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杏夏
2020-12-31 16:47:32
3391文字
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親子のまじない
四章以降の時間軸で、シンアノ?のようなものです。
アノスはもぞりと寝返りを打った。
衣擦れが落ち着くと、己の瞬きの音すら響くような静けさだった。カーテンの隙間から射し込む月明かりはやさしく、だがくっきりと物の陰影を際立たせている。
珍しいことだ、とアノスは思う。深夜だというのに、ふと目覚めてしまってからまったくもって眠気がやって来ないのだ。二千年前にはなかったことだ。休める時に休めねば生き残ることなど出来はしない。
これもある意味、平和の証なのかもしれないと思いつく。身体が鈍ってしまって休息過多なために、眠りをはね除けてしまっている。もしくは、穏やかな世のことを脳がまだ考えていたいのかもしれない。寝不足で死ぬことなどない時代だ。たまにはそんなこともあるだろう。
アノスは身を起こした。寝巻から着替え、音もなく窓から身を投げる。
どうせ眠れないのなら、静かで安らいだ夜を堪能するのもよいだろう。
月明かりに白く照る石畳を一人歩む。襲撃に気を張る必要もなく眠りに落ちる街の、なんとのどかで美しいことか。恐怖を必死にこらえる呼吸も、殺意を抑えて潜む息遣いも、どこにもない。閉め切られた窓と扉の向こうでただ眠る人々の気配が、こんなにも愛おしい。
昔見かけた光景を思い出した。眠る幼子の額に口づけを落とす親の姿だ。魔族の親子だったか、それとも人間だったかは覚えていないが、どちらも大差はないだろう。あの頃に込められた願いは、きっと切実なものだっただろうが、しかし今の世でも本質は変わるまい。
ふと、父さんと母さんの顔が浮かんだ。眠れないと声をかけてみるべきだっただろうかと、今更ながら思いつく。
わざわざ寝ている者を起こすなど、転生直後であれば考えもしなかっただろうが、今のアノスは両親が己に向ける愛情を知っている。起こしたところで邪険にされることはまずないだろう。むしろ子供らしさを歓迎されるかもしれない。
鬼、悪魔と詰られていた魔王を相手に、両親の過保護な愛情はこそばゆいが悪くない。
しかし、気が向くままに歩いてきたアノスの前にはデルゾゲードが聳え立っている。いつの間にか随分と歩いていたようだ。ここまで来てしまっては、今日のところは両親には声をかけずともよいだろう。
学院はとうに施錠されているが、主の来訪に門が音もなく開いた。
城内にまったく誰もいないわけではないが、教室として使われているあたりには誰の気配もなかった。昼間の賑やかさを知っていると、がらんと静かな様子は奇妙に思える。
思ってから、アノスは自分がこの時代に随分と馴染んだことを知った。二千年前はデルゾゲードが学校として使われることを想像すらしたことがなかったというのに、今は学生のいないデルゾゲードをこそ、奇妙と感じるとは。
声を漏らさず笑ったアノスは、月明かりの差し込む廊下で振り返った。
《転移》の白い光が散る。
白髪の魔族が当然のような顔をして立っていた。己の右腕も随分と学舎に馴染んだように見える。
「どうかされましたか、我が君」
「少し眠れなくてな。散歩をしていた。お前こそどうした?」
シンがデルゾゲード内にいるのは気づいていた。
配下のことをいちいち詮索する気はないが、目の前に来れば気にはなる。
「恥ずかしながら、明日の授業の内容に気になる箇所があり、確認をしておりました」
「なるほど。慣れぬ仕事かと思ったが、教師もなかなか板についてきたようだ」
「滅相もありません」
「だが、こんな時間までか? 業務が多いようであれば、メルヘイスに言って調整させるが」
「いえ、それには及びません。先程気づいて確認に来ただけですので」
こんな深夜にまで、授業のことを考えていたということか。不意に思い出したのだとしても、こんな時間にここまで来るとは、なかなかどうして熱心に教育に励んでくれているようだ。
だが、今のシンはアノスの右腕であるだけではない。
「ふむ。お前のことだから体調管理は万全ではあろうが、今は妻子のいる身だ。休息を疎かにはするなよ」
「は、肝に銘じます」
軽く釘を刺したアノスに、シンは生真面目に目を伏せた。
己の城と同じように、己の右腕は二千年前には考えもつかなかった一面を持つようになった。今は一人の夫であり、父親であり、教師である。
ふとアノスは悪戯心を出した。
「シン」
「は」
「口づけせよ」
「
……
は?」
同じ音にまったく違った感情を乗せて、シンが顔を上げた。シンの四角四面な顔が、今は随分と動揺している。視線が0.03㎜泳いでいた。
そこまで驚くことかとアノスは内心首を傾げつつ、一歩距離を詰めた。シンの体幹がわずかに後退する。どんな強敵が相手であろうと退かぬ男が珍しい。
アノスはシンを見上げ、自分の前髪を掻き上げた。額を露にする。
シンの肩からわずかに力が抜ける。
「
……
額に、ですか?」
「ああ」
妻子のある男に唇への口づけを要求するわけもないだろう、とは思ったが、言葉足らずだったのはこちらである。アノスは頷いてやった。
「
…………
失礼いたします」
色のない目が、裂帛の気合いと見紛うような覚悟を帯びる。
シンが身を屈め、何かが額に触れてすぐに離れていった。温度も何も伝わらぬような、刹那の接触だった。
「ふはっ」
アノスは小さく笑った。思わず額を手で押さえてしまっていた。触れた感触を逃がすまいとでも思ったのだろうか、幼子のような仕草に我ながらおかしくなる。
姿勢を戻したシンが、戸惑ったような問うような視線を向けてきていた。
「ありがとう。これでよく眠れそうだ」
「
……
どういうことでしょうか?」
「親から子へ、額へと口づけするまじないがあるだろう? お前も父となったことだし、実子のついでに俺にもやってもらおうと思ってな」
父さんか母さんに頼むのが筋ではあるが、この堅物の右腕も今や一端の父親である。"息子"である自分が"父親"にねだってみたくなったのだ。
「我が君をついでなど
……
、それにお父上の代わりなど恐れ多い
……
。私は未だ父親としては至らぬ点ばかりです」
「ふむ、理想を持つのは良いが、あまり根を詰めすぎぬようにな。父親らしさも大事だが、甘え、甘えられるくらいでもちょうどよいのではないか?」
シンのミサへの過保護ぶりはいっそ大人げないほどだが、懸命にミサを愛しているのは伝わってくる。それを素直に娘に伝えるのも、たまには必要だろう。
「俺の甘え方もなかなかのものだったろう? 二千年前はそんな状況ではなかったが、この時代に転生して学んだのだぞ」
アノスがそう言って笑みを向けると、シンはかすかに首を傾げた。
「我が君の甘え方
……
?」
「まじないを父にねだるなど、息子らしいだろう」
命令のような形にはなったが、結果から見れば些末なことだ。
シンは目を見開き、「はい」と端的に肯定した。さすがシンだ。深淵がよく見えている。
「そうだ。俺もまじないをしてやろうか。父親も教師も様になっている配下に、褒美だ。受け取ったら、さっさと家に帰って寝るがいい」
「え、いえ、私は
……
!」
「遠慮するな」
アノスがシンの肩に手をかけると、ぴくりとその肩が跳ねた。構わずシンの目を見つめると、シンは諦めたように力を抜き、身を屈める。
差し出された額から前髪をそっと避け、アノスは口づけた。薄い皮膚を通して、奥の頭蓋の固さを感じる。押しつけると自分の唇がつぶれるようになるのが、慣れぬ感触で面白い。
「
……
こんなものか?」
アノスは身を離した。シンは中途半端な体勢のまま動こうとしない。
「シン?」
「
…………
はっ」
声をかけると、シンは素早く体勢を戻した。その顔はわずかに赤い。
「わ、我が君の慈愛に深く感謝いたします」
「ふむ、よく眠れるようにと願いを込めたつもりだが、眠れそうか?」
「はい。根源を滅ぼしてでも確実に眠りましょう」
「くはは、お前がそんな冗談を言うとはな」
アノスは笑った。己も右腕も、平和な世で変わっていくのが可笑しかった。だが、悪くない。
「ではまた明日。学校でな」
これ以上話し込むのもよくないだろうと、アノスは緩く片手を振り《転移》を使った。
自分の寝室に戻り、欠伸を噛み殺しながら着替えて床につく。
おかげで、よく眠れそうだった。
終
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