桐子
2024-11-18 23:39:51
4098文字
Public
 

嘘でもいいからそばにいて⑤(父水♀)



ゲゲ郎はいつもの着流しではなく、薄茶の着物に焦げ茶色の羽織を着ていた。仕立てたはいいが、結局いつもの着流しばかり着ていて、すっかり箪笥のこやしになっていたものだ。
「何でここに」
「今日は飲み会で遅くなると言っておったじゃろう」
言ったーーーーかもしれない。だが、今まで飲み会で遅くなるから迎えに来ることなんて、一度もなかった。
「水木さんの知り合い?」
後輩たちは驚いた様子でゲゲ郎を見つめている。男はそっと水木の肩を引き寄せると、いつもよりうんと愛想よく答えた。
「ああ、水木の夫じゃ。いつも妻が世話になっておるのう」
あっさりとした口調でとんでもないことを言われ、水木はぎょっとしてゲゲ郎を見た。
「旦那さん、ほんとにいたんだ……
ひそひそと囁き合う同僚たち。好奇の目が突き刺さるのを感じながら、水木はゲゲ郎に調子を合わせた。
「そ、そうなんだ。さ、帰るぞ」
「うむ」
一刻も早くこの場から立ち去りたかった。水木はゲゲ郎の腕をとり、足早にその場を後にしようとした。だが、水木の思いとは裏腹に、後輩が声をかけてきた。
「水木さん、結婚したなんて言ってなかったじゃないですか。水くさいですよぉ」
そう言って、彼女はゲゲ郎の全身をさりげなく観察した。着物に下駄、白髪、老人じみた口調。おかしな所がありすぎて、どこからつっこんでやろうかと思っているに違いない。
「今時着物に下駄なんて、渋いなぁ。ね、なにしてる人なんですか?」
甘ったるい声でゲゲ郎に話しかけてくる。水木は「行くぞ」と強引にゲゲ郎を引っ張ったが、彼は「まあよいではないか」と言って動こうとしない。
「何をしているかと言われたら、そうじゃな……古来からの歴史を書き記しておるの」
「こ、こいつは売れない小説家なんだ。着物なんて着てるのも文豪気取りでね。さあもういいだろ」
ボロが出ないうちに早く退散したいのに、ゲゲ郎はにこにこと笑いながら、後輩の相手をしている。
「会社での妻はどんな様子ですかのう。働きに出ずともよいと何度言うても会社勤めを辞めんから、余程居心地がよいとみえる。そんなに稼ぐ必要などなかろうに」
確かにゲゲ郎たちは人間の金などなくても、蛙や野草を食べて生きていけるし、水木があくせく働いて稼ぐ必要などない。だが、ゲゲ郎の言葉は周囲の人間たちには違った意味合いで受け取られたらしい。
「働かなくてもいいって……水木さんの旦那さん、もしかしてすごい小説家の先生だったりする?」
「何て本を出されてるんですか」
水木は額を押さえて呻いた。余計なことを言うんじゃねえとゲゲ郎を怒鳴りつけてやりたかったが、騒ぎを聞きつけた部長まで出てきてしまったのでそうもいかなかった。
「ぶちょうさんとやら、いつも妻が世話になっております」
ゲゲ郎はぺこりと頭を下げた。
「いやなに、こちらこそ水木くんには助けられていますよ」
「それはそうでしょうな。妻は気立てもよく働き者で頭の回転も速く、何よりこんなに美人ですから。わしはもう、会社で妻が他の男に言い寄られていないか心配で心配で」
そう言いながら、ゲゲ郎はそっと水木の肩を抱き寄せた。まさかそんなことを言われるとは思わってもみなかったので面食らってしまった。
「お熱いねえ」
「恥ずかしい話ですが、わしの方が惚れ込んでおりますのでな。妻がいなくては夜も日も明けぬ有り様です」
そう言って目を細め、本当に愛おしそうにこちらを見下ろすものだから、何も言えなくなってしまった。首を少し傾げ、薄く微笑む姿が妙に様になっている。色気のある男というのはこういうことを言うのだろう。
「愛されてるねえ、水木さん」
部長は感心したように言った。水木が何か言う前にゲゲ郎が、
「ではこれで失礼します」
といって、肩を抱いたまま歩きだした。背後で後輩たちが「玉の輿」「そんな」「嘘でしょ」と呟くのが聞こえたが、そんなもの気にもならなかった。



しばらく歩いてから、水木はくるりと男を振り向いた。
「何であんなこと言ったんだ」
「あんなこととは何じゃ」
ゲゲ郎は涼しい顔をして聞き返してくる。わかっているのか、いないのか。とぼけた顔からは感情が読み取りにくい。
「だから……その、妻だからとか、惚れ込んでるだとか……
「おお、なかなかよい"夫"ぶりじゃったろう」
得意気なゲゲ郎に、水木はため息をついた。月曜から会社で何を言われるか。考えただけで気が重い。
だがーーーー少しだけ、嬉しかった。まるで本当に夫婦仲がよいと見せつけているようで、ゲゲ郎に愛されているようで、うっかりときめいた。
それを悟られたくなくて、怒ったふりをして目をそらす。ゲゲ郎は少し背をかがめて、水木の顔をのぞきこんだ。
「お主、あの者たちにつらく当たられておるのじゃろう。これで少しは気がすんだか?」
「なっ!?」
なんでそれを。水木が思わず顔をあげると、ゲゲ郎はいたずらっぽく笑った。
「鬼太郎とねこ娘が、ぱふぇを食べにお主の会社の近くにある喫茶店へ行ったおりに、話しているのを聞いたそうじゃ」
いわく、水木の後輩たちはランチを食べながら、散々に水木のことをけなしていたらしい。鬼太郎は常になく怒りをあらわにし、その場で言い返してやろうとしてねこ娘に止められたそうだ。
「あの者たちには口で言い返すより、仲睦まじくする姿を見せつける方が効果的じゃと。ま、わしにはよう分からんが、ねこ娘がそう言うならそうなのだろうと、こうしてめかしこんできたわけじゃ」
種明かしをされて、水木は脱力した。
「お前……そんなくだらない理由で……
「くだらんとな」
ゲゲ郎は心外そうに言った。
「妻が悪し様に言われておるのを放っておく夫がどこにおる」
「律儀だな、夫婦ごっこにしちゃ」
だが、鬼太郎たちが水木のために怒り、こうしてささやかな復讐をしてくれたのは嬉しかった。ゲゲ郎だって、一方的に避けていた水木のために一肌脱いでくれた。
もうそれだけで充分ではないか。
多くを望むのはもうやめよう。この恋心は深く眠らせて、これからも家族のように穏やかに暮らせれば、それだけでーーー。
「水木」
不意にゲゲ郎がやけに真面目な顔をして呼んだ。
「なにやらずっとおかしなことになっておる気がしておったのじゃが、まさかお主、夫婦になろうというわしの言葉を本気にしておらんかったのか」
……は?」
「まさかそんな勘違いをしておるとは思わなんだが、なるほど。そうであれば全てのつじつまが合う」
一人で納得したように頷くゲゲ郎。水木はその肩を掴んだ。
「ちょっと待てよ! まさかお前、本気で夫婦になったつもりだったのか?」
「そうじゃが?」
まるで空が青いのは当然だ と言わんばかりの様子で、ゲゲ郎はこくりとうなずいた。
「夫婦になろうと言い、お主も頷いた。だからわしらは夫婦じゃろ」
「アホか! そんなわけないだろ!」
アホか、という言葉にゲゲ郎はむっと眉をしかめた。
「では、お主はわしと夫婦になるつもりがないということか」
「当たり前だろ。お前、俺なんかと結婚してどうすんだ。俺は人間でお前は妖怪で、それに奥さんがいて……
「だからなんじゃ」
ゲゲ郎は水木の肩にそっと手を置いた。
「人間も妖怪もない。わしは水木が好きなんじゃ。妻もわかってくれる。鬼太郎もそう言っておったじゃろう」
「言って、たけど……
肩を掴む大きな手に、ぐっと力がこもる。ゲゲ郎の顔を見ていられなくて水木はうつむいた。
「それなら、なんであの時……なにも言ってくれなかったんだ」
「あの時?」
「お前、俺のこと抱いてくれなかったじゃないか」
絞り出すような、情けない声だった。水木は惨めさに唇を噛んだ。自分で何を言っているのか分かっているのか。もう駄目だ。今度こそ愛想を尽かされるに違いない。
「それは……
ゲゲ郎はばつが悪そうに言い淀んだ。
「仕方ないじゃろう。その手のことはずいぶんとご無沙汰で、その上、惚れた女に迫られて、すっかり気が動転してしもうたんじゃ」
目をそらしたゲゲ郎の頬が赤くなっている。それにつられるように、水木の顔もかっと熱くなった。
「つまり、お主をずっと抱きたいと思うておったのに、いざそうなると心の準備がじゃな……
「わかった、分かったからそれ以上言うな!」
水木は慌てて遮った。恥ずかしさに耐えられない。穴があったら入りたい。でも、嬉しかった。ゲゲ郎は最初から本気で水木を妻にしたいと、夫婦になりたいと思ってくれていたのだ。それを変に誤解していたのは自分だ。
水木は黙って、ゲゲ郎の顔を見上げた。ゲゲ郎もまた黙って水木を見つめていた。見慣れているはずなのに、まるで見たこともない男のように思える。
「水木、もう一度ちゃんと言うぞ。わしの妻になってくれんか」
……俺でいいのか」
「お主がよいのじゃ。わしが妻にしたいと思ったのは、この世で妻とお主だけじゃ」
ひやりとした手が頬を撫でる。いつの間にか、涙がこぼれていた。ゲゲ郎はその涙を拭いながら、優しく微笑んでいる。
「好きじゃ、水木」
もう我慢できなくて、水木は男の胸の中に飛び込んだ。湿った土と雨と薄い線香の匂いがする。墓場の匂いだ。どこか懐かしいその香りに包まれながら、水木は小さく呟いた。
「俺も好きだ」
背中に回された腕に力がこもる。少し苦しいくらいだが、それが心地よかった。
「水木」
促されて顔を上げると、ゲゲ郎が少し背をかがめ、緊張した様子でこちらを見ていた。キスされると思って上を向いて目を閉じると、すぐに唇が重なった。
「ん……
柔らかな感触にうっとりしていると、すぐに唇は離れてしまった。もっとしてもよかったのに、と名残惜しく思っていると、また唇が重ねられた。今度は先程よりも長く、そして深い口づけだった。
今生だけではなく、前世で伝えることすらできず墓まで持っていった思いも、今このとき、やっと報われることができたのだと、水木は思った。