観音開きの玄関扉から中に入ると正面の壁に掲げてある色あせた曼荼羅模様の絵に出迎えられた。いきなり左右にわかれた廊下があり、小さな内窓がいくつも並んでいる。
内部の空気は極めて清浄で少し意外に思う。少年は右手の廊下を進んでいく。大の男二人が足を踏み込んだ板張りの廊下はぎしぎしと湿った音を立てた。まるで回廊のようにその廊下は部屋をぐるりと囲っているようだ。左に折れた先には白い壁が続き、外側に面した窓から見えるのはひたすらに深緑の木々だけだ。
「なぁ、君はどうしてこんなところに?」
イルカは問いかける。
「ササメさまにお仕えするためです」
振り返りもせずに少年が答える。
「そうか……」
問いたいことは山とあるだろうにカカシの自重しろという発言が効いたのかイルカは唇を噛んでそれ以上何も問おうとはしなかった。別にそこまで頑なになることもないのにな、と思いつつカカシは少年には聞こえないよう忍びだけにわかるやり方でイルカに問いかける。
「あの子、正気だと思います?」
「わかりません……、でも、正気な気がします」
「それはあなたの勘?」
「どうでしょう」
イルカは少し笑ったようだった。呼吸は浅く、頬を一筋汗が流れ落ちていく。恐らく相当無理をしているのだろう。外で待てと言えなくもなかったが、そうすればきっとこの男の矜持を痛く傷つけるだろうということもわかっていた。
「カカシさん」
「ん?」
「解毒剤、いくつあるんですか?」
「俺が持ってるのはあと一つ」
誤魔化す意味はないので正直に答えたら、イルカは目を見開いて、それから唇を引き結んだ。
もう一度廊下を左に折れたところにようやく部屋の戸口が並んでいるのが見えた。二つばかり扉を通り過ぎ、やがて三つ目の扉の前で少年は足を止める。
少年の、まだふっくらとした幼さの残る手が扉を開け、二人を中に入る様に促した。
「どうぞ」
声を掛けられ、二人は素直に従って部屋の中へを足を踏み入れる。それを見届けて、少年は自らも部屋に入り扉を閉めた。
ひどく嫌な予感がした。
通された部屋は広さで言えば六畳もない、床は廊下と同じ板張りで、腰かけるための背もたれのない座面の低い一人掛けの椅子が二つ。向かって右側の壁には内窓がある。隣の部屋が見えるだけの意味のないそれの下に小さな台が置かれていてその上に大きな香炉のようなものが鎮座している。空気は変わらず清浄だが、もうそこからして怪しい匂いがぷんぷんした。
少年はその香炉の前に立つ。マッチを擦る音がして、ほどなくして細い煙が上がる。
ふわりと漂う甘い香りに知らず、カカシは眉を寄せていた。隣のイルカに至ってはあからさまに眉を顰めている。また彼の頬を一筋汗が流れ落ちた。
「ここでお待ちください」
腰かけるように促されたが香炉の傍に近寄りたくないのが本音だ。イルカも部屋から数歩入ったところから動こうとはしない。
「それさ、客が来たら焚く? そういう決まり?」
カカシは顎で香炉の方を指して尋ねてみた。
「はい」
振り返って平然と答える少年は全くの無表情。カカシですらじわじわと得体の知れない匂いに身体を蝕まれているような感覚に犯されているのに。
この子、平気なのか――?
「消してはもらえないかな」
「どうしてですか?」
さも意外だと言いたげに少年は目を丸くして小首を傾げた。邪気の欠片も感じられなくて、カカシはそれ以上言葉を紡げない。
「消したら叱られます」
そう言われたら消せとも言えなかった。それが間違いだったと気づくのは後になってからだ。
「ここで待ってたらササメさまに会わせてもらえる?」
カカシは問いかけた。
「それはわかりません。あなたたちはどうして薬が必要なんですか」
「友人が重い病で。なかなか治らない。ここに来ればどんな病気も治せる薬が手に入るって聞いて」
少年はカカシをじっと見つめている。光を映さない黒い瞳は真っすぐにまるで検分するような確かな理性のようなものが感じられた。
「一緒に連れてってはもらえない?」
「それはできません」
淡々と答えて少年は扉へ足を向けようとする。
「ま――」
「待ってくれ」
カカシは待ってと言おうとした。けれども同じ言葉をイルカが発して少年を呼び止める。少年はぴたりと動きを止めた。
イルカから送られた許しを請うような視線にはまだ力が宿っている。カカシは肩を竦めてみせた。あなたの好きにして下さいという意味を、イルカは違わず受け取ったようで、
「少し、話をしないか」
彼は本当は近寄りたくないであろう香炉の傍に立つ少年に歩み寄り、しゃがみこんで視線を合わせた。いかにも教師らしい、いや、彼らしいやり方だと思った。
「君はここに住んでる」
「はい」
「君だけ、か?」
少年は押し黙った。
「もしかして、同じような子どもがいるのか?」
カカシとしては少しでもササメの情報を、と思ったがイルカはそうではなかったようだ。それでも、少年の黒い瞳がわずかに揺らいだのをカカシは見逃さなかった。
この子は何か隠している。
イルカの男らしい手が少年の両腕を優しく掴む。
どこか怯えたように身体を強張らせる少年に、「心配すんなって」と声を掛けるイルカも、恐らく何かに気がついたのだろう。彼は少年を連れて椅子に腰かけ、その前に少年を立たせた。
「なぁ教えてくれ。他に子どもは?」
少年は相変わらず何も答えない。ただ表情を強張らせ、押し黙るばかりだ。イルカは一度目を伏せ、それから質問を変えた。
「ササメさまは、優しいか?」
「……はい」
答える少年の声はやはり強張っている。まるで無理やりにでもそう言わなければいけないと思っているような。
「ササメさまに仕えてるって言った、けど、君が、飯とか……作ってんのか?」
カカシは小さく息を呑んだ。イルカの口調が次第にゆっくりになっている。張りのある凛とした声が力を失ってはいないか。これまでなんとか平静を保っていられた息が荒くなってはいないか。
「はい」
「イルカ先生」
カカシは傍らまで歩を進め、小さくイルカの名を呼んで、その肩に手を置いた。
「……そうか、偉いな」
イルカはカカシに構うことなく少年の頭に手を乗せた。武骨で優しく、温かい手だ、と思った。その手がナルトを、多くの子どもたちを導いたのだ。
少年の目が大きく見開かれている。そうして今度はイルカの中の何かを探る様にじっと見つめた。イルカは苦しげに息を呑み込み、それからにっこりと微笑んだ。
「でもな、君がそんなことをする必要は、ほんとは……ないんじゃないのか?」
「……術を、教えてくれるから」
カカシは思わず目を見張った。イルカも同じように目を見開き、そしてちらりとカカシに視線を送ったが、また少年に視線を戻す。
「ササメさまってのは、忍者……なのか? 君は、忍者か何かを……目指してるって、ことか?」
少年はこっくりと頷いた。
思ってもみなかった展開だが、なるほどこの少年が正気でいられるのは何か特殊なチャクラを持っているからかもしれない。そしてササメという女はそれを利用するつもりなのだろう。その素質を見込んでいつか右腕にでもしたいのかもしれない。
けれども駄目だ。包み込むような温もりを持っているはずのイルカの凛とした声が、ますますその輪郭を危うくしている。
黒い瞳が時折焦点を失いかけては戻ることを繰り返している。
「だったら……教えてくれないか。君の、他に……」
「イルカ先生」
カカシはさらに強く名を呼び、その肩を強く掴んだ。早く解毒剤を飲めと言いたかった。これ以上は無理だ。
けれどもイルカは自身の中の不穏を振り払うように小さく首振って、それから拒絶の視線をカカシに寄越す。まだこの子と話すつもりらしい。
強引にでもこの子からイルカを引き剥がすことも出来るはずなのに、決然とした視線に何も言葉が出て来ない。
「他に、同じような、子は誰も……いな……い、のか?」
少年は大きな目を見開いてイルカを凝視している。薬に飲まれていく人間の様を目の当たりにした怯えや慄きが浮かんでいるようにも見えた。
「……薬は、いらないんですか」
少年は同時に躊躇いの色を隠せない。この聡い子に、ついさっき会ったばかりの所在も知れない男の質問に正直に答えろと言う方が難しいだろう。この子がササメとどんな関係にあるのかもわからない。
だが、こんな状態にあってすらイルカの包容力と真剣さは、確かに少年を揺さぶっている。
「いるよ。でも、君のことがなんか……心配、なんだ」
また少年はイルカを真剣に見つめている。目の前の男が信用に足る人物なのかを必死で見極めようとしている眼だ。やがて大きな瞳がゆらゆらと揺れ、幼い頬が歪む。
「い……」
一度口を開きかけ、我に返ったように少年はイルカの手から逃れようとした。けれどもイルカがそれを許すはずもない。所詮は子ども。怯えの色をいっぱいに広げた少年の面差しは先刻まで見せていた無表情とは程遠い。
「大丈夫、だから。な? どうした?」
「……い、妹が、」
「いるのか? ここに」
静かに、探る様にイルカは問いかける。
「でも、ずっとぼーっとしてて。なんか、おかしくなっちまった」
少年の声が涙を堪えるように震えている。
イルカがひゅっと息を呑んだ。その表情にみるみる憤りの色が満ちていく。
あーあ、この人キレちゃった、と思った。
同時に困った事態になったものだ、とも思う。
子どもにまで被害が及ぶなんてうみのイルカが赦すわけがない。すぐにでも手を打とうとするだろう。後先など考えずに。
外で待て、と言えなかったのは自分自身だ。
「君、名前は?」
イルカは語気を強めた。
「タツキ」
「タツキ、一刻も早くここから、逃げ、ろ。妹を連れて」
「でも……」
イルカは大きく息を吐き出して、それから一息に言った。
「俺たちは忍者だ。術を習いたいなら木ノ葉の里に来い」
……やっぱり。
カカシは思わず右目を手のひらで覆った。
「え……」
ひとつ頷いて、イルカは口の中に指を突っ込む。仕込んだ解毒剤を取り出して、中身を少年に渡すつもりなのだ。
「待って」
ここで初めて口を開いたカカシに、イルカは驚いたように顔を向ける。
「止めないで下さいっ」
まるで咎められたと憤る顔に思わず苦笑したくなった。
もう少し信用して欲しい。
「それは先生が持ってて。っていうか飲んで、今すぐ」
「はぁ……?! 何を言っ」
「タツキ、妹はどこにいる?」
問いかければ、二つ手前の部屋にいるという。自分たちがその扉の前を通り過ぎた部屋だった。カカシはポケットの中に手を入れた。
「カカシさんっ、それはダメです! 残りは後――」
「黙って」
カカシは静かに一喝して少年の手のひらに最後の解毒剤を渡した。
「それを噛んだら中に粉が入ってる。半分でいい、妹に飲ませろ。もし妹が寝ちまっても背負えるな?」
タツキと名乗った少年ははっきりと頷いた。
「よし、じゃぁ、ここから出て山を下りたら右手の壁を目指せ。近くまで来たら今度は壁伝いにこの村の出口に向かうんだ。途中で赤い実のなる木がある。その傍の家にじいさんがいる。お前たちを助けてくれるはずだ」
「でも……」
少年の顔に心配という感情が浮かんでいる。ここに来た大人がどうなるのかこの子はよく知っている。知っていて恐らく何も感じないようにしていたのだろう。恐らく妹のことすらも。
「火を、」
「いいから、早く行け」
イルカが促せば少年が扉を開け部屋を出ていく。
イルカは大きく息をついてそれから、
「見届けて、やらねぇと」
立ち上がろうとしてがくりと崩れ落ち、床に膝をついた。
「あ……」
イルカは目を見開いたまま動かない。
「イルカ先生?」
カカシは息を呑んだ。
二つ向こうの部屋からどたどたと足音が聞こえたのは少年が妹を連れて出ていく気配だ。幸いササメとやらが姿を現す様子もないのに。
イルカの身体にまるで力が入っていない。だらりと腕を下げ、黒い瞳は完全に焦点を見失ってぼんやりと中空を見ている。半開きの唇はまるで人形のようだ。
開け放したままの扉から清浄な空気が流れこんでくるが何の慰めにもならなかった。
「先生!」
イルカの正面に膝を折り、肩を掴んで強く揺さぶったが、本当に人形のようにぐらぐらと身体が揺れるだけだ。
カカシは舌打ちした。
少年を逃がしたという安堵からイルカの張りつめたものが切れてしまったのかもしれない。
とにかく、香炉の火を消さなければ、と思った。立ち上がろうとした瞬間、
「……っ」
カカシの目の前がぐにゃりと歪む。奇妙な浮遊感が身体を襲って思考の核がぶれるような感覚を覚える。
ぐらりと身体が揺れて思わずイルカにしがみついていた。
はっと息を呑み、イルカの身体から離れる。彼はぼんやりしたままで何の反応もない。異様な感覚から逃れるようにカカシは強く頭を振った。イルカはこの感覚に耐えていたのか。いったいどの時点から?
カカシは奥歯を噛みしめた。甘かった。もっと早くイルカをここから遠ざけるべきだった。
「イルカ先生! 俺を見て!」
はっとイルカが息を呑む。焦点をカカシに結んで怯えたように唇を震わせた。
「カカシ、さん……、すみま、せん、俺……」
「いいから早く! 解毒剤飲んで!」
イルカはゆるゆると首を横に振る。
「なんで!」
「ダメ、です……だって、」
言いたいのは残りあと一つの解毒剤を自分が飲むわけにはいかないということだ。
「俺は大丈夫だから、まだ間に合うから、だから早く!」
本当に?
ぐらりと身体が揺れる。頭の中に靄が掛かって意識が遠くに行く。
次の瞬間、カカシは背筋を強張らせた。今、一瞬飲み込まれていた。イルカが何度も陥っていたように。
「カカシ、さ……」
カカシはイルカを見た。また背筋が強張る。黒い瞳が完全に力を失う瞬間を見た気がしたからだ。
「カカシさん……」
虚ろな視線と夢現を彷徨うようなぼんやりした声音。もう一度カカシを呼んだイルカはふわりと笑った。まるで一緒に堕ちようと誘うように。
一瞬魅入られて、それからカカシははっとなる。
二人で堕ちるわけにはいかない。まだ間に合う。まだ――
――本当に?
「くそ……っ」
カカシは大きく舌を打って、それからイルカの両の頬を片手で掴む。口をこじ開けて、中を探ろうとしたが、手が震えて上手くいかない。
「あ……、う……」
眉根を寄せたイルカの舌が指に絡む。これではまるで情事の最中に口内を犯しているのと同じだ。
「違う、先生、違うからっ」
頬を汗が伝う。また目の前が歪んで頭の芯がぼやける。これは催淫剤の作用とは違うはずなのに、
この男を犯したら、どんな風に啼く?
カカシは己の思考に慄いた。
理性の箍がひどく緩んだような感覚に襲われて、イルカの口内から慌てて指を引き抜く。
とにかくここから出なければ。どうして先にその判断をしなかったのか。知らないうちに飲み込まれていたということか。
イルカは焦るカカシを呆けたように見つめているだけだ。何をどうしたところで文句も出ないだろう。
だから些か震える膝を叱咤して、イルカを抱えて立ち上がろうとした瞬間、
「ねぇ、タツキ逃げちゃった。どうして?」
ぞっとするほど冷たい女の声が頭上から降って来た。冷たい汗が背中を伝う。気配に気づけないほど飲み込まれていたのか。
カカシはチャクラを練り上げようとして――
うまくいかなかった。
「まぁでもいいか。いい男が二人も釣れたし」
焦燥と共に振り仰いだ先には真っ白な肌と黒くまっすぐな長い髪の女がいた。
化粧っ気のない面差しは清楚と言ってもさしつかえないくらいに美しい女だ。正体を知らなければころりと落ちる男は五万といるだろう。どこか無邪気な口調のわりに抑揚はない。
「……アンタがササメか」
女はにっこりと笑って「そう」と答える。それから二人の傍にしゃがみこんだ。イルカはぼんやりと女を見ている。カカシは彼を庇うように女に正対した。
「いったい何がしたい」
「別になにも。そろそろここも引き上げ時だし」
女はカカシをじっと見つめた。
「もしかして写輪眼? はたけカカシ……? 」
「だったら、なんだ」
今更隠す必要もない。
「あっは! すごい! こんなことってあるんだ!」
女は両手を口の前で合わせて興奮気味に声を上げた。年若く見えるがこの女が実際は何歳なのかもわからない。だから邪気の欠片も見当たらない、まるでそこらの少女のような様がかえって薄気味悪かった。
憎悪や狂気に囚われる者も自暴自棄で無敵になる者も数多く見てきたがこういう相手には終ぞ出会った記憶がない。
「でも、使い物にならないでしょ? たまーに来るのよねぇ忍者ってやつも」
だから予防線。
女は言う。それはこの部屋のことか、それとも火を消したら叱られると少年が言った香のことか。恐らくガクエも同じ轍を踏んだのだろう。
カカシは奥歯を噛みしめた。それからわずかな装備の中に隠し持っていたクナイに手を掛ける。こうなったら正気を保つための手段は痛みしかない。この状態でどこまで渡り合えるかはわからないが選択肢は残されていない――
「そんなことしなくても殺しゃしないって」
笑う女はカカシの両の頬に手を触れた。ぞっと背筋が慄いて身体が後ろに退ける。
「ねぇ、そこの男はアンタのいい人?」
女はカカシの肩越しにイルカを覗き込んで場違いなことを言う。
「は? なんのことだ」
心底意味がわからないのに、なぜか背筋がぞくりと慄いた。
「それにしてもいい男」
口の端を大きく上げた女の美しい顔が近づいてくる。逃げなければと思った瞬間には口づけられていた。
「ぐ……、う」
滑る舌が咥内に入り込んできた。本来こんな行為退けることは造作もないはずだ。嫌悪感で怖気が立つのに振り払うことが出来ない。身体に力が入らない。カカシは情けなくも床に尻もちをついた。
「……っ」
艶めかしい感覚に翻弄されている間に得体の知れない何かが喉の奥に流れ込んだ気がしてカカシは辛うじて女を押しのけて口元を拭う。
「気持ち悪かった? あなた女に興味なさそうだもんね」
カカシは男にも女にも興味がない。生理的な欲求を満たすことはあれど特定の誰かに劣情を抱いたことはない。
だからしたり顔の女を冷めた目で見ようとした。けれども身体が、熱い。腹の底で何かが暴れ回るような感覚に息が上がって耳鳴りがする。目の前が霞む。
カカシは床に手をついた。
この村に入って程なくして耳にした狂気じみた嬌声はつまりこういうことだったのかもしれない。
「ねぇ、犯したい? 犯したいでしょ?」
カカシの顔を覗き込んだ女は嬉々としている。その言葉に思考が焼き切れて、カカシは女の肩を掴もうとした。その腕が空を切る。
するりと身を翻した女は立ち上がり、カカシを見下ろしていた。ぞっとするほど美しい笑みを浮かべて。
再び床に手をついて、カカシは愕然と目を見開いた。
俺は、今この女をどうしようとした?
汗が次々に頬を伝ってぽたりぽたりと床に落ちる。
「私はごめん。この人と楽しんで?」
カカシは操られるようにイルカを振り返った。床に座り込んだままのイルカの、光を失った黒い瞳がぼんやりと女を見上げている。魅入られている。
揺るぎない力を持った視線はもうどこにもない。
女がゆらりと足を踏み出してイルカの前に立つ。イルカの視線が女を追う。そうして身体を屈め、イルカの頬に触れ、
「口、開けて?」
まるで子どもを諭すような優しい声音で呼びかける。操られるように口を開いたイルカにいつのまか手にしていた小さなガラス瓶から青く澄んだ液体を垂らすのが見えた。
「やめ、ろ……っ」
カカシは手を伸ばし、女の長い着衣を掴んだが、そんなことをしたところで何の意味もない。
「やっぱりいい人なんでしょ?」
ちらりと見下ろされ、不敵な笑みを向けられてカカシの手は滑り落ちた。そうじゃない、と言おうとしたが、次の瞬間には自分が何を言おうとしたのかわからなくなった。
女は再びイルカに目を向ける。
「いい子ねぇ」
ねっとりと頬から首筋を撫で下ろされてうっとりと目を閉じたイルカの喉元がごくりと鳴った。
やがて目の前で大きく目を見開いたイルカの頬が瞬く間に紅潮していく。うっすらと滲んでいた汗は今や吹き出さんばかりの勢いで頬を伝い、首筋を流れ落ちていく。
「あ……?」
獣のような息を吐き出しながら戸惑うように声を上げたイルカは身体を丸め自身を強く抱きしめた。腕に食い込んだ手がぶるぶると震えている。
「イルカ、せん……」
呼びかけようとした声がどろりと溶けているのがわかるのに、己のするべきことが見つけられない。カカシは同じように荒い息を吐き出しながら、ただその様を凝視することしか出来なかった。
「あ……っ、あ、あ」
苦しげに吐き出された声はだが驚くほど官能的だ。この男にそんな艶が隠れていたなんて思いもしなかった。
こんな、いやらしい男だなんて――
「いやらしいこと、してあげて? きっと悦ぶ」
耳元で囁かれて身震いが出る。
「隣の部屋から見てたげる」
ああ、あの内窓か……。
ぼんやりとそう思った。
「変態、なんだな……」
辛うじて揶揄を吐き出してみせたが、それ以上思考が回らない。
女はさざめくように笑ってまだ中身が半分残ったガラス瓶を床に置いた。
「きっと欲しくなるから」
「冗談……」
さすがにそれは笑えない冗談だとおぼろげな思考の中で考えているうちに女はその場から姿を消した。
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