史加
2024-11-17 21:44:00
8272文字
Public 原神(鍾タル)
 

破れ鍋の中にありふれた愛ひとつ

鍾タル/失う前に気付けたひとたちの話 眷属化注意





「もしもお前が望むのなら、契約を結ばないか。俺と魂をひとつに結び合う契約を」
 
 魂をひとつに結び合う契約、だなんて言葉はなんだか仰々しいし、重苦しい。
 だから「契約」という言葉をこの世の誰よりも言い慣れておきながら重んじ続けている男が、タルタリヤを前にごく真剣な表情でそれを声にしたとき、他人事のように思ってしまったのは本当のことだ。だけどタルタリヤは馬鹿ではないので、さらりと流していい話ではないということも理解していた。理解した上で、今まで見てきた中で一番表情を硬くして、らしくもない緊張を滲ませている男を見つめた。
 さて、かつてその整った凛々しい眉がぴくりとも動かず、ただただ真摯に、タルタリヤからどのような返答が来てもいいようにと身構えていたことはあっただろうか。さして暑くもない場所だというのに、タルタリヤよりも色の濃い肌の上に玉のような汗が浮かび、伝っていく様を見たことは? 長き時を生きる魔神の傲慢さを孕む目が、この先に待ち受けるものに怯えるように揺れていたことなんて、思い返すまでもなく今までには一度もなかったと断言出来る。
 断言出来るのが答えだと、そのときタルタリヤは確信した。
……鍾離先生でも、そんなに緊張すること……あるんだね」
 相手の緊張をものともせずに口を開くと、ぴくりと磐石の肩がかすかに跳ねる。それはどことなく、悪いことをしたのが親に見つかって叱られるときの子どもの反応に似ていて面白かった。
 まあ、当たり前といえば当たり前だろう。途方もなく長い間、公平公正を重んじる秩序の下、民を守るために数々の契約を結んできた男が今、私利私欲のために契約を提示したのだ。もしかするとそれは彼にとっても生まれて初めての経験なのかもしれない。そうだとしたらタルタリヤは気分がいい。この堅物の心を俗欲に沈めるのに成功したと言えるのだから。
……公子殿」
 震えを帯びる声と揺れるひとみが、選んでほしいと雄弁に訴えている。
 それが罪となり得ることを容認した上で、それでももうこれしかないのだと。断られたのなら仕方のないことだと。応じてもらえたのなら責任を取ろうと。数多の覚悟がひしめき合うがゆえに揺らいでいた。
 タルタリヤは己の手を持ち上げようとする。こんな大事なときに限って鉛のように重たくて、普段通りには動いてくれないがらくただ。それでもゆっくり、なんとか鍾離の顔の高さまで持ち上げて、強張った頬にそっと触れる。
「堅苦しい言い方をしてくれたけど……要するに、先生はまだ、俺と一緒にいたいってことだろ?」
 はっと目を見開いた鍾離は、ややあって無言で頷いた。タルタリヤの黒く染まった、冷たい手をしかと握り締めて。
 男の動揺も、懇願も、ありふれたものであるくせに一世一代の告白じみていて、やっぱり面白いと思った。面白かったし、それがどうしようもなくタルタリヤの心臓を震わせた。単刀直入に言うと、こんな極限の状況下で甘酸っぱいときめきというものを覚えてしまったのだ。
 刃はぬるま湯の中では研ぎ澄まされない。瀬戸際でしか得られないものはたくさんある。タルタリヤは常に自らを磨くことの出来る戦場を求めて生きてきた男だから、心の奥深くにいつの間にやら生まれていた新たな野望の存在にもここへきて初めて気付いた。
 幸いなことに、まだ手遅れではない。ならばタルタリヤは手段を選ばない。
「覚悟しておいてくれ、先生。俺はきっと生涯先生の心臓を揺らし続けて、振り回すからさ」
「!」
 力の限りに手を握り返して強気に笑うと、黄金に歓喜が滲む。
「ああ、どうか存分に振り回してくれ。俺もお前を退屈させないと誓おう」
 そう言って心の底から安心したように、嬉しそうに笑った鍾離の顔を、タルタリヤはずっと忘れられないでいる。



「まさか君が生きていたとは」
 優雅に足を組んで椅子に腰掛け、白いティーカップに注がれた紅茶を一口啜った同僚がたいして感情の乗っていない声で言うのに、タルタリヤは肩をすくめてみせた。
「そうかい? 全然驚いているようには見えないけど」
 茶請けとして出されたクッキーをひとつ摘み上げ、口へと放り込む。さくさくとした軽やかな食感と濃厚なバターの風味を舌の上で楽しんでいると、ぺらりと一枚の紙を差し出された。上質な羊皮紙の上には執行官第十一位の捜索打ち切りと、その男を殉職したものと見なす旨が簡潔に記されている。
「丁度今朝女皇陛下から届いたものだ。リネたちの報告でもあの戦場で「公子」は消息不明となり、その後も情報収集を続けたが手がかりは何一つ見つからなかったと聞いている」
「そいつは悪いことをしたね。たかが執行官の末席ひとりを探すのに随分と手間をかけさせたみたいだ」
「全くだ」
 羊皮紙を摘み上げ、紙飛行機にでもしてやったら目の前の同僚はどんな反応をするだろうかと思いながら眺めていると、黒い指先がさっと奪い去っていく。わずかに目元を緩めた彼女はそのまま一枚の紙切れを容易く引き裂いてみせると、タルタリヤを見つめた。
「だが、私個人としては君の生還を喜ばしく思うよ。子供たちは君のことを気に入っているからね」
「はは……リネたちによろしく伝えておいてくれ。もう「公子」じゃなくなるかもしれないけど、今度はお土産を持って会いに来るよ」
 ふ、とほころばせた口元を上品にティーカップで隠して紅茶を飲む同僚は、それ以上の追求をしない。だからこそいの一番に、匿われていた国から一番近いというのもあって現状を知るため会いに来たのだが、人選に間違いはなかったようだ。
 彼女に倣って紅茶を啜りながら、タルタリヤは時機を見てスネージナヤへ行かなければと思う。追っ手はすべて振り払ったし、こうして多少遠出をしても特段大きな問題が起こることなく目的地まで行けるようになった。既に氷神自ら殉職を公表した以上、大手を振ってスネージナヤを歩くことは出来なくなるだろうが、「公子」として返すべきものを返さなければならない。
 カップの中身を空にしたタルタリヤは席を立ち、脱いでいた外套を纏った。フードを目深に被って踵を返すと、公子、と呼び止められる。
「これと同じクッキーを一箱と、フォンテーヌ産の最高品質の紅茶葉を用意してあるから持って帰るといい。私から君の恩人へのささやかな礼だ」
……どこまで見透かしてるんだか。まあいいや、有難く受け取っておくよ」
 他の面倒な同僚たちと比べてこの女性は話しやすい一方で、どうにも抗えないものを感じる。それは彼女が「父」として家長を務め、「家族」を大切にしているからだろうか。
 ともあれ次に会う時は相応に価値のある土産を用意しなければ。律儀にそう思いながらタルタリヤは部屋を出る。
……というわけで、くれぐれも内密に頼むよ」
 扉を開けてすぐの物陰に潜む影にささやくと、かすかに覗く三角の耳がぴくりと震えた。
 


 大戦を経た世界には、大小様々な傷痕が残っている。
 今日タルタリヤが訪れたフォンテーヌは、かの最高審判官とファデュイ執行官のひとりが手を組み共同戦線を築いていたからか被害の少ないほうだ。被害の甚大な国へ援助をおこなう余裕もあるようで、食糧やクロックワーク・マシナリーを積み込んだ荷車や船がフォンテーヌ廷を出発して他国へ向かう光景が見られる。道ゆく人々は皆穏やかな顔をしていて、各々の生活を維持出来ているようだった。
 この平穏さを脅かすことなく出歩けるようになってよかったと、改めてタルタリヤは思う。代わりに失うことになったものもあるが、それはタルタリヤが闘争を求めて生きる戦士である以上避けられなかったものだ。失い方や時期が想定と変わっただけで、喪失の運命そのものが変わったわけではない。
 フォンテーヌ廷からエピクレシス歌劇場へ向かう巡水船に乗り、ルミドゥースハーバーを目指しながらタルタリヤは振り返る。
 
 ――テイワット各地にアビスの使徒どもが魔物の大軍を引き連れて現れたのは、もう半年も前のことだ。
 予兆はあった。どの国も来るべき時に備え、戦いの準備をしていた。けれど万事が人間の想定通りに進むことは有り得ない。不意を突かれて多大な被害が出た地域の情報や、一般人の避難状況、戦線の変化など様々な情報が飛び交う中、スネージナヤで防衛戦を任されていたタルタリヤが部下を率いて最前線に立っていた時にひとりだけ深淵に落ちたのも、「想定外」のひとつだった。
 彼らは幼少の頃に一度木の根の隙間に落ちたことのあるタルタリヤをアビス側の尖兵とすべく、再び深い闇へと招き入れ、魂の髄まで侵食しようとしたのである。
 アビスは手段を選ばない。それはアビスの罪人から戦いの術を学ぶことを厭わなかったタルタリヤが身を以て知っていることだ。だから単身引きずり込まれた奈落で魔物の大群に囲まれ、邪眼も魔王武装も惜しむことなく利用して戦い、それでも圧倒的な物量差に押し負けて疲弊したところを使徒に捕縛された時、彼らは追い詰められているのだと頭の片隅で理解した。理解して、声高に笑った。
「あはッ、はははははっ! 俺は別に自分を過小評価するのが趣味ってわけじゃない。だけど俺ひとりをアビス側に取り込んだところで何が出来る? 悔しいけど他の執行官は俺よりも腕の立つ戦士や曲者揃いだ。他の国にだって腕の立つ戦士はごまんといる。俺を君たちの兵力に仕立て上げたところで、勝機を得られるわけじゃない」
 タルタリヤひとりではいなしきれなかった多数の魔物どもも、他の執行官や他国の戦士が力を合わせればねじ伏せることが出来る。所詮魔物一体一体の能力はそこまで高くなく、神の目の使い手たちに致命傷を与えるには及ばぬものばかりだ。だからその可能性を秘めるタルタリヤを味方にしようとでも考えたのだろう。ずいぶん甘く見られたものだと、ひとしきり笑ったタルタリヤは呆れてみせる。
「だいたい、俺を好き勝手出来るだなんて思わないことだ。確かに俺は世界を征服することを望み、強さを求めている。だけど弱者も強者も関係なく、無差別に人を殺したいわけじゃない。俺は兵器として俺を磨き、高みを目指したいんだ――だというのに、君たちの狂気に堕ちて刃を曇らせるような真似をする訳がないだろう?」
 決して虚勢ではない、本心として吐き出した言葉を使徒は鼻で笑い、タルタリヤの身体を深淵の黒泥に沈めた。
 拘束されているタルタリヤに逃げる余地はない。
 どぶりと泥の海に浸かった瞬間、全身の皮膚が焼け爛れていくような激痛に襲われた。
 侵食の影響で内臓が蝕まれていき、口から吐き出される血液が段々とどす黒い色に変わっていった。
 指先から肌が黒く染まっていき、己の裡に狂騒を求める野心と憎悪に似た暗澹たる感情が塗り込められていく。
 けれどタルタリヤは己のものではない意思に喰われてたまるかと、魂を奮い立たせて抗った。
 壊れた内臓は元に戻らない。
 変質した身体は元に戻らない。
 だとしても殺戮に生きるだけの傀儡になどなってたまるものかと抵抗し続けた、その時。
「何故! 何故貴様がここに……――――!」
 焦燥を滲ませた使徒の声の後に断末魔が響き、黒泥の海の水面を揺らした。
 漆黒の海をざぶざぶと、誰かが掻き分けるように進んでくるのが音と水の動きで伝わってくる。
 一体どこの物好きだろうか。執行官の誰かか? もしくはあの旅人か。それとも、まさか?
 心当たりのある人物の顔を一つずつ思い浮かべていると、すっかり泥の中に沈み込んでしまったタルタリヤの手首を誰かに掴まれる。大きく節くれだった、たくましい手だ。そのまま力強く引っ張り上げられて、自力では抜け出すことの出来なかった汚泥からようやく脱することが出来た。
 だけど侵食の影響が消えるわけではない。空気の触れるところから全身が痛み、呼吸をするだけで壊れかけの肺が軋んで、内臓という内臓が悲鳴を上げる。それでもこんなところまでやって来てしまった挙句、タルタリヤを助けた男の顔を拝んでやらなければと目を開けて。
「公子殿」
 脳裡に浮かんだ最後の候補者の、黄金のひとみを前に喉を引き攣らせた。同時にあの使徒が焦燥に駆られたのも当然だと、納得もした。
 アビスにとっての脅威たる存在。その中でも最古にして最強の一角に立つ武神といえる男――鍾離が、こんな深淵くんだりまで姿を現したのだから。
「意識はあるな。時間がない。聞いてほしいことがある」
 たとえ磐石の加護を以てしても侵食による影響を防ぎ切ることは出来ない。タルタリヤを掬い上げるためにあの泥の海に浸かった時点で鍾離も多少なりダメージを受けているだろう。けれどその美しい顔が、自らの身を苛む苦痛に歪む様子はない。代わりに別の感情たちが混ざり合い、彼の表情を険しくさせている。
「このままではお前は死ぬ。否、殺すしかなくなる。その身を苛むアビスの侵食と、それにより崩壊しつつある人間の肉体を普通の方法で元に戻すことは不可能だ。だが、生き延びる方法が無い訳ではない」
 鍾離の言葉は他の誰でもないタルタリヤがよく理解しているものだった。自らの身体がもう人間としては手遅れで、化け物になる前に自死を選ぶか、あるいは人に殺めてもらわなければならない段階までもう変質しつつあることは分かっている。むしろこうして自我を保っているのが奇跡というべきだろう。常人ならば既にアビスの尖兵と化しているはずなのだから。
 では何故、鍾離はタルタリヤをすぐに殺そうとしないのだろうか?
 黒泥の海にわざわざ浸かって掬い上げるような真似をせずとも、この男の力ならば星岩ひとつ降らせるだけで小さな海ごとタルタリヤという脅威の芽を摘むことが出来ただろう。なのにどうして助けるような真似をし、挙句タルタリヤには想像もつかない可能性を示そうとしているのか。
 神の心を手放せど彼は磐石の魔神であり、幾万の民の命を守るために正当な判断を下すことの出来る存在であるはずだ。彼の意図するところがわからない。けれどここで終わりにせずに済むのなら。深淵に堕ちるでもなく、生き延びる方法があるというのなら。
 気を抜けば崩れそうになる意識を保ち、タルタリヤは声に耳を傾ける。
 そうして。
「もしもお前が望むのなら、契約を結ばないか。俺と魂をひとつに結び合う契約を」
 生涯忘れ得ぬ記憶とともに、生存への切符を手にした。

……あれ?」
 ルミドゥースハーバーまでの道のりで追憶に耽っていたタルタリヤは、目的地に辿り着くと同時に空気に混じるかすかな元素力に気付く。昇降機を使って滝を降り、引き寄せられるように船着き場へ向かうと、遺瓏埠行きの船の前にひとりの男が佇んでいるのが見えた。
 海を眺めていた男は、ゆるりと振り返る。
「公子殿」
 黄金のひとみがやわらかく緩み、タルタリヤを呼んだ。
「やっぱり、鍾離先生だ。どうしてここに? フォンテーヌには接触を避けたい相手がいるから同行出来ないって言ってたくせに」
 出立の前に用向きを伝えたとき、難しい顔をした鍾離が言っていたことを思い出しながら尋ねると、するりと伸びた手がタルタリヤの被るフードを下ろす。
 毛先に金色を帯びる赤朽葉の髪が潮風に攫われて、さらりと揺れた。
「末端に位置する港ならそう出くわすこともないだろうと思ってな。それに……
「それに?」
 今のタルタリヤの実力は、他でもない鍾離が一番分かっているはずだ。でなければ単身フォンテーヌまで出向くことを許すはずがない。タルタリヤとて彼からもう外に出て問題ないとお墨付きをもらったから、同僚に会いにいくことを決めたのである。単にタルタリヤの身を案じて迎えに来たというわけではないだろう。
 タルタリヤの頬に手を添えておきながら、鍾離は言い淀む。いつもは何事においても堂々としていて、言葉を選ぶことはあれど物怖じすることのない男がこれまた珍しい。じっと見つめて言葉の続きを待っていると、観念したように金色のひとみが伏せられる。
……お前が数日傍にいないだけでどうにも落ち着かず、いてもたってもいられなくなってしまったんだ」
 これは想定外だった、と続けられた言葉に、タルタリヤは心臓の裏側がくすぐったくなるのを感じる。
 まったくこのひとは、そんな調子でいながらあのときタルタリヤの意志を尊重することを選んだというのか。もしもタルタリヤが手を取らなかったら、このひとはどうなってしまっていたのだろう。
 ……きっとどうもならない。その時はその時で、彼はきちんと気持ちの整理をつけて、前へと進んでいけるひとだ。だからこそタルタリヤは生き延びて、その心臓を揺らし続けたいと思い、契約を交わすことを選んだ。
 頬に添えられたままの手に己の手を重ねる。ひとの肌の色を取り戻したそれは、代償に一介の人間として生涯を終える未来を失った。これから待ち受けているのは、置いてゆく予定だったひとたちに置いていかれ、悠久とも呼べる時を生き続けていく未来だ。
 けれど鍾離はタルタリヤを退屈させないと誓ってくれた。だからタルタリヤも鍾離が寂しくなる暇なんてないように、己を磨き続けながら盛大に振り回してやるつもりでいる。今回は振り回す気なんてさらさらなかったのに振り回してしまったようだし、意図せずに寂しがらせてしまったが。
「俺は平気だったのに、困ったひとだね」
……お前もいつか、兵器でなくなってしまえばいいんだ」
「それは先生次第だよ」
 軽口を叩いたつもりが何やら重く受け取られてしまったようで、鍾離は眉間の皺を深くする。こうなると同僚が持たせてくれた手土産だけでは機嫌を直してもらえないだろう。璃月に帰ったらしょうがないから我儘を聞いてやろうと思いつつ、ふたりで船へと乗り込んだ。
 悔しいかな、平気だとは言ったが、鍾離の隣にいると身体の緊張が解けて、微温湯に浸かっているような安心感と心地良さを覚える。けれどそれも仕方のないことだろう。だって契約を結び、ふたりで深淵を脱出してテイワットへ戻ってきてから半年間、タルタリヤはずっと鍾離と、文字通り片時も離れることなく一緒にいたのだから。 
 というのも、魔神と魂をひとつに結び合わせて眷属となることで深淵の侵食の影響を受けた身体を作り替えたから、魔神の力が馴染むまでは安静にしていなければならなかったし、その間も存外粘着質なアビスがタルタリヤを奪い戻そうと追っ手を差し向けてくるものだから、それを撃退しなければならなかった。一度スネージナヤの女皇の元へ戻り、状況を報告する余裕なんてなかったのだ。結果、鍾離の洞天に匿ってもらって静養し、身体が安定した頃合いを見計らってリハビリがてら追っ手を退治して、ようやく今に至ることが出来たのである。
 今やタルタリヤは鍾離の片割れみたいなものになってしまった。だから鍾離がタルタリヤと離れていると落ち着かなくなってしまう気持ちは、本当は分かる。ただそれを簡単に認めてやるのは癪だし、認めるのなら彼の心臓を盛大に揺らしてやれるタイミングを見計らわなければ面白くないから、平然としてみせているだけで。
 それに鍾離が契約を持ち掛けたのは完全に私欲のためで、本当ならタルタリヤを殺して見捨てるべきだった。だって人間は死の運命に抗えないし、凡人は眷属なんて作らない。それを作ることは彼が再び神座に着くのと同義だからだ。
「鍾離先生って、本当に俺のことが好きだよね」
 船室に入り、荷を下ろしたタルタリヤは両腕を広げながらそうのたまう。
 いつもは雄弁な男は黙って腕の中に収まると、胸元に耳を押し当てた。
……ああ」
 とくとくと少し早い鼓動の音を確かめて嬉しそうに笑う顔は、あの日見たものによく似ている。
 全く、とんでもない男に好かれてしまったものだ。けれどあの絶望の淵で知ってしまった甘いときめきを思い返せば、ひとのことなんて言えやしない。
 鍾離の背にそっと腕を回して、タルタリヤは目を閉じる。
 目を閉じて、自分で自分に言い訳をする。
 
 ――だって、しょうがないじゃないか。
 好きなひとには笑っていてほしいんだから!