潮の匂いに混じってふわりと雨の匂いが鼻先を撫でる。殆ど目を覚ましかけている意識は、その匂いに背中を押されてまだ日が昇りかけの淡い光の差す部屋に浮上した。半分眠ったままのまなこをゆっくりと一度瞬かせて、それからもそもそとうつ伏せになる。枕に頬を押しつぶしながらぱたぱたと手を動かして昨晩共に眠りについたはずの体温をさがしていたグ・ラハだったが、隣がもぬけの空であるのに加えて、体温が残っているどころか雨の気配に撫でられてシーツがどこか冷えていることに気がついて勢いよく上体を起こした。覚醒したての視界で辺りを見渡せば客室内に人の気配はない。ただ潮騒に混じってくぐもった水の音が聞こえてきたので、グ・ラハはほっと胸を撫で下ろした。どうやら置いていかれたわけではないようだ。
それにしても、何故シャワー?グ・ラハは内心でそっと首を捻った。昨晩は早い時間に二人して酒を飲むのを切り上げて、最近バックルームに入り浸るようになった冒険者と久しぶりにああでもないこうでもないと談義をして、日付が変わる前に交代で風呂に入り共に眠りについたはずだ。元々体臭が薄い冒険者には深酒をして寝落ちした時以外に起き抜けにシャワーを浴びる習慣はない。
まだまだ意識がはっきりしているとは言い難いやけに重い頭でのんびり考えていたグ・ラハだったが、不意に深く鼻で息を吸った瞬間に、昨日の夜部屋にはなかったはずの物の匂いがあることに気がついて目を見開いた。
「あれ、起きてる」
そうこうしている内にいつの間にかシャワーの音は止んでいたらしく、グ・ラハのつむじに不思議そうな声が落ちてきた。上目に見上げれば髪の水気を雑に拭いながら、まだ僅かに湯気をまとった冒険者がそこに立っている。
「……あんた、出かけたのか?」
「ん?そういや朝飯なかったなぁ〜って。早くにやってる店で買ってきた」
「オレも起こしてくれたらよかったのに……」
「いやお前連れて行かなくてよかったよ。帰り土砂降りだったし」
なるほど、だからシャワーを浴びていたわけか。それでも少し。いや多分に。抑えて二、三程度。言いたいことがある。
冒険者の行動に納得はいったものの目を据わらせたグ・ラハは、唇を尖らせながらちょいちょいと手招きをして見せる。僅かに首を傾げた後に冒険者が上体を屈めた瞬間、すかさず抱きついてベッドへと引き倒せば、小さな悲鳴があがって、グ・ラハよりも一回りほど大きな体がシーツに勢いよく沈んだ。
「こらラハ、オレまだ髪濡れてる」
「そんなことは後でいい」
「置いて行ったこと怒ってんの?」
「怒ってるし、二、三言わせてくれ」
「えー……オレ、それよりお前と二度寝したいなぁ」
一度ベッドから体を起こして、うつ伏せに寝転がった冒険者は、枕に片頬を預けながらグ・ラハの方を向いた。どこか甘えるような声音に、耳と尻尾へ電流が駆けるような刺激が走る。
「ね、ラハ。今日一日雨だってさ」
「あ……出かける予定……」
「もう出かけなくてもいいんじゃない?」
冒険者の指先がグ・ラハの寝間着の袖を控えめに引いた。はっとして下を向けば少し眠たげな碧と視線がかち合う。しまったと気づいた時には冒険者の手が伸びてきていて、構える前に後頭部に回り込んだかと思えばグ・ラハの頭を強か引いた。力に負けて枕に顔を埋めれば、冒険者の素肌の腕ににしっかりと抱き込まれる。
「たまにはこういうのだっていいじゃん」
「あんた、雨なんか気にせずに出て行くと思ったけど」
「お前と出かける約束してたのに雨降ったからって一人で飛び出すわけないし」
「……そうか?」
「何、オレどんだけ薄情だと思われてんの」
冒険者の笑い声が低く頭に響く。それは体温と遠くから聞こえる潮騒も相まって、起きたばかりのグ・ラハの意識を再び眠りの底へ強く引いた。
然程時間もかからずに寝息を立て始めたグ・ラハを抱き込んで、冒険者はひとつくしゃみをすると、顎下に潜り込んだ赤毛に口付け、ひとつ深く息を吸って、自身ももうひと眠りするためにゆっくりと目を閉じた。
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