botanin5
2024-11-18 21:21:27
42373文字
Public トレ監♀(小説)
 

ハッピー•ハッピー•バレンタイン•ドリーム

チョコを食べて夢から覚めなくなった監の心臓を、先輩がチョコで作り直す話
※「監督生」呼び。
※ ツイステ界にバレンタイン文化が無い設定
※ 魔法の解釈にたくさん捏造あり。
※ 軽いですが戦闘描写あり。

「グリム起きて!もう時間過ぎてる!」
「ふなぁ……?」


 ごしごしと目元を擦るグリムを急かしながら、制服のジャケットに腕を通す。昨夜、エースに勧められたアプリゲームをしながら寝落ちしたようで、しかも充電コードを挿さずにスマホを触っていたため電源が切れていた。真っ暗な画面は当然アラームを鳴らす訳もなく、眠りこけていた私たちを不思議に思ったゴーストの「今日は授業じゃないのかい?」という声を聞いて飛び起きた。
 今から食堂に寄って朝食を食べる時間はない。それどころか、購買に寄る時間もなさそうだ。夜のうちに今日の準備をしておいた自分を褒めながら、未だ眠そうなグリムを小脇に抱えて寮を飛び出した。

 雑木林を抜けて植物園の前を駆け抜ける。魔法薬学室を過ぎれば、いつもだったら登校中の生徒たちの喧騒がほんのりと聞こえてくるのだが、今日は全くひと気がない。焦燥感に駆られて足を早める。誰もいない鏡舎の横を通り、購買を見て一旦腕時計で時間を確認する。やはり朝食を手に入れる時間はない。「腹減った……」と呟くグリムを無視してメインストリートに入る。


「わっ!?」
「おっと……監督生?それに、グリムも」
「どうしたんじゃお主ら。そんなに慌てて」


 勢いよく人にぶつかってしまった。「大丈夫か?」と肩に手を置かれたので見上げると、トレイ先輩が驚いた顔でこちらを見ている。慌てて謝り見回すと、隣にはリリア先輩も一緒にいた。先輩たちは白衣を着ていて、実験用ゴーグルを首元に下げている。手袋はしておらず、ポケットに無造作に突っ込まれていた。登校するときの格好ではないし、カバンも持っていない。そもそも学校とは逆の、私たちが今やってきた方へ向かっているようだった。


「あれ?あの……先輩方のクラス、SHRは終わったんですか?」
「わしらは授業の当番なんじゃ」
「1限の魔法薬学で実験の準備をしないといけないから、先に向かってるんだよ。お前たちこそ、こんな時間にここにいて間に合うのか?」
「やばいんです!急がないと!」


 ぺこりと会釈をして2人の横を抜けた瞬間、私とグリムのお腹がぐぅぅぅと大合唱した。恥ずかしさを誤魔化すために、無言でお腹を押さえたまま校舎へ向かおうとすると、トレイ先輩が「監督生」と声をかけてきた。反射で振り向くと、何かがふよふよとこちらへ緩い放物線を描いて飛んでくる。魔法で飛ばされたらしいそれが何か分からないまま落とさないように両手を伸ばしてキャッチする。小脇に抱えていたグリムがべしゃりと落ちて「なにすんだ子分!」と睨んできた。


「それ、食べていいぞ。朝ごはん食べられなかったんだろ?人にあげる予定じゃなかったからポケットの中で少し崩れたかもしれないけど、味は変わらないから」


 手の中に落ちてきたのは小さめのチョコレートマフィンだった。ふた口程度で食べきれそうで、透明の袋に二個入っている。確かに少し凹んでいたが十分食べられるし、何か胃に入れさえすればSHRの最中にお腹を鳴らすことは避けられそうだ。見たことがある紙の型だから、手作りなのだろう。おやつとして食べるために持っていたのかもしれない。
 顔を上げると、トレイ先輩がこちらに微笑んでいるのが見えた。どき、と心臓が跳ねる。


「い、いいんですか!?」
「もちろん。呼び止めて悪かったな。クルーウェル先生に躾けられないよう急いだほうがいい……。あと10分もないぞ」
「うわやばい!ありがとうございました!」


 マフィンを潰さないよう掴んでぺこりと頭を下げて踵を返し、校舎へと向かう。「なぁそれ早く寄越すんだゾ!オレ様腹減った!」とグリムは不貞腐れた顔をするが、走りながら中身を出して食べる余裕は無い。教室に急いで入って口に放り込むしかないだろう。グリムを宥めながら石造りの長い階段を駆け上がり、ようやく校内へと辿り着く。教室がある廊下に顔を出すと、奥の角を曲がってこちらへ向かってくる白黒のふさふさコートが見えた。


「間に合った……!」


 ヘロヘロになりながら教室の中に入る。私がドアを開けた音で中のクラスメイトたちは先生が来たと思ったらしく、みんな一瞬で水を打ったように静まり返ったが、グリムの「腹減ったーーーー!!」という声に「お前らかよ!」「ギリギリじゃねーか」とツッコミが入り喧騒が戻ってくる。エースとデュースが空けてくれていた席にグリムと二人で滑り込んで、手に持っていたトレイ先輩からのお恵みを開ける。美味しそうな甘い香りに思わずニヤけてしまう。「腹減った腹減ったー!」と繰り返すグリムの口に、チョコレートマフィンをひとつ放り込んだ。もう一つもくれ!と言われないうちに、自分も残りの一つを齧る。
 ……すっごく美味しい!
 トレイ先輩にはよくお菓子をご馳走になっているが、今日のマフィンは特別美味しい気がする。朝食を食べられないまま走った後だから余計にそう感じるのだろう。チョコレートの染み込んだしっとりと重たい生地が舌に乗る。ガナッシュのように密度があって、小さいマフィンのわりに食べ応えがある。


「美味しい……!ゲホッ……
「あ〜もう、走ってきたのにいきなり食うから咽せてんじゃん」
「監督生、大丈夫か?これ、飲んでいいぞ」
「ありがとデュース……


 呆れた様子のエースの奥から、デュースがスポーツドリンクを渡してくれた。朝練用に買ったのだろう、キャップに名前が小さく書かれていた。お菓子に合う味ではないが、喉を潤さないと続きが食べられない。少し変な味わいになってしまうのは残念だが、この後お腹の音が鳴らないように少しでも胃を満たすのが優先だ。とっくに食べ終えたグリムが「足りねーんだゾ……」と呟くと同時に、クルーウェル先生が教室へと入ってくる。先生が教室内を見回す前に、急いで残りのチョコレートマフィンを口へと放り込んだ。






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「う〜ん、トレイ先輩へのお礼……どうしよう」
「はいはい!オレ様このツナ缶がいいと思うんだゾ!」
「それグリムが食べたいだけでしょ」


 トレイ先輩に朝のお礼として渡せるものを探すため、放課後になってから購買へとやってきた。
 本当は昼食に何か奢ろうかと思ったのだが、朝急いで起きた時にスマホをそのまま寮に置いてきており、連絡が取れなかったのだ。サイエンス部の1年生に部活の予定を確認したところ、今日は実験を行うから部員以外の生徒は立ち入り禁止だと聞いて、仕方がないのでハーツラビュル寮で待ち伏せすることにした。部活が終わる前にお礼の品を買っておきたい。
 もしトレイ先輩にお礼について聞いたら、きっとお菓子作りや薔薇の色塗りの手伝いを提案されるだろう。しかし、それらを手伝った後にまたお菓子のご褒美が待っているに違いないのだ。これまで何度か課題でトレイ先輩に助けてもらい、その都度お礼を申し出たのだが、全て最終的に私が先輩のケーキやタルトをご馳走になって終わっていた。これではお礼にならない。だから、今回は物を買って何がなんでもお礼を達成したい。


……チョコレート」


 目についたのは、美味しそうなチョコレートだった。朝貰ったチョコレートマフィン、すごく美味しかったな。
 陳列棚には、1年生のみんなで集まって遊ぶ時によく買う大袋のチョコや、グリムと一緒におやつとしてよく食べる箱に入ったチョコビスケット、板チョコ、チョコのドーナツ、中にナッツが混ざったものや、口溶けやわらかなミルクチョコもある。購買はいつも色んな種類のお菓子が取り揃えてあった。チョコは特に数が多い。


「バレンタイン……渡しちゃおうかな」
「ばれ……なんだ?食いもんか?」
「いや、食べ物じゃないよ」


 首を傾げるグリムに簡単な説明をする。元の世界では冬のこの時期になると、好きな人や恋人にチョコを渡して告白したり愛情を確認したりする習慣があった。近年では渡す相手は友達や家族、お世話になった人など多岐に渡り、恋人たちの日と限定されるわけではなくなってきている。自分へのご褒美として高価なチョコを買う人も多い。私も、元の世界にいた時は友達や部活の先輩、塾の先生などたくさんの人にチョコを配り歩いていた記憶がある。こちらの世界にきてまだ一年も経っておらず、文化もろくに知らない身だが、2月14日を3日後に控えた今日にポップすら出ていないということは、この世界にはバレンタインデーがないのかもしれない。いや、もしかして男子校だからだろうか?
 エースに聞いてみようかな……と迷っていると、グリムがふーんと納得したような顔で腕を組んだ。


「なるほど、おめーはトレイのことが好きなんだな」
「えっ!……いや、待ってよ、違う違う。好きな人だけじゃなくて、お世話になってる人にも渡すものなんだって」


 グリムの言葉に驚いて、じわ、と顔が熱くなる。トレイ先輩は確かに正直ものすごくタイプだが、私には到底手に届かない存在というか、雲の上というか……。あんなに物腰が柔らかくて、分け隔てなく人と関わることができて、勉強を教えるのがうまくて、お菓子も作れて、植物の世話もマメで……。良いところを挙げたらキリがないが、トレイ先輩は好きを通り越して尊敬の位置にいた。私なんかには勿体ない。そう、一歩離れて眺めるくらいがちょうど良い。


「うん、えっと、好きとかじゃなくて……憧れ!そう!お世話になってるから、お礼にチョコを渡したらいいかなーって思っただけ」
「ふーん。それなら、オレ様にもチョコをくれるんだろ?いっつも子分の世話をしてやってるんだからな!とーぜんなんだゾ」
「え、グリムってチョコ食べて平気なの?」
「何言ってんだ?オレ様に食えねーもんなんて無ぇんだゾ。朝も、トレイがくれたちょこまふぃん?ってのを食ったじゃねーか」
「あ、そっか」


 そういえば、今朝は何も考えずにグリムの口へチョコマフィンを放り込んでしまった。犬や猫にはチョコが毒だと聞いたことがあるけれど、グリムはやはりモンスターなので平気らしい。石や草も食べるのだから、チョコくらい簡単に消化してしまえるのだろう。そのうち、コンクリートも食べはじめるのではないだろうか。ちょっと心配である。
 今日はとりあえず板チョコを何枚か買ってトレイ先輩に渡そう。これならお菓子作りに使ってもらえるはずだ。渡すついでにチョコ菓子の好みを聞いて、バレンタインに何か作って日頃をお礼として渡しちゃおう。……好きとかじゃなくて、いつもお世話になっているお礼だ。うん。そう。
 お菓子に使うチョコのカカオの比率がよく分からないため、手当たり次第に見つけた板チョコをカゴに入れ、レジへと持って行く。お会計をしてくれるサムさんの流れるような手捌きを見ながら、別にエースじゃなくても聞けるじゃんと思い至って質問をした。


「バレンタイン……?聞いたことはないが……小鬼ちゃんの故郷にあるイベントなのかい?」
「はい。でも、そっか……。やっぱり無いのかな」
「ぜひ詳しく教えて欲しいね!」


 先ほどグリムに説明したように、サムさんにも簡単にバレンタインについて説明する。やはり知らないイベントのようだが、サムさんは何やら考え込んでしまった。こちらの世界にバレンタインというイベントが無いのならば、よりしがらみ無くチョコレートを渡せる気がする。私だけが本当の意味を知っているというのも、秘め事みたいで楽しいじゃないか。……いや、本当の意味ってなんだ。トレイ先輩は憧れているだけ。そう、それだけ。

 板チョコを何枚も入れた袋を提げて、ハーツラビュル寮の談話室へと潜入する。一度寮へ戻ってスマホを取ってこようかと思ったが、朝の自分の行動を思い出してみると充電器を挿した覚えがない。おそらく今取りに戻ってもスマホは沈黙したままで、少し充電したところですぐ切れてしまうだろう。このまま待っていた方がトレイ先輩に会える可能性が高い。
 グリムが飽きて帰ると言い出さないよう、待っている間に課題を進めることにした。クルーウェル先生から出されている、魔法薬学の問題プリントだ。薬草の種類によって扱う数式が異なり、頭が混乱するからちょっと苦手。でも、直前になって苦しむより今少しでも進めておいたほうがいいだろう。嫌そうなグリムをなんとか言いくるめてペンを走らせる。ええと、この植物の魔力含有量は……この場合に使えるグラム数はこれくらいで……温める時の温度と、お湯の体積は……。あれ、どの数式を使えば良いんだっけ?


「温度によって抽出される魔力量の違いを考慮したか?これだと少し足りなくなるぞ」
「うわぁっ!?……びっくりした、トレイ先輩!」
「はははっ、悪かった。そんなに驚くとは思わなくて」


 突然、横から声をかけられて驚いてペンを落としてしまった。
 顔を上げると、私とグリムが座っているソファの横に立ったトレイ先輩がこちらを見下ろして笑っている。壁にかかった時計を見れば、もうとっくに部活動は終わっている時間になっていた。来た時は静かだった廊下にも人の気配が増えている。


「エースとデュースはまだ帰ってきてないぞ。待ってるんだろ?あいつらが来るまで課題を見てやろうか?」
「あ、いえ。トレイ先輩を待ってました」
「俺を?」
「はい。これ……。今朝のお礼に渡したくて。チョコマフィン美味しかったです。ありがとうございます」
「板チョコじゃないか。朝のは試作品だったから、気にしなくてよかったのに」


 立ち上がってお礼と共に板チョコがたくさん入った袋を渡す。トレイ先輩は、少し驚いた顔をした後、照れたような苦笑いをした。「けっこう色んな種類があるな」と中をゴソゴソ漁る様子は楽しそうで、迷惑ではなかったようだとホッとする。


「これだけあるなら、今から生チョコでも作ろうかな。完成したら、みんなで食べながら勉強会でもしないか?」
「いいんですか!?」
「冷やしている間に学食で夕飯を食べたらいいし……課題に詰まってるんだろ?」
「そうなんです、この範囲苦手で……。ありがとうございます!」


 思いがけない提案に思わず笑みがこぼれる。お礼をしたばかりなのに、結局また助けてもらうことになってしまった。それじゃあ作ってくるよと言って談話室を出ようとしたトレイ先輩に、手伝いを申し出る。勉強をサボる口実を見つけたグリムも喜んで後ろからついてきた。彼の場合はつまみ食いが目的だろう。
 ハーツラビュル寮のキッチンはいつ来ても内装が可愛い。天井から吊り下げられたお鍋やティーケトル、グネグネと曲がる不思議な食器棚。ぐるりと視線を巡らせると、目を回しそうになる。るんるんと音符が見えそうなくらい浮かれたグリムが椅子に座ると、トレイ先輩は部屋の真ん中にある白い作業台の下からまな板と包丁、ボウル、使い捨ての手袋を二人分取り出して、自分と私の前に置いた。グリムの手伝いは期待していないらしい。
 どうせなら寮生みんなが食べられる量を、ということで、冷蔵庫にあった板チョコも足して細かく刻んでいく。私が一枚をやっと刻み終わる頃に、隣のトレイ先輩は二枚終わっている。しかも、私より細かい。その速さと技術の差に若干凹みながら、そういえば先輩の好きなチョコのお菓子が何か聞こうとしていたのを思い出した。


「トレイ先輩って、チョコを使ったお菓子だと何が一番好きですか?」
「ん?そうだな……どんなものでも大抵好きだよ。今作ってる生チョコも、舌触りが滑らかで美味しいよな。トリュフもチョコが詰まっていて食べごたえがある。フォンダンショコラは、切ったときに中のチョコレートが上手く出てきてくれると嬉しいし……あとは、ブラウニーやクッキーも好きだぞ。そういえば、今度チョコのゼリーに挑戦してみようかと思ってるんだ。この前の休日にリドルとチェーニャと一緒に麓のカフェに行ったんだが、その時食べて美味しかったから自分でも作ってみたくなってさ」


 次々と挙げられるお菓子の名前に目眩がしそうだ。分かってはいたけれど、トレイ先輩はおそらくチョコレートのお菓子をほとんど食べたことがある。私が何を作っても意外性が無いかもしれない。……自信が無くなってきてしまった。どんなクオリティだとしても、頑張ったなと褒めてくれるだろうという予想はできている。しかし、どうせならびっくりして欲しいし、心から喜んで欲しい。トレイ先輩が、照れて笑ってくれるところが見たい。
 そんなことを考えて、だんだん顔が熱くなってきた。何を考えているんだ自分は。トレイ先輩は、憧れの先輩で、恋の相手じゃない。バレンタインに渡すチョコは、いつもお世話になっているお礼。それだけだろう。

 ぐるぐると考えていたせいで、手が止まっていたらしい。突然、頬に少し温かい手が触れて、驚いて隣を見る。手袋を外したトレイ先輩の指が私に触れていた。


「体調でも悪いのか?熱はなさそうだが」
「あ……いや、大丈夫です。ちょっとぼーっとしちゃって」
「本当に?」


 不意にトレイ先輩の顔が近づいてくる。天井のシャンデリアから漏れた光が遮られて、視界いっぱいが先輩の顔になって思わず目を瞑る。私の前髪を、大きな手が避けていったのが分かった。コツンとおでこに何か当たる。すぐ目の前に、大きな温かい気配を感じる。


「うん。熱くはないな」


 声の近さに驚いて、目を開いて勢いよく後退りする。思わず自分のおでこを手で覆って、目の前でにっと意地悪な笑みを浮かべるトレイ先輩を睨む。


「な、なん……!いつもそうやって熱測ってるんですか!?」
……くっ……ははは!いや、悪い。正直おでこはかなり熱が高い時しか判断できないな。昔、妹が高熱を出した時にやってみたらよく分かったんだが……
「なんで今!?私は妹さんじゃないんですけど!」
「分かってるよ。集中してないみたいだったから、ちょっと揶揄った。怒らないでくれ」


 はは、と楽しそうに笑うトレイ先輩に力が抜ける。絶対分かってない。私のことを妹みたいに思ってるから、気軽にこんなことができるんだろう。顔が熱い。むしろ、先輩のせいで熱が出てしまった気がする。ああもう、悔しい。どきどきといつもの何倍も早く動く心臓を、服の上からぎゅっと押さえる。ずるい。
 パタパタと手で顔を扇ぐ私をちらっと見て、小さく笑ったトレイ先輩が生クリームを取り出して鍋に入れる。作業の続きを再開するらしい。それを見て、私は刻まれたチョコレートをそれぞれのボウルへと移すことにした。一度大きく深呼吸して、気持ちを落ち着ける。作業台の向かいを見ると、グリムがいつのまにか余った板チョコを開けて齧り付いていた。

 沸騰直前の生クリームを、先輩がチョコの入ったボウルへと注ぐ。泡立て器を使って、溶けかけた塊を潰すようになめらかなクリームを目指してひたすら混ぜる。オーブンシートが敷かれた大きなバットにチョコレートを流し込み、平らにしたものから冷凍庫へと入れていく。かなりの量ができたが、ハーツラビュル寮生みんなで食べたら一瞬だろう。

 道具を全て片付けると、トレイ先輩は「手伝ってくれてありがとな」と私の頭を撫でてくれた。再び、じわじわと顔に熱が集まる。優しい笑顔を向けられて、もう自分に嘘をつくことができなくなってしまった。認めたくなかったけど、これは憧れじゃない。尊敬しているなんて、都合のいい解釈だった。

 私は、トレイ先輩が好きだ。





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 結局、何を渡すのか決めることができないまま次の日になってしまった。あの後エースやデュースも合流してみんなで夕食を取り、夜の勉強会は通りがかったリドル先輩が主導することになった。トレイ先輩は作った生チョコを寮生へと配りに行ってしまい、ほとんど話すことができずに終わってしまった。

 今日は寝坊することもなく、余裕を持った朝を迎えることができた。なんてことない1日を終えて、放課後になった今は再び購買へと向かっている。バレンタインまであと2日。どんなものを渡しても意外性がないのなら、逆に何を渡しても大丈夫なのではないだろうかと思い直した。私の製菓技術が未熟なことはとっくに知られているし、味が絶品じゃなくても見た目が綺麗じゃなくても、感謝の気持ちが伝われば十分なのだ。昨夜のうちに、手当たり次第にレシピを検索して自分でもできそうなお菓子をいくつか見繕っておいた。スマホのメモを見ながらグリムと一緒にメインストリートを歩いていると、突然ポスッと何かにぶつかってしまった。


「おっと、なんだ?」
「わっ!トレイ先輩!すみません、前を見てなくて……またぶつかっちゃった」


 トレイ先輩が前を歩いていたようで、背中に突撃してしまった。「スマホを見ながら歩くと危ないぞ」と苦笑いされてしまい、恥ずかしさと情けなさで居た堪れない気持ちになる。ケイト先輩もよくスマホを見ながら歩いているところを見かけるのだが、彼は人や物にぶつかっているところを見たことがない。やはり慣れなのだろうか。
 こちらを振り向いているトレイ先輩は、すぐに立ち去る様子はない。このまま私たちと話をしてくれそうな雰囲気に、嬉しくなってしまう。


「トレイ先輩、今日は部活無いんですか?」
「あぁ。時間があるから、何か新しいお菓子のトッピングが出ていないか購買へ見に行こうと思って」
「私も購買に行くところです!」
「お、それじゃあ一緒に行くか」


「新しく何か作るんなら、オレ様にも食わせるんだゾ!」とウキウキしているグリムを見てトレイ先輩が笑う。行き先が一緒だったことが嬉しくてつい付いてきてしまったが、今日は先輩に渡すチョコを作る練習用の材料を買いに行くんだったと思い出した。私が板チョコや型、バター、小麦粉などを買っていたのでは、お菓子作りの材料だとすぐ見抜かれてしまいそうだ。どうして急に作る気になったのか興味を持たれてしまっては困る。どうしよう、浮かれすぎて失敗したなぁ。
 トレイ先輩が好きだと自覚はしたけれど、気持ちを伝えるつもりは特にない。頭をよく撫でられたり、勉強を教わったり、昨日のおでこで熱を測られた時の言葉で確信したが、妹さんと私は扱いが同じなのだ。フラれたら今までのように構ってもらえなくなる気がする。

 悶々としながら先輩とグリムと共に購買へ入ると、中は思ったより生徒で溢れている。不思議そうなトレイ先輩と一緒に顔を見合わせて店内をぐるりと回ってみると、昨日までは無かったキラキラと派手なポップがついた棚がある。何だろうかと近づいてみると、店内にいた生徒たちがにわかにどよめく気配がする。もしかして、みんなこの棚に用があるのだろうか?しかし、誰も近くに来ない。なんの様子を伺っているのだろう。疑問に思いながらも、装飾された棚に近付いて貼られているポップの文字を読む。


『2/14はHappy Valentine!大好きなあの子に思いが届く魔法のチョコレート』


「えっ!?」
「ハッピーバレンタイン……?聞いたことがないな。どこかの国の記念日か?」
「オレ様知ってるんだゾ!こぶ……んむーー!!」


 不思議そうな顔でポップの文字を読んだトレイ先輩を見て、得意げに説明しようとしたグリムの口を急いで塞ぐ。じわじわと冷や汗をかきながら視界を巡らせて近くの棚で品出しをしていたサムさんを見ると、パチンとウインクを返された。グリムの口を押さえて抱っこしたままサムさんの元へとダッシュし、小声で問い詰める。


「ちょっと、どういうことですかサムさん!バレンタインはこの世界じゃ聞いたことないって言ってたじゃないですか!」
「Hey!小鬼ちゃん。昨日の話を聞いてチョコレートのプチフェアを思いついたのさ!思春期の彼らは大なり小なり恋の悩みを抱えているはず……好きな相手へのちょっとしたアピールに、魔法のかかった愛のチョコレートをプレゼント!今朝ポップを貼り出したんだが、なかなか盛況だ。みんな表立って買うのが恥ずかしいようだけれど、人目を盗んでは何個もチョコレートを買っていってくれてるよ!」


 なるほど。店内に生徒がたくさんいるのに、バレンタインの棚にはほとんど人が近寄って来ないのはそういうことか。チョコレートを買う瞬間を誰かに見られたら揶揄われるのは必至である。ちらちらと周りを見まわし、人の視線が無くなったところでサッと商品を取りレジで会計をしているらしい。買った商品は外から見えない色のついた袋に入れられている徹底ぶりである。あるいは、逆に彼女持ちの生徒は堂々と「あいつ、こういうの好きだったな〜」なんて周りに聞こえるように、これ見よがしに棚からチョコレートを選び取っているようだ。いつでもマウントを取ることを忘れない、さすがはナイトレイブンカレッジ生である。

 グリムをツナ缶の棚へと誘導してトレイ先輩の元へと戻る。先輩は興味津々といった様子でポップの横に書かれた説明を読み込んでいた。私が隣に立つと、読んでいた内容を簡潔に教えてくれる。


「どこの国が発祥かは書かれていないけど、2月14日に好きな人や恋人にチョコレートを渡す文化があるそうだ。これ、普通のチョコもあるけど、おまじない程度の魔法がかけられているチョコもあるらしいぞ。少し心拍や体温が上がったり、いい夢を見られたりするみたいだ」
「へ、へぇ〜すごいですね」
「チョコが使われていればどんなお菓子でもいいのか……。試しにいくつか買ってみるかな」
「えっ」


 少し楽しそうにチョコを選び始めたトレイ先輩に驚いて、素っ頓狂な声をあげてしまった。


「あの、トレイ先輩……チョコを渡したい人がいるんですか……?」
「ん?いや、自分で試しに食べる用にと思ったんだが……そうだな、渡してみてもいいかもな」


 ふっと優しく笑ってそう言ったトレイ先輩の顔が、真っ直ぐ見られない。どこの誰に渡すんですか。地元に彼女がいるんですか。聞いてみたいけれど、恋人の存在がはっきりしてしまえば私の恋が終わってしまう。元より発展させる気はなかったが。
 バレンタインデーの存在が知られてしまったので、日頃の感謝を込めてチョコレートを渡す計画が実行できなくなってしまった。先輩にとってはただのお礼だが、私の心の中ではバレンタインのチョコレート……一人でそうやって満喫しようと思っていたのに、このタイミングでチョコを渡したら完全に意味が伝わってしまう。ポップに書かれた説明を読んでみたが、家族や友達、お世話になった人にも渡すといった注釈はついていなかった。サムさんには説明したはずだが、ナイトレイブンカレッジ生は日頃の感謝として見返りなく誰かにプレゼントする人が少ないと考えて省いたのだろう。もしホワイトデーの説明もしていたら、お返し目当てにチョコを配り歩く人が出ていたかもしれない。ラギー先輩とか。

 トレイ先輩は、魔法がかかっていない普通の板チョコ数枚と、おまじない魔法がかけられたチョコをいくつか買うようだった。半ば諦めの気持ちで、目の前の棚を眺める。昨日、トレイ先輩のお礼を買う時に見たチョコ菓子と同じものがいくつも並んでいる。それらは棚を移動させただけらしい。一方で、可愛らしいラッピングがされたチョコレートもいくつか増えている。こちらはおまじない程度の魔法がかけられたもののようだ。色とりどりの箱や缶の中は、トリュフやガナッシュ、チョコ味のマカロンもある。ポップがなければ、トレイ先輩にバレンタインの存在が伝わらなければ、これらを買ってプレゼントしても良かったのかもしれない。私が手作りするよりずっと美味しそうだ。
 少し下の段には、チョコエッグやアニマルチョコなどネタ要素のある商品が置かれていた。しゃがんでまじまじと観察してみる。動物をかたどったチョコレートは結構クオリティが高い。ライオンにウサギ、カメ、パンダにワニ……ラインナップも多くて楽しい気分になってきた。せっかくなのだから、どれかを自分用に買っていこう。それぞれ動物によってかけられた魔法の効果が異なるようだ。ウサギにチョコは食べると気分が上がり、ワニのチョコは一定時間だけ顎が強くなるらしい。バレンタイン専用のチョコという訳じゃないから、遊ぶために食べるような効果も多い。どれにしようかと眺めているとき目に入ったのは、バクの形をしたチョコだった。


「食べると、良い夢が見られる……


 箱の裏に書いてあった説明文に心惹かれる。今は少し気分が落ち込んでしまっているし、夢くらいはいい気分になりたい。ツナ缶の棚から戻ってきたグリムと一緒に会計を済ませると、すでに買い物を終えたトレイ先輩が待っていてくれて「これで今からチョコレートパーティーしないか?」と袋を掲げる。


「昨日食べたばかりだから、もしかして飽きてたりするか?」
「いえ!大丈夫です。でも、先輩が買ったチョコなのに……いいんですか?」
「どうせ俺一人じゃ食べきれないし、一緒に食べてくれたら助かるよ」


 日持ちするチョコもあるのに、一緒に食べようと誘ってくれたことが嬉しかった。喜んで申し出を受けてハーツラビュル寮の談話室へと移動する。キッチンから紅茶を持ってきてくれた先輩がカップへと注いでくれているうちに、食べてもいいと言われたチョコのパッケージを次々と開ける。テーブルの上はあっという間にチョコレートだらけになった。


「あ!これナッツが入ってて美味しいです」
「こっちは少しスパイスが効いてるな……ほら」
「う……これちょっと苦手かもです」
「なるほど。こっちはどうだ?」


 次々と私の前にチョコレートが差し出される。グリムもすごいスピードで食べているから、私が食べ損ねないように気を使って分けてくれているのだろう。その中の一つに、すごく舌触りが柔らかなミルクチョコレートがあった。「これ、すっごく美味しいです!」と高揚した気分でもう一つ手に取ると、トレイ先輩も同じチョコを口に入れた。


「結構甘いな。こういうのが好きなのか?」
「そうですね……これ、そのまま食べ続けるにはちょっと甘すぎますけど……。パンに乗せたら丁度良さそうじゃないですか?溶かしてホットケーキにかけても良いかも」
「ああ、なるほど。ホットミルクに溶かしても良さそうだ」


 トレイ先輩がチョコをもう一つ口に運ぶのをこっそりと眺める。厚みのある唇にチョコがそっと触れて、指が離れていく。良いなぁ。チョコレートになって、トレイ先輩にぱくっと食べられて消えてしまいたい。そうすれば、こんなやるせない思いをしなくても済むのに。
 ソファの隅、グリムからは死角になる場所に袋に残された板チョコが数枚あることに気がついた。これはきっとバレンタイン用の材料なのだろう。思わず呪いをかけたくなってしまう。そのチョコで作られたお菓子を食べる人が羨ましい。


「トレイ先輩、そこの板チョコはバレンタイン用ですか?」
「ん?ああ、そのつもりで買ってみたんだ」
「彼女……に、あげるんですか?」
「ははは、まさか。彼女なんていないよ。片想い中だ」
「かっ……そうですか……


 余計なことを聞いてしまった。知りたかったけど、知りたくなかった。美味しかった目の前のチョコレートが全て色褪せて見える。甘かったはずのミルクチョコも、少し冷めたフルーツティーも、どんな味だったか分からなくなってしまった。


「手作りを送るんですか?」
「ああ、作って送るとなると、宅配に出しても形が崩れないようにしないとな。要冷蔵で梱包するつもりだけど……念の為、溶けないように魔法もかけておくか」
……そうですね」
「そういえばどこの国の文化なのかはポップに書かれていなかったな……。贈り方にも何かルールがあるかもしれないし、後で調べてみるか」


 この世界では手作りの食べ物も気軽に宅配できるらしい。たしかに、魔法が使えるのだから運送事故は少ないだろうし、本体に魔法をかけておけば配送途中で溶けるようなミスも起こらないのだろう。やはり、薔薇の王国にいる人へ送るのだろうか。サムさんがポップに家族や友人にも送ることを書いていなかったことで、トレイ先輩の手作りチョコレートの送り先が実家である可能性は消えている。ますます気持ちが沈んでしまった。好きだと自覚してから失恋するまで、たったの1日は早すぎる。もやもやで胃が重たい。ちょっと泣きそう。


 残ったチョコレートを全てグリムが平らげて、三人だけの小さなチョコレートパーティーはお開きとなった。
 オンボロ寮へ戻ってきて、談話室のソファへと倒れ込む。あーあ、トレイ先輩にチョコを渡したかった。別に、渡そうと思えば渡せるのだが、すでに結果が分かっているのに玉砕する勇気はない。本当ならただお礼と称してチョコを贈るだけだったのに、今はもう、贈れば失恋を言い渡されてしまう状況なのだ。
 夕食もお風呂も終えて、勉強する気も起こらずさっさとベッドへ入り込む。グリムはもう少し見たいテレビがあるそうで、一緒には来てくれなかった。寂しい。ふと、そういえば自分用にバクのチョコレートを買ったことを思い出した。机の上に無造作に置いていたカバンを漁り、手のひらサイズの箱を取り出す。グリムが部屋に居ない今のうちに、こっそり食べてしまおう。

 箱を開けると、優しい甘い香りがする。箱の裏の説明を読み直すと、どうやら食べてから眠ると良い夢が見られるようになっているらしい。チョコを包む薄い銀紙にはバクの模様に合わせて色がついており、本来黒い部分はパスカルピンクでポップな配色になっていた。爪で端を探してペリペリと捲ると、形はバクそのままの茶色いチョコレートが顔を出す。どこから食べようか一瞬迷って、頭からカプリと食いついた。外側と中のチョコレートの種類が違うようで、中の方がすこし柔らかく、ドライフルーツが入っていて美味しい。
 卵ほどのサイズをやっと食べ終わると喉が渇いてしまって、こっそりキッチンへと入って牛乳を飲んだ。ついでに歯磨きも済ませて、ベッドへ戻る。

 食べる前より少し身体が温かい気がする。そういう魔法もかかっていたのか、もしかしたら少しお酒が入っていたのかもしれない。毛布に包まっているうちに、だんだん眠くなってきた。気分もそんなに悪くない。これなら、本当にいい夢を見られるかもしれない。どんな夢を見ることができるのだろう。楽しみだ。






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 コンコン、と鳥が窓ガラスをノックする音にパチリと目が醒める。
 何か長い夢を見ていたような気がするが、頭がぼんやりとして思い出せない。隣で未だ眠りこけているグリムを揺り起こしながら、スマホを確認する。マジカメの新着は、購買の入荷情報とモストロ•ラウンジの新メニューのお知らせだ。よくつるんでいる1年生のグループチャットはエースが寝る前に送ったらしい変な動画で終わっていて、個人チャットはトレイ先輩から送られている一件だけだった。いつもと変わりのない挨拶を読んでにやけてしまう。トレイ先輩には部活で扱っている植物の水やりという日課があるそうで、毎朝私より早く起きている。恒例となった挨拶の返信を打ち終えると、顔を洗って着替えを済ませる。朝食は、先輩と一緒に学食で取る約束になっていた。
 グリム起こすために部屋に戻ると、もうとっくに目を覚ましており「早く学校に行くんだゾ!」とカバンを私のところへ引きずってきた。いつもは揺らしても大声を出してもなかなか起きないのに、こんなにスムーズに準備をしてくれるなんて今日は良い日だ。
 コンコンとドアノッカーの音が寮に響く。グリムからカバンを受け取って、廊下にある鏡で前髪を少し確認してから急いで玄関の扉を開けた。


「おはようございます。トレイ先輩」
『おはよう。はは、ちゃんと鏡を見たか?後ろ跳ねてるぞ』
「えっあれ?直せてなかったかな」


 先輩が笑いながら私の後頭部を撫でる。鏡で前髪に注目しすぎて、後ろが跳ねていることに気が付かなかったらしい。トレイ先輩の大きな手が、髪を梳いて直してくれる。その温かさと距離の近さにドキドキとしながらじっと立っていると、先輩は少し屈んで私のおでこにちゅ、と軽いキスを落とした。にやけそうだ。揶揄われるから我慢しないと。


『さて、それじゃあ朝食へ向かおうか』
「へへ……はい!」


 優しく笑って伸ばされた手に自分の手を乗せる。そのまま自然と指が絡まり、恋人繋ぎで校舎への道を歩き始めた。






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「監督生の目が覚めない!?……本当か?」
「いいから早く来るんだゾ、デュース!!」
「わっ、待てグリム。先生か先輩にも声をかけた方がいいんじゃないか!?」


 朝練のために少し早く寮を出ていたデュースが、半泣きのグリムに遭遇したのはメインストリートだった。丁度いつものコースを走り終えて、ハートの女王の石像の足元に置いていたスポーツドリンクを一口飲んだ時、目に涙を溜めたグリムが全力でお腹に向かってぶつかってきたのだ。ふにゃふにゃと要領を得ない話を辛抱強く聞いてみれば、朝、スマホのアラームが鳴り止まないことを不思議に思って目が覚めたららしい。いつもだったら、監督生が先にアラームを止めて準備をし、寝ているグリムに声をかけて揺り起こしてくれる。だというのに、今朝はアラームが一向に止まらず「うるせーんだゾ!」と飛び起きれば隣で熟睡する監督生がいた。珍しいなと思いながらも、自分ではアラームの止め方が分からないため、このうるさく耳に響く音を早く消してもらわないと困ると思って「おい!起きろ子分!」と何度も何度もペシペシを顔を肉球ではたいてみた。しかし、監督生は全く目を覚さなかったのだという。
 話を聞いたデュースの背筋に冷たいものが走る。監督生は生きているのか?


「息はしてるのか!?」
「ゴーストの奴らが『生きてはいるみたいだねぇ』って言ってたんだゾ」
「よかった……。とにかく、僕が今一人で行ったところですぐには助けられない。誰か先生を呼んでくるから、グリムは戻って監督生の側にいてくれ!」
「わ、分かった!」


 校内へ走ったデュースが、中庭でりんごの木に話しかけていた学園長を見つけて事情を話し、途中で遭遇したクルーウェルも巻き込んで一緒にオンボロ寮へ入ると、エースもやって来ていた。寮に一人で戻るのが心細かったグリムが、登校を始めていた生徒たちに混ざって歩いていたエースを引っ張ってきたらしい。
 ベッドで眠っている監督生は、顔色も良く本当にただ眠っているだけに見えた。今にも目を覚まして「おはよう、みんな」なんて笑いかけてくるんじゃないか、そんな風に思わせるほど穏やかな眠りだ。


「どうやらこれが原因のようだ」


 クルーウェルが部屋の隅に置かれたゴミ箱から空き箱を見つけてきた。シャイニーパープルの厚紙でできた箱で、ポップな動物のイラストと白いラインで囲まれたパステルピンクの丸いフォントで商品名が書かれている。箱が手の上で転がされるたびに、ほんのりとチョコレートの甘い香りが部屋を漂う。「なんすか?それ」と尋ねたエースにちらりと視線を送ったクルーウェルが箱の説明文を確認する。それを見た学園長も、隣へ近寄って彼の手元を覗き込んだ。


「ふむ……『食べると良い夢を見ることができる』ですか。チョコレートが入っていたようですねぇ」
「魔法の痕跡があるな……。購買のショッパーもゴミ箱にあった。学園長、サムに確認をとってきます」


 端的に言葉を交わして、クルーウェルは箱を持ったままドアを開けて部屋を出ていった。会話の流れの通りならば、購買へと向かったのだろう。部屋のカーテンが開けられた窓から朝の光が降り注いでいる。眩しいとすら思うその光に当たっても監督生は眠ったままで、グリムはベッドの上に登ってじっと穏やかな寝顔を見つめている。その横で、何の説明もなかったことに苛立ったエースが学園長へと詰め寄り、にわかに部屋が騒がしくなる。


「どーいうことなんすか学園長!なんで監督生は起きねーの?さっきからほっぺつねってもデコピンしても、ぴくりとも反応しねー。身体は温かいし呼吸もしてるけど、これ大丈夫なわけ?」
「そうです説明してください、学園長!僕たち監督生が心配なんです!」


 二人の生徒からぐいぐいと壁に追いやられた学園長は、両手を上げながら「皆さん落ち着いてください」と仕切り直しを提案する。とはいえ、彼も具体的な説明ができるほど事態を把握できているわけではなかった。先ほどの空き箱に書かれていた内容だけで推察するならば、監督生は『食べると良い夢見ることができる魔法』がかけられたチョコレートを食べて眠ってしまっているのだろう。夢の中に入り込みすぎて、戻ってこられなくなっていると考える他ない。


「グリムくん。監督生くんはさっきの箱に入っていたチョコレートを自分で買っていたんですか?」
「オレ様そんなの知らねーんだゾ。……チョコ……そうだ!昨日、トレイと子分と一緒にサムのとこで買ったチョコをいっぱい食ったんだ。その時にオレ様に内緒で貰ってたのかもしれねー!」
「クローバー先輩と?……そういえば部活が終わって談話室の前を通ったとき、ほんのりチョコレートの香りがしたな」
「トレイ先輩にも話聞いた方がいいんじゃね?電話かけてみるわ」


 エースがスマホを耳に当ててコール音を聞いて数秒、一向に出る気配がなく一旦電話を切る。画面に映った時間を見て「あ、もう1限始まってるわ。トレイ先輩、授業中にスマホ触るタイプじゃないし気づかないかも」と眉を寄せた。事態の把握もできず、監督生の身の危険がどれだけ切迫しているのかも分からない状況で、授業が終わるまでトレイを待つ余裕はなかった。監督生が、もう目を覚さなかったら………。グリムとメインストリートで遭遇した時に感じた不安が再びデュースの心を曇らせる。こんなところで突っ立ったまま待つなんてできない。ぎゅっと拳を握りしめたデュースは「僕が行って呼んでくる」と勢いよく部屋を飛び出した。






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『これなんかどうだ?』
「わぁ、いいですね……可愛いです。さっき保留にしたのと、どっちにしましょうか」
『お前が気に入った方でいいぞ』


 休日である今日は、トレイ先輩と一緒に麓の街へ下りてきていた。私の誕生日が近いからプレゼントを一緒に買いに来たのだ。何が欲しいかと聞かれて、トレイ先輩とお揃いの帽子が欲しいとお願いした。全く同じでなくてもいいから、デザインがお揃いのものが欲しい。そう伝えたとき、先輩は照れくさそうに笑って頬を掻いた。

 手を繋いだまま、制服で街中を歩いてお店を探す。狭い島の中の街だというのに、通る道の両側は全て帽子屋さんだった。賢者の島にこんなにたくさん帽子の専門店があるなんて知らなかった。入る店全てに素敵な帽子が置かれていて、結局どれにするか決まらないまま街中を二人で歩く。温かい手、見上げるとこちらに合わせて落としてくれる視線。トレイ先輩と一緒にいるだけで、移動の時間すら楽しくて愛おしい。

 しばらく歩いてちょっとお腹が空いてきたな……と思ったとき、丁度行き止まりになって正面にカフェが見えてきた。ちら、とトレイ先輩を見上げると、こちらを見て『ここで何か食べようか』と微笑む。「はい!」と元気よく返事をすると、先輩はカフェのドアを開いた。建物の中に入ったはずなのに、一歩中へ足を踏み入れたそこはハーツラビュル寮の庭にそっくりなテラスだった。
 周りを囲む薔薇の木々には赤白黒のガーランドが吊られていて、テーブルクロスは輝く白、そして赤いクッションの椅子はふかふかだ。テーブルの上で重ねられたティーカップの横には、でっぷりとお腹を太らせたようなティーポットも並んでいる。
 私はいつの間にか椅子のひとつに座っていて、庭の奥からは寮服を着たトレイ先輩が紅茶とタルトを運んできてくれていた。ああそうだ、私はなんでもない日のパーティーに誘われて来ていたんだっけ。二人だけでこっそり開く、秘密のパーティーだ。
先輩は『お待たせ』と微笑んで、キラキラとナパージュが輝くイチゴのタルトを私の前にコトリと置く。続いてティーカップに良い香りの紅茶が注がれ、ほっと落ち着いた気分になる。向かい側に座ったトレイ先輩が、頬杖をついて私を眺めながら『どうぞ、召し上がれ』と笑った。その視線がとっても甘くて、じわじわと顔が熱くなり思わず下を向く。代わりに目に入ったイチゴのタルト。トレイ先輩の期待の眼差しを浴びながら、そっと、キラキラ輝くイチゴの隙間にフォークを差し込んだ。





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「失礼します!」と大きな声で教室へと入ったデュースは、驚いて固まっている教師とどよめく生徒を気にも止めず、きょろきょろと視線を巡らせた。そして、トレイと目が合うと「クローバー先輩!緊急事態なんです!今すぐ僕と一緒に来てください!」と叫んで、勢いよく彼の先輩が座る席へ向かおうとした。数秒早く意識を取り戻した教師がデュースを引き留め事情を尋ねる。聞かれたデュースはスマホを渡し、受け取った教師は電話で数秒話をしてから「クローバーくん、行ってきなさい」と指示を出した。教室内が少し騒めく。トレイは突然の指名に不安を抱きながらもデュースと共に教室を出た。
 スムーズにトレイを連れ出すことに成功したデュースは、内心こっそりとエースの機転に関心していた。デュースがオンボロ寮を飛び出そうとしたとき、エースが「ややこしくなるから学園長とすぐ話せる状態にしておこうぜ」と二人のスマホを通話中にしておくことを提案していたのだ。おかげで教師に学園長から説明してもらうことができた。おそらく、自分が説明することになっていたら不審に思われて、教室から追い出されていただろう。ほっとしながらトレイを引っ張ってオンボロ寮へ戻る道を走る。

 連れ出されたトレイはというと、デュースを追って走りながら事態の把握をしようと頭を働かせていた。リドルになにかあった……というわけでは無さそうだ。寮生のトラブルでも、部活で何かが起こったわけでもないだろう。先ほど電話で教師が納得していた様子から見ても、デュースが個人的な理由で自分を連れ出したわけでも無いように思われる。


「なぁデュース。一体何があったんだ?」
「監督生が目を覚さないんです!」
……えっ」


 思いがけない人物の話が飛び出て、トレイの呼吸は一瞬止まった。目を覚さないとはどういうことだろうか。疑問が明確な不安に変わって、心なしか鼓動が速くなる。昨日、自分が誘って一緒にチョコレートを食べたばかりだ。その時の可愛らしい笑顔を思い出しながら校舎を出て石の階段を駆け下り、いつもより長く感じるメインストリートを焦ったく感じながら走った。オンボロ寮へ向かうために左へ曲がると、丁度、購買から出てくるクルーウェルと合流した。担任の姿を見て少しホッとしたデュースとは裏腹に、トレイは魔法薬学のスペシャリストであるクルーウェルが対応しなければならないような、大変な事が起こっているのかと更に不安を募らせた。

 三人が監督生の部屋をノックすると、焦れた様子のエースが急いで扉を開けた。部屋の中は、デュースが飛び出した時となんら変わりない。穏やかな眠りを続ける監督生を見たトレイは、しばし固まった後そっと近づいて指先で頬に触れた。そこから伝わるほんのりとした温かさに少し肩の力が緩む。声をかけてみようかと思ったところで、すぐに学園長に呼ばれて空き箱を見せられる。


「クローバーくん、この箱に見覚えは?」
「チョコレートの香りがするな……購買の棚に並んでいた記憶はあります。監督生はそれを食べて眠ってしまったんですか?」
「おそらくそうでしょう。昨日、グリムくんと監督生くん、そしてクローバーくんの三人でチョコレートを大量に食べたと聞いたのですが……
「確かに、昨日は三人で購買へ行って、ポップが作られていた棚のチョコレートをいくつか購入して食べました。でも、俺は動物のチョコは買っていない……。分けて食べられるものばかり選んだはずです。必要なら、寮からレシートを取ってきますよ」
「いえ、そこまで記憶しているなら間違いないでしょう。……そうなると、監督生くんは自分でこのチョコレートを購入したことになる。クルーウェル先生、そちらはいかがでしたか?」
「はい。サムも、監督生が自分でこのチョコレートを購入していたと証言しました。同じ棚にあった動物のチョコレートを調べたら、バクのチョコだけはメーカー名が異なることが分かりました。チョコに込められた魔法の強さに偏りがあり、政府の食品管理を担当している省庁から注意喚起がなされている物です。製作者が不明で専門業者によって回収が行われているそうですが、場所を問わずいつのまにか商品の陳列棚に紛れ込んでいるらしく……目眩しの魔法が使われているのかもしれません。サムも注意喚起されていることは知っていましたが、俺が箱を持ち込むまで全く気が付かなかったそうです」
「そうでしたか……


 ふむ、と顎に手を添えた学園長が次の手について思案していると、クルーウェルはポケットから魔法薬を取り出した。人差し指程度の長さの細長い瓶に、少し粘度の高い濃い紫色の液体が入っている。どろりとした気味の悪いそれを見たエースが、うげ、という顔をして口を開く。


「それ……もしかして今から監督生に飲ませるんすか?」
「いや、これは今から夢の中に入る者に飲んでもらう」
「夢の中に……?」
「入る……?」


 クルーウェルの言葉を繰り返したのは、デュースとグリムだった。夢の中に入るとは、一体どういうことだろうか。その場にいた生徒の全員が首を傾げる。「授業では扱わない魔法だからな」と呟いたクルーウェルが、手の中の魔法薬について解説を始めた。
 魔法薬は先ほどの言葉通り『眠っている者の夢に入り込む』ために使われる。つい先ほどクルーウェルが購買へ行ったときに、店内で材料を集めて急いで調合したものだった。魔法薬自体は簡単に作れるが、使うにはある程度魔力量の多い人物の力が必要になる。まずは、魔法薬を飲んだ者が眠る者と手を繋いで目を閉じ、続いて、魔法士が二人の額に手を置いて呪文を唱える。すると、魔法薬を飲んだ者は眠る者が見ている夢の中へ入り込むことができる。その間、二人の繋がりが切れないよう魔法士は魔力を込め続けねばならない。魔力の伝達が途切れたら、強制的に夢から追い出される。
 授業のようにつらつらと説明をされて、グリムはポカンとしている。デュースとエースも心なしか背筋を伸ばして話を聞いていて、クルーウェルの日頃の指導が行き届いていることを感じさせる。


「つまり、今からこの魔法薬を使って仔犬の夢の中に入り、目覚めの妨げになっている原因を突き止めるということだ」
「オレ様が行くんだゾ!」
「いや、僕が……!」
「お前ら落ち着けって!ねー先生、それって何人でも行けるわけ?」


 解決に向けた一筋の光が差し込んで、一年生たちは先ほどより元気を取り戻し、今すぐにでも助けに行こうという勢いである。その友を助けようととする必死な様子に、クルーウェルは内心微笑ましい気持ちになった。しかし、全てを彼らに任せるわけにはいかない。


……行くこと自体は何人でも可能だが、人数が増えるとその分魔力を伝達する魔法士に負担がかかる。目を覚ます原因を見つけるまでどれほどの時間がかかるか分からない以上、出来る限り魔力消費を調節しながら長時間夢の中に滞在する必要がある。俺が呪文を唱えるつもりだが、夢に入るのは一人に任せた方がいい。さて……誰が助けに入るかだが……精神や脳の成長に差異が少ない方が夢に入りやすいと聞く。まず学園長は除外だ」
「まぁ仕方がありませんねぇ。直接助けに行くことができず、とぉーーっても残念です」
「そして、一年生の仔犬ども。貴様らも無しだ」
「はぁっ!?」
「どうしてですか!?クルーウェル先生!」
「そうだそうだ!オレ様なら、すぐに子分のことを助けてやれるのに!」


 キャンキャンとクルーウェルへと詰め寄る三人の様子は、まさしく仔犬のようであった。精神や脳の成長が近い必要があるのならば、エースとデュースが最適であるのは間違いない。しかし、クルーウェルは小さくため息を吐いて首を振った。


「眠っている者の精神と夢の中は非常に近い状態にある。そして、それはとても脆いんだ。過去、夢に入った人間が中に置かれていた物を誤って破壊し、眠っていた者が目を覚ました時に記憶や精神に異常をきたした例がある。貴様らは、仔犬の夢の中に入って原因を探る間、全く何も壊すことなく戻ってくることが出来るか?」
「そ、それくらい出来るんだゾ!」
「それだけじゃない。件のチョコレートを食べた後に起こった事象についていくつか調べたが、バクのチョコを食べた後の夢へ入ると目覚めを邪魔する存在に会うことがあるらしい。それは物だったり動物だったり人だったりと、眠る者の意識に左右される。必ず居るわけではないというが……仔犬が長時間目を覚ましていない今、中で敵対する存在に遭遇する可能性は高い。夢の中で魔法を使って敵を倒す必要が出てきたとき、何も壊さずにいられるか?それに、自分の身に危険が迫った時、状況を見極めて戻ってくることができるか?」
「それは……


 クルーウェルの問いに、デュースは言葉を詰まらせる。一年生である自分は魔法のコントロールにまだ自信がないし、監督生を助けている途中で戻る必要が出てきた時、素直に一人で戻ってくる判断ができるかと言われると……それもまた難しい気がする。デュースは自分が頑固な方であると自覚していたし、誰かを守ろうとした時に己の身を差し出してしまう可能性は大いにあった。彼のユニーク魔法であるベット•ザ•リミットがいい例だ。
 グリムはそれでも自分が行くと言い続けていたが、エースは落ち着きを取り戻しており、冷静に呟く。


……ってことは、トレイ先輩に行ってもらうわけね」
「そうなるな。いけるか、クローバー」


 クルーウェルが、ここまでずっと黙っていたトレイに目を向ける。彼は説明の間、じっと眠る監督生を見つめていたらしい。ベッドの横に立って、頬をそっと撫でていた。それを見たクルーウェルはおや、と意表をつかれた。トレイに頼むことになったのは消去法だったが、この場合、案外良い人選となったのかもしれない。
 目を閉じ、一度小さく深呼吸したトレイは、クルーウェルへと向き直った。


「分かりました」


 トレイの真っ直ぐな目に、エースは少なからず驚いた。「自分よりも……」と他の誰かを提案するか、やれやれ仕方ないという表情をするかと思ったのだ。想像に反してトレイは、むしろ昂然としているようにも見える。他の誰にも役目を譲る気がないのが見てとれた。「よろしくお願いします!クローバー先輩!」と拳を掲げるデュースや「トレイ!しっかりやるんだゾ!」とベッドの上で叫んでいるグリムは、いつものトレイとは様子が少し違うこと気が付かなかったようだ。それを見て、エースはこのささやかな発見を胸に秘めておくことにする。


「では、夢の中に入った時にすべきことと、気をつけることについて確認しておこう。クローバー、ちょっとこっちへ来い」
「はい」


 クルーウェルに促されて、トレイは廊下へと出る。先ほどの話の他に、何か気をつけておくことがあるのだろうかと気を引き締める。肩に力が入ったトレイを見たクルーウェルは、ふっと笑って「そんなに心配しなくていい」と言った。


「さっきは仔犬どもを諦めさせるためにああ言ったが、実際そこまで気をつける必要はない」
「どういうことですか?」
「夢の中は監督生の意識でできている。彼女が『これは壊れてもおかしくない』と認識している物は、夢の中で壊れても影響はない」
……なるほど。つまり、あいつが『壊れるはずがない』と思っているものさえ破壊しなければ、ある程度は平気なんですね」
「そういうことだ。むしろ、夢の中では覚醒の妨げになっているものを消す必要がある。それが残っている限り、今後眠るたびに同じ夢に囚われることになるからな。……それが何かを見抜けず、闇雲に破壊行為をされたら精神が危険なのは間違いないからな……まだまだ未熟な一年生どもに行かせるわけにはいかない」
「分かりました」


 室内へと戻りベッドの横に一人がけのソファを移動させ、トレイはそこに腰掛けて監督生の手をにぎった。渡された不味そうな魔法薬を文句ひとつ言わず全て飲み干し、再度監督生の顔を見てから目を閉じる。それを確認したクルーウェルは、人差し指と中指を揃えて二人の額にそれぞれ添えた。


「では、いくぞ」







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 トレイが目を覚ますと、監督生の自室の一人がけソファに座っていた。先ほどクルーウェルの指示に従って目を閉じた時と同じ状態である。ただ、握っていたはずの手は何も掴んでおらず、ベッドの上も空っぽだった。部屋の中には、クルーウェルも一年生もいない。トレイ一人だけだ。
 視線を巡らせると、なんとなく部屋の色素が薄い気がする。明るい……と言うべきだろうか。周りを見回しながら慎重に歩き、ゲストルームやキッチン、談話室も覗いてみたが誰もいなかった。
 ゴーストがいれば話を聞けるかもしれないと考えて、廊下にいくつもある扉のひとつを開けてみる。


「うわっ!?……黒い……いや、何もない……のか?」


 部屋がありそうだと当たりをつけたのに、開いた扉の向こうは真っ暗だった。壁のように塞がれていて、中に入ることはできない。トレイは少し考えてから、なるほどここは正しく監督生の意識の中であると納得した。彼女が入ったことのない部屋や、細かく見たことがない物、普段意識していないものはあやふやに形成されているのだ。逆に言えば、現実に存在しなくとも彼女の想像の中にあるものは具現化されている。となると、監督生の目覚めを邪魔している物はもっとはっきり作り出されているに違いない。トレイは、彼女を見つけて様子を伺うのが手っ取り早そうだとひとり頷き、オンボロ寮を出た。

 植物園、購買、図書館、教室……。校内で思いつくところはひと通り歩いてみたが、監督生の姿はない。あちこちで生徒らしき制服を着た存在とすれ違ったが、ほとんど顔の造形があやふやでのっぺらぼうの人間もいた。どうやら監督生は、仲のいい友人や知人以外の顔はわりと曖昧らしい。さて、次は寮を回ってみるか……とトレイはハーツラビュル寮に足を踏み入れた。監督生が何度も遊びに来ているせいか、建物はある程度自分の記憶と相違なく作られている。
 どこから見ようかと談話室に足を踏み入れると、中では寮服姿のエースとデュース、それからグリムがカードゲームをしていた。驚いて思わずトレイの足が止まる。『あ、トレイ先輩お疲れさまでーす。あれ、なんで制服なんすか?』とエースから声をかけられて「あ、あぁ……ちょっとな」と返事をしてから、どうやらこの三人は夢の中の存在らしいと理解した。流石にいつも一緒にいるだけあって、現実の彼らと相違ない。もしかして、自分もここに作られているのだろうか。監督生の作り出した自分の造形があやふやだったらショックかもしれないと、トレイはひっそりと苦笑いする。
 立ったまま談話室の入り口から動かないトレイを見て不思議に思ったエースが、首を傾げる。


『トレイ先輩、監督生のとこ行かなくていいんすか?』
「え?」
『さっき『監督生が待ってるから』ってキッチンでお茶の準備してたじゃないですか。庭に来てるんでしょ?』
……そうだったな、行ってくるよ」


 監督生が夢の中で自分と一緒にいるらしい。トレイは少しだけ、嬉しいような焦りのような、不思議な気持ちを抱えたまま中庭へ出た。その瞬間、視界に入った光景に驚いて急ぎ薔薇の木の影に身を潜める。そこにいたのは、かつてないほど親密そうに寄り添っている自分の姿をしたものと監督生だった。

 その『トレイ』は真っ白なテーブルクロスの上で監督生の手を握り、弄びながら何か話しているように見えた。時々監督生が楽しそうに笑っている。その様子はどう見ても恋人同士のやり取りで、木の影から覗いたトレイを混乱させていた。なぜ自分が監督生と見つめ合い、笑い合っているのか。自分はもちろん告白なんてしていないし、監督生から想いを告げられたこともない。これが、監督生がずっと見ていたい“良い夢”だというのだろうか。
 トレイは静かにクルーウェルの言葉を思い出す。


 ――夢の中では覚醒の妨げになっているものを消す必要がある。


 なるほど、消す必要があるのはどうやら『トレイ•クローバー』らしい。





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 私の手を握って穏やかに話をしてくれていた先輩が、突然顔を上げてじっと庭の先を見る。何か見つけたのだろうか。視線の先を辿ってみるが、いつもと同じ美しい薔薇の庭が続いているだけだった。


「先輩、どうかしたんですか?」
『いや、なんでもないよ。そろそろ移動しないか?話したいことがあるんだ』


 トレイ先輩に手を引かれて、椅子からそっと立ち上がる。寮服を着た先輩の指先だけ出た手袋は、なんだかいけないものを見ている気分になってドキドキする。そっと指を絡めると、同じくらいの力で握り返されて、嬉しさに口元が緩む。
 さて、話したいこととはなんだろうか。ここではできない話なのか?と首を傾げる。この辺りに人は見当たらないのに、先輩はどんどん薔薇の迷路の奥へ向かって進んでいく。


「トレイ先輩、どこへ行くんですか?」
『大丈夫、心配しなくて良いから』


 しばらく迷路を進む先輩に従ってついていくと、抜けた先にあったのはオンボロ寮の門だった。どうしてここに出たのだろう。繋がっていたっけ?それとも、先輩の魔法だろうか。トレイ先輩が黒い鉄の棒で作られた門をぎぃ、と開いて、私の手を引いたまま寮へと向かう。いつも使っている玄関ホールを通り抜けて、談話室もゲストルームも通り過ぎて、たどり着いたのは私の自室だった。あれ、先輩が私の部屋に来るなんて、初めてじゃないだろうか。見慣れた部屋にトレイ先輩がいることがすごく不思議で、その非日常さに心拍数が上がる。私の部屋に、先輩がいる。じわじわと、自分の体温が上がってくる。あ、部屋ちゃんと片付けてたっけ、何か変なもの落としてないよね!?


「あの、先輩ちょっとだけ部屋の外に出ててくれませんか!?」
『ん?どうかしたのか?』
「えーと、えーーっと……。部屋を、片付けたくて……


 上手い誤魔化しが思いつかなくて正直に伝えると、トレイ先輩は『ははは!別に気にしなくていいさ。ちゃんと片付いてるぞ?』と笑う。なんだか恥ずかしくなってしまった。ドアの近くに立ったまま視線を彷徨わせていると、先輩がそっとこちらへ近づいてきた。伸ばされた手が頬に触れて、顔を上に向かされる。朝そうしてくれたように、おでこにキスを落としたトレイ先輩は、私の手を取って部屋の中心へと誘う。先にベッドへと腰掛けたトレイ先輩の隣へ自分も座ると、彼はこてんと首を傾げた。


『うーん、やっぱりこっちかな』
「えっ!わぁ!?」


 ふっと笑った先輩が、私の背中と膝裏に腕を回したかと思うと、姫抱きにされあっという間にベッドへ寝かされていた。顔の両側に下された腕の逞しさと、目の前にあるトレイ先輩の顔が近くて心臓が破裂しそうだ。顔が熱い。緊張で歯を食いしばりすぎて何も言えない私を見て微笑んだ先輩が、ゆっくりと眼鏡を外して床へと放り投げる。


「えっわっ、先輩、メガネ無くても見えるんですか?今ぶつかって割れた音しませんでした!?」
『ん?ああ、あれってそういうものだったのか。確かに視界がぼやけてしまったな……。大丈夫、これでよく見えるよ』


 先輩がひとつ瞬きをすると、瞳がきらりと黒く鈍く輝いた。
 あれ、トレイ先輩の目の色って、黒だったっけ?


『なぁ、監督生。俺にお前の大切なものを譲ってくれないか?』
「大切なもの……?」


 なんのことか分からなくて、頭の中をぐるぐると検索する。黙った私に焦れたのか、先輩は片方の肘をついて重心を保つと空いた手で私の制服のボタンに手をかけた。さっきより近くなった顔にドキドキして身体が強張る。トレイ先輩は『そう、大切なもの』と耳元で囁いてきた。息を吹き込むようにゆっくりと言葉を送られて、ぶるりと身体が震えた。その間にも先輩の手は止まることなく、いつの間にかジャケットもベストも全てボタンが外されていた。


「えっちょっと、先輩!?」
『なぁ、俺を受け入れてほしい。お前の一番大切な物を、俺にくれないか?』


 シャツのボタンへと指がかかり、思わず両手で先輩の手を掴んで止める。先輩は、何も言わずにじっと私を見つめてくる。メガネがない少し吊った目に射抜かれて、自然と私の手の力は抜けていった。トレイ先輩が欲しがる私の一番大切なもの。それが何のことを言っているかはいまいち分からなかったけど、今からいかがわしい事をしそうな流れであることだけは理解していた。ついにこの時が来た。先輩と付き合って……付き合って…………あれ、どれくらいだっけ?……とにかく、ここまで早かったような気がする。私もこれで、ひとつ大人になるということか。トレイ先輩が相手なら、怖いけど怖くない。私の手が緩んだのを良いことに、先輩は少し身体を起こしてシャツのボタンを最後まで外した。中に来ていたTシャツが、上へ上へと捲られていく。自分では見えないが、肌に触れる空気で分かる。今、自分の下着しか付けていない胸元が先輩に晒されている。恥ずかしい。でも、先輩なら。


「分かりました、トレイ先輩に全部あげます。私の大切な物!」

『あぁ、ありがとう』


 その瞬間、下着を勢いよく下げられたかと思えば、胸の中心に、手を突っ込まれた。
 一瞬、息が止まる。
 恐る恐る視線を下げる。仰向けになっているせいでよく見えないが、トレイ先輩の手が自分の身体の中にありえないほど沈んでいる事が分かった。視線を上げてトレイ先輩を見ると、三日月みたいに口角を上げて薄っすらと笑っている。ゾッとして、冷たいものが背中を駆け抜けていく。
 
 胸の奥。なにか、掴まれている。


「と、トレ、イ……先輩?」
『大事に食べるよ、お前の一番大切なもの』


 ガシャン!!と右から大きな音がしたかと思うと、割れて飛んできた窓ガラスが目の前のトレイ先輩を寮服ごと切りつけた。頬や首にスパッと切り傷が入る。先輩は顔を伏せてしまって、表情はよく見えない。切れた首や腕から、ドロリと茶色いものが溶け出すように溢れ出している。

 目の前が真っ暗になる。トレイ先輩が、トレイ先輩が大怪我を負ってしまった……!このままでは、死んでしまうかもしれない。そんなの嫌だ!すぐにでも起き上がりたいが、先輩は私の上にのしかかったままで動く事ができない。一向に私には降りかからないガラスの破片を少し不思議に思いながらも「トレイ先輩!」と叫んだ瞬間、先輩の身体は何か大きな物にぶつかったように部屋の奥へと突き飛ばされた。
 それと同時に、胸に埋まっていた手が引き抜かれていく。何かを掴んだまま。
ずるり、と身体から何かが出ていく気配がした。

 先輩が飛ばされた壁とは逆の方から、私の名前を呼ぶ声が遠く聞こえる。大好きな声だ。
返事をしたつもりだったが、声が出なかった。
視界が暗くなる直前、優しいマスタード色が見えた気がした。





✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*☽✰⋆。:





 ――数分前。
 監督生と談笑していた『トレイ』が突然顔を上げこちらをじっと見て、すぐに立ち上がり迷路の方へと向かうのを確認したトレイは、どうやら自分の存在がバレたらしいと少し動揺した。詰め寄った方がいいのか、しかし、自分が現れる事で『トレイ•クローバー』が二人いる状態になり、監督生は混乱してしまうだろう。彼女の意識にどんな影響が出るのか分からない。そもそも、ここが夢である事を本人は自覚しているのかも定かではない。ひとまず距離をとりながら追いかけていたが、実際の薔薇の迷路とは違って監督生の意識で作られているせいで、道の作りがトレイの記憶とは異なっていた。見失わないようにじっと観察しながら追いかける。二人がしっかりと恋人繋ぎで手を握り合っていることが、ちりちりと胸を妬く。自分ではあるが、自分とは違う存在。もし、監督生の手を取っていたのが全く別の人間だったら。……自分は平静を保っていられただろうか。

 迷路抜けた先はオンボロ寮だった。夢の中は何でもありだな、なんてトレイは少し感心してしまう。門から玄関ホールまでは障害物がないため、迷路の出口に身を潜めて二人が中に入るのを見届ける。少し経ってからトレイも中に入り、ドアが開け放してある談話室とゲストルームに二人がいない事を確認して、自室の前に来た。先ほどの部屋と違ってこちらのドアは締め切られており、少しでも開けたら気づかれてしまうだろう。ドアに耳を近づけて見ても、中の声はうまく聞こえない。少し迷って、外から確認することにしたトレイは、廊下の隅に置かれていた箒を手に取り外へ出た。

 音を立てないよう箒に乗って、監督生の部屋にあたる窓へと下からこっそり近づく。ちら、と中を覗くと『トレイ』が監督生をベッドへ誘っているところだった。動揺して、うっかり箒からずり落ちそうになる。何とか体勢を立て直すが、手にはじわじわと汗が滲む。監督生にとっての、良い夢。トレイが自室に入っても、ベッドの上に座っても、監督生は嫌ではないのだ。自分の体温が上がってきた気がして、一度落ち着こうと目を閉じて深呼吸する。
夢の中とは言え、自分が見ている前で色々と始めてもらっては困る。どうせなら、現実で。監督生には悪いが、そろそろ『トレイ』には消えてもらおうと、部屋に飛び込む算段をつけるためにもう一度窓から確認する。
そこで見たのは、監督生の身体の中に手を沈み込ませている『トレイ』の姿だった。





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 監督生に魔法障壁を張って『トレイ』に攻撃を仕掛けた瞬間、むせ返るほどのチョコレートの甘い香りが部屋中に広がった。「トレイ先輩!」と叫ぶ監督生の声を聞いた瞬間、自分はこちらにいるのに、というどす黒い嫉妬心が首をもたげて、そんな自分に動揺して一瞬魔法を打つ手が止まる。しかし、すぐに気を取り直してトレイは監督生の上を陣取る自分の姿をしたものへ風魔法を放った。『トレイ』が部屋の奥、ドアの方へと吹き飛ばされていく。


「大丈夫か!?」


 最初の攻撃で割れた窓から中へ入ったトレイは、ベッドの上で横たえている監督生の名前を呼びながら声をかける。服がはだけているが今はそれどころではない。自分もベッドに上がり込んで頬にそっと触れる。冷えているというほどではないが、温かくもない。それよりも、肌が硬い。


「これは……チョコレート?」
『その通りだよ。ここは、チョコレートを食べることで作られた夢だからな。全部チョコで出来てるんだ』


 いつの間にかベッドの横に立ってこちらを見ていた『トレイ』に驚きつつ、マジカルペンを構える。先ほどガラスで切れていた傷から溢れているのはチョコレートで、もう固まり始めている。メガネをかけていない自分の姿を模した彼の瞳は光を吸収しきって黒く、これは監督生の夢の中で作られた存在ではないと察した。クルーウェルが話していた『目覚めを邪魔する存在』なのだろう。バクのチョコレートは製作者が不明とも言っていた。もしかしたら、悪意ある魔法士によって作られた呪物に近い物なのかもしれない。

 監督生を背後に庇ったトレイが次の一手をどうするか思考を巡らせていると、目の前に立つ『トレイ』が何かを手にしていることに気がついた。


……薔薇の、チョコレート?」
『ああ、これが俺の大好物なんだ。この夢を見ている奴の心。今ままで色んな形を見てきたけど……その子、薔薇のイメージを強く持ってるのかもしれないな。……うん、美味しい』


 パキッと軽い音を立てて薔薇のチョコレートの花びらを一枚割り、目の前の『トレイ』はそれを口に運ぶ。
 それを見たトレイは急ぎ振り向いて、監督生のはだけて下がってきていたシャツを掴み胸元を確認する。そこは綺麗に薔薇の形のくぼみができていた。ゾワリと悪寒が走る。本来は心臓があるべき位置だ。


『人間って面白いよな。思考や感情、意識は脳で作られるものだと思ってるのに、心がある場所は心臓だとイメージしている奴が多い。……さて、俺の用は済んだし、もう目を覚ましてくれて構わないぞ。今はこれを引っこ抜かれたショックで気を失ってるみたいだけど……。ほら、そこのスマホのアラームを鳴らせばその子は現実で目を覚ますよ。いつも朝起きる時の音を鳴らしてあげてくれ』
……このまま目覚めたら、彼女の意識はどうなるんだ?」
『ん?別に、周りにとってはこれまでとそう変わらないと思うぞ。ただ、そうだな……この薔薇のチョコは俺が貰ったから、本人は感情の受け皿がなくなってずっと何か満たされない気持ちになるだろうな。その程度……いや、直前に俺が傷ついたところを見たからなぁ……。このまま目覚めると『トレイ•クローバー』に関する記憶には多少影響が出てるかもしれないな』


 パキッ……と『トレイ』はさらに一枚、薔薇の花弁を割る。もう、半分以上が食べられてしまっている。立ち振る舞いに悪意は特に感じない。『トレイ』にとって、これは本当にただの食事なのだろう。食虫植物が匂いや擬態で虫を誘い込んで捕食するように、バクのチョコレートで夢を見せて最高の演出でエサを手に入れただけなのだ。


……それ、チョコレートで出来てるんだったよな?」
『ああ。食べてみるか?』
「一枚もらうよ」


 ほら、と摘んだ指先から花弁を渡されたトレイは、素直にそれを口に含む。ベースは甘いミルクチョコレート。ナッツやドライフラワーが所々にたくさん散りばめられている。ほんのりと洋酒の香りがしたと思えば、少し苦味も現れた。恐る恐る噛むと、後から奥に隠れていたスパイスがふわりと顔を出してくる。決してまとまっているとは言えない味だ。美味しいかと聞かれると、あまりそうとは言えない。これが、監督生の心。


「そのチョコを再現して身体に戻せば、心を失わずに目を覚ますことができるか?」
『えっ……まさか、作る気なのか?そりゃ、ここは夢の中だから、ここにある材料を使って全く同じ物を作る事ができれば、同じ意識や感情を持つチョコが形成できるとは思うが……こんな複雑な味がする物、作り直すなんて』
「何が使われてるかは今食べて分かった。チョコはけっこう作り慣れてるし、材料さえあれば作れる」


 監督生を起こす方法はもう聞いた。今からチョコレートで心を作り直して、ぽっかりと空いてしまっている穴に戻す。トレイは再び監督生に向き直り、薔薇の形に空いた胸元と確認する。チョコレートで出来ている監督生の身体に溶かしたチョコを流し込んだら、身体の方が少し溶けてしまうかもしれない。ふぅ、と深呼吸をしたトレイは覚悟を決めて小さく呟いた。


「ドゥードゥル•スート」


 人に向けて使ったことはなかったが、今はチョコレートならばと意を決して魔法をかけた。空いてしまった胸の穴の周りだけステンレスへと要素を変える。コンコンと指でノックして上書きできた事を確認し、一度魔法を解く。興味津々といった様子でこちらを覗き込んでいた『トレイ』に声をかける。


「今から購買へ行って材料を集める。手伝ってくれ」
『どうして俺が手伝う必要があるんだ?』
「今から作るチョコが余ったら、全部食べて良いからさ。頼むよ」
『へぇ、いいな。そういう事なら手伝うよ』
「じゃあ、先に向かっててくれるか?少し準備したい事があるんだ」
『分かった』


 ふっと笑って部屋を出ていった『トレイ』を見送ったあと、トレイは大きく息を吐いてベッドから降りて手で顔を覆う。準備することなんて特になかったが、少しだけあの『トレイ』から離れたかった。とはいえ、チョコレートを作っている間、ここで奴を待たせて監督生と二人きりにするくらいなら、自分の目の届く範囲に置いておきたい。すぐに自分も向かわなければ。トレイはもう一度、大きく息を吐く。
 どう考えても、この事態は失敗だった。もう少し冷静に部屋へ潜入して、監督生の身体を守ったままあの偽物の『トレイ•クローバー』を消すべきだった。あるいは、機会を作って途中で自分が入れ替わり、監督生に事情を話して目を覚ますよう説得してから起こせば事が済んでいた。
まだまだ自分も未熟だ。短気は損気だと後輩に言っているくせに、冷静でいられなかった。


「絶対に、元に戻してやるからな……


 目を閉じたままの監督生の頬に触れる。先ほどの『トレイ』の口ぶりだと、いま彼女は気絶しているだけであり、声をかけ続ければこの状態でも目を覚ますのかもしれない。しかし、心に穴が空いているまま起こしたくない。
 少し気持ちが落ち着いたところで、部屋を出た。ドアに施錠魔法をかけようとしたが、窓が盛大に割れている事を思い出した。もしチョコレートを作っている最中に監督生が目を覚ましたら、驚くかもしれない。……心が食べられてしまった今、驚くという感情が生まれるのかも分からないが。トレイは一旦部屋に戻り、キッチンにいる事、窓は気にしなくていい事をメモに残してベッドサイドに置いた。そして、今度こそ購買へと向かう。

 購買に入ると『トレイ』がレジに腰をかけて待っていた。自分だったら絶対にしない行動を目にして、やはりこいつは監督生が夢の中で造形したトレイではないと再認識する。……いや、誰もいなければレジに座る人間だと監督生に思われていたら、そうとは限らないが。ちらりとよぎった考えを打ち消して、チョコレートを作るための材料を探す。驚いたことに、棚にある商品はどれも造形がしっかりと作られている。『トレイ』が完成したチョコを食べたいがために、夢に手を加えたらしかった。
 トレイは棚を漁りながら、昨日現実で監督生とグリムと共にチョコをたくさん食べておいてよかったと小さく笑った。まだ記憶に新しいチョコの味を思い出しながら、先ほど食べた監督生の心に合う味のものを見繕う。ミルクチョコレートは多めにして、生クリームも用意する。ナッツはアーモンドと胡桃、あとヘーゼルナッツも入っていた。ドライフルーツは、クランベリーとイチジク、それからリンゴとパイナップル。普段から食べた料理の調味料を当てることは得意としていたが、材料まで完璧に判別するとなると少し緊張する。しかし、これは自分にしか出来ない事だ。間違えるわけにはいかない。
 続いてスパイスの棚へと移動する。ピンクペパーと、ジンジャー。あとは……おそらく、コリアンダー。目を閉じて、監督生のチョコレートの味をもう一度思い出す。それに合わせて、手の中に持った材料を頭の中で組み合わせていく。ああそうだ、ラム酒も少しだけ入れなくては。

 全ての材料を持って、オンボロ寮のキッチンへと戻る。
 背後に『トレイ』がいる事を確認して、椅子に座らせる。おそらく、作業に興味を持っている間は動かないでいてくれるだろう。オンボロ寮のキッチンを何度か使った事があるトレイはスムーズに道具を取り出し、チョコの中に混ぜる材料をできるだけ細かく丁寧に砕いていく。散りばめられていたナッツやドライフルーツは、監督生のどんな感情を表しているんだろう。スパイスは?あの、ほんのりと感じた苦味は?彼女は、いつもどんな事を考えて、どんな気持ちを胸に抱いているのだろうか。
 チョコの湯煎で購買から持ってきたチョコレートを溶かし、続いて生クリームを沸騰直前まで温める。チョコに直接ラム酒を入れては分離してしまうため、生クリームの方に少量を混ぜた。チョコレートと生クリームを合わせてクリーム状になるまで混ぜる。そこに砕いた材料を入れてさらに混ぜ、味見する。


……できた」


 冷やした後をイメージしてみても、監督生の心であったチョコレートと寸分違わぬ味に作れた自信がある。子どもの頃から何度も、何種類ものお菓子を作ってきたが、今このとき、このチョコレートは人生で一番丁寧に作った。トレイははぁぁぁ、と大きく息を吐く。まだだ。まだ気を抜けない。

 監督生が眠る部屋へチョコが入ったボウルを運ぶためにキッチンを出る。『トレイ』がじっとチョコを目で追いながら後をついてこようとしたため、それを制してキッチンで待つようにと指示した。エサであるチョコがトレイの手元にあるせいか、『トレイ』は大人しく指示にしたがってキッチンテーブルの椅子に座った。
 部屋へ戻りボウルをベッドサイドに置いて、目を閉じたままの監督生にマジカルペンを向ける。


「ドゥードゥル•スート」


 もう一度、監督生の胸の穴をステンレスに変える。溶けたチョコレートをゆっくりと、空気が入らないよう慎重に流し込んでいく。拳ほどの大きさの薔薇は、すぐにチョコで満たされた。ボウルを一旦横に置き、今度は魔法で部屋の温度を調節しながらチョコを冷やしていく。


……っくしゅん!」


 突然聞こえたくしゃみに、トレイは驚いて肩を揺らす。胸のチョコレートに気を取られていたが、部屋の寒さで監督生が目を覚ましたらしい。トレイは監督生の顔にかかった髪を避ける。ぼんやりと目を開いて視線を巡らせた監督生は「……トレイ先輩?」と小さく呟いた。


「よかった……。身体は何ともないか?」
……私は、大丈夫ですけど……。あれ……?そうだ、それよりトレイ先輩、さっき怪我……!」
「おっと、まだ動かないでくれ。俺は何ともないよ。平気だし、ここにいるから……もう少しだけじっとしていてくれ」
……はい。……よかった、本当に良かったです。トレイ先輩が……無事で……


 まだ半分意識を置いてきているのか、監督生は眠そうだ。夢の中で眠りについても、さらに夢は見るのだろうか?あとで、現実で目を覚ます事ができたら聞いてみよう。
 無事に監督生の心が元に戻り、あとは胸のチョコレートが固まるのを待つだけだ。氷魔法を使えば時間短縮はできるかもしれないが、急に冷やして分離し心身に影響が出たらまずい。トレイが監督生の頭をそっと撫でると、ふわりとチョコレートの香りがする。安心したようにまた目を閉じた監督生から、小さく寝息が聞こえてきた。

 眠りについた監督生を置いて、トレイは廊下に出て移動する。『夢の中では覚醒の妨げになっているものを消す必要がある』クルーウェルに言われた本来の任務を果たすためだった。
トレイがキッチンの中に入ると『トレイ』がこちらを見て『待ちくたびれたよ』と笑う。静かにドアが閉じられた。


『あれ?さっき持っていったチョコはどうしたんだ?俺にくれるはずだろ』
「申し訳ないけど、渡すことはできない。これ以上、あいつの中にあるものを蝕まれたくないんだ」
……約束と違うな』
「悪いな。俺はそんなにいい子じゃないんでね』


 トレイは小さく笑うとマジカルペンを構えた。素早く呪文を唱えると、目の前の『トレイ』が勢いよく炎に包まれる。実践魔法の使えそうな呪文を頭の中で探しながら、トレイは相手の様子を伺う。予想通り、チョコレートできている身体は炎の熱に負けてドロドロと溶け始める。やはり、こんなところは監督生に見せられないよなぁとトレイは心の中でひとりごちた。めらめらと燃える炎越しに見える『トレイ』は、にっこりと笑う。


『おいおい、俺を熱で溶かしたところで、冷えたらすぐに成形できるぞ』
「はは、やっぱりそうか。じゃあ、こうするしかないな。……ドゥードゥル•スート」
『なっ――


 ばしゃん!と水の跳ねる小気味良い音がした。チョコレートで出来ていた『トレイ』の身体を、水に上書きしたのだ。これが人間相手だったら上手くいったか分からない。トレイは何度目か分からない小さなため息を吐いた。マジカルペンを握り直し、そのまま火の魔法を出し続けて、床に広がった水を蒸発させる。
 これで完全に“悪夢”の原因を消失させることができた。





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――おはよう、目が覚めたか」
……トレイ先輩」


 頬を突かれた感触がして、目が覚めた。どれくらい眠っていたのだろう、枕に乗っている頭をこてんと横に向けると、こちらを見つめるトレイ先輩がいた。


「あれ、えっと、私……
「どこまで覚えてる?」
「え?えっと……確か、今日はトレイ先輩と街に出かけて、それからハーツラビュル寮の庭でタルトを食べて……
……はは、そんなに長い夢だったのか」
……夢?」


 きょとんとする私に、トレイ先輩は困ったように眉を下げてしまった。この部屋に来てからのことも、覚えている。トレイ先輩に手を引かれて、ベッドでボタンを外されて……。はっとして上体を起こし、自分の身体を確認する。服のボタンは全て留められ、ここへ来た時と同じ状態になっていた。
先輩はさっき夢だと言った。今日の出来事をぐるぐると思い出す。ねぇ、それなら。どこからどこまでが、夢だった?


「トレイ先輩が、怪我してたのは、夢ですか?」
……夢だよ」
「そっか、そうですよね。あんなに怪我して、今そんな元気なわけないですもんね」
「ああ、俺はどこも怪我してない」
「中庭でタルトを食べたのも、街でデートしたのも、夢ですか?」
……それは」
「夢ですよね。だって、変なんです。一緒に帽子を選んでたところとか、イチゴタルトを食べたところは思い出せるのに……どうやって街まで降りたのか、いつ寮に移動したのか……分からないんです……
……
「そっか、夢かぁ……


 ベッドの上に座ったまま、膝を抱えこむ。トレイ先輩と付き合えたのは夢だった。どれだけ思い出そうとしても、トレイ先輩に告白された記憶も、私が告白した記憶も無い。全部全部、夢だったのだ。頭を撫でられた感覚がして、顔を上げる。ベッドサイドに腰掛けた先輩は、未だ困ったように眉を寄せて小さく笑っている。なにか、言葉を探しているようだった。


「落ち着いて聞いてほしいんだが……。今もまだ、夢の中なんだ」
「えっ、今もですか!?」
「購買でバクのチョコレートを買ったことは覚えてるか?」
……あ、そういえば昨日……いや、一昨日……?こっそり買って、夜食べました。えっ、もしかして私、あれからずっと夢を見続けてるんですか!?」


 驚いて、開いた口が塞がらない。それじゃあ、どれくらいの間眠っていたのだろう。授業はどうなったんだろうか。ナイトレイブンカレッジの授業は結構進度が早くて、もしすでに何日も休んでいるのならば、ついていけなくなってしまう。どうしよう!と焦り始めた私を見て、トレイ先輩が落ち着け、と肩に手を置いてくれる。


「お前が眠り始めてまだ1日も経っていないよ。チョコを食べて寝た日の朝に、お前の目が覚めないってことが分かったんだ。授業のことは心配しなくていい。それに、もし分からないことがあったら俺が教えてやるから」
「よ、よかった……。ありがとうございます」
「それじゃあ、そろそろ起きようか。お前のチョコが固まるまで待ってたおかげで、クルーウェル先生が今頃疲れ切ってるかもしれないしな」
「チョコ?」


 何のことかとトレイ先輩に聞き返したが、先輩は「なんでもない」と笑ってベッドサイドに置いていた私のスマホを手に取った。私がいつも朝起きる時に使っているアラーム音を鳴らす必要があるらしい。そういえば、ここしばらく朝は鳥の鳴き声や窓を叩く音で起きていた気がする。ということは、その間はずっと夢の中にいたのだろう。スマホを操作しながら、起きたらグリムに怒られそうだなぁなんて考える。そうだ、もうこの夢が覚めてしまうならば。


「あの、トレイ先輩……
「ん、どうした?」
「最後に、おでこにキスしてくれませんか?」
…………はっ!?」
「だって、ずっとしてくれてたじゃないですか。夢から覚めたら、本当のトレイ先輩にはしてもらえないし……。記念に、一回だけ……ダメですか?」


 どうか!と手を合わせてお願いすると、トレイ先輩は頭を抱えて「……なるほど」と小さく呟いた。ここでずっと一緒に過ごしてきた先輩の雰囲気と少し違う気がする。何というか、かなり現実味があるなぁ。私はけっこう脳内の再現度が高いのではないだろうか。キスしてもらったらすぐに目が覚めるように、スマホのアラームボタンに指を添える。先輩をちら、と見つめると「分かったよ」と苦笑いした。何だか、先輩の頬が少し赤い気がする。
 ベッドに腰掛けていたトレイ先輩が立ち上がる。上体を起こしてベッドに座ったままの私からすると、かなり大きく見える。先輩の指が前髪を指でさらりとよけた。ゆっくりと屈んでくる様子を見て、目を閉じる。ちゅ、とおでこに温かいものが当たった。思わず口角がゆるゆると上がってしまう。ぱちっと瞼を開けると、すぐそこにいるトレイ先輩と目があった。


「トレイ先輩にキスしてもらえるなんて、最高の夢でした!」


 にっこりと笑ってスマホをタップした瞬間、スマホのアラームがなる。

 視界がブラックアウトする直前、目の前にいたトレイ先輩の眉間には皺が寄っていた。






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「起きたんだゾーーー!!」
……うわっ!?」

 目を開いた瞬間、灰色の毛むくじゃらが顔に向かって突撃してきた。うん、グリムの匂いがする。昨晩から眠り続けていたせいか、起き上がると背中がミシミシと音を立てた。前が見えないので、顔に抱きついたままのグリムを避けようと手を伸ばす。なんだか、右手がすごく温かい。まるで、ずっと誰かに握られていたかのような……
 グリムを顔から引き剥がすと、部屋にはエースとデュースがいた。驚いていると、先ほどまでクルーウェル先生と学園長も部屋にいたらしい。なんでも先生は、私を目覚めさせるために魔力を使いすぎてヘトヘトになってしまい、学園長に連れられて保健室へと直行したそうだ。エースはほっとした顔でベッドのふちに座り込み、デュースは立ったまま「本当に良かった……!」と笑っている。


「いや〜とりあえず目が覚めてよかったわ。すっげー心配してたんだぜ」
「ごめん、まさかこんなことになるなんて……
「監督生が買ったチョコは良くないものだったらしい。サムさんが全部廃棄したと聞いたから、安心していいぞ」
「そうなんだ……。デュース、エース。それからグリムも、ありがとね」
「これくらいなんてことねーんだゾ!」
「そうだぞ。僕たちよりもクロ」
「だぁ!ったくお前は……!それより監督生、腹減ってない?そろそろ昼飯だから、食堂行こーぜ。午後の授業は出れそう?」
「うん、大丈夫」


 突然デュースの口を塞いだエースを不思議に思いながらも、ベッドから出る。みんなを一度部屋から追い出して、着替えを済ませる。やはり、みんなに迷惑をかけてしまっていた。少し落ち込みながらも、けっこういい夢だったなぁと思い出す。夢の中では、トレイ先輩と付き合う事が出来ていた。毎朝おでこにキスしてくれて、デートもした。いい思い出ができたかも。ふへ、と頬が緩んで、いや落ち着けと自分の頬をつねった。迷惑をかけたんだから、反省しなくては。

 先に外へ出ていたエースたちと合流し、学校へと向かった。昼食を済ませて一度保健室へ行くと、ちょうどクルーウェル先生が出てくるところだった。エネルギー補給ゼリーを口にしている。急いで駆け寄ると、先生は「もう大丈夫なのか?」と安心した顔を見せた。


「今から保健室で診てもらおうと思って、来たところです」
「そうか。まぁ、調べた限りではバクの夢から無事に目覚めることができた場合は、特に身体への影響は出ないという。よかったな」
「はい!先生が助けてくれたって聞きました。本当にありがとうございます!」
……?ああ。今後は魔法が使われているものを食べる時は、十分注意するように」
「はい!」


 ぺこりと頭を下げて、クルーウェル先生を見送る。保健室の先生からも無事、健康であるとお墨付きをもらい、午後の授業はみんなと一緒に参加する。午前中にあった授業の内容は、一度ご飯を奢るという約束でクラスメイトから聞き出す事ができた。これでひとまず元通りだ。

 放課後になり、グリムから「オレ様を心配させたお詫びにツナ缶を買うんだゾ!」と詰め寄られて購買にやってきた。明日を控えたバレンタインの棚は相変わらず作られたままだったが、私が食べたバクのチョコレートは全て撤去されていた。どうしようか迷って、魔法がかかっていない板チョコを何枚か買う。夢の中でいい気分にさせてもらったお礼に、トレイ先輩にチョコを渡そうと思った。なにも、夢で恋人同士だったから告白したらいけるかも!なんて調子に乗ったわけではない。バレンタインが自分の故郷の文化であることを説明して、当初の予定通り『日頃の感謝』として渡したいと思った。この前トレイ先輩と一緒に生チョコを作ったから、レシピは覚えている。明日はちょうど休日だ。今夜のうちに作ってラッピングして、明日、寮までチョコを持って行こう。

 意気揚々と、グリムに渡す高級ツナ缶と数枚の板チョコをレジに出すと、サムさんはちょっと引いた表情をした。


「小鬼ちゃん……朝あんなことがあったのにもうチョコレートを買うなんて、crazyだね!」





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 いつものアラームが音を鳴らして、ぱちりと目が覚める。
スマホをタップして停止させて起き上がり、カーテンを勢いよく開ける。


「グリム!朝だよーー!」
「ふなぁ……


 今日はバレエンタイン。昨日のうちに作ったチョコを、トレイ先輩渡しに行かなくてはならない。いつもより少し遅く起きたので、今はまだ8時だ。顔を洗い寝癖を直し、適当に作った朝食を食べて制服に着替える。寮へ遊びに行くなら、私服だとまずいだろう。しかし、いざチョコを紙袋に入れたはいいが、なかなか勇気が出ないま、いつのまにか時計は10時を指している。何時に行ったら迷惑じゃないかな……と自分を誤魔化しながら談話室で時計を確認していると、コンコンとドアノッカーの音が鳴り響いた。

 誰か遊びに来る予定があっただろうか?「はーい」と返事をして、玄関を開ける。そこにいたのは、学校に届いた生徒の宅配物を寮へ運んでくれるゴーストさんだった。他の寮へ遊びに行った時、実家から届いた荷物をゴーストさんから受け取っている人を何度か見たことがある。しかし、私はこの世界に実家がない。学校外から私宛に何かが送られてくるはずがなかった。サインをして差し出された箱を受け取る。30センチ四方のそれには、要冷蔵のシールが貼られていた。送り主の名前は無い。

 談話室に戻り「何が届いたんだ!?」とウキウキしているグリムと共に、箱を開ける。中は保冷剤もないのにひんやりと冷えていた。魔法がかかっているのだろう。覗き込むと、さらに2つの白い箱が入っていた。甘い、チョコレートの香りが漂ってくる。ひとつをそっと取り出すと、もう一つの箱との間にカードが置かれていた。


……ハッピーバレンタイン……。私の名前が書いてある……。え、これ、私宛!?ええと、もう一つは、グリムに……って書いてある」
「やったー!早く開けるんだゾ!」


 白い箱を二つとも開けると、それぞれの中に入っていたのはタルトだった。グリムにはさまざまな果物が溢れんばかりに乗っているフルーツタルト。そして、私に贈られたのはチョコタルトだった。これ、絶対そうだ。間違いない。ドキドキと心臓が高鳴る。震える手で、記名がないかもう一度カードを確認しようとしたところで、コンコン、と再びドアノッカーの音が響いた。すでにタルトを食べ始めているグリムを置いて、玄関へと向かう。手に、じわりと汗が滲む。
 意を決して扉をあけると、やはり、そこにいたのはトレイ先輩だった。


「やぁ、届いたか?」


 にっこりと笑う先輩に、思わず顔が熱くなる。夢の中で、登校するときいつも迎えに来てくれたことを思い出した。


「あの、やっぱりあのタルト、トレイ先輩ですか?」
「当たり。今日はバレエンタインだろ?」
……でもあの、バレエンタインは好きな人にチョコを渡す日で……
「だから、贈ったじゃないか。チョコタルト。せっかく前もってお前の好みもリサーチしたんだ。ぜひ食べてほしいんだが……


 ずい、と先輩が踏み込んでくる。そんな、まさか。だって、ハーツラビュル寮の談話室でバレンタインの話をした時、作ったら宅配するって話をしてたじゃないか。どうして私のところに、宅配便でチョコが届くんだ!?それに、私の好みをリサーチって、いつのまに!?トレイ先輩は、私のことを妹みたいに扱ってたはず……。チョコをくれるなんて……。あまりに現実味がなくて、思わず頬をつねる。それを見たトレイ先輩は、きょとんと不思議そうにしている。


……どうした?」
「いえ、その……もしかして、まだ夢の中なのかなって……


 自分でつねったほっぺは痛い。狼狽える私を見て、トレイ先輩は吹き出すように笑った。


「ははっ!いや、夢じゃないよ。現実だ」
「うそ……
「嘘でもない。俺は、お前のことが好きなんだ」


 先輩がもう一歩踏み込んだことで、玄関の扉がバタンと閉まる。後退りした瞬間、がしりと腕を掴まれてしまった。先輩は、空いている手で私の前髪を払う。おでこに顔を近づけられて、思わず目を閉じる。


「ああ、ここだとまた夢だと思われるか」


 ちゅ、と温かいものが触れたのは唇だった。
驚いて目を開くと、目を閉じた眼鏡越しのトレイ先輩のアップがあって一気に身体の熱が上がる。身を引こうとしたが、後頭部に移動した手に押さえられて離れることができなかった。ふに、と何度か長いキスを繰り返した後、トレイ先輩はゆっくりと身体を起こした。思わず自分の口を手の甲で隠す。私の、溶けそうなくらい真っ赤な顔を見て、トレイ先輩は嬉しそうに笑って、一瞬しまったという顔をした。小さく「うっかり先に……まぁいいか」と呟く。


「また、夢って……うそ、まさか……
「ああ。エースたちには内緒にしてもらってたんだが、昨日実はお前のことを夢の中まで迎えに行ったんだ」
「え、あ、あの……どこから……どこから本物の先輩だったんですか!?」


 ぐるぐると夢の中での出来事を思い出そうとする。昨日から、思い出そうとすればするほど記憶が薄れていっていた。夢だからそういうものなのかもしれないが、自分がなにか失態を犯していないかすごく心配になってきた。変なことを言ったりしたり……していた気がする!


「もしかして、もしかして最後にキスをお願いしたときって……
「俺だったな」
「ああぁぁぁぁぁぁ」


 恥ずかしすぎて顔を手で覆う。夢の中、言うなれば自分の妄想の一部だと思っていたから先輩にキスをねだったのに。まさか本物だったなんて!恥ずかしくてじわじわと涙が目に溜まる。先輩は、おかしそうに笑って「ところで、返事はくれないのか?」と言う。


「へ、返事……?」
「もう忘れたのか?今さっき、俺はお前に告白したんだが……
「あ、そうか。え、冗談じゃなく!?」
「そんな冗談言うわけないだろ。今日はバレエンタイン。好きな相手に告白する日だからな。返事、聞かせてくれるか?」
「私もトレイ先輩が大好きです!」


 自分が出せる精一杯の大声で返事をして、勢いに任せてトレイ先輩に抱きつく。先輩は、嬉しそうに笑って、強く、強く抱きしめ返してくれた。
先輩は私を抱えたまま、廊下を歩きはじめる。「タルトはどこで開けたんだ?」聞かれて談話室だと言えばそのまま進み始めた。


「そういえば、胸は何ともないか?」
「胸?」
「いや、胸というより心臓かな。変なところは?」
……あ、そういえば、保健室で診てもらった時、心臓の真上にあたる皮膚に痣みたいなのができてたんです。なんだか薔薇みたいになってて。先生はしばらく消えないと思うけど何ともないよって言ってました。身体を通った魔力の残留物?みたいなものらしいです」
「へぇ、そうか……。後で見せてくれ」
「はい。……え!?いや、見せませんよ!」


 にこっと笑ったトレイ先輩にそろそろ放してくれと胸板を押したところで、談話室の前ににたどりついた。すとん、と下に降ろされる。流れるように私の肩に手を置いた先輩は、もう一度ちゅ、と軽いキスを落とした。突然のことに思わずのけぞり、がん!とドアに頭をぶつける。それを見た先輩は、はは、と笑った。


「ひとつ約束してくれないか?」
「なんですか?」
「今後、チョコレートは俺が作ったものだけ食べて欲しい」
「大袋のもダメ?」
「ダメ」
「ふふ、分かりました」


「あ、そういえば私も先輩用にチョコ用意してます」と言うと、トレイ先輩は驚いた様子で少し頬を赤くした。


「食べてくれますか?」
「もちろん」


 即答してくれたことが嬉しくて、にやにやと上がる口角が押さえられない。トレイ先輩の手を握ると、優しく握り返してくれる。そうか、目覚めた時に右手に残っていた温もりは、先輩のものだったんだ。ふっと笑った先輩に微笑み返して、ゆっくりと談話室のドアを開けた。





「あっこらグリム!それは私のタルトだから食べちゃだめーー!」







おしまい。