春木了が筆をとったのは今から20年前、15歳の春だった。師のもとで勉学に勤しみ、かたちのないものと戦い、ようやく確立できた文字の羅列は、脚光を浴びた。けれども結局名誉など栄華の夢、たかが二十歳の若造が縋る権力など持たなかった。いや持ってたまるか、持ってしまったらぐずぐずとつまらないものを書きつづけていただろう。だからこれでいい、これでいいのだと言い聞かせ、数年。師は、死んだ。自死だった。師は脚光を浴び続ける側の人間だった。一度だけ売れ、そのままずるずる売れないままの男を匿ってくれた優しい師は、死んだ。遺されたのは一本の遺作。春木了にあてられたその原稿用紙を抱きしめて、師をひどく恨めしい思いのまま悼んだ。「どうして俺を置いていったんですか」ただ吊るされて骸となった男を見上げていた。
戦争は生家と家族を燃やし、行き場所がなくなった了は遠い親戚に連れられて男のもとへと辿りついた。
優しいしわのある顔を、了は幼いながらも好ましく思った。決して裕福ではないが学校にも通わせてもらい、食事と寝床にもありつけた。
家には本がたくさんあった。絵本から小説、文芸書、短歌をまとめた歌の本まであった。外国の本もわずかだが本棚に隠されていた。
男は了が本を読むことを止めなかった。同級生や友人たちが外で遊んでいようが、了は男の家でただ本を読みふけっていた。知らない漢字を男はうれしそうに教え、ほほえんだ。了は男が好きだった。家族だと思って、とはじめて会った日に言われたとおり家族のように接した。それでいい、と男も思っていたと今でも信じている。
春木了の代表作「氷蓋」は氷で出来た男が春を待つまでの幻想文学だ。けれど今はもう、古本屋に投げ売りされている在りさまだ。供給過多ならば、当然そうなるだろう。了も、分かっている。今では薪のほうが高いのではないだろうかとも思う。だったらこの本を買って火種にしてしまえばいい。卑下で無いが自分でも思っている。そうすれば、氷で出来た男も同じように溶けて無くなるのだから。
燐寸を擦って煙草に火を灯すと湿っぽい煙が天井に上がる前に消えていく。前屈みになって文机に向かう。師がいつもしていた格好を真似ていたけれど、今になってこれが自分のスタイルだと思い込むようになった。
後ろに白昼社の編集者が坐っている。
「じき書き終える」
万年筆のインクの液だまりが青黒い。
サインを書き殴ると原稿用紙十枚を封筒に入れ、封をする。
「ン」
ずいと封筒を男に差し出すと、彼はそれを受け取った。
「偉いもんだ。俺なんかの世話を押しつけられて」
そばかすが散った顔をもつ男――清野恭介は、目を細めた。そんなことはないと思っているのか、それともほとほと困っているとでも思っているのか分からないが、男が受け取ったのを確認すると、ようやく煙草の灰を灰皿に落とした。
「売れるか分からないがな。あんたの一日分の給料にはなるんじゃないか」
恭介は鞄に原稿を入れ、立ち上がる。背筋のすっと高い、行儀のいい姿勢だった。
了の皮肉にも面倒がらず怒らず、〝了にとっては〟いい担当者だと思う。
「では」
と一言いい、男は家から出て行った。
煙が壁にへばりついているようにも見えた。
黄ばんでまではいないが、同じ場所で長い時間煙にあたっていれば、そのうち黄ばんでくる。そのときまで生き存えているのだろうかと考える。師が自死した家で。この、家で。いつまで書いていられるだろうかと。売れない、流行らない、一発屋と揶揄される自分が、いつまでのうのうと。白昼社との取引が途絶えたらますます自分のいる意味がなくなっていく。
――生きた証を、生き残った証を。
そんな自分勝手なことを思うから売れないのだ。流行らない文学を書き続けて、一体、誰が。
文字にだって流行り廃りはあるのだ。師も言っていた。けれど了はどうすればいいのか分からない。
文机に肘をついて、ため息をつく。青黒いインクの染みが、そこに染みついて離れない。
せめてこの染みのように爪痕を遺したいと、馬鹿な妄想をする。
「売れようと思って書いたものが売れなかったことなんて、何度でもある。だったら、」
だったら貫き通すしかないじゃないか。
それがどれだけ苦しくて惨めでも、春木了は書くことを選んだのだ。
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