botanin5
2024-11-18 21:25:48
12965文字
Public トレ監♀(小説)
 

黄色は気をつけて進め

先輩のひとりえっちを偶然目撃してしまってわたわたする監の話



 見てしまった。
 とんでもないものを。



 今日、オンボロ寮の監督生である私と、相棒であり自称親分でもあるグリムは、ハーツラビュル寮に泊まりに来ていた。勉強会を名目にエースやデュースの部屋に入りこみ、消灯時間で見回りに来た当番の先輩をお菓子で買収して、翌日が休みであるのをいいことに同室の面々も巻き込んで遅くまで遊んでいた。それはもう、リドル先輩にバレたら首を何度刎ねられるか分からないくらい、部屋を荒らして盛り上がっていた。時計の針はとっくに真上を通り過ぎて、廊下の灯りは非常用の小さなものだけになっていて、普段だったら一人で進むのは気が乗らない薄暗さだ。

 でも、今日はそんな薄暗さが気にならないくらい良い気分だった。トランプゲームで一番になったことで、みんなが各々用意した景品が私のものになったのだ。その中のお菓子をみんなで分けて食べようと広げたことで、ジュースが足りなくなってしまった。勝利の心地よさにまだ浸っていたかった私は、もう何回戦目かわからない大富豪を始めたみんなを置いてキッチンへ行くために薄暗い廊下に出た。

 夕食後にトレイ先輩から、これなら自由に飲んでいいと聞いていたジュースを手にとり、自分だけひと口先に飲んでから瓶を片手にキッチンを後にする。まだ未成年でお酒を飲んだことはないけれど、アルコールで酔ったらこんな感じの気分になるのかもしれない。元の世界にいたころ、たまにお酒を飲んで帰ってきた父は、こんな感じで陽気になっていたと思う。ふわふわと楽しい気持ちから抜け出せないまま廊下を進んでいると、ふとポケットに入っていたものが手に当たる。取り出すと、さっきトランプゲームで景品として貰った魔法道具だった。
 ジュエリールーペのような見た目のそれは、しずく型の金属のケースに丸いレンズが嵌め込まれている。レンズの大きさは500マドルのコインくらいだろうか。中が剥き出しにならないよう、付け根を軸に回すと同じ形のカバーの中にレンズを仕舞い込むことができる。これを壁やドアに取り付けると、中の様子を覗き見ることができるらしい。

 ほんの出来心だった。たぶん、ジュースを取り出す時に浮かんだせいだと思う。
 トレイ先輩は今なにしてるかな、と思ったのだ。
 いつも構ってくれて、美味しいケーキをご馳走してくれて、たまにイジワルだけど、優しい先輩。そんなトレイ先輩の、いつもとは少し違う瞬間を見られるんじゃないか。
 別に何かしようだなんて思っていなかった。もうベッドに潜り込んでいたら、ドアや壁越しでは姿すら見れるわけがなかった。たまたま偶然……もし起きていたら、ちらっと見られるだけでいい。いつもオンボロ寮で過ごしている自分にとって、なかなか訪れないチャンスと言えた。そんな小さな小さな期待だった。

 足音を立てないようにひっそりと廊下を進む。三年生の個室が集まる階はかなり静かだった。寮生活への新鮮味が未だ抜けない一年生と違って、三年生はもう各々の部屋でゆったり過ごすことが普通になっているのだろう。いや、夜もかなり更けているから、みんなとっくに寝ているのかもしれない。
 
 うっかり間違えないように、ドアプレートの名前を確認しながら歩く。トレイ先輩の部屋には何度か遊びに訪れたことはあるが、一人で行くのは初めてだった。
 目的の部屋に着いて、そこで初めてこれってのぞきでは……?と思い至った。久しぶりの夜更かしにお泊まりという非日常で浮かれていたけれど、他人の部屋を勝手にのぞき見るなんてダメに決まっている。さっと冷静さが戻ってくる。私は一体何をしているのか。この中はプライベートな部屋なのだ。もう寝ているだろうし、やめた方がいい……でも、気になるから一瞬だけ……いや、もし自分がされたら嫌だろう。欲望と理性の間でしばらく葛藤したのち、やっぱりやめようと小さくため息を吐いた。
 
 部屋から離れようとした瞬間、中から ごん と小さな音がした。普通に廊下を歩いていたら気づかないであろう小さな音。ドアのすぐ前に立っていたことで聞こえてしまった。何かがぶつかったような音だった気がする。もしかして、中でトレイ先輩が倒れたのかもしれない……いや、寝相が悪くて足が壁にぶつかったのかも。一度だけ聞こえた小さな音に興味が引っ張られてしまって、ドアの前から離れられなくなってしまった。先輩はまだ起きているのだろうか。もし本当に倒れていたりしたら心配だ。
 ぐるぐると迷った末に、一瞬だけ、と自分に言い訳して魔法道具のルーペをドアにくっつけた。

 中は薔薇のベッドライトだけが点灯していて薄暗い。500マドルのコインサイズ程度しかないレンズではよく見えなくて、ドアにくっつけるルーペをスライドさせながら丁度いい位置を探す。トレイ先輩が無事かどうか確認するだけ。大丈夫そうなら、すぐ部屋に戻る。
 トレイ先輩は、ベッドの上で横になっていた。掛け布団ごと下にして、こちらに顔が見える向きで寝転がっている。眠っているわけではなさそうだ。むしろ、何やら少し苦しそうというか……眉間にしわが寄っている。メガネは外していて、頬にはスートもなくて新鮮な気持ちになる。やっぱり体調が悪いのだろうか? 背中を少し丸めて前屈みになっていて、手でお腹をさすって──

 いや、違う。
 触ってるの、お腹じゃない。

 小さく聞こえた、思わず漏れたような掠れ声に驚いてルーペをドアから離す。この魔法道具を使うと部屋の中の声まで聞こえるらしかった。動揺で足の力が抜けて、廊下に音もなくへたり込んでしまう。

 見てしまった。
 とんでもないものを。

 ドキドキと心臓が大きな音を立てる。
 こめかみをじわりと汗が伝っていく。
 自分の顔が熱を持っている。頭の中が沸騰しそうだ。

 そりゃあ、トレイ先輩だって18歳の男の子だ。寮生活でそういう欲を発散させるとなったら自室が一番安全だろう。音が気になったとはいえ、覗いてしまって申し訳ない。他の先輩たちだって、もしかしたら、エースやデュースだって、私の知らないところでそういうコトは済ませているのだろう。これはみんなにとっては日常の一部で、大袈裟に捉えることじゃない。普通のこと。普通のことなのだ。

 でも、私には看過できない部分があった。
 魔法のルーペ越しに漏れ聞こえてきた、吐息に混ざった小さな声。
 いつものトレイ先輩とはちょっと違った、さらに低い絞り出したようなそれは──


 私の名前を呟いていた。




 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎





 あの後、ルーペをポケットに突っ込んで、音を立てないよう気をつけながら早足でエースたちの部屋に戻った。キッチンへ取りに行ったはずのジュースがすっかりぬるくなっていてみんなに文句を言われたが、私はそれどころではなかった。
 まだまだ遊び足りないとカードを広げる同級生たちをよそに、私はさっさと借りることになっていたデュースのベッドに潜り込んだ。頭まで掛け布団をかぶって丸くなる。心臓はずっとドキドキしていた。
 トレイ先輩が、私の名前を呟きながらシていた。
 まさか、あのトレイ先輩が!


 結局私は、朝まで一睡もすることができなかった。
 目の下が嵩張ったような違和感を抱えたまま、床で寝っ転がる同級生たちを避けて部屋を出る。顔を洗って、このぼんやりした頭をシャキッとさせたい。
 
 タオルを持って共同の洗面所へと向かう。休日な上にまだ時間が早かったこともあって、起きている寮生はまばらだった。誰もいない洗面所にラッキーと心の中で呟いて、バシャバシャとほとんど頭から水をかぶっていると、爽やかな挨拶が後ろから飛んできた。


「あれ?早いな。おはよう」
「わぁ!?トレイ先輩!!」


 にこやかに、私の名前を呼びながら入ってきたのはトレイ先輩だった。心なしかスッキリしているように感じるのは、昨日見たものによってバイアスがかかっているのだろう。
 私の名前を呟く切なげな声を思い出して、カッと顔が熱くなる。

 そもそも、トレイ先輩は私のことを妹みたいに思っていると考えていた。スイーツを渡してくれる時の子ども扱いとか、勉強を教えてくれる時の後輩扱いとか……他にも、頭を撫でられたり、叱る時にちょっと頬を引っ張られたり、近所のお兄ちゃんみたいなものだったのだ。色気なんて全くない。
 そんなトレイ先輩の、見たことのない、とてもお兄ちゃんなんて言えない部分を垣間見てしまったことで、取り繕えなくてぎこちなくなってしまう。


「昨日は楽しめたか? リドルにはバレなかったみたいだな」
「あ……はい。そっすね……
「どうした? そんなに離れることないだろ」


 お楽しみだったのはトレイ先輩の方ですよね。なんて言葉を飲み込んで、となりの蛇口を使いに来た先輩から勢いよく距離をとってしまう。いやだって、近い。そういえば、先輩っていつもこんなに近かったっけ。……近かったような気がする。今までは気にならなかったのに。
 トレイ先輩は不思議そうにしつつも、少し不満げだ。この、いかにも爽やかで真面目で清潔です、みたいな顔をした先輩が、夜、自室で一人、私の名前を呟きながら自分を慰めていた。


「わぁぁぁぁ!!」
「なんだ!? どうした? まだ寝てるやつも多いから、あまり大声を出すなって」
「ご、ごめんなさい」


 トレイ先輩を落ち着いて見れなくて、まだ少し湿っている顔をタオルで隠す。困惑する先輩は、手際よく顔を洗って食後のときよりは簡単に歯磨きを済ませてこちらを見た。その視線がこちらを向くたびに、心臓がどきん!と大きな音を立てる。


「エースやデュースがまだ寝てるなら、一緒に朝食を食べに行かないか?」
「そう言って本当は私のこと美味しくいただくつもりですか!?」
……ん?」


 早口すぎて聞き取れなかったようで、トレイ先輩はポカンとしている。爽やかな笑顔に騙されちゃいけない。この人、私で抜いてたんだぞ。嫌な気持ちにはなっていないけれど、まだこの先輩と二人きりになる心構えは出来ていないのだ。

 いや待てと、いったん自分を落ち着かせる。
 もしかして、私じゃないのではないだろうか。だって、昨夜の今でこんなに平然と私に話しかけてきている。それに、これまで全く恋愛的なアプローチを受けていないし、告白のようなことだってされたことはない。色っぽく触れられたことだってない。ということは、もしかしてあの時に呟いていたのは同じ名前の別の人なのではないだろうか。
 そう考えてみると、思いの外しっくりくることに気がついた。だってまさか、トレイ先輩が私のことを好きになるわけがない。先輩は、恋人にするならすっごくすっごく最高な人であることは分かっているけれど、だからこそ、私のような落ち着きのないちんちくりんに性的な興味を持つわけがなかった。私にとっての先輩は大人で余裕があって高嶺の花すぎて恋に落ちないタイプだ。
 そう思ったらかなり気が楽になって、トレイ先輩の近くにぴょいっと近づいた。そのまま先輩の腕にするりと自分の腕を絡めて洗面所の外へ引っ張る。これがいつもの距離感だった。まるで兄と妹。ケイト先輩にもよくそう言われている。


「朝ごはん、行きます行きます! なに食べようかな〜」
「はは、急にご機嫌だな。食堂に行くつもりだから、制服に着替えないと」
「あ、そうでした。じゃあ、鏡の前で待ち合わせしましょ!」


 ばいばいと軽く手を振って、急いでエースたちの部屋に戻って着替えを済ませる。みんなにバレたら騒がしくなってしまうので、起こさないようにこっそりと。誰の目も覚ますことなく無事に部屋を出て、走って鏡の前に行くと、先にトレイ先輩が待ってくれていた。


「誰も起きなかったみたいだな」
「昨日遅くまでトランプしてましたからね〜……ふぁ」
「はは、大きいあくび」
「私は朝までずっと起きてたので」


 なんだか気が抜けたら眠くなってきてしまった。でも、せっかくだからトレイ先輩と一緒に朝ごはんを食べたい。
 鏡舎を抜けて、朝練するジャックとすれ違ってからメインストリートを通り過ぎる。校舎内もまだほとんど人がおらず、食堂に入っても中にいたのは数人だった。先輩と一緒に朝ごはんを選んで席に着く。サンドイッチとコーンスープとオムレツ。それから、オレンジジュース。二人とも同じメニューだ。あっという間に食べ終わってしまって、ジュースのおかわりをちまちま飲みながらのんびりと雑談する。


「今日は何か予定はあるのか?」
「ん〜特には……昨夜のお泊まりがメインみたいなものだったので、今日はその延長でハーツラビュルで過ごそうかなって思ってます。宿題残ってますし……ふぁ……
「ずいぶん眠そうだな……。朝まで起きてたって言ってたけど、そんなに遅くまで遊んでたのか?」
「いつもだったらストップかけるデュースが、昨日は何も言わなかったんです。まぁトランプ楽しかったから仕方ないと思いますけど……エースも煽ってたし」
「デュースは優等生を目指してるもんな。他の寮生が当番をサボろうとしているのを引き止めてるところをたまに見かけるよ」
 

 もし信号機だったら、青が進めで赤が止まれなのに。そういうときにまず真面目に止めるのはデュースで、まぁいいじゃんって進んでしまうのはエースだ。……あ、でも、いざというとき真っ先に前へと進んで突っ切ろうとするのはデュースだ。そして、それを落ち着けと引き止めるのは、エースかもしれない。そう考えてみると、信号機通りで面白い気がしてきた。青は進め。赤は止まれ。


「トレイ先輩は、黄色信号ですね」
「ん?なんの話だ?」
「目の色です。黄色っぽいから……。青みがかってるデュースはよく突っ走るじゃないですか。で、エースはそれを止める赤信号です。赤いし」
「はは、まぁ色で言ったらそうかもな」
「黄色は……気をつけて進め、でしたっけ?」
「いや、黄色は止まった方がいいんじゃなかったか?」


 そうだっけ。最近は信号を渡るような機会がないけれど、昔はよく黄色でも走って渡っていた気がする。
 トレイ先輩の顔を覗き込む。先輩はちょっと不思議そうな表情をしたが、すぐに目を見ていることを察してメガネを外してくれた。黄色……というよりは、マスタード。


「まぁでも、トレイ先輩は一旦止まって考えそうなので……黄色は止まれかもしれません」
「ははは、俺を基準に交通ルールを生み出すな」
「渡るとなったら、気をつけて進まないと……ふぁ……
「またあくび。そんなに眠いとなると、寮に戻ったら二度寝してしまうんじゃないか?」
「それもいいですね……
「部屋のみんなは朝方には寝てたんだろ? お前はどうしてずっと起きてたんだ?」


 メガネを掛け直した先輩によって突然話題が引き戻されて、一瞬で目が冴えてしまった。
 ぱっと昨夜の出来事が頭の中を巡っていく。薄暗い廊下。ベッドライトだけが点いた先輩の部屋。乱れた吐息と、私の名前を呟く低い声。
 どうしよう。私はどうせ妹みたいなものだし、いや、ここは男子校である以上いっそ弟みたいなものかもしれないし、正直に見たことを話して笑いに変えた方がいいだろうか。待て待て、流石にデリケートな話題だから、年下の女の子から突っ込まれるのは先輩のプライドに関わるかもしれない。
 うんうん唸っていると、隣に座っていたトレイ先輩の手が伸びてきて、その親指が私の目の下をそっと辿った。


「隈ができてるぞ。……もし、悩み事なら聞くけど……大丈夫か?」


 どき、と心臓が跳ねる。先輩の手、大きくて温かい。
 それと同時に、あ、この手で昨日シてたんじゃん!と思ったらドキドキして、動揺して身を引いてしまった。顔が熱い。私、思ったよりえっちなコトに興味があるのかもしれない。


「トレイ先輩は、その……私と同じ名前の好きな女優さんとか……いるんですか?」
……え」
「それか、同じ名前のモデルさんとか、アイドルとか……あ、ミドルスクールの同級生とか?」
「うん? いや、特にいないが……
……え。いないんですか!?」


 思わず少し大きな声を出してしまって、食堂にいる数人がこちらをチラリと見てきたため、急いで口を押さえる。私と同じ名前の、好きな女優さんはいない……? 隠しているだけなのだろうか。それとも、似た名前を聞き間違えてしまったのだろうか。トレイ先輩は訝しげに眉を寄せている。


「なぁ、もしかして誰かに何か言われたのか?」
「あ、いえ。そういうわけじゃなくて」
「ちょっと聞き流せないな。誰に何を聞いたんだ? ケイトか? もしかして、チェーニャがまた来てたのか?」
「違いますって!」


 トレイ先輩は、片眉を下げて訝しげな様子でじわじわと距離を詰めてくる。食堂の端の席に座っているせいで、前は開けているけれどテーブルがあるし、後ろは壁だ。なんとなく追い詰められたような気がしてくる。近い。心なしか、お菓子のような甘い香りもしてくる。いつもは安心する大きい身体が今日はなんだか色っぽい気がしてしまって、ボタンの開いた首元や少し血管の浮いた節くれだった指に目が行ってしまう。
 おかしい。どうして私が追い詰められているんだ。逆に、弱みを握っているのは私じゃないか!?


……本当に聞きたいんですか、先輩」
「やっぱり何か聞いてるのか?」
「私、昨日聞いたんです。トレイ先輩の口から」
……俺? 昨日、何か話したか……?」
「先輩が、夜中……その、一人で……えっと……私と同じ名前、呟いてるの……聞きました」
……え」


 流石にあけすけに言葉にするのは憚られて、なんとなくぼかして説明する。
 ポケットに入れておいた魔法道具のルーペを取り出してテーブルに置いた。


「昨日、これをトランプゲームに勝った景品でもらって。これ、ドアとか壁にくっつけると部屋の中が覗けるんです。それで、えっと、たまたま偶然トレイ先輩の部屋の前を通った時に、中から音がして……先輩が倒れてたら大変だなって思ったので、これで部屋を覗いたんです」
……それ、何時ごろだ……?」
「え? えーと、1時半くらい……?」


 最初は好奇心で先輩の部屋に近づいたことは言えなかった。
 トレイ先輩は、赤いのか白いのかわからない顔色をしている。テーブルに肘をついて、大きな片手で顔を覆ってしまった。


……聞いたって、まさか」
「大丈夫です! 男の子には必要なコトだって分かってるので!まさかそういうことしてるなんて、思いもよらなくて……本当、見ちゃってごめんなさい!」
「聞いただけじゃなくて……見たのか……


 ぺこりと頭を下げてみたが、トレイ先輩は手で顔を隠したままこちらを見ない。耳がすごく赤くなっている。やっぱり、ああいうことを後輩に見られるのは気まずいよね……。もし自分だったら……もし自分が、トレイ先輩を思いながらそういうことをしてたとして……
 想像しようとして、眉間にシワを寄せて、乱れた息を吐いていた先輩を思い出して顔が熱くなる。あれ、私、トレイ先輩のこと考えるだけでどうしてこんなにドキドキしているんだ。いやいや、いつもと違うところを見たから、物珍しくて動揺してるだけで……。そうやって一人で考えこんでいると、先輩はようやくこちらを見た。頬の赤みは落ち着いていて、逆に少し顔色は悪くなっている。


……ごめん、気持ち悪かったよな」
「えっ! いえ、びっくりはしましたけど、大丈夫ですよ」
「でも、付き合ってるわけでもないのに、自分をそういうコトに使われるのはいい気がしないだろ?」
……え? 私……?」
……? 俺がお前の名前を呼んでたのを聞いたんだろ?」
「あ、その……同じ名前の、別の人かなって……思ってたんですけど」
……さっき言ってたのはそういうことか…………はぁ……


 トレイ先輩は、今度は両手で顔を隠してしまった。
 同じ名前の別の人じゃなかったのか……。私だった……。まさか、本当に私だったなんて。自分がそういう対象として人の目に映るというのは、なんだか不思議な気分になった。その相手がまさかのトレイ先輩だ。先輩が言うような、気持ち悪いという感覚にはなっていない。これは、先輩が相手だからなのだろうか。それとも、今まで経験のない状況に、感情が追いついていないだけなのか。


「トレイ先輩、私で勃つんですね」
……みなまで言わないでくれ……
「あの、そんなに落ち込まないでください。仕方ないですよ、ここって男子校ですし……身近にいるの私くらいですもんね。本命じゃ抜けないって聞いたことありますし、代わりに思い浮かべやすいってなると、選択肢が少なくなるのも分かります。それを私に見られるなんてレアケースは災難だなって思いますけど、もしかして、他の人もそんな感じかもしれませんし!」
……は? いや、待て」
「はい?」
「勘違いされたくないから正直に言うけど、俺はお前が好きだからな」


 トレイ先輩は顔を隠していた手を下ろして、真っ直ぐ私を見つめる。


……え、でも」
「まぁ、好きになった最初の頃は罪悪感でオカズにするなんてとても無理だったよ。……でも、かといって他の誰かでどうにかなるものでもなくて……ほら、魔法士にはイマジネーションが大切だろ? 訓練だと思って頑張ってみたんだ」
「ちょっと、サイテーなこと言ってるの分かってます?」


 先輩はだんだんいつもの調子に戻ってきたようだ。じっとりと睨んでお腹に軽く拳をお見舞いしてみると、吹っ切れたように笑ってくる。「お前が気を悪くしてないみたいでよかった」なんて言いながらオレンジジュースを飲み切った。
 朝食を求めて食堂に入ってくる生徒たちが増えてきて、だんだん人目が気になってくる。どう考えても朝からする話ではなかった。


「なぁ、移動しないか? 今のを告白にカウントされるのはちょっとな……。やり直したい」
……はい」


 『告白』というフレーズに、背筋がピンと伸びる。私、今から告白されるのか。食器を片付けて、増え始めた生徒の間を抜けて校舎を出る。先輩の部屋に誘われたけれど、流石に今は夜のことを思い出してしまうから無理だと言えば「まぁそうか」と笑われた。

 先輩と並んでメインストリートを歩きながら考えてみる。トレイ先輩は、私のことが好きらしい。私は先輩のことをどう思ってるんだろう。もし、目撃してしまった相手がトレイ先輩じゃなかったら……私の名前を呟いていたのが他の誰かだったら、どんな気分になっただろう。今すれ違った生徒だったら? 他の寮生だったら? ……ちょっと、嫌かもしれない。じゃあ、エースやデュース、ケイト先輩やリドル先輩だったら? ……気まずい。嫌だとまでは思わないけれど、ドキドキは、しないかも。今回見たのに平気だったのは、トレイ先輩だからなのかも。確かめたい。
 ちらりと先輩を見上げる。次は視線を下げて、大きな手を見る。もしもこの手が、私に触れたら。そのままズボンのジップフライが目に入って慌てて視線をそらす。思い出してしまった。なんだか顔が熱い。

 私、トレイ先輩のことが好きなのかもしれない。
 でもまだ、ちょっとだけ確信が持てない。

 植物園の中に誘われて、一緒に入る。差し出された手を躊躇することなく掴めば、先輩はどこかホッとしたような顔を見せた。


「ひと気のないところがいいです」
「それならよく知ってる。任せてくれ」


 レンガでできた歩道をしばらく歩いてから横に外れて、木々が茂る中の方へと移動する。大きな葉っぱを押し除けて進むと、太い幹の下に少しだけ休めるような開けたスペースができていた。下は柔らかい芝生のようになっていて、直接座っても問題なさそうだ。


「たまにレオナが寝てるけど、今日は休日だし時間も早い。大丈夫だろ」
「なるほど、それなら人は来ないでしょうね……


 先に座ったトレイ先輩の横にちょこんと座る。手はまだ握ったままだ。
 ふぅ、と先輩が小さく呼吸を整えて、私の名前を呼ぶ。


「本当は、言うつもりはなかったんだ。お前は俺のこと、ただの先輩だと思ってるの分かってたからさ」
……
「でも、さっき話してたようなことが嫌じゃないなら、望みはあるって思っていいか?」


 きゅ、と繋いでいる手を強く握り締められる。先輩の手、いつもよりずっと冷えてる。たぶん緊張してるんだ。トレイ先輩は私よりずっとずっと大人っぽくて、落ち着いていて、色んなことに動じないすごい人だと思ってた。でも、恥ずかしいところを見られたら赤くもなるし、告白するってなったらドキドキもする。今までよりも先輩のことが身近になった気がした。


「好きなんだ。お前のことが」


 先輩の頬はほんのりと赤い。耳は、もっと赤くなっているけど気づいているのだろうか。


「あの、確かめたいことがあります」
「ん? なんだ?」
「私、トレイ先輩のこと考えるとドキドキするようになっちゃったんですけど、これが恋なのか確かめたいんです。だから、キスしてみてくれませんか?」
「えっ……今か!?」
「今です。口にお願いします。キスしたら、この気持ちの正体がはっきりすると思うんです」


 さっきより赤くなったトレイ先輩は、少し目を泳がせてから、改めてこっちを見て「いいのか?」と呟いた。
 こくりと頷く。

 空いていた先輩の手が私の頬を支える。座ったまま身を任せる私の方へと、そっと顔が近づいてくる。こういう時は、目を閉じた方がいい気がする。そう思ってぱちっと瞼を下ろすと、先輩が息を飲んだのが分かった。
 なんとなく熱が近づいてきて、目の前に顔があると確信する。でも、息がかからないから止めているのかもしれない。私も息を止める。心臓の音、先輩に聞こえているかもしれない。自分の手は間違いなく熱い。手汗、すごいことになってる気がする。先輩気づいてるかな。
 そんなことに気をとられた瞬間に、ふに、と唇に温かいものが触れた。少しだけカサついていて、私より厚い。トレイ先輩が、私にキスしている。これ以上早く動かないと思った心臓は、もっとどくどくと血を巡らせて体温を上げてくる。じっと動かずにいると、3秒くらい経って気配が離れた。

 ゆっくりと目を開ける。
 トレイ先輩の甘いマスタードがキラキラと蜂蜜のような輝きで揺らいでいる。
 

……私、先輩のこと好きみたい」
「っ……はぁ〜〜〜〜……よかった……

 
 綺麗だな、と思った眼鏡越しの瞳は下りた瞼に隠された。もうちょっと見ていたかったのに。先輩は思い切り息を吐いて気が抜けたようだ。片膝を立てて腕に顔を埋めていたが、次に目を開けたときにはいつもの様子に戻っていて、もしかしてさっきは不安で涙を溜めていたのかもしれないなと思った。
 だからキラキラして見えたんだ。


「トレイ先輩に触られるとドキドキします」
……そうか」
「私も触っていいですか?」


 先輩の返事を待たずに座ったまま抱きついてみる。胸に頭を預けてみたら、とくん、とくんと心臓の音が聞こえた。私より少しゆっくり動いている気がする。腕を先輩の背中に回したまま、ぐっと体重をかけると私よりずっと大きな身体はころんと草花の生えた柔らかい地面に転がった。胸元に手をついて上に乗ったまま顔をあげると、先輩は穏やかに笑って私を見つめている。もう余裕を取り戻してしまったらしい。
 もっと、先輩の感情が揺さぶられているところが見たい。
 視線を合わせたままこっそりと、トレイ先輩のベルトに手をかける。流石に驚いた様子の先輩は「こら」と呟いて起きあがろうとするが、私が体重をかけているから上手くいかない。片手でベルトを外すことは失敗して、仕方ないからワイシャツをスラックスから引っこ抜いた。お腹側だけ裾が出る。そろりと隙間から手を入れて、皮膚の上を辿るように指を滑らせてみる。ぴく、と先輩の肩が揺れた。


……トレイ先輩」
「どうした……?」
「今度、私にも手伝わせてください」
……何を?」
「私いま、すごくドキドキしてるんです。こんなこと初めて……。恋ってすごくワクワクしますね。もっと、先輩のこと知りたい」


 硬い弾力を返してくる腹筋のラインを辿っていた指を、するすると下げる。この先は、トレイ先輩が一人で触っていた場所だ。スラックスの中、先輩の下着の縁に触れて、その線を辿り腰骨にかりっと爪を立てた。あの時の、切なそうに息を乱す先輩の顔を思い出す。自分のお腹の奥が熱くなった気がした。
 その次の瞬間、ふわっと身体が浮いたような感覚がして視界がグルンと回りだす。
 いつのまにか柔らかい草の上に転がっていたのは私で、目の前には陽の光を背にしたトレイ先輩がいた。
 逆光で少し暗い瞳は、さっきの輝きと違ってギラついているように見える。


「あ、あれ?」
「主導権を譲る気はないんだ。俺に対して、そういう意味で興味を持ってもらえるのは嬉しいよ。ちょっと順序が飛んでるけどな……昨夜見られたせいか……? まぁいいか」
「せんぱい?」
「俺もお前のことをもっと知りたいんだ」
「えっ、ちょっ……


 自分の太ももに手が添えられた感覚がする。視界はトレイ先輩でいっぱいだから、下を見ることができない。膝に近かった手の位置が、少し力を加えられながらするりと上にあがってくる。鼠蹊部を親指が辿った。動きを止めたくて、その腕を掴む。
 ふっと笑った先輩は、顔を私の首元に落としてきた。シャツの襟の少し上に、ちゅ、と軽いキスをする。


「お前が手伝ってくれるなら、俺もお返しに手伝わないとな」
「え……いや、私は一人でそういうこと、しないので……
……へぇ、してみたことないのか?」
「ないですよ! え、男の子だけですよね……?」
「はは、教えがいがありそうだ……


 片眉を下げてにやりと笑う先輩は、自分が悪どい顔をしている自覚はあるのだろか。将来的にえっちするとして、その時には私にも覚悟は必要だろうし、どんなことをするかの知識だって多少はある。でも、一人のときにそういうことをしたいなんて、今まで思ったことはない。トレイ先輩が言う『手伝う』って、えっちとは別なのだろうか。


「清いお付き合いを希望します!」
「おいおい、さっきまでの威勢はどうした?」
「先輩こそ食堂での態度と違いすぎませんか?」
「開き直っただけだよ。一番見られたくなかったところがバレてるんだ。もう隠すものはないし……波には乗っておいた方が上手くことが運ぶと思わないか?」


 にっこりと笑う顔がちょっとうらめしい。
 今の状況、トレイ先輩に囲われているみたいでちょっと……いや、すごくドキドキする。落ち着かない。さっき先輩は主導権を譲る気はないと言っていたけれど、私もあまり譲らない方がいいかもしれない。
 興味本位で近づきすぎると、こっちが食べられてしまう。

 
「好きな子に煽られて我慢していられるほど、大人じゃないんだ」


 嬉しそうなトレイ先輩がなんだか可愛く見える。
 いやいや、この甘いマスタードに騙されないようにしなければならない。
 青は進め。赤は止まれ。黄色は、気をつけて進まないと。
 なんて頭にしっかりメモをしながら、二度目のキスを受け入れた。