su7ga0
2024-11-17 02:03:06
8507文字
Public 孫さに
 

choke chain vol.2

首輪(物理)を付けてくれと審神者を強請る孫六さんの孫/さ/にです。これで終わりです。

 

 
 判決を下される罪人の気持ちでいる私とは対照的に、着流し姿の孫六は口元をほのかに上げ、機嫌よくこちらを見ている。
「や。少し遅くなった」
 孫六は軽く右手を上げて朗らかに言うと、私の返事を待たず、断りすらなく部屋へ入ってきた。そうして、勝手知ったる様子で歩みを進め、首輪を入れた紙袋を置いているテーブルへついてしまった。紙袋の中に、所望した品が入っていると分かったのだろう。彼の瞳は、期待に満ち満ちて輝いていた。
 いくら待ち望んだ品が目の前にあるからとはいえ、孫六の遠慮のない行動を少々引き気味に思いながら広い背を見つめた。だが、彼は私の視線など気にした様子はなく、むしろ、目の前の紙袋を凝視し、そわそわと逸る気持ちを抑えているようだった。孫六の口の端は、にやけともつかない笑みを堪え損ね、妙に歪んでいる。
「ねえ孫六……本当に首輪が欲しかったの?」
「何度も言わせないでくれ。それで、どんなのを選んだのか早く見せてほしい」
 期待に満ちて浅葱の瞳を爛々と輝かせている様は、確かに犬に見えなくもないが、孫六の風体から導き出せるのは、犬よりも狼のように思える。孫六は、自分を犬だと言う。しかし、イエイヌも元を辿れば、人が狼を飼い慣らしたことではじまった種だ。もしかすると孫六は、その源流に限りなく近いところにいる犬なのかもしれない……
「な、開けていいか?」
「どうぞ……
 言うなり、孫六は紙袋を手に取った。
 口を開けて袋の中へ手を入れ、入っている首輪を取り出す。
 念願の首輪であるはずだが、手に取った物を見つめる孫六は、訝しげな表情になっていった。
 太めの眉根は眉間に寄り、「これは何だ」とでも言いたげな、不審な顔をしている。
 ——孫六が手にしているのは、私が、彼に一番相応しいだろうと考え抜いて選んだ首輪だ。首輪が欲しいとねだる孫六の意図が分からないなりに、私は私で考えを尽くして首輪を選んだ。
 孫六の手には、一本の長い鎖が携えられている。
 喜平タイプのシルバーの鎖だが、ネックレスよりも幅が広く、首輪のように輪として繋がってはいない。形だけを見れば、何の変哲も無い、真っ直ぐな鎖だ。ただ、両端には丸いリングが付いている。
「主人、これが首輪なのか?」
「首輪だよ……付けてあげようか?」
 あからさまに不満げな孫六を見て、私はやさぐれた気持ちで笑った。孫六はどんなものを期待していたのだろうか。この首輪が気に召さないのなら、あとはもう勝手にしろと野に放り出すしかない。
 私は孫六から首輪を受け取って、鎖の端にある片方のリングを摘んだ。そのリングを、胸の辺りの高さで床と水平に持つ。ぶら下がったもう一方のリングは、空いている手で摘んで頭上まで上げた。
 そのまま、頭上に上げた手をゆっくりと下げ、水平に持ったリングの中へ鎖を落とし込んでいく。チャリ、と音を立てて鎖はリングを通り、アルファベットの「P」を逆さにしたような形を作っていった。
 鎖が輪を為す様を見つめていた孫六は、浅葱色の虹彩の中、瞳孔を開かせ、出来上がった首輪を凝視していた。
「孫六、来て」
 私の言葉に嬉々とした様子で椅子から立ち上がった孫六は、テーブルの傍らに立つ私の足元へ、衣擦れの音すら立てず片膝を付いて屈んだ。続いて、そのまま恭しい動作で頭を垂れる。黒髪が流れ、孫六の表情は見えなくなった。仰々しく頭を垂れてはいるが、伏せられた表情は歓喜と愉悦に満ちているはずだ。
 私は孫六の頭に、作ったばかりの銀色の輪を通した。鎖を首にかけ、首輪に挟まった黒髪を掬い払って整えてやる。その際、孫六の頸を掠めた指先から、途方もない熱が伝わってきた。興奮しているのだろう。
「これでいい?」
 これで、自分への首輪を選んでほしいという孫六の願いには応えられたはずだ。悶々と思い悩む日々からやっと解放される。
 一仕事を終えた心地でいる私へ、孫六はゆっくりと顔を上げた。笑んだ瞳の力強さから、湧き上がる熱を必死に押し殺している様子が伝わる。
 私は少しだけ首を傾けて、首輪が綺麗に光を受ける角度を探した。
 ——なめらかに首へ添う銀色の鎖は、孫六の黒髪と、うす くろい肌に、きっと似合うと考えたのだ。無駄な装飾の無いところも、彼の好みに合うだろう。私なりに、孫六のことを考えて選んだ首輪だ。
 こうして実際に付けている姿を見てみると、そう悪くないのではと思えた。闇へ溶け込む容姿をしている孫六の首元で、首輪は白銀の光を帯び、静かに煌めいている。
「主人」
「なに?」
「どうしてこの首輪を選んだのか、理由を聞かせてくれよ」
「孫六の色味に合うと思って。それと、無駄な飾りが付いてないところも好みかなって」
「他には?」
「他に……? いや、それだけだよ」
……実はな、主人に首輪が欲しいとねだった手前、俺も、どんな種類があるかを少々調べていたんだ。この首輪も、最初の形状こそ知らなかったが、見たことがある」
「ふぅん、じゃあ少しくらい好みを教えてくれたって良かったのに」
「いやいや、そこは、主人が選んだ物じゃないと意味がないからさ……
 孫六は静かに立ち上がった。首輪を付けるために膝を付いた際と同じく、彼が立ち上がる時も、少しも音がしなかった。孫六の首元の鎖だけが、部屋の照明を反射して光っている。
「あ、待って孫六」
 彼の和服の胸元に、鎖が片方長く垂れている。本来は、この垂れた方の鎖へリードを取り付けて使うらしい。しかし、孫六にリードを使うわけではないので、私は長く垂れた鎖を襟の内側へ入れ込んで仕舞ってやった。こうすれば、よく見ないことには、周りからは首輪を付けていることが分からないだろう。
……主人。いいのか? そこへ仕舞って」
「えっ? でも、端が下がったままだと邪魔になるでしょう?」
 意図のわからないことを唐突に尋ねられ戸惑う私を無視し、孫六はこちらへ一歩足を踏み出して身を寄せてきた。
 距離は、互いの服が擦れそうになるほど近い。
 私は言い知れぬ緊張を覚えてゆっくりと後退りをし、孫六から離れた。
 しかし、私が孫六から離れた分だけ、孫六も歩みを進めて詰めてくる。
 私を見下ろす孫六は、馬鹿にわざとらしい、穏やかな声で尋ねた。
「主人、首輪にも色々用途があるようだが、どうしてこれを選んだ?」
「だから、これが孫六に似合いそうだなって思ったの。色も、形も」
「じゃあ、これの本当の使い方は知らないんだな?」
「本当の使い方……?」
 動揺を隠しながら平静を装い、孫六の真意を読み取ろうと青い目を見つめた。しかし、彼は無表情に私を見下ろすばかりだった。
 身を翻して逃げることもよぎったが、きっと背を向けた途端に捕まるだろう。
 孫六が何を考えているか分からないことが、一番恐ろしかった。
 私はじりじりと追い詰められ、ついに、壁際のソファーに退路を断たれてしまった。
 逃げ場を失い、顔を引き攣らせた私を見て、孫六は目を細める。
「主人がこれを首輪の形にしてみせた時、俺は、震えそうなほど嬉しかったんだがな……
……どういうこと?」
 孫六は、私が与えた首輪には何かの用途があると言っているようだが、混乱する頭では、この首輪を選んだ時の詳細を思い出すことができなかった。
 この首輪を注文した際、商品の説明文の中に注意を促す文章か何かがあっただろうか……思い出せない。私は首輪を選ぶ時、デザインを重視したのだ。この首輪に特別な使い道があるなんてことは気にも留めなかったし、気が付かなかった。
「ねえ……それ、何に使うための首輪なの?」
 観念して尋ねた私に、孫六は、自分の太い首を、とん、と指し示してみせた。付けてあげたばかりの首輪を示し、含みを持った笑みを浮かべている。そうして、低い声で囁くように語り始めた。
「これはさ、垂れた鎖の先に索をつける形になるだろう? 飼い主はそれを持って、犬を御すわけだ。それで、犬が突然走り出したり、言うことを聞かずに喧嘩をし始めたりしたら、索を引く。そうすると首輪の輪が締まる。犬は、『この行動を取ると苦痛が与えられる』ということを学習する」
……だから?」
「主人、この首輪は、言うことを聞かない犬を訓練する……躾けるための首輪だよ」
 ——言うなり、孫六は、私の方へ大きく一歩を踏み出した。
 私は孫六の圧に押されて姿勢を崩し、背後のソファーへ背中から倒れ込んでしまった。
「っ、何なの……!」
 苛立った声を上げて孫六を睨み、虚勢を張ってみたが、情けなく声が震えた。
 孫六は私の虚勢を見透かしているのか、構うことなくソファーへ膝を乗り上げ、私へ上体を被せてくる。顔の両脇に手を突かれ、逃げ場がない。銀色の鎖が、ごく近くの目の前で光っていた。
 孫六は、射抜くように私を見た。
「だから、ちゃんと躾けてくれって言っただろう」
……意味が、分かんないって」
「分かるだろう。今教えたのに。ほら。聞き分けのない犬はさ、どうするんだ?」
 孫六は、先ほど仕舞ってやった鎖の端を胸元から取り出して、私に握らせた。
 孫六が放つただならない雰囲気は、飼い慣らされた犬の持つものとは思えない。握らされた鎖が、微かな音を立てた。
……なあ、主人」
 ぬるい吐息が頬を撫でる。
 孫六はじわじわと私の喉元へ顔を寄せてきた。
 彼の、浅葱色の瞳が発光しているかのように見える。
 固まってしまった私の腕は動かない。
 孫六が私の喉へ狙いを定めたことが、はっきりと分かった。
 私は自分が狩られる側の存在なのだと理解し、恐怖した。
 私はこのまま、頑強な顎の力で喉笛を喰い破られてしまうだろう。肉を裂かれ、腑を貪られ、骨の随まで啜られてしまう……
 そんな血迷った考えが浮かんだが、今はどうにかして彼を遠ざけなければならない。我に返って焦りを覚えた時、不意に、さきほど孫六の言葉が蘇ってきた。私は孫六よりも非力だが、彼を御する鎖を持っている。しかし、彼の言っていた使い方では、身を損なってしまわないだろうか。不安がよぎる。
「ま、孫六……ねえ、退いてよ」
 駄目元で呟いてみた静止の言葉を無視し、孫六は戯けた様子で眉を上げた。そうして、愉しそうに笑いながら、私の喉元すれすれにゆっくりと唇を近づける。端の持ち上がった唇は少し厚くて、野生的にも思えるが、決して粗野ではない。
 その唇が薄く開いて、形の良い歯が覗く。
 綺麗な歯並びの中、犬歯だけ鋭く尖っているのが見えて、私は意を決した。
 ——あと少しで喉に歯を立てられてしまうという瞬間、私は思いきって、彼の首に繋がる鎖を引いた。
 あまり強く引くと、鎖を通した輪が狭まり、孫六の首が締まってしまうかもしれないと思ったが、その心配は杞憂に過ぎなかった。
 私が鎖を引いたくらいでは、孫六は少しも動じなかった。太めの鎖は確かに孫六の首を絞めてはいるが、私の力などでは、刀の首へ与える損傷など無いに等しいのだろう。平然としている。
 しかし、私の喉元へ食いつこうとしていた孫六は、首輪による私の静止を聞いて動きを止めた。
 肉へ食らいつこうとしていた口を愉しげに歪ませ、喉に詰まる笑い声を漏らして、孫六は笑った。
……そうだよ。よくできたな」
 腹の底に得体の知れない感情を隠して笑う孫六から目が離せなかった。鎖を握ったままの手から血の気が引いていく。
 ——これでは、孫六は本当に犬ではないか。いや、犬などではなく、狼か……
 孫六は喉へ噛みつこうとする動きこそ止めたが、呆然とする私の上から退こうとはしなかった。むしろ、再び顔を近づけてきて、今度は何をするでもなく、舐めるようにごく間近で私を見つめながら細く笑っている。
「なあ主人、俺は、あんたの忠犬になると誓ったわけだが、その理由が、どうしてだか分かるか」
「え……私が、審神者だから……?」
「まあ、何も知らなければそう言うだろうな……
 私は鎖を握りしめたまま孫六を見上げた。
 彼はしばらくの間、捕まえた獲物を眺めるような満足げな顔で私を見ていたけれど、その上機嫌 じょうきげんな表情は、次第にうっすらとした悲哀を含んだものに変わっていった。微笑んでいるのに悲しんでいることが分かる、切なさの滲んだ目で孫六は私を見ている。
……主人。俺は、主人の作った料理のこと、ずっと覚えてるよ」
「え……?」
「主人にとっては、本丸の刀たちへ、星の数ほど作った料理のうちの一つだろうけど、俺は、主人が俺のために作ってくれた飯のことは、今でも忘れられない」
 私は少しの間、孫六の言葉の意味を理解できずに固まった。
 彼は突然何を言い出したのだろうと驚いたけれど、畏れで凍りついた頭でも、少し考えてみれば言っていることをすぐに理解できた。孫六は、私が夜戦帰りに作った料理のことを言っている。彼が、初めに口にした願い事で出た料理だ。あの時私は、どんな料理なのか名前はよく分からないと言う孫六に、料理の特徴を尋ね、クリームシチューを作った。結果的にシチューは孫六の望んだものではなかったので、こうして代替えの願いを聞くことになったのだが、孫六はどうして今になってその料理のことを語り始めたのだろう。
 私は静かに次の言葉を待った。
 孫六は、私をまっすぐに見つめたまま続きを語り始める。
「俺は、あの飯のことをずっと覚えてるよ。凍えた身を温めてくれた飯は勿論嬉しかったけれど、それ以上に、食事を用意して待っていてくれた人を思って、この体を持ったことはまさに僥倖だと思ったから」
「僥倖……?」
 孫六は戸惑う私へ、困ったような表情で微笑みを深めた。彼の大きな手がふと上がり、私の耳元あたりで何かをためらうようにさまよう。しかし、何をするわけでもなく、その手はゆっくりと下がっていった。……頭を撫でようとして躊躇 ちゅうちょしたかのような動きに、胸の内で細波が立つ。上がった手の動きの柔らかさは、愛おしいものを慈しむ空気を纏っていた。
……嬉しかったんだよ、本当に。でも、主人の方は、どんな物を振る舞ったのかをすっかり忘れていただろう? たくさんの刀が顕現している本丸だから、仕方のない事だとは思ったが、だったらせめて、主人と俺とだけを繋いでくれる証が欲しいと思ったんだ」
「それで、首輪が欲しかったの?」
 孫六は、ずっと首輪を欲しがっていた自分の気持ちを、今までさっぱり理解できずにいた主人 へ、なじる視線を一瞬だけ寄越した。しかし、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべる。長い前髪から覗く瞳が、こどもっぽく揺れた。
 孫六は確かに物騒な刀だが、彼の根底には、人から愛され、よく扱われることへの喜びが確かに根付いている。自分を上手く使え、と言うくらいだから、私の為に働きたいと思う気持ちに嘘はないと見えた。……それにしても、気持ちを訴える手段がなんとも不器用な刀だ。
 自分のことを犬だと言う孫六の心の底を見た気がして、私も彼につられて少し笑った。
「はは、そうだったの……
 ここしばらく、ずっと張り詰めていた気持ちが溶け、私はソファーに深く背を預けて沈み込んだ。首輪が欲しい、と孫六に言われた時から、彼の希望と自分の中にある倫理観とのずれに葛藤し続けていたが、首輪を欲しがる理由が分かった今は、静かにきらめく鎖を身につける姿が微笑ましくさえ思える。孫六は、私が付けてあげた首輪を、きっと大切にしてくれることだろう。
 ——そんなことを考えながら安堵に浸り、笑っていたのだが、ふと一抹の不安がよぎった。
……ねえ孫六、ちょっとどいてよ」
 孫六はどうして私の上から退かないのだろうか。彼は私に覆い被さり、動く気配は微塵もない。しばらく黙ったままだった孫六は、部屋の照明を背に受け、暗い笑顔を浮かべた。
「主人……やっぱり、あんたの笑った顔は可愛いなぁ……
「へ……?」
 大きな手が二つ伸び、今度はためらいもなく私の頬を捕らえた。大きな手のひらは途方もなく熱い。孫六は、ぎこちない笑いを浮かべる私の頬を挟み、微笑みをたたえたまま顔を覗き込んでくる。
 嫌がって首をよじれば、このまま絞め落とされるかもしれない。いや、孫六がそんなことをするわけがない。孫六は、私の為なら何でも斬ってみせると誓ってくれた刀だ。私へ害を為すはずがない。現に、彼はうっとりとして私を見ている。……そう、うっとりと。力強い瞳は、芯の方がとろりとしていて、まるで、狙っていた獲物をようやく捕まえたことへの達成感と悦楽に浸るかのようだ。
 捕食されそうな緊張が蘇り、背が粟立つ。
 孫六は、私の頬を挟んだまま、ゆっくりと顔を近付けてきた。
 身動きができない。
 艶を含んだ吐息が頬にかかる。
 何をするのだ、と身を固くする間もなく、額へ口付けを落とされた。
 ——なぜだ。
 私は自分の身に起きた出来事を理解できず、放心した。
 私が呆けている隙に、孫六は口付けを落としたまま両手で頬をゆるく撫で回す。
 刀を握る硬い手のひらが、柔い肉の感触を愉しむように、やわやわと頬を摩り、撫でる。やがて満足したのか、孫六は私を解放した。
 ソファーに乗り上げていた孫六は、ゆっくりと私の上から退く。孫六の重みが消えると同時に、ぎし、と鳴ったソファーの音がやけに生々しかった。
 孫六は、首輪を煌めかせながら、笑みを浮かべて私を見下ろしている。
 ふぅ、と満足げに吐き出された息は、獲物を喰らって満腹になった狼を彷彿とさせた。
「なあ主人。あの寒い夜に、主人が作ってくれた料理はグラタンだ」
……え?」
「本当は、同じ飯を食った部隊の奴が教えてくれたのを、覚えているんだ」
「え」
……グラタンって名前も、笑顔で俺たちを迎えてくれた主人の姿も、覚えているよ。出来立ての熱い料理が嬉しかったこと、笑顔で帰還を労ってくれた主人を愛おしく思ったこと、ずっと忘れられずに、大事に心に残してる。なあ……今度は間違いなくあの時の飯を作ってくれよ。いつまでも待ってるからさ……もちろんお利口さんに」
 腹に響く低い声は、舌舐めずりをしているかのようだ。
 私は孫六を見上げる。
 にやりと笑みを深めた孫六は、私の頭を一つ撫で、青い目を妖しく輝かせ、部屋から去って行った。
 ——私はソファーに体を預けて放心しながら、たった今降りかかった出来事を反芻した。
 孫六は最初から全てを理解していて、私を試す行動に出たのだろうか……深く考えずとも、きっとそうだろう。最初から一計を案じて自分 孫六に対する私の思いを計り、その結果を鑑みて、首輪をねだった上に、あのような蛮行を働いたとしか考えられない。狼らしく、恐ろしく狡猾な刀だ、とよぎったが、一途で純粋であるとも取れる。それに、私のことを、愛おしく思ったと言っていたのだ。そのことが忘れられないとも……
 孫六の言葉の意味を深く考えだすと、狼は愛情深いという、昔どこかで得た知見が浮かび上がり、先程挟まれた頬と、口付けを落とされた額が熱を帯びてきた。
 もしかしたら孫六には、私が何か、秘めた気持ちを察した言葉を紡いでくれるかもしれない、という密かな期待があったのではないか。あとから考えれば、そのように思える場面がちらほらと浮かんだ。すまないことをした。
 所望された料理は作らねばならないだろう。
 いつまでも待つと言うからには、きっと、本丸が襲撃されようとも、私が死んで魂だけの存在になろうとも、孫六は待っているはずだ。
 私のことを愛おしく思うと口にしてくれた刀は孫六が初めてだった。嫌な気持ちなどなく、むしろほんのりとした喜びを覚えさえするが、よく考えてみれば、私はそんな刀に首輪をつけてしまった。ひょっとすると、大変に危険なことを仕出かしたのではないだろうか。どうしよう、と焦る気持ちがふつふつと沸いたが、もうどうすることもできない。孫六は、「これは私の所有物だ」との意味を持つ首輪を、とても気に入り、喜んでいた。愛おしく思うものから与えられた所有物としての証を、刀が手放すとは思えない。強引な手段に出ても、孫六ならば文字通りに首輪を死守するだろう。そもそも、やっぱり首輪を外せ、などと言ったら、今度こそ孫六は本当に私を……
 私は飼い犬に手を噛まれたのだろうかと、しみじみ考える。
 いや、飼い犬ではなく、狼か……
 ふと、額に口付けられたあの時、孫六の首輪を引いて静止すれば良かったのでは、と思い付いた。
 しかし、今更気が付いても遅いのだ。
 狡猾な狼は、並々ならない思いを抱いて私ににじり寄っている。
 あとでグラタンのレシピを探そうと考えながら、私はもう少しだけソファーに身を預けることにした。