botanin5
2024-11-18 22:08:49
34241文字
Public トレ監♀(小説)
 

リセットのあと

記憶をリセットした監を迎えに行く先輩 | https://privatter.me/page/673b3ba32002a
↑この話の続きです。
監視点

 トレイ先輩はちょっと変な人だと思う。

 私に、自分のことを“先輩”って呼ばせるところとか。


 出会いは熱砂の国だった。
 私がいつものように、お世話になっている旅商の出店から少し離れて、手作りした魔法のソフトキャンディを売り歩いていた時のことだ。ここ数日ずっとキャンディを買ってくれていたお婆さんと世間話をして、その別れ際に手を振りながら歩いていたら、前にいた人影に気が付かずぶつかってしまった。

「おっと、失礼。すみません」
「いえ、こちらが前を見てなくて」

 自分よりずっと背の高い男性。一瞬、怒られたらどうしようと肝が冷えたが、穏やかな声が降ってきたことでその不安はすぐに払拭された。お詫びに魔法のキャンディを渡してその場を去ったのだが、すぐにもう一度声をかけられて名前を聞かれた。
 その時の彼の、ほっとしたような、泣きそうな表情が今も目に焼き付いている。

 それからは怒涛の展開だった。私が作ったキャンディをひと口食べて気に入ったという熱弁に始まり、自分の店に置きたいから卸して欲しいと旅商の主人へ交渉、私が口を挟む隙もなく、あっという間に全てのことが決まってしまった。私は、定期的にトレイ先輩のお店に手作り魔法キャンディを卸すことになったのだ。お店といっても本業とは別で、休日に気まぐれに開いているケーキ屋さんだという。魔法のソフトキャンディは、お店に置かれているクッキーやフィナンシェの横に並ぶことになるのだろう。

「私のキャンディってそんなに絶品だったんですね。だからいつも多めに買ってくれてたんですか?ジャミルさん」
「絶品はちょっと盛りすぎだろう。俺は、うちの主人の言いつけ通りに買いに来ているだけさ。まぁ、不味くはないんじゃないか?」
「正直に美味しいって言えばいいのに」

 魔法のソフトキャンディがみっちりと詰め込まれた箱を渡し、常連客であるジャミルさんからお金を受け取る。
 私がこの熱砂の国の旅商に拾ってもらってからもうすぐ一年、ずっと国内と近隣の国を転々としているのだが、このジャミルさんは週に一度は必ず店を訪れてキャンディを買いに来てくれる。どうやって色んな街にやってきているのかは分からないが、すっかり顔馴染みになっていた。なんでも、この国では有名な大富豪のお家で働いているそうで、彼の主人がこのキャンディを気に入ってくれているらしい。ジャミルさんも毒味役としてよく食べていると聞いた。
 このソフトキャンディには疲労回復の効果や、ちょっとした風邪や腹痛なら治ってしまう効果が含まれている。それを毎回大量に買ってくれるジャミルさんのご主人は、身体が弱いのかもしれない。一度ご挨拶したいと聞いてみたのだが、断られてしまった。「あいつは正直すぎるから、会わせることはできない」という理由だ。キャンディの味に対する正直な感想だったら是非聞きたかったが、そういう訳でもなさそうだった。

 お金の計算を終えてお釣りを返し、さっさと帰ってしまいそうなジャミルさんを慌てて引き止める。今日は頼み事があるのだ。
 事情を話すと、ちょっと嫌そうな顔をされてしまった。

「なるほど……取引先ができたことで材料の入荷量を増やしたいから、アズールへの交渉が必要なのか」
「はい。せっかくの稼ぐチャンスなんです! 私、お金をいっぱい貯めたいので!」

 旅商の主人から紹介されたアズールさんは、色んな国にレストランを持っている。食品だけでなく魔法薬に使える薬草や魔法石の卸売業もやっていて、魔法のソフトキャンディを作ることになってから材料を買わせてもらっている。一度、アズールさんが直接材料を届けに来てくれたときにジャミルさんがお客さんとして来ていて、二人が知り合いであることを知った。アズールさん曰くお友達らしいが、ジャミルさんに言わせると腐れ縁だという。

「そんなに働いて何を買いたいんだ?」
「家です。自分の家! 旅商での生活も楽しいですけど、どこかにしっかり腰を落ち着けたくて。そこで、魔法のソフトキャンディ専門店をやってもいいですし」

 家を建てるのは、私の夢だった。今の貯金ではとても無理なことはわかっているが、もっとこのキャンディを世に広めて、新商品の開発なんかもして、独り立ちしたいと考えていた。そしていつか、どんなことがあっても気軽に帰ることができる、自分専用の家が欲しいのだ。

「それは……良い夢じゃないか」
「えっ!ジャミルさんが褒めてくれるの珍しいですね」
「俺だってたまには褒めるさ」
「じゃあそんな寛大なジャミルさんにお願いです!アズールさんへの交渉、協力してください! ジャミルさんを通すと結構条件良く材料を買えるんです。キャンディおまけしますから!」

 パン!と拝むように顔の前で手を揃える。以前、なんだそのポーズは?と聞かれたが、自分でもよく分からない。頼み事をする時に、つい癖で出てしまう動作だ。
 ジャミルさんは少し考える素振りを見せたあと、何か思いついた様子で顔を上げた。

「俺を通さなくても、その新しい取引先の店主に頼んでみたらどうだ?」
「え?でも、初対面のトレイ先輩をアズールさんのところに連れて行くのはちょっと……変な契約とかさせられたら大変ですし」
……トレイ“先輩”?」
「ああ、トレイ先輩は取引先の店主さんです。トレイ・クローバーって人なんですけど、薔薇の王国でたまにお店をやってるらしいですよ。副業でケーキ屋さんってすごいですよね。今度、最初に納品するときにお店に行くことになっていて……
「いや、そこじゃない。“先輩”と呼んでいるのはどういうことだ?もしかして……
「あ〜、あはは、変ですよね。実は、話の流れでこれから定期的にケーキの作り方を教えてもらうことになったんです。それで『じゃあ先生ですね』って言ったら、『先輩にしてくれ』って言われたんですよ。『先生って言うほど歳が離れてないだろう?』って」
「へぇ」

 探るようなジャミルさんの視線に苦笑いする。やはり、学校や部活の後輩というわけでもないのに“先輩”と呼ぶのはおかしいのだろう。私も変だと思うのだが、口に出してみると案外しっくりきてしまって、そのまま呼んでいる。

「やっぱり、その人に頼むべきだな」
「えっ!どうしてですか、キャンディもう一袋おまけしますよ!?」
「必要ない。俺もアズールも、その人とは面識があるんだよ。……同じ学校に通っていた。やりようによっては俺と同じくらいの好条件が出るさ」
……え、知り合い……?」
「ああ」
「世間、狭すぎませんか」
「案外そういうものだ」

 それじゃあ、と言ってジャミルさんは帰っていってしまった。
 ジャミルさん、トレイ先輩とも知り合いなんだ。それだけではなく、アズールさんも。

 違和感がある。
 世間が狭すぎると感じた出来事は、これだけではなかった。
 熱砂の国で別の街に訪れていたとき、観光客と仲良くなった。キャンディを買ってくれてから世間話をするうちに打ち解けて、連絡先まで交換した。癖っ毛に少し猫っぽいチェリーレッドの目をした明るい人。

「気軽にエースって呼んでよ」

 そう言われて、今でもたまに彼の友達グループと通話しながらゲームをしたりしている。それまでは友達と呼べる人がいなかったから嬉しかった。
 そのエースも、ジャミルさんと知り合いなのだ。なんでも、同じ部活の先輩後輩だったそうだ。ということは、学校も同じはずである。

……なんだか、変な感じ」

 ずっと、頭に霞がかかったような感覚がある。

 私は、幼い頃に事故に遭って家族を失った。らしい。 
 らしい、というのは、その記憶が全くないからである。そもそも自分の意識を自覚しているのは一年ほど前、旅商に拾ってもらった辺りからだ。最初の記憶は少し暗い石造りの建物で、クルーウェルという男性が私の身元保証人だと名乗った。家族でも親族でもないと言われた。詳細は教えてもらえなかったが、とりあえず、私は天涯孤独で、薬草や魔法石を加工して商品にするための資格を有していて、その知識を使って魔法の効果が含まれる薬を作り、旅商で仕事をしていくことになったということは理解した。
 なぜだか分からないが、その時の私は『全てがどうでもいい』という感覚になっていて、言われるがままに頷いてこの仕事に就いた。いつ資格を取ったのかも記憶には無かったが、薬草や魔法石、魔法道具の名前や使い方は全て理解していた。そして、今はその知識を活かして回復効果のあるソフトキャンディを売っている。
 クルーウェルさんの電話番号やメールアドレスは聞いていたが、なんとなく連絡はとっていない。

 過去のことを考えようとすると、頭が重くなる。




********************




 トレイ先輩と出会ってから半月ほど経ち、魔法のソフトキャンディを納品するために、私は飛行機を乗り継いで薔薇の王国へやって来た。熱砂の国の石造りとは違うレンガで作られた壁、華やかな装飾の街並みには薔薇の花が多く飾られている。先輩は、夜はバーを開いている建物の一階を昼間だけ借りて、たまにケーキを売っているのだという。本業は食品関係の会社で研究職をしていると聞いた。
 元々先輩の実家がケーキ屋で、手伝っているうちに自分でも作ることが好きになり、趣味で店を開いているそうだ。好きなこととはいえ休日まで働いているなんて、バイタリティがすごい。

 魔法のソフトキャンディを詰め込んだキャリーケースを引きずりながら、アンティークドアを開く。カラン、と来客を告げるベルが音を立てた。中は深い茶色を基調としたシックな家具が揃っている。床は板張りだ。開店前だからか電気はひとつ点いているのみで、カーテンが全て閉じていて少し薄暗い。いくつかのテーブル席とバーカウンターが設置してあるが、カウンターテーブルはほぼ全て美味しそうなケーキや焼き菓子で埋め尽くされていた。ショーケースの代わりなのだろう。そして、ところどころに薔薇の花が飾られている。この国の習慣なのかもしれない。
 カウンターテーブルを拭いていたトレイ先輩が、柔らかい微笑みを向けてくれる。

「届けてくれてありがとう。遠い場所への移動で疲れただろ? 空港まで迎えに行けなくて悪かったな。紅茶とケーキを用意してるから、休んでくれ」
「普段から歩き回ってるので、なんてことないですよ。でも、ありがとうございます」

 先輩とはずっとマジカメを使って連絡を取り合ったり電話をしたりしていて、さらにはお菓子が送られてくることもあった。でも、直接ゆっくり話すのは出会ったとき以来な気がする。
 ジャミルさんに言われた通り、魔法のキャンディの材料の納品についてトレイ先輩に相談したときは驚いた。「この話は俺に預けてくれるか?」と言われ、次にアズールさんと連絡を取った時には既に交渉が終わっていた。本当に知り合いだったらしい。
 その時のお礼を改めて伝えると、それくらい任せてくれ、と笑った。“それくらい”の交渉が簡単ではないのに。
 
 用意された席に座ると、柑橘の香りがする紅茶と、しっとりとしたクリーム色にひび割れひとつ無いチーズケーキが差し出された。お礼を言って、ここまで酷使してきた足を休めながら早速フォークをチーズケーキに差し込む。口に運ぶと、なんとなく懐かしい味がした。昔のことは何ひとつ覚えていないのだから、この懐かしさが何に起因しているのかは分からないのだが。舌触りがとても滑らかで、下に敷かれている砕かれたクッキーはサクサクだ。

 美味しいケーキをあっという間に食べ終えて紅茶を静かに飲んでいるあいだ、先輩はずっと奥のキッチンとカウンター辺りを行ったり来たりしていた。今日は二週間ぶりの開店らしい。お店の前にあった立て看板にオープンは11時と書かれていた。まだ一時間以上はある。これだけケーキもお菓子も並べてあるのにまだ作るのだろうか?と不思議に思っていると、お店の外からガヤガヤと人の声がし始めた。
 閉められていた窓のカーテンを少しだけめくってみる。ご年配のマダム、おじいさん、若い女の子たち、子ども連れのお父さん……次々と人が増えて、行列を作っていく。

「あ……あの、トレイ先輩……
「ん、どうした?」
「まだ開店まで一時間はあるのに、もう人が……!」
「ああ、心配しなくてもパーテーションは置いてあるから、案内しなくてもみんな待っていてくれるよ」
「そうじゃなくて……こんなに並ぶくらい人気なお店だったんですか……?」
「はは、たまにしか開店していないから物珍しいんじゃないか?」

 たまにしか開いていないのに、人がこんなにも早くから並ぶほど情報が出回っているのならば、人気店で間違いないだろう。
 表の立て看板に書いてあった店名の綴りを思い出しながら、マジカメで検索をかけてみる。本来なら、品物を卸す契約の前にお店について調べるべきだったのだろうが、旅商の店主が意気揚々と話を進めていたため気にしていなかった。
 検索結果はすぐに現れた。綺麗な色とりどりのケーキやタルトと一緒に映る、嬉しそうな人々の笑顔。子どもから老人まで、たくさんの人に愛されていることがすぐに分かった。『やっと買えた!』という書き込みも見える。トレイ先輩が1人でやっているケーキ屋さんなのだから、当然作れる数にも限りがある。先輩の言う通り、希少性もあって話題を呼んでいるのかもしれない。
 マジカメの検索結果を辿っていくと、ひとつ、とんでもないコメント数の投稿があった。いいねの数も多い。

「ヴィル•シェーンハイトも食べてる……!」

 同じ人類とは思えないほどの美しい顔立ち。写真の中には、煌びやかな庭に置かれた白い華やかなテーブルと、それに合わせた彫刻の椅子に座ったヴィル。そして、上品なカップに注がれている紅茶とともに、トレイ先輩のケーキが写っていた。
 こんな有名人も先輩のケーキを食べていて、店名付きで絶賛コメントと共に投稿されているのならば、人が並ぶくらい人気があるのも頷ける。私が「すごいなぁ。ヴィル•シェーンハイトも個人店のケーキ食べるんだ」と呟いていると、焼き菓子が入ったカゴをキッチンから運び出してカウンターテーブルに置いたトレイ先輩が、ドサッという音と共にこちらを向いた。危うくお菓子を落としそうになったようで、「おっと」と慌てて戻している。

「お前、ヴィルのことが分かるのか!?」

 いつも話している時より大きな声で尋ねられて、驚いて肩が跳ねた。先輩はそのままカウンターを回ってこちらに向かって来て、私のスマホを覗き込む。

「そりゃ、マジカメフォロワーが500万人もいる有名モデルさんですもん。知ってますよ。最近出てたドラマも見ました」
「そ……そういうことか……。知り合いでは……ないのか?」
「え、まさか!芸能人の知り合いなんてそうそう居ませんって! それより、本当にすごいですね! ヴィル•シェーンハイトもここのお店に来たことがあるんですか? やっぱり綺麗でした?」
……ヴィルは、ナイトレイブンカレッジで同学年だったんだ。その写真は、仕事の撮影でどうしてもオリジナルデザインのケーキを使いたいから作ってくれと頼まれた時のだな」
「ど、同学年!?」

 そりゃ有名人だって学校に通っているのだから、世の中を探せば同学年やクラスメイトだったという人は出てくるだろう。でも、“また”ナイトレイブンカレッジだ。名門魔法士養成学校。ジャミルさんが通っていたという学校名と同じだ。エースも、アズールさんも同じである。
 かなり特殊な学校で、入学試験ではなく闇の鏡という魔法道具に選ばれた者しか入学できないのだという。その卒業生とあまりに出会うので、熱砂の国に学校があるのかと調べたら賢者の島という離島に建っていた。世界人口に比べたら、卒業生の数は圧倒的に少ない。そもそも、魔法を使える人自体がそんなにいないのに、なぜ自分の周りには──……
 だめだ、なんだか頭が重い。

 「……大丈夫か?」
 「あ、はい。……今度ヴィル•シェーンハイトが来る時は私も呼んでください。生で見たいです」
 「まぁ……考えておくよ」

 少し眉を下げたトレイ先輩に笑顔を向けると、複雑そうな微笑みを返された。野次馬だと思われただろうか。有名人のプライベートを邪魔するのは良くないので、実際に来ても会いたいと強請るのはやめておいた方が良さそうだ。
 カップとお皿を片付け、トレイ先輩を手伝うことにした。
 手伝うと言っても、私が今日から納品する魔法のソフトキャンディを陳列する作業だ。レイアウトを任せてもらえたので、持って来た熱砂の国の煌びやかな装飾を籠の周りに飾りつけ、小さいホワイトボードにできるだけ可愛く、文字が読みやすくなるよう配置と色を考えながら効能の説明を書き加える。うん、けっこう上手く出来た気がする。キャンディ自体はすでに買い取ってもらっているため、値段は先輩に利益が出るよう少し高めに設定されている。
 『熱砂の国の限定品を輸入!』を売り文句として太めの線で書き込む。実のところキャンディの材料はどこでも揃えられるが、私が所属している旅商は今のところ熱砂の国とその近辺の国しか回っていないし、島国である薔薇の王国でこう銘を打って売り出しても間違いではないだろう。魔力がこもった薬草は熱砂の国の高品質なものを使っているから、全くの嘘というわけでもない。それに、これは私のオリジナル商品だし。

「用意できました!」
「ありがとう。それじゃ、ここに置いてくれるか?」
「え、良いんですか!?」

 トレイ先輩は、簡易レジの横に丸いテーブルをくっつけて置いてくれていた。商品の会計時に目に入る位置だ。ついでに、と買ってもらえる可能性が高い場所。

「そこは焼き菓子とかじゃなくていいんですか? それに、イートインは……
「はは、俺一人でやってるからイートインスペースは作っていないんだ。たまに友達や後輩が手伝ってくれるけど……。基本レジ対応だから、ホールで接客している暇もないしな。お前がさっき使っていたテーブル席も片付けるから、手伝ってくれるか?」
「もちろんです」

 店内を見渡してみれば、カウンター席に並べられたケーキの入っているケースがキッチン側ではなくホール側から開くようになっている。なるほど、お客さんがセルフで取れるようにしているのか。ドーナツのお店では見たことがある形式だ。ケーキは崩れやすいから、このタイプは珍しいと思う。それぞれのケーキはワンホール10等分で用意されており、無くなったら終わりのようだ。全て二等辺三角形にカットされ四角いプラスチック容器に入っていて、お客さんは自分でトレーに乗せてレジまで運ぶらしい。
 これは確かに接客の人件費は抑えられるが、準備の段階でかなり面倒な作業をしているように思える。実際のところどうなのだろう。自分が魔法のソフトキャンディを5個ずつ袋に入れるのだってかなり時間がかかり、タイムパフォーマンスが悪いと感じている。なのに、ケーキが1ピース入るケースを用意して、それぞれ崩れないように入れて蓋をするなんて途方もない気がする。それだけではない。焼き菓子も全て個装の袋に詰められているのだ。

「トレイ先輩、これ用意するの大変じゃないですか? プラスチックのパックも高そう……
「ケースはまとめて買うからそうでもないぞ。そもそもケーキや焼き菓子は、俺が前日や早朝に作れる分しか用意していないしな」
「え、朝作ったケーキをひとつひとつケースに入れてるんですか!?」
「それは魔法を使うし、すぐ終わるよ」
「あぁ、なるほど……

 魔法が使える人のことを、初めてずるいと思ってしまった。私だって、作業を短縮できるならしたい。
 自分にも魔法が使えたらな〜と心の中でぼやきながら、丸テーブルを店内の奥に移動させるのを手伝い、あと10分ほどで開店時間となった。トレイ先輩には「休憩室で休んでいても良いぞ」と言われたが、自分の商品の売れ行きも気になったので、レジに溜まるトレーを運ぶ手伝いをして過ごすことにした。

「それじゃ、1時間踏ん張ってくれよ」
「え、1時間……?」
「ヴィルがマジカメに載せてくれてから、だいたい1時間で完売するようになったんだ。その前までは3時間くらいかかってたんだけどな」
「3時間でもすごいですけど、え、並んでる人の分足りますか!?」
「どうだろうな……でも、売り切れた時点で認識阻害魔法で店ごと客の目から消えるから、みんな諦めてくれるよ」
「そんなことできるんですか!?」

 このお店を紹介していたマジカメの文章を思い出す。そういえば、『神出鬼没!魔法のケーキ屋さん』と書かれていたものがいくつかあった。

「魔法を使ったこういう店はたまにあるよ。不思議な体験ができるってことで話題になったりするんだ」
「へぇ、そうなんですね。あ、でもたしかに占いをやってるお店や、魔法道具を売っている雑貨屋はそういう演出ありますね」
「まあ、俺の場合は……お客さんが増え始めた頃、完売後に来た人から『もっと多く作るべきだ』『客として来たのに買えないのはおかしい』と指摘されることが続いてさ。揉め事になっても困るから、演出として建物ごとお客さんの視界から消えることにしたんだ」
「なるほど……
「店を開く時は3日前にマジカメを更新するんだよ。みんなそれを見てこうやって並んで待ってくれるんだ。今は問題なくやれてるよ。文句を言うとケーキを二度と買えなくなる……なんて噂もたってるみたいだ」
「なんだかちょっと怪談じみてません?」
「そうか? 」

 雑談をしているうちに、開店時間となった。
 次々と入ってくるお客さんは、ドア横のトレーを取ると店内にわっと広がり目的のケーキを目指す。取り合いになるのではないかと不安になりながら様子を見ていたが、案外落ち着いた様子で、いや、それよりも目をキラキラさせてどのケーキにしようかと話し合ったりしている。

「ケーキとタルトはそれぞれ同じものは買えないように制限してるんだ。別の種類を最大5個まで。焼き菓子は同じものを買ってもいいが、5個まで」
「それは……まとめ買いする人がいたからですか?」
「当たり。商品を全部買い占めようとした人がいたんだ」

 横に立っていたトレイ先輩から不意に耳元で説明されて、ちょっと驚いてしまった。眉を下げて笑った顔を見て、どき、と心臓が動く。この人の笑う顔、なんだかすごく好きなんだよな。
 ひと組の老夫婦がレジに来たことをきっかけに、ケーキを取り終えたお客さんが次々とレジに並びだす。私は、空いたトレーを魔法で浄化できる機械に入れてはドア横まで運び、ケーキが空になった大きいケースをキッチンへと運んだ。先輩はずっとレジ対応をしている。これだけ人がいるのに、誰もケーキをうっかり落としたり、もう商品は無いのかと質問してきたりしないので驚いた。魔法が使われるお店だから、お客さんも案外緊張しているのかもしれない。

 あっという間に1時間が過ぎて、最後の焼き菓子が売れた。レジ横に置いてあった私の魔法のソフトキャンディも全て完売していた。会計時にトレイ先輩がおすすめしてくれたお陰もあるだろう。距離の短い店内をウロウロするのは、歩き売りより疲れた気がする。
 最後の商品が手に取られた時点で、何も買えなかったお客さんたちは「次はもっと早く来ないとね〜」と話しながら開いたままのドアから出て行った。おそらく、その時すでに認識阻害魔法にかかっていたのだろう。店の敷地外に出た途端にハッとしたように辺りを見回し「本当に無い!」と楽しそうに騒いでいた。
 
 売り上げをまとめ、店内を元に戻して簡単に掃除をし、トレイ先輩に続いて裏口から出る。今はまだ昼過ぎだが、ここは夕方からバーに変わるのだ。建物にかかった認識阻害魔法は、バーの開店時間までに緩やかに解除されていくらしい。

「店舗に置いてみてどうだった?」
「完売してすごく嬉しかったです! 歩き売りよりも一気に買ってもらえたし……ありがとうございます!」
「いや、こちらこそ。新商品を置けて良かったよ。今日の分はバイト代を出すからな」
「え、いいんですか? やった」

 見慣れない街並みの中を、先輩の車に乗せてもらって駅まで移動する。私はこのまましばらく薔薇の王国に留まって、色んなお店を偵察をしてくるよう旅商の主人に頼まれていた。熱砂の国で仕入れた品がこの国でも売れるかどうか、今は何が人気なのかを実際に暮らしながら調べるのが任務だ。私が薔薇の王国へ行くことになったのは、旅商の主人の仕事仲間からの勧めもあったそうだ。今の旅商で勤められるよう手続きをしてくれた人。そのとき以来会っていないが、シルクハットを被った陽気な人だったと記憶している。
 1年も一緒に過ごして来た旅商の人たちと離れることになったというのに、この国にはトレイ先輩がいると思うとなぜか不安はなかった。たしか、エースもいるはずだ。会う暇があるかは分からないが、知り合いがいるというのは心強い。

 明日からは薔薇の王国内を色々と巡ってみる予定だ。もちろん魔法のキャンディもたくさん作って、トレイ先輩がお店を開く時は納品する。旅商の本隊には熱砂の国を出る前に大量に作ったキャンディを預けてあるが、ここでも新しく作ったら郵送で送る。売り上げはどれだけでもあった方がいい。生きていくには、お金が必要だから。

「そうだ、トレイ先輩。他の国からの輸入品を取り扱っているお店ってどこに行けば見られますか?今は何が人気なのか知りたくて」
「ああ、偵察も兼ねてるんだったな……。そうだ、次の休日になったら俺が知っている場所を一緒に回ろうか」
「え、良いんですか?せっかくのお休みなのに」
「もちろん。土地勘のない場所を1人で回るのは大変だろ?それに、車があった方がなにかと便利だし」
「それはそうですけど……ありがとうございます」

 どうしてこの人は、自分にこんなに優しくしてくれるのだろうか。
 ただの優しさなのだろうか。それとも、何か目的があるのか。
 じっと隣で運転する顔を見ていると、視線に気づいた先輩が不思議そうに「どうした?」と笑った。何を考えているのか全然わからない。思考を読むことなんて、できやしないのに。
 
 住む場所まで送ろうかと言う先輩の申し出を断り、駅から電車に乗る。トレイ先輩が住んでいるマンションは、お店から車で15分ほど走ったところにあるらしい。私はその街から3駅離れたところのウィークリーアパートを契約していた。薔薇の王国の都心部により近く、交通の便も良い場所だ。偵察で国内を色々と回るにはちょうど良い。

 ……はずだったのだが。




********************




「え、契約できていない……!?」
 
 スマホに入れていた地図アプリを頼りに、住む予定だったウィークリーアパートにたどり着いたのだが、管理人室へ立ち寄ったところ入居は聞いていないと突っぱねられてしまった。急いで旅商の主人に連絡してみれば、「忘れていた!」と元気な笑い声が返ってきた。

「わ、忘れてたじゃないですよ! 私これからしばらくどこで暮らしたらいいんですか!?」
「空き部屋だけ確認して、契約書を返送しそびれていたみたいだ。他の人に先を越されてしまったようだねぇ」
「のんきすぎる!!今日同時に私の荷物も届くはずでしたよね、どこに送ったんですか!?」
「その住所に送ってしまったなぁ」
「はい!?」

 改めて管理人さんに尋ねに行くと、私が住む予定だった部屋に既に住んでいる人が、謎の荷物が届いたといくつも段ボール箱を管理人室へ届けてくれたという。住人たちに覚えがないかひと通り聞いてから、警察に届けにいこうと保管してくれていたそうだ。身分証を出して、箱に書かれた名前が自分と一致することを説明してなんとか荷物を受け取り、キャンディを売り切ったことで空っぽになっていたキャリーケースに入るだけ荷物を詰め込む。
 入居できない建物の前でいつまでも立っているわけにもいかず、近くにあった公園のベンチに移動して項垂れた。

「ど、どうしよう……

 今からホテルを取るべきか。いや、ホテル暮らしではキッチンがないため魔法のキャンディが作れない。そうかといって、都合よく手頃なコンドミニアムが見つかるかも分からない。それに、長く住んでいたら出費が嵩み過ぎてしまう。今から不動産会社に連絡してウィークリー契約ができる部屋を探してもらったとして、すぐに入居できるだろうか。
 うんうん迷った末に、連絡したのは駅で手を振って別れた人だった。

「住む場所がない!?」
「はい……あの、今夜だけでも泊めてもらえませんか……
「とりあえず迎えに行くよ。今どこだ?」
「ええと……

 驚いた様子のトレイ先輩だったが、連絡したらすぐに車で迎えに来てくれた。
 30分ほど移動して、私が住む予定だった建物よりずっと大きいマンションにたどり着いた。一緒になって荷物を運んでくれる先輩に何度もお礼を言いながら、部屋に入る。
 ほどほどに片付けられた綺麗なところだった。玄関から通路を抜けると、対面式のキッチンとリビングが見えた。食事用のテーブルと椅子、二人掛けのソファと大きいテレビ。リビングから行けるドアは三つもあった。通路の途中にあった二つのドアがトイレやお風呂だろうから、それ以外の用途の部屋ということになる。一人暮らしにしては、広すぎではないだろうか。
 驚きでキョロキョロしていると、私の考えていることを察したらしい先輩が苦笑いしながら説明してくれた。

「先月まで幼馴染とルームシェアしてたんだ。チェーニャっていう不思議なヤツなんだが……まあ、そのうち会ったら紹介するよ。あいつの転職の関係でルームシェア解消になったんだが、ここは俺の職場からもケーキ屋として借りてるあの建物からも距離がちょうど良いからな。そのまま住んでたんだ」
「へぇ……すごいですね」
「一番奥のドアは物置として使ってる。お前は今日こっちの部屋に泊まってくれ。ベッドや棚はチェーニャが置いて行ったものだが、気にせず使ってくれていい。その隣のドアが俺の寝室」
「ありがとうございます」

 なんとなく落ち着かないまま、先輩が指してくれた部屋のドアを開ける。大きめのふかふかそうなベッドは、カラフルなキャラクターや文字が散りばめられたカバーが付けられていた。このブランド見たことがある。本棚らしきものは空っぽで、その隣には薔薇のランプが置かれた机が壁沿いに設置されていた。キャスター付きの椅子もあって、なんだか勉強机みたいだ。
 荷物が入ったキャリーケースと段ボール箱を部屋の中心に置き、ベッドに腰を落ち着ける。ホッとしたら涙腺が緩みそうになって、急いで目元を擦った。

 良かった。ひとりじゃなくて。
 あのままだったら、途方に暮れていた。
 ひとりぼっちで生きていくことなんて、できないから……いや、私はひとりでも生きていけるように……えっと……

 考えごとをしていると、再び頭が重くなる。
 それど同時に、ぐぅぅ、とお腹が盛大な音を鳴らした。そういえば、住む予定だったアパート付近で飲食店を探そうと思っていたから、お昼ごはんを食べていない。部屋の壁に掛かっている時計を見ると、もう18時を過ぎていた。
 何か買いに出ようか。荷物の中から財布を探していると、ふわりと美味しそうな香りが漂ってくる。それから、パンをトースターで焼く匂いも。先輩が夕飯の用意を始めたのかもしれない。気を使わせないよう、早く外に出なくては。
 見つけた財布を持ってベッドから立ち上がったところで、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

「はい」
「今大丈夫か?」
「どうぞ!大丈夫です」
「シチューができたからリビングにー……なんだ、まだコートを脱いでなかったのか? そこの壁についてる戸はクローゼットだぞ。中にハンガーもあったと思うが」

 ドアを開けて私を見たトレイ先輩は、きょとんとしたあと部屋の壁についていた扉を開けた。そこには確かに、ハンガーが3つぶら下がっている。

「あ、いえ、夕ご飯までご馳走になるのは申し訳ないので、外で食べようかと……
「え? ……そんなこと気にしなくていいぞ。二人分作ったし、せっかくだから一緒に食べないか?」
「でも……

 改めて断ろうとしたが、再び私のお腹はぐぅぅと鳴き声をあげる。恥ずかしくなって、じわじわと顔に熱が集まる。慌ててお腹を押さえたが、まるで別の生き物がそこにいるかのように言うことを聞かない。
 鳴り続ける腹の音を聞いた先輩は、楽しそうにははっと吹き出した。

「お腹の方は正直だな。気にしなくていいから、おいで。温かいシチューに、焼きたてのバゲットもあるぞ」
「う……いただきます……

 大人しくついていくと、リビングのテーブルに食事が並べられていた。シチューとサラダ、少し焼いてあるバゲット。どれも美味しそうだ。

「デザートにプリンも用意してるぞ」
「え、そんな時間ありました?」
「今度お前に会った時に渡そうと思って、午後から試作品を作っていたんだ」
「本当にお菓子作りが好きなんですね……
「はは、まあな。学生の頃から寮でもずっと作っていたから……癖みたいなもんだ」
「へぇ、ナイトレイブンカレッジって寮なんですね」
……ああ」

 少しだけ息を呑んだような間があり、不思議に思ってトレイ先輩を見る。目が合うと微笑まれてしまって、どき、と心臓が小さく音を立てた。私、こういう人がタイプなんだっけ?いや、分からない。なんせ、1年前より昔の記憶はないのだから。
 夕食の料理はどれも全て美味しかった。お菓子が作れるだけじゃなくて、自炊もしっかりしているなんてすごい。
 デザートを食べ、お風呂も先に入らせてもらい、あっという間にパジャマで眠りについていた。お腹がいっぱいになって、ちゃんとしたふかふかのベッドで眠れるなんてすごい。ウィークリーアパートが未契約だったときの絶望感は、いつのまにか消え去っていた。



……ん、おはようございます……はやいですね……
「おはよう。お前こそ早いな。もう少し寝ていても良かったのに。朝食ができるまで少し待っててくれ」
「その……手伝おうと思って……

 トレイ先輩より早く起きて、朝食の用意をしてしまおうと思っていたのに失敗してしまった。眠い目を擦りながら部屋のドアを開けてリビングへ出ると、キッチンで既に何やら作っている先輩がいた。洗面所で顔を洗ってからキッチンに戻り、レタスをむしる役目をもらう。作業しながら、他人の家の冷蔵庫を勝手に漁って料理を作るのはダメだなと思い直した。なぜか、トレイ先輩だから大丈夫な気がしていたが、冷静に考えたらダメだろう。
 そもそも、出会ったのは半月ほど前だというのに、私はこの人に馴染み過ぎではないだろうか。この感覚になるのは初めてではない。ジャミルさん、エース、アズールさん。それぞれ出会ったときから、なぜか警戒心すら生まれず仲良くできている。不思議だった。
 焼いた食パンに乗せられたポーチドエッグとサラダ、ウインナーが2本。それからコンソメスープがテーブルに並んだ。朝食にわざわざポーチドエッグを作ることが信じられなくて、毎朝こんなに丁寧な食事をしているのかと聞けば、先輩は「久しぶりの来客で浮かれてるだけだよ」と苦笑いした。

「今日、俺は仕事だけど……お前はどう過ごすんだ?」
「短期で契約できるアパートがないか探しに行こうと思います」
「分かった。後で近くの不動産会社の場所を説明するよ。今日すぐ見つからなくても、気にせずここに帰って来ていいからな」
……ありがとうございます」

 優しい。
 トレイ先輩の方が家を先に出たため、合鍵を預かった。出会って半月程しか経っていない相手の部屋の鍵を持つなんて、不思議な気持ちだ。あの人、こんなに私を信用して大丈夫なのだろうか。家のものを片っ端から盗んで出ていく可能性だってあるだろうに。自分は、定まった住まいのない旅商の一員で、根無草のようなものだ。いつだって、どこへでも消え去っていけるのに。
 小さく息を吐きながら身支度を整えて、しっかりと鍵をかけて部屋を出た。





********************





「ダメだ〜〜」

 ガックリと肩を落としながらトレイ先輩のマンションに向かって歩く。もうすっかり夜になってしまった。
 この近辺の不動産会社から、最初に予定していた3駅遠くまで回ってみたがダメだった。短期契約のアパートは入居者の出入りが激しいが人気で、希望の期間にすぐ入れる部屋は見つからなかった。既にこの先も部屋の予約が埋まっていたり、薔薇の王国の滞在予定より短い期間しか空いていなかったり、契約できる状況ではなかった。
 こんなとき、どうしたら良いのか分からない。こうなったらテントやキャンプ用品を買って公園で過ごそうか。旅商で過ごしているときも、商品や天幕を運ぶ移動車の中や格安のゲストハウスで過ごしていたから、ちゃんとした住まいよりいっそ慣れている。
 今までの自分はどうやって生きてきたのだろう。19歳までの自分は、どんなところで寝起きして、食事をして生活していたのだろうか。
 ずん、と頭が重くなる。脳が考えることを拒否しているような感覚だ。もしかしたら、良い記憶ではないのかもしれない。だから、私は過去を忘れているのかも。

 暗い気持ちのまま、トレイ先輩の部屋がある階のエレベーターのボタンを押す。気にせず帰って来て良いとは言ってくれていたが、本当はいい報告がしたかった。
 それに、なんだかこのまま一緒にいるのは良くないような気がしている。お店にキャンディ置いてくれたことや、車で迎えに来てくれたこと、夕ご飯をご馳走してくれたこと、部屋を提供して安眠できる場所を提供してくれたこと。だんだん心の中に侵食されているような気配。支えとして依存するのは危険ではないか。でもすでに、トレイ先輩のことを考えるだけで安心感が生まれている自分がいる。

……ただいま戻りましたー」
 
 少し小さな声で、玄関から中に入る。先輩は既に帰宅しているらしく、通路とリビングを隔てるすりガラスのドアの向こうは明るい。それから、お肉を焼く匂いがする。
 ぐぅぅ、とお腹が鳴る。そういえば今日も朝ごはんを食べたきりだ。部屋探しに夢中でお昼を食べ忘れていた。
 そろそろとドアに近づいて、ゆっくりと開ける。
 
「ああ、おかえり」

 微笑みかけてくれたトレイ先輩の笑顔を見た瞬間だった。
 頭が真っ白になって、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。胸がギュッと締め付けられて、苦しい。

「えっ……どうした!? 何かあったのか?」

 突然泣き出した私に驚いた先輩が、慌てて火を止めてこちらに近づいてくる。
 先輩の手が私の頭を撫でようとして、逡巡している。
 涙が止まらなくて、鼻水も出そうになって必死にすする。声が、詰まる。

「お、おかえりって、言われたのが、っ、うれしくて」

 自分には縁のない言葉だった。車中泊ばかりしている根無草だから。
 一生懸命働いて、家を買って、いつか住めたらいいなと思っていた。
 心安らぐ、自分の家に。
 帰ってきてもいい家に。

 ごしごしと目を擦って涙を止めようとするが、なかなか止まらない。このままではトレイ先輩を困らせてしまう。どうしようとパニックになりかけていると、先輩が静かに語りかけてきた。

……今の俺には、本来そんな資格なんてないんだが……。少しだけ、涙が止まるまでの間だけ、抱きしめてもいいか?」

 止まらない涙で緩んだ視界のまま、トレイ先輩を見つめる。その真剣な瞳に吸い込まれそうになった。
 目を擦っていた手を、先輩の方に伸ばす。一歩踏み出して、その胸に飛び込んだ。
 温かい大きな手が背中に回る。
 無言で背中をトントンとさすってくれるのが嬉しかった。

……ありがとう」

 そう言ったのは、トレイ先輩だった。お礼を言うのは私の方なのに。こちらこそ、ありがとうございますと言おうとしたのに、言葉がつまって出てこなかった。
 

 
「すみません、突然泣き出して」
「いや、落ち着いて良かったよ。さぁ、夕食を食べよう」

 先輩が用意してくれていたのは、ハンバーグだった。半熟の目玉焼きが乗っている。仕事終わりに作るのは大変だっただろうに、なぜこんな手間のかかる料理にしたのかと聞いてみれば、「もし部屋が決まっていたら、ここで一緒に夕飯を食べるのは最後だからな。得意料理を食べて欲しかったんだよ」とトレイ先輩は笑った。なんだか可愛いくて、胸がぎゅっと締めつけられる。

「すみません、部屋は見つからなくて……
「いや、仕方ないよ。この辺は単身赴任でやってくる人が多いからな」
「また明日、違う駅でも探してみます」
……なぁ、提案なんだが……。ここで一緒に住まないか?」
「え」

 心の奥底でさっき小さく生まれた、求めていた言葉が降ってきた。
 先輩の「おかえり」という穏やかな声が、私の胸に深く突き刺さっている。
 このまま、ここにいたい。でも、迷惑じゃないだろうか。いや、ここはもともとルームシェアをしていた部屋で、チェーニャさんという人が私に変わっただけだ。これからずっと住むわけじゃないし、薔薇の王国にいる間だけ。少しの間だけだ。
 都合のいい言い訳ばかりが浮かんでくる。

「い、いいんですか?」
「俺はかまわないよ。ただ、そうだな……お前の身元保証人に確認をとってくれるか?」
「えっと、旅商の主人ではなく?」

 こくりと頷いた先輩を不思議に思いながら、スマホを開く。私の身元保証人、クルーウェルさんにこちらから連絡をとるのは初めてだ。トレイ先輩に文章を考えてもらい、薔薇の王国に来ている目的や部屋の契約ができなかった理由、それによってトレイ先輩の部屋に住みたいという旨を詳細に書き込んでメールを送信する。随分堅苦しくなってしまったが、一度顔を合わせただけの人だし、慎重すぎるくらいでいいのかもしれない。
 食事を進めながら待っていると、15分くらいで返信が来た。

『ダメに決まっているだろう。部屋なら俺が探してやる』

 正直驚いた。これまで連絡をとっていなかったから、勝手に放任主義だと思っていたのだ。この人なら本当にすぐ部屋を見つけてくれるのかもしれない。でも、そうなったら一人暮らしだ。もともとその予定ではあったが、「おかえり」と言ってくれる人はいない生活になる。一度味わってしまった温かさ、心地よさを、手放したくない。どうしよう。
 ドアを開けて誰もいない部屋を想像したら、再び泣きそうになってしまった。文面が変わってくれやしないかと、スマホの側面のボタンをカチカチと鳴らし、画面をつけたり消したりする。

「ダメって返ってきました」
……電話番号は分かるか?」
「え、はい。でも、電話した事なくて……
「俺がする。ちょっとスマホを貸してくれるか?」

 私の手からスマホをひょいっと奪っていったトレイ先輩は、彼の自室にこもってしまった。
 手持ち無沙汰になり、二人ともすでに食べ終えた食器をキッチンへと運ぶ。冷蔵庫を勝手に漁るのは良くないだろうが、食器を洗うのは許されるだろう。朝ごはんの後に先輩が洗い物をしていた時のことを思い出しながら、スポンジに洗剤をつける。全て洗い終え、水分も拭き取り棚にお皿を片付けたとき、丁度トレイ先輩が部屋から出てきた。どうなったのか気になり、ぱたぱたと近寄る。

「あれ、全部洗ってくれたのか? ありがとう」
「いえ、これくらいは……それで、どうなりました?」
「俺の話は終わったよ。今度はお前と話したいって。まだ保留で繋がってる」
「わ、分かりました」

 恐る恐るスマホを受け取り、今度は私が自分に与えられた部屋へと移動する。保留を解除して耳に当てると、懐かしい声がした。1年ぶりだ。

……あの、こんばんは。お久しぶりです」
『久しぶりだな、仔犬。クローバーは近くにいるのか?』
「いえ、今はいません」
『そうか。……一つだけ答えろ。一人でいるのは寂しいか?』

 その質問に、どき、と心臓が脈打った。トレイ先輩はどんな話をしたのだろう。

……はい、寂しいです」
『分かった。同居を許可しよう。……本当は、そっちにある俺の家に住まわせようと考えていたが……
「えっ。クルーウェルさんのお家、薔薇の王国にあるんですか?」
『そうだ。普段は仕事で賢者の島で生活しているが、本籍はそっちにある』
「賢者の……島。それって、ナイトレイブンカレッジの……
……ほう。その学校名になにか心当たりがあるのか?』
「あ、いえ。最近よく聞くなって。……それより、許可してくれてありがとうございました。トレイせ……さんとは何を話したんですか?」

 関心したようなクルーウェルさんの声にドキっとして、話題を変えてしまった。私はナイトレイブンカレッジに心当たりがあるべきなのか? 何か、正解を引いたのだろうか。
 その“何か”を知ることが、まだ怖い。

『お前がひどく泣いた話を聞いただけだ。まだ仔犬に独り立ちは早かったようだな』
「その“仔犬”ってなんなんですか……。ちょっと色々と不安で泣いてしまいましたが、もう大丈夫です」
『ふむ。まあいい。くれぐれも奴に気を許すな。お前が本気で受け入れる気になったとき以外は近寄るな』
「奴って……それに、一緒に住むなら近寄るなは無理ですよ。っていうかクルーウェルさん、トレイさんと知り合いなんですか?」
『ああ。よーく知っている』

 電話越しにふっと笑ったような声が聞こえた。
 これまでなんとなく連絡を避けていたけれど、クルーウェルさんはとても話しやすい。ジャミルさんやエースたちと同じ安心感があった。

『あいつはお前に負い目があるから今は手を出せない。その点については安心していいだろうが、あまり煽ってやるなよ』
「負い目……? それに、煽るってなんですか。私、喧嘩なんてふっかけませんよ」
『いや、そういう意味では……ははは!それくらいの方がいいかもしれないな。まぁ仲良くするように』
「どっちなんですか。近寄るなとか、仲良くしろとか」
『心配しているんだ。お前のことも、クローバーのことも。どちらも俺の可愛い仔犬だからな』
「どちらも……?」

 私の小さな問いには答えないまま、クルーウェルさんは簡単な挨拶を告げて通話を切った。こんなに話しやすいなら、これからはもっと気軽に連絡してみてもいいかもしれない。心が軽くなった気がする。
 部屋から出ると、トレイ先輩はソファでテレビをつけていた。背中はこちらを向いているため、表情は見えない。少し観察していると、すぐにカチカチとリモコンを押してチャンネルを変えている。見ているというわけではなさそうだ。

「あの、通話終わりました」
「お、どうだった?」
「許可が出ました。ありがとうございます」
……それはよかった」

 先輩が微笑みながらソファの端に座り直したので、隣に座る。
 正直、すごく安心していた。この国に来ることが決まったときは、一人暮らしについて具体的なイメージを持っていなかった。ひとりが寂しいことに気がついていなかったのだ。旅商の人たちは陽気だから、少し静かになるな……なんて呑気に考えていた程に。
 自分で思うよりずっと、私はひとりぼっちが寂しいらしい。

 本格的に住まわせてもらうことになったので、荷解きすることにした。トレイ先輩に先に入浴してもらっている間、自室としてもらった部屋に物を広げていく。着替えと洗面道具、それから仕事道具。後でトレイ先輩に、キャンディを作るためにキッチンを使って良いか聞いてみよう。タブレットは、こちらでの調査結果を編集したり旅商に送ったりするために主人から貰ってきた。初めて使うからちょっとワクワクしている。あとは、エースたちとゲームや通話をするためのノートパソコン。
 自分で思っていた以上に、荷物が少なかった。ほとんどが仕事である魔法のキャンディを作るための道具や材料、新しい効果を考えるときに利用するいくつかの魔導書や図鑑、専門書だった。リビングを思い出す。クローバーの形をしたクッションや、四葉のカーペットが敷いてあった。帽子もいくつかインテリアのように飾ってあったと思う。それらは全て、トレイ先輩の好みで買われたものなのだろう。
 私の荷物はどうだろう。私って、何が好きなのだろう。
 分からない。
 ぼーっとしながら空いた段ボールを畳んで片付けていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

「風呂空いたぞ。あ、段ボールもう使わないなら貰うよ。店を開くとき荷運びに使いたいんだ」
「ああ、どうぞどうぞ。じゃあ、えっと、お風呂入ってきます」
「いってらっしゃい。アイスを用意しておくからな」
「え!やった!」

 タオルやパジャマ、下着を用意して風呂に向かおうとすると、ついでに……と先輩が洗濯機の説明をしてくれた。いつでも自由に使っていいとのことだ。

「生活雑貨や日用品があるお店の場所を後でスマホに送っておくよ。色々と買うもがあるだろ?」
……え、他に何か要りますか?」
「シャンプーとか洗濯洗剤とか、好みのものを使った方が良くないか? 俺はそのへんにこだわりがないから、家族や友達に勧められたものを買っているし……
「よく、分からないです。先輩と一緒ので大丈夫です」
……そうか」

 先輩は「俺のと同じでいいのなら」とストックの場所を教えてくれた。無くなったら各々で足していこうと約束し、先輩はリビングに戻って行った。
 入浴を済ませてリビングに戻ると、ダイニングテーブルの方に座っていた先輩に手招きされる。向かいに座ると、二人で生活していく上でのルールを決めようと言われた。なんだかワクワクした。誰かと一緒に暮らすってこういうことなんだ。
 共同の場所の掃除や普段の料理、ゴミ出しは分担することになった。個室の掃除と洗濯は各自でする。食費はトレイ先輩が管理して、買い物もしてくれるという。家賃は、元々住む予定だったウィークリーアパートと同じ金額で良いと言われた。普通に折半するより絶対に安いが、その代わり、ケーキ屋を開く時はキャンディの納品だけじゃなくて接客を手伝って欲しいと頼まれた。お店はとても楽しかったし勉強にもなったので、それはこちらにとっても渡りに船の提案だ。

 トレイ先輩との生活は快適だった。程よい距離感でいてくれるし、料理もおやつも美味しい。私がたまに食事を作るとすごく褒めてくれる。歯磨き指導だけはとんでもなく厳しかったが、健康のためだと思えば苦ではなかった。
 それから、私が外出から戻ってきたとき、先輩が部屋にいれば必ず「おかえり」と言ってくれること。それが何よりも嬉しい。
 私が先に帰ってきた時や、家にずっといる日は「私がトレイ先輩に『おかえり』を言える」と心が踊るようになっていた。



「え、あれ?エースだ」
「お〜久しぶり。本当に一緒に住んでるんだ」

 何度目かのケーキ屋の開店日。前日にトレイ先輩から「明日は後輩が手伝いに来てくれる」とは聞いていたが、まさかそれがエースだとは思わなかった。
 エースとはたまに通話やゲームをしていたが、直接会うのは熱砂の国で出会ったとき以来ではないだろうか。ジャミルさんの後輩とは聞いていたし、ナイトレイブンカレッジに通っていたことも分かっている。でも、トレイ先輩とも知り合いだとは思わなかった。同じ学校でも歳が違うし、関わりを持たない人なんてたくさんいるだろうに。

 一緒にケーキを並べながら雑談に花を咲かせる。エースの友達……今となっては私にとっても友達だが、デュースやグリム、エペルたちもみんなナイトレイブンカレッジの生徒だったらしい。そう考えると、私の周りは旅商の仲間以外、その学校の生徒ばかりになる。不思議な気分だった。
 もしかしてみんな、トレイ先輩のことを知っているのだろうか。

「トレイ先輩と暮らしてみてどう?」
「すっごい楽。というか、楽しい」
「そっか。……何もされてない?」
「え、どういう意味?」
「手出されたりしてないかって話」
「してないよ!トレイ先輩は暴力を振るったりしないもん」
「そっちじゃねーよ」

 呆れた顔をするエースに耳打ちされる。

「エロいことされてない?ってこと」
「はぁ!?されてないよ!」
「おいばか、声でかいって。……流石に順序を間違えるようなことはしないか。良かった」
「ねぇ、さっきからどういう意味?」
「オレは、全部が良い感じにまとまって欲しいだけ」
「なにそれ」
「トレイ先輩にもお世話になってるからさー」

 順序とは……告白とか、恋人になるとかそういう意味だろうか。
 自分がトレイ先輩の恋人になった様子を想像して、一気に体温が上がる。ううむ。恋人か。一緒に暮らしてみて分かったが、先輩はひと通りなんでもできてしまう。料理だけじゃない。洗濯もサボらないし、掃除や片付けも必要な分はちゃんとする。ボタンが取れたら自分で縫っていたし、お菓子のラッピングはいつだって可愛い。
 それに、ほどよい距離感が分かっていて、欲しいときに欲しい言葉をくれる。ちょっと一緒に過ごしただけで、私のことをすっかり分かっているのだ。
 そんな察しのいい人が、周りから好かれないはずがない。そもそもトレイ先輩って恋人はいないのだろうか。私との同居をあっさり決めたのだから、いないと考えていい……よね?
 今まで無縁だった恋愛という思考が自分の中に入ってきて驚いた。 
 私は……トレイ先輩のことが結構好きだ。信頼もしている。これは……どういう『好き』なのだろうか。
 先輩のほうは、私のことをどう思っているんだろう。
 
 黙り込んだ私の背中をぽん!と叩いたエースが笑う。

「ま、もし喧嘩とかしたら、いつでもウチに逃げてきていいぜ。ここからはちょっと遠いけど、電車で行けるとこに住んでるし。デュースの実家も国内の時計の街にあるよ」
「そうなんだ! 喧嘩する予定はないけど、普通に会って遊びたいな。他の人は?」
「おっけー、いつでも大歓迎。あー、他のやつらは別の国に住んでるからな〜。頻繁に会うのはちょっと厳しいかも」
「へー、そうなんだ」

 誰がどこに住んでいるのか、ちょっとしたエピソードも交えながら語られるエースの話を聞くのは楽しい。
 会ってみたい人がたくさんいる。友達が増えて、こうして気軽に会話ができる。それがすごく嬉しかった。
 恋人という存在も、考えてみていいのだろうか。




********************




 薔薇の王国で過ごし始めてもうすぐ一年が経とうとしていた。旅商からの指示や注文があれこれと続き、偵察だったはずが逆に薔薇の王国のものを熱砂の国へ輸入するために動くことも増え、ずるずると滞在が延びていた。その流れで色んなお店にツテができ、取り扱う魔法薬の入ったお菓子はバリエーションが増えた。トレイ先輩の指導のおかげもある。私個人でマルシェに出ることも増えて、お金もかなり貯まってきたところだ。

 そこでこの度、トレイ先輩にお礼のプレゼントをサプライズで用意しようと考えた。
 無事に生活できているのも、毎日が楽しいのも先輩のおかげだ。
 
 エースと話していて気づいた恋心も順調に育っている。好きな人とおはようからおやすみまで同じ家で過ごすことができるなんて、すごく贅沢な状況だ。先輩に恋人ができている気配もないし、むしろ、私との時間をとても大切にしてくれていることがよく分かる。
 仕事を極力定時で終わらせて帰ってくるし、飲み会があっても終電を逃さない。それを苦にしている様子はなく、休日にどこかへ出かける提案もトレイ先輩から声をかけてくれることがほとんどだった。
 私が名前を呼べば、柔らかい笑顔で迎えてくれる。その表情も、穏やかな声も大好きだった。

 そんな先輩に、感謝の気持ちを伝えたい。
 もし勇気が出たら、好きだという気持ちも渡したい。
 受け取ってもらえるかは分からないけど。

 トレイ先輩の帰りが仕事で遅くなる日を決行日とした。スミレの砂糖漬けが好きなことは一緒に住むなかですでに知っている。プレゼントはそれと、街中を歩いて良いものがあれば一緒に渡そうと考えた。

「なんだか機嫌がいいな。良いことでもあったのか?」
「えっ、いつも通りですよ!」

 不思議そうに笑って出勤した先輩を送り出し、身支度を整え自分も部屋を出る。
 駅で電車を待つ間に、プレゼントに良さそうな物があるお店を検索する。薔薇の王国の雑貨は基本的に装飾が豪華で美しく、贈り物でなくてもそれに見合う雰囲気を醸し出す。どれを選んでもプレゼントらしい見た目ではあるが、逆にいえばどれもどこかで見たようなものになってしまい新鮮味はない。
 熱砂の国の物を、何か送ってもらえば良かったかもしれない。
 
 ぷらぷらと街中を歩くが、ピンとくるものは見当たらない。午前中いっぱい歩いて疲れてしまった。
 トレイ先輩が喜ぶものってなんだろう。スミレの砂糖漬けは早めに確保し、ラッピングも完璧だ。あとは何を足したらプレゼントらしくなるだろうか。……何を渡しても笑顔で受け取ってくれる気がする。

 考え事をしながら歩いていたせいで前を見ておらず、どん、と人にぶつかってしまった。
 トレイ先輩と出会った時も同じことをしでかしている。これは私の良くない癖だから反省しなくては。
 しかも、今回ぶつかってしまったのは子どもらしかった。謝ろうと振り向くと、相手は尻もちをついており慌てて屈んで手を伸ばす。

「ごめんなさい、大丈夫だった?怪我してないかな」
「ありがとうございます!大丈夫、気にしないでください。人を探していて、私も前を見ていなかったんです。すみませんでした」

 銀髪のショートに丸いメガネをかけている、随分落ち着いた子だ。怪我をしていないならよかった。保護者の人にも謝らなくてはと周りを見回すが、それらしい人影はない。もしかして迷子だろうか……と不安に思っていると、男の子は「あれ?」と明るい声を上げた。

「お久しぶりですね!ナイトレイブンカレッジのみなさんはお元気ですか?」
……え?」

 その言葉に、思考がいったん停止する。
 視線はどう見ても私に向けられていた。

「え、っと。私、君とどこかで会ったことあるかな?」
「あっ、数回しかお会いしていませんし、覚えていないこともありますよね、すみません。私はロイヤルソードアカデミーにいたドワーフ族のドミニクです。ナイトレイブンカレッジでVDCが行われたときに、ネージュと一緒に出場していました。ええとたしか、学園内で迷子になっていたところをあなた方に助けてもらったんです」
「そう、でしたか……?」

 ドワーフ族ということは、子どもに見えるがそうではないのだろう。旅商にもドワーフ族の仲間がいた。
 嘘をついているようには見えないし、怪しい声掛けやナンパでもなさそうだ。何より、内容が具体的すぎる。ロイヤルソードアカデミーは、たしか、ナイトレイブンカレッジと並ぶ名門魔法学校だったはずだ。
 じわり、と背中を汗が伝う。

「それって、いつのことでしたっけ?」
「ええと……4、5年前でしょうか」
「私、ナイトレイブンカレッジにいたんですね」

「あっ!ドミニク!おーい、こんなところにいたぜぃ!」
「グラン!……みんなに会うことができました!観光の途中だったんです。私はこれで失礼しますね」
「あ、はい……
 
 わらわらと近寄ってきた何人ものドワーフ族の人たちと合流して、ドミニクさんは去っていってしまった。
 

 私は、数年前までナイトレイブンカレッジにいた?

 ……トレイ先輩も、エースも、ジャミルさんもアズールさんも、私を元から知っていた……



 

********************





「ただいま。あれ、なんだかいい匂いがするな」
「おかえりなさいトレイ先輩。えっと、カレーを作ってみました」
「お。美味しそうだな」

 頭が真っ白なまま帰宅して、無心で夕食を作った。他のプレゼントは買えなくて、カバンの中にはトレイ先輩に渡す予定のスミレの砂糖漬けだけ入っている。
 着替えてキッチンまで来てくれた先輩と一緒に食事の用意をして、テーブル席につく。

 私は数年前までナイトレイブンカレッジにいた。
 調べたところ4年制の学校だったため、私は19を終える歳に卒業していることになる。
 記憶を無くした頃だ。

「ん。美味しい。りんごを入れたのか?」
「あ、はい。美味しくなるって……友達に聞いて……エペルっていうんですけど」
「へぇ。俺も今度作るときは入れてみよう」
「トレイ先輩は、エペルも知り合いですか?」

 カレーをすくっていた先輩の手が一瞬止まる。
 目が合った。じっと見つめていると、先輩は一瞬視線を下げてから、もう一度私を見る。

「知ってるよ。同じ学校の後輩だ」
……あの、教えてください」
「どうした?」
「私……私も、トレイ先輩の後輩だったんですか?」
……

 先輩は驚いて目を見開き、すこし視線を泳がせたあと、目を閉じて深く息を吐いた。
 それから少し悲しそうに微笑んで、ゆっくりと口を開く。

「誰から聞いたんだ?」
「街で偶然会った、ロイヤルソードアカデミーの人です。『久しぶり』と言われました。変だなと思って、ナイトレイブンカレッジの卒業生のマジカメアカウントを調べました。エースたちのアカウントは新しく作られたものばかりで、古い写真が無くて……トレイ先輩と私の在籍がかぶってそうな時期に絞って探したんです」

 どくん、どくんと心臓が脈打っている。膝の上で握る手が震える。
 開けてはいけないものを、開けようとしているような気がする。

「ケイト、っていう人がたくさん写真をアップしていて……。私も、トレイ先輩も、エースたちも写っていました。同じ制服を着て、すごく、楽しそうに」
……
「何から聞いたらいいのかは、分からないんですけど……
……説明しても、大丈夫そうか?」

 気遣うような視線に、緊張が増す。
 
 過去を思い出そうとするたびに、頭が重くなっていた。次第に、これは自分の身体が思い出すことを拒否しているのだと理解して、考えることはやめていた。
 自分がナイトレイブンカレッジに関係していると分かって、すぐに浮かんだのは「やっぱり」という言葉だった。周りのみんなは知り合いだったのだ。初めて話すのに不思議な安心感がずっとあったのはそれが理由だろう。
 どうして話してくれなかったのか。疑問には思ったが、怒りも浮かばす、騙されたとも感じなかった。それは、強く「過去を思い出したい」と願うことが無かったからだと思う。

 思い出していいのか。
 その不安の方が強い。
 でも。

「聞きます。説明してください」
……
「私、先輩に伝えたいことがあるので。その覚悟を決めるためにも、全部スッキリさせたいです」
……分かった」

 先輩のスプーンを持つ手に力が入るのが見えた。私と同じように、緊張しているのかもしれない。
 落ち着いて話そうということで、食事も入浴も全て先に済ませることになった。話を聞いたあと私がどうなるか分からないから、先輩が配慮してくれたのだと思う。

 パジャマを着て、もういつでも眠れる状態だ。スミレの砂糖漬けを入れた箱をこっそりと持ち、先にソファに座って待つ。トレイ先輩は、部屋から何かの本を持ってきた。お互いの部屋は入らないように決めていたから、見たことのない本だ。先輩はその本を裏にしたままミニテーブルに置いたため、なんの本か分からなかった。
 いれてくれた温かい紅茶を飲んで深呼吸する。

「どこから話せばいいか……。とりあえず、お前の言う通り、お前は俺の後輩だった。ナイトレイブンカレッジに通ってたんだ。お前とグリムは正規の入学ではなくて、学園長の許可を得て特別に入った生徒だ」
「だから、男子校なのにいたんだ……
「落ち着いて、真剣に聞いて欲しいんだが……お前は、この世界の人間じゃない」
……はい?」

 予想外の言葉に驚いて思考が止まる。これから私の知らない学園生活の話をされるのかと思ったのに、まるでファンタジー小説のようなことを言われてしまった。拍子抜けして肩の力が抜けたが、先輩の様子は真剣だ。いつもの軽い冗談とは思えない。

「え、……っと、それは、どういう……
「そのままの意味だよ。お前は、ツイステッドワンダーランド生まれじゃない。ここではないどこか違う世界の人間で、理由は分からないけど……闇の鏡に選ばれたのか
……ナイトレイブンカレッジに現れたんだ。そこでグリムと出会って入学に至った。エースに連絡して確認してもらっても構わない。クルーウェル先生でもいい。これは大切な前提なんだ」
「違う世界に来ちゃったから、記憶がないってことですか……?」
「いや、お前は記憶を持ってたよ。元の世界の家族や友だち、食べ物や文化の話もよくしてた。そして……帰る方法を探してた」

 あまりに実感が無かった。言われたことを頼りに記憶を探ろうとしても、何も思い浮かばない。
 先輩は、一気に紅茶を飲み干した。カップを包む両手に力がこもって少し震えている。

「結局、ナイトレイブンカレッジを卒業するまでに帰る方法が見つからなくて……。お前は、このツイステッドワンダーランドで生き直すために、クルーウェル先生に記憶を消してもらったと聞いてる」
「先生……クルーウェルさんは、学校の先生だったんですね」
「1年生のときのお前の担任だった。目をかけていたから、そのまま身元保証人を受けたんだと思う」

 クルーウェルさんと最初に出会った場所を思い出す。暗い石をレンガのように組んでいた部屋。あれはナイトレイブンカレッジだったのかもしれない。
 あの時のことはあまり覚えていない。部屋には他にも何人かいて、そのうちの一人が旅商の主人だった。
 それより、先輩の言葉に気になることがあった。私の記憶は、勝手に消えてしまったわけではなかったらしい。

「生き直すために記憶を消してもらったということは、私は、自分の意思で今の状態になったんですね」
「うん。……でも、それを行動に移すことになったのは、俺のせいだ」
「えっ?」
「俺が卒業したあと、お前とはマジカメでやり取りが続いていて……でも俺は、お前がいつか元の世界に戻るとき、自分が足枷になったら不味いと思って……。いや、違うな。……俺は、お前がいつか目の前から消えてしまうことが怖くて逃げたんだ。連絡は来ていたのに、会うことを避けた」

「本当に、ごめん」

 真っ直ぐ私を見つめるトレイ先輩の瞳は、水分を含んで少し揺れているように見えた。
 自分が記憶を消した流れについて理解はした。しかし、感情が追いついてこないのは実際にそれを経験した自覚がないからだろう。
 今は、トレイ先輩が辛そうな顔をしていることの方が胸を苦しめる。
 私は本当は別の世界の人間で、元の世界に帰る方法を探していた。でも、見つからなくて……その後、トレイ先輩と会えなくなってから、記憶を消した。
 ん?先輩に会えなくなってから消した?

「あの、私とトレイ先輩ってどういう関係だったんですか?」
「どういうって……先輩と後輩だよ」
「でも、卒業後も連絡をとってたとか、先輩からの連絡が途絶えて私は記憶を消したとか……。つ、付き合ってたとかでは……?」
「付き合ってはいなかったよ。でも……俺はお前のことが好きだった。いや、今も好きだよ。ずっと」
「へっ」

 突然の告白に、ぶわ、と顔が沸騰する。
 先輩は微笑んでいるが、それは寂しそうだった。すぐ隣にいるのに、私のことを好きだと言ったのに、なんだか遠く感じる。
 後ろに隠しているプレゼントの箱にそっと手を伸ばそうとして、思い留まった。
 何も言えずに動揺していると、先輩が置いていた本を手に取る。タイトルは、まだ見えない。

「この本は魔法道具なんだ。お前の記憶が入ってる。閉じ込めた本人がこの本のタイトルを心から読み上げれば、過去を全て思い出すことができる」
……えっ」
「俺がこの本を持ってお前に会いにきたのは、俺のエゴだ。俺のことも、エースやグリムたちのことも、学校での思い出も、全部思い出して……もう一度、お前に気持ちを伝えるチャンスが欲しかった」

 トレイ先輩は、両手で持つ本に視線を落とす。それは裏返されたままで、表紙も背表紙もまだ見えない。

「でもそれと同時に、元の世界の記憶も戻ることになる。家族や友達に会えない寂しさや苦しみを、またお前に抱かせることになるんだ」
……なるほど。それが辛くて、私は記憶を消したんだ……

 私がずっと家が欲しいということばかり考えていたのは、これが根っこにあったからかもしれないと思った。本当は、「おかえり」って言ってくれる家族が欲しかったんだ。

「一緒に暮らすようになって、お前が『安心して帰れる家』をどれだけ大切に思っているのか実感したよ」
「それは……ここにきてから、トレイ先輩がそういう場所を作ってくれてたからですよ」
「はは……そう思ってくれていたなら嬉しいよ。俺が手を放してしまったようなものなのに、すぐ近くで慰めることができて喜びを感じてた。お前がずっと、ここにいたくなればいいって……。迷ってたんだ。お前の笑顔が増えていくたびに、今のままの方がいいんじゃないか、本人が苦しみながら選んだ道なのに辛い過去を思い出させる必要はないんじゃないか。……でも、この本のタイトル眺めるたびに、諦めきれなくて」
「見せてもらっていいですか?」

 トレイ先輩から本を受け取る。
 『大好きです 先輩』
 タイトルを見て、体内の血が急激に巡り始めたのを感じる。これは確かに、私の本のようだ。『先輩』だけで名前が書かれていない。それが逆に、分かる人にだけ伝わる呪いの言葉のようにも見えた。ここで一緒に過ごしていたからよく分かる。過去の私も、トレイ先輩のことが好きだった。

「これ、タイトルに合わせて自分のこと『先輩』って呼ばせてたんですか?」
……打算はあったな。自然にその言葉を言うことがあれば、とも考えたし。でも本音は、昔みたいな関係に戻りたかったんだ」
「私、この言葉……心から言えますよ。今」
……そう……か」

 ほぼ告白のようなことを伝えたことで、心臓がドキドキと音を立てている。手にじわりと汗が滲んできた。
 でも、トレイ先輩の表情は暗い。

「本当に、記憶を戻すか? きっとまた辛い思いをするぞ」

 もう一度考えてみる。ここではないどこかの遠い記憶。家族。友達。思い出そうとしてみても全く浮かばないそれは、この本の中に閉じ込められている。
 自分には最初から無いと思っていた。でも、本当はいるのならば、それがどんな人たちだったのか知りたい。
 過去の私がどんな思いでこの本に記憶を閉じ込めたのか。ここまでするくらいなのだから、きっと強い決心があったのだと思う。でも、タイトルを見て私はトレイ先輩に対する甘えが入っていると感じた。これを見れば、助けに来てくれると考えていたのではないだろうか。だって、『大好きでした』ではなく『大好きです』と書かれている。終わらせる気がない言い方だ。
 いや、この本が先輩に渡るかどうか分からなかったのなら、この言葉にただただ希望を託しただけなのかもしれない。
 
 それから、今自分の周りにいる人たちのことを考えてみる。エース、デュース、グリム。それから、ジャミルさんとアズールさん。まだ直接会ったことはないけれど、エペル、ジャック、セベク、オルト。そして、クルーウェル……先生。誰もがみんな、私に優しかった。いや、ただ優しいんじゃなくて、友達として扱ってくれた。
 みんなとの思い出もここに詰まっているのなら、取り戻したい。マジカメで見つけた昔の写真を思い浮かべる。どれも私はすごく楽しそうにしていた。今は名前も浮かばない人たちとたくさん笑い合っていた。あの人たちにも会ってみたい。

「開けてみます」

 心から、心の底からトレイ先輩に『大好きです』と言う。そんなの余裕だ。だって本当に大好きなんだから。
 表紙を上にして両手で本の端を持つ。
 小さく息を吸った瞬間、隣から伸びてきた大きな手がぎゅっと私の手を握った。顔を上げてみると、先輩は何か言おうと口を少し開いて、閉じた。
 その手の上に空いている自分の手を重ねる。なんだか迷子の子どもみたいな目をしているな。

「どうしました?」
……
「今のうちに言ってください。気になって開けられませんよ」
……怖いんだ。記憶を取り戻しても、お前は俺のことを許してくれるのか」
「許すって?」
「お前が苦しんでいたとき、会わずに逃げたこと」
「うーん……。聞いてて思ったんですけど、過去の私が未熟で先輩に依存してただけな気がするんですよね。まぁ、まだ実感がないから客観視してるだけかもしれないですけど……。今の私は、トレイ先輩がずっと私をひとりぼっちにしないように動いていてくれたことを知っています。仕事を早く終わらせて帰ってきてくれたり、夕飯をつくって『おかえり』って言ってくれたり」
「それは、俺がやりたくてやってただけだぞ」
「へへ、嬉しいこと言ってくれますね。……大丈夫だから、信じてください。辛い記憶や感情を取り戻しても、今持ってる新しい思い出や気持ちがリセットされるわけじゃありません。私は……自分の大好きなものたちを取り戻したい」

 トレイ先輩は私から手を放し、一度目を閉じて深呼吸した。そして、覚悟を決めたように開く。
 それに頷いてから、改めて本を持ち直した。
 シンプルで装飾も特にない桃色の本。
 表紙を少し撫でてから、息を吸った。

「『大好きです 先輩』」

 そう唱えた瞬間、本が眩しいほど輝き出した。
 その眩しさに思わず目を閉じる。ふわ、と手元の本が宙に浮いたのが分かった。腕をぎゅっと掴まれる気配がして、隣にトレイ先輩がいることにほっとする。
 薄目を開いて様子見していると、ぐわん、と頭の中が回りはじめた。脳がぐるぐるとかき混ぜられている。
 そして一気に何かが流れ込んできた。
 ずるずると入り込む感覚にぞわっと鳥肌がたった瞬間、私は意識を失った。




********************




 いい匂いがする。
 これは、コンソメスープだろうか。それから、パンを焼くジジ……というトースターの音も聞こえる。
 お腹すいたなぁ。
 私も朝ごはんを用意しなきゃ。早くしないとグリムが「腹減ったー!」と騒ぎ出して──

「グリム!?」

 バサッ!と掛け布団を飛ばして起き上がる。
 キョロキョロと部屋を見回す。カラフルなキャラクターと文字が散りばめられているベッドカバー。数冊だけ図鑑が入った本棚。薔薇のランプが置かれた机。
 ここはトレイ先輩のマンションだ。
 そして私、グリムのことを覚えてる!

 そのままベッドから抜け出して部屋のドアを開ける。
 ガチャ!と勢いよくリビングに出ると、キッチンに立つトレイ先輩がいた。
 私を見て動きを止める。
 先輩が固まってしまったのでぱたぱたと近寄って、割きかけのレタスをその手から外す。
 それから、ぎゅ、と両手を掴んだ。

「トレイ先輩、ただいま!」
……おかえり」

 眼鏡越しのトレイ先輩の目がゆらゆらと涙で揺れていた。



 後で教えてもらったのだが、私は三日ほど眠りについていたらしい。
 クルーウェル先生の話によれば、19年分の記憶を一気に戻したため、脳の処理に時間がかかったそうだ。通常その量を戻すと一週間近く眠り続けることがほとんどだそうだが、私は事前にトレイ先輩から話を聞いていたこともあって記憶や感情の受け入れが早かった。

 4年生のとき、研修に行ってしまったみんなに置いて行かれたような気持ちになって、焦っていたことを覚えている。私は魔法が使えない。この世界で魔法を使える人の方が少ないことは分かっていたが、あの頃、私の世界の全てはナイトレイブンカレッジだった。箒で空を飛び、物を浮かせ、火や水を放つ。みんながそれを当たり前にようにしていることへの疎外感が募っていた。
 ひたすら勉強をして、クルーウェル先生の勧めで資格をたくさん取った。でも、どれもがみんなの魔法には及ばない気がして無駄に思えた。

 帰る方法も一向に見つからない。それに、すんなり帰りたいとも思っていなかった。元の世界の家族や友人にももちろん会いたいが、グリムやエース、デュース……一緒に過ごしてきた学友たち、それから……大好きな人。みんなのことも大切だったから。
 
 ずっと心の支えにしていたトレイ先輩と次第に疎遠になっていったのはその時だった。付き合ってた訳なじゃいし、片想いだって思ってた。妹のように可愛がられていただけだと。それでも、「どうした?」と声をかけて頭を撫でて欲しかった。それが手に入らないと分かって、勝手にショックを受けて、自暴自棄になって全てを捨てようとしたのだ。どれもこれも大切な思い出なのに。それまでの数年間を支えていてくれたのに。本当に馬鹿だった。

 今は、トレイ先輩が距離を取ってくれて良かったと思っている。私はまだまだ心が幼くて、自分の状況を受け入れきれていなかった。あのままトレイ先輩に会って優しさを享受していたら、依存して何をするにも頼って迷惑をかけていたに違いない。
 苦しかった気持ちは、たしかに2年前の記憶として私の胸に刻まれている。
 でも、それはあくまで思い出の一つだった。
 今の私は、前向きに考えることができている。
 
 自分の能力を活かして働く術を手に入れることができた。クルーウェル先生には頭が上がらない。
 一緒に遊んだり、悩みを話せる友達を信じることができる。エースやグリムたちが、私とまた友達になってくれたおかげだ。
 そして、大好きな人が隣にいてくれる。
 トレイ先輩が、私を迎えにきてくれたから。

「トレイ先輩が泣いてるの、初めて見ました」
「俺だって泣くことくらいあるよ」
……これからも、色んな顔を見せてください。私、トレイ先輩のことが大好きです」
「ありがとう……。俺も、お前のことが大好きだ……

 眉を下げきって笑うトレイ先輩が愛おしくて、ぎゅうと抱きついた。玉ねぎの匂いがして、コンソメスープに入ってるんだな、なんて考えた。安心する。

「私、新しい目標が2つできました」
「へぇ、どんな目標だ?」
「まず一つ目は、元の世界と行き来できる方法を探すことです」
……えっ」
 
 トレイ先輩を見上げると、表情が強張っている。もう一度ぎゅっと強く抱きつき直す。

「帰るってわけじゃないですよ。先輩と離れたくありません。でも、家族や友達にももう一度会いたいんです。なんなら、一度だけでもいい」
「それは……出来たらすごく良いことだとは思うけど……
「『ない』ことを証明するのって難しいと思いませんか? それに、探してたのはあの学園長ですよ? 本当にこの世界の隅々まで調べたのか怪しいです。私、ナイトレイブンカレッジで勉強したおかげで魔法史にも詳しくなったし、魔法そのものの理解もある程度あります。だから、みんなに会える方法がないか探し続けてみます!」
「わかった。俺も協力するよ」
……!ありがとうございます!!」

 ぐりぐりと胸元に頭を押しつければ、トレイ先輩は苦笑いした。
 そうだ、この困った顔も学生の頃は大好きだった。

「それで、もう一つの目標は?」
「家を建てることです!」
……おお」
「まだ貯金が足りないですけど……三階建てがいいな。庭も家庭菜園ができる畑も欲しいです。それから池と……あと、リンゴの木があるといいかも」
「はは、結構大きな土地がいるな」
「それで、その……トレイ先輩と、一緒に住みたいです」

 目を見開いた先輩の頬が、少し赤くなったのは勘違いじゃないと思いたい。
 背中に回っていた大きな手が私の腰に下がって、ぐっと身体を寄せる。
 目の前にある愛しい顔が、ふわりと笑顔になった。

「家ならいつでも建てられるぞ」
「え。……え?」
「ずっとお金を貯めてたんだ。土地代くらいはすぐ用意できる。ケーキ屋だけじゃなくて、ヴィルを通して雑誌やCMに使うケーキを作らせてもらったり、アズールにレストランやカフェ用の菓子のレシピを売ったりしていたんだ。それに、もうすぐ俺が監修したケーキのレシピ本が出版される。『魔法のケーキ屋さんの秘密のレシピ』ってタイトルだ。ケイトに考えてもらった」
「本!?」
「予約段階で予定数をかなり超えて重版が決まってるって聞いたし、タルトと焼き菓子のレシピ本も打診されてる。印税の契約はアズールの協力もあって結構もらえる予定だぞ。三階建ての家もたぶんできるだろ」

 驚きで開いた口が塞がらない。

「学生の頃から、もしお前が元の世界に帰れなかったら俺が養おうって勝手に思ってた。安定した職にはついたけど、将来のことを考えたらどれだけ稼いでおいても損はないだろう?」
「それでも……すごいですね」
「俺は周りに比べたら至って普通の男だからな……出来る範囲のことを頑張るしかないって思ってさ」
「出来る範囲が広すぎです!」

 どん!と胸板を叩くと、先輩は痛いだろと笑う。
 私の未来がどうなるか分からなかった頃から準備を始めてくれていたなんて……驚きで胸がいっぱいだ。本当に、この人のことが好きで良かった。

「私の貯金も足しましょう!どうせなら大きい家を建てて、みんなを呼んでたくさんパーティーしたいです!」
「いいな。なんでもない日のパーティーならいつでも出来る」

 想像するだけで心が躍る。
 グリムのためにたくさん食事を用意して、エースやケイト先輩のために派手で盛り上がる装飾をして……クルーウェル先生にもお礼をたくさんしたい。絶対に来てもらわなくては。
 ああ、早く連絡したい。たくさん謝って、たくさんお礼を言って、みんなをめいっぱい抱きしめたい!

「トレイ先輩、これからもずっと、よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 微笑んだ顔に胸がぎゅっと掴まれた。
 思いが溢れて、先輩の腕を掴んで背伸びする。
 ちゅ、と軽い音がキッチンのなかで静かに響き渡った。

 じわりと頬を赤らめた目の前の愛しい人に、にやりと笑みを向ける。
 先輩はすぐに眉を寄せ目を細めたけれど、緩みきった口元のせいで悪い顔を作れていない。

「やったな?」
「へへ」
「まだ足りない」
「わっ」

 後頭部を優しく、でも動けないように固定されて、甘く深い口付けをたっぷりと交わした。