草枕
2024-11-17 06:24:07
1125文字
Public PBD
 

PBD切符小話

男の切符が署名されるまでの、少しの時間のこと

切符は、男の所持品であるカードケースに収められていた。よくある動物由来の、使うほどに艶が出て、しかし手入れを面倒がる人も多い素材。成人したばかりの社会人同士が、誕生日プレゼントに贈りあうに手頃な、高級とは言わない程度の品である。今ケースは多少のエイジングを経て、なめらかな手触りと少しの艶を持っていた。
男は切符を受け取った時、すぐケースにしまったので、切符は四つの角の一つにだって折れはなかったし、ましてや歪みもなかった。そして男のシャツの胸ポケットが定位置となったのである。

切符は、どうやら列車に備え付けられた灯りの光を浴びることが多かった。このカードケースは密封されるタイプのものでもない。車掌に大切に仕舞われていた時とは違って、隙間から光が差し込んでくるのだ。
時に、乗客たちの食事の匂いが切符に染み着こうとする。男はこと、夕飯には誰かに話しかけ、時間をかけて食事を楽しんでいた。
そして食堂列車よりも薄暗いバーで酒を飲んだ。一度、一人で酒を飲みながら切符を眺めた夜には、男が飲んでいた酒を吸って、一部色素が沈着してしまった部分もあるのだ。

それらの色を上書きする、深い夜だった。
男はアルコールの香りを連れて帰った自室で、カードケースを取り出した。ペンに備わったフィラメントが放つ、ぼんやりとした薄いむらさきが、沈殿するように切符を染めてゆく。
男はその薄暗い部屋で、署名をした。ペンの形にぴたりと沿うように歪んだ指が生んだのは、流麗な線。ペンが紙面をなぞり、机を叩く音の美しさには、上等なクラシックがもたらす眠気のような、精緻的な穏やかさがあった。
手本のようなサインと亜種の記載が終わると、余白の上でゆらゆらとペンが揺れる。次いで緩く弧を描いた口元を撫でる筆先は、メッセージカードに添える言葉を探すような、こなれた仕草をした。実際手慣れているのだろう、さして間も置かず、旅に関する一節を書き始めた。

人は自分が必要とするものを探し求めて世界中を旅し、──
まず男の頭を過ったのは、確実にこの切符を見る車掌の姿だったのだろう。探し物があるという彼女が、外界に踏み出したことを寿ぐ言葉をと。
だがしかし、この一節には続きがあるのだ。酔いどれの男はとたん素面に戻ったように、否、酒に気分を悪くしたように、接続詞を潰した。
『人は自分が必要とするものを探し求めて世界中を旅する。』
誰にも帰る場所はないのだ。
俯いた男は、努めて口角を上げる。筆先がピリオドを打った。

イテラスキッドの灯りで淡く染まっていた切符は、今や殆ど男の灯りの色になっていた。列車の光によく曝されていた切符の天にはうっすらと、バーでの酒が名残っている。