蒲田オブザデッド

狂児と聡実くん/純子/森田/マサノリ/マコトくん/他モブ/12話後急にゾンビ映画になる、私の13話への恐れが産んだ話
2024/11/3

1


 初めてお邪魔した明るい部屋を早々にお暇した狂児だが、実は、親父の到着予定時刻まで中途半端に時間を残していた。まだ胃袋に余裕もあったので二つ目の豚まんも実は食べられたし、もう少し時間をかけて、聡実くんからあんな問いかけが出てこないように会話を誘導することもできた。多分。やろうと思えばできたはずだ。
 聡実くんが望むのならば、551でもりくおじでも、発注ロット一個から上限なしで発注してくれて構わなかった。芦屋の小洒落たケーキでも丹波の松茸でも、玄界灘の天然フグを求められても問題ない。彼の要望を叶える行為は、狂児に大いなる喜びと救済、さらに精神の安寧をもたらす。なぜならば、もう会わんほうがいいと言ってきた聡実くんと会う方便は、もはや彼本人による呼び出し以外に残されていないからだ。
 そして、彼が口に出して望んだこと以外、狂児は叶えてやれない。だから、もう一つ食えと言われたら食った……いや。嘘です。
 もっともらしい理屈をつけようとしたが、算数ができないふりをして残していった豚まん一つ、質問を質問で返さないマナーを無視して置いてきた疑問文二つは、冷静に思い返してみても、ただの意地悪だった。
 狂児の言葉に俯いた聡実くんの横顔とつむじを思い出す。ぎゅっと詰まった芽キャベツのような丸い頭をあの頃のように撫で、な〜んちゃってとかなんとか適当に明るくうやむやにすることもできたのに、先刻の自分は、そうしてやろうと思えなかった。彼が質問を真面目に吟味していたから。ネズミ講対策はいっこも聞いてへんかったのに。
 何考えとったん。
 逃げたんかと詰められたらすんません逃げましたと答えるし、それ以上の弁明はしないが、これ以外の解が思い浮かばないというほうがより正確なような気もした。……知らんけど。わからん。なんもわからん。胸の奥がチリチリと痛む。
 なんもわからんけど、こっちはなんやねん。
 聡実くんのアパート付近から自分を追いかけてくる気配を無視できなくなり、狂児は後ろを振り返った。それは聡実くんではなく、
「こんにちは」
 宇佐純子であった。
……こんにちは」
 互いに顔を上げたまま会釈とも言えないような動きを交わし、再び前を向く。純子は距離を詰めることなく、後ろから「成田さんこの辺にお住まいなんですか?」と声をかけてきた。
「いや、全然」
「そうですか。もうお店行くんですか?」
「いや、まだです」
「そうですか。じゃあ、また後で」
「はい、また後で」
 社交辞令未満の会話を終えた後も、純子は背後を追いかけてくる。仕方がない。駅もざくろも、さらに、まだ時間を持て余している狂児の向かう先――駅でもざくろでもなくその間にある喫茶店も、ここからは同じ方角なのだ。環八の信号で横並びになってしまった狂児は仕方なく、「ざくろ行くんですか」と尋ねた。「まだちょっと早いけど」
 大通りの渋滞はいつもよりも激しかった。普段はトラックの往来が多いが、今日は乗用車が目立った。休日だからだろうか。休日のお出かけにしては、イラついたトーンのクラクションが鳴り響いているが。
 その騒音の間に「そうですよね。まだ早いですよね」と前置いた後、純子は「今日、大会ありますかね?」とおかしなことを尋ね返してきた。
「は?」
 聞き違いかと思ったのだが、純子は言い直さず、「いや、どっちでもいいんですけど、私は」と付け加える。
 どっちでもいい。それはそうだろう。大会を楽しみにしているのは親父、大会がなくなってホッとするのは入れ墨に怯える組員。今回はジヨン姉さんも楽しみにしてはるかもしれへんけれども――「あるでしょうね」
 答えた瞬間、目の前で接触事故が起こった。同時に歩行者用信号が青になる。
 純子が前者を一切気にせずに歩き出すので、狂児もそれに習った。そして一応言い直す。「大会。ありますよ」
「ですよね」
 ざくろ、そして駅に近づくにつれて人通りは少しずつ増えていく、はずだったが、こちらは道路とは逆に何となく閑散としている。それどころか、すれ違った人間三人が三人とも薬物中毒末期のような緩慢な動きをしていたので、狂児は蒲田の治安、そして防犯機能もクソもない聡実くんのアパートを思った。なんか今日蒲田の治安悪ない?
 ラインを送ろうと内ポケットに手を突っ込んだ狂児は、一瞬固まる。携帯に触れた状態のまま数秒、躊躇しているうちに、目的の喫茶店の赤い幌の前に到着した。
「ほんなら、今日はよろしく頼みますね」
 純子に告げると、彼女も「はい。じゃあ」と返事をしたので、再びの別れの挨拶のつもりで会釈し、ドアを開ける。
 開けたのだが、なぜか彼女も一緒に入ってくる。
……なんですか」
「いや、私もお茶飲んでから行くつもりで」
「はあ……
 店内は静まり返っている。人の気配がないので仕方なくこんにちはと声をかけるが、やはり誰も出てこない。狂児は勝手に近くの椅子を引き、純子も何も言わずに別の卓に座った。先ほどの躊躇に対してまだ考えはまとまっていなかったが、とりあえず携帯は出そう。
 いまだ考え中のステータスで緑の吹き出しのアイコンをタップして、「は?」
 目に入ったニュース速報に、狂児の口からデカめの音が出た。純子を見る。
「知っとったん?」
「なんですか?」
「新幹線運休って知ってました?」
「はい」
 知らなかったんですか? と純子は答えた。「新幹線もですけど、京浜東北も京急も池上線も東急多摩川も止まっちゃったんですよ、昼前に。でも成田さんいたから、皆さんももういらしてるのかと思って」
 いらしてないねんと考える頭の隅で、だから道路が混んでいたのかと納得する。休日にそれでは殺気立っても仕方がないが、ちゃうわ。そんなんどうでもええねん。結局――
『お疲れ様です。カラオケ大会は延期です。』
 通知が入った。組の若い者だ。『新幹線が止まるみたいです。成田さんお気をつけて。』
 電波が悪かったのか、送信されてからしばらく経っているようだった。続いて『命拾いしたな』と親父。なんで俺が最下位の感じやねん。
「ないです、カラオケ大会」
「そうですか」
 余計暇になっちゃった、とでも言いたげな顔で、純子は店の奥にすみませんと声をかける。二度三度繰り返すが返事は返ってこない。それでもめげない彼女の声を聞きながら思い立って道路交通情報のサイトを開くと、首都高羽田線と横羽線、のみならず、環八も第一京浜も多摩堤も大田調布も、蒲田に至るルートだけが見事に真っ黒に塗りつぶされている。通行止めになっているのだ。
 こうしてみると蒲田は意外と交通の要所であることがわかるが、ちゃうわ。そんなんどうでもええねん。
 絶対なんかあったやろこれ。
 顎を引いて画面を眺めていると、ドアベルが鳴った。
 店主が戻ってきたのかと目をやるが、突っ立っているのは喫茶店のマスターではなく休日のオッサンであった。ただしノーマルタイプの休日のオッサンではなく、相当に手の込んだ化け物の仮装をしている。バケモン、あの〜なんやったっけ、最近名前が出てこ〜へん、「うわ、ゾンビだ」そうゾンビ。
 ええ年こいてなんやねんハロウィン終わったやろと狂児が顔に出してしまったのを感じ取ったのか、オッサンはこちらを見据えて方向転換し、ノロノロと近寄ってきた。他人の表情には敏感だがヤクザには鈍感なタイプと見える。
「なんですか〜?」
 問いかけを無視したオッサンは、返事の代わりにバカっと口を開いた。

 ◇◇◇
 
 大口を開けた聡実は、つっかえる喉に無理やり肉まんを突っ込んだ。冷めて脂が固まりはじめた肉の餡と小麦の皮を奥歯で潰し、混ぜ合わせて飲み下す。はじめに一つ、続いて一気に二つ落ちてきた豚まんを身体の一部とするために、空っぽだった胃が慌てて蠕動している。
 喉がつっかえているのは三つの豚まんのせいなのか別のものに起因するのか、検証するための脳のメモリは残っていなかった。全ての脳細胞は今、狂児のぶん投げてきた二つの質問を、ぐるぐるぐるぐる回している。ただ回している。
 見た瞬間、何時間考えても答えは出せないとわかる質問にぶち当たる時はある。そういう時はさっさと解答を見て良い、人は知らないことを捻り出すことはできないのだから。次に同じ質問が出た時にきちんと答えられればいいのだと、聡実は大学受験に至る過程でそう教わってきた。しかし、どうやらそれは所詮受験勉強のテクニックに過ぎなかったようだ。焼肉の後から抱えている課題すら、どこを見ても、誰に聞いても、正解が見つからない。そういう時はどうすればええんや。このままでは、次におんなじ質問が来てもきっと答えられない――
 次っていつ? 誰に?
 ぶ、というスマホの振動で、渦を巻く思考回路が停止した。
 振動のリズムがラインの通知だったので、今度は緊張が聡実を押しつぶす。駅に狂児を迎えに行った時からポケットに入れっぱなしだったスマホを恐る恐る取り出すと、通知の主は黒いアイコンではなく、バイト先の店長だった。アルバイトグループ宛だ。
『皆さん、お疲れ様です。暇だったら今日夕方のシフトから来て欲しいです。今からでもいいです。ホールでもキッチンでも。』
 欠員が出たのだろうか。現在時刻は14時半を回ったところだった。……もう二時半?
 この部屋でぐるぐる回り続けていると、あっという間に十二月になってしまいそうだ。立ち上がりながら『お疲れ様です。岡です。』と返信を打った。本来のシフトはいつもの深夜帯だったが、『今から行き』
 どん、
 隣家が壁を殴る音にびくりとして指を滑らせた聡実は、予測変換からふざけたスタンプを送ってしまった。慌てて送信を取り消しながら壁を見る。何? 僕、知らん間に独り言とか叫んどった?
 しばらく息を潜めていたが、続く音はない。代わりに響く足音はいつものものだったが、同時に聞こえてくるくぐもった声にはあまり馴染みがなかった。客でも来ているのか、それがこの部屋の狭さに慣れてなくてぶつかりでもしたか。いや、ていうか、これは喧嘩しとるな。
 内容はわからないが、隣には二人いて何かを言い争っている。なんなら揉み合っているようにすら聞こえる。いずれにせよ騒音は自分の責ではないと結論づけ、聡実はリュックを引っ張り出した。それから、僕も狂児に掴みかかったらよかったかな、と考える。人間二人で豚まん四つなんやから二つ食えやわかるやろとか。その光景を思い浮かべてみて初めて、自分の中に微量の怒りがあることを自覚する。
 ガスレンジの上に置きっぱなしだった551の袋はそのまま無理やり冷蔵庫に突っ込んだ、りくろーおじさんは、少し考えてから一つだけを冷蔵庫に。
 もう一つは箱を開けた。
『今から行きます。3時には着きます。』
 収納作業中は目に入れないようにしていた寿司の湯呑みを眺めて唇を噛む。焼きを入れられたおじさんの顔を思いっきり潰せば、五秒くらいで飲み込める。
 玄関を開けると、すでにこれから夜になると主張するような冬の午後だった。こないだまであんなに暑かったのに。もう一枚着るかどうか迷い、面倒になって結局そのまま鍵を閉めた聡実の右斜め前、隣家の奥から、ひときわ大きな音がした。タンスでも倒れたみたいな。
 本気すぎひん? ていうか、ほんまに喧嘩か?
 事件とかだったらどうしよう。
 聡実は逡巡した。巻き込まれたくはない。だが、このままバイトに行き、帰ってきたらパトカーが家を囲んでいたりしたら困る。いや、僕に後ろ暗いことは何一つないけども――
 閉ざされた扉を睨みつけ五秒、決意した聡実がチャイムに指を伸ばそうとした瞬間、ちゃっと軽い音がした。
……
 あっさり開け放たれたドアから顔を出したのは、不審者ではなく隣人だった。なんだかとてつもなく顔色が悪く見えたが、ちゃんと見たことのある顔だ。
 隣人は無言のまま会釈をする。
 それ以外に選択肢を持たない聡実も会釈を返す。
……こんにちは」
 ドアが閉まる。
 なんとなく釈然としないものを感じるが、これ以上できることもなかった。聡実は薄い鉄の階段を降り、駅前のファミレスに足を向けた。


2


 たった一人の社員である店長は、「岡くんごめんね……」と穴埋め依頼を謝罪した。
「思ったより混んではないんだけど、僕なんか調子悪くてね……まあこれから混むかもだし……てか給料は払うから、会社が」
 そう約束し、青白い顔でふらふらと厨房に引っ込んでいく。このレストランのほぼ全てのメニューは温め直すだけで提供できるのだが、ランチタイムのワンオペは大変だったことだろう。
 休日夕刻の混み合う時間帯を回すということに幾分か身構えていたが、聡実の覚悟は肩透かしで、今日の客入りはさっぱりだった。平日の深夜帯以上に閑散としている。16時現在、店内には、壊れた人形のようにドリンクバーと席を往復する女性と、手をつけていないハンバーグを目の前に虚空を見つめている男性、それからいつもの漫画家ら、以上三組しかいない。漫画家らがこの時間からいるのは珍しいと思ったが、締め切りに追われているのかもしれない。空いているのでいつものように放置している、というか、現在来店している三組の中においてこの二人組だけが客単価を上げているので、きっと店としてはいてもらったほうがいい。
 立地と価格と知名度をもってしてもこんなんやったら潰れるんちゃうか、と考えながら特に汚れていないテーブルを拭いていると、「お〜い、注文いい?」
「お伺いします」
 漫画家卓は赤のデカンタを追加した。メガネをかけた方がまだ飲むのかという顔をし、体格のいい方は気づかないふりをしている。
「はい。以上でよろしいですか?」
「マコトくんは? 今日多分帰れねえよ、俺たち」
 不穏な一言は聞かなかったことにしてマコトくんを見る。マコトくんも、不穏な……という表情でメニューから顔を上げた。
「じゃあ、豆のサラダとソーセージお願いします」
「そんだけ?」
「徐々に頼みます」
「あ、じゃあチキンもください」
「赤ワインデカンタをお一つ、柔らか青豆の温サラダをお一つ、チョリソーをお一つ、辛味チキンお一つ、以上でよろしいでしょうか」
「おっけ〜🙆‍♀️」
 ほろ酔いの漫画家が「いや〜」と上機嫌に声を上げるのを聞きながら、ハンディの送信ボタンを押した。「やっててよかったよ、ここ。こいつ、俺の買ってやった座椅子じゃもう無理だっていうからさ……
 漫画家がマコトくんを指すまでこちらに向かって話しかけているのだと思わなかった聡実は、「はあ」と間抜けな返事をした。「いつもありがとうございます」
「こちらこそだよ。流石にやってないかと思ったよ今日は。まー、やってなくてもここに忍び込むつもりだったけどな。文脈依存効果で俺ももうここじゃないと描けねえの、はは」
「すみません、冗談なんで」マコトくんが酔っ払いをフォローする。「北条先生、早く進めましょう。締め切り今日ですよ。まだ下書きも」
「鈴木くるかな〜、無理じゃね? 俺は無理だと思うよ!」
 蒲田封鎖万々歳! と高笑う中に耳慣れない単語があった気がして、聡実は思わず「は?」と聞き返した。
「あ?」
「あ、いえすいません……
 漫画家は聡実の謝罪を流して「知らねーの?」と眉を上げた。
「蒲田じゅうにゾンビが溢れてんだよ。そんで道路も電車も止まってんの。よく店開けたよな、ここの店長。兄ちゃんもよく来たな。ワーカホリック?」
……
 聡実はマコトくんのフォローを待った。しかし、メガネの彼はすでに作業に没頭しており、戯言が訂正される気配はない。
……ご注文ありがとうございます。少々お待ちください」
 厨房に向かって数歩、ため息が聞こえない距離になってから、聡実ははあ、と息をついた。あの漫画家、頭おかしなったんやろうか。こわ……
「赤出します」
 声をかけるが、店長がいるはずの厨房からは物音がしなかった。トイレだろうか。ていうか、この時間から籠城するつもりの漫画家に対して、赤ワインの在庫は足りるやろか。
 デカンタをサーブしてから再度厨房に目をやるが、まだ人の気配がしない。そう言えば、体調が悪いと言っていなかったか。であれば控え室に?
 入店時には構えたが、この客入りであれば聡実一人で回せないこともなかった。長丁場になるが、体調が悪いなら自分一人でもいい、そう申し出るために控え室に向かう。すると、カーテンの奥から何やらドタバタと物音が響いてくる。昼間のアパートの隣室とよく似た臨場感の、喧嘩のような足音だ。重ねて、バシンキコバシンキコと、聞いたことがあるようなないような間抜けな音も聞こえる。
 なんなんだ今日は。
 カーテンを開くと中には森田がいて、今まで聡実が見たどんな哺乳類よりも青い顔をした店長と、同様に青いバイトの中村さんを、畳んだパイプ椅子でボコボコにしていた。「あ、岡くん。お疲れ〜。」バシンキコバシンキコは、畳んだパイプ椅子で店長と中村さんをボコボコにする音なんや。へえ……
……は?」
「お疲れのとこ悪いんだけどさ、事務室に何に使うんだってくらい長い延長コードあったよね? あれ持ってきてくれない? なるはやで」
「え? いや……え、な、何やってるんですか……?」
 森田はえっという顔をした。
「えって岡くん、ゾンビだよゾンビ。あ、俺は平気だよ! 俺は普通に店長のライン見てヘルプに来たんだけどさ、多分中村さんもヘルプで来たのかな? とにかくここに入ったら店長が中村さん噛んでて。噛むってことはゾンビだし噛まれたってことはゾンビになるでしょ。だからとりあえず縛って隔離しとけば大丈夫だと思うんだけど、俺来週ライブあるからあんまり噛まれたくないんだよね。ちなみに岡くんは大丈夫? あ、噛まれたくないかどうかじゃなくて、まだ噛まれてないよねって意味ね。いやー、俺サイレンやりこんでてよかったよ。岡くんゲームやる? サイレンって知ってる? ちょっと昔の作品なんだけどジャパニーズホラーの名作でさあ、あ、あれは屍人なんだけど。ゾンビじゃなくて」
 森田の口は止まらない。バシンキコバシンキコも。店長たちは虚ろな顔でノロノロもがいているが、それ以上の反撃はできない様子だった。確かに縛って隔離しておけば大丈夫そうだ。大丈夫そうだが。
 大丈夫って何が?
「なんでみんなゾンビの話してるんですか?」
 
 ◇◇◇
 
 時刻は少し遡り、15時前。二十代からの遅めの手習いとはいえ多少喧嘩の心得があった狂児は、腕に噛みつこうとしてきた気味の悪いオッサンをボコボコにいなしていた。
 オッサンの肉は熟成が進んでいるのかだいぶ柔らかく、数発も殴らないうちに彼の頭は顔だか何だかわからない塊になってしまう。しかし彼は血を流さず、痛みすら感じていないように見えた。狂児も別に知らんオッサンに痛みを与えたいわけではないので、適当なところで手を止め、店のトイレに手を洗いに行ったのだが、戻ってくるとオッサンの塊はまだ元気にもがいており、純子がそれを椅子で抑えているような状況だった。
「まだおんのこのオッサン」
「ゾンビですよ」
 当たり前のように言う純子に、狂児は「はあ〜〜〜〜〜〜」と音声で表すタイプのため息をぶつけた。「なんなんですかさっきからゾンビゾンビって。大人でしょう」
「だってゾンビじゃないですかこれ。成田さん、ちょっと私疲れてきたので、抑えるの代わってもらえますか」
「こんなんなんか重いもん乗せといたらええんとちゃいます」
 テーブルをひっくり返してオッサンの塊の上に乗せた狂児は、はみ出た手足がタコのようにうごうごしているのを眺めながら、「とにかくカラオケ大会はないので。またね」と告げた。
「あれ、結局行かないんですか、ざくろ。カラオケ大会って今月の締めのついでじゃないんだ」
「ついでじゃないんです。締め日はまだでしょ」
「そうなんだ」
 何ヶ月働いとんねんと思ったが、純子が「まあいいや」と続けたので、狂児もまあええかという気持ちになった。どうでもいい。そんなことは。「私はお店行きますね。普通に開けると思うんで」
「そうですか。じゃあ、ジヨン姉さんによろしく」
「はい」
 先ほどは閑散としていた通りはこの小一時間で賑わいを取り戻していた。が、普段の蒲田と比べると、うっすら混沌としている。一部の人間は普通に働いているのだが、一部の人間は恐怖を押し殺した顔で右往左往し、そして残りは、老若男女問わずゾンビ活動に勤しんでいる。ゾンビ活動者はそこら辺にいる人間に噛みつこうとし、大体は動きが遅いために返り討ちにあっているのだが、揉み合ううちに噛みつき返されている非活動者の姿も見えた。
「ゾンビやな」
 先ほど純子を諌めたことを棚にあげてつぶやき、今度はなんの躊躇もなく聡実くんとのトークルームを開いた。通話ボタンを押しながら元来た方へ踵を返し、走る。繋がらない呼び出し音がずうっと鳴っている。
 さっき降りてきたアパートの階段には、ゾンビが一人、手すりに捕まりながら一生懸命下に降りようとしている。無視して駆け上がり、狂児は聡実くんの住む角部屋の扉を叩く。
「聡実く〜ん! 狂児やけど〜!」
 返事も物音もない。玄関は施錠されている。
 狂児は喧嘩の他、偶然にも不動産関係のトラブル解決に多少の心得があった。大家との交渉は代わってあげられる。だからほんまにごめんやけど〜、
「聡実く〜ん! ドアから離れてな〜!」
 注意喚起とともにドアを蹴破った。
 やはり人の気配は全くないが、念の為に靴を脱いで中に入り、聡実くんが不在であることを目視する。狂児が残した豚まんを片付け、りくおじを一つ平らげてから箱を潰し、寿司と淀川マラソンのコップを洗ってから出かけたのであろうということも。……ということは、この家を出た時はきっと無事だった。
 少しだけ安堵した狂児は、すぐにアパートを後にした。先ほどのゾンビを追い越し今度は西口方面に向かう。
 デカいドンペンくんがへばりついたビルが見える頃になると、祇園祭ばりの人混みが広場を埋め尽くしており、もはや日常の蒲田ではなかった。しかも明らかにゾンビが増えている。
 覇気のない不穏な人波は、なぜか狂児と同じくファミレスの方角に向かっているように見えた。


3


 森田曰く、マスコミはゾンビのゾの字も出していないが、SNSでは動画などが拡散されまくっており、ものの数時間でちょっとしたアポカリプスブームになっているそうだ。その中でも比較的信憑性の高いと思われる情報(森田選)と彼自身の観察によると、ゾンビは蒲田を中心に発生しており、ゾンビになった人に噛まれると感染る。噛まれると徐々に体調が悪くなり、言葉が怪しくなり、ぼんやりしたりウロウロしたりして、しかし最後には人を襲う。ただし彼らの動きは非常に緩慢で、力が強くなったりするわけでもないとのことだった。
 とはいえ、ゾンビは人間を噛んでゾンビに変えられるが、人間はゾンビを噛んで人間に戻せるわけではない。その変化が不可逆ならば、彼らがどんなに非力でも、遅かれ早かれ蒲田の人口比率は逆転するだろう。
「でも良かったよねすごい走るタイプのゾンビじゃなくて。28日後っていう映画はアスリートがゾンビのエキストラやったらしいよ、俺は観てないけど。ちなみにサイレンは逆っていうか、プレイヤーがただの村人だと操作が重くてお」
 店長(ゾンビ)と中村さん(ゾンビ)を拘束しながら森田の話す内容を70%くらい聞き流し、聡実が考えていたのは、狂児のことだった。
 今日はカラオケ大会があると言っていた。記憶の中とはいえ非力なゾンビなど二秒くらいで倒しそうな人たちだったから、祭林組の面々が騒動を無視して歌っていても全然不思議ではない。しかし、蒲田は封鎖されているのだ。もし交通事情により大会が中止されているとなると、狂児だけが蒲田に残されている可能性があった。
 少し遅い新幹線にしていれば巻き込まれずに済んだかもしれない狂児だけが。豚まん二十個とりくおじ二つを除き、手ぶらで蒲田までやってきたアホの狂児だけが。
 なんで手ぶらなん。
 狂児ならばゾンビくらい素手でどうとでもできるだろうか?
 戻った店内はまだ閑散としていた。幸いにもこの間の新規客はいないようだ。先ほど聡実が流したオーダーは当然放置されているが、漫画家卓は作業に没頭しており、トラブルには発展「あーっ!? なんだお前!!」した。
 見ると、先ほどまでおとなしく虚空を見つめていたハンバーグ男性が、漫画家卓で二人と揉み合っていた。その小競り合いに巻き込まれたドリンクバーの女性が床にウーロン茶をぶちまけている。
「あー、あの喧嘩売ってる人とウーロン茶こぼした人、どっちもゾンビっぽいね。店長たちと同じ動きだよね。ヤクザっぽい人たちは違うかもだけど」
 森田は「どうされましたか〜」と言いながらなんの躊躇もなくホールに向かい、なんの躊躇もなく虚空ハンバーグ男性(ゾンビ)を椅子でぶん殴った。
 簡単に床に落ち、非力にもがく彼の上にせっせと椅子を重ねながら、森田は接客を続けている。ゾンビですねー。ちなみにお客さまどこか噛まれたり……え、あれ……? えっえっえっえっえっ? えっ? もしかして北条麗子先生ですか!? ねこぱにの……やっぱり‼︎ ネームで速攻わかりました‼︎ すみません僕大ファンで……サインもらっていいですか!? あっい〜いですいいですいいですこのユニフォームで……はい。いや待って、やっぱり中のTシャツにしてもらってもいいですか、今脱ぐんで……「オトコのクンショウじゃねえか!」はい、オトコのクンショウは名作なので……
 大騒ぎを遠くに聞きながら、聡実は自分でオーダーを取ったフードを準備した。三品一気に持ち、ウーロン茶の水たまりを大回りして卓に向かう。さっきの揉み合いの犠牲になったのか、八割がた赤ワインをかぶった原稿が机に張り付いている。
「あっ岡くんみてよ‼︎ 北条先生のサインだよ!!」
「お待たせしました、小エビのサラダとチョリソーとハモンセラーノです」
……あ、いいよ。ありがと。エビのサラダ好きだろマコトく……あ?」
 聡実のサーブに何か言いたげだった漫画家は、震え出したスマホを見て言葉を切った。画面には『糞』と表示されている。
「は? 鈴木だ。くそ、無視すっか。どうせ休載だろ」
「とりあえず出てみては……?」
 オトコのクンショウもねこぱにもないバウムはちょっととぼやく森田を無視して通話ボタンを押した漫画家は、「あ、は〜い。はい。無事ですよ、俺も完成原稿も」と嘘をついた。「でも原稿を送れないんすよね。今通行止……いや、鈴木さんもこれないっしょ……え? 向かってる? どうやっ……
 漫画家とマコトくんが通夜状態になっている傍で、聡実はモップで床を拭き終えた。ドリンクを補充し終えて再度彼らの卓に向かうと、森田が再度はしゃいでいる。「岡くん、俺、上がっていいかな。今日だけアシスタントやるかも……
「すみません、僕もこれで上がります」
 えっ困るんだけど、と漫画家がこちらを見上げるので、「食事は森田さんがチンしてくれると思います」
「やります」
「いや、兄ちゃんはベタをやってくれ。雇ったんだから」
「どっちもやります。もう店閉めちゃおうか。いいよね。うちしかやってないでしょ今日」「あの、森田さん」
 立ちあがろうとした森田に被せ、聡実は大きな声を出した。森田はちょっと驚いたように顎を引く。
「何?」
……ゾンビに効く武器ってなんですか?」
 なんだっけ、と森田が唸るバックグラウンドで、ペン先がガリガリと紙を引っ掻いている。白紙の上に魔法のように猫の毛並みが現れ、このひとほんまに漫画家なんやと聡実は感心した。今も、そういう漫画やったらよかったのにな。描いたら武器が出るとか、思ってることが勝手に伝わるとか……「あ、ほむらなぎとうりえん」
「あ? なんだそれ。ゾンビにはあれだろ。聖水」
「聖水だって岡くん。あとは猟銃とかじゃない?」
「すいません、なんかもっと入手しやすいやつというか、」
 
 ◇◇◇
 
「ドンキとかにあるもんで頼むわ〜。え? 火炎放射器? 売ってへんやろなあ〜」
 電話を切る。皆アメリカの映画の見過ぎだ。アドバイスがちっとも役に立たない。
 狂児はゾンビの群れに行手を阻まれている。
 ファミレスに向かう道中は人混みが人混みを呼び、あっという間に身動きが取れなくなってしまった。中には人間も混ざっていたが、すし詰め状態ではゾンビの緩慢な動きを避ける手立てがなく、変に体が絡まったままなすすべもなく噛まれ、そしてみるみるうちに顔色を悪くしていくのである。 
 狂児は丸腰だ。彼らの肉は柔らかいので、一人や二人ならば素手でも問題なく相手ができたが、いかんせん数が多すぎた。道すがら運よく手に入れたゴルフクラブ、しかも業務上愛用しているヘッドが重いドライバーでも、この数の頭を一つ一つ打つという作業は素手とさして変わらず、それどころか、混み合うにつれて振り被るのが困難になってきた。そして、仮に今銃をを持っていたところで、この大群を蹴散らすには不十分であろう。
 だから広範囲に利用できてドンキで買えるものを尋ねたのに。なんでもあるやろドンキには。
 まあ、こんなに混んでいたら、ファミレスと同じビルにあるドンキでの武器入手には意味がないのだが。
 もはや足枷となりつつあるゴルフクラブをぶん投げて、狂児はドンペンに背を向けた。ファミレスには這ってでもいくが、大回りになっても別ルートの方が早い。人間だった時のルールが忘れられないのか、ゾンビは歩行者ゾーンを好んで歩いた。やったら車道で……て。
 自分と同じことを考えた人間、もしくはハンドル操作を誤ったゾンビ、でなければ宇宙人か。いずれかが運転する飲料メーカーのロゴ入りトラックが、狂児が今抜け出したばかりの群れに向かって突っ込んでくる。クラクションが響く。
 
 ◇◇◇
 
 ドンキにはもう行けそうにないので、聡実はモップで妥協した。
「何、戦うの? 岡くん」
「や、戦うっていうか……僕、人を探さなあかんくて」
「どこにいるの?」
……
 森田が店を閉めようとして初めて、面々は外が思った以上に大変なことになっていると気づいた。
 幸い、ここには水も食料も酒もある。さらに、鈴木に追われる漫画家には文脈依存効果、マコトくんには座椅子よりもマシなソファ、そして森田には憧れの作家と共同作業という、なにものにも変え難いものがファミレスにはあった。だから、外に出ようとしているのは聡実一人だ。
「モップ使い慣れてる? 椅子とかの方がいいんじゃない?」
「椅子も使い慣れてませんけど……じゃあ、みなさん原稿頑張ってください」
「うーい、お疲れ〜」
 聡実は会釈し、先ほど森田が施錠した入口から外に出た。
 目の前の階段はしんとしていたが、踊り場まで行くと景色が一変した。えげつないバーゲンセール、もしくはヤカラばかりの祭りのような様相である。地上の入り口には殺到したゾンビたちがぎゅうぎゅうに詰まっており、押し出されたものがぼろぼろと踊り場に向かって落ちてくる。森田はこれを見たのだろう。
 なんでこのファミレスに? ここだけ営業してたから?
「ひい……
 聡実はうめいた。
 ここから出たところで、聡実は狂児がどこにいるか知らないのだった。カラオケ大会はやっていないだろうし、やっていたとしてその会場を知らない。考ようとする時間すら無駄な問題だ。
 それでも、狂児の意地の悪い宿題よりは遥かに簡単に思えた。
 わからんかったとしても、僕が解かなあかんのや、と聡実は思った。誰かが作った解答冊子見て、別の誰かにうまく答えても意味ないねん。僕が自分で考えて、僕が答えを狂児に見せなあかん。
 僕と狂児じゃないとあかんねん。それが間違ってたとしても。
 足首を掴んできた青い手をモップの先でグイグイ押しながら、見つけた狂児がゾンビになっていたらどうしようかと考える。考えてからすぐにそれでもしゃあないなと思ってしまい、ついため息が出た。あいつがゾンビになっていても、聡実は狂児に――
 ガッシャ、と、映画でしか聞いたことの衝突音がして、聡実は身をすくめた。
 ゾンビと一緒に落ちてくる建物の一部を避けるために踊り場に後退する。薄暗い空間を眩しい光が馬鹿みたいに明るく照らしている。見上げると、トラックの鼻先が地上の入り口に突っ込んでいる。
 車の脇にほんの少し空いた隙間からのぞいた人影は、サイドミラーをへし折り、挟まっているゾンビを蹴り落とし、体を横向きにして滑り込んでくる。
 そしてアホみたいにデカい声で言った。
「こんばんは〜。やってます〜?」
 聡実は息を整えた。泣くのが嫌だったのだ。逆光で見えなかったが、狂児は笑っている。絶対に。


エピローグ


 モップを握りしめている聡実くんは、勇ましいというよりだいぶ可愛らしかった。唇を噛んで笑うのを堪えていると、震える声が「今日は閉店しました」と答えた。
 狂児はようやく息を吐き出す。
「みたいやな〜。看板の電気消えて焦ってもうたわ」
 聡実くんの手前、気持ち丁寧に足でゾンビをどけながら、狂児はゆっくり階段を降りた。聡実くんは眩しそうに、というかなんっっっも見えへんという顔でこちらを見上げていたが、段差が四段になったところで光の角度が変わったらしい。彼の視線と狂児の視線がようやくかち合った。
「久しぶり。元気そうやな」
「おかげさまで。狂児さんは? どうしたんその車」
「ファミレス来たくて友達に借りてん。ちょっと小腹空いてもうて」
 豚まん残すからやと吐き捨てる声が聞こえた。
 それはほんまにごめんと呟く前に、聡実くんは階段を一段登ってきた。緊張を宥めるような、それとも何かを諦めたかのような、小さなため息と共に。「狂児さん」
「ん?」
「僕考えとってんけど、今日」
「何を?」
 背後から、瓦礫がパラパラと崩れてくる。車の部品が地面に落ちる音がする。まだファミレスを諦めきれないゾンビたちがなんとか中に滑り込もうと奮闘している気配がする。聡実くんの視界にはそれらも入っているだろうに、彼は狂児から目を逸らさないまま、また一段距離を詰める。
 狂児は、聡実くんは自分を逃してくれないのだと悟る。
「狂児さんとどうなりたいかと、狂児さんをどうしたいか」
……そっか」 
 もう一段。
 聡実くんはもう、何かを覚悟した顔をしてしまっている。めっちゃ男前やんと茶化すこともできない胸中は、代わりにチリチリと痛む。線香花火のように弾けながら、それは狂児の心臓に迫る。逃げられない。この甘い痛みから。
 まあまあ生きてきたくせに、これは聡実くんにだけ感じる痛みなのだった。そのことを改めて自覚し、狂児はまた笑いそうになる。自嘲に歪んだ頬をどう受け取ったのかわからないが、聡実くんは唇を噛んでモップを投げ捨てる。
 軽い音が落ちていく音のを聞きながら、狂児はこれからのことを考えていた。俺とどうなりたいの? 俺をどうしたいの?
 聡実くん、俺とどこ行く?

 聡実は口を開き、息を吸った。


(終わり)