botanin5
2024-11-18 21:10:35
30229文字
Public トレ監♀(小説)
 

オレンジピールを剥いた先

元の世界に帰れず男装がバレないままNRCを卒業した監督生が、女の子に戻って生活してたら先輩と再会してぐいぐい詰め寄られる話
※ 名前無し(あっても「監督生」)
※ NRC卒業後の話
※ 戸籍を得るため学園長の養子になっている。
※ 監督生が魔法薬で一時的に男体化する展開がある。
※ ハーツキャラたちが就いている職業に妄想たくさん


オレンジピールが入ったクッキー。
 週に1回、トレイ先輩が『僕』とグリムに渡してくれていたおやつだ。
 サクッとした甘いクッキー部分と、酸味のあるドライオレンジの食感が好きで、リクエストを聞かれるたびに作ってほしいとお願いしていた。

 勉強が苦手なグリムと、異世界から来て知識に乏しい『僕』。入学した初めの頃は質問するため職員室に入り浸っていたのだが、先生も特定の生徒にばかり時間を割くわけにもいかない。忙しそうな雰囲気を見ていつのまにか足が遠のいていった。図書館で本を積んで真っ白なノートにうんうんと頭を捻らせていたとき、声をかけてくれたのはトレイ先輩だった。面倒見がよく、3年生で知識が豊富なうえに教え方も上手い。「週に1回、勉強会をしないか?」という提案には、両手を上げて賛成した。いつもは先輩と『僕』とグリムの3人。たまに、エースとデュースが参加することもあった。そこでおやつとして先輩がよく作ってきてくれたのが、オレンジピールのクッキーだった。




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 カラン
 お店のドアに付いているベルが、お客様の来訪を告げる。
 もうほとんど売れて少なくなっていたクッキーを、ひとつのカゴにまとめていた手を止めて顔を上げる。


「いらっしゃいませ!」


 努めて明るい声を作り、今開いたばかりのドアに笑顔を向けた。
 もう少しでドアベルに頭が当たってしまいそうな身長。柿渋色の薄手のニットに、暗い色のジャケット。深い紺色のようなすっきりとしたパンツスタイルで、“いつもの”ウェリントンの黒い眼鏡をかけたその人は、私と目が合うとにっこりと人好きのする笑みを浮かべ、店内に足を踏み入れる。
 その頬に、“あの頃”のクローバーのスートは無い。


「あ、“クローバー“さん。こんばんは」
「こんばんは。今日の日替わりケーキはありますか?」
「あ、いえ。もう売り切れてしまいまして……
「それは残念。じゃあ、残っているものから選びます」


 “先輩”から敬語で話しかけられることに、未だに違和感を抱く。彼は私が自分の後輩であることに気がついていないのだから、当然ではあるが。
 クッキーのコーナーから離れて、ショーケースの内側へと移動する。もう閉店まで1時間を切っているため、残っているケーキは少ない。そもそも、この人は自分で美味しいケーキを作れるというのに、なぜこんな街の端にある小さなケーキ屋さんまでほぼ毎日足を運んでくるのか。不思議でならない。

 トレイ先輩と再会したのは、今年の春になったばかりのことだった。
 先輩がお客さんとしてこの店に訪れ、毎日のように通いだして、もう半年が経つだろうか。私がこのケーキ屋で働き始めてからは一年になろうとしている。
 男子校であるナイトレイブンカレッジに鏡によって導かれ、女の身でありながらも入学することになった私は、学園長の指示で男装をして生活していた。色んなトラブルに巻き込まれながら誰にもバレることなく卒業し、事情を知るクルーウェル先生の口利きで、今は薔薇の王国にある小さなケーキ屋さんで働かせてもらっている。
 グリムも無事に学園を卒業したのだが、在学中のトラブルが原因で保護観察対象となり、今は学園でクルーウェル先生の右腕として働いている。私はといえば……元の世界には帰れなかった。いや、正確に言えば、まだ帰る方法が見つかっていない。学園に残ったグリムが、学園長と共に方法を探し続けてくれてはいるが、今はもうこの世界での生活に慣れてしまって、ここで生きていく覚悟も次第に固まっていた。
 オンボロ寮から出ることになった私に、先生たちが示してくれた職場の選択肢はたくさんあった。学園長の養子に入って戸籍を得たことも大きい。その中でついケーキ屋さんを選んでしまったのは、先輩の面影を追いかけてしまったからに他ならない。

 トレイ先輩のことが好きだった。
 一緒に学園生活を送れたのは最初の一年だけだったが、トレイ先輩は4年生になってからも学園に戻るたびに私やグリムに声をかけてくれた。男の子の後輩として、すごく可愛がってもらった自覚はある。まるでお兄ちゃんのように優しくしてくれる先輩に、想いを告げるなんてことは頭の隅にも過らなかった。
 先輩が卒業して全く会うことがなくなり、様子を知るのはマジカメだけになっていた。あまり頻繁に投稿されることはなかったが、今の仕事がサイエンス部で残した功績で声がかかった研究職であることと、たまにリドル先輩やチェーニャさんと遊んでいること。薔薇の王国に住んでいること。それだけは知っていた。稀に投稿される写真を見て、先輩の指に指輪がないかと無意識に探してしまっている自分に気がついた。私は本気で先輩のことが好きだったらしい。
 何もつけられてない指に安心して、でもいつかその薬指に指輪がつけられるのではないかと戦々恐々として……自分が卒業する頃には、マジカメを見るのはやめてしまっていた。

 今、目の前にいる先輩の指にも、何もはめられてはいない。


「えーと、じゃあ今日はマロンタルトとチーズケーキにします」
……あっ、かしこまりました!少々お待ちください」


 ぼーっとケーキを選ぶ先輩の指を眺めていたが、声がかかって意識を取り戻す。
 トレイ先輩は、いつもケーキを2つ買っていく。
指輪はないけれど、同棲している恋人はいるのかもしれない。ショーケースから言われた通りのケーキを取り出して、慎重に箱へと入れる。いつも通り、保冷剤は2個だ。おそらく家はここから遠いだろうに、本当に、なぜこのケーキ屋さんに来るのか。たしかにここのケーキはとても美味しいが、正直トレイ先輩の作るケーキには及ばない。
 レジに金額を入力し、代金を貰う。ほぼ毎日のようにケーキを買っていけるほど、お金に余裕があるのは羨ましい。私はこのケーキ屋さんの近くのアパートで暮らしているが、家賃と食費で生活はいっぱいいっぱいだ。デザートを好き勝手に食べる余裕はないため、閉店後に余ったケーキや試作品を食べさせてもらえるのはありがたい。

 出てきたレシートをぴっと切ってお釣りと共に渡す。このお店もそろそろカード決済に対応した方がいいのではないだろうか。店主が老齢であるため、私が積極的に動いた方がいいのかもしれないが、今のところそこまでパワフルにもなれない。お釣りを渡す瞬間だけ、触れそうで触れることのない手にいつも緊張する。
 いつもはすぐに小銭を財布へ仕舞う先輩が、今日は手で握ったままじっとしていた。どうかしたのかと顔を上げると、トレイ先輩は意を決したかのように口を開く。


「あの……連絡先を、聞いてもいいかな」
………………へ?」


 思いがけない言葉に、頭の中が真っ白になる。
 固まった私を見て、トレイ先輩は片眉を下げてにっこりと笑う。その懐かしい笑みに、心臓がトクンと音を鳴らした。


「君と、もっと話をしてみたいなって思ってて」


 手の中にじわっと汗が滲む。私が“監督生”であることが、バレたのだろうか。いや、先輩は『君』と言った。いくらか距離を感じる呼び方に、そうではないと心を落ち着かせる。トレイ先輩、こんなナンパじみたことするんだ。意外かもしれない。声をかけてもらえた喜びと、言い知れない不安が頭をもたげる。
 仲良くなってみたい。でも、私が“監督生”だとバレたら幻滅されるのではないか?
こわい。


「突然じゃ、引かれるのも当然だよな……。番号じゃなくて、マジカメでもいいんだけど……アカウントとか、ありますか?」
「えっ……と」


 戸惑う私を見て、先輩が苦笑いする。
 マジカメのアカウントは“監督生”のものしか無い。それを教えたら一発で私が何者かバレてしまう。というか、本当にバレていないのだろうか?トレイ先輩が卒業してからここで再会するまで三年ほど経ってはいるが、男装から女の子に戻ったとはいえ、顔立ちがそんなに変わった自覚はない。在学中は私がいる写真も、エースやデュースのマジカメにたまに載っていたはずだ。見ていたかは知らないが。いや、性別が違うという前提があると、疑いを持つこともないのかもしれない。
 連絡先は、断ろうかと思った。でも、もし今断ると、もう二度とトレイ先輩がここへケーキを買いに来てくれなくなるかもしれない。毎日のように会えることを、楽しみにしていた。バレないように上手くやればいい。普通のお友達になれるチャンスかもしれない。


「あの、マジカメはやってなくて……
……そうですか」
「番号を教えるので、連絡をとるのはショートメールでもいいでしょうか?」
「えっ、いいのか?」


 一瞬揺れた先輩の瞳が、驚いたように大きくなる。学生時代、電話番号はトレイ先輩に教えていなかったし、私も先輩のは知らなかった。


「今は仕事中なので、メモに……
「あ、待って。ここから二軒先のカフェで待ってるから、仕事が終わったら来てくれないか。あと1時間くらい……閉店後の片付けもあるとすると、2時間後くらいか?」
「え」
「何か奢るよ。食べ物でもいいし……あー……すみません。急に……君の予定も聞かずに」
……特に予定はないので、大丈夫ですよ。カフェってウサギの看板のとこで合ってますか?」
「そう、そこ。……じゃあそこで待ってるから、後で番号を教えてください」
「は、はい」


「それじゃあ、また後で」そう言って笑うと、先輩はケーキの箱を持ってお店を出て行った。
 現実味が沸かなくて、しばらく動けなかった。トレイ先輩に、連絡先を聞かれるなんて。どういうつもりなのだろうか。今は先輩に恋人がいないって思ってもいい?また、あの頃みたいに仲良くなれるかもしれないという喜びと、自分が“監督生”であることがバレてはいけないという不安。色んな気持ちがぐるぐると頭を駆け巡っていく。
 落ち着け。とりあえずまだ勤務中だ。
 心の準備をしたかったのに、時間はあっという間に過ぎ去っていった。


「お待たせしてすみません……!」
「いや、大丈夫だよ。誘ったのはこっちだし……。突然だったのに、来てくれてありがとう」


 閉店作業を終えて約束していたカフェに急いで駆け込むと、何か本を読んでいたらしいトレイ先輩が顔を上げて手招きしてくれた。組んでいた長い足を下ろす動作にみとれて、仕事終わりのよれよれな自分が恥ずかしくなる。急いでいたから自分の身なりをちゃんと確認してこなかった。恐る恐る、向かいの席に座る。
「なんでも頼んでいいぞ。お腹空いてるだろ?」と言うトレイ先輩の言葉に甘えて、ディナーセットを注文した。パスタにサラダ、ドリンクとデザートが付いている。こんなにしっかりとした食事は、ここに来てから出来た女の子の友人と遊んだ時以来かもしれない。


「ご馳走になります……良いんでしょうか」
「もちろん。俺のわがままに付き合ってもらってるんだし」
「ありがとうございます。……あ、そうだ。連絡先ですよね」
「ああ、ありがとう。……よかった、断られなくて」


 他のお客さんに同じことをされても、連絡先は教えない。トレイ先輩だから、私はこうして油断して、カフェまでのこのこやって来ている。注文した品が届く前に、スマホを取り出して電話番号を伝える。「名前はこれで合ってるかな」と見せられた画面には、私の下の名前が入力されていた。お店では頻繁に店長が下の名前で私を呼ぶため、知られていることは予想していた。おそらく、常連客はみんな知っている。“監督生”と同じ名前であることを、トレイ先輩はどう思っているのだろう。


「合ってます」
「ラストネームは?」
「ええと、クロウリーです」
「へぇ。聞き馴染みのある名字だから驚いた」


 戸籍を得るために学園長の養子に入ったので、今の私の名字はクロウリーだ。これは、未だにちょっと慣れない。いつのまにか敬語が外れているトレイ先輩に、昔を思い出して懐かしい気分になる。『よく行くお店の店員』から、『知り合い』の距離感に変わったらしい。元々、トレイ先輩が年上以外に敬語を使っているところは見たことがなかった。レオナ先輩相手でさえ、同級生だからタメ口だったくらいだし、もともとそういう質なのだろう。


「ええと、クローバーさんは……
「トレイ」
「え?」
「トレイ•クローバーが俺の名前。ちょっとスマホ貸してくれるか?綴りは……こう。できれば名前の方で読んでもらえると嬉しい」
……はい。トレイ……さん」


 連絡先画面に名前を入力したトレイ先輩が、片眉を下げたいつのも笑い方を向けてくる。心臓がうるさい。トレイさん。……先輩って呼ばないように気をつけなければ。スマホに登録された電話番号を見る。トレイ先輩の番号。学生の頃は知らなかったものが、今こんな形で手に入るなんて。頼んだ食べ物が出てくるまで、トレイ先輩から振られる話題にポツポツと答える。ボロが出ないように、慎重に。嘘と本当を上手く織り交ぜなくてはならない。


「へぇ、二個下か。じゃあ、あのケーキ屋に勤め始めたのも最近?」
「そうです。もうすぐ1年くらいですね」
「地元はこの辺り?」
「賢者の島です」
「えっ……そうなのか。俺はナイトレイブンカレッジに通ってたよ」
「えぇ!そうなんですか?じゃあ、もしかしたらどこかですれ違ってたかもしれないですね。ナイトレイブンカレッジのハロウィン、行ったことありますし」


 街並みについて詳しく語れる場所は、賢者の島しかない。下手に薔薇の王国や輝石の国と答えて「そんな街はない」とバレてしまうのが怖かった。ナイトレイブンカレッジにも行ったことがある事にしておけば、うっかり学園内の話をしてしまっても誤魔化せる。それから少し、賢者の島にあるお店や海など共通の話題を探るふりをしているうちに、料理が届いた。トレイ先輩も食べ物を注文していたらしい。
 なんだか、デートみたいで楽しい。
 わくわくしていた。トレイ先輩と、普通の女の子として出会うことができた。“監督生”であることを隠している以上恋人になるのは無理だろうが、友人として仲良くしていけるかもしれない。

 晩御飯を食べ終わると、トレイ先輩がアパートまで送ってくれた。保冷剤を二個しか入れていなかったケーキが無事か心配だったが、魔法で冷やしていたらしい。そりゃそうだよなと思ったところで「ナイトレイブンカレッジに通ってたって伝えて『魔法を使ってるところを見せて』って言われなかったのは久しぶりだよ」と言われてひやっとした。私にとって魔法士はすでに身近な存在になっていたが、世間的にナイトレイブンカレッジは優秀な魔法士養成学校だ。


「あはは……友達に魔法を使える人がいたので……。あ、私は使えないんですけど」
「へぇ、ナイトレイブンカレッジ生に知り合いでもいるのか?」
「いえいえまさか!ええと、じゃあせっかくなので今度なにか見せてもらってもいいですか?」
「はは、機会があればな」


 送ってくれたお礼を伝え、駅方面へと向かう先輩の背中を見送る。ひやりとする事もあったが、すごく楽しかった。トレイ先輩の電話番号を手に入れてしまった。ドアを閉めてコートを脱ぎ、ソファに勢いよく飛び込む。うれしい。にやけてしまう。もうしばらく、この幸せを噛み締めたい。
上手くやろう。
 ピロン、と音を鳴らしたスマホを見ると、先輩からのメッセージが来ていた。

『今日はありがとう。今度は休日にどこか出かけないか?』

 ふへ、と緩む口をそのままに、お礼と返事をポチポチと打ち込んでいった。






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 あれから何度かトレイ先輩に誘われるまま、遊びに出た。
 相変わらずお店にケーキも買いに来てくれているため、本当にほぼ毎日顔を合わせている。学生時代と同じくらいの頻度で、少しあの頃に戻ったような気分だ。
 違うのは、移動が車だということ。送ってもらった日、駅の方面に向かっていたため電車移動をしてるのかと思っていた。しかし、最初に出かけようと誘われた日、迎えに来たのは車に乗った先輩だった。急に、トレイ先輩に“大人”を感じて、すごく緊張したのを覚えている。


「恩師に車好きがいてさ。買わされたんだよ」


 そう言って先輩は苦笑いしていた。あぁ、クルーウェル先生ですね。という言葉は慌てて飲み込んだ。
 助手席から横目で見るトレイ先輩は、今までよりさらに大人に見えて、ハンドルを持つ手も、たくましい腕も、全てが私を刺激する。車という閉ざされた空間も、心を泡立たせた。くそう、好きだ。ずるい。この席に座れるのが、私だけだったらいいのに。

 二度目に先輩の車に乗ったとき、助手席の足元にピアスが落ちていた。先輩の耳を確認したが、穴は空いていない。あぁ、他にも乗せる人はいるんだなと、少し冷静になれた。こっそり拾って、ドリンクホルダーに乗せておいた。直接「これ誰のですか?」と聞く勇気は無かったから。私は、休日たまに遊びに出かける友人なのだ。それで良いって自分でも思っていたじゃないか。気軽に誘ってもらえることが、嬉しいんだから。


 今日連れてこられたのは屋根付きの休憩所がある公園で、先輩は何やら大きなバスケットを後部座席から持ち出してきた。休憩所のベンチに腰掛けると、テーブルに中身を広げる。取り出されたのは、真っ赤なイチゴがキラキラと輝くタルト。それから、魔法瓶に入った紅茶だった。


「実は、お菓子作りが趣味で……ケーキ屋に勤めてる人に出すのは恥ずかしいけど、食べてみてほしくてさ」
……わぁ……すごい……!」


 口から出たのは、素直な感嘆の声だった。学生時代よりも、確実に腕が上がっているだろうことがわかる。眩しい。トレイ先輩の手作りタルトがもう一度食べられるとは、思ってもみなかった。すごく嬉しい。差し出されたフォークを受け取り、そっとタルトに差し込む。口に入れた瞬間、あの頃の思い出が次々と浮かんできて、思わず涙がこぼれそうになった。深呼吸して、噛み締める。イチゴの甘い酸味。クリームの柔らかい舌触り。サクっと心地よい歯触りのタルト生地。


「すっごく美味しいです……!トレイせ……さん、プロですか!?」
「はは、いやまさか……。両親がケーキ屋をやってるんだ。子どもの頃からよく作ってて……口に合ったのなら良かった」
「これ言ったら怒られそうですけど、店長のケーキより好きです」
「おっ、それは光栄だな」
……トレイさん、こんなに美味しいお菓子を自分で作れるのに、どうしてうちに買いに来てるんですか?」


 トレイ先輩は、私の問いかけにきょとんとしている。これは、私にとって本当に謎だった。話を聞く限り、うちのケーキ屋は先輩が勤めている職場から自宅までの通り道ではない。どうしてわざわざ遠回りをしてまで、毎日買いに来ているのだろう。


「え……っと、単純に好きなんだよ。お前の店のケーキ」
「ふぅん……。店長のケーキが美味しいのは確かですけど、トレイさんのケーキの方が百倍美味しいです」
「ははっ、それは言い過ぎだろ。……でも、気に入ってくれたのなら良かった。また作って持ってきてもいいか?」
「もちろんです!次はオレンジピールのクッキーでお願いします!」
「え?」


 言ってから、ハッと口をつぐむ。トレイ先輩は目を丸くして、驚いた顔をしていた。まずい、ついあの頃の癖で言ってしまった。
 急いで取り繕おうと、つい次の言葉が早口になってしまう。


「ええと、私、オレンジピールのクッキーが好きで。トレイさん、こんなに美味しいタルトが作れるなら、クッキーもお上手なのかなー……なんて……
「ああ、まぁ……お菓子ならほとんど作れるよ」
「わぁやっぱり!すごいです」
「ただ、……オレンジピールはしばらく使ってないんだ。ごめんな」
「え、あ、そうなんですか。わがまま言ってすみません。全然、なんでも美味しく食べますよ、私!」


 へらっと笑ってみせると、トレイ先輩も片眉を下げて笑った。オレンジピールのクッキーは、断られた……ということでいいだろうか。楽しかった先程までの空気が、微妙な味に変わる。「残りも食べちゃっていいですか?」と出来るだけ明るく先輩に声をかけると、「もちろん」と笑ってくれた。
 オレンジピールを使うのは、やめてしまったのだろうか。卒業してから何かあったのか?せっかくならば食べたかったけれど、安易に自分と“監督生”の共通点を増やしてしまったことを悔やむ。


「そうだ、ちょっといいか?」


 トレイ先輩が、不意に魔法石が嵌め込まれた懐中時計を取り出す。卒業後、魔法石を埋め込むのをマジカルペンから時計に変えたらしい。
 何をしようとしているのか、すぐにピンと来た。


「ドゥードゥル•スート」


 タルトの見た目に変化はない。
 でもきっと、味が変わっている。
 しかし、『私』はこの魔法を知らないのだ。


「なにか魔法をかけたんですか?」
「タルトを食べてみてくれ」


 フォークでタルトを口へと運ぶ。予想通り、イチゴタルトの味ではなくなっていた。
 これはー……


「オレンジ?」
「そう、味を変えることができる魔法なんだ」
「えぇ!すごいですね。他の味にもできますか?」
「できるよ。何がいい?」


 本当は『要素を上書きできる』魔法なのに、先輩は「味を変える」だけに説明を留めた。他の人にもそうしているのかもしれない。先輩の魔法は、使い方によっては良くない上書きもきっと出来てしまうから、自衛しているのだろう。
 先ほどの気まずい空気から、いつも通りに戻った気がする。よかった。トレイ先輩が気を使ってくれたおかげだ。くるくると味を変えるタルトに感動するフリをしながら、ほっと息をついた。

「そろそろ帰ろうか」と言う先輩に頷いて、休憩所で広げたティーセットたちを片付ける。今日はこのまま解散だろう。先に大きな荷物を車に乗せていた先輩を追いかけて、残っていた小物を持っていく。
 私が後ろにいることに、気がつかなかったのだろう。それは不意に聞こえた。


……本当に……似てるな」


 どきりと心臓が嫌な音を立てる。独り言に違いない、小さく聞こえたトレイ先輩の声は、聞こえないふりをした。
 似てる。それはもちろん“監督生”と、だろう。トレイ先輩は、私が“監督生”と似ているから声をかけてくれた?
どうして?
 先輩が何を考えているのか、よく分からなかった。





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「えっ……ケイト先輩が?」
『そー。仕事でこっちにくる用事があるらしくてさ。せっかくだから皆で会おうぜってなってんだよ。お前こっち来れない?』
「あーー……んー……返事するのは予定見てからでもいい?」
『いーよ。泊まるとこなければオレん家でもいいし』
「ありがと。ちょっとクルーウェル先生にも確認するね」


 エースから電話があったのは、トレイ先輩と公園に出掛けてから2週間が経った時だった。あの後も、先輩は変わらずケーキを買いにお店に来てくれている。


「どうしよう……久しぶりに男装しなきゃ……


 ケイト先輩が、薔薇の王国に遊びに来るらしい。たしか、先輩は色んな国を飛び回るカメラマンをしていたはずだ。さらに有名雑誌でよく旅行関係のコラム記事を書いているし、マジカメも大人気。きっと薔薇の王国でなにか取材をすることになったのだろう。その機会に、懐かしいメンバーで顔を合わせようというわけだ。
 “監督生”は、グリムと一緒にクルーウェル先生のもとで働いていることになっている。私が女の子に戻って生活していくために、先生方が配慮してくれた結果だ。エースやデュース、リドル先輩やケイト先輩にとって、“監督生”はまだ男の子だ。もちろん、トレイ先輩にとっても。


「ウィッグを買う……?それより、魔法薬の方がいいかな。髪切ったら、お店で会う時トレイ先輩にバレちゃうし……あーもーどうしよう!行かないのが一番いいけど、みんなに会いたい……!」


 とりあえず一度、賢者の島に戻ることにした。学園長に連絡をとると、「久しぶりですねぇ!」と喜んで闇の鏡をつなげてくれた。旅費が浮いて助かる。グリムにお土産のツナ缶を渡すと「さっすがオレ様の子分は気が利くんだゾ!」大喜びしてくれた。せっかくだからグリムも薔薇の王国に来ないかと誘ったのだが、寮対抗マジフト大会と時期が重なるようで、クルーウェル先生に止められてしまった。いまや、グリムは立派に職員としての役目を果たしているらしい。


「ふむ……仔犬どもがきゃんきゃん集まるわけか。それなら、男体化の魔法薬でいいか?」
「流石先生、話が早い。ぜひそれで!よろしくお願いします!」


 数日、クルーウェル先生の手伝いをするという約束で、魔法薬を譲ってもらえることになった。何日もケーキ屋を休むわけにはいかないので、データ上のやりとりだが。指定された書類をいくつか作成して送信するだけなら、仕事から帰ってきて少し頑張ればなんとかなりそうだ。
 ありがたく魔法薬を受け取り、エースに『行けそうだよー』と返事をする。男体化できるなら、お言葉に甘えてエースのアパートに泊めてもらうのもありかもしれない。


「そうだ、連休もらえるか聞いてみないと」


 スマホを取り出して、お店へと電話をかける。ずっとシフト通りに出勤していたし、初めて休みを言い出すのだから流石に許してもらえるだろう。少しだけ緊張しながら応答を待つ。


「あ、もしもし店長ですか?実はー……え?」





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 ついにみんなと再会する日がやってきた。
 朝起きて魔法薬を飲んでみると、髪は昔と同じ長さに縮み、胸やおしりなど女性らしい身体のラインは見事に男性に変わった。体格は大きく変わらないようで、多少華奢ではあるが。学生時代はただの男装だったため、胸がなくなり、今まで無かったものが付いた股間に違和感がすごい。今日一日、いや、泊まったとして明日まで耐えればいいだけだ。時間経過で突然元の姿に戻るとまずいので、効果は長めにしてもらった。そのかわり、魔法を解くための薬もセットだ。


「おっ!監督生ー!久しぶりじゃん」
「元気にしてたか?」
「エース、デュース!久しぶりだね」


 先に駅で待ち合わせていた二人と合流する。午前中は三人で遊び、先輩たちと会うのは午後だ。一年ぶりに顔を合わせたエースとデュースは、学生時代の面影を残したまま、少しだけ大人びていた。私は……いや『僕』は、今日は賢者の島から遊びに来ていることになっている。そのため、キャリーケースにひと通りの着替えを詰めてきた。クルーウェル先生とサムさんから渡された服と下着だ。男体化して過ごすため、女性ものを持ってきてうっかり見られるという心配もなかった。


「エースの家って近い?『僕』、荷物置きたいんだけど」
「あー、それなんだけど……。実は昨日から兄貴が泊まりに来ててさ……明後日まで居るから、泊められなくなっちゃったんだよね」
「えっ!?じゃあ『僕』の寝泊まりどうすんの!?デュース泊めてくれる?」
「悪いが僕は寮住まいなんだ。警察学校の……
「あーそっか……どうしよう、今から取れるホテルあるかな」
「ちょい待ち、話はちゃんと最後まで聞けよ監督生。心配すんなって、トレイ先輩が泊めてくれるってさ」
……えっ」


 エースの言葉に思考が停止する。


「なんでトレイ先輩……?」
「だって、リドル寮長は実家だし。他にいねーじゃん」
「おいエース、もう“寮長”じゃないぞ」
「いやもう癖抜けねーって!とりあえず、オレ車だから一旦荷物はそこ積んでいーよ。トレイ先輩も車で来るらしいから、帰りも運ぶの楽だし」
「あー……そうなんだ。それなら、よかったー……はは」


 いや、全然良くない。
 まさかトレイ先輩の家に泊まることになるなんて。

 エースが運転する車にデュースと共に乗り込み、三人でぷらぷらと薔薇の王国を巡る。観光スポットからオススメのお店……と回っていくと、私は薔薇の王国に来てから全然出歩いてないなと実感した。トレイ先輩や女友達と遊びに出てはいるが、行動範囲は狭い。せっかくここで暮らしていたのに。今度来たときは、もっと広く出かけてみようかな。

 昼食を済ませてさらに時間を潰したあと、15時頃になって先輩たちと合流した。卒業した時より背が伸びているリドル先輩に、学生の頃より雰囲気が少し落ち着いたケイト先輩。お洒落なのは変わらない。トレイ先輩はー……。トレイ先輩は、変わらない。ほぼ毎日顔を合わせているのだから。でも、今日の『僕』にとっては三年ぶりの先輩だ。


「先輩方お久しぶりです!」
「監督生ちゃんだ〜久しぶり!エーデュースちゃんたちも変わんないね」
「えーいやいやケイト先輩、大人っぽくなったっしょ?オレ」
「ははは、そういうノリは変わらないな。みんな元気にしてたか?」


 ぱちりとトレイ先輩と目が合って、思わず背筋が伸びる。にっと笑った先輩に、こちらも笑顔を返す。なんだか不思議な気分だ。
 落ち着いて話そうかと、近くのカフェに入ってオープンテラスに腰を落ち着ける。グリムの話も交えながら、先輩たちの近況を聞いたり学生の頃の話をしたりしていると、時間はあっという間に過ぎていく。リドル先輩は、魔法医術士の卵として色々と研修をこなしているらしい。出てくる専門用語がどれも難しくて、話の半分以上が理解できなかった。ケイト先輩もマジカメに載っていた通り、色んな国を巡っては写真を撮っているという。「今度、旅行の写真集が出るから買ってね⭐︎」と上手く宣伝された。エースは広告代理店に入社している。まだ大きな企画は任されていないものの、自分が関わっているという仕事をいくつか紹介して見せてくれた。中には見たことのあるCMもあって驚いた。みんなしっかりと自分の道を進んでいる。


「あの頃はこうやって雑談してるとき、トレイくんの紅茶とお菓子がセットだったのにね〜」
「おっ。そうくると思って、実は作ってきてるんだ」


 そう言ったトレイ先輩が、紙袋から小分けされた包みを取り出した。「えー!マジすか。トレイ先輩のお菓子久しぶり〜!」と、エースは前のめりになる。「中を見るのはいいが、ここは飲食店だから、食べるのは帰ってからにしてくれよ?」と苦笑いする先輩から、ひとりひとりお菓子を受けとる。エースにはチェリーパイがワンピース。リドル先輩には小さめのイチゴのタルト。ケイト先輩にはキッシュ。デュースには卵をたっぷり使ったプリン。
同じものを切り分けるのではなく、それぞれの好きそうなものを別で作ってきていることに驚いた。『僕』もそっと包みを開ける。


……これ……!」
「オレンジピールのクッキーだよ。お前、それ好きだっただろ?」


 優しい笑顔に、一瞬、息が止まった。
 トレイ先輩が作ったオレンジピールのクッキー。前は断られたのに。いや違う、断られたのは女の子のときで、今、自分は“監督生”だ。
 どうして今日は作ってきてくれたのだろう。女の子の『私』はダメで、“監督生”の『僕』ならいいの?
よく分からない。


……ありがとうございます!ずっと食べたいなーって思ってたから、嬉しいです」
「それならよかった」


 笑顔を返して、包み直して大事に鞄へと入れる。
なんだろう。嬉しいけれど、複雑だ。監督生としての自分が、トレイ先輩の懐に深く入っていると考えるべきか、それとも、女の子の自分がまだまだ先輩と仲良くなれていないと考えるべきか。久しぶりに先輩が作ったクッキーを食べることができるのは嬉しい。でも、はっきりと区別されたことに、もやもやが晴れない。
 それから話題は二転三転して、それぞれの恋愛事情へと移っていった。


「えー、エースちゃんもう二人も付き合って別れたの?ペース早くない?」
「なんかしっくりこないっていうか……そういうケイト先輩はどーなんすか?」
「けーくんは忙しくってそれどころじゃないかな〜」
「よく言うよ。ケイトは色んな国に行くたびに、その日限りの彼女ができてるってジャミルに聞いたぞ」
「えっなんでジャミルくん!?トレイくん、連絡とってるの!?」
「この間、新しく手に入ったスパイスを送ってくれたんだよ。その連絡ついでに色々と近況をな。旅行のコラムに協力してもらってるんだって?」
「あー……うん、まぁね。次会ったらちゃんと口止めしとこ……


 恋愛する余裕のないリドル先輩やデュースは、会話に入り切れず二人で別の話を始めてしまった。『僕』もそっちに混ざりたいけれど、先日あったらしい大きな事件とその被害について真剣に話しているところに口を出せる知識は無い。ぼんやりと耳を傾けていれば、こちらにも話が飛んでくる。


「監督生ちゃんはどう?彼女できた?」
「いませんよ。……っていうか、作れませんよ。『僕』は異世界人ですし」
「あーそうだった。お前馴染み過ぎててついそのこと忘れるわ。帰る方法、まだ見つかんねーの?」
「うん。まぁ、若干諦め始めてはいるんだよね。こっちの生活も楽しいし……


 へらっと笑うと、みんなも笑ってはくれるが少し表情は硬い。
 トレイ先輩は、先ほどから黙ってしまって何も言わない。
 こういう空気、苦手なんだよな。困った。本当に、こっちでの生活は楽しいし、こうしてたまにみんなと会える環境であることには満足しているのだ。


「いっそこっちで彼女でも作って、永住しましょうかね?」


 もう一度笑うと、エースが「じゃー女の子紹介しよっか?」とノってくれた。ケイト先輩も、いくつかの写真を見せてくれる。どの子も可愛くて驚いた。


「結婚とか永住まで考えなくていいけど、気軽にでかけたりできる女の子の繋がりはあってもいいかもね」
「そーだよ監督生。溜まるもんは溜まるっしょ?」
「うわエースさいてー」
「なんだよ!みんなそういうもんでしょ」


 わいわいと先ほどの楽しい空気が戻ってきてホッとする。ちら、とトレイ先輩と目が合うと、ごく自然に、すっと視線を外された。そのことにショックを受ける。こういう話題は苦手だっただろうか。不謹慎だったかな。男の子に合わせた会話をしなきゃと思ったけれど、難しい。
 お酒を飲めるお店へと移動し、みんなで晩御飯を食べた。リドル先輩がいるからか、少し上品なチョイスだ。運転があるエースとトレイ先輩を除いてほろ酔いになったところで、解散ということになった。ケイト先輩とデュースはエースの車で送るという。『僕』とリドル先輩は、トレイ先輩の車だ。


「送ってくれてありがとうトレイ。ではおやすみ、監督生」
「またな、リドル」
「今日はありがとうございました、リドル先輩」


 綺麗にお酒を飲んでいたリドル先輩は、しっかりとした足取りでお家へと入っていった。リドル先輩は実家住まいと聞いている。ということは、トレイ先輩の実家もこの辺りにあるのだろう。聞いてみたかったが、目を逸らされてから上手く話せていない。後部座席から、運転席のトレイ先輩の頭を見る。いつもは助手席に乗せてもらっているから、この位置から運転する先輩を見るのは初めてだった。


「あの……トレイ先輩。今日、泊めてくれるんですよね。ありがとうございます」
「ああ、気にしないでくれ。わりと広いから、くつろげると思うぞ」


 勇気を出して声をかけると、バックミラーでこちらを確認したトレイ先輩から普通の返事が返ってきてホッとする。怒ってはいないみたいだ。ぼうっと車の外を流れていく景色を眺める。いくつか通り過ぎたケーキ屋さんの、どれかが先輩の実家だったりするのだろうか。しばらく走ったあと、大きなマンションにたどり着いた。私が住むアパートの3倍はありそうで、思わず息を呑む。キャリーケースを引いて先輩にひょこひょことついて行く。
 オートロックの広いエントランスを過ぎて、エレベーターで上の方の階に着いた。これ、一人暮らし用のマンションには見えない。ドアを開けたトレイ先輩に促されて、そっと玄関に入り込む。中には、革靴やスニーカー、サンダルと、先輩が一人で履くとは思えない量の靴が置いてあった。


「あの、先輩……一人暮らしじゃないんですか?」
「ああ、言ってなかったか。チェーニャとルームシェアしてるんだ。あいつは今日徹夜って言ってたから、今は居ないけどな」
「チェーニャさん……だから、ピアス……
「ん?」
「あ、いえ、チェーニャさんっていっぱいピアスしてましたよね!」
「はは、今もたくさん付けてるよ」


 車に落ちていたピアスはそういうことだったのかとホッとする。今思えば、あれは学生時代に見たチェーニャさんが耳に付けていたブランドと同じものだった。
 客間は無いとのことで、今日は『僕』がトレイ先輩の部屋で寝ることになるらしい。トレイ先輩は、チェーニャさんの部屋で寝るそうだ。『僕』がチェーニャさんの部屋で寝たらいいのでは?と聞いてみたが「えーと……チェーニャは他人がベッドで寝るの嫌がるんだ」と困った顔で言われてしまった。それなら仕方がない。トレイ先輩のベッドをお借りすることにしよう。

 リビングの隅にキャリーケースを置くと、先にシャワーを勧められた。お酒は飲んだが、ほろ酔い程度だし平気だろう。下着とスウェットを持ってお風呂場へと向かう。無意識にブラを外そうとして、手が空振って「あれ?」なんて呟いてしまった。そうだ、今の自分は男の身体だった。パンツを下ろし、今日何度かトイレで使って若干慣れてきたそれを見る。男子校に通っていたうえ、卒業してすぐにトレイ先輩と再会してしまった私は交際経験がなく、これが今日会ったみんなにもついてるのか……なんて少し不思議な気分になって、軽く持ってみる。


「監督生、タオルをーー」
「うひゃっ!?」
「あ、悪い」


 全裸でぼーっとしていたところに突然扉が開いて、トレイ先輩が入ってきた。驚いて、脱いだ服を拾って身体を隠す。先輩が笑いながら「なんで上まで隠してるんだ?」と言うので、そうか男の子は下だけ隠せばいいのかと気がついて顔が赤くなる。


「何してたんだ?」
「なに、って。お風呂に入ろうかと」
「触ってただろ」
「さ、わってないです!タオルありがとうございます!『僕』今から入るので!」


 見られた。見られていた。恥ずかしい。
 バタン!と勢いよく扉を閉める。一旦水を出して、頭を冷やした。シャワーの音にまぎれて「あああああ」と小さく叫ぶ。何やってるんだ私は。すっかり酔いが醒めてしまった。
 頭と身体を急いで洗って、先輩が溜めてくれていたお湯に浸かる。お酒が入っているし、長湯は良くない。さっとあがって湯船が綺麗か確認し、身体を拭いた後お風呂場の水気も少し拭き取る。人の家のお風呂って、使った後どうしたらいいの分からない。しかも、この後トレイ先輩がここに入ると思うと、変なものが落ちていないか不安になってしまう。着替えてからもう一度中を確認して、リビングへと戻った。


「早いな。抜かなかったのか?酔ってたら無理か」
「なっ……先輩もさっさと入ってください!」
「はは、揶揄って悪かったよ。はいこれアイス。テレビ自由に見ていいぞ。映画とか」
……ありがとうございます」


 先輩は酔ってないはずなのに。学生の頃は、こんな揶揄い方をしてきたことなんてなかったのに。さっき私が触っていたのを見たからかもしれないが、なんだか……いつもの先輩と違う気がして戸惑ってしまう。
 用意のいいトレイ先輩から、バニラのアイスクリームを手に持たされた。これも、手作りなのだろうか。木苺で作ったらしい赤いソースがかかっている。甘いアイスクリームに、甘酸っぱいソースが絡んで美味しい。ソファに深く腰掛けて、アイスをつつきながら大きなテレビを眺める。あまり、内容は頭に入ってこない。

 ふと、思いついた。本当にちょっとした出来心だった。
『私』から、今メッセージを送ってみようか。
鞄からスマホを取り出して、ショートメールの画面を開く。今日はトレイ先輩にバレないように、スマホカバーを変えてきていた。


『こんばんは。美味しいケーキがあるカフェを見つけたんですが、今度行きませんか?』


 そう打ち込んで、送信ボタンを押す。テーブルの隅に置かれていたトレイ先輩のスマホがブブッと震えて、自分は本当に先輩とやりとりしているんだ……とくすぐったい気持ちになる。少しドキドキしながら、再びアイスを口に運ぶ。そういえば、クッキーがあるんだった。再び鞄を開けて、トレイ先輩からもらった包みを取り出す。オレンジピールのクッキー。ずっと、食べたかった。軽い食感が歯を撫でていく。オレンジの酸味が舌を転がる。やっぱり美味しい。

 アイスとクッキーを交互に食べすすめていると、タオルを肩にかけた先輩がお風呂から出てきた。お湯を熱くしていたのか、ほんのり頬が赤くなっている。テーブルに広げられた食べ物を見て「食いしん坊だな」と私の頭を撫でたあと、ぼすっとソファの隣に座ってきた。肘が当たる距離だ。ドキドキと心臓が鳴り始める。トレイ先輩、私と同じシャンプーの匂いがする。借りたのだから当然だけれど。

 お互い何も話すことなくテレビに視線を向けていると、先輩がスマホを手に取った。
来た。
 どんな反応をするのかな、と横目で確認していたが、先輩は数回タップして眺めたあと、画面を閉じてしまった。念のためにサイレントにしていた私のスマホには、なんの動きもない。スルーされた。じりじりと焦りが生まれる。


「先輩、さっきスマホ震えてましたよ」
「ん?ああ、今見たよ」
「マジカメの通知ですか?彼女?」


 焦燥感で、ぺらぺらと口が動く。“監督生”の『僕』といることよりも、素のままの『私』を優先してほしかった。


「いや。知り合いだ」
……へぇ!返信しなくていいんですか?」
「後でしておくよ」
…………そう……ですか」

 
 だめだ。敗北した。そりゃ、“監督生”の方が付き合いは長いかもしれないが、ただの後輩という存在に負けてしまった。やっぱり、『私』ではトレイ先輩の恋人になるのは無理らしい。別に、なれるとも思っていなかったけれど。泣きそうになるのを我慢する。ぎゅっとソファの上で体育座りした。
 何度か遊んで、距離が近づいていたと思っていたのに。“監督生”じゃない私は、オレンジピールのクッキーは貰えないし、返信も後回しにされる程度の存在なのだ。


……もう寝ます……


 このまま先輩の隣にいたら泣いてしまいそうで、早く離れたくてソファを立った。寝室へと向かおうとすると、トレイ先輩に腕を掴まれて止められる。なんだろうかと首を傾げれば、「まだ歯磨きしてないだろ」と真剣な顔で言われてしまった。先輩らしくて、気が抜けた。
 指示に従っていつも自分でするよりは長く丁寧な歯磨きを終えた後、今度こそ「寝ます」と寝室へ行こうとした。しかし、再び引き止められる。まだ何かあっただろうか?と振り返ると、先輩は寂しそうな顔をして「もう少し話さないか?久しぶりだし」なんて言う。そんなに眉を下げられてしまっては、断りづらい。時計はそろそろ23時を指そうというところだ。トレイ先輩の隣に座り直す。


「エースが見せてくれてた子に、会うのか?」
「え?ああ、そうですねー……彼女欲しいですし」


 なんの話かと思ったが、昼間の恋愛トークの続きらしい。そういえばトレイ先輩は、自分の話はしなかったな。


「トレイ先輩はどうなんですか?」
「ん?」
「彼女、作らないんですか?」
「いないように見えるか?」
「え。いるんですか!?」
「いや、いないけど……
「なんですかそれ」
「今気になってる子はいる」
……へぇ。写真とかあります?」
「うーん、ないな」


 なんだ。気になってる人いるのか。
 さらに肩の力が抜けた。毎日ケーキを買いに来て、休日も私と遊んでいたというのに、ちゃんと恋愛してたのか。そりゃ、どうでもいい知人からのメッセージなんて後回しにするよね。どんどん心が擦れていく。ソファにさらに深く座り込む。この話続けるのかな。けっこう辛いんだけど。


……相談していいか?」
「え?トレイ先輩が?『僕』に?」
「なんだよ、そんなに驚くことないだろ」
「いや、ケイト先輩じゃなくていいんですか?」
「ケイトには……ちょっと話しづらいかな」


 意外だった。リドル先輩に恋バナはしづらい……というのならなんとなく理解できるが、ケイト先輩にも話せないなんて。むしろ私が聞いてもいいのだろうか。まぁ、先輩がいいというのなら聞こうじゃないか。ソファの上で姿勢を正すと、トレイ先輩はふっと笑って、腿の上で手を組んで話し始めた。


「元々好きな人がいたんだが……そっちは諦めようとしていて」
……へぇ」
「最近出会った子が、気になる人なんだが……
「なるほど」
「好きな人に告白してから次に行った方がいいか。それとも、何も言わずにすっぱり諦めて、次に行くべきか。……どう思う?」
「おおう……なかなか難しいですね」


 個人的には、好きな人に思いを告げてスッキリしてから次に向かった方が良い気はする。しかし、振られるという余計な傷を負うよりも、気になる人が好きな人に昇格することを期待したほうが健全だろうか?うーん。なかなか難しい。


「っていうか、なんで好きな人にフラれる前提なんですか?相手に恋人がいるとか?」
「いや、恋人はいないみたいなんだが……
「じゃあ告白してみたらいいじゃないですか。トレイ先輩ならきっと、みんな大歓迎ですよ!」
「はは、そんな事ないだろ。俺は別にモテるわけじゃないし……
「う、嘘だ……!」


 トレイ先輩がお店に来るたび、バイトの女の子が陰できゃあきゃあと声をあげているのを見たことがある。それに、他のお客さんだってチラチラと先輩を盗み見ていることがあるのだ。先輩が気がついていないだけで、職場でも絶対にモテているに違いない。


「好きな人って職場の人ですか?告白してフラれたら気まずいとか?」
「いや、職場じゃないよ。まぁ……フラれたら気まずいってのはあるな」
「ふーん……その人が他の人と付き合っても、祝福できます?」
「そうだな……幸せなら、応援するよ」


 聖人か?私だったらー……。トレイ先輩が、別の人と付き合って、結婚して、家族を作っていくとしたらー……。だめだ。想像しただけで泣きそうになってしまった。しかし、今まさにそうなろうとしている。私は、そのためのアドバイスをしようとしているのだ。私に恋を諦めさせるのだから、先輩には幸せになってもらわないと困る。先輩の好きな人がどんな人かは知らないが、もしオッケーを貰える可能性があるのならば、告白してみるべきだ。


「先輩!告白しましょう!」
「え」
「もしかしたらオッケー貰えるかもしれなじゃないですか!諦める前に、当たって砕けてみるのもありだと思います。だって、もし砕けでも気になる子がいるんですよね?次の恋の可能性も待ってるなんて贅沢な状況、なかなか無いですよ!告白せずに次の恋に進んだら、前の人に後ろ髪を引かれちゃうかもしれません。ここは、思い切って告白しましょう!」


 先輩に向き直って力強く伝える。トレイ先輩は少し目を丸くして、驚いた顔をしていた。しかし、すぐに「うーん、大丈夫かな……」なんて眉を下げている。弱気な先輩は珍しい。大丈夫。先輩ならきっとうまくいく。料理ができて、勉強もできて、こんな大きなマンションに住みながら毎日ケーキを買って帰れるくらいお給料も貰っていて、優しくて背が高くて……言い出したらキリがないけれど、恋人とするには素晴らしい条件が先輩にはたくさんある。断られることなんて、よっぽどないだろう。


……分かった。じゃあ、思いを伝えてみるよ」
「その意気ですトレイ先輩!頑張……て?」


 ぐっと拳を作ると、トレイ先輩がこちらに向き直り、手首を掴んでくる。頭にはてなを浮かべる私を、じっと見つめてきた先輩がそっと口を開いた。


「好きだ」
……へ」
「好きな人って、お前のことなんだ」
「な、何言って……
「元の世界に帰るなら、と思って伝えずにいたけど。諦めて彼女を作る気があるなら話は別だ」


 掴まれた腕を逃そうと動かすが、ピクリともしない。動揺して、瞳が揺れた。トレイ先輩は、真剣な顔をしている。冗談……には、見えない。


「俺ならみんな大歓迎なんだろ?どうだ?」
「どう……って、どうして『僕』なんか」
「学生の頃からずっと気になってた。魔法が使えないなりに一生懸命努力していて、つい世話を焼きたくなるのに……いろんな奴を前に堂々と怯むことなく自分の意見を言って……俺に無いものをたくさん持ってるお前に、惹かれてたんだ」
「え。あ。先輩の方こそ、『僕』に無いものいっぱい持ってるじゃないですか」
「そんなことないよ。俺なんかいたって平凡だ」


 どの口がそれを言うか。トレイ先輩ほどなんでもできる人間はなかなかいない。「あと、俺のケーキを美味しそうに食べてる顔が可愛い」と付け足されて、ふわっと顔が熱くなってしまった。じり、と腕を掴まれたままソファを後ずさると、先輩もじりじりとついてくる。


「あの、『僕』男なんでセックスできませんよ」
「別に恋人はそれだけが目的じゃないだろ。それに、出来るよ。勉強した」
……なんで勉強してるんですか。諦める気でいたってさっき言ってたのに」
「はは、そういえばそうだな。……何度か想像したついでにな」
「それ本人前にして言います?」
「さらに正直に言うと、さっき脱衣所で自分でいじってるお前見た後、一回抜いた」
「はっ!?いいい、いじってたわけじゃないです!」


 いつの間に!?というか、告白ついでに明け透けすぎないか?先輩は完全に、男の子の監督生を受け入れている。どうしよう。私は実際は女だ。せっかく、好きな人が自分のことを好きだと言ってくれたのに、正直に伝えたら今度はこっちがフラれる気がする。元の私じゃ、メッセージに返事もしてもらえない。“監督生”なんて、作り物なのだ。本当の私は、ケーキ屋で働くただの女の子。でも、せっかく先輩が好きって言ってくれたのに。どうしてこうなっちゃたんだろう。


「ひ、一晩考えさせてください」
……わかった」


 ようやく、先輩が手を離してくれる。そこで初めて、トレイ先輩の頬や首もほんのり赤くなっていることに気がついた。緊張してたんだ。先輩は、本気だ。
 それぞれの寝室へと入り、私はトレイ先輩のベッドへ倒れこむ。ふわっと嗅ぎ慣れた甘い香りがして、お腹の奥がきゅうと締め付けられた気がした。好き。トレイ先輩が好きだ。女の子の私でも、受け入れてくれるだろうか。怖い。先輩が言っていた「気になる子」は、きっと私のことだ。そこでハッとした。好きな人にフラれたら、次に進むと言っていた。じゃあ、“監督生”の『僕』が先輩をフれば、私の方を向いてくれるのだろうか?……でも、そうしたら私は一生“監督生”の代わりにされる。それは嫌だ。ちゃんと、私を見てほしい。私のことを好きになってほしい。男の子の“監督生”じゃない。ただの『私』を。





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……おはようございます」
「おはよう、トーストでいいか?」


 目が覚めて、良い香りがするキッチンへと向かう。先輩は目玉焼きを作りながらトーストを焼き、サラダを盛ってコーヒーを淹れてくれていた。朝から完璧すぎる。
 テーブルに並べられたそれらのご飯を美味しくいただき、歯磨きをしてから洗い物をしていたトレイ先輩の横に立つ。Tシャツに短パンを着て、出来るだけ薄着の装備にした。手に持ってきたのは、魔法を解く薬。


「先輩、昨日の返事をする前にちょっと見てください」
「ん?なんだ?」


 水を止めた先輩を見て、ぐい、と魔法薬を飲み干す。
 ふわっと魔力が身体を覆っていく。髪は伸び、身体つきはしなやかに。胸もふくらんで、股間の違和感も消えた。
 全て、元の姿に戻った。ただの『私』に。


「男子校だったから、男装してたんです。本当は、私は女です」
……なんの、冗談だ?」
「冗談じゃないです!……っ。〜〜ほら!!」


 ばっと、何もつけていないTシャツを捲り上げる。嘘じゃない。本当に、私は女の子なんだから。先輩は、驚いた顔をして少し頬を染めたあと、「なにしてるんだ!」と勢いよく私の手を下ろさせた。


「これで分かったでしょ?先輩、私女の子なんです。信じられないなら、下も見ますか!?」
「待て、わ、分かった。信じるから落ち着いてくれ」
「学園長とかクルーウェル先生にも聞いてもらえば分かります。他のみんなは知らないけど、先生たちは知ってるんです」
「どうして男装を?あーいや、男子校ならそうなるか、いやでも……


 ぶつぶつと呟くトレイ先輩は、まだ混乱しているらしい。でも、私にはもう一つ伝えなきゃいけないことがある。ぐっと胸の前で手を握る。勇気を持て。ちゃんと、全部伝えなきゃ。


「先輩!」
「今度はなんだ!?」
「私の名字、クロウリーなんです!」
……は?」
「学園長のおうちに、養子に入ったんです。戸籍を作るために。だから」
「ちょっ……と待ってくれ、じゃあ、ケーキ屋の……
「!!……そうです、毎日先輩がケーキを買いに来てくれたお店にいたのは私です。休日、一緒に遊びに行ってたのは私なんです」


 気がついてくれた!縋るようにトレイ先輩を見ると、混乱しきった目でこちらを見ていた。信じられない、という目で。
「あの……
 大丈夫かと、先輩に触れようとしたとき、びくっとトレイ先輩は私を避けた。ぎゅっと、自分の喉が詰まったような感覚に陥る。
 だめか。やっぱり、『私』じゃだめなんだ。正体を言わずに、ずっとケーキ屋の店員として……他人のフリをして一緒にいたのが、気持ち悪かったのかもしれない。


「あ、あは……突然すみません。びっくりしちゃいましたよね!ええと、私、あの、帰ります!」


 固まってしまったトレイ先輩を見るのが辛くて、まとめていたキャリーケースを急いで掴むと玄関を飛び出した。走って廊下の端まで辿り着くと、焦燥感に駆られながら上がってくるエレベーターを待つ。ゔぅんと開いた先には、ひどく眠そうなチェーニャさんがいた。


「んあ?おみゃーは……
「お邪魔しました!」


 すれ違いながらエレベーターに乗り込み、ドアを閉める。今帰ってきたところなのかな。というか、チェーニャさんは私が泊まってたこと知らないじゃん。でも、あの反応は私の存在に気がついていた。一瞬だったから、男の子に見えたのかもしれない。“監督生”に。着ているのはクルーウェル先生がくれたメンズの服だし。ノーブラにTシャツ短パンという己のいでたちを思い出し、エレベーター内に誰もいないのをいいことに、キャリーケースから上着と長めのズボンを取り出して上から着る。帰る前に姿を戻す可能性を考えて、女性下着も持ってくればよかった。


 豪華なエントランスを出て、スマホで検索しながら駅へと向かう。元のアパートに戻る気はなかった。そもそも、荷物は全て賢者の島へ移動させている。ナイトレイブンカレッジに。

 みんなに会うために連休を取ろうと電話したとき、店長から告げられたのは予想外の内容だった。


『え……閉店、ですか?』
『そうなんだ。僕もそろそろ歳だし、朝早くからケーキを作り続けるのは辛くてね……。娘夫婦が一緒に住まないかって言ってくれてね。引退することにしたんだ。君には急で申し訳ないんだけど……最後のお給料は、多めに渡すから』


 まさか、職を失うことになるとは思わなかった。
 すぐにクルーウェル先生に相談すると、一度戻ってこいという事になった。働くことができないならば、ビザが切れて薔薇の王国には住み続けられない。すぐに次の仕事を紹介することもできるが、少し休んだらどうかと提案されたのだ。
今思うと、ちょうど良かった。

 じわじわと涙があふれてくる。すれ違う人がぎょっとした顔で自分を見るのが分かる。でも、止められなかった。
 トレイ先輩に、引かれてしまった。いや、嫌われたのかも。もう二度と、まともに話せることは無いかもしれない。

 昨日の夜が、人生で一番幸せだった気がする。






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 トレイは、咄嗟に動けなかった。
 自分がずっと思いを募らせてきた監督生が、女の子だったのだ。いや、性別などその実どうでもよかったが、自分と彼女の遺伝子をもつ子を成せる事は魅力的だった。
 感動していたのだ。

 ケーキ屋で、彼女に出会ったのは偶然だった。たまたま出先で入った店に、好きだった人と同じ顔、同じ声、同じ名前の人間がいた。毎日のように通って、距離を詰めた。監督生は、この世界の人間ではかったから。いつか、どう足掻いても仕方なく自分の手から離れてしまうものだと思っていたから。だから、新しくこの世界で出会った彼女ならば、一生を共に過ごせるんじゃないかと考えていた。よく似ている。監督生の代わりにしてしまっている自覚はあった。彼女もひとりの人間なのに。でも、逃したら絶対にもう会えないと思った。異世界から来た監督生は、こちらの世界と自分が元いた世界に同じものがたくさんあると言っていた。ならば、人間にも同じ存在がいたって可笑しくない。偶然、そんな人に出会えたのだと思ったのだ。

 ケジメをつけようと思っていた。ちゃんと監督生にフラれて、ケーキ屋の彼女を愛せたらいいなと思っていた。監督生が受け入れてくれるなら、それはそれで解決するはずだった。
 それなのに。


 まさか、“ひとり“だったなんて。


 心臓が、いや、身体が奥底から震え上がった。やはり、自分にはあの子しかいないのだ。どんな出会い方をしても、惹かれる。どうしようもなく好きだ。
 自分が作るケーキを美味しそうに食べる顔も、一生懸命ペンを走らせる小さな手も、頭ひとつ分小さい身体も。全てが愛おしかった。男のふりをしたまま自分を騙す事だってできたのに、正直に元の姿で全て打ち明けてくれた。受け入れなくてどうする?ようやく手に入るのに。


……トレイ。今の顔、鏡で見てくるのをおススメするにゃあ」
「ん?あぁ……おかえり、チェーニャ」


 呆れた顔をするチェーニャに、今、自分はよほど人には見せられない顔をしているんだろうと自嘲する。元々、優しい顔立ちではないと家族からも言われていた。
 さて、彼女は部屋を出て行ってしまった。混乱して、咄嗟に動けなかった自分のせいで、拒絶されたと勘違いしているに違いない。ショックを受けたような彼女の顔を思い出す。
 傷つけてしまっただろうか。大切に大切にしたいのに。優しくそっと絡めとって、一番に自分を頼るようにさせなくてはならない。俺だけを見てほしい。めちゃくちゃになるまで可愛がって、とろとろに溶かしてしまいたい。自由に健やかに生きてほしいが、同じくらい手放したくない。心だけは、繋いでおかなければならない。


「迎えに行かないと」
……はぁ〜ルームシェアも終わりかねぇ〜。次はリドルでも誘ってみようかにゃあ」


 のんびりとしたチェーニャの声を尻目に、財布と鍵、スマホだけ持って上着を羽織る。急いで外に出た。一応周りを見回してみるが、彼女の姿はない。しかし、職場は知っているし、何度も送り届けて家も分かっている。早く会って、誤解を解かないと。早く早く、この手で抱きしめたい。昨夜我慢していた欲をぶつけてしまいたい。まぁ、それは追々か。

 車を走らせて、いつも停めていた駅横の駐車場を通り過ぎる。この時間だとまだケーキ屋は開店していない。おそらく、戻っているならアパートだろう。空きスペースに無造作に駐車して、急いでアパートの玄関ホールへ駆け込む。一瞬、目に入った郵便受けのいくつかがテープで止められているのが見えた。足を止めることなく目的の部屋の前にたどり着いたが、中に人がいる気配はない。帰ってきていない?魔法石を取り出し、小声で呪文を呟く。部屋の中の様子を覗くと、家具が一切置かれていなかった。部屋を間違えたか?いや、そんなはずはない。先ほど通り過ぎた郵便受けを思い出す。……引っ越した?

 今度は階段を駆け降りて、車に飛び乗りポケットからスマホを取り出す。ぱっと最初に目に入ったのは、ショートメールの画面。監督生が彼女だったということは、昨夜、自分が入浴しているうちにこっそりメッセージを打ち込んだということになる。返事をしないで放置した自分を見て、どう思っただろうか。少しずつ、焦りが生まれてくる。あの時、自分の部屋に、ソファの隣に監督生がいることが幸せすぎて、メッセージの返事を考える余裕なんて無かった。『返信しなくていいんですか?』と声をかけてきた彼女を思い出す。そういう事だったのか。同一人物だと気が付かなかったのだから仕方がないが、過去の自分に舌打ちする。
 ショートメールでは返信に焦れてしまう。初めて、電話をかけた。実は近くにいたりしないかと、着信音にも耳を澄ませてみたが特に聞こえない。コールの7回目くらいで、ぷつりと切れた。いや、切られた。焦燥感が増す。

 エンジンをかけ、今度はケーキ屋に向かった。店の前に車を寄せると、入り口に張り紙が見える。


「売りに出てる!?」


 閉店したということか。建物が売りに出されていた。誰かいないかと、表のドアを叩いてみるが返事はない。地元を聞いた時、賢者の島と答えていた。学園長の養子に入ったのならば、戸籍は島にあるのだろう。仕事に就くことを条件にこの国に住んでいたのならば、職を失った今、次を見つけられないと出ていかなくてはならない。電話には出てもらえない。おそらく、エースやデュースも事情を知らない。


……ナイトレイブンカレッジに、戻ってみるか」


 闇の鏡は使わせてもらえないだろう。公共交通機関を乗り継いで移動することを考えると、まとまった休みが必要だ。まぁいい。有給ならたっぷりと残っている。3日ほどで今手元にある仕事をまとめて、丸1週間は休みをもらってみせる。今日家でできる事はさっさと終わらせてしまおう。
急いで車をUターンさせ、今頃チェーニャが寝ているだろうマンションへと戻った。




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「も〜クルーウェル先生、相変わらず人使いが荒いよ……


 頼まれた植物の間引きをしに、植物園に来ている。薔薇の王国から逃げ帰ってきて、もう数日が経った。
 一度、トレイ先輩から着信があったが、怖くて切ってしまった。騙していたなと怒られるだろうか。先輩はいつも温厚で、困った顔で笑ってばかりいたから、私に向かって怒鳴るイメージはあまり沸かない。怒るより、悲しんでいるかもしれない。申し訳なくて、もう会えない。
 学園に着くと、「しばらくここに居ていいですよ。お給料も出して差し上げます!私、優しいので!」と言ってくれた学園長のお言葉に甘えることになった。生活するのは、懐かしいオンボロ寮だ。ここには相変わらずグリムとゴーストが暮らしている。グリムに給料が入るようになったことで、少しずつ建物を改良しているらしく、私が卒業してから一年と少しだが、壁や装飾がかなり綺麗になっていた。元の部屋は完全にグリム仕様になっているので、私は他の部屋を借りて寝起きしている。

 とはいえ、魔法を使えない私がずーっとここで生活するわけにもいかない。次に仕事をするなら、輝石の国にしようか。ジャックもいるし。エペルを頼って豊作村に移住してもいいかもしれない。農業は特に嫌いじゃない。ツノ太郎がいつでも茨の谷に来いとも言っていたから、セベクに連絡を取るのもありだ。とにかく、薔薇の王国にはもう行けない。


 しばらくぶちぶちと要らない実をちぎっていると、ブブッと白衣のポケットに入れていたスマホが震えた。手袋を外して確認すると、
クルーウェル先生からチャットが入っている。


『お前に客だ』


 誰だろうか。このタイミングで、わざわざ私に会いにくる人物。


『トレイ先輩なら、会えません』
『伝えておく』


 クルーウェル先生の返事をみて、やはり来ているのはトレイ先輩なのだと分かった。対面して、何を言われるかと思うと足が竦む。しばらく職員室に戻るのはやめておこう。再び、間引きの作業に戻る。あの朝の、固まってしまったトレイ先輩を思い出す。信じられないという目で私を見た先輩。学生時代も含めて、もう五年ほど性別を偽っていたのだから、驚いて当然だ。騙された!と糾弾されたっておかしくない。まして、ずっと正体を隠して会っていたのだ。気持ち悪いと思われても仕方がない。

 がさっと植物が擦れる音がして、首を傾げる。今は授業中のはずだし、ここを使っているクラスは無い。あの頃のレオナ先輩みたいに、植物園でぐーたら眠ってサボる生徒も、今は居ないはずだ。
誰だろう。
 もしかして、マンドラゴラが逃げ出したか?
 ちぎった実を乗せていたカゴを足元に置いて、通路に出る。


「ああ、見つけた」


 横から聞こえてきた耳馴染みのある声に、思わずそちらを向く。
 懐かしさが舞い戻ってきた。ウェリントンの眼鏡に、植物に混ざってしまいそうなアイビーグリーンの髪。着ているのは、白衣ではない。
 クルーウェル先生、場所を教えたのか……
 くるっと踵を返して逃げ出そうとするが、足の長い先輩は数歩でこちらに追いつき、簡単に腕を掴まれる。


「どうしてここに!」
「有給取るのが意外と大変でさ。どうやら俺は、他の人の倍も仕事を持ってたらしくて」
「ああ、先輩は副寮長のときもそんな感じでしたもんね。……じゃなくて!」
「お前に会いに来たに決まってるだろ」
……な、なんで」
「まだ返事をもらってないから」


 次の言葉を紡ぐ前に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


……次ここ、2年生が使います」
「じゃあハーツラビュル寮に……と言いたいところだが、今俺の部屋は無いんだったな。お前どこに泊まってるんだ?」
……オンボロ寮……ですけど」
「じゃあ、そこで続きを話そう」


 トレイ先輩と並んで歩くのは懐かしい道を進み、オンボロ寮の談話室へと案内する。紅茶をいれようとしたら、先輩がキッチンまでついてきた。私よりもずっと上手にいれてくれるのだから、任せてしまおう。手際よく動く先輩の手を眺める。相変わらず、逞しくて指が長い。
 ソファに腰を落ち着ける。先輩の様子を見るに、特に怒っているわけでも悲しんでいるわけでもなさそうだ。いたって普通。少しホッとする。
『まだ返事をもらってないから』
 トレイ先輩はそう言った。返事を、してもいいのだろうか。


「あの……
「悪かったな」
「え?」
「ショートメールに返事をしないで放置して、悪かった。ごめん」
「ああ、いえ……私の方こそ、こんな……騙すようなことをしてすみませんでした」
「別に騙されたなんて思ってないぞ?」
「ええ……怒ってないんですか?」


 恐る恐る先輩見上げると、「まさか」なんて笑っている。紅茶に口をつけて、ほう、とひと息つく。肩の力が抜けた。


「私、先輩に返事をしていいんですか?」
「良い返事をしてくれないと、ここまで来た意味がなくなっちゃうだろ」
「そうですよね……ん?……良い返事?」
「お前に会うために、1週間の有給をもぎとってきた」
「どうしてそんなに長く」
「やることがたくさんあるからな。これでも時間が足りないくらいだ」
「やること?」
「詳しく聞きたかったら、今すぐ返事を聞かせてくれ」


 片眉を下げて、にやりと笑う先輩は、私の返事がとっくに分かっているみたいだった。まぁ、断るつもりだったら、わざわざ女であることを伝えたりしない。
 ソファに座り直して、背筋を伸ばす。隣に座るトレイ先輩のマスタードを見つめ返す。どくん、どくんと心臓が徐々に早く動き始める。ふぅ、と小さく深呼吸した。


「トレイ先輩のことが好きでぅんむ!?」


 最後まで言い切るまえに、キスが降ってきた。ちゅ、ちゅと繰り返されるリップ音に顔を熱くしていると、ぬるりと舌が入り込んでくる。ぞろりと歯をなぞって、掬うように舌を絡めてくる。息、どうやってすればいいの。
 迎え撃つ技術もないため、なすがままにされていると、次第にトレイ先輩の手が怪しい動きを見せ始める。いつのまにか、私が着ていた白衣は下でぐちゃぐちゃになっていた。ぐい、と腰を上に引っ張られる感覚がした。確認したいが、先輩のキスが止まらなくて何も見えない。「んー!!」と抗議の意を示すが、目で笑う先輩にスルーされる。すい、と先輩が右手を私の見える位置まで上げた。そこには、ベルトが握られている。私のだ。え?
 ぱっとそれを床に落とした先輩の右手は、そのままズボンのボタンを外してずり、と下ろそうとしてくる。思わず両手でズボンを掴んだ。そちらを簡単に諦めた先輩は、今度はシャツの中に手を入れてくる。どうしてこんなに性急なんだ!?

 片手でばしばしと先輩の胸板と叩く。それでも止まってくれないので、軽く舌を噛んだ。一瞬目を丸くした先輩が、ようやく口を離してくれる。息が苦しい。


「こら、何するんだ。痛いだろ」
「こっちのセリフですよ!何する気ですか!?」
「ここまできて分からないとは言わせないぞ」
「ひ、んっ……こんな真っ昼間からしませんよ!それにゴーストいるし。先輩のばか!」


 服の中できゅ、と胸の先を摘んできた先輩に蹴りを入れる。「こーら、暴れるな」と笑う先輩を睨んで、身体を起こした。先輩の大きな手がシャツから抜け出る。ずりずりとズボンを履き直し、ソファの上で体育座りをした。


「先輩が言う“やること”ってこれですか!?」
「まぁ、これもあるけど」
「あるんだ……
「一番大事なのは、これだ」


 先輩はソファから身を乗り出して、鞄から一枚の紙を取り出す。ペンと一緒にテーブルに置かれたその紙を見て、目を丸くした。


「先輩、これ……
「籍を入れよう」
「え……
「学園長の養子に入って戸籍を作ったんだろ?仕事がすぐに見つからなくても、配偶者なら薔薇の王国で生活できる」
「え、え?」
「結婚してほしい」


 指輪まで用意されていた。いつ、私の指のサイズを測ったのだろう。「これは婚約用で、結婚指輪は二人で一緒に選びたいんだ。お前だって好きなデザインとかあるだろ?」と先輩は笑う。怒涛の展開に、頭が全然追いつかない。まさか、交際をすっ飛ばして結婚を申し込まれるとは思わなかった。


「先輩、私でいいんですか?」
「お前じゃなきゃダメなんだよ、俺は」


 涙腺が緩むのを隠したくて、先輩の胸に飛び込んだ。ぎゅっとシャツを掴むと、ぽんぽんと優しく頭を撫でてくれる。思いっきり先輩の甘い香りを吸い込むと、頭がくらくらした。これ、現実だよね?トレイ先輩と家族を作る未来を、夢見てもいいの?


「返事は?」
「よろこんで!先輩大好き!」


 はは、と嬉しそうに笑った先輩にちゅっと口付けると、後頭部を固定され再び抑え込まれる。ちゅ、と軽いバードキスを繰り返しながら、抱えられたままゆっくりとソファに転がされた。先輩は、絶対に今日する気だ。多分逃してもらえない。観念して、「……ベッドにしませんか?」と言えば「分かった」という返事がきた。横抱きにされて運ばれる。以前の自室に向かおうとした先輩に現在の部屋の位置を伝え、お風呂に入りたいと言えば、待てないからとなにやら魔法をかけられた。「これで綺麗になったぞ」とにっこりしている。かわいい。
そっと下ろされたベッドに、先輩も上がってくる。


「先輩、せっかく勉強したのに発揮する機会なかったですね」
「揶揄うなよ。別に、学生時代を懐かしんで男になってくれてもいいぞ?魔法薬なら俺も作れる」
「遠慮しておきます……っていうか、学生の時は男装してただけですって」
「その頃から気づいてたら、ケーキ屋で再会したときすぐに分かったのになぁ。ちょっと悔しいよ」


 下がりきった眉が愛おしい。


「あ、しまった談話室に置いてきたな……
「何をですか?」
「オレンジピールのクッキー。作って持ってきたんだ」
「え!食べたいです!……談話室行きません?」
「だーめ。俺がお前を食べてからな」













『エース、招待状届いたか!?』
『来てるけど……これマジ?』

『監督生が実は女で、薔薇の王国に引っ越してきてて、今度トレイ先輩と結婚式挙げる……って、情報量多すぎだろ!』