午前五時。指揮官が目を覚ますにはまだ早すぎる時間。クロムは自主鍛錬のため、設定していたスリープモードを解除した。横で寝息を立てる人間は、まだ夢の海を漂っているらしい。今日は非番だからと理由をつけて、クロムの上に跨り艶のある笑みを浮かべていたのはつい二時間前のことだ。多忙の中でも、2人の時間はとりたいと言われてしまえば、眠るように促したいクロムもお手上げである。
構造体であるクロムは必ずしも眠りを必要としない。だからこそ、生身の人間である指揮官の体調にはより一層気を配っていた。クロム自身、ワーカホリック気味なことは自覚があったが、隣で眠る指揮官はその自覚が無さそうだった。構造体であるクロムと共に働き、戦い、傷付き、疲弊する。君は人間なのですよと何度かクロムが諌めたものの「クロムと一緒だから平気だ」と微笑まれてしまうのだ。常に物事に真剣に取り組み、手を抜くことをしない。さすがは首席だと賛辞の言葉が聞こえる度「まだ足りない」と指揮官が呟くことを、一体何人が知っているだろう。努力を続け、求められる結果を出し続ける苦しさを、クロムは既に無い生身の体の頃から覚えていた。手の中に握りしめた鈍い痛みの記憶が、背負った重圧を思い出させる。
だからこそ、二人きりでいる時は余計にだろうか。お互いを慈しみ、求めることが以前より増えた。身体を繋ぐだけではなく、口付けや、抱擁、指を絡めるといった些細な愛情を伝える行為の一つ一つが愛しく思えた。
一度失いかけたせいもあるのかもしれない。腕の中で微笑んでいた指揮官が、ある日納体袋に詰められ無言で帰ってくる、そんな結末もあり得なくは無い環境で戦っている以上、小さな後悔すら残したく無いと、クロムは思うようになっていた。
指揮官の艶のある黒髪を撫で、枕の横に置かれた指先に触れる。クロムの鋼鉄製の手と違い、指揮官の手はほんのりと温かい。
ぼんやりと思い描いていた二人の未来のかたちをしっかりと告げたのは、指揮官と浄化塔に登ったあの日のこと。生涯を共に歩くと誓い、より深く結ばれた二人の日々は、未だ平穏には程遠い。満ち足りているはずなのに、どこか焦燥感を煽られている。クロムはそう感じていた。
「…………ん、……くろ、む……?」
小さく身動いだ指揮官が、薄く目を開けクロムを見上げる。普段より舌足らずな声は、まだ覚醒しきっていないことを解するには十分だ。
「指揮官、すみません……起こしてしまいましたか?」
「……ん、……もう行くのか?」
「ええ。終わりましたら、また戻って参ります」
「ああ……行っておいで」
触れていた指揮官の手の甲に、クロムは口付けを落としてから、寝台を降りた。
「行って参ります」
◆◆
クロムの元に、指揮官からのボイスメッセージが届いたのは、鍛錬が終わりまさに指揮官の私室に戻ろうとした時だった。
『すまない、グレイレイヴンに緊急任務が下った。続きはまたの機会に。埋め合わせは必ず』
忙しない足音を立て、歩きながら録音したと思われる指揮官の声の後ろでは、輸送機のエンジンが出発のカウントダウンのように唸り声を上げ、飛び立つのが間近だと告げていた。
多忙を極める二人にとって、デートが流れることは特段珍しいことではなかった。『道中、お気をつけて』とメッセージを打てば、既読マークが付く。おそらく、もう輸送機の中だろう。これ以上の連絡は、指揮官の集中を削ぐと判断したクロムは通信端末を制服へとしまい込んだ。
今日は久しぶりに商業区で買い物でも、と話していたこともあり、指揮官がクロムの外出申請を行なっていた。もともと物欲に乏しいクロムである。一人、商業区へ出かけても時間を持て余すことはわかっていたが、指揮官が手間をかけて申請してくれたことを思うと、ホーク隊の準備室で急ぎではない書類と向き合うのも気が引けた。
一度、ホーク隊の自室へと戻り、戦闘用装備を解除してから、クロムは商業区へと足を運んだ。食品から服飾、嗜好品がずらりと並ぶ煌びやかなショーウィンドウには、黄金時代を彷彿とさせる様々な商品が各店所狭しと並んでおり、地上で血みどろの戦いをしているのがまるで幻のように映る。
図書館で借りていた書籍を返却し、指揮官が行きたいと話していたパーラーの下見をした所で、手持ち無沙汰になったクロムは再度、店舗が連なるエリアに戻った。欲しいと思うものがある訳でもなかったが、次回指揮官と来た際に役立つ情報が手に入ればいい。そんな考えを電子脳に巡らせている内に、通りの端に見慣れない店舗が開店していることに気がついた。
清潔感のある白い内装、ショーケースの中に並ぶのはどうやら宝飾品のようだった。シンプルなデザインの指環や、ピアスが並んでいる。目を引くべき店先に並ぶ品々も華やかすぎず、さりげない造形のものが多く、指揮官の好みかもしれないと考えたクロムは、ガラス越しに商品を見つめた。
「何かお探しですか?」
店舗へ入ろうとしないクロムへと声をかけてきたのは若い女性店員で、良ければ中へと外見からは想像もできなかった強い押しで店内へと引き込まれる。
「いえ……そういうわけでは、」
「せっかくですから近くでご覧ください。ピアスや指輪、ブローチなども取り扱っておりますよ!」
「いらっしゃいませ……おい、そちらの方は構造体じゃないか。すみません、店ができたばかりのもので……娘が張り切っちゃってね」
申し訳なさげに眉を下げる初老の男性店員が、クロムに頭を下げた。とんでもない、と返すクロムに、ぷりぷりと怒気をこめた女性店員が「構造体の方だって、ジュエリーをつけたっていいじゃない」と呟いている。
「と……おっしゃいますと、こちらのお店は構造体も購入可能なのですか?」
「ええ勿論! 試着されますか?」
「あ……つけるのは私ではなく……」
「もしかして、好きな人へですか?」
「ええ……節目の記念として、とは思っていたのですが、何を贈るべきか、悩んでおりまして」
「そりゃあいい。節目……というと、ふむ。出たばかりの指環はいかがかな。揃いのデザインもありますよ」
「指環、ですか……」
「若い二人の門出なら、これの右に出るものはありませんよ。それに昔から言うでしょう? 結婚指輪は給料三ヶ月分と」
「お父さん、そんな黄金時代じゃあるまいし……値段は関係ないですよ! お客さんが気に入ったものを贈ればきっとお相手も喜んでくださいます」
さあどうぞ!とカウンターの上に、幾つもの指環がズラリと並んだ。シルバーやゴールドの地金に嵌った、色とりどりのさまざまな石が、店内の照明の光を反射させて輝く。価格も、精鋭部隊の指揮官に贈るものとして遜色ないだろう。宝飾品でやや高価ではあるが、指環を買ったからといって明日から一文無しということもない。
しかし指揮官の指に宝石のついた指輪が嵌っている姿がクロムには想像ができず、クロムは少し考え込んだ。
指輪を傷付けないよう、クロムは細心の注意を払って、一つ一つ丁寧に摘み上げてデザインを確認する。最後の一つをヴェルヴェット地のリングピローに戻したところで、見守っていた初老の店員が声をかけた。
「よろしければ、奥から他のデザインもお持ちしましょうか?」
「……いえ。結構です」
「お決まりですか?」
「……ええ。ご提案、ありがとうございます」
「そちらですね! きっと、お相手も喜んでくださいますよ!」
にこにこと微笑む女性店員に釣られる形で、クロムも微笑む。選んだ指輪を指の腹で撫で、指揮官の指に通す瞬間を脳裏に描いた。
◆◆
指揮官から「埋め合わせ」に関するメッセージがクロムに届いたのは、緊急任務を告げる連絡から三週間後だった。今進行中の作戦が無事に進めば月末には帰れる、会いたい。会えないだろうか? と短く綴られた文面に、指揮官の本音が垣間見えた。
連絡自体が久しぶりというわけではない。任務先からでも、指揮官はクロムへ定時連絡を欠かさなかった。だが、帰還の目処が立たないうちは、クロムに余計な心配をかけさせたくないと指揮官は思ったのだろう。了解の旨を返し、クロムは座っていたオフィスチェアから立ち上がった。
クロム専用事務処理デスクと化している、その一番上の引き出し奥にしまい込んでいた封筒を、クロムは丁寧に取り出す。
封筒に収められていた婚約指輪のオーダー用紙には、クロムが選んだ指輪の種類と、二人の指のサイズ、引き渡し予定日が記載されていた。指揮官が戻ってくる月末には、渡すことが叶いそうだ。
「……喜んでいただけたら良いのだが」
後日、クロムから贈られた指環を愛おしげに見つめていた指揮官が、共に捧げられた言葉に頷きながら涙したことは、クロムと指揮官だけの秘密である。
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