botanin5
2024-11-18 21:17:24
32038文字
Public トレ監♀(小説)
 

絶対ここから出しません!

先輩にフラれたけど諦めたきれずに魔法の箱を使って出られない部屋に閉じこめられる話
※「監督生」呼びだけど、ほぼ呼ぶとこない
※ 捏造魔法道具が出る



「どうしたらトレイ先輩と付き合えますか?」

…………それは、本人に聞くことではないんじゃないか……?」


 オンボロ寮のゲストルーム。
 テーブルに広げているのは明日の魔法薬学で提出する予定のプリントで、もう八割は答えが埋まっている。勉強を教えてほしいという名目で片思いしているトレイ先輩を連れ込み、プリントそっちのけで恋の相談に勤しんでいた。平均程度の学力しかない私だが、プリントは教科書を見れば大体埋めることができる。しかし、トレイ先輩と話すために『勉強が全くわからなくて困ってるんです』という顔をしてしょっちゅう部屋に来てもらっていた。今日もそう言って悲しい顔をして、先輩をゲストルームまで引っ張ってきた。だって二人で話す時間が欲しいから。グリムは今ごろ軽音部でおやつを食べていることだろう。ケイト先輩に預けている。


「本人が一番よく知ってると思いませんか?」
「そりゃそうだろうが……普通はそんなこと直接聞かないだろ。お前、俺のこと好きだったのか?」
「え、今まで見てて分からなかったんですか?こんなに先輩について回ってるのに?」
……まぁ……そうかなとは思ってたよ」


 はは、とトレイ先輩は苦笑いする。向かい合って座っていたのだが、立ち上がって先輩が腰を落ち着けているソファに歩み寄って隣に座った。先輩は、じり、と少し後退したので、追いかけて距離を詰めた。


「どうしたら先輩と付き合えますか?好きです」
「俺と付き合ったところで、面白いことなんて何もないぞ」
「別に面白さなんて求めてないですよ。好きだから付き合いたいんですけど」
……


 困っているなぁ、先輩。トレイ先輩が私のことをいち後輩としか見ていないことは、今までの扱いから分かっている。だから、それとなくのアピールじゃ全く通じないと悟って察してもらえるように色々と頑張ってきたのだ。勉強の質問をトレイ先輩だけにしたり、廊下で会ったらダッシュで駆け寄ったり、頑張って作った手作りお菓子のラッピングを、1人だけ違うものにしたり。あなたにとても懐いています!と分かってもらえるよう行動していた。私がトレイ先輩のことが好きなんて、もはや学園では周知の事実だ。でも、一向に靡いてくれないので我慢できなくなって直接聞くことにしたのである。もう我慢の限界だ。


「私、入学したての時より可愛くなったと思いませんか?」
「ええと、そうだな。変わったとは思う」
「トレイ先輩に好きになってほしくて、ヴィル先輩にお願いして自分磨きしてました。どうですか?好みじゃないならどうすればいいか教えてください。頑張るので」
……落ち着け監督生。勉強まだ終わってないぞ」
「無理矢理話を逸らさないでください。勉強が分からないなんて、先輩を連れ込むための方便に決まってるじゃないですか!」
「正直にもほどがあるだろ!?」


 ずり、と少し落ちてしまった眼鏡を戻すトレイ先輩の袖をきゅっと掴む。悲しそうに目を潤ませて、上目遣い作戦だ。先輩を見上げて「……だめ?」と小さく呟いてみるが、先輩は「今更そんな顔には騙されないぞ」と呆れている。駄目か。


「やだー!トレイ先輩が好きなんです!付き合ってください!フラれるのやだー!」
「落ち着けって!」
「今は彼女いないんだから、お試しで付き合ってくれてもいいじゃないですか!」
「いないって……そんなこと誰に聞いたんだ」
「ケイト先輩とチェーニャさんです」
……あいつら……。待て、どうしてチェーニャに聞けるんだ?」
「ポートフェストで会った時にマジカメID交換しました。トレイ先輩の情報くださいってお願いしてます」
……はぁ……


 先輩は再び呆れたようなため息をついて、頭を抱えてしまった。好きな人の友達に接触するのは常套手段ではないだろうか。応援してくれそうな人を味方に引き込んでおくのは大切だ。それにしても、トレイ先輩はなかなかうんと言ってくれない。まぁ、予想はしていた。好きになったときから、この人は案外真面目で律儀なところもあって軽い気持ちで動いてはくれない厄介な男だと思っていたし、合理主義っぽいから情に訴えてもダメそうだと分かっていた。こちらが好きなことを察したところで扱いは変わらなかったのだから、もうぶつかっていくしかないだろう。だから今、こんな状況になっているというのに。


「うんって頷いてくれるだけでいいんです。楽なもんじゃないですか。首を縦に振るだけです」
「付き合うとなったら、そうもいかないだろ」
……先輩、私のこと嫌いですか」
「いや、そんなことはないけど……
「今からここは、『監督生のことを好きって言わないと出られない部屋』になりました」
……どれ、確かめてみるか」
「待って待って先輩!うそ!嘘だからまだ帰らないで!」


 ソファから立ちあがろうとした先輩の腰に抱きついて、なんとか引き止める。今まで自分ができることは全部やったつもりだ。もう何をしたら振り向いてくれるのか分からない。完全に手詰まりである。だからどうしたら付き合ってくれるのか本人に聞いているというのに、はぐらかされてばかりだ。
トレイ先輩は再び、はぁ、とため息をついた。ソファに再び座ってくれたので、手を放して自分もちょこんと座り直す。もしかして、怒っただろうか?いつも苦笑いで流してくれるから、それに甘えて無茶をしすぎてしまったかもしれない。焦りが生まれてきて、ちらちらと先輩の顔色を伺う。トレイ先輩はこちらを向いて、ようやく口を開いた。


……諦めてくれないか」
「えっ」
「お前とは付き合えないよ。4年になったら研修もあるし、勉強もしなきゃならない。副寮長の仕事だってある。恋人にまで手は回らない」
……じゃ、邪魔はしませんから」
「付き合ったところで、お前はきっと飽きてしまうと思う。これまで通り、先輩と後輩でいた方がいいんじゃないか?」
……
「な?聞き入れてくれ」


 ぽん、と頭を撫でられる。すっかり眉を下げて、困った笑顔を向けられてしまい何も言い返せなかった。「……はい」と小さく返事をする。ボーン、と時計が18時を告げる音を鳴らし、先輩は「そろそろ夕食の時間だな」と勉強道具を片付け始めた。淀みなく動く先輩の手をぼーっと眺める。集めた教科書を、トンと揃える音がする。ソファから立ち上がった先輩が、「じゃあ、また明日」ともう一度頭を撫でて部屋を出て行った。足音が完全に聞こえなくなったと同時に、ポスっとソファに倒れる。ちょうど頭上に来たクッションをガッと掴み顔を埋める。


「やだーーーーー!!!」


 フラれたフラれたフラれた!今まで好意は伝えてきたけれど、ちゃんとした告白はしてこなかった。だから、拒絶されることなくぬるま湯の中で先輩が可愛がってくれるのを楽しんでいたというのに。完全に、フラれてしまった。ぽろ、と涙が溢れる。心のどこかでフラれることは分かっていたけど、現実になると辛い。もしかして、もしかして付き合ってくれるかもしれないという可能性だってちょっとだけ考えていたのに。

 トレイ先輩にアピールするために行ってきた、数ヶ月に及ぶヴィル先輩の厳しい訓練が頭を駆け巡ってゆく。
 あんなに頑張ったのに、駄目なんだ。
 ……慰めてもらいに行こうじゃないか。




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 鏡を抜けてポムフィオーレ寮まで全速力で走り、ヴィル先輩の部屋へ真っ直ぐ向かった。ドアを開けると同時に大泣きした私を、先輩は呆れた顔で迎え入れてくれた。促されて椅子に座ると、ヴィル先輩はベッドに腰掛ける。先輩の部屋はいつも良い香りがする。ゴミ箱は、私の涙と鼻水が染み込んだティッシュであっという間に溢れかえってしまった。


「はぁ……すっかり目が腫れてるじゃない。これで冷やしなさい」
「ずびっ……ありがとうございます……


 完璧にトレイ先輩にフられました。受け取った冷えたハンカチで目を抑えながらそう伝えると、ヴィル先輩は何か思案する様に数秒だけ目を伏せて、すぐにこちらを見て「……はぁ。そう。残念だったわね」と言った。残念だった。本当にそう。トレイ先輩が作る甘いお菓子をどれだけ食べても太らないように、毎日ランニングや筋トレをした。ヴィル先輩から教えてもらった方法でスキンケアだってこなしてきた。これは順序も使うものも多くてとても大変だった。でも、私の努力はトレイ先輩には関係ないことなのだ。私が勝手にやっていただけ。だけど……すごく悔しい。少しでも、少しだけでもいいから、こっちを向いて欲しかった。


「諦める?」
「諦めたくはない……です。でも、今ちょっと心は折れてます。……怒りますか?」
「怒ったりしないわよ。アンタの努力はアタシがこの目で見てるもの」


 ヴィル先輩の言葉に、止まっていた涙が再びじわ……と滲んできた。そうだ、先輩はずっと私を支えてきてくれたのだ。「結果を出せなくてごめんなさい……」と萎れていると、ふわりと優しい香りに包まれる。ヴィル先輩がベッドから立ち上がり、幼子をあやすようにそっと抱きしめてくれた。綺麗な寮服に涙のしみがつかないように、焦って制服の袖で顔を拭う。「肌が傷むからやめなさい」と短く言われ、大人しく胸に頭を預けた。

 少し経って涙も呼吸も落ち着き、身体を起こすとヴィル先輩の腕もゆっくりと外れる。「ひどい顔ね」と少し笑われてしまった。恥ずかしくなって手で顔を隠していると、先輩はチェストから一冊の本を取り出してきた。ところどころよれていて、古く見える赤銅色の革装本だ。高級そうに見えるが、触っても良いのだろうか。差し出されるがままに本を受け取る。タイトルは書かれていない。厚みは親指の半分くらいだろうか。中を開こうとすると、「待って」と止められてしまった。


「その本の中は白紙なの。そして……“呪い”を付与してあるわ」
……それって」
「そう。アタシのユニーク魔法、『美しき華の毒』を使ったの」
……なんの呪いをかけたんですか?」
「その本を開いた者は、……思慕の念を忘れるだろう」


 呼吸が止まった気がした。今もし、この本を開いたら……私は、トレイ先輩を恋い慕うこの気持ちを忘れることができる。でも、忘れてしまったら……。視線を落として、手元の表紙を撫でる。気持ちごと捨てるか、もう少し頑張るか。どうしようかと考えたところで、魔法を解くための条件を聞いていないことに気がついた。ヴィル先輩のユニーク魔法は、“条件を満たすまで”魔法が解けない。ということは、一度忘れたとしても条件を満たすと恋心は戻ってくるのだ。


「あの……魔法を解く条件はなんですか?」
「教える必要ある?」
「えっ」
「捨てるなら、もう元に戻らない覚悟を持ちなさい。いつまでも未練がましく過去の男にすがるなんて、美しくないわ」


 そこまで言うのならば、おそらく簡単に解ける条件ではないのだろう。意志の強いヴィル先輩だ。泣きついたところで教えてくれるとは思えない。どうしようか。本を持ったまま決められないでいると、先輩は再びチェストを開けて今度は太いベルトのようなものを取り出した。腰に巻くには短いように見える。


「ブックバンドよ。うっかり開かないように留めておきなさい」
……いいんですか?」
「そもそも、今すぐ本を開くかどうかなんて決めなくてもいいわ。フラれて悪い意味で気が昂ってるのに正常な判断が出来るとは思えない。『いつでも気持ちを捨てられる』と思ってるだけでも、少しは気が楽になるんじゃないかしら。だから渡しておくわ。いつ使うか、使わずに置いておくかは自分で決めなさい」
……はい。ありがとうございます」


 ブックバンドで留めた本を、ぎゅっと抱きしめる。
 もうちょっとだけ、頑張ってみようかな。だってまだ、一度フラれただけだ。後輩としてとはいえ、嫌われているわけじゃない。1年生の中では、ひょっとしたら同じ寮のエースやデュースよりも可愛がられている節がある。望みがあるんじゃないだろうか。


「明日からまたアプローチかけます!」
「ふっ……目に生気が戻ってきたじゃない」


 背中をバシッと叩かれて「それじゃあもう寮に戻りなさい」と部屋から追い出される。時計を見ると、ヴィル先輩がいつも夕食をとっているだろう時間は過ぎてしまっていた。ドア越しに「ありがとうございます!」と大きな声で挨拶をして、寮の出口へと向かう。自分磨きを始めた当初、ヴィル先輩に「トレイ先輩に告白したい」と伝えた時は「正気なの?」と引かれたものだ。「一番気を付けなきゃいけないタイプの男」と語っていた通り、すぐ人を甘やかすトレイ先輩は、ストイックなヴィル先輩の中では恋人に向いていないのだろう。しかし、異世界に手ぶらでポンっとやってきた私にとっては、優しく構ってくれるトレイ先輩は心の拠り所だった。何も、全部頼りたくて付き合うわけじゃない。ちょっと辛い時、ちょっと寂しい時にトレイ先輩の優しさは心に染み込んでくるのだ。もう自分の奥深くまで浸透していて、抜け出せそうにない。


「諦めてやらないから……!」


 もう一度自分の気持ちを奮い立たせて、ポムフィオーレ寮の鏡を通り抜けた。




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「おはようございますトレイ先輩、好きです!」
……気持ちだけもらっておくよ」


「トレイ先輩付き合ってください!」
「付き合えないって言ってるだろ。ほら、この問題解けたのか?」


「トレイせんぱーい!好きでーす!!わぁっ!?」
「こら!危ないから箒に二人乗りしてる時に手を振るな!グリムがバランスとれてなじゃないか!」


 「……ごめんなさい」
 落ちそうになった私を、箒に乗って急いで拾い上げてくれたトレイ先輩の背中にぎゅっとしがみつく。どうしてこの背中は私のものにならないんだろう。「授業中にふざけるもんじゃないぞ」と前を向くトレイ先輩から声がかかる。今は飛行術の最中で、バルガス先生がアズール先輩を見ている隙にグリムと一緒に少し飛んでみたところだった。「……ふざけてないもん」と呟いたが、トレイ先輩からの反応は無かった。
 フラれてから1週間ほど経った。諦めないと決めたから、毎日毎日トレイ先輩に告白し続けているのだが、日に日に先輩の受け流す技術が上手くなっていくだけだった。ところ構わず告白する私を見て、周囲は最初こそ冷やかし囃し立てていたが、もう今となっては「……頑張れよ」と切なそうな顔を向け、肩をポンと叩いてくるばかりだ。

 乗っていた箒が減速し、地面にそっと足が着く。
流石に迷惑をかけてしまったと落ち込んで、シュンとしながら「ありがとうございます……」とお礼を伝えると「怪我がなくて良かったよ」と頭を撫でられる。ぎゅうと胸が締め付けられる。この優しい手を独り占めしたいのに。私にはできない。

 私から離れてケイト先輩たちの方へと戻っていったトレイ先輩を眺める。視界の端で、グリムがぽよんと芝の上に落ちたのが見えて、迎えに行くためにそちらへと向かう。その時、先輩たちの声が耳にそっと届いた。


「今日も熱烈な告白だったね〜監督生ちゃん。みんな注目してるよ♪」
「あぁ……最近廊下でも他の奴から視線を感じるし、少し居心地が悪いよ」


 その言葉に振り向くと、苦笑いするトレイ先輩が見えた。普段から目立つことが得意ではないと言うだけあって、今の状況は先輩にとって嫌なのかもしれない。面と向かって「告白をやめてくれ」とは言われていないが、それも時間の問題だろうか。フラれてはいるのだから、私がやめなければ延々と続く鬼ごっこになる。どうしよう。嫌な思いをさせたいわけではない。

 もう、終わらせたほうがいいかもしれない。
 でも……最後に一度だけ足掻きたい。





 「セェェェンキュウゥゥゥ!」
 ポップな音楽が流れる店内から出ると、急に静けさが身を包む。
 グリムのツナ缶と一緒にこっそり買ったのは、『Magic room』と書かれた手のひらサイズの桃色の箱だった。この箱自体に魔法がかかっているため、私でも使うことができる。
 この箱を密室の中で開くと、その部屋は箱が指定する条件をクリアしないと出られない部屋になる。腹筋を200回しないといけなかったり、カレーを10杯食べないと出られなかったりと、頑張ればクリアできる条件がランダムに付与されているジョークグッズの一種だ。箱の色ごとにお題のジャンルが分かれていて、桃色は恋人同士が遊ぶためのものだった。どうせ次のアプローチを最後にするなら、思い出作りをしてやろうじゃないか。バイト代をはたいて、箱の中でも一番高いものを購入した。

 ハーツラビュル寮の鏡を通り抜け、談話室にいたエースとデュースにグリムを預ける。どこへ向かうのかすぐに察してくれたようで、「ごゆっくり〜」と手を振られた。
 トレイ先輩の部屋の前に着いて、トントンとドアをノックし声をかける。寮服の上着を脱いで、Tシャツにベストというラフな格好の先輩が出迎えてくれた。


「どうしたんだ?こんな時間に。夕ご飯は食べたのか?」
「後で食べます!それより、今日の課題で解けない問題があって……ちょっと教えてもらってもいいですか?」
「分かった。中に入るか?」
「はい」


 よかった。談話室へ行こうと言われたらどうしようかと思った。ドアを支えてくれているトレイ先輩の横を通り抜けて、部屋の中に入る。奥の窓を確認すると、しっかりと閉じられているのが見えた。ドキドキと緊張で手に汗が滲む。バレたらすぐに箱を取り上げられてしまうだろう。先輩がドアを閉めたのを確認して、ポケットに無理矢理突っ込んでいた箱を取り出す。


「トレイ先輩ごめんなさい」
「え?」
「なんかイチャイチャできるお題出ろーー!!!」
……は!?」


 部屋の真ん中に立って、手に持った箱を開ける。中はキラキラと光っていて見えないが、じっと見ているとぐにゃりと視界が歪んだ。一瞬、ジェットコースターから落ちるような浮遊感がした後、いつのまにか私とトレイ先輩は見覚えのない部屋の床に座り込んでいた。

 部屋の大きさはトレイ先輩の自室とさほど変わりない。先輩の部屋がベースになっているのかもしれない。壁紙や天井は、クリーム色に小さな花柄が散りばめられた可愛らしく目に優しいものに変わっている。それよりも、真っ先に目についたのは壁に接するようにL字に配置されているキッチンだった。IHらしいクッキングヒーターにシンク、鍋や皿が重ねて置いてある棚に、調味料がずらりと並んだラックもある。シンクにつながる作業台の上には、籠に入った数種類のパンも見えた。バゲットやバタール、ブールにシャレストンが入っている。さらにその隣には冷蔵庫やレンジも置いてあって、部屋の中心にはダイニングテーブルと椅子が二つ置いてあった。


「どこだ?ここ」
……えーと、『Magic room』の中です」
「お前がさっき持ってたの、あのおもちゃだったのか……。マジカルペンは……制服のポケットに挿したままだな」


 はぁ、と頭を抱えたトレイ先輩に少し申し訳ない気持ちになる。先輩が立ち上がったので、同じように立って部屋を見回す。キッチンの反対にあたる壁にはドアがひとつ付いていた。そのドアのトレイ先輩の頭より少し低いあたりに、アルミ板のようなものが取付けてあった。文字が彫られている。トレイ先輩が冷蔵庫の中を確認しに行ったので、私はドアに近づいて文字を確認する。

『二人で一緒に朝食を作って食べること』


「えーと、朝食……?」
「食事をすればいいのか?」
「うわっ!急に後ろに立たないでください、びっくりした」
「はは、悪い悪い。冷蔵庫の中に卵や野菜、ハムにベーコンもあったんだ。フルーツも。キッチンは勝手に使っても良さそうだな」


 いつの間にかこちらに来ていたトレイ先輩は、少し楽しそうな様子でキッチンへと向かった。「二人で一緒に作るんですよ!」と言いながら急いでその後を追う。サラダを作るように指示されて、冷蔵庫からレタスやきゅうり、ミニトマトを取り出す。床に四角いラインと取っ手を見つけてしゃがみ込んで開けてみると、中にじゃがいもなどの根菜があった。「マッシュポテト作りますか?」とトレイ先輩に聞くと、「潰すのが厄介だから、それはまた今度な」と言われた。今度作ってくれるということだろうか。
 ぱりぱりとレタスを剥いで食べやすいサイズに千切っていると、トレイ先輩はバタールを厚めに切って黄色い液へ浸していた。横には牛乳パックや卵の殻が置かれている。フレンチトーストでも作るのだろうか?
 夕ご飯を食べないままここへ来てしまったので、甘いご飯はちょっと物足りないかもしれない。しかし、『朝食』という指定なのにステーキを作ってもらうわけにもいかないだろう。そもそも、なんだろうこのお題は。たしかに桃色の箱を買ったはずなのに、予想とは全く違うお題で拍子抜けしてしまっていた。

 きゅうりを切って、野菜を順番にお皿に並べていると、トレイ先輩は先程の液に浸したパンの上にチーズとハムを交互に重ねて乗せた。上から同じく液に浸ったパンを重ねて、黒胡椒をかける。それをターナーで持ち上げてバターをひいたフライパンへと移動させる。


「クロックムッシュだ!」
「お。分かったか。もう少し待ってろよ」
「一気にお腹空いてきちゃいました」


 ははっと軽く笑ったトレイ先輩にきゅっと胸を射抜かれながら、棚から見つけたランチョンマットをダイニングテーブルに敷く。ナイフとフォークも並べた。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注ぐ。ヨーグルトも見つけたので、ガラスの小鉢に分けておいた。なんだか、一緒に食事の用意をしている新婚さんの自分になって、ひとりで照れてしまう。それぞれ二つの小皿に乗せたサラダを置くと、トレイ先輩がお皿にのった温かいクロックムッシュを持ってこちらにやってきた。すごく美味しそうだ。とろけたチーズのいい香りがする。


「美味しそう〜〜ありがとうございます!」
「喜んでくれて良かったよ。サラダや食事の準備をしてくれてありがとな」


 向かい合って席について、早速ナイフとフォークを手に取り出来立てクロックムッシュに刃を入れる。液に浸されて柔らかくなったバタールはすぐに切ることができた。でも、チーズに満たされていてその断面は見えない。一口大に切ったパンをフォークで刺して口に運ぶ。ハムとチーズがよく合っていて、黒胡椒が効いてくる。液に入っていたのか、ほんのりニンニクとマヨネーズの風味がして食欲をそそる。


「さいこうでふ!」
「こら、食べながら喋るとこぼすぞ。……本当に美味しそうに食べるなぁ」
「だって美味しいですもん」


 にこにこしながらあっという間に平らげ、食後のヨーグルトを食べようと出し忘れたスプーンを取ってくると、トレイ先輩は「で、目的はなんだったんだ?」と尋ねてきた。目的ってなんのことだろうかと返そうとしたところで、そういえばここは『出られない部屋』の中だったことを思い出した。スプーンを先輩に渡して席に座り直す。


……本当は、もっとこう……イチャイチャできる部屋だと思ったんです」
「お前なぁ……
「だって先輩、全然振り向いてくれないですし」
「告白は断っただろ」
……だから、思い出作りと言いますか……
「とんでもないお題が出たら、どうするつもりだったんだ」
「正直いやらしいの期待してました」
「げほっ……ん゛ん゛……身体を張りすぎだ!」


 オレンジジュースにむせたトレイ先輩は、少しだけ頬を赤らめて眉間に皺を寄せた。そういう反応をするから、私は希望を捨てられないのに。それにしても、一番高い箱を買ったのにこのお題では正直納得がいかない。ここを出たら、サムさんに文句を言いに行くべきだろうか。作ったのは彼じゃないけれど、製品元にちょっとクレームを入れるくらいは許してほしい。
 食べ終わってまとめた食器を二人で分担して洗い、水気を拭いて片付けるとガチャリと鍵が開く音が聞こえた。ドアの方を見ると数センチほど開いている。もうここから出なきゃいけないのか……せっかくトレイ先輩と二人きりの空間なのに……それに、これじゃまだ諦めがつかないよ。そんなことを思いながら、先輩の後について進もうとすると、突然ぽすっと前の背中に顔をぶつけた。見ると、トレイ先輩はドアノブを握り、足を踏み出した状態で止まっている。


「どうかしたんですか?」
……次の部屋だ」
「え?」


 出口かと思ったそのドアは、違う部屋への入り口だったらしい。トレイ先輩がゆっくりと進んだのでドアを抜けて後をついていくと、そこは壁が本で埋まった部屋だった。カチリと背後のドアに鍵がかかる音がする。振り返ると、そのドアにもアルミ板のようなものが打ちつけられており、そこには『二人で協力して問題集を全て解くこと』と書かれていた。
 部屋をぐるりと見回す。天井は高く、暗くてよく見えない。四方の壁には本棚がはめ込まれているようで、その全てが隙間なく本で埋め尽くされていた。近くに寄って見ると、図書館でも見たことがある薬草の図鑑や、魔法石に関する学術書だった。「……これか」という声に振り向くと、先ほどの部屋にあったダイニングテーブルと同じような机と、二つの椅子が部屋の中心に置いてあった。その机の上に、冊子が置いてある。手に取ったトレイ先輩の横に並んで覗き込んでみると、一年生で使っている魔法薬学の問題集だった。クルーウェル先生がたまに宿題を出した時や、長期休暇の時にページ指定をされるので、書き込んで提出しているものと同じだ。しかし、ここにある冊子は裏に名前も、中の書き込みもなく新品のように見えた。


……これ全部解くんですか?私まだ習ってないところもあるんですけど……
「周りの本棚に参考書があるようだし、俺はもう終わってる範囲だから心配しなくていいさ」
「そりゃ3年生は終わってますよね」
「せっかくだし、復習しながら解くか。良かったなぁ、予習もできるぞ」
「悪い顔してる!」


 ニヤリと笑ったトレイ先輩は、椅子に座ってページの最初を開く。私は向かい側にあった椅子を持ってきて、先輩の隣にくっつけて座った。テーブルの上に置かれた見知らぬペンケースからシャープペンシルと消しゴムを出すと、冊子は私の前に置かれた。復習というのは本気らしい。


「私が解くより先輩がささっと解いた方が早いんじゃないですかね」
「条件は『二人で協力して』なんだろ?それに、時間は気にしなくて良さそうだぞ」


 トレイ先輩がポケットから取り出したスマホの画面をこちらに見せる。電波は届いていないらしい。何を見ればいいのかと首を傾げると「さっきから時計が動いてないんだ」と言う。朝食を作る前に一度確認した時間から、ずっと変わっていないらしい。スマホが壊れていないのであれば、この『Magic room』の中では時が止まっていると考えていいだろう。「けっこう高い箱を買ったんだな」と言われ少し恥ずかしくなってしまった。私の期待と下心がバレバレである。

 さて、問題集はある程度薄い冊子とはいえ、1年間使う予定の量だ。真剣に解いても数時間はかかるだろうが、トレイ先輩はしっかり勉強を教える気である。魔法薬学は嫌いではないし、学ぶこと自体は楽しい。でも、これってイチャイチャとは程遠い。小さくため息をついて、シャープペンシルを握り直した。




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「できたー!!」
「よく頑張ったな、おつかれ」
「もっと褒めてください」


 いったい何時間経っただろうか。ようやく問題集を全て解ききることができた。トレイ先輩の解説はすごく分かりやすくて勉強になったが、ずっと同じ科目をやり続けるのは流石にきつかった。先輩が、私が飽きたのを察して時々休憩を挟んでくれて助かった。雑談をしたり、席を立って部屋をぐるぐる歩いたりしたおかげで、なんとか挫けずに済んだ。一緒にいるのがトレイ先輩じゃなかったら、疲れで険悪なムードになっていたかもしれない。気が長い先輩と一緒でよかった。

 ガチャリとドアが開く音がする。
 せっかく解いた問題集を持っていこうとしたが、トレイ先輩に取り上げられてしまった。別に、今度からこの答えや解き方を参考にしようなんて思ってないのに。クルーウェル先生は冊子の答えを配布してないから、この冊子があれば後が楽だな〜なんて少しも、これっぽっちも思っていないというのに。先に部屋から追い出されて、ドアを抜ける。すると、目の前にはまたキッチンが現れた。何時間勉強していたのかはわからないが、お腹が空いていたので助かった。

 カチリと閉じたドアを振り返ると、今度は『二人で一緒に昼食を作って食べること』と書かれていた。さっきは『朝食』で、今度は『昼食』。トレイ先輩の「もしかして『1日』をこなさないと出られないのか」という言葉に頷く。朝ご飯を食べて、勉強をして、次はお昼ご飯。おそらくそれで間違いないだろう。先ほどと同じ配置のキッチンだったが、冷蔵庫の中身や食べたパンは補充されていた。


 今度は一緒にパスタを作る。時間に余裕があるからと、さっきは作らなかったマッシュポテトも先輩が作ってくれた。「夕飯は何がいい?」と聞かれたので、「お肉を使ったものがいいです!」と元気よく答えると、先輩は「食い意地はグリムといい勝負だな」なんて楽しそうに笑った。

 洗い物を済ませると先ほどと同じように鍵が開く音がしたのだが、トレイ先輩に「歯ブラシを探さないか?」と提案された。さっきの朝食後は、この空間から出られると思っていたから我慢したそうだが、ここで1日を進めるとなると歯磨きせずにはいられないらしい。私はどうしても出来ない状況だったら気にならないが、トレイ先輩はそうもいかないのだろう。一緒にキッチンの棚を開けて探していると、シンクの下の扉の中にタオルとプラスチックのコップ、歯磨き粉と歯ブラシがあった。「このブラシだけか……まぁ、今は仕方ないな」と呟いた先輩の指導に従って歯磨きをした。いつも先輩は歯間ブラシや舌用ブラシを使ってもっと丁寧に磨いているのだろうが、この部屋にはそこまで置かれていなかった。


「それじゃあ、次の部屋に行こう」


 ようやく歯磨きを終えて次の部屋に向かうと、そこにはさまざまなフィットネスマシンが置かれていた。ランニングマシンやフィットネスバイク。腹筋マシンの他に、フラフープや縄跳びも置いてある。カゴに入ったタオルや小さい冷蔵庫も置かれていた。


「ええと……体力育成ってことですかね……?」
「おそらくな」


 冷蔵庫の中にはスポーツドリンクが数本入っていた。壁には男女年齢別のダイエット用消費カロリー数値が書かれた表が貼り付けてあった。振り返ると、ドアには『二人で規定カロリーを消費すること』と書かれている。


「さっき勉強で座りっぱなしだったので、ちょっと嬉しいです」
「そうだな。でも、これは……結構な運動量だぞ」
……休憩しながらやりましょう!」


 タオルの下に畳んであった運動用のジャージを取り出す。ナイトレイブンカレッジの運動着はつなぎだが、ここに用意されていたのはセパレートタイプだった。正直こちらの方が運動時に着る服として見慣れている。トレイ先輩が壁の方を向いてくれている間に、ささっと着替える。


「先輩、本当にずっと壁の方向いてる」
「えっ、当たり前だろ?」
「ここはこっそり着替えを覗くところじゃないんですか!?」
「いいから早く着替えてくれ!」


 そこまで私に興味が無いなんて、ひどいと思う。呆れたように突っ込むトレイ先輩を少し不満に思いながら、「着替え終わりました」と声をかける。すると、「はい、じゃあお前はここな」とランニングマシンに立たされてスイッチが押されてしまった。急いで足を動かす。「えっなんで!?先輩!」と焦りながらも走っていると、ランニングマシンから死角になる位置でさっさと着替え終わった先輩が顔を見せてくれた。隣のマシンに立って、先輩も軽く走り始める。


「着替えを覗かれそうだったからさ」
……よくお分かりで」


 にこっと笑った先輩を見て唇を尖らせる。ちょっとくらい良いじゃないですか。「全然箱の恩恵がないです!」と叫ぶと、「高ければいいってもんじゃない。……って、良い勉強になったな」なんて笑われてしまう。
 先輩には内緒だが、全く恩恵がなかったわけじゃない。こんなに長い時間、トレイ先輩と一緒にいられるだけでもすごく嬉しかった。一緒に料理をして、勉強も楽しく終わって、トレイ先輩と過ごす時間は穏やかで楽しくて心地よい。「やっぱり好きだなぁ……」と小さく呟いた声は、機械の音に負けて届かなかった。




✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 条件をクリアし、ヘロヘロになりながら次の部屋へと向かう。想像していた通り、そこにはまたキッチンがあった。今度は夕食だ。休憩しながらとはいえいつもの体力育成の3倍は動いた気がする。もう筋肉痛が始まってしまいそうだ。トレイ先輩も流石に少し疲れた様子を見せていた。部屋を移る前に汗だくの身体を拭いて、別のジャージを着直していた。何枚も置いてあって助かった。下着の替えは無く汗で湿っているのに、上から制服を着るのは嫌だったのだ。トレイ先輩も、寮服のTシャツやズボンを手に持っている。

 ダイニングテーブルの席に腰掛けて、冷蔵庫から取り出したジュースを飲んでひと休みする。疲れた。正直何もしたくない。でも、この部屋のお題は『二人で一緒に夕食を作って食べること』だ。トレイ先輩がボソリと「……肉にするんだったよな」と言ったので、「はい……」と呟き返す。二人でのっそりと冷蔵庫に近づいて、中を見る。厚めの牛肉を見つけたトレイ先輩がパッケージを破いてまな板に乗せる。大きめの一口大にざっくりと切り、塩と胡椒をまんべんなくかけた。ニンニクを薄くカットして、フライパンにオリーブオイルを溜めて鷹の爪と一緒に炒める。香りが立ってきたところでオリーブオイルをさらに加え、牛肉と私が切ったポテトとエリンギを煮込んだ。アヒージョだ。先輩が煮込んでいる間に、バゲットを何枚か切ってトーストする。お腹すいた。

 出来上がった料理をダイニングテーブルの真ん中にどん!と置き、熱い熱いと言いながら食べているうちに気力が回復してきた。すごく美味しい。お肉も大きめで食べ応えがある。ポテトも皮がパリッとしていて美味しい。ひと息ついてから、もう少し食べられるな……と思って冷蔵庫を漁っていると、トレイ先輩が「バナナケーキでも作るか」と椅子から立ち上がった。ホットケーキミックスで簡単に作ってくれるらしい。指示された通りオーブンの用意をして、添えるためのホイップクリームを作る。そのうちに、トレイ先輩はバナナを潰して卵とホットケーキミックスも混ぜて生地を作った。上の棚に入っていた型にできた生地を流し込み、上に数枚薄く切ったバナナを乗せる。
 焼いている間に夕食の洗い物を済ませてしまい、紅茶をいれる。出来上がったケーキはすごく良い香りがして、やっぱりトレイ先輩と一緒で良かった……と喜びを噛みしめた。


 すでにドアは開いていたが、ケーキを食べ紅茶を飲みながらゆったりとした時間を過ごしていた。どうせ時は止まっているのだ。焦っても仕方ない。最近あった出来事や、エースとデュースのこと、子どもの頃の出来事なんかを互いに聞きながら過ごし、そろそろ移動するかという話になって歯磨きを終える。


「次はなんでしょうね。夕食の後だからーー」
……


 ドアを開けたトレイ先輩が、その先を見つめて黙り込む。
 どうしたのかと背伸びして肩越しに向こう側を覗く。


 そこにあったのは、タイルの床と壁。
 籠に入ったタオル。
 壁に引っ掛けられたシャワー。
 人工大理石らしい置き式バスタブ。


『互いの身体を洗って入浴を済ませること』




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「流石、ピンクの箱ですね……
「どうしたんだ?壁に張り付いて。お前が望んでいたのはこういうお題だったんだろ」
「ちょっと予想を飛び越えてました!!」


 誰でも買えるジョークグッズだし、いくら高いとはいえここまでのお題の流れで正直油断していた。ハグやキス、ひょっとしたらセックス……その可能性までは考えていたし、トレイ先輩と既成事実を作ってやろうかと意気込んでいたのも事実だ。しかし、お互いの身体を洗うのは、なんならエッチするよりえっちじゃないですか!?


「さっさと済ませよう。ここを出たら、あとは多分『ベッドで眠ること』とかその辺りだろ」
「あ……はい……そんな気はしますけど」


 体力育成の着替えで多少動揺していたはずのトレイ先輩は、動じることなく服を脱ごうとしている。あっという間に腰にタオルを巻いただけになってしまった。さっきは見逃した先輩の肌が目に入って心臓に悪い。運動部でもないのに、うっすらと線が入った腹筋が憎い。バクバクと暴れる心臓を抑えながら、バスタブの横にあったカーテンの裏へと逃げ込む。数秒迷って、脱ぐために服に手をかける。ひとまず先輩の前にはバスタオルを巻いて出よう。薄いカーテン1枚の向こう側に、好きな人が立っていると思うと恥ずかしくて泣きたい気持ちになった。自分で招いたことなのに。もし箱のお題がセックスだったら、私は本当にできただろうか?ぐるぐると回る頭を振って、巻いたタオルを握りながらそっとカーテンから顔を出す。考え事に夢中になって気が付かなかったが、トレイ先輩はバスタブのなかに立ち先にシャワーで頭を流していた。メガネはタオルの上に置いてある。


「先輩お待たせしま……つめたっ!水!?」
「あぁ、悪い。ええと、それじゃあどうしようか。中じゃ狭いし、ここに湯を溜めておいてバスタブの外で洗うか。床が濡れても構わないだろ、きっと」
「それで良いですけど……なんで水被ってるんですか!?風邪ひきますよ!」
「ちょっと頭を冷やしてただけだよ。それより壁を見てくれ」


 トレイ先輩に言われて壁を見ると、壁には四つのボタンのような丸いライトがついていた。縦横に2個づつ四角くなるよう並んでいる。左側2列の上には男性、右側2列の上には女性に見えるピクトグラムのイラストが書かれている。ライトの左側の壁には、『hair』『body』という文字が上下に並んでいた。おそらく、男性の髪を洗い終えたら左上のライトが点き、女性の身体を洗い終えたら右下のライトが点く……といった仕様なのだろう。4つ全てが点けば『互いを洗った』と判断されるらしい。


「とりあえず髪は普通に洗うとして……身体は、どこまで洗えばクリアとみなされるか様子を見ながらにしよう」
「そ、そうですね」
……それじゃあ、俺が先にお前の髪を洗うよ。しゃがんでくれるか?」
「はい!」


 タオルときゅっと握り込んだまま、バスタブの横にしゃがみこんだ。トレイ先輩は籠のタオルの上に置いていたメガネをかけ直し、シャワーを手に取ってお湯の調節を始める。手を出すよう促され、「これくらいで大丈夫か?」と温度を確認されて、こくこくと頷く。正面に膝をついたトレイ先輩の腰に巻かれたタオルをたどっておへそ、腹筋、胸板と順に追ってしまって、思わず目を閉じて下を向いた。


「それじゃあ、濡らしていくぞ」
「お願いします……!」


 下を向いていたことで、後頭部にそっとお湯がかかる。トレイ先輩の長い指が髪を梳いていく。お湯を浸透させるために頭を撫でられて、その優しい手つきに高揚感が抑えられずタオルを握る手に力が入る。「リンスインシャンプーしか無いみたいなんだが、大丈夫か?」と聞かれて少し笑ってしまった。ヴィル先輩だったら「ありえない!」と卒倒しそうだが、今日一日くらい構わないだろう。トレイ先輩に洗ってもらっているだけで、髪がしっとりしなやかになっている気がしてくる。泡立った頭を再びお湯で流してもらい、自分の手でお湯を払いながら髪をかき上げる。目の前のトレイ先輩は、壁のライトが点いていることを確認し、ひと仕事終えた顔でホッとしていた。「ありがとうございます」と笑うと、先輩もふっと口角を上げた。

 洗顔も置かれておらず、とりあえず顔はお湯で流すだけに止める。次は私がトレイ先輩の髪を洗う番だ。
 メガネを預かり、畳まれたタオルの上に置く。お湯はさっきの温度のまま、胡座で座る先輩の前で今度は私が膝立ちになる。ぐっと上体をこちらに倒した先輩の背中が見えて、ドキドキした。背骨が少し浮いている。「ではお湯をかけますね」と言って髪に手を添えながらシャワーをかけていく。先輩はさっき水をかぶっていたせいか、髪は冷たくなっていた。やはり風邪を引いてしまうのではないだろうか。どうして水なんて浴びていたんだろう。暑かったのかな。ツンツンした癖っ毛の髪に指を通す。先輩の左側でいつも跳ねている髪は、濡らしても跳ねたままで可愛い。

 途中でタオルが外れそうになるのを直しながら、なんとか洗い切ることができた。先輩の髪が短いことが助けになった。壁のライトが付いていることを確認し、「終わりです!」と告げると、先輩ははぁぁぁと大きく息を吐き出した。止めていたのだろうか。
 残るは互いの身体だけだ。ライトは下2つがまだ点いていない。どちらから始めるか、しばし無言の時間があって、トレイ先輩が「腕からいってみるか」とメガネを外したまま、タオルの籠に入っていた柔らかそうなボディスポンジを手に取った。薔薇のようにくしゅっと丸めてくくってあるタイプだ。

 ボディーソープをつけてくしゅくしゅと泡立てると、しゃがんでいる私の右腕をそっと手に取った。指先から順に泡が乗せられていく。慎重に、優しく滑るスポンジがくすぐったい。掴まれている腕からトレイ先輩の指先の体温が伝わってきて、心臓がうるさいくらい鳴り響く。トレイ先輩に聞こえているんじゃないか、いや別に、聞こえてたって構わないけど、と次々頭に浮かんでくる。ヴィル先輩の言いつけを守って日々肌の手入れをしていてよかった。
二の腕まで上がってきたスポンジが、首まで到達する。そのまま頸をまわって鎖骨をなぞるように先輩の手が身体を滑っていく。先輩は、スポンジを持つ手が私に触れないよう気をつけているようだった。支えとして手が添えられている腕以外の接触はないのに、撫でられているような気持ちになる。壁のライトが点灯する様子はない。左腕もすっかり泡に包まれた。


「まぁ……この程度じゃダメだよな」


 そう呟いた先輩に「床で悪いが……座れるか?」と聞かれてお尻をつける。椅子がないのだから仕方がない。次は足を洗うのだろう。両足を伸ばして座り、タオルの胸元と足の間がはだけないよう手で抑える。先輩の大きな手が、今度は太ももに添えられたのだが、その瞬間むず痒いくすぐったさが伝わって思わず「ひっ!」と声を出してしまった。これ、ダメかもしれない。太ももを他人に掴まれるの、すごく……くすぐったい……


「っと、悪い。驚いたか?」
「いえ……あの……くすぐったくて。指で押さないようにしてもらえると……ひうぅっ!」
……太もも弱いのか」


 ボソリと呟かれたトレイ先輩の声に、まずい遊ばれる!?と焦りが生まれる。くすぐられたら我慢できない。添えられた温かい手が、ゆっくりと太ももの弾力を確かめるように指を押し込む。おかしな声を出さないよう唇を噛んだ。そのまま、先輩の指はつつ……と腿の外側をなぞって下り、身体がぶるりと震える。
 「っ、あの。先輩やめて……」となんとか伝えると、ピタッと手が止まった。トレイ先輩は、無言でボディースポンジを足に滑らせた。作業の手つきに戻ってホッとする。膝を通って脛を滑り、足の指にまでたどり着く。ひょいっと足を持ち上げられて、慌てて巻いているタオルを押さえ直す。見える見える!ひとりで焦っているうちに、いつの間にか反対の足まで洗い終わっていた。


……点きませんね、ライト」
「仕方ない。じゃあ次は、背中にしよう」


 首から腕、足の泡を一旦流す。タオルが濡れて身体に張り付いているが、替える必要はないだろう。先輩が背後にまわったので、巻いているタオルをずりずりと回して引っ張り前を隠し、体育座りする。これで背中も洗えるはずだ。少し見えてしまっているであろうお尻のことは考えないことにした。先輩はさっきメガネを外してたし、あまり見えていないかもしれない。そっと肩にスポンジが触れる。くるくると回すように背中を滑っていく。どこまで下がるだろう。お尻まできても、反応しないように気をつけよう、と自分に言い聞かせていると、仙骨辺りで先輩の手は止まる。ほっと息をついたが、そのまま尾てい骨までスポンジが下りて思わず息を止めた。大丈夫、お尻じゃなくて背中の一部だと思えばいいから!床近くの肌まで洗い上げられたあと、壁を確認するがライトは点いていない。


「前、触るぞ」


 後ろから囁かれて、びくりと肩を震わせてしまった。「はい」と小さく返事をして、足を伸ばしてタオルを膝掛けにする。先輩にはまだ見えていないと分かっていても、恥ずかしくて腕で胸元を隠す。腰から前に来たスポンジを持つ手が、おへその下をくるりと撫でて、左右の脇腹を通過しながら上へ上へとのぼってくる。ライトはまだ点かない。もう横隔膜あたりまで泡に包まれた。


「腕外せるか?」


 もう腹を括るしかない。胸を隠していた腕をそっと外す。大丈夫、トレイ先輩は見ていない。このお風呂に鏡がなくて本当によかった。
 下から迫るスポンジが、そっと胸に触れる。ちらりと視線を下げると、トレイ先輩の大きな手が後ろから伸びて、恐る恐る、といった風に胸元を滑っていく。ふに、と胸が沈む。くすぐったい。顔が熱い。イチャイチャしたいって思ってたけど、私には早かった。今日1日一緒に料理をした手が、バナナケーキを作っていた甘い手が、自分の身体を滑っていく。もういっそなんの感情もなくさっさと洗ってほしい。優しく、壊れ物みたいに触れなくていいから。恥ずかしくて、思わず悲鳴を上げたくなった。


……よかった、点いたぞ」
……へぁ……


 緊張が解けてどっと疲れが襲ってきた。壁を見ると、右上のライトも点灯している。これくらい洗えばなんとかなるらしい。トレイ先輩がシャワーを渡して「カーテンの裏にいるから、用意ができたら呼んでくれ」と言ってくれたので、今度は自分で泡を流していく。身体の奥が熱い。今度は私が先輩を洗わないといけないのに。
 全ての泡を流しきって軽く身体を拭き、新しいタオルを巻き直す。トレイ先輩に声をかけると、少し強張った表情でこちらへ近づいてきて、私の前に背を向けて座った。


「では、いきます」
「お手柔らかに頼むよ」


 後ろからでも、先輩が苦笑いしているのが分かった。まずは背中から洗っていく。まだ正面に回る勇気が出なかった。うなじから肩を撫で、肩甲骨をくるくると泡で包んでいく。私と違って皮膚が硬いような気がする。筋肉のせいかもしれない。自分よりずっと広い背中を下に向かって辿っていき、腰に巻かれたタオルで止まる。今この下を見たら頭が真っ白になりそうなので、次は腕を洗うことにする。
 トレイ先輩がやってくれたように、指先から二の腕へとスポンジを滑らせる。腕もやはり、ぷにぷにした私の腕とは違ってがっしりとしていて太い。私だってヴィル先輩に言われた筋トレメニューをこなしていたけれど、ずっとお菓子作りをしてきたトレイ先輩には敵わないのだ。隠す必要のない胸板をスポンジで洗っていく。先ほどの先輩の手つきを思い出してしまって、照れ隠しに心なしか力が入る。薄く線が入った腹筋を泡だらけにしたあと、足へと向かった。

 さっきの仕返しをしたくて、つん、と先輩の太ももをつつく。ちらっと顔を覗くと、トレイ先輩は目を瞑って微動だにしない。「先輩?」と声をかけると、ゆっくりと目を開く。メガネをかけていない先輩は、いつもより目つきが悪く見える。今は頬のスートも落ちてしまって無い。


「あの、どうかしましたか?」
「ん?なんのことだ?」
「じっと目を瞑ってるから」
……まぁいいだろ。早く終わらせよう。身体がもう冷え切ってるぞ」


 何か耐えている様子だったから、くすぐったいのかと思ったのに。トレイ先輩が私の頬に触れる。先輩の手は、私の頬より温かい。とはいえ確かに早く済ませないとトレイ先輩が風邪を引いてしまう。再度くしゅくしゅとスポンジを泡立たせて、足まで全部洗いきった。壁のライトが点灯する。
これで条件はクリアだろうと思ったが、ドアが開く様子がない。どうしようかとトレイ先輩を見ると、先輩は座ったまま私を見上げて苦笑いした。


「『入浴を済ませること』って書いてあるから、湯船にも浸からないといけないんじゃないか?」
「なるほど……
「お湯は溜めておいたから、入ろうか。どのみち冷えた身体を温めたほうがいい」
「はい」


 タオルで身体を隠したまま、バスタブに足を入れる。端っこで体育座りをすると、泡を流したトレイ先輩も反対側へと入ってきた。お湯がザパァとバスタブから溢れていく。お互い足が触れないよう曲げている。「はぁ〜あったかい……」と思わずこぼすと、トレイ先輩がふっと笑った。目が合って、顔が熱くなる。


「あの、先輩。本当にすみませんでした。こんな事になるなんて」
「今更気にしてないさ。食事を作ったり勉強したりするのは楽しかったしな」
「よかったです……
「お前、このお題であんなに慌てるくらいなのによく桃色の箱を買ったな」
「え、へへ……その、えっちなお題じゃなくて良かったですね」
「そうだな。本当に良かったよ。……取り返しがつかなくなるところだった」


 そう言って目を伏せたトレイ先輩を見て、ズキ、と胸が痛くなる。そりゃそうだ。フった相手とキスもセックスもしたい訳がない。私の一方的な思いを押しつけて、危うく道を踏み外してしまう所だった。もう半分以上踏み外しかけている気はするが。やっぱりトレイ先輩にとって私はただの後輩で、性欲なんて沸きもしないのだろう。悔しいのか、悲しいのか。ただただ気持ちが沈んでいく。涙が滲みそうになって、お湯を掬って顔を洗うふりをする。どうしたらよかったのかなぁ。

 無言の時間が続き、少ししてカチリ、と鍵が開く音がした。
 「先に出て着替えてくるよ」と言ったトレイ先輩が立ち上がると、一気にお湯の嵩が減る。そのまま新しいタオルを持って、先輩はカーテンの裏へと移動した。「お。新しい下着が置いてあるぞ」と声がかかった。高い箱を買ったのだ。それくらい貰えなくては困ってしまう。隣の、先輩が居なくなってしまった空間を眺める。減ったお湯が、自分の中からも何かを持っていってしまったような気分になる。はぁ、と小さくため息をついて、自分の肩を抱きしめた。





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「うん、後は寝るだけみたいだな」
「よかった。もうかなり眠いです……


 ドアを開けた先にあったのは、予想通りベッドルームだった。中心には見るからにふかふかの、キングサイズのベッドが置かれている。先ほどのバスルームに置かれていた着替えの中にあったパジャマを身につけて、元々着ていた制服や寮服は部屋のハンガーラックにひっかけた。もう本当にくたくただ。この『Magic room』に入った時間がすでに夜だったのに、朝食から始めたから寝ないで二日を過したようなものである。ドアにあるお題は『二人で一緒に眠りにつくこと』と書かれていた。掛け布団をめくってみる。本当にふかふかだ。足をそっと差し込んでベッドに潜り込んだ。スマホを確認していた先輩が、こちらへやってきてベッドに入ってくる。


「やっぱり時間は止まったままだった」
「このまま寝て、起きたら戻ってるんでしょうか」
「きっとな。それにしても長い一日だったなぁ。『Magic room』の高い箱に、こんなに長持ちする強い魔法がかけられているなんて知らなかったよ」
「良い体験できましたね先輩」
「こら、調子に乗るな。もうこんなことするんじゃないぞ」
……はぁい」


 隣に寝転がったトレイ先輩の気配を感じる。そっと足を伸ばすと、先輩の足にぶつかった。少し待っても避けられないことに安心して、先輩の方ににじり寄る。


「何もしないので、近くで寝てもいいですか?」
「はは、それお前のセリフなのか?」
「だって先輩は私に興味ないでしょ」
……
……本当に私じゃダメですか?トレイ先輩」


 ダメ元で、先輩のパジャマの腕を掴みながら小さく呟く。箱の中の一日で実感した。やっぱり私はトレイ先輩と一緒にいると楽しいし、好きだ。先輩以外、考えることができない。これからもずっと、先輩と一緒にいたい。祈るようにきゅっと手を握り込んで目を閉じる。


……ごめん。俺は、今までの関係のままでいたい」


 ああ、本当にダメなんだ。「……ですよね、何度もすみません」と腕から手を離す。「おやすみなさい!」の声は、なんとかいつもの調子で言うことができた。トレイ先輩に背を向けて、こっそり鼻をすする。泣いてることがバレないようにしないと。これ以上困った奴だと思われたくない。

 目を閉じる。最後の悪あがきはこれでおしまいだ。
 ここから出たら、もう全部終わりにしてしまおう。
それが一番いいのだ。






 目が覚めると、トレイ先輩の部屋にいた。ベッドに二人で狭苦しく横になっている状態だった。ゆっくりと上体を起こす。隣を見ると、先輩も一瞬顔を顰めて目を覚ます。服はパジャマではなく、元の制服と寮服をそれぞれ身につけていた。


「ん……戻ったのか?」
「そうみたいです」


 先にベッドから降りて、部屋の真ん中に転がっていた桃色の箱を拾い上げる。蓋がパカパカと開くようになってしまっていて、中身は空だった。そういえば使い切りだってサムさんが言ってたっけ。
起き上がったトレイ先輩に向き直る。


「ご迷惑をおかけしました!」
「あ、あぁ」
「もう先輩のことはキッパリ諦めます。今まですみませんでした」
「いや、気持ちは本当に嬉しかったよ。ありがとう」


 ぺこりと先輩に頭を下げて部屋を出る。談話室に戻ると、エースは「え、早くね?」と不思議そうな顔をした。グリムもデュースも、少し驚いた顔をしている。箱の中では一日を経験したけれど、時が止まっていたから実際にはまだほんの数分しか経っていない。あまり眠った気もしないので、早くオンボロ寮に帰りたかった。


「ちょっと問題聞いてただけだから」
「ふーん。いつもはトレイ先輩と喋りたいからっていつまで経っても出てこねーのに」
「もういいんだ。諦める事にしたから」
「は?まじ?」
「えっ?あんなに毎日告白してたのに、諦めるのか!?」


 驚いた様子のエースとデュースに「うん」と軽く返事をして、グリムに帰るよと声をかける。いつもだったら「まだ帰らねー!」なんてごねるところだが、私の発言に驚いたのか素直に頷いてくれた。

 とぼとぼと、オンボロ寮への帰り道を歩く。夢のようだと感じていた時間は、まるで本当に夢だったかのように実感がない。しかし、トレイ先輩のことはもう諦めなければならないという事だけはハッキリと自覚していた。ちらちらとこちらの様子を伺いながら歩くグリム申し訳ない気持ちになって、「今日はツナ缶いっぱい食べても良いよ!」と甘やかしてしまう。「本当か!?やったー!なんだゾ!」と一瞬で元気を取り戻したグリムに微笑ましい気持ちになる。


 お腹はいっぱいで夕食は食べなかったが、お風呂は入り直した。身体からボディソープの香りがすると、箱の中での出来事を思い出してしまう。部屋に戻って、誰にも見つからないよう隠していた本を取り出す。ブックバンドで留めているそれは、ヴィル先輩の“呪い”が付与されたものだった。
 ヴィル先輩はおそらく、本当にお守りのつもりでこの本を渡してくれたのだろう。持っているだけで、気が楽になるように。諦めることをしないストイックな人だ。きっと、実際に私が使うことなんて想定していないと思う。

 でも、もうトレイ先輩を想うことに少し疲れてしまった。追いかけても追いかけてもこちらを向いてくれない。手も足も出ない。八方塞がりだ。
ブックバンドを外す。

 表紙に手を置いて、深呼吸する。


「ばいばい、トレイ先輩」


 私はゆっくりと本の表紙を開いた。





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 スマホのアラームの音で目を覚ます。
 いつの間にか眠っていたらしい。開きっぱなしにしていた本は白紙と聞いていたけれど、中には文字が書かれていた。

『問題が解けた時に、撫でてくれる手が好き』

『落ち込んで悩んでいる時に、お菓子をくれて励ましてくれるところが好き』


 思わずパタンと本を閉じる。
 これ、私の気持ち……?もう一度、恐る恐る本を開く。全てのページにみっちりと、トレイ先輩を好きだった気持ちが書き写されていた。
 知識として、自分がトレイ先輩を好きだったという事は理解している。しかし、感情が揺さぶられることはなかった。『思慕の念を忘れる』。この本が、私の恋心を全て吸い取ってしまったのかもしれない。

 本をチェストに片付けて、登校準備をする。
 朝食のためにバゲットを切る時に、そういえばトレイ先輩がクロックムッシュを作ってくれたっけ、と思い出した。でも、美味しかったなと思うだけで、他の感情は沸いてこなかった。




「おはよう、監督生」
「おはよ〜監督生ちゃん」
「おはようございます。トレイ先輩、ケイト先輩」


 グリムと一緒にメインストリートを歩いていると、先輩たちと遭遇した。そういえば、いつもこの時間に寮を出ていたのはトレイ先輩に会えるからだったっけ。
 もうそんなことは気にしなくていいんだから、明日からはもっとゆっくり寮を出ようかな。そうだ、もう少し待っていればエースとデュースが来るかもしれない。いつも私より遅く教室に入ってくるから。今まではトレイ先輩とケイト先輩にくっついて登校していたのだが、それもひとえにトレイ先輩が好きだったからだ。もう好きじゃないんだから、時間を合わせる必要はない。


「では失礼します。グリム、もうちょっとここで待たない?エースとデュースが来るかも」
「オレ様は別にどっちでもいいんだゾ。どうせこの時間に教室行ってもヒマだしな」
「えっ!監督生ちゃん今日はオレたちと一緒に行かないの?」
「あ、はい」


 思い切り驚いているケイト先輩と、少し目を見開いているトレイ先輩。確かに今までは毎日ついて行っていたのだから、急にやめるのはあからさますぎるかもしれない。しかし、話題が合うエースやデュースと一緒に歩いたほうが気楽だから待ちたい。トレイ先輩を好きになる前までは、先輩たちとはこの程度の距離感だったと思う。それに戻っただけだ。

 後ろからエースたちの声が聞こえて来たので、先輩たちにぺこりと頭を下げて二人の方へと向かう。これで正解なはずだ。トレイ先輩に会っても心が揺らいだりしない。ヴィル先輩の魔法はすごいなぁと実感した。


 午前中の授業が終わった。今まで昼食の時もトレイ先輩を探してうろうろしていたけれど、今日は探すことすらしなかった。というより、『トレイ先輩を探そう』という気にならず普通にエースやデュースとの昼休みを終えた。エースから「今日はトレイ先輩探さなくていいわけ?」と聞かれてはじめて、そういえばいつもは探してたっけ、と思い出したくらいだ。


「なぁ本当に諦めたの?」
「うん。すっぱりだよ」
「そんなに簡単に切り替えれるもん?お前、あんなに追いかけてたじゃん」
「ん〜でも、現に気にならないし……
「まじかよ。……本当に好きだったの?」


 そう言われて、考えてみる。今朝の本にみっちりと記載されていた私の気持ちを鑑みると、相当好きだったと思う。でも、その気持ちを捨ててしまった今は実感が湧かない。「……たぶん?」と曖昧に返すと、エースは訝しげな顔をするのだった。

 放課後になって、時間を持て余して中庭をぶらぶらと歩く。グリムとお散歩だ。いつもだったらサイエンス部の活動にお邪魔していた。もちろん、目的はトレイ先輩である。好きじゃなくなった今、他にする事がなくて困ってしまっていた。木陰のベンチに腰掛ける。購買で買ったおやつのパンを取り出してグリムに渡すと、嬉しそうにかじりついていた。


「お、いたいた。監督生」


 ぼーっとグリムと眺めていると、廊下から声がかかる。そちらを見ると、トレイ先輩がこっちに向かって歩いて来ているところだった。何か用があるのだろうか。首を傾げて座ったままでいると、トレイ先輩は「今日は部活に来ないのか?」と尋ねて来た。


「はい。特に用もないので」
「用もない……って、バッサリだな。1週間前に一緒に下準備した実験の結果が今日出そうなんだが、見なくていいのか?」
「そういえばそうでしたね。それはちょっと気になるかもです」


 トレイ先輩と一緒に何かしたくて、魔力が宿っている花の色を変える実験の手伝いをしていたんだっけ。赤や青、黄色に緑……と、様々な色を試すために種を2人で作った薬品に浸していたはずだ。花を使った薬の効果も変わるかもしれないと、トレイ先輩がわくわくしていたんだったな。咲いた花の色が綺麗に出たのかは、私も気になる。ただ、グリムがまだ食べかけだしな……と迷っていると、トレイ先輩がベンチの隣に腰を下ろした。


「昨日の事が原因か?」
「何がですか?」
「前は、声をかけたらすぐ部活へ遊びに来てくれてたろ。昨日のことがあって行きにくいって事だったら、俺に責任があるなと思って……
「いえ、別に昨日のことは引きずってないですよ。というか、もうトレイ先輩への恋愛感情を捨てたので……もし私の態度が変なら、そのせいだと思います」
「は?捨てた?」
「はい。物理的に……いえ、感情なので物理じゃないんですけど、とにかく、トレイ先輩のことを好きって気持ちを魔法を利用して消しました。だから、その点においては安心してほしいと言いますか……


 どうしてそんな顔をするのだろうか。
 トレイ先輩は、息をのむ……というより、ショックを受けたような顔をしていた。まるで、傷ついたかのような。不思議な気持ちになって首を傾げる。私の告白を断ったのは先輩だ。安心こそすれ、悲しむ必要はないはずだ。
 「どうかしたんですか?」と問えば、先輩はハッと気を取り直して「いや……そうだよな。当然だ」と呟く。それが寂しそうで、ますます訳がわからない。


「部活は無理に来なくてもいいよ。もし結果が気になったら……遊びに来てくれ」
「あ、今から行きますよ。グリムも丁度食べ終わりましたし」


 立ち上がったトレイ先輩について、一緒に立つ。グリムを促して、一緒に廊下を歩いた。いつもだったらトレイ先輩が話を振ってくれて、会話が途切れることはなかったのだが、今日はずっと無言のままだった。



 それから、どんどんトレイ先輩との関係は希薄になっていった。私から会いに行かなければ、学年も寮も違う先輩との接点なんて無いようなものだ。たまにエースやデュース経由でケーキを食べにお邪魔した。トレイ先輩のケーキは相変わらず美味しい。その感情が変わる事はなかった。トレイ先輩と目が合うことは、以前より逆に増えた気がする。でも、その寂しそうな視線はすぐに逸らされる。懐いていた後輩が急に来なくなったら、寂しくなるものなのかもしれない。でも、今の私はトレイ先輩のところへ毎日行くモチベーションが特に無かった。過去の自分は、本当に先輩の事が好きだったんだ。




「調子が良さそうね」
「ヴィル先輩!ちゃんと、毎日……はっ、スキンケアしてますからね」

 朝のランニングでヴィル先輩と一緒になった。呼吸が少し乱れ始めている私にペースを合わせてくれたので、なんとか話しながら走ることが出来る。メインストリートを横切って、コロシアムの入り口まで行って、Uターンする。いつものコースだった。


「結局、本を開いたのね」
「ごめんなさい、ヴィル先輩はそんなつもりじゃないって分かってたんですけど」
「別に構わないわ。もうアンタにあげた物だもの」
「怒られなくてよかったです」
「怒らないわよ。……それより、どうしてアンタはランニングを続けてるの?」
「え?どうしてって……


 そうだ。どうして私は努力を続けているんだろう。もうトレイ先輩のことは諦めたのに。特別な誰かに見てほしいわけでもないのに。


……どうしてでしょう?」
「さぁ。でも、身体を鍛えることや美しく保つことはそれ自体が目的になるもの。努力を続けるのは良いことよ。間違いなくね」
「確かに!じゃあ、このまま続けようかな。せっかく身体も慣れてきましたし」
「手を抜いて後悔するよりは続けたほうが賢明よ。……あっちもそろそろ自覚したんじゃないかしら?」
「あっちってなんですか?」
「直に分かるわ」


 短くそう言うと、ヴィル先輩はスピードを上げてあっという間に見えなくなってしまった。せっかく綺麗になれたのに、失恋くらいでこの成果を手放すのも癪だ。失恋の痛みを覚えてすらないけれど。むしろ、忘れているからこうして自然に努力を続けられているのかもしれない。




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 さらに1週間ほど経ったとき、久しぶりにトレイ先輩から直接マジカメにメッセージが届いた。休日に新しく作ったお菓子を試食してほしいらしい。先輩のお菓子は試作でもすごく美味しいので、二つ返事でオッケーして部屋を片付ける。グリムに伝えると、「トレイの菓子ー!」と飛び上がって喜び微笑ましい気持ちになる。

 予定の日が訪れて、ドアノッカーの音が鳴る。今度ハーツラビュルで完成品を用意するための練習に作ったそうで、エースやデュースには今日のことは内緒にしていた。玄関でトレイ先輩を迎え入れる。「やぁ」と笑う先輩は、いつもより少し疲れているような、元気がないような気がするが、詮索するのもよくないだろう。そのままゲストルームへと案内した。先輩がここへ来るのは久しぶりだ。先輩への気持ちを消してから、勉強を聞くのはクルーウェル先生になっていた。質問を先生にするのは当然だろう。これまでは、トレイ先輩と話したい一心で先輩を誘っていたのだ。我ながら行動がわかりやすくて笑えてくる。

 キッチンで紅茶を用意して、ゲストルームに運ぶ。トレイ先輩が作ったフルーツタルトは、クリームの作り方をいつもと変えたらしい。いつもよりクリーム自体の甘みが増していて、フルーツの酸味が丁度よくとても美味しかった。


「すごく美味しいです!」
「お、それは良かった……酸っぱすぎないか?」
「いえ、クリームが甘いので。タルト生地のサクサクとも相性バッチリです!」


 美味しいタルトに笑顔になっていると、グリムが「オレ様オレンジジュースが飲みたくなっちまった」とゲストルームを出た。
 ドアが閉まった瞬間、トレイ先輩が手提げから四角い箱を取り出す。桃色のそれが視界の端に入り、あ、と思った時には、ぐにゃりと覚えのある歪みに陥っていた。



 いつの間にか閉じていた目を開く。
 ゲストルームと同じくらいの広さだが、しかし、家具がベッドとその隣に置かれたチェスト以外何もない部屋に来ていた。壁紙と床は白い。
 状況を掴めないまま床にへたりこんでいると、さっと立ち上がったトレイ先輩がぽつんと存在するドアに取り付けられたアルミ板を確認しにいく。この部屋を出るための条件が書かれているはずだった。


「条件、なんでしたか?」
「それより少し話をしないか」


 戻ってきたトレイ先輩に腕を掴まれ立たされると、ベッドに座るよう促される。そっとふかふかのベッドに腰を下ろす。私が用意した箱の部屋のベッドより、少しだけ硬い。でも、オンボロ寮のベッドの数倍ふかふかだ。ドアまでの距離は少し遠く、板が反射して文字は読めない。トレイ先輩が隣に座る。流れるように手を掴まれたので、立ち上がってドアを確認しに行くこともできなくなった。


「話ってなんですか?」
「謝らせてほしい。本当にごめん。」
……え、何が……?」
「そして、もう一度俺にチャンスをくれないか」
「あの、何の話をしてるんですか?」

「お前のことが好きなんだ。ずっと、好きだった」


 突然の告白に、頭が真っ白になる。どういうことだろう。私をフったのはトレイ先輩だ。こちらの目をじっと見つめる先輩は、嘘や冗談で揶揄っているようには見えない。ぎゅっと、痛いくらいに手を握り締められている。


「あの、私……フラれましたよね」
……ああ」
「冗談とか……
「こんな部屋まで用意して、冗談な訳ないだろ。二人きりで話す時間が欲しかったんだ」
「そうだ、グリム!あ、でもこの部屋も時間止まってるんですか?」
「いや、お前の買った箱ほど高級品じゃないから、時間は現実通りに流れてる」
「じゃあグリムが今頃びっくりしてるんじゃ……!」
「グリムのことはケイトに任せてあるから安心してくれ。今は俺のことだけ考えてくれないか」


 いつの間に。ここへ来る前だろうか。では、ケイト先輩もこのトレイ先輩の暴挙に同意しているらしい。
 キョロ、と部屋を見回す。さっきトレイ先輩が持っていたのは桃色の箱だった。それに、部屋にベッドがあるということは、以前の箱のように『朝食を作る』なんてお題ではないのだろう。「こっちを見てくれ」と頬に手が添えられてトレイ先輩の方を向かされる。この状況に嫌悪感は特にないが、ときめきで心臓が暴れるということもない。ただただ動揺していた。


「なんですか……?」
「さっきも言ったけど、俺はお前のことが好きなんだ」
「ええと……じゃあ、どうして私をフったんですか?」
……飽きられるのが、怖かったんだよ」
「え?」
「俺は、レオナやマレウスみたいな地位も持ってないし、ヴィルみたいにストイックに何かを突き詰めるということもしていない。イデアが機械に詳しいみたいに特化して何かが出来るわけでもなければ、ケイトやリリアみたいに人を楽しませるような技量もない。そして、ルークみたいに……正直に、好意を伝えることすらできない」
……
「こんな普通でつまらない男じゃ、付き合ってもすぐフラれるだろうって思ったんだ」


 この人は一体、何を言っているのだろうか。お菓子作りが誰より得意だし、柔らかい物腰で誰かと衝突するようなこともない。人の間を取り持つのも得意だ。ユニーク魔法はケイト先輩に「チートじゃん!」と言わしめて、飛行術でもカリム先輩を助けてバルガス先生からすごく褒められていた。それこそ、キャンプでも学んできた知識を活かしてみんなを合格に導いてくれたじゃないか。部活で一度発表があっただけの内容を、他人に説明できるほど理解できる頭をもっている。どこが普通なのか。先輩にとっての普通ってなんなんだ。むしろ、“普通”ができない人間がこの世にどれほどいると思ってるんだ!

 思ったことを残らず言葉にすると、トレイ先輩はぽかんとしていた。その自覚の無さが問題だと、謙遜しすぎるなとヴィル先輩にも言われていたのに。


「とにかく、トレイ先輩は決して普通じゃない……というか、すごい人だと思います」


 そう締めくくると、先輩はぶわ、と一気に顔を赤く染めた。
 え、トレイ先輩のこんな顔初めて見た。片手で顔を隠した先輩のメガネがかちゃりと音をたてる。


「俺は、お前のそういう真っ直ぐなところが好きだよ」


 とろけそうな目でこちらを見てそう言った先輩に、もどかしい気持ちになる。取り戻したい。私の恋心。今の私は、先輩の気持ちを全力で受け止める事ができていない。苦しい。悔しい。私は今まで、どんな気持ちで先輩と向き合っていたんだっけ?


……いつか飽きられるかもしれないと思ったら、ずっと先輩後輩でいたほうが一緒にいられると考えたんだ。だから……本当は、お前が告白してくれるたびに可愛くて仕方なくて、すぐに抱きしめたかったけど……我慢してた」
「先輩、自分勝手」
「本当にそうだな。いざただの『先輩後輩』になったとたん、寂しくて耐えられなくなったんだ。お前がその目で俺を見てくれないなんて、信じられなくて………


 頬に添えられた手が、目の端を辿る。先輩の感情に感化されて、じわじわと涙が出てきてしまった。


「どうした?大丈夫か」
……く、悔しくて……わたし、先輩への気持ちを捨てちゃったから……きっと嬉しいはずなのに、何も浮かばない」
「取り戻したいか?」
「取り戻したいです!思い出したい……先輩のこと好きだった気持ち…………!」


 ぐいっと身体が引き寄せられる。
 唇に、少しかさついた弾力が触れる。
 ちゅ、と小さい音を立てて、トレイ先輩が角度を変える。
 驚いて目を見開いていると、次第に胸の奥がじわじわを熱を持ち始めた。どくんと心臓が大きな音を立てる。ひとつ鳴ったらすぐまた大きく脈打つ。はらはらと涙が溢れていく。頭がガンガンする。真っ白だ。どうして忘れる事ができていたんだろう。こんなに身体の中を暴れ回る激情を!


「トレイ先輩、好きです……好き、だいすき……せんぱい」
……よかった、“呪い”が解けたか」


 顔を離した先輩に抱きつくと、ぎゅうと強く抱きしめ返してくれる。身体が震える。涙が止まらない。ずっと平坦だった心が一気に掻き乱される。トレイ先輩が好きだ。もう絶対、この気持ちを失いたくなんかない。トレイ先輩のバカ。先輩が最初に私をフったから!積み上げられた感情がぐらぐらと揺れている気がする。声を上げて、泣きながらばしばしと胸を叩く。
 先輩は、私が落ち着きを取り戻すまでじっと抱きしめ続けてくれた。



「『その本を開いた者は、思い人に口づけられるまで思慕の念を忘れるだろう』ですか」
「そういう呪いを付与していたらしい。ヴィルからなんとか聞き出したんだ」
「よく分かりましたね、私がヴィル先輩を頼ったって」
「ヴィルに鍛えてもらったって自分で言ってただろ」
「あ、そっか」


 ベッドの奥で座るトレイ先輩に背中を預けて、後ろから抱きしめられた状態で話をしていた。
 時折頭を撫でてくれる手に擦り寄る。まるでおとぎ話のような魔法だ。ヴィル先輩は、こうなることまで読んでいたのだろうか。


「それにしても、気持ちを取り戻すことができて良かったです。前に私が用意した箱の中での出来事が、ただの記憶になっちゃってたので……やっぱり、感情が伴ってこそ『思い出』ですよね。楽しかったことがまた思い返せて嬉しいです」
「あー……。あの時は、かなり頑張ったんだぞ」
「何をですか?」
「風呂だよ。手を出さないように必死だった。冷静になるために水を被ったり、メガネを外したりしてどうにか意識しないよう耐えて……
「それで水かけてたんですか!?」
「一度そういう関係になったら、普通の『先輩後輩』になんて戻れるわけないって思ったからさぁ」


 思い出したのか、はぁ、と先輩はため息をつく。


「あの時お前が用意した箱が、高いやつで助かったよ。あれは結婚直近のカップルが、本当に自分達の人間としての相性がいいか確認するのに使われたりするそうだ。中で出される条件はランダムらしいけどな」
「へぇ……私たちは……どうでした?」
「相性か?問題ないだろ。一度も喧嘩になったりしなかったし……ずっと、楽しかった」
「へへ……それは良かったです」


 はた、と気がついた。そういえばここは、トレイ先輩が用意してくれた『Magic room』の中だ。
 この部屋も、お題をクリアしないと出る事ができない。


「トレイ先輩」
「ん?」
「この部屋からはどうやって出るんですか?さっき時間は止まってないって言ってましたけど、それなら早く出ないといけないんじゃ……
「ああ、時間に余裕を持たせたくて休日にしたんだよ」
「なるほど……?」
「前に、高ければいいってもんじゃない……って言っただろ?こういう箱は、『小さい子は買おうと思わないが、リピートしやすいそこそこの値段』のものを買うのが一番良いんだよ」
「一番……良い……とは?」


 トレイ先輩がニヤリ、と笑ったので、急いでベッドから抜け出しドアへと向かう。「ランダムとはいえ、一応持ってきておいて良かったなぁ」という呟きが後ろから聞こえてきた。何を、と聞かずともすぐ判明するだろう。あの時、やっぱりまだ無理だと思ったのに!お風呂での羞恥心を思い出して、一気に身体の熱が上がる。正面のアルミ板にははっきりと文字が刻まれていた。




『セックスしないと出られません』