さもゆ
2024-11-18 09:10:00
18017文字
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【スティレオ】二十三時、きみは刮目する

何番煎じ。少年が副官の弱っているところを見てしまう、スティレオが始まりそうな夜の話。

2020.5.12 たまごのお粥pixiv投稿作品

 男の短く濃いまつ毛は下を向き、それに縁取られた瞳は雨降り街の深夜の暗がりのように濡れていた。
 すん、と息を吸い込めば、なぜか鼻の奥で蘇るは散々嗅いできた血錆のにおい。
 つきりつきり。
 胸がおかしい。
 そのことに、レオナルド・ウォッチは気づいていない。だから胸の奥からなのか肋骨の隙間からなのか鳩尾の筋繊維や両の肺腑からなのか、とかくそんな箇所からつきりつきりと衝動を伝えてくる自分の体に、痛いという感覚が分からないままただ居心地の悪さを覚えている。
 男はこちらを見ていない。
 気づいてさえもいない。
 けれどこちらは男を見てしまったし、気づいてさえいる。
 まぶたの裏側が痙攣する。
 つきり、また胸が。どころか、嫌な幻臭に惑わされている鼻の内側も明確に痛んで、泣き出してしまいそうなその前兆に、ぎゅっとまぶたの上下を閉じきった。
 酒に溺れた異界人の罵声が聞こえる。
 脳内麻薬のジャンキーが仮初の快楽を振りかざす音がする。
 生体車の自堕落な排気音。硝子を擦り合わせたような会話。遠くで轟く爆発。小さな生き物の小さな愚痴……
 自分の、吸って、吐いた、呼吸。
 
 ……まぶたを押し上げ、次に見た時には。
 男は雑踏に消えていた。



二十三時、きみは刮目する




「え、スティーブンさん今日休みなんすか」

 と思いのほか驚いた声が出てしまったことを、レオナルドは確かに「しまった」と後悔した。後悔したというよりは、焦りに近い感情で喉を上下させ、続いて「珍しいですね」とつけ加えた。自分的にはこれもまたあからさまな誤魔化しに聞こえたが、目の前のリーダにはそうは聞こえなかったようだ。
 大きく頷き、落ち着かなげに手を組み替え、私もそう思う、と控えめに言われたので、レオナルドはああそりゃそうだと人知れず胸を撫でおろす。自分の返しは何もおかしなことなどなかった。あのワーカホリック気味の彼が──限界値まで疲弊してもその場で倒れたりせず早退にとどめるようなスティーブンが──休みだと言われれば、驚くのが普通だからだ。
 その普通のリアクションをして「しまった」と思うのは、自分に少し、気がかりな点があったからだろう。
「やっぱ、珍しいんですね」
 自分よりよほど彼のことを知っているクラウスに訊くと、うむと頷かれる。
「彼はああ見えて、体調管理に余念がない。体が資本、を地でいく男だ。こういうことは滅多にない」
「ぽいですね」
 ぽいどころではない、クラウスの横に立ち背を守るスティーブンらしい、と薄っすら思い、頷く。「風邪でも、引いたんですかね」途端に嘘っぽいことを口にしてしまったなと思った。風邪を引く姿を想像できなかったのだ。
「いや、どうだろう」目にかかる赤髪で分からないが、おそらく眉をひそめている。
……連絡ではなんて言ってたんですか? メール?」
「目の調子が悪いので大事を取って休む、と。メールで」
「目の調子が」
「うん。心配して電話をかけようとしたのだが、それより先に心配するなと制されてしまって」
「心配、しますね。それは」
「ああ。しかし、まあ」落ち着かなげだった組んでいる手を解き、胸に当てたクラウスは、幾分か自信を持って言った。「スティーブンのことだ。何かあれば、必ず私に相談するだろう」
「そ、」
 今度こそ明確に声が震え、ごほごほと咳き込んでから、あれ僕も風邪かな気をつけなきゃナーあははそーですよねえ、と早口で返す。「そーですよ。スティーブンさんのことっすから。明日にはいつも通り出勤してる未来しか見えませんよ!」言ったレオナルドに、クラウスも頷いて同意してくれる。
 そこから、じゃあ今日はスティーブンさんがいない分も頑張んなきゃですねえ、誰も補える気しねーですけど、と会話を続けながら、レオナルドは内心焦って胸のあたりをそわつかせていた。
 そんな未来は、と思う。
 そんな未来は、自分の目には、見えていない、気がする。
 気がしているのには、ちゃんと、それなりの理由があった。理由があってしまうから、ざわつくのだ。レオナルドの目は、過去を見ている。昨夜のことを。






 昨夜。
 夜バイトの帰宅道。限りなくレッドゾーンに近い大通りの、路地裏。
 そこから出てきたスティーブンは、ひょっとすると、涙を流していそうだった。
 濃紺の瞳は黒々と濡れ、頬の傷が涙の跡のように皮膚を走っている。
 そんな光景が、眼球にこびりついて、一晩経っても離れない。






 だがしかし。
 それがなんだと言うのだ。レオナルドはこのことに自分が関与するべきでないと、正しく理解している。
 想像とはいえ、あの氷の副官が休みを取ったことに、自分がたまたま見てしまった昨夜の光景を重ね、あれこれ邪推するのは、きっと自分のためにならないだろう。だって、なんてったって。

 レオナルドはスティーブンが怖い。

 彼と自分の間には、大いなる隔たりが形作られている気がする。そんなことをいうと大体ライブラの人間たちとは能力的にも経験値的にも、全てにおいて隔たりが生じているのだが、またそれとは違う、完全なる拒絶の意思を示した隔たりだ。

 なんとなく、なんとなく。おそらく、たぶん、きっと。確実に。
 彼は自分のことを、義眼と、性格込みで。
 あまり良くは思っていないのだろう、と、感じている。

 そう感じるのは、たとえば現場に赴きぐちゃぐちゃになった異界人たちや、倒れ伏して息を引き取っている人間を見て、レオナルドがうっと口を押さえたり溢れ出た涙を拭ったりしている時だとか。作戦前に被害状況を聞いて顔を暗くしてしまった時だとか、はたまた愛人騒ぎで負った傷や麻薬で頭がどうにかなったザップを泣いて罵ってそうしながらも見捨てない時だとか。
 そういう時、彼はまるで宇宙人でも見るような目でレオナルドを見ている。
 この場合の宇宙人とは、想像が現実になったこの街での言葉通りの意味ではなく、理解し難い人間に対して使う意味での宇宙人だ。理解し難い、わけが分からない、奇異なものでも見るような、あの茫洋とした暗い瞳。
 同じ暗色の瞳を持つチェインも、わりかし、最初はそういう目で自分を見ていたとレオナルドは思っている。でも、彼女の作る隔たりは、いつの間にか、彼女同様、希釈してくれている。諜報の人だ、警戒心も強いだろうし、人を疑うのが仕事だろうと、仲良くなった今になってあの目つきに納得しているけれど。
 対して副官殿は、いつまで経っても自分を宇宙人だと思っているし、低く見せかけてその実地下深くまでそびえている氷山のような隔たりを、一向に溶かしてくれない。
 むしろ、その氷が出会った時よりも一層ぶ厚く、冷たく、鋭利になっているような気さえする。
 それは本当にただ気がしているだけだったが、レオナルドを怯えさせるには充分だった。別にいつも怯えて怖がっているわけではない、ふとした時、曖昧にそう感じる。加えて彼は、その隔たりを不純物のない無色透明に見せかけ、まるで壁がないように接するのがうまかった。だから、なんとなく、なのだ。なんとなく、スティーブンは自分のことを良く思っていない。
 
 それがいつから、と問われれば、最初からと答える。
 病院のベッド。顔の見えない初対面時。
 彼は組織の副官だ。副官はボスを支えるのが仕事。脅威となるものを見極め疑うものだ。レオナルドとて、それくらいは分かっている。

 そして見極められる期間が終わり、自分は無事「無害」の判を押されたと思っていた。し、事実、無害だ。秘密結社ライブラという組織にとって。人界にとって。彼もそれを分かったから、無害の判を押したのだろうが。

 組織的に疑うのはやめても、壁は取っ払ってくれないらしい。
 まあそれは、と思う。人それぞれ、過去の体験や性格によるものだから、別にいいのだけれども。というのも、スティーブンは時たまそういう氷の隔たりの、僅かばかりの反射を覗かせるだけで、もちろん怖いが普通に上司と部下として接してくれるし、むしろ事件や危機がない時は陽気で優しい人だった。これがたとえば四六時中冷たくあしらわれたら、さすがのレオナルドも別にいいとは思わず泣くか喚くかしていると思う。だから壁があるのは別にいい。仕方ない。人間同士ではよくあることであると諦念を持てる。

 でもなぜ、とは思う。
 なぜ、彼は自分のことを良く思っていないのか。宇宙人を見る目で見下ろしてくるのか?

 そこがレオナルドが分からない、ともすればちょっと不快な気持ちになる点だった。
 
 想像はいくらでもできる。
 人間に対しての脅威、ブラッド・ブリードを滅獄に追いやる血を持つクラウスの、必殺技を完成させる目を持つ人間が、こんなちんちくりんで許せない、とか。
 文献の少ない義眼を所有している自分が、今はよくても、この先脅威になりかねない、とか。

 弱くて、一般人であることが、苛つく、とか。

 正解は分からないが、まあ。
 やはり、この義眼と性格が、あまり好きじゃないんだろう。スティーブンは。

 そして自分も。
 案外と、そんな彼のことを宇宙人だと思っている。お互いさまだった。






「あ、れ?」
 呟き、ぱしぱし、瞬きする。
 途切れる青い眼光を見ていたツェッドが、どうかしましたか、レオくん、と首を傾げて訊いてくる。それにイエと返しつつも、糸目の分だけまぶたを下ろしたレオナルドは、目元を擦って隣の後輩を見上げた。
「なんか、目が痛い気がして」
「え」
 数瞬強張り瞠目した彼は、次には心配そうに触覚を揺らして膝を屈めてきたので、慌てていやそんな大した痛みじゃないんですけどと手を振る。「大丈夫です、痛いかなーって具合で、焼けてる感じじゃないし、逆さまつ毛レベルのあれなんで」
……なら、いいんですけど」
 膝を伸ばした彼は言葉のわりに疑わしげにしていたし、何かあったらすぐ言ってくださいねと念を押したので、押されたレオナルドは素直にはいと答えて頷いた。この純粋に心優しい後輩で友だちである半魚人の彼を心配させるのは、ものすごく嫌だった。それに本当に、ちょっと痛いかな、レベルだったものだから、大して気にかけることではない。
「今回そんなに、使ってないと思ったんすけどね。まだまだよく分かんないな、この目」
 とまぶたを押さえたレオナルドの眼前には、いつもながらの世界の危機、それを紙一重で回避した惨状が広がっている。未だにこれが日常とは思いたくない非日常ぷりだ。今回もレオナルドはたくさん叫んだしたくさん泣いた。幸いなのは、倒壊した建物や瓦礫が多いわりに、血があまり流れていないことだ。あまり流れていないだけであって、死傷者はゼロではないし、駆り出された構成員も怪我をしたりしているだろう、思って眉を下げる。あ、と思った。スティーブンさんにあのわけの分からなそうな顔で見られているかもしれない。更に、あ、と思い直す。今日スティーブンさん休みなんだってば。

「スターフェイズさんがいたら即席で冷やして貰えますけど、今日はお休みですからね。ちょっと痛い程度で、その、良くはないけど良かったかもしれません」

 ツェッドの言葉に、ちょうど氷の上司のことを考えていたのでどきりとする。しかし彼らしい優しく労わる口振りに、すぐにそーですねえ、とのんびり返事ができた。
「スティーブンさんいたら、応急処置カンペキっすからね、火傷は」
「はい。……いつぞやレオくんが火傷をした時、あの人、氷蹴り砕いてましたよね」
「あー、それは初期の頃っすね……火傷を見兼ねたスティーブンさんが、敵を凍らせた氷像どぎゃん! って砕いてくれて。ぼかあ、異界人の欠片が散らばった氷で冷やされたくない~って、阿鼻叫喚でしたよ」
「喚くレオくんを黙らせて氷押しつけてましたね、確か」
「恐ろしい上司っす」
「恐ろしい上司です」
「お、ツェッドさんもやっぱりそう思いますか」
「レオくんも? 一緒ですね」まぶたのない目でレオナルドを見る。「でも、スターフェイズさんは、レオくんのことをよく見ていると思いますよ」
 レオナルドは分かりやすく首を傾げてしまった。
……なんの話っすか?」
 おかしな質問の仕方をしてしまったかもしれない、と思う。後輩を見上げた両眼が、じわりと眼窩に熱を滲ませた心地がして、二度ほど瞬く。
 その薄いまつ毛の揺れを見ていたツェッドは、なんの話といいますか、と思案するように口を開いた。
「スターフェイズさんて、たぶん、誰より……見る側の人だと思うんです」
「見る側」
「そう。組織の副官として、人を。探って、疑い、見極める。……見捨てることも、やってのける人だと、勝手に思ってるんですけど」
 それは。
 レオナルドも思っている。
「ツェッドさんも、そーいう目で見られたんですか、やっぱり。ちょっとだけ、あの人の技の……あぐはでろせろ、」
「アグハデルセロアブソルート。……発音難しいですね。はい。小針みたいな、ちょっとの冷たさと攻撃性を兼ねた目です。でもそれは、必要なことだと思います」と言ったわりには、少々の自問自答じみた仕草で顎に手をやっている。「彼は、組織の副官ですし。そして僕は得体の知れない人造生物だ。当然です」
……はい。僕は得体の知れない義眼を埋め込まれたクソガキですし。見極められたりするのは、当然だ」
「でもレオくんはスターフェイズさんと一緒で、見る側の人です」
 レオナルドは口を開いたが、何も言えなかった。
 それって、義眼のことですか、と。喉仏が上下せず、惑った舌の根を奥歯で軽く噛みさえした。

 義眼のことではない。昔の、思い出すことが、ひとつ、あった。

 その開いた口から言葉は出てこないだろうと察したツェッドが、こちらの様子に不思議そうにしながらも、続ける。
……レオくんの場合は、居心地の良い視線です。認め、受け容れ、見守る。陳腐な言い方になってしまうけれど、僕を僕として見てくれる。そうすると、人間とか異界人とか、半魚人とか人造生物だとかがどうでも良くなって、ツェッド・オブライエンという生き物になる。レオくんの友人の僕になれる。……その目を忌むきみにこんなこと、言うべきでないのかもしれませんが、」
……いや、」
「僕は、きみの目、好きですよ。どうかこれからも僕を、見ていてほしいと思う」
 レオくんは見る側の人です。だから、ツェッドが言う。
「スティーブンさんと視線が合うように思うんですが。……感じませんか?」
 首を傾げたのち、ぽつりとつけ加える。「火傷、彼がいない時に、負わなくて本当に良かったです。……目の調子が悪いんでしたっけ。早く治って、戻って来られるといいんですが」

 義眼の、目の奥が熱を孕んでいる。
 や、レオナルドはひとまず、開いたままの口で取ってつけたように答えた。
「いかんせん身長差がアレなもんで、中々視線とか、合わねーっすね。……はは自虐」
 それはひどすぎる誤魔化しだったのだが、真面目で素直な後輩はそうですかと返した。……フォローが入らないあたりが、らしいっちゃらしい。それはそれでレオナルドはちょっと泣きそうになったが。







 お兄ちゃんは、いつまでも、私のこと、そーやって見ていてね。と言われたことがある。
 ミシェーラ、ミシェーラ。レオナルドのたった一人の妹、足の不自由な、天真爛漫な女の子。まだその瞳が暗闇に閉ざされず、青空を映していた頃のことだ。
 
 お兄ちゃん。私のこと、見ていてね。ミシェーラが車椅子にきっちり揃っている自分の両膝を見ながら言う。……きっと、きっとよ。
 ──私、知ってるわ。
 優しい瞳ばかりじゃないこと。あたたかな眼差しばかりじゃないこと。足の不自由な女の子。車椅子でしか移動できない妹。治療法が見つからないかわいそうな子ども。私、知っているわ。ねえお兄ちゃん。
 動かない膝を撫でながら、車椅子の取っ手を握る後ろの兄を振り向きもせず、眼前を見据える。私のこと、見ていてね。
 お兄ちゃんは、お兄ちゃんだけは。
 私を私にしてくれる。ミシェーラ・ウォッチ。レオナルド・ウォッチの妹。ほかのどんな人に、どんな目を向けられても構わない。でもお兄ちゃんには、ずっと、その目で見ていてほしいの。受け入れてくれる。認めてくれる。このままの私を、見守っていてね。見届けてね。そうしたら。そうしたら、私。
 絶対に幸せになれるわ。
 ミシェーラが振り向いて、兄の顔を見上げてくる。からりと青空の瞳が笑みを乗せた。
 私、お兄ちゃんの目が好きなの。
 だから、きっとよ。
 きっと、私のこと、見ていてね……



 だからといって。
 それは、レオナルドの最大の罪の贖罪には、なりはしない。
 レオナルドはいつもそうだった。いつも……見る側の人間だった。

 ミシェーラ。きみのことは分かってる、レオナルドは思う。でもどうして。

 でもどうして、なぜ、俺がきみの目を、きみが俺を思うように同じくらい好きだって、考えなかったの。
 僕の妹。ミシェーラ。僕がお前をきちんと見れていたんなら、それはお前が僕を見てくれていたからだと、そうは思わなかったのか。僕は確かに、いつも見る側の人間だ、それでどうして見られていないと思えるんだ、僕だって。僕は。
 きみに見ていてほしかった。

 レオナルド・ウォッチ。
 僕を僕にしてくれるのは、きみが見てくれていたからなのに。

 ミシェーラ。
 
 けれどきみには。
 もう車椅子の後ろを押してくれる人が、きみをきみとして見てくれる人がいる。
 そしてきみは、やっぱり、その暗闇の目で彼を見ている。視線の合わないそれで、必死に。
 だから僕は。

 きみの目を必ず取り戻さなければならない。
 見せてあげたい。ミシェーラに彼を、彼にミシェーラの目を。視線を合わせてあげたい。瞳の色を確かめてほしい。瞳孔の収縮を。反射する景色を。感情で描く弧の形を。見せてあげたい。

 レオナルドは強く、本当にそう思っている。同時に、けれど、と両のまぶたを覆い隠してしまいたい時がある。

 けれど一体、そしたら俺のことは、誰が見てくれるんだ?

 レオナルドは見届けなければならない人間に、選ばれたのだ。 







 キャアっと甲高い悲鳴を上げながら後退った拍子に、段差を踏み外して尻もちをついた。

 ここが無法地帯のHLでなければ、そういう罪で訴えたいくらいの視界の暴力、街灯に照らされたほぼ裸体の女性と完全に裸体の先輩(レオナルドに先輩はたくさんいるが、もちろんクズな方の先輩だ)が引っ繰り返ったピザ配達員に向けてからから笑う。先輩の愛人である女性の方は、大丈夫~? なんて陽気に訊いてきたが、全然大丈夫ではない。健全な青少年の前でそんな際どいカッコで玄関から出てくるのは、ほんと、自分のためにもやめた方がいいと思う。思ったものの、打ちつけた腰を擦っていた手はすぐさま両目に当てて受け取ったなら代金くださいとどもりながら喚いていた。

「なンだよレオ、おめーまだ慣れないんか」

 下品な先輩がによによ笑いながら真っ裸で葉巻を喫っている。その後ろから出てこようとした愛人に、ごめんなシャーリィ、これ持って中で待っててくれよ、流れるように剥き出しの肩を引き寄せピザの箱を渡し、目尻にキスをした。くすぐったそうにウィンクをした彼女は、早く来ないと食べちゃうわよと笑って部屋の中に引き返す。ザップ、ちゃんとお金払ってあげなさいよ、間延びした声もして、それには答えずザップは引っ繰り返ったままのレオナルドに向き直った。女性の前では闊達そうに上がっていた白銀の眉尻が、至極怠そうに駄々下がる。
「払わなきゃ駄目か?」
「ったりめーでしょ!!」レオナルドは叫んだ。褐色の裸は既に見慣れていたので拳を地面に叩きつけて身を起こす。「こちとら商売なんすよ! それがどーして毎回毎回俺が行くとこにアンタがいるんですか! あとちゃんと愛人さんに言っといてくださいよ裸同然のカッコで外出るなって!」
「ばかおめー、ンなの言ってあるに決まってんだろ。俺がいる時だけだわ」煙をぶわりと吐き出す。「俺がいねえ時に死なれちゃ堪んねーべ」レオナルドはむぐりと口を噤んだ。そーいうところなんだよな、と思った。確かに、ザップの愛人の家に何度か宅配をしたことがあるが、彼女らは一人で出てくる時は決して下着姿だけで出てこない。ちゃんと自衛している。「ま、陰毛頭の童貞くせえ反応が面白くて、つい呼んじまうんだよ。わりいなー」なぜいいところもあるのに基本クズなんだろう、この人は。
「なんなんすか、僕のこと好きすぎじゃないすか」
「そーなんだよくびり殺したいなレオくん」
「ぎゃあっやめてフルチンで首絞めに来ないで! っつかアンタも最低限服着て出てこいよぉ! うぐっ」容赦なく首にかけられた腕をタップする。ギブギブギブ。あとあんたの皮膚熱いんだってあとあと汗とかなんかいかがわしいにおいすんのほんと勘弁してっセクハラ! 言語にならない声で叫ぶ。おうおうよう囀りよるわこのもさもさ鳥ちゃん、言ったザップは藻掻くレオナルドの顔を見て不意に腕を放した。と思ったらがしりと硬い手のひらが顔を掴んでくる。
 痛むあちこちに顔をしかめ、指が食い込む頬で、突然の行動に、ざっぷさん? と不明瞭な呼びかけをした。
 小麦もゆる瞳が訝しげに眇められる。
「なんか焦げ臭くねーか」
「え」
 どきりと心臓が変な跳ね方をした。
「あー、昼間のあれか? 俺別場所から直帰したから知らんかったけど。そんなお目々使ったんかよ」
「いや、」
 一度唾を飲みこんでから返す。
「そんな、全然」ツェッドとの会話が蘇り、あの時は確かにさかさまつ毛レベルの痛みだったと思い返す。ライブラを退社し夜バイトにそのまま出勤しても、痛みは、引くばかりか目の奥で皮膚を押し上げていた。でも、まだ、「……我慢できないほどじゃないんで」全くもってうまくいかない。ほかにもっといい言葉の選択ができたはずだった。
 ザップはまた方眉をひょいと上げ、ま、おめーがいいならいいけどよ、と言ってレオナルドのまぶたを指で押す。「熱くねえか、やっぱ」「……やっぱそうですかね」見過ごそうとしていたわけではない。この目の異常は妹の目にも繋がるかもしれない。レオナルドは常々そう思って義眼に気を遣って生きているけれど、しかしなぜか、今回はそんな気が起きていなかった。おかしなほど、楽観的だった。まるで目が熱い理由を、意識の外で知っているように。
 眼球の裏側、まぶたの表面が、熱を持っている。
 ザップはすんとまぶたの上を嗅いで、その動物的接触に面食らって離れたレオナルドをそのままに、立ち上がって見下ろした。
「肉の焼けるにおいがする。早めに病院行くか、番頭にでも冷やして貰えや」
……今日、スティーブンさん、休みですよ」
「そーだったな。あの人も目の調子が悪いんだっけか。ちょうどいいじゃねえか、一緒に診て貰ってこい」
「いや……いや、おかしーでしょ、色々。それだと僕がスティーブンさん探して病院行かにゃならんでしょう。おかしーです」
「そーか? お前人探しすんの得意だろ。それに、番頭もめたくそに人を見てる。すぐ見つかってすぐ診て貰えるぜ、たぶん」
 それはザップらしい適当な言い分だったが、レオナルドはまともに受け取ってしまった。きっと、今日一日の、いや、昨夜からのおかしな感覚のせいだ。眼球からこびりついて離れない泣き出しそうなスティーブンの顔。それを見た自分の胸の軋み。痛みを発している義眼……
「でも、……でも僕を見つけてくれるのは、ザップさんでしょう」
 だからそんなことを言ってしまったのだと思う。
 言われたザップはきょとんとしてから、盛大に顔をしかめてレオナルドの頭を蹴った。照れ隠しだ。何を照れさせたのかはいまいち察せなかったが、なんとなく自分も今恥ずかしいことを言ったような気分だったので、暴力反対と喚く力は弱かった。ピザの代金は踏み倒された。損しかない。レオナルドはやっぱりちょっと泣いた。



 バイトが終わる頃になると、益々目の痛みを無視できなくなっていった。
 細かな硝子の破片でも転がっているような疼痛が、眼窩で手足を広げている。
 糸目の間に寄った皺に、同僚たちからどーしたと不思議がられながらもなんとか一日の勤労を終え、帰路に着く。生還率が半分以下の表通りを、街に薄くシーツをかけている霧に注意しながらとぼとぼ歩いて行く。カブは修理中だった。パトリックに頼んだから、明日には戻ってくるだろうと踏んでいる。明日。
 明日にはスティーブンも出社してくるだろうか。
 ずきり、目が痛んだ。
 立ち止まり、下まぶたを押さえる。夜霧に冷やされた指先は、すぐに熱に侵された。義眼が熱を持っている。まるで処理中の演算機みたいに。
「なんで……
 なんで、なんて。
 本当はたぶん、知っている。

 何かを、見ないふりしている。
 この目はなんでも見てしまう。なんでも見て、勝手に記憶に残していくから、レオナルドは感情と意思によって仕分けて見ないふりをする。
 そうすると本当に見えないふうになる。
 なんでも。

 今回は?

 閉じたまぶた、視神経から脳に繋がる回路が著しく働き、ある映像を巻き起こす。
 昨夜の風景。ちょうど、今と同じくらいの時間帯。
 雨降り街の深夜の暗がりのような姿をした男が、光の届かない裏路地から分離して溶け込むように出てくる。頬に傷のある男。右側と左側では印象が違う、ルピンの壺のような男。見えすぎるレオナルドの目には、その暗がりの瞳が、ひょっとすると泣いてしまうんじゃないかと思うくらい、頼りなく映っている。
 レオナルドは、スティーブンに気がついていたし、見ていた。
 けれど、スティーブンはレオナルドを見ず、気づいてもいなかった。
 胸がつきりつきり、おかしくなった。
 まぶたの裏側が、痙攣した。

 それで。

 それで?

……っ」
 途端に火花が散ってよろける。火花だと思ったのは数キロ先で事故ったらしい生体車の爆発によって生まれた炎だった。停滞していた霧が爆風で掻き混ぜられ、こちらまで熱気を運んでくる。目も、空気も、どこもかしこも熱い。しかも、見えすぎている。数キロ先なのに砕け散る装甲の歪んだ断面までくっきりと見えた。
 つまり、義眼の制御が効いていない。
 レオナルドはひとまず、一刻も早く自分のアパートに帰ろうと踵を返し、それから、視界で捉えたものの反応しきれなかった横の路地から伸びる腕によって、暗がりに引きずり込まれた。
 
 なんてことはない。薬か酒に溺れている多腕の異界人だ。
 ここHLにとってはなんてことはないし、レオナルドにとっても最早珍しくないことだったが、叫んだり喚いたりするのはやめる気はなかった。抵抗というものは形だけでもしておくべきであると学んでいるのだ。こういう、頭が馬鹿になって理性が飛んでいる相手の場合は。
 だって抵抗しないといちころでやられてしまうのである。

「痛たたたただだ痛い痛い痛い放せよこのタコスケェッ!!!」

 胴を吸盤のついた腕で締めつけられ地面に転がされる。理解不能の言語を喚き散らしている異界人のその軟体動物じみた皮膚に埋もれる濁った眼は完全に正気を失くしていて、ドラッグを使うならせめて自分でコントロールできてから使えよと悲鳴を上げたくなってくる。──余談。褐色白銀のクズな先輩はコントロールできるくせにしないから余計にたちが悪い──硬い地面に頬を擦りつけ、身をよじって拘束から逃れようとするも、背骨が軋みを上げて目の裏側まで痛みが突き抜けた。ぐうと呻いて歯を食い縛る。異界人は触腕を蠢かせてやはり何事かをぶつぶつ漏らしていた。
 地面に擦りつけられていた体が宙を浮き、ああこれは不味いと直感してまぶたを押し開いた。ゴーグルをつけられなかったが、かなり路地の入口から奥まったところに引きずり込まれている、誰の目も向いていないと思っての開眼だった。暗闇に青い眼光が鋭く瞬き、そしてレオナルドの両目の隙間から白煙が噴き出た。
「ッ!?」 
 上げ損なった悲鳴が壁に叩きつけられたことによってか細い息に変わる。理不尽で突発的な暴力。よくあることだ。よくあることだが、だからといって痛みに慣れるわけではない。一度叩きつけたことで満足したのか、それともレオナルドのことなど自分が見る幻覚の一部として頓着がないのか、おそらく後者だろうが、異界人は咳き込むレオナルドの体を億劫そうにずるずると地面に引きずる。耳が地に擦れて削られる感覚より、煙を噴き上げる両目の感覚の方が大事だった。
 オーバーヒートだ。
 なぜ?
 眦が切れて血を流している。レオナルドの鼻にも、はっきりと肉の焦げる嫌なにおいがする。目が熱い。熱い。痛い。早く閉じなければ。まぶたではなく、義眼の力を。どうやって? そもそも。

 自分は何に義眼の力を使っているんだ? 
 
 熱を孕み膨れている義眼が脳に記憶を再生させる。今と似たような路地の暗がり。そこから出てきたスティーブン。決して涙を零していないはずなのに、頬の傷が涙の跡のようにさえ見えるほど、今まで見たことがなかった弱々しい濃紺の瞳──。

 隠さなきゃ、と、思った。
 
 自分だけが見てしまったものを、見えなくしなければ、と。

「あ……ッ!」 
 義眼に光が弾けた。それは今まで、昨夜からずっと、知らず酷使していたものが収束する前触れだった。光が弾け、踊り、点と線となってばらばらになる。陣が崩れた。
 
 途端に見る世界が変わった。暗がりのわだかまる路地に冷気が吹き抜け、地面に這いつくばる自分の手足が引きつって火傷する。それは熱で、ではなく、一帯を覆う堅牢のような氷でだった。氷?
 義眼を閉じた糸目で世界を必死に視認していく。自分を囲う異界人の腕は凍りつき、本体の方も、まるで後から追いつくように凍っていく。既に起こっていたことを自分が後から気がつく、そんな奇妙な時間が流れている錯覚に陥り、しきりに瞬きをする。
 路地裏は氷に閉ざされていた。
 開いた口から白息が漏れ出て、がちりと歯の音が音を鳴らす。目だけが熱く、氷に直接触れている肌は痺れて痛い。

 路地の入口、光を背にしたスティーブンが立っている。
 逆光のせいで背格好しか分からないが、それでも、レオナルドはその影がライブラの副官であると分かっていた。

「ご、」
 ごめんなさい、言おうとした喉は思った以上に混乱しているらしい、震えてまともな言葉を出せなかった。混乱。している。
 だってレオナルドはしようと思ってしていたわけじゃなかった。
 スティーブンが今日、珍しくライブラを休んだ原因は、自分にあるなんて、本当に意識の外だったのだ。
 けれどとんでもないことを仕出かしていたのは紛れもなく事実だった。
 
 影が動く。表の光から離れ、この奥まった暗闇にその硬質な靴音が響くのは、夜中の王が自分を気楽に蹴飛ばそうとしているかのように聞こえた。レオナルドは氷の腕の中、できる限り身を竦めて目だけで見上げる。 

目の調子はどうだ ・・・・・・・・? レオナルド」
 影が言った。
「丸一日その目を使ってもまあ平気ってことが実証されたわけだ。まさか痛いなんてことはないんだろう」 

 言い方は鷹揚だった。陽気でさえもいる。だがレオナルドはきちんと、正しく察している。初対面の病院の時みたいだ。──彼は自分を疑っている。
「す、……スティーブン、さん」
 暗闇に慣れた目はもうその姿をちゃんと捉えていた。暗色の姿のくせに、闇の中でも堂々と存在感を放つスカーフェイスの男。口端だけが笑みの形になっているスティーブンが、うつ伏せているレオナルドの前にしゃがみ込んだ。
「で、どうなんだと訊いている。痛みはあるのか?」
 レオナルドにはいつだって素直に答えるほかなかった。「い、痛いです」
「なぜ?」スティーブンがつまらなそうに折った膝に肘を置き、頬杖ついて見降ろしてくる。冷たく、分厚く、その存在を時たまにしか感知させない見えない透明な氷の壁が、二人の間を隔てている。
「なぜ、って」
 レオナルドは泣きたくなって、顔を歪めた。目の前の男が得体が知れなくて、恐ろしかった。
「答えられないのか? 素直に言えばいい。義眼の使い過ぎで熱を持って痛いと。報告は大事だとよく言い聞かせているつもりだったんだが」
「スティーブンさん、あの、ご、ごめんなさい」
 彼は首を振った──“その答えは求めていない”──聞き分けのない子どもをみるような目を向けてくる。
「少年、僕はよく現場できみの目を冷やしてやるが、それはきみがこちらの要望を叶えてくれるからだよ。僕だって、きみみたいな若い子が目から血を流しているのを見て、ゾッとしないわけじゃない。分かるだろう」あんまり優しく、この凍える空間に似合わない声音だった。「しかし一体、今回はどういうつもりだ? まさか存在をこれほど認知させなくなるとは驚いたよ。身を以て! きみは優しいからなあ。誰かの要望を聞いてあげたのかい? そうだとするならば、僕はきみの目を正しく冷やしてあげられない」
 レオナルドの目にじんわりと、熱い涙の膜が張る。
 恐ろしいのもあったし、尋問されているという意識もあったし、全て自分が悪いという情けなさもあった。けれども、レオナルドは、スティーブンにこんなことを言わせている現実が一番つらかった。 
 昨夜の記憶の中の瞳と、今レオナルドを見ている瞳が重なる。
 
 だって。
 だってあなたが、泣きそうにしていたから。
 きっとあれは、自分が見ていいものじゃなかった。自分以外の誰かが見るべき姿だった。
 決して、自分のことを面倒な弱い子ども、ともすれば宇宙人のように見てくる彼を、そしてこちらも彼を宇宙人のように見ている自分が、見ていいものではなかった。

 レオナルドは宇宙人ではないスティーブンを見たのに、スティーブンはレオナルドを見てはくれなかった。
 自分はいつだって、見る側の人間だ。

「スティーブンさん……

 ザップは、レオナルドを偶然にも見つけてくれる。
 クラウスは、レオナルドの見方を教え正してくれる。
 ツェッドは、レオナルドが見た素晴らしいものを共有してくれる。

 スティーブンは、たとえ宇宙人を見る目でも、レオナルドのことを一番見てくれている人のはずだった。
 勝手に、そう、思っていただけだ。勝手に。なのに。
 どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。
「スティーブンさん。スティーブンさん……
 レオナルドは冷たい胸を喘がせて上司を見上げた。
「あなたを今日一日、見えなくさせていたのは、意図的じゃないんです。本当です。迷惑をかけたことは、謝ります。ごめんなさい。でも、理由が、あるんです。僕だってさっき知りました、でもちゃんと理由があるんです」
「それは僕を納得させてくれる?」
「いいえ」
 雨降り街の、深夜の暗がりのような瞳を見つめる。
「きっと、あんたには、理解できない。いつものように俺を宇宙人みたいに見て、それで終わりでしょう。その氷の、鋭い壁が、なくなることは、ない」
……ああ、レオナルド」スティーブンは億劫そうに髪を掻き回した。「既に意味が分からない。俺はお前を脅せばいいのか?」
「脅したくないなら、脅さないでください。スティーブンさん、俺を見て」
「見ているさ」
 胡乱で怠惰、胡散臭く、苛立ちさえ混じっている。らしくない。
 スティーブンはきっと、いつでも、一般人のレオナルドを傷つけることを良く思っていない。思っていないけれど、目的のためならこうして一般人の子どもですら傷つけることができる自分を、もっと良く思っていないんだろう。ほら。やはり。レオナルドばかり、スティーブンを見ているではないか。
「あなたは……俺を、見てくれていると、思ってた。そうだ、あなたは俺と一緒で、見る側の人だ。ツェッドさんの言う通りだ。ザップさんは俺を見つけてくれるけれど、でもそれじゃ駄目なんだ。疑ってくれないと。不審がってくれないと。俺のこと、切り捨てられる存在として、見ていてくれないと」
「レオナルド」
 スティーブンが眉をひそめ、苛立ちをあらわに呼んでくる。なんの話か分かっていない。それでいい。レオナルドは応じずに続けた。
「僕はそれに不快になると同時に、心のどこかで安心してたんです。宇宙人みたいに見られていて構わない。だって僕は、やっぱりこんな特別な目を押しつけられても、足の不自由な妹がいても、普通の、なんの変哲もないクソガキだったんです。こんな街に生きていても、僕はやっぱり普通で、だから、その普通をおかしく見てくれるあなたに安心してた。あなたの僕を見る目は、僕にとって分相応な目だった。僕にとっても、あなたは、宇宙人だった」
 なのに。
 レオナルドの目から水滴が零れ、血と混じって地に伝い落ちた。
「なのに、昨日、夜、スティーブンさんは泣いてたんだ」
 嗚咽が漏れる。涙が引っ切りなしに溢れ、見上げているのもつらくなって顎を地に擦りつけた。
「僕は、それを、見てた。見ていました。偶然だった。見たかったわけじゃない。あなたが出てきた路地裏は暗くて、血のにおいがして、音がうるさくて、でもそんなことはどうでも良かったんです。あなたは泣きそうな顔をしてて、それを僕が見た。でも、あなたは僕を見なかった。僕だけが、あなたが宇宙人じゃないって気づいたんだ」
 
 見られたかった。
 きっと。
 レオナルドは、いつだって、ほんとは誰かに見ていてほしかった。
 ミシェーラが見るべき人は、その瞳に映すべき人はもう自分じゃない。
 だからきっと、この副官を代わりにしていた。
 
 これはなんて身勝手な涙なのだろう! レオナルドは思ったが、未だ凍える腕の中では熱い涙を拭うことすらできず、地面に這いつくばって泣き声を落とすしかない。

「隠さなきゃって……思ったんです。視界から。僕が勝手に、あなたがあんな顔をする人だってことと、また僕ばかり見てしまったことに、ショックを受けて。ごめんなさい。誰かを、何かを貶めようとしたわけじゃありません。本当です。ごめんなさい。スティーブンさん……

 ごめんなさい、最後にひとつ落として、レオナルドは口を閉ざした。
 地面や壁から立ちのぼる冷気に耳が痛み、義眼の熱が緩やかに引いていく。切れた眦から滲む血は冷たくなり、ぬるい涙の筋を緩慢に追いかけていった。呼吸を、二度ほど。白い靄が吐き出されては消える。

 ようやく、スティーブンが口を開いた。
「俺は、できれば、きみみたいなやつを、守りたいんだよ」
 ほんとはね。と言う彼を、頬を傾けて見上げる。
「少し、気が立っているんだ。怖がらせただろう」
 涙でぼやける視界では濃紺の瞳がどの感情を宿しているのか分からず、瞬きついでにこくりと頷いて答える。
 するとスティーブンは疲れたように溜め息を吐き、立ち上がった。
 特殊なギミックの覗く靴裏を上げ、そしてレオナルドに踏み下ろした。
 
 異界人の凍った腕、レオナルドの体を拘束していた氷が砕け散って解かれる。

「立てるか」
 またしゃがみ込んでレオナルドの腕を取る。「ああ、冷たいな。痛みは?」レオナルドは目を白黒させながら、首を縦に振った。実際、自力で起き上がろうとすると体のあちこちに痛みが走ってまた地に蹲りかけた。「体を起こせ」けれどスティーブンが強引にレオナルドの腕を引き、上体を起こさせ、「義眼は。熱いのか」と訊いてくるので、レオナルドは今度も首を縦にした。散らばっている氷の塊、ちょうど異界人の吸盤が結晶となっているそれを目に押しつけてくる。レオナルドはぎょっとして体をばたつかせようとしたが、動くんじゃないと言われて、肩を抱き込まれた。また悲鳴を上げ損なった。空気だけを大量に吐き出し、さっきまで嗚咽していたのも相俟って、酸素が足りていない心地にくらくらと眩暈を覚える。
 夜中の王に抱き竦められているようだ。
 押しつけられた氷だけが冷たいと気づいたのは、スティーブンの吐く息が温かく自分のこめかみを掠ったからだった。痺れるほどの凍傷じみた寒さが、薄れていく。スティーブンの体が温かい。
「悪かった」
 宥めるように背中を、不器用ななリズムで叩いてくる。
「泣かせるつもりじゃなかったんだ。お前を疑いはしたが──あらゆる可能性を考えるのが僕の仕事だ、それは分かってくれるね?」
 腕の中で、またこくりと首肯する。いい子だ、と背中を叩いてくれる。
「色々なことを考えたよ。誰の指図か、また面倒事に巻き込まれたか、それともただの義眼の暴走か。タイミングが良くなかったんだ。お前が僕の存在を消した時、僕はちょうど自分の存在を疑いたくなるくらい……そう、情緒が不安定だった。見たかい、昨夜、あの路地の奥を」
 囁きに、レオナルドは首を横に振った。スティーブンが出てきた路地裏は、闇が蠢いていた。いつもなら、その不自然な兆候に義眼を向けていただろうが、それよりもスティーブンの姿に釘付けだったのだ。闇の中がどうなっていたかは見ていない。
「いい子だ」
 背中を叩いていた手が、ぐっとレオナルドを引き寄せ支える。
「見ないで正解だった。見ていたら、きっと俺はお前を守れなくなる。今よりもっとひどいことになっていた」
……こわいっす」ひどい掠れ声で言った。
「はは、すまん。今も怖いか?」
「怖くない時なんか、ありません」
「そうか? そうか。少年は俺をよく見ている」
……見たくて、見ているわけじゃ、ないです」
「そうだろう。でもそれがきみの役目だ。俺にも俺の役目がある。そしてたまに、昨夜みたいな、情けない面になることもあるんだよ。どう思ったって?」
「隠さなきゃ、って……
「そうか。俺もだよ」
 スティーブンはレオナルドを抱きしめた。ぼとり、凍った吸盤が地に落ちる。
 氷の堅牢の中、温かい夜闇のスティーブンが言った。

「なあ、レオ。どうしてお互いさまだと思わないんだ? きみは宇宙人で、よく人を見ていて、そして思ったより宇宙人じゃなかった。きみは俺を見た。俺もお前を見ている。今日一日だけじゃない。でも、俺の前で、そんなふうに泣くやつだとは思わなかった。少年。レオナルド。レオ。俺はきみを見ている」

 抱き寄せる体の間に隙間をつくり、彼はレオナルドの顔を上げさせ見下ろす。
 濃く短いまつ毛は下を向き、暗がりの瞳は溶け出す氷のように揺らめいている。
 濃紺の中、レオナルドはその色を見ている。
 視線が合っている。更に言えば、スティーブンに見合う路地裏の暗がりもレオナルドを見ていたし、きっとレオナルドの方も彼を覆う暗がりを視認していた。
 
 スティーブンは、氷の副官で、怖い上司で、宇宙人で、見ていてほしい人だった。
 その人が、今、レオナルドをしかと見下ろしている。

 氷の隔たりは、別に溶けてなくなったわけではない。
 今この時だけ、お互いの目に姿が映っている時だけ、見えなくなるだけだ。
 それも、明日になればどうなるか分からない。何せこの街は異常が日常の境界都市。外の世界より未来が不確かだ。
 だからせめて、今だけだ。
 今だけ、どうか。

「スティーブンさん、俺を、見ていてください。きっと見ていてください。そうしたら、俺……

 レオナルドは言い、そうして自分を見てくれるスティーブンを同じように見つめ上げた。

 薄汚い路地裏。二十三時、ほぼ。
 不格好な視線がかち合い、そこから離れた表通りは、いつもの如く喧騒が轟いていた。