さもゆ
2024-11-18 09:28:00
8661文字
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【腐界】ミシェーラは言った!

副官の腕の重要性について書きたかったなりそこない。あらすじは、たぶん、世界を救うために副官の腕を切り落とさなければならなくなった、から始まる。

2020.5.19 たまごのお粥pixiv投稿作品

 あなたの声がなんのためにあるかご存知? それは愛する人に優しく囁きかけるためよ。
 あなたの目がなんのためにあるかご存知? それは愛する人を安心させてあげるため。
 あなたの腕がなんのためにあるかご存知? それは愛する人が凍えないようにするためで。
 ではあなたの足は、なんのためにあるかご存知? ……それはね──。



 エレメンタリースクール、一年生のクリスマス会の出し物で、ミシェーラが言った台詞は観客の意思をすっかり抱き込むのにじゅうぶんな威力を持っていた。舞台袖から車椅子で登場し、たったそれだけで人の目を引いてしまう彼女のことを、ぼくはあの子は自分の妹なんだぞと少し誇らしげに、パイプ椅子の上で胸を張って観客になって見ていた。そのころのぼくたちといえば、どうやら車椅子の子どもというのはほかの子より様々な目で見られやすいということを察していて、そして自分がどういう目で見られるのを一番居心地がいいか知り始めていた彼女は、よく、ぼくに「わたしを見ていてね」と言っていたものだから、舞台で一生懸命台詞を言う彼女を星の瞬きのように嬉しくなって見つめていた。ミシェーラ・ウォッチ。ぼくの妹! お転婆で、勝気で、お姫さまに憧れているかわいくって生意気な女の子! しかもぼくよりよっぽど強い。ぼくにとって妹はそういうやつで、車椅子に乗っているなんて些細なことだった。むしろ、車椅子ごとが彼女の魅力だとぼくは思っていた。だから幼いながらに、自分と動かない足とその代わりの車椅子をばらばらに見つめられて辟易していた彼女は、ぼくの、ありのままのミシェーラを受け入れる視線に安堵していたのかもしれない。……まあ、自分や他者の気持ちを昔よりは言語化できる年になったから、そう考察しているだけなんだけれど。
 とにかく、ミシェーラ・ウォッチは言ったのだ。

 自分の声は愛しい人に囁くためにある。
 自分の目は愛しい人を見つめるためにある。
 自分の腕は、愛しい人を抱きしめるためにある。
 そして、自分の足は、愛しい人から遠ざかるためにあるのだ、と。

 それを舞台から言われたぼくは、いや、観客にいたほとんどの人は、まるで何か重大なことを聞き漏らした心地で耳をそば立てていた。──どうして? ぼくは目の前で輝いていた星が散り、決して手許に残らない寂しい感覚に襲われたのをよく覚えている。どうしてそんなことを言うんだ? 大切な人がいるなら、足はその人のそばに立つためにあるに決まってる! それがぼくの見解だった。だってぼくは、本当に、ミシェーラのそばで彼女の足の手助けをすることが、日常で、当たり前だったから。

 大人になって単身渡航した今では、あれはある種の予言だったのかななんて正反対のことを思うわけなんだけれど。

 ……ハロー、ミシェーラ。お前のそんな兄ちゃんは、今。
 お前の言葉を引き合いに出して、腕を切り落とそうとしているおっかない上司を説得しようとしています。



「ミシェーラは言った!」

 ぼくは大声を上げながら談話スペースのテーブルへと駆け上がった。

 それまで当事者同士の間だけで成立していた問答や取り留めもなく流動していた不穏さがその瞬間ぴたりとやみ、彼らは口を挟まずに慌てているだけだった突然のぼくの奇行に驚いて振り向いた。テーブルの上に置いてあったお茶請けががたんと振動で揺れるのを認め、それを用意してくれたギルベルトさんにごめんなさいと心の中だけで叫ぶ。口にしなかったのは、ほかにもっと言いたいことがあって、それは勢いが大事だったからだ。
 ぼくはテーブルクロスを踏みにじる勢いで登壇し、そして大口開けて宣った。
「ミシェーラは言いました! 『あなたの声がなんのためにあるかご存知?』と! なんのためにあるとお思いですか、スティーブンさんは!」
……少年、」クラウスさんに腕を掴まれ、その掴まれた手の中に氷でできた刃物を握りこんでいるスティーブンさんは、ぽたぽたと溶け出た氷と血を床に落としながら口を開いた。「どうした、乱心したか? 大人の喧嘩を目の当たりにしておかしくなるのは、もっと小さい子の特権だと思うんだがな」床に落ちた血はこんからきらりと氷の結晶となって彼の足元に広がる氷上の一部になる。冷静な上司は一寸そうして驚き、煩わしげな声とわけの分からないものを見る目でぼくを見上げていたが、すぐに正気を取り戻した。狂気的な正気だ。
 ぼくは義眼を見開き彼の動きを少しも見逃すことなく観察するため汗が浮かぶほど集中していたので、その僅かな筋肉の動きが彼のわざに繋がる前に、またダンッと足を踏み下ろし注意を引きつけた。血法でスティーブンさんの胴と足を拘束しかけていたザップさんとツェッドさんが、やはり困惑と不安を混ぜた瞳でぼくを見てくる。ザップさんなんかはぼくをあわれな陰毛頭の後輩として、つまりはこの場にそぐわない一般人として遠ざけようともう片方の手から血法を発動させてさえいる。
 ぼくが超人上司二人の喧嘩に巻き込まれてもかろうじて死なないようにのその配慮をありがたく思いながら、しかし自分から巻き込まれに行ったぼくは震える足を叱咤して、張りつく舌の根を口蓋から引き剥がしにかかった。
「答えられないならぼくが答えを用意しますッ!」ぼくは叫んだ。「あなたの声はなんのためにあるのか? ミシェーラは言いました、『それは愛する人に優しく囁きかけるため』。でもあなたのは違う、スティーブン・スターフェイズさん! あなたの声はあなたのボスの言葉に応答するためにあり、ぼくらに指示を飛ばすためにある!」
 血を流す腕を掴んでいるクラウスさんが、ぼくの突如始めた演劇じみた問答を、眼鏡の奥の瞳で興味深げに見つめている。
 掴まれているスティーブンさんは苛立たしそうに口を開くが、ぼくはそれを許さなかった。
「ミシェーラは言った! 『あなたの目がなんのためにあるかご存知?』 ――それは愛する人を安心させてあげるためにある!」口にしてから不意に涙が滲んで瞬きで殺す。不気味で不格好、おぞましく舞台照明の成り損ないのような青い光が眼球から迸り、まつ毛の形に影をつくる。妹が好きだと言ってくれた、安心すると言ってくれたぼくの目は、今やこんなにも醜くなってしまった。「――でもあなたの、ライブラ副官のスティーブンさんの目は! ボスの世界を見据えて疎かになりがちな、でっけえ背中を見守るためにある!」
 スティーブンさんも暗色のまつ毛を震わせて瞬いた。
 ザップさんが意識をこちらに向けたまま、気づかれないよう小指を曲げ、目を凝らさないと見えないような細い糸を伸ばすが、糸はスティーブンさんに向かうかぼくに向かうか惑った動きを見せ、結局その中間、どちらに伸ばしてもいいように床をのたうった。
 失敗をしてはいけない。ぼくのこめかみから汗が流れる。どころか心臓はこれより前からずっと忙しなく鼓動していたし、血と氷の上司二人の気迫と圧でやられていた足は今にもくずおれそうだった。まさかぼくは思わなかったのだ。この二人が正面切って不穏な雰囲気で喧嘩をするなんて。でもそれは当然だった。当然の、喧嘩への発展の仕方だった。
 息を吸って、吐く。ぼくが幼いころ(大概の家庭は幼い子どもがいるとき夫婦仲が険悪になったりする。誰だってそうのはずだ。うちだけじゃない)両親が言い争いをして、泣きじゃくるミシェーラと一緒に音の届かない納戸へ引きこもる、あの息苦しさと似た感覚。そして、二人の喧嘩を止めることができず、ただ嗚咽する妹を抱きしめて背中を叩くことしかできなかった不甲斐なさ。
 ぼくは子どもだった。
 けれど、あのころとは違い、ぼくはもう、ただ黙ってミシェーラのそばにいることができない。
 自分の震える両膝を、腰を折って掴んだ。
「ミシェーラは……言いました。『あなたの足がなんのためにあるかご存知?』 ……ぼくは、愛する人のそばにいるためだと思いました。ミシェーラは言った。『それはね、愛する人から遠ざかるためにあるの』」……ぼくはこの足で、自分から動けない妹を置き去りにして、それから、彼女ととびきりの思い出の場所に行ってくれる婚約者の彼に、身勝手にも寂しさを感じた。でも、それで良かったのだ。ぼくはミシェーラ・ウォッチを安心させる目を持っていたけれど、彼女を抱えて歩く足も、腕も、持っていなかったのだから。蹲り、耐え、反撃を窺う、ぼくの手足はとことん亀の騎士向けだった。
 だが、スティーブンさんはどうだ?
「でもあなたの足は違う。きっと、違う。」
 ぼくは顔を上げる。
「愛する人、がどういう愛を対象にするのか、ぼくにはよく分かりません。でも、ぼくは確かにミシェーラを愛しているし、両親のことも愛してる。このクソッタレな街も、この街で出会った友だちも、バイト先の人も、そして、ライブラの皆さんのことも……それなら、きっと、スティーブンさんもライブラを愛してるんだ。ライブラのボス、クラウス・V・ラインヘルツさんを、愛する人のうちに数えてる。無二の存在なんでしょう。あなたにとって。そして、だから、あなたの足は、本当に、クラウスさんのそばに並び立つためにあるんだ」
 スティーブンさんの剣であり、盾であり、騎士のように従順に仕える荒ぶり凍てつく氷の足。
 少し、羨ましかった。ぼくにはないものだった。望んだこともあった。
 彼にとっては、それ以外はどうでもいいのだ。
 たとえ世界のためなら、自分の腕を即不要なものと判断できるくらいに。
 
 スティーブン・A・スターフェイズの手の中で、皮膚を裂いた氷が血を滴らせている。二の腕はスーツの灰色を濃く染め上げ、その少し下を掴んでいるクラウスさんの手さえ赤くしている。
 彼は、世界のため、その腕を切り捨てようとしていた。

 世界、なんて。腕を切り離さないと救えないと世界の方から宣うものを、どうして彼らは救おうと働けるんだろう。だって、仕方がなかった。我らがボス、クラウスさんが世界を誰よりクソッタレだと知っていて、それでも尚美しいと前を見据え救おうとしているんだから。
 けれどそんなクラウスさんも、今回ばかりはそのクソッタレな部分に激怒した。腕一本で救えるなら構いやしないさと踵を地に叩きつけて凍える刃を生み出し、そうして躊躇いもなく自分の腕を切ろうとしたスティーブンさんに掴みかかったのだ。

 彼らの剣幕に、吐かなかったことは、誇れる成長だと思う。

「そして最後に、ミシェーラは言った。……正確には最後じゃないし順番を入れ替えてるんですけど……こほん」わざとらしく咳をし、腰を正して彼らを見下ろす。「『あなたの腕は、なんのためにあるかご存知?』 ――なんのためにあると思ってますか、スティーブンさん」
「世界を救うため」彼は低く即答した。
「きっと正解でしょうが、今この場では違います」卑怯な回答をしながら、ぼくは言う。「『それは愛する人が、凍えないようにするため』」この答えは、彼のためにあるようなものだと思った。ぼくは白い息を吐き出した。「ねえスティーブンさん。あなたは冷たいです。あなたの足は氷の上に立ち、心臓から冷たい血液を循環させています。全部を見たことはないけど、あなたのその首筋から覗く刺青みたいに……でもどうか見て。見てください。あなたが不要だと見切りをつけて傷つけようとした腕を。それは本当にいらないものなんですか? 世界を救うためだとしても、あなたの愛する人が掴んで止めているんですよ。その腕は冷たいんですか?」
「いいや」クラウスさんが答えた。「あたたかい。血も流れて、痛そうだ」
「足と同じくらいズタボロになっても、平気そうですか?」
「ちっとも」
「おい、……おい、クラウス」スティーブンさんが身を捩って赤毛の友人を睨みつける。「勝手におれの心情を偽るなよ。窓の外が見えないのか? こうしてる間にもどんどん均衡が――
「スティーブン」クラウスさんは強く呼んだ。ぼくを見上げていた瞳を、そのまま隣の副官へと下ろす。
 スティーブンさんは僅かにたじろいだが、濃紺の鋭さは変わらなかった。「なんだ、クラウス」
 その瞳を臆することなく真摯に受け止めたクラウスさんが言う。
「わたしは腕で戦い、きみは足で戦う。わたしの拳は血塗れで、きみの踵も血塗れだ」
「それがどうした」
「だが、わたしはこんな戦場に立つ身だ、おそらく足も血塗れだ。拳だけでなく」
……何を言いたいのか分からない」
「きみの腕も、同様だろう」 
 掴んでいた腕に目を下ろす。
「レオナルドくんは、とてもいいことを言ってくれた。……きみのほとんどが、わたしたちのためにあると自惚れ、嬉しくなったことは、どうか許してほしい。けれど、そうだな、きみの腕は、わたしたちのためだけにあるのではない」
……まだよく分からない」我慢ならないと言わんばかりに眉をひそめる。「クラウス。ぼくの手はポケットに突っ込むためにある。それでいいじゃないか」その言い方は、まるで自分の腕の重要性を、本当は分かっているような言い方だった。クラウスさんは首を振って続けた。
「きみはわたしに着いてきてくれた。見守り、助言をくれ、わたしには見えていないところに足を運び、必ず戻ってきてくれる。きみは冷たい。冬より寒く、凍土より凍える。だがわたしにはきっとそれがちょうどいいのだろう、きみのそばで戦っても、わたしは自分の血が沸騰してまだ熱いくらいだ。きみにいなくなられると大変困る」
「クラウス」
「そしてもっと困るのが、きみのそばにいる者が、いたいと思う者が、すべからくわたしのように頑丈ではないということだ。きみはほかに、そばに立ちたいと思う人が?」
「いないよ。そんなの」
「ではこれから現れるだろう」
 断言だった。
「そのとき、きみのことだ、己の血に濡れた記録を思い、それこそその足で遠ざかろうとするかもしれない。そしてまた、何もないふりをしてわたしの隣に立つ。そんなのは、」クラウスさんはザップさんを見た。ザップさんは自分が何を促されているのか分かったらしい。にやっと口端を上げて口を開いた。「クソくらえ?」クラウスさんはうむと頷いた。「そう、くそくらえだ。そんなのは、許されない」紳士の乱暴な言に、彼らから離れたところに佇んでいた有能で清廉を重んじる執事のギルベルトさんは、なぜか楽しそうに目を弧にしただけだった。スティーブンさんは反対に険悪さを増した。「つまり、なんだ? きみはぼくとの友情を破綻したいのか?」
 ぼくにはどうしてその言葉が出たのか分からなかったが、クラウスさんも分からなかったようで、きょとんと眼鏡の奥で瞳を丸くしたあと、そうではないとキッパリ言った。「じゃあ、なんなんだ。クラウス、きみ、何が言いたい?」
 その時、まだ変わらず不穏な空気は流れているが、もう当初の緊迫した状況を脱したと悟ったツェッドさんが、テーブルに乗るぼくのとこまで歩み寄り腕を伸ばしてくれた。正直ありがたかった。足の震えがひどくて、一歩動けば無様な恰好で倒れ伏しそうだったので、ありがとうございますと密やかに感謝を告げてテーブルから降りるのを手伝ってもらった。中間まで伸びていたほかの目には見えない細い血糸が、床に着いた途端ガクンと力の抜けたぼくの足首に三回ほど巻きつき、離れていく。ザップさんはこっちを見ていなかったが、それは彼らしい労いだった。
 そうしている間にも、大人である友人同士の言い合いが続いていく。

「スティーブン。なぜ分かってくれない? わたしはきみの腕の重要性を説いている。きみは大切な友人で、組織の副官だ。友情が破綻するなど有り得ない」
「ハッ、そうか? そうだと嬉しいけどね。きみこそ分かってないのか? きみが言うことはぼくの不要性を説いてるんだぜ」
「なぜそうなる? スティーブン。わたしは、」
「ぼくのためを思うなら、黙って腕を切り落とさせてくれ」
「それはできない」
「世界を救うのがきみの使命のはずだ。ぼくの腕を慮ることじゃない。それにこの街なら、失くした腕の代わりなんていくらでも見つかるさ」
「きみの代わりなんていない。誰の代わりも。どうかわたしの言葉を聞いてくれ」
「いいだろう、聞くよ、聞くとも」スティーブンさんは踵を鳴らした。「だが腕を放せ、クラウス。聞くのはそれからだ」

 ぼくはツェッドさんに支えられながら、優しい後輩の肌の触感に感覚を寄せていた。いい感じに湿っていて、ひんやりしていて、彼の半透明な蒼色を見るだけで心が落ち着くようだった。ぼくの忌々しい義眼の色とは全く違う青色を安心して見つめながら、瞼を緩やかに落としていき糸目に戻る。「大丈夫ですか、レオくん」「だ、だい、」「大丈夫じゃないですか」「……大丈夫じゃないです」ぼくは心置きなく溜め息を吐いた。「仲直り、まだですかね」ぼくが泣きそうに言うと、ツェッドさんもいくらか不安そうに返した。「きっと、もうすぐですよ」

 クラウスさんは彼の腕を放した。
 それで間髪容れずもしかしたら腕が一本飛ぶのではないかと不安を抱えたが、そうはならなかった。スティーブンさんは血を流す腕を、ただ体のそばに下ろすと、黙ってクラウスさんから視線を外す。聞き入れるかは微妙だったが、それは聞く姿勢だった。

「わたしはきみの腕ばかりを慮っているわけじゃない」クラウスさんは視線を逸らさずに言う。「きみの未来を案じている。きみは指揮官で、戦士で、わたしの友人だ。そして腕は、手は、たとえ血に濡れようと、平穏な未来を掴み取るためにある」
……それは」きみだけだ、ぼくには言われなかったその言葉が分かるようだった。
 床に蹲る氷が冷気を放っている。太陽のような熱を持つ人が、氷の彼の名を呼ぶ。
「スティーブン。きみの腕は、きみとともに凍える地に立つ誰かをあたためるためにある。わたしのためにあるのではない。わたしは既にきみの足を、それどころか目も声も奪っている。ほかは奪えない。たとえ世界のためでも、きみの腕を真に望んで手を取り合ってくれる人でなければ、わたしは許容できない。――そう、これはライブラ統括責任者としての命令だ。腕を切り落とすな」
 ひゅう、ザップさんが口笛を吹いた。
 ぼくの目にはスティーブンさんが完全に戦意を喪失したように映った。
 実際その通りで、ぼくには仕組みが理解できないけれど彼の足下で蹲っていた氷が緩慢に溶け出していく。その上に血が落ち、氷が溶けた水と混ざって波紋を描く。鋭利な刃物が丸くなっていく予感に、誰もが心の中で息を吐いたように思う。スティーブンさんは顔を上げ、そして次の瞬間クラウスさんの肩を殴った。ものすごい音がした。あの盤石なクラウスさんがよろけ、足を一歩後ろにやって呆然と肩を押さえた。ぼくはあまりに突発的で予知させない暴行に悲鳴を上げそびれ、口をぱくぱく開閉させた。
「今のは八つ当たりだ」
 スティーブンさんが殴った拳を解いて痛そうにひらひら振りつつ言う。
「悪い。痛かっただろう」
「あ、ああ。かなり、とても」
「ぼくも手がとんでもなく痛いよ。喧嘩両成敗だ」
 ぼくには少々理不尽で、なんだかよく分からない理屈だったが、友人である彼らには通じるのかそれは仲直りのムードだった。スティーブンさんは剣呑だった瞳を閉じ、(その間手首は振り続けられていて、よっぽど痛かったのだと察する)次に開けた濃紺は、理性が宿り、理知的で、静かな冬の夜を思わせた。スティーブンさんが僕を見て、少なからずの懺悔を覗かせる瞬きをしたかと思うと、ありがとうレオナルド、と言った。「平気か? 随分怖がらせたように思う」「……め、めちゃくちゃ怖かったっす」「きみの妹さんは素晴らしいね。劇をしたのか? ぼくも見たかったな」ぼくは顔を綻ばせた。「そうでしょう。ビデオ録ってあるんすよ。強くて可憐なお姫さまでした」スティーブンさんは困ったふうに凛々しい眉を下げる。「きみを褒めるよりミシェーラ嬢を褒めた方が、きみは嬉しそうだ。とにかく、ありがとう。おかげでクラウスにぶっ飛ばされずに済んだ」
「わたしはそのようなことはしない」
「どうだかね。きみは話し合いが無駄だと思ったらすぐ手が出る」
「話し合う前に勝手に決断を下すきみに言われたくはない」
「そっくりそのまま返すぜ」
 ザップさんがジッポの蓋をかちりと開けて、窓の外を指差す。「で? どうします、あれ。スターフェイズさんの腕の代わりに、世界を救える方法が?」
「もちろんこれから探す」クラウスさんは自信たっぷりに返した。「我々にはそれができる力がある。これは覆しようがないものだ。そうだろう、ギルベルト」執事はにっこり微笑んで頷いた。「はい、純然たる確定事項です」執事の主は満足そうに頷き返した。それだけで、ぼくたちは今日も世界がなんとか形を保てるのではないかと希望を抱く。その希望が裏切られたことは、一度たりともない。

 スティーブンさんの腕から血が落ちている。
 
 それは、世界をひとつ救ったのと、同義だった。