、以前目にした孤児院のように外で駆け回る子供たちはあまり見られない。庭先に世話係と思しき青年が一人、二人の子供と共に庭いじりをしているだけだった。
 ノエたちが孤児院に近づくと、青年はすぐに立ち上がった。
 白っぽい髪におっとりとした人の良さそうな垂れ目が特徴的な青年は、突然の来訪者にも驚かず、どうしたのだろうという顔つきでこちらを見つめている。
「突然すみません。こちらの孤児院にいらっしゃる司祭様で、ミラべルという方はおられますか」
「ええ、いますよ。……その、失礼ですが、ミラべル司祭にどのようなご用件でしょうか」
 青年の顔は、素早くノエを見やり、続いてオデットとゲルダへと移る。
 彼は、ノエの顔を見て、この街に住んでいる人物ではないとすぐさま把握したようだ。故に、声にも怪訝に思う気持ちが表れている。
「実は、司祭様が僕の友人である彼女の知り合いであると聞いて、挨拶に伺ったんです」
 記憶喪失の件まで詳らかにすると話が長くなるので、ノエは話を端折って事情を簡潔に説明する。青年は再びノエを見やったが、やがて一度頷くと、
「ベス。それに、コリン。今日は部屋に戻ってくれるかな」
 そばにいた子供たちに家に入るように促してから、改めてノエへと向き直る。
 子供たちは我先にと室内へ入っていったが、ちらちらとノエたちを観察するのを忘れていなかった。室内では、今頃見慣れない来客の話題に持ちきりになっているだろう。
「司祭様は、今は裏庭の掃除を受け持ってくださっています。案内しますね」
「いえ、子供たちの面倒も見なければならないでしょうから、場所さえ教えていただければ僕たちだけで伺います」
 ノエとしては、言葉通りの意味以外にも、込み入った話をするときに第三者がいたら話しづらいという事情もあった。
 オデットと司祭の邂逅の際は、どうしても記憶喪失の話題に触れることになる。込み入った話を無関係の人間の前でしたいとは思えなかった。
「今は人が少ないので、そう言っていただけると助かります。僕や他の手伝いの者は室内にいますので、人手が必要になったら声をかけてください」
 青年は一礼してから、子供たちが駆け込んだのと同じ扉を開き、室内へと戻っていった。
……なんだか、思った以上にあっさり会えそうだね」
「わたしも、もしかしたら追い返されるのかと思いました。少し、警戒はしているように見えましたけれど」
「この街は、グリダニアのようにひっきりなしに旅人が訪れる街じゃないから、見知らぬ顔には一通り警戒するようにしているんじゃないかな」
 孤児院には多くの子供たちがいる。彼らの保護者として、ここに勤めている人物も子供を守るために警戒心を高めるようになっていったのかもしれない。
 ミラベルへ会うことに拒否感を示さなかったのは、彼が大人であり、ノエたちの目的が子供たちでないとはっきりしたからもあるのだろう。
「それに、司祭はこの街の住民じゃない。今までも各地で慈善活動をしていたようだし、同じように会いにくる人物も少なくないんだろうね」
 ともあれ、面会の許可が降りたのなら、いつまでも玄関に突っ立っている必要もない。
 ノエはちらりとオデットとゲルダを見やる。ゲルダはあくまで付添人であるのでケロリとした顔をしているが、対してオデットはこれから親の仇を討ちにいくかのような緊張を全身に漲らせていた。
「オデット。ちょっと顔が怖いよ」
「だ、だって……やっぱり、緊張はしてしまいます、から」
 しっかりと防寒具で固めているはずなのに、オデットはかすかに震えている。彼女自身、体が暖かいのに体のあちこちが冷え込むような矛盾した感覚を覚えていた。
「そんなに怯えなくてもいいと思うよ。私もオデットと同じように記憶喪失なんでしょ? でも、私は昔の私を知っているヒューイに出会っても何も変わらなかったよ」
 ガチガチに凍りついているオデットの手をとり、手袋越しにゲルダはぎゅっと握ってみせる。今まで、どこかぎこちなさが見える振る舞いが目立っていたゲルダだったが、今の仕草はとても自然だった。
「だから、その司祭さんに出会って、オデットは大丈夫だよ。ね?」
「そ、そう……ですね」
 理屈や過程などすっ飛ばしたゲルダの論に押されて、オデットも思わず頷いてしまう。
 全く根拠などない笑顔で、ゲルダは握ったオデットの腕をぶんと振る。それは、つい理屈で考えがちのノエではできない励ましだった。
「では、行こうか。裏庭にいらっしゃるって話だったよね」
 少女の励ましを見守ってから、ノエは二人より一歩先んじて建物の外周を通り、裏手へと回っていく。
 建物の側面には勝手口があり、掃除用具や子供たちが脱ぎ捨てていった靴が雑多に置かれていた。そこを通り過ぎて裏側へ回り、ノエは目を丸くする。
 雪が積もったその区画は、建物の代わりにいくつか盛り上がった土が等間隔で並んでいた。
「これ、畑みたいだ。孤児院で自家栽培もしているのか」
「本当です。こんなに寒くて冷たい土地なのに……
 オデットは手近な畝に駆け寄り、雪を薄ら被っている植物を見やる。グリダニアでは見た覚えのない植物が、雪帽子を被りながらも、静かに自分の存在を主張していた。
 雪よけのために、畑の一部は麦の茎を寄せ集めてできた覆いがかけられている。だが、その雪よけの作業はまだ途中のようで、畑の端にいる青年が新たな雪よけを畝の一部にかけているところだった。
「あれ、あの人は……
 周りの雪と同じぐらい、色の薄い銀の髪。遠目から見れば男性か女性か定かでない、中性的な体格。その姿は、昨日ノエが香辛料店で見かけた人物を思い出させた。
 ひょっとしたら、と思うが、それは本人に相対すればすぐわかることだ。
「あのかたが司祭様なのでしょうか」
「恐らくはね。まずは、僕から声をかけてみるよ」
 ノエはそのまま先頭を維持し、畑仕事の真っ最中である人物に近づく。
 よほど夢中になっているようで、ノエが接近しても気がつく様子もなかったが、いざ声をかけようとした矢先、
「アンディか? やっと来たのか。お前、今までどこに行って――
 背を向けて作業をしていたはずの司祭が、急にノエへと振り向いた。
 振り返った瞬間、司祭はノエを見た。そのそばにいるゲルダも。その視線が、オデットを通って行った瞬間、
――――!」
 大きく、目が見開かれる。その大きな感情の一つは間違いなく驚きだ。
 しかし、これまでの旅路で多くのに関わってきたノエには、彼の瞠目の裏の感情が透けて見えたような気がした。
(ただ驚いているだけじゃなくて、まるであり得ないものを見てしまったような……でも、どうして……?)
 オデット、ゲルダを目にした後、司祭の視線は再びノエを正中に見据えていた――否、睨んでいた。まるで、ノエが取り返しのつかない失敗をしてしまったかのように。
 しかし、そのような鋭い視線はすぐに消え、代わりに司祭はよそ行きとわかる微笑を口元に浮かべていた。
……失礼しました。孤児院の子供が戻ってきたのかと思ったもので。皆さんは、どなたでしょうか。どのような用事でこちらに?」
 感情を読ませない声音で、司祭は速やかに挨拶を進めた。服装こそ野良仕事のために薄汚れた外衣を纏っていたが、その所作は確かに貴人のそれであった。
「僕はノエといいます。昨日、この街にやってきた旅人です。……不躾を承知でお尋ねします。あなたが、ミラベル様で間違い無いでしょうか」
……ええ。私がそうですが」
 わずかに声音が固くなったのは、見知らぬ相手に突然自分の名前を呼ばれたからか。わずかに眉を寄せて警戒の色を滲ませる彼に、
「実は、貴方が数年前に行った教会の復興事業に関する――
 そこまで言った瞬間、ノエの口元に人差し指が立てられる。誰あろう、眼前のミラベルが沈黙を促すために立てたものだ。
……その話は、外ではやめてください。事情を知っているのなら、わかっていただけると思いますが」
 付け足された言葉には、隠しきれない呆れも混じっていた。彼の反省を促す声に、ノエも自分の発言が迂闊だったとすぐさま内省する。
 ノエたちは、イシュガルド正教の組織そのものに関わったことが少ない。教会は人々の祈りの場であり、貧しいものに救いの手を差し伸べる場であると認識してはいるが、それはあくまで表面上の話だ。故に、事業の悪事についても、あくまで情報として受け止めていただけだった。
 だが、復興事業の横領を暴いた話となれば、組織の中枢に関わる内部の問題になる。しかも、まだその問題が片付いて十年も経っていない。当事者たちにとっては、みだりに口にしてはならない話とされていても不思議ではない。そのため、誰が聞いているか分からない場で口にするな、とミラベルは言いたかったようだ。
「その件についての話が聞きたいということでしたら、場所を移させてもらえますか」
「わかりました。では、作業が終わるように」
…………おにい、ちゃん?」
 ノエたちが話を進めていく中で、不意にオデットの声が横から飛び込んでくる。
 もっとも、ノエにとって聞き捨てならない言葉と共に。
「オデット……?」
 ノエの背中に隠れるようにして佇んでいたオデットは、司祭の姿を目にして目を皿のように見開いている。唇は微かに震え、その様子は喜びからの驚嘆というには、混乱の色が強い。
「お兄ちゃん……。生きていた、んです、か」
 生存を素直に喜んでいる声には聞こえない。それでも、微かに嬉しいと思っている気持ちも滲む。そんな語調だった。
――…………何のことでしょうか」
 だが、ミラベルはオデットの喜び混じりの驚きを目にしても、静々とした声を変えなかった。むしろ、わずかな戸惑いすら見せて、オデットを見下ろしている。
「ノエさん、といいましたね。どちらにせよ、先の話をしたいのなら場所を移しましょう。孤児院に作っていただいた私の私室なら、余計な邪魔も入りません」
 場面を切り替えたいと願うのは、何もミラベルだけではない。ノエは自分の隣で「お兄ちゃん」ともう一度呟く少女を見遣ってから、
……わかりました。そうしましょう」
 胸にちくりと走る痛みを無視して、ミラベルの提案に頷いた。
 
 ***
 
 オデットには、兄と呼び慕う人がいた。
 今、兄さんと呼んでいる『ノエ』とは別の、実の兄ではなく、復興事業に従事させられ、劣悪な環境にいたらしいオデットに、救いの手を差し伸べた人だ。オデットが朧げに思い出した記憶の中では、そのような思い出が断片的に残されていた。
 彼の存在があったから、オデットはそのような窮状の中でも命を繋いでいくことができた。恐らくは司祭と思しきその青年の名前を、オデットは失った記憶と共に喪失していた。ひょっとしたら、名前自体聞いていなかったのかもしれない。
 兄は、オデットを連れてどこかへと逃げようとしていた。しかし、追手に追いつかれ、同時に起きた雪崩により帰らぬ人となったと思われた。
 いや、正確にはそうではない。
……わたしが、雪崩で怪我をしていたお兄ちゃんを、雪の中に置き去りにしたんです」
 外の寒さが嘘のように暖かな室内であるにもかかわらず、オデットの指先は氷のように冷えていた。長い話になるなら茶の準備をすると言い置いて、ミラベルは今は席を外している。
 案内された彼の私室は、しばらく孤児院に住み込みで滞在しているからか、いくらかは私物も置かれた生活感が伝わるものだった。赤々と灯された暖炉の他にも、暖房用のクリスタルを用いた道具は、ノエたちも持っているものだ。ほんのりと部屋全体の温度を高めてくれているおかげで、厚着のノエたちは少し暑いぐらいだった。
 壁の漆喰はところどころ汚れてはいるものの、空間に馴染んだ落ち着いた色合いで部屋を包んでいる。置かれた調度品も、孤児院の建物の前身である邸のものを流用したのか、質素ではあるが造りはしっかりしたものだった。恐らく、この部屋自体は、普段は客間として使われてきたのだろう。
 しかし、そんな居心地のいい部屋の中であっても、オデットの顔は真っ青になっていた。外でミラベルと会った直後は、唇が色をなくしていたほどだった。
 それほどまでにオデットが衝撃を受けているのはなぜなのか。単に記憶の手がかりを得たからだけども思えなかったのだろう、新参者でもあるゲルダに事情を問われ、オデットはミラベルが戻るまで、自分の覚えている『兄』について説明していたのだった。
「オデットは、そのお兄さんを置いて行っちゃったって言ってるけど、さっきの人がオデットの知るお兄ちゃんなんだよね。じゃあ、生きていたんだ」
 それは良いことだと、ゲルダはもっともらしい顔つきで頷く。しかし、オデットは素直にミラベルの生存を喜べずにいた。
……わたし、その時、お兄ちゃんが怖いって、思ってたんです。でも、どうして怖かったのかが思い出せない……。なのに、お兄ちゃんを置いていくべきじゃなかったって、そんな気持ちも、どんどん、どんどん膨らんで」
……オデットは、ミラベルさんと……お兄さんと呼んでいた人と、どんな風に過ごせたのか、思い出せたのか?」
 頭を抱えるようにして俯いているオデットに、ノエはそっと声をかける。
 長椅子に腰掛けたオデットの両脇は、ゲルダとノエが固めていた。そうしていたら、オデットがどちらに倒れ込んでも支えられるからと、無言の応酬の末に双方が判断したからだ。
 ノエに思い出せたのかと問われても、オデットはゆるゆると首を横に振る。
「いえ、はっきりとは……。ただ、あの人を見て、彼がお兄ちゃんだって……わたしの中にいる過去を知っているわたしが、そう言ったんです」
 母の記憶を思い出したときも、すぐに過去の思い出が自分の中で馴染まずに、どこか別のことのように感じている部分もあった。
 その齟齬は、時を経るにつれて、オデットの中で落ち着いていった。古い出来事である以上、忘れている部分があるのも当たり前だと、ノエやルーシャンに言ってもらえたからもある。
 だが、今回の事象はそれに似ているようで違う。
「わたし、お兄ちゃんに酷いことをしたんです。死んでしまっていても、おかしくなかった。助けてくれって、わたし、言われたのに。なのに、なのに……!!」
 思い出す記憶は優しく暖かなものだけではない。自分が犯した罪や、それに伴う後悔の気持ちは、単なる懐かしさとは異なる形でオデットを蝕んでいく。
「どんなに祈っても、許してもらえないだろうって、ずっと……そう思っていたんです。いつもいっぱい気にしていたはずなのに……どうして、今までわたしはこんな大事な気持ちを、他人事みたいに置き去りにしてしまっていたの……!?」
 ノエやゲルダに語りかけるのではなく、自分自身に問いかけるようにオデットは呟く。
 オデットは、すでに『兄』と呼んでいたその人物の記憶を思い出していた。
 だが、それはあくまで『記録』として振り返るものであり、『記憶』として馴染みきるものではなかった。
 そもそも、思い出した記録の中にいる『兄』は顔すらはっきりしていなかったのだ。顔も知らない誰かのために同情こそすれど、思い出す前のオデットにとっては我がことと思えなかったのも当然であった。
 だが、こうして自分の中に眠っていたものが、あれこそが『お兄ちゃん』だと宣言した瞬間、オデットの心は揺れた。
 自分が思い出していた記録の登場人物に、血肉を宿した人間の姿が刻まれ、今まで脇に置いていた記録が、突如記憶として馴染み始めたのだ。
 寂しい夜に、そばにいてくれた温もりも。助けてくれたのだろう彼を、どういう理由か恐れてしまい、その末に雪の中に置き去りにしていったことも。
 全て、我がこととして、その身に降りかかってくる。その瞬間に感じた、感情と共に。
 オデットはゲルダに事情を説明すると同時に、自分の気持ちを切り分けようとしていた。今の状況では、とてもではないが、ノエとミラベル司祭――二人の兄の会話を落ち着いて聞くなどできないと思ったからだ。
 けれども、自分で自分の気持ちに整理をつけようとすればするほど、これまでオデットが培ってきた『自分』と、懐かしい記憶の中に生きてきた『自分』がぶつかり合ってしまう。
 過去の『自分』は取り戻した記憶を強く振り翳し、今のオデットの気持ちを押し流そうとする。
「わたし、怖いんです……お兄ちゃんのこと、今まで覚えていたのに実感がないのが当たり前だったわたしが、さっきまでのわたしだったのに……今こうしてどんどん自分のことだって受け入れてるわたしが急に出てきて、なんだかわたしがわたしじゃない者になるみたいで……っ」
 このまま、自分ではない何かになってしまい、その末に今までの自分が大事にしていたものが大事でなくなってしまったのなら。
 以前、ノエと話して納得させたはずの不安が今またオデットの中で顔を出す。
 不安に喘ぐオデットに、声が届く。
「オデット」
 聞き慣れた、もう一人の『兄』の声が。
「いちどきに思い出すのが辛いなら、今は休んでいてもいい。話なら、僕とゲルダさんで聞いておく。君が落ち着いて話が聞けるようになるまで、僕は彼から得た情報を胸に閉まっておくこともできる」
 いつも優しく、オデットを守るための選択を示してくれるノエ。その言葉に縋って、オデットは瞼を閉ざそうかと思った。
 けれども、もう一つの声が言う。
「私は、オデットの代わりに話を聞いておくけれど、オデットはその話を聞いたら別のオデットになっちゃうって思うの?」
 純粋な疑問の形で差し出された、新たな友人の問いかけに、オデットの中でひしめき合っていた混乱が一旦ぴたりと動きを止める。
「わたし……もう、別の人になってしまったように、見えますか」
 過去の記憶に触れて、思い出すこと。それは、自分が今までの自分では無くなっていくことと同義でもある。
 とりわけ、『兄』の記憶は、今隣にいるノエという『兄』にも関わってくるものだ。古い思い出の兄を重んじて、今のノエを必要ないと思うようなことになったら。
 それこそが、今のオデットが最も不安に思う『自分』の姿だ。
「オデットは、昔のオデットのしたことをいっぱい思い出して、あの人に悪いことをしたっていう気持ちと、それを忘れててごめんなさいって気持ちでいっぱいなんだよね。私には、今のオデットの言葉がそう聞こえたよ」
 ゲルダの言葉を聞いて、オデットはおずおずと頷く。しかし、言葉はそこで終わらなかった。
「でも、それは今のオデットとそんなに違わないんじゃないかな?」
……え?」
「だって、オデットって今でも誰かの怪我を見たら、必死に治そうとする人だから」
 脈絡のないゲルダの言葉に、オデットは一度瞳をぱちくりとさせる。
「あの人に怪我させて、それを悪いって思っていたことすら忘れちゃっていてごめんなさいって思うオデットは、他の人が怪我しているのを見て治そうってして無理をして倒れちゃうオデットと、そんなにも違うように見えないなって。それとも、オデットにとっては全然違うって思うの?」
 ゲルダがオデットと過ごしてきた期間は、さして長くない。だが、たとえ短くとも、ゲルダはオデットの振る舞いをその目で見ていた。
 魔物によって傷つけられた人を放っておけず、自分が倒れるのもお構いなしで治そうとする姿は、ミラベル司祭に会って彼を傷つけた記憶が染み込んできて混乱するオデットが口にした言葉と、根本的にずれていない。
 辿々しい言葉の中に、ゲルダはそのような気持ちを込めてくれていたのだと、遅まきながらオデットは気がついた。
「オデット。前にも言ったけれど、オデットが昔のことを思い出しても、オデットが大きく変わってしまうことはないと僕も思う」
 ゲルダとはまた異なる、明朗な言葉を以てノエは言う。
「それとは別に、君が彼に会うことで悲しい記憶が噴き出してしまうのなら、一呼吸置くのが間違っているとも思わない。いつかはきちんと思い出すとしても、順序というものがあっても構わないんじゃないか」
 オデットがたとえこの場から逃げても、それは現実逃避のような負の印象を持つ行動ではないと諭す。その上で、ノエは言う。
「でも、決めるのはオデットだ。……そうあるべきだ」
 それだけは、まるで自分に言い聞かせるような言葉でもあった。
 ノエは選択の決断をオデットに委ねた。
 果たして、オデットは唇を引き結び、ぎゅっと握った拳に力を込め、ぐるぐると渦を巻く心をほんの少し宥め――そうして、数十秒の逡巡の末に、告げる。
……わたし、ここに残ります」
「いいんだね」
「はい。だって……これは、わたしの記憶に繋がることです。……兄さんが、お父さんに会うのを逃げなかったのと同じです」
 自分に纏わる場面において、自分自身が退いてしまっては、本来得られるはずだった情報も損なわれてしまう。それが、たとえどんなささやかなものであったとしても。
 そのささやかな残滓も取り逃がさず、今は受け止めたかった。揺らいでいる自分の心を、自分が納得できる形に収めるためにも。
「分かった。無理はしないでくれ、とは今は言わない方がいいかな」
「はい。わたしは今、とても無理をしてます。だけど、無理をしてでも、ここにいたいんです」
 微かに震える体を意思の力で押さえ込み、今にも血の気を失って倒れそうな体への負荷を押し殺して座っているのは、無理以外の何者でもない。
 しかし、今はその無理すら抱えた上で、過去の鍵を握る者に相対する。それが、オデットなりの決意だった。
 オデットが、揺れ動く己の芯をどうにか支えなおした頃。扉が開く音が、部屋に響き渡った。入ってきたのは、懐かしくも罪悪感をオデットに思い出させる彼の姿。
「お待たせしました。厨房に忍び込んでつまみ食いをしていた子供たちを叱っていたら、遅くなってしまって」
 どんな感情を湛えているか定かでないミラベルの瞳を見つめ、オデットは膝の上で握りしめていた拳をどうにか開く。
 お盆を机の上に載せ、茶を淹れていく彼の横顔からはどんな感情も伺えない。
「さて、それではノエさんが聞きたいことを、まず示していただけますか」
 席に腰を下ろし、司祭は冷然とした双眸で三人を見据え、尋ねた。