杏夏
2020-12-19 23:58:46
2238文字
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ある男のある昼の話

レイアノ?です。文庫三巻読了した勢いで書きました。いつかレイになる男の独白です。

頭から被った血のあたたかさを覚えている。
それが冷えて、髪ごと固まった感触まで覚えている。
でも、君が「ありがとう」と言ってくれた声はもう思い出せなかった。




僕は目を開けた。高く上った日が窓から差し込み、布団をぽかぽかと暖めていた。
立ち上がってぐっと伸びをする。窓のすぐ下にある通りから、穏やかながらも賑やかな喧騒が聞こえていた。
寝坊したみたいだ。もう昼時に近いのだろう。
階下の食堂はやっているだろうか。朝食と昼食の狭間だろうから、仕込みで忙しいかもしれない。
欠伸をかみ殺しながら着替える。


今日はどこへ行こうか。
やるべきことはたくさんあるけれど、急ぎの用件は今のところない。
何せまだ、千年以上は時間がある。あと百年足らずで四界を隔てる壁が消えるから、それが近くなったらまた忙しくなるけれど、まだその時でもない。


窓からは良い匂いが漂ってきていた。香ばしく焼けた肉の匂いだ。このあたりでは、薄く切った肉を焼き、それをパンに挟んだものがよく売っているから、きっとそれだろう。
お腹が盛大に鳴ってしまって、僕は今すぐ出かけることにした。
食堂が忙しそうだったら、外に出て匂いの主を朝食に買おう。
そう決めて下に降りると、食堂はやっぱり忙しなかった。それを横目で見て、僕は宿を出た。明日の分までは宿代を前払いしているから、そのあとどうするかはまた後で考えればいい。
パンは小さな屋台で売っており、すぐに見つかった。道の端で往来を眺めながら、かぶりつく。
香辛料で味付けされた肉がはみ出るほど何枚も挟まれていて、これは当たりだったな、と頬が緩む。
自分の食い意地が張っていることに気づいたのは、五百年ほど前のことだっただろうか。それまでは、大戦中の酷い食糧事情を知っているから、つい沢山食べてしまうのだと思っていた。
でも、平和が随分この根源に染みついても、やっぱり食べることは幸せだった。美味しいものを食べるのも、お腹いっぱい食べられるのも幸せだ。
あっという間に食べ終えてしまって、僕は歩き出した。
君だったら、これを気に入るだろうか。
君が作った平和の中で、様々なことが変わって、色々なことが新しく生まれた。そんなことを知るたびに、僕はまだ生まれていない君に教えてあげたくなった。こんな食べ物、昔は魔族の国にもなかったんじゃないかな。
いつの間にか、栄養価が高くて日持ちするけれど煉瓦のように固かったパンは姿を消し、白くてふわふわのパンは高級品ではなくなった。恐ろしく手間のかかるケーキだってお祝い事がなくても食べられるし、肉や新鮮な魚介類が街で毎日手に入るようになった。香辛料として使われる植物も随分増えた。
食べ物の話ばかりしてしまっては、君は呆れるかな?
でも、本当にびっくりしたんだ。何度目かの転生のあと、街で初めて太った人を見かけたときは思わず笑ってしまった。君がいた頃は、そんな人一人もいなかった。庶民より栄養状態の良い王侯貴族だって、太れるほどのんびりなんてしていられなかったから。
街で花を見かけるようにもなった。
道を歩く僕の両脇で、色鮮やかな花が暖かな日差しと柔らかい風に揺れていた。
信じられる? 魔法効果の一つもない花を、普通の人々が家で育てているんだよ。あの頃は、家なんていつ放棄するかわかったものじゃなかった。たまに花が好きな人が育てていても、それは持って逃げられるように小さな鉢植えだったし、その程度のことを物好きだと謗られることさえあった。
その他にも、ある町ではやたら精巧で繊細な工芸品が名物になったし、可愛い以外に特に効果のない魔法具が大人気になった。
ぽっかりできてしまった安穏の日々の中で世界を回りながら、そんなものを見つけるたびに、僕は君のことを考えている。


君が転生するまであと千年。
何度転生しても、あのデルゾゲードの夜のことを夢に見ない生はなかった。
寝ても覚めても君のことを考えているのに、実は君の声をもう思い出せないんだ。あんなに何度も睨みつけていたはずの顔だって、朧気だった。
それでも。君が言ってくれたこと、君がしてくれたこと、それからあの凄まじい魔力を抱えた根源のことは忘れない。
君と友人になんて本当になれるんだろうかと、悩んだ頃もあった。でも、いつの間にかそんなこと気にならなくなっていた。
声も顔も忘れてしまっても、きっと君の魔力を見ればわかる。
会いたい。
君が平和な世界を見て、そしてどう思うのか聞いてみたい。美味しいものを一緒に食べてみたいし、君の好きな食べ物も聞きたい。
穏やかな日々の中で、君とやってみたいことが少しずつ降り積もる。




でも真上から街を照らす日差しの眩しさに、そんな心と同じくらいの願いがふと浮かぶ。
君が寝坊すけだったらいいのに。今日の僕と同じように。
ほんの少しでいいから、目を覚ますのを待ってくれたら。そうしたら、僕は全部終わらせて、生まれてくる君に平和な世界を贈れるだろう。
あの約束は反故にしてしまうけれど、魔族は寿命が長いから、気長に待ってくれるんじゃないだろうか。待たせたままになってしまうのは心苦しいけれど、平和な世界ならきっと君に友人はたくさんできるだろう。
根源すら残さず消える最期に、心に残るのがその想像なら、それは幸せだと思った。


今日も僕はぽかぽかと明るい平和な世界を歩んでいく。
君のことを待ちながら。