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さもゆ
2024-11-16 22:14:08
45599文字
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【ザプレオ】Nobody knows
モブがレオくんに迫るのをモブレオと呼べるなら、これは7割モブレオです。
※名前のあるモブあり
※義眼とかに捏造あり
※時系列は10巻からB2Bの間くらい
※ザプレオできてない
※ちょっとの流血表現注意
2020.4.2 たまごのお粥pixiv投稿作品
アムギーネの中でライブラの知らない構成員と一緒になることはわりとある。
そりゃそうだ。いくら秘密結社特有の空間移転暗号術式回路といえど、平たくいえばちょっとびっくりするエレベータだ。使用者は構成員の数だけいるし、扉を閉める間際にちょっと待って俺も俺もと駆け込んでくる場合だってある。そうして同乗した構成員が、必ずしも全ての情報を知っているわけではないということも、もちろん当然のことだろう。
ところでその使用者の一人であるレオナルド・ウォッチは今、知らない構成員にアムギーネの中で迫られている。
迫られているというより、隅に追い詰められているというか、腕を壁につき囲いこまれているというか、まあつまり、やはり端的に表現すると──迫られている。
同乗はたまたまだった。
変則的に変わるライブラへの入口に辿り着き、あっもしかしてあなたも? どうぞお先に、と手を差し出すタイミングが同じで、あははではお言葉に甘えて、と愛想笑いも一緒に乗り込んだ。歓迎会やら打ち上げやらで見たことがあるような男だったが、レオナルドはその男のことを知らなかった。
男の方はそうでもなかったようで、ねえきみって、レオナルド・ウォッチだよな、と密室空間にはよくある気まずい空気でないと聞こえないような小さな声で訊ねてきた。それが始まりだった。
今日はアムギーネの揺れが一段と激しいような気がする。
それに道のりも長い。
組み替えられた空間が安全である率が低いのかもしれない。箱がどう移動しようか惑っている気配がする。
レオナルド・ウォッチだよな。そ、そうです。答えてからまだ十秒と経たないうちに一角に追い詰められているのだが、いつもならあと数秒もすれば到着するはずである。
「あ、あ、あの」
と声を発したのが数秒で、箱はまだ到着することなくガクンと右に曲がった。僅かな遠心力で身体が左の壁に張りつく。
「
……
ええと、僕になんの御用でしょう」
この体勢で相手の用を訊くのは少し怖かった。
伊達にこの街で生きながらえていないから、こういう、逃げ場のない場所にわけも分からず追い詰められて金銭かすわこの身体の危機かという事態は結構経験してきたけれど。
こんな、つい義眼で確認した限りヒューマーに見える年上の男に、暴力もなく、ただ隅に追いやられ、柔和に見下ろされる事態は、さすがに初めてで困惑する。
街中ならすぐに大声を出すか隙をついて逃げようかと足掻くが、だってここはライブラ専用の密室空間なのだ。
街中よりよほど安全な場所のはずだろう。
その証拠に、最初から男からは敵意や悪意といったものは一切感じていない。色素の薄いブラウンの瞳は穏やかで、けれど何かきらきら光る感情が潜んでいる。
明確な悪意をぶつけられるのと同じくらい、よく分からない、というのは、少しの恐怖を覚えさせる。
レオナルドの上司の一人、スティーブン・A・スターフェイズよりは年下かと思われる男は、御用っていうか、と妙に上擦った声で言った。
「
……
ごめんな、驚かせて、突然。用はないんだ」
腕は相変わらず囲っているが、落ち着いた声音は言葉にともなって申し訳なさそうだった。それにちょっと安心して、はあ、じゃあちょっと、離れてくれませんか、と言おうとしたが、男が続けて口を開いたので反射的に噤んでしまう。男はやけに嬉しそうに笑った。
「
……
いや、用はないんだけど、きみにちょっと、興味があって」
レオナルドは糸目と糸目の間に皺を寄せた。普段表情の乏しい人狼の彼女に見られていたら、ヘンな顔、と微かおかしそうに笑われるだろう顔つきのまま、ぴたりと背中を壁にくっつけた。
それを見ていた男が、あっいや違くて、と慌てて言い募る。
「興味って、そーいう意味じゃなくて。ほんとさ。ってこの体勢じゃ説得力ないか、ああごめん、離れるよ。ごめん」
ようやく腕がどいたが、片方だけだった。もう片方は、離すか離さないか迷うように揺れたあと、ごめん話がしたい、逃げられたくないんだ、と馬鹿正直な言葉とともにそのままになった。
ガタン、箱が揺れる。振り回されるスピードが緩まり、もうすぐで到着の兆しを知らせ、そしてレオナルドは囲いが解けた方の左側に視線をやってから、再び男を見上げた。
「は、話って、なんの話ですか」
なんとなく、男は喋りが得意じゃないのだろうなと思った。
レオナルドは気づかなかったが、それは違和感を無理やりに都合良く納得させたに違いなく、更には距離感は自分を基準にしているだけで他人の基準ではないしな、とさえも考えついた。自分にとってはおかしな接し方だが、男にとってはこれが精一杯なのかもしれない。
そういう思考は美徳でもあり、状況によっては愚かでもあるのだが、それを指摘してくれる者は二人きりの箱の中にはいないのだ。
唐突な状況に奇妙さを感じても、ここがもうすぐ目的地に着くライブラの箱の中であることと、男がライブラ構成員であること、義眼の力ともとからの空気読みの力で危険を感じないことが、レオナルドから逃走意思と危機感を失わせた。
「
……
きみは、俺のこと知らないんだろうけど」
男が照れたように眉尻を下げる。レオナルドは何度かお見かけしたことありますよ、と見上げて言った。男がほんと? と嬉しそうに破顔する。
「俺、末端の調査員だから。認識はされてないと思ってた」
「いやあ、僕も似たようなもんっすよ」
「そんなことないだろ。目立つよ、とても」
へらりと笑ってそーですか? と返すと、そーだよ、となんの躊躇いもなく男が手を伸ばしてレオナルドの目元に指で触れた。エッと思う。この触れ合いはいくらなんでも近すぎじゃないか?
……
でもここは、と思い直す。ヘルサレムズ・ロットだ。
「
……
話がしたい。きみに興味がある」
ガタンッ、一際大きな揺れを最後に、箱が止まった。針が到着を示し、開けなければならない扉は男の後ろにある扉だったので、そちらに視線を向ける。目元の指がまつ毛をくすぐってきて、またそちらへと目を戻す。色素の薄い瞳が、うっそり囁いた。
「神々の義眼。
……
この眼窩に嵌ってるって、ほんと?」
指の腹がぐっと下瞼を押した瞬間、何かを考えるより先に男の手を振り払い扉に駆け寄っていた。
開け放ち飛び出したところで誰かと衝突する。誰かがどの人物か、その白と黒の相反した色を認めすぐに察し、彼の腰に縋りついた。咄嗟の、現場において味方の攻撃に巻き込まれないよう会得した一番安全な動作は、縋りつかれた本人にとっては迷惑以外の何物でもない。案の定ぶつかったこととしがみついたことに罵声を上げかけた彼に、ザップさん、と呼びかけ、エレベータから離れるように服を引っ張る。葉巻のにおいが鼻を突き、知らず張っていた気が緩んで声が震えた。
「ざ、ザップさん、ザップさん」
「おいなんだ陰毛頭コノヤロウ、俺がその辺のチンピラなら盛大に慰謝料──」そこで言葉を途切らせ、チンピラな先輩ザップ・レンフロは後輩のだぶついた服の背中部分を掴む。「
……
どうした」
彼が真剣になるほどレオナルドは怯えていたのだが、その自覚がなかったレオナルドは咄嗟に飛び出してからの行動全てが不思議に満ち、ただええとと口をもだつかせることしかできずにいた。
そうこうしている間に箱の中から男が出てくる。ザップはなんだと身構え、後輩を後ろに庇う仕草をしたものの、あ、と声を上げて意図的に構えるのをやめた。知っている男だ。直接の関わりはないが、名前と顔を知り得ている。それも、つい先ほど、資料として目を通した。
男はザップにどうもと言うと、隠れているレオナルドにごめんと謝った。
「本当にごめん。怖がらせるつもりはなくて。ずっときみのこと見てたから、偶然会えたのが嬉しくて、興奮したみたいで」
レオナルドの顔が引き攣る。男は慌ててまたごめんと謝ってくる。
「あー、ほんと、なんか誤解を招く言い方だった。ごめんね。あの、じゃあ
……
俺、行くから」
男はレオナルドにどうか忘れて、と告げると、ザップに気まずげに会釈して廊下を歩いて行く。執務室の方向だ。そこの大きな扉に消えたあと、レオナルドははあと深く息を吐いた。そこでようやく自分がかなり緊張していたことを知り、怖かった、と自覚した。
「
……
オメー、」
縋っていたザップが見下ろしてくる。
「あいつに口説かれてたんか」
真顔が一転して下卑た笑みを浮かべた途端、レオナルドはなぜか真に安堵して違いますよ! と叫んだ。たぶん! とつけ加えてしまう。ザップがハッとからかいを乗せて笑う。
「ありゃどー聞いても口説き文句だぜ、レオナルドくん」
呼び方にまぁまだマシだなと眉を寄せつつ、やめてくださいよと首を振る。
「
……
確かに客観的に見たら俺もそう思いますけど、ほんと違いますって。っていうか誰なんですかあの人、名前知らないんですけど」
「エリオット。エリオット・ターナー。まー末端だな。戦闘員じゃねえ」
「知ってるんですか」
「お前、あいつになんかされたの?」
「えっ」
目元をなぞっていった指先の感触を思い出したし、それから逃げたくせに、『なんかされた』と言うには弱い気がして言い淀む。
別になんにも、と返したレオナルドに、ザップはそーかと腰に回していた腕をひっぺがし、なんもねーならいいけどよ、と言った。珍しく慮る口振りに、ザップさんと呼んで感動しかけるも、先輩がまあと続けた。
「カワイー後輩が職場のエレベータん中で犯されてたら、さすがにトラウマもんだからな。俺が」
だからそーいうんじゃないんですって、ってかアンタより俺がトラウマだわそんなん、全部まとめて「サイッテー!」わっと叫んだ。
執務室に入るとエリオットの姿はなく、あからさまにほっとしたレオナルドを上司二人は訝しんだようだった。とことこと部屋にやって来たレオナルドに、どうかしたのかね、とクラウス・V・ラインヘルツが執務机から訊ねてくる。中ほどまで進みながら、きょろきょろと辺りを見渡しいえあの、と答え立ち止まった。
「さっき、男の人が来ませんでした? スティーブンさんくらいの歳の、エリオットさんていう
……
」
「彼なら資料室だよ。ちょっと用事を頼んでね」と返したのはスティーブンで、彼は自分の執務机から離れると、真ん中に立ち惚けていたレオナルドにどうかした? と訊きながらクラウスの傍らに立った。二人が一緒になってくれたおかげで、またとことこと歩いてクラウスの机前まで行く。二人の机は離れているため、上司たちと会話するのは同時に顔が見える部屋の真ん中になりがちなのである。一緒にいてくれた方が有難いし、この二人が揃っていることでレオナルドは密かに安心していた。
「そのう、さっきエレベータで一緒になりまして」
「ああ、彼も言ってたな。なんか後悔してるみたいだったけど」
スティーブンは資料室の方向へ目を向けたあと、困ったような眼差しを向けてきた。「許してやってくれ。
……
口下手なんだ」
言葉選びは確かに下手だったな、と思う。
「エリオットさんは、ライブラに所属して長いんですか」
「二年ほどかな」クラウスが懐かしむように眼鏡の奥の翠を細めた。「彼は
……
、きみと一緒だ。レオナルド」
「僕?」
「ああ。もとからライブラを探していてね。我々を見つけ出し、ここへ入った」
「
……
どうしてライブラを」
疑問に、リーダは痛みを堪える顔をする。訊いてはいけないことだったかと眉を下げたレオナルドに、クラウスの肩を叩いたスティーブンが口を開く。
「エリオット・ターナー。彼は大崩落の時、唯一の家族である弟を亡くしている。
……
自分のような思いをほかにはさせまいと、彼は均衡を守るライブラに所属した。いい兄さんだよ」きみと一緒だ、と呟いた。
クラウスが大きく頷いて応える。レオナルドは資料室の方へ目をやり、上司二人に戻して、そうなんですか、とまつ毛を震わせた。たった一人の家族を喪って。
それであんなふうに色素の薄い瞳を細めて笑えるまで、一体どれくらいの時間を要したのだろう。
まだ三年しか経っていない。レオナルドは心臓が痛くなった。この街にいたら、死者を悼む時間も充分にとれないのではないか、と思った。そして彼は弟を想って秘密結社に。
構成員の数だけ事情が存在する。それら全てに心を砕いてはいられない。けれど今だけは心をつきつき痛ませていた。
その感情はひどく大事でもあり、誰かによっては疎ましいものだったが、レオナルドの糸目を見下ろしていたスティーブンはそれを大事と感じる者の一人だった。クラウスの肩を叩き、そんな顔をするなって、と言い仕方なさそうに笑う。
「少年、エリオットは数日事務所漬けだから、話し相手になってやってくれ。な、クラウス」
「ああ。彼もきっと喜ぶ」
真摯に頷かれ、レオナルドははいと頷き返した。
構成員のどれだけがレオナルドの義眼について知っているのかを訊きそびれた、と気づいたのは、スティーブンにザップとともに見回りに行ってくれと頼まれ、執務室をあとにしてからだった。自分で閉めた扉を振り返り、まあ大丈夫かな、と思う。いまいち、分からない。
自分が構成員たちにどういうふうに伝わり、どこまでを把握され、そして自分は彼らをどこまで知っているのか。
彼は義眼のことを知っていた。何度か見かけたこともある。末端の人員だと言っていたが、末端にそれを知られているということは、ライブラ全体に周知されているということだろうか。歓迎会で対面したメンバーが全構成員ではないことは言われていたが、でも。
あんまり、義眼の存在って、知られない方がいいんじゃないのか。
……
厄介度的に。
……
それって、
……
ライブラ内から義眼をつけ狙う輩が出るって思ってることにならないか?
まさか! レオナルドは頭を振る。そんなこと、あるはずがない。だって自分はライブラが好きだ。好きで、信じている。
……
だからといって。
向こうも同じとは、限らない、けれど。
「何一人で百面相してんだ。今度の飲み会での予行練習か、それ」
アムギーネの前には不機嫌そうに壁にもたれているザップがいた。
「ザップさん」
驚いて駆け寄ると、彼は扉を開けて箱に乗り込む。それに慌てて着いて行きながら、閉まる扉を背になんでまだここにいるんすか、と首を傾げる。てっきりあのまま先に見回りに行ったのかと思っていた。
「なんでって、おめー俺と見回りだろうが」
はあ、と答える。疑問がもたげる。「
……
それ、なんでさっき会った時に教えてくれなかったんすか」
「番頭に呼ばれてたんだろ」お前が。ザップは面倒くさそうにポケットに手を突っ込んで言った。
「
……
それはそーですけど」でもその呼ばれた内容、あんたと一緒に見回りに行けってことだったんですけど。
スティーブンさんがそんな二度手間をさせるわけがない。ってことは、単にこの人が言い忘れてたか、面倒くさかったか、たぶん後者だろうな。
しかしわざと言わずに、先にも行かずに、廊下でレオナルドを待っていたのは、何かおかしい気がする。というより、絶対におかしい。「
……
僕のこと待っててくれたんですか?」不審を持って訊いてしまったのは、普段の彼がこうではないと悲しいかな、慣れきってしまっているからだ。
こちらの言い方に、怒るかなと少し後悔するも、彼は丸めた背を壁に預け「ンなわけねーだろ、自意識過剰かナードちゃんめ」べっ、嫌そうに舌を出した。
……
なんだかその反応も。
どことなく、おかしな気も。
まさかとは思うが。
ひょっとすると。
……
心配、して、待っててくれたとか。
今思うと、エリオットに対して必要以上に怯えていたと思う。そんな後輩をちょっとだけ放っておけないとか、思ったりなんか、しちゃったり、
……
するかなあ、この人が。
「オイてめぇ今失礼なこと考えただろ。顔がうるせえ」
「そんなことねーっす。なんすか顔がうるさいって」普段は糸目すぎてこけしみたいだと言ってくるくせに。(
……
日本の伝統的な、目が細い人形らしい。後輩のツェッド・オブライエンが教えてくれたし、スマホでも調べたが、レオくんの方が普通に愛嬌がありますよと言ってくれたので安心した。控えめに言ってもあの人形に似てると思われるのはちょっと嫌だ。
……
それにしても、斗流の二人は妙なところで分かり合っているのが微笑ましいが、レオナルドはちょっと疎外感を覚えてしまったりもする)
……
ガタン、箱が揺れる。
ザップは葉巻を取り出すと、火を点けずに口に咥え、器用に「さっきもうるさかったしよ」と続けた。
「さっきですか」
「おー。マジであいつに襲われかけたんかと思ったわ」
「あれは僕が、かなり、
……
過剰な反応しちゃいました」
目元をなぞる。色素の薄い瞳が瞬くのを思い起こし、あの感情は、と思案する。
……
好奇心、興味、
……
期待? なんの。ブラッド・ブリードに対抗できる術としての。そうだ、ああいう瞳はここに来てから何度か向けられたことがある。別段珍しくはない。
なのにどうして、あんなに怖いと思ったのだろう。
「ザップさん、僕がこの目であることって、どれくらいの人が知ってるんですかね」
彼は方眉を跳ね上げた。「さーな。そういうのは旦那か番頭が管理してんだろうよ」
「そう
……
ですよね」何せ外部に漏れたらまずい機密情報だ。ではやはり、そんな情報を知っているエリオットは生粋のライブラの人間ということになる。
……
生粋じゃないライブラの人間が、どういうふうに生粋じゃないのかは、上手く想像できないけれど。「
……
エリオットさんの弟さん、いくつくらいだったんでしょうね」もしも。
自分の妹ミシェーラが、理不尽に、あっけなく、わけも分からぬうちに、死んでしまったら。
レオナルドは絶対に立ち直れない。
「レオ」
ザップが面倒くさそうに口を開く。「誰から聞いた、それ」
「それ?」
「弟がいたって」
「
……
クラウスさんとスティーブンさんから。む、無理に訊いたんじゃないですよ」
「わーってる」ひどく怠そうに小麦色の目を向けてきたため、なんですかとたじろぐと、預けていた背を壁から離し近づいてくる。ちょうどアムギーネが止まり、先輩が目の前に来たのは外へ出るためだと察したレオナルドは、自分も出るのに、なぜか扉から離れた。たぶんそういう空気だったからだ。脇を擦り抜けたザップが扉に手をかけ開ける。
「俺はお前よりスターフェイズさんを知ってる」
開けざまに落とされた言葉に、へ、と間抜けな声を漏らす。
しかしザップはすたすたと歩いて行ってしまう。「今日魚類いねーんだから諸々自己責任で生き残れよ」いやツェッドさんいてもアンタ基本そのスタンスじゃん。瞬時に浮かんだ突っ込みは言えなかった。代わりに、何倍も遅れた処理能力が、やっぱり理解に苦しんだ挙句の疑問を発してしまう。
「なんで急に
……
自慢されたんすか俺
……
」
……
ザップさんなんだかんだお二人のこと敬ってるの、ちゃんと分かってますよ僕。
言うと、とっくに先に行っていたザップが、ちげーわ馬鹿と叫んで空き缶を血法で投げてきた。
額に命中した。
エリオット・ターナー。
三十歳、男。
茶髪に、同じく茶色の色素の薄い瞳。
三年前の紐育大崩落時、唯一の肉親、弟のヴィクターを亡くし天涯孤独。
現在、ライブラの一構成員。
レオナルドが彼について知っていることといえばそれくらいだった。
数日前までは顔だけしか知らなかったのだから、わりと『それくらい』ではない量の情報だとは思う。ちなみに、年齢と彼の弟の名前を教えてくれたのは、何を隠そう、エリオット本人である。
そう。
レオナルドはエリオットと話をするようになった。エレベータの中で彼が言った「話がしたい」というのはつまりそういうことで、あの日の翌日、使われていない資料室整理の手伝いをスティーブンに言いつけられ部屋に入ると、エリオットが悪いねと謝って昨日のことも本当にごめんと更に謝ってくれたから、レオナルドは大いに慌てて首を振った。
いえいえそんな、僕もその、すみませんでした。資料整理のお手伝い頼まれたんですけど、あ、これ、ここですか?
あ、うん。それはそっちに。
……
これを頼まれるってことは、戦闘員じゃないんだね、やっぱり。そう納得するように言われた時、つい動きを止めてしまった。相手はそれを気を悪くしたかと捉えたらしい、また慌てて謝られ、レオナルドはそんな謝らないでくださいと糸目の端を掻いて述べる。
……
なんか、僕ばかり知られてるみたいで、その、
……
不安といいますか
……
。と正直に述べた。本当に言葉の通りの思いだったので、これもひょっとすると悪いふうに捉えられるかなと危ぶんだが、杞憂に終わることになる。
エリオットは屈託のない笑みを浮かべ、それもそうだよな、じゃあ、俺のことを知ってくれと大胆に言った。えっ? レオナルドが戸惑ったうちに、名前と年齢、そしてこれがスクールの自己紹介なら場が凍りつく、明らかに昨日今日会った相手には話さない、弟が死んだことを教えてくれたのである。
それからまた、話がしたい、と言われた。
嫌ですと言う理由は見つからなかったので──レオナルドは自他の心の機微に敏いが、いかんせん義眼のように『何かがある』と気づきその何かが何であるかを見極めることは不得意だった。(義眼で見ても、この謎だらけの街では見た物事が何であるか分からないことが多々ありはする。常々思う。義眼は言うほど万能じゃない)──つまり、嫌ですと言う理由を見つけようとしたこと自体が重要だったのだが、深く考えずに「いいですよ」と答えてしまったあとにはもうそれに気づけっこなかった。資料室で同じ職場の人間と二人きり。お人好しで人懐こいレオナルドが話をしないわけがないのだ。
男はありがとうと返した。嬉しそうに茶色の瞳を垂れさせて。
だがその日はそれだけで終わることとなる。なぜかというと、資料室に放り込んできたスティーブンが急ぎ足で戻ってきて、「少年、悪いが緊急要請だ」と急ぎ足のままレオナルドを引っ立って行ったからだ。
……
余談。この上司に関して言えば。
スティーブンに関して言えば、『何かがある』と確実に分かってはいるものの、レオナルドにはそれをどうこうするつもりもなく、更に言えば自分にはどうこうできないものだろうと鋭敏に鈍臭く感じ取っているので、義眼を押しつけてきたあいつは本当に契約させた相手を間違えたとレオナルドは思っている。自分がもっと賢く、天才的で、野心を持ち、能力を生かせる才能を持っていた人間なら、今頃ライブラの秘密は全て曝け出されているだろう。なので高性能カメラを使いこなせていないことに、上位存在が少しでも苛々すればいい、と変に喧嘩を売ってさえもいた。
そういうレオナルドだからこそ、かの上司はこの部下をわりかし信用
……
かなり
……
信じているのだが、大概こういうのは本人たちより周囲が知っているものである。
たとえば、「レオナルドよりスティーブンを知っている」ザップとか。
ザップはクズだが、ライブラであることを誇りに思っているし、仕事だけは文句を言いつつもきちんと遂行しようとする。
ひどいチンピラじみているが、身内──ライブラ構成員──に対しては面倒見の良さを発揮したりもする。
家族のように思っているのかな、とレオナルドは思ったりもする。
……
家族のように。
ザップに血の繋がった家族がいるのかどうかも知らなかった。レオナルドは。
知らないことだらけなのだ。
「昨日は大丈夫だった?」
半ば倉庫と化している資料室の書架の隙間から顔を出したエリオットは、レオナルドの姿を認め開口一番そう言って心配そうに眉を下げた。いい人そうだな、と思う。実際いい人なのだろう。レオナルドにはそう見える。
ひょこひょこ、床にまで散らばっている本や段ボールを避けながらエリオットに近づいていく。「やー、昨日はすみません。手伝いに来たのに、すぐ出てっちゃって
……
」
エリオットはきょとんと茶色の瞳を丸くして、困り笑いを浮かべた。「きみのせいじゃないだろ。要請されたのって、ニュースになってた、ジャパニメーション実行隊の事件?」
「そーなんすよ。もうこの街自体がアニメみたいなもんなのに、奴らよりにもよって、ここを腐海にしようとしたんですよ。あ、知ってます?」
「火の七日間から始めようとしたんだ?」
「そーなんすよ!」レオナルドは激しく頷いた。本当に大変だったのだ! ジャパニメーションを妄信している組織の雄叫びと、ジャパニメーションを何も知らない上司たちの間に挟まれ、内容は知っているものの日本文化について中途半端な知識を持っているザップとツェッドとともに、あのアニメはこんなことに使われるような低俗なもんじゃなかったはずですと上司二人に先入観を植えつけないようにするのが! あの瞬間、世界が火に包まれないようにすることももちろん、おそらく小さな島国の名誉的な何かも守ったはずだ。終わってから、良かったこれで防毒面なしでも空気めいっぱい吸えますよ、つっても霧に塗れた空気だけど! ハハハ端っからここのきったねえ空気なしじゃ生きられねえ体になってたりしてな! 笑えませんよそれ。等三人で盛り上がっていると「なんか疎外感あるなあ。帰りレンタルビデオ屋寄るか?」「そうしよう、楽しそうだ。レオ、もう一度タイトルを教えて貰っても?」と上司二人は優秀な執事の運転で撤収して行ったから、決して努力は無駄じゃなかったと言える。だって今日事務所に来て一番最初に言われた言葉が「キツネリスってどこの異界に行けばいるかな」「腐海とはとても興味深いものだった」だもの。(ザップは彼らに漫画の方を勧めていた。鬼だ。レオナルドは以前まんまと勧められるままに読了して心に深い傷を負った。ツェッドに慰められた)
思い出して疲れた顔をするレオナルドに、エリオットも歩み寄って「お疲れさま」と言ってくれる。クラウスより年上で、スティーブンより年下なエリオットは、ザップやツェッドとも違う、普通な人間に見える。レオナルド寄り、という意味だ。親しみやすさがある。
「エリオットさんはアニメとかゲームとか知ってるんですね」
「ああ。わりと好きなんだ」弟の影響だよ、とつけ加え、ハーフダイブのやつとかずっと新作待ってる、と言った。
レオナルドは久しぶりに他人の口から聞いたそれにウッと声を漏らし、それ俺も大好きなやつなんです、と心情とは裏腹に静かに言った。大好きなんてもんじゃなかったからだ。悲鳴を上げて飛び跳ねて喚き回りたいくらいに推しているゲームだった。まさか部屋内で転げ回るわけにいかない。
分かる、そろそろ四年経つもんね、しみじみ漏らしたエリオットは、そこでふと手を伸ばすとレオナルドの頬に当てた。
びくり、固まる。
「
……
怪我はなかった?」
「は、はい?」声が変なところで引っ掛かった。
「昨日ので。見たところ、ないみたいだけど
……
」
「あ、はい。打ち身くらいで、大したものは」
「そう。良かった」柔和に笑って肩を叩く。「血を流さないのが一番だよ。きみに何かあったらと思うと、ちょっと気が気じゃない」そうして離れていき、書架の裏に着くと、そこの箱の中にある資料を選別してくれると助かる、と手指で示した。
「りょ、了解です」
棚で見えなくなったエリオットに返事をし、言われた通りに行動する。埃が舞った。
なんか。
……
なんだろう。
やっぱり、いや、でもいい人だと思うし。
でもどこか、おかしな感じがする。
独特なだけだろうか。
ちらりと彼の方へ視線をやる。
「エリオットさんは、」逡巡したのち、ええいままよと続けた。「僕じゃなく、義眼に興味があるんですか」
単刀直入だった。
けれども、レオナルドにとってそれは一番納得できて、そして一番有り得ることなのだ。
エリオットはひょこりと顔を覗かせると、困ったように笑った。『お兄ちゃん』の笑みで口を開く。
「それってどう違うの?」
今度はレオナルドが困り笑う番である。「ど、どうとは」
「義眼はきみのものだろう。きみに興味があるって言うのと、義眼に興味があるって言うのは、どう違うのかと思って」
レオナルドは。
困惑した。
困惑したまま、「ちょっと
……
考えさせてください」と糸目と糸目の間に皺を寄せる。
こんなことを言われたのは初めてだぞ、と思う。
確かに、自分としては、もうこの目を抉り出してやりたいと絶望する期間は終わったし、終わらされた。もとよりレオナルドは寛容的で、順応性が高い。そして他者を正しく慮れる。レオナルドが必要以上の重責で心身ともに病むことは、誰より妹が許さないことを、正しく知っている。何せ十六年も兄妹をしているのだ、お互いのことはよく分かっているつもりだ。(だからこそ結婚を言い出した彼女に、言わなかったがかなり寂しくなったのだが)
この義眼を使いこなせてはいないが、以前よりうまくつき合っていることができている、と思っている。
第一、むやみやたらに使えば義眼の存在が仇となる吸血鬼に感知され、義眼もこの身も危うくなるという点もある。それだけは駄目だ。レオナルドが不当にこの目を奪われ死ねば、ミシェーラがどうなるか分からないのだから。
つまり自分は、有り体に言えば、くそったれ神々の義眼を受け入れている、ということになるだろう。
この目は貸借期間中だけは、自分のものだと思えるようになっている、かもしれない。
けれどそれを他人に言われるのは初めてだ。
大体の者は、レオナルド自身と、二つの丸い神工品を、別々のものとして考える。そして行き着くのは「義眼」の方への興味心のみ。そこにレオナルドの意思は関与しない。そりゃそうだろう。ちっぽけな人間より、高次元の神々が創られた球体の方が、人界的にも異界的にも価値がある。
ただしライブラは、レオナルドの意思と義眼の価値を均等にし、組織と個人、その両方を上手く両立してくれる、貴重で、珍妙で、奇天烈な、かけがえのない存在だから、「他人」の勘定には入らないものとしていた。だがそんな組織でも、面と向かってエリオットの言葉のように言ってくる者はいなかったのだ。
だからこの場合、返すべき言葉は、と考え、口開く。
「違う
……
くないんですかね、はい」
言ってしまってから、いややっぱり違くないか? と首を傾けた。「いや
……
いやでも、エリオットさん、僕の中身に興味あるんですか」明け透けな物言いはこの場に第三者がいれば誤解を受けそうだったが、ほかに言いようがなかった。
思い返してみても、彼はエレベータの中で会った時から、レオナルドの義眼に興味があるふうに感じる。
彼は薄茶の瞳を細めた。
「あるよ。レオナルド・ウォッチ。レオって呼んでいい?」
「どうぞ」
「レオ」
LEO、少し間延びするように、口に馴染ませるように呟いたあと、エリオットは窺うような視線を向けてくる。「きみって、十九歳なんだって?」
急になんだろう。「はい。そうですけど」
「僕の弟も十九だった」
「
……
ヴィクターさん」
「そう。十九で死んだ。きみよりは年相応に見える子だったけど」きみってわりと童顔だものな、おどけるように肩を竦め、ぎゅうと瞼を閉じると、「少し
……
嘘を言った」罪を自白する温度で言う。
「きみに、頼みたいことがある」
「
……
、なんですか」
「きみの義眼だけじゃ駄目なんだ」
エリオットは薄茶の瞳でレオナルドを見た。
「
……
俺の弟を、蘇らせてくれないか?」
ザップの機嫌が悪い。
とツェッドが気づけたのは同じ流派だからで、別にザップのことを気にかけていたからではない。
ただ非常に珍しいというか、らしくないなと思う。
このろくでなし先輩といえば喜怒哀楽の感情がそのまま立って歩いて喋って暴れているような人間だ。今のところ一番ここで過ごした期間が短いツェッドがそう思うのだから、おそらくその認識は間違いではないのだろう。
その感情にひどく素直な先輩は、同時に、隠したり誤魔化したり騙したりすることも上手いのだろうと、ツェッドは思っている。
普段はそんな素振りはないが、こと仕事や咄嗟の判断、窮地に陥ったりすると、ツェッドにはできない『演技』をすることがある。
……
その演技をもっと私情、特に女性関係に上手く使えば、彼は刺されることはないのではないかと思ったりもするけれど。
とにかく、ザップの機嫌が悪ければ、それが仕事ではない限り、誰でも気づくことのできるものなのに。
だというのにどうやらツェッドしか気づいていない。
というか、たぶん、ツェッドにしか気づけない、機嫌の悪さの隠し方をしている。
潜入任務でも仰せつかったのかと思ったが、それにしてはここのところずっとツーマンセル続きだし、たとえ別の時間で潜入任務をしていても、関係のないツェッドといる時は悪い機嫌を隠さずに愚痴を吐きそうなものだ。
どうしたもんかなあ、と思う。
思うものの、どうもできないんだろうなあと溜め息を吐きたくなる。
ツェッドには少しだけ、先輩の機嫌が悪い心当たりがある。それを口にするととんでもなく面倒な反応が返ってきそうだから、絶対に口にして確かめたりなんかはしないと決めている。でもちょっと、自分もつまんないなと思っているらしかった。
というのも、ここのところ、ツェッドの優しい方の先輩、レオナルドとあまり会えていない。もちろん義眼を必要とする現場では一緒になるが、そういう事件が早々起こるわけでもなく。彼はいつもライブラのほかにバイトで忙しくしているが、それでも昼食は一緒にとったり、事務所で駄弁る時間はあったのに。
最近彼は資料室につきっきりだった。
それが面白くないのだろう。ザップはよくレオナルドを虐めては楽しんでいるが、あれは普通にレオナルドを気に入っているのだ。(と分かってはいてもツェッドは全面的にレオナルドの味方なのでザップを援護することはない)
らしくない。
そういう機嫌の悪さなら、こんな完璧に隠すような真似、ザップがするとは思えない。
火が燃えている。
彼の血液から轟々と音を立て、火花を散らし、ツェッドの風に舞い上がって霧を舐る。
こうして同じ任務に出かけ、更には同じ師のもとで修業していなければ決して気づけない。
……
機嫌が悪いなあ、と思う。
「
……
レオくん早く戻ってこないかな」
思わずぼそりと呟いてしまうくらい。
「あ? なんか言ったか魚類」
しかも、素行はちっとも機嫌の悪さを表さず、普段通りというのが余計にたちが悪い。
「いーえ、何も」
……
師匠と同じなんだもんなあ、ツェッドは辟易して首を振った。
密かに機嫌を悪くしている時、カグツチの炎が時折、見逃しそうなほど微かに青く爆ぜる。
何かに対して、すこぶる機嫌が悪い。
それはそういう、ツェッドしか知らない合図だった。
──瞼をゆっくり持ち上げる時、いつでも緊張してしまう。
勢いよく開けるのはそこまで気構えない。徐々に開ける時、相手は自分の目を見ているのがまざまざ分かるから、得意ではなかった。
奇異なものを見る目、畏怖に好奇心、そんな目で見られるのは、自分も分かるから別にいいけれど。
「エリオットさん」
彼のように、慈しむような目で見られるのは、あんまりにも、
……
変だ。
「ごめん。何度見ても、綺麗だなって思ってしまう」
率直すぎる台詞に慣れてきたレオナルドは、何度も口にしているそんないいもんじゃないっすよという言葉を適当に返して、額がくっつきそうな位置にあるエリオットの瞳を見上げた。
義眼から、青い幾何学模様が浮かび上がる。
薄茶が星の輝きを映す。きらきら、きら。美しく、不穏な青い輝きに照らされた彼の目は、レオナルドではなく弟のヴィクターを見ている。思い起こしている。
記憶の小部屋に入らせて貰い、丁寧に物色し、選び取り、彼の弟の姿をこの目に焼きつかす。
過去視で見る彼の弟は、兄とは違い黒髪で、青い瞳を持っていた。
十九歳の彼は、確かにレオナルドより大人びた顔をしていて、記憶の中で快活に笑っている。
幸せそうな記憶しか、見ないようにしていた。
「じゃあ
……
いきますね」
「うん」
エリオットから距離を取り、自分と彼の目を支配したまま虚像を生み出す。
二人の前、像はノイズがかかり、ぶれ、じりじりと周囲との境界を明瞭にさせ、それはやがて人の形を取った。レオナルドより背が高く、エリオットより背が低い。
一度瞬く。ここまでは、この数日で上手くできるようになった。ここからだ。
平面では駄目だ。鏡ではいけない。生きた人間。立体。骨があり、血が通い、肉がつき、皮膚が覆う、生きている温かな人間──自分たちと同じ三次元で生きる、兄の記憶の中の弟、ヴィクターでないと。
「ああ
……
」
エリオットが吐息を漏らす。レオナルドの額からは汗が伝った。
二人の前には、エリオットの弟、三年前の大崩落で亡くなったヴィクター・ターナーが、快活な笑みを浮かべて佇んでいた。
資料室の整理手伝いを頼まれ、エリオットと話すようになってから既に五日は経過している。
──俺の弟を、蘇らせてくれないか?
この言葉を落とされた時、レオナルドはゾッとしてクラウスを呼ぼうかと踵を返しかけた。
脳裏に過るは、まだ記憶に新しい、ガミモヅ事件。
死んだ者を生きているように見せかける幻覚。
一度は切り落とされた指が鈍く痛みを放ち、それこそ幻だと言い聞かせる。幻肢痛でもあるまいし。
今にも部屋を出ていきそうな素振りを見せたレオナルドに、しかし、エリオットは焦燥することもなく静かに言い募った。
「神々の義眼は、幻を見せることができるんだろう。こんなこと、意味がないのは分かってる。でも
……
どうしても、また、生きてる弟を
……
この目で見たい」
ビデオや、写真じゃ駄目なんだ。
肉眼で、同じ場所に立つあいつの姿を、また見ることができれば。
静かに、深い哀しみを湛えた声で言われ、そして閉じた瞼に涙が滲むのを見て、レオナルドは指よりよっぽど痛み出した心臓を押さえ、分かりましたと。
答えていた。
幻覚のヴィクターは瞬きもせずそこに突っ立っている。
時々映像がぶれる。生きているように、とはいかないかもしれないが、五日前に比べれば大いに人間に見えた。五日前は、人の形すら保てなかったのだ。
吐息を漏らしたきりのエリオットは、レオナルドから離れると、心ここにあらずといった様子で弟の傍に近寄った。目の前に立ち、手を伸ばし、触れたらたぶん消えてしまいますと忠告するより先に、伸ばした手を下ろす。
静寂が流れる。
動かすことは、まだ、できそうになかった。
義眼に熱はこもっていない。だが嫌な汗が流れていく。
それは死者を幻でも生きている者の目に蘇らせてしまう、恐怖からくるもののようだった。冒涜している気分になっているのかもしれない。
レオナルドの力では全然「蘇らせる」ことにはなっていないし、ビデオや人界のAIの方がよほど本人らしく出現させられるだろうが。
きっとこの力は、使いこなせれば、誰より、何より、死者を生者らしく見せることができてしまう。あの神々の義肢を集めていた男のように。
「っ、エリオットさん、そろそろ」
レオナルドがそう言うと、エリオットはうんと頷いた。茶髪の後ろ姿を見ながら、二度、三度、瞬き。数秒瞼を閉ざす。残像、光、残像。
糸目で見ると、ヴィクターの姿はもう消えていた。
しばらく何もない空間を見ていたエリオットが振り返る。頬には涙の筋が蛍光灯で照らされ、薄茶はひっそりと濡れていた。
「ヴィクターは
……
」
口を開いたら喉が痙攣したのか、唾を飲み込み、涙を流し、嗚咽を堪えて弟を理不尽に亡くした兄が言う。
「あいつは、死んでいい人間じゃなかった」
レオナルドが何も返せずにいると、それで構わなかったのか更に続ける。
「十九歳だった、まだ若くて、きみと同じいい奴で、僕の自慢の弟で
……
」
資料整理の合間にたくさん話をしたから、ターナー兄弟のことを、レオナルドはもう知っている。
崩落前の紐育のどこで仕事をしていたとか、好きな食べ物は何かとか、喧嘩をした日の男兄弟ならではの最悪な空気とか、友人との雑多な付き合い方とか──。
彼は話がしたかったのだ。
唯一の家族についての、思い出を。
仲の良い兄弟だった。記憶の中のヴィクターは、兄に向かって本当に幸せそうに笑っていた。
「レオ
……
」
そっと震える腕が伸びてくる。崩れ落ちてしまいそうな体を支えるべくその手を取る。レオナルドより大きな身体は、縋りつくようにしてレオナルドに寄りかかり、言葉を落とした。
「あいつは死ぬべき人間じゃなかった、あいつは死ぬべきじゃ
……
僕が死ねば良かったんだ」
何も、言えない。
何も返せない。
知っているからといって、それは全てじゃない。全てだとしても、慰めが力にならない時だってある。
だからレオナルドはぎゅうと泣いている大人を抱きしめ、弟を亡くした兄の背中を撫で擦ることしか、できなかった。
自分の目にも涙が滲む。
二人きりの資料室には、かなしい色が、満ちている。
げっ、とあからさまに顔を歪められ、こちらもむっと眉間に皺を寄せる。
「
……
なんすか」
思ったよりむくれた声が出てしまったことを嫌悪する。泣いたあとに全く無関係な人間に八つ当たりとは、正真正銘にガキだ。嫌だ。
事務所のソファでこぢんまり座っているレオナルドの横に、げっという顔をしたくせにドカリと腰を下ろしたザップは、執務机の方を見てなぜか嫌そうに声を上げた。
「スターフェイズさんは」
「クラウスさんと会食に。朝に聞いたでしょ」
「覚えてねえ。何時間前だと思ってんだ」
「まだ十時間も経ってないでしょ。もーすぐ帰ってくると思いますけど。ツェッドさんは?」
「ほ、ん、や」何が楽しくてあんなとこ行くんだか、言ったザップは煤けた頬を手の甲で拭っている。
タオル持ってきましょうか、と立ち上がると、ついでに顔洗ってこいと言われ、アンタの方が顔洗った方がいいんじゃないですかねと返す。鼻で笑われる。「オメーより酷くねえ」
……
そんなに酷い顔をしているだろうか。レオナルドは大人しく給湯室へ足を運んだ。
わりと酷い顔だった。
ザップの隣に戻り、濡れたタオルを渡してから自分の顔もタオルで冷やす。泣いたことがバレバレな顔をしていた。これは確かに、げっと言いたくもなる。
「
……
任務、大変でしたか。怪我は?」
「ああ? 俺らがあんな雑魚にやられるわけねーだろが」
「そっすね」俺“ら”という表現につい笑顔になる。この兄弟子は弟弟子のことを心の中では認めているのだ。
タオルを目に押し当てながら、ふと鼻を啜る。鼻水が出そうだったのもだが、漂う香りを確認したかったのもあるだろう。それはザップの葉巻のにおいだった。
そういえば。
こうやって隣に座って話をするの、久しぶりだ。
最近はエリオットと話をすることが多かった。義眼で駆り出される事件が起こっていないことは喜ばしい。レオナルドとて命危うい現場に赴くよりは、資料整理や書類仕事の手伝いをしている方が、一般人的な性に合っている。資料室の仕分けされなければならない物の量は膨大だし、エリオットのこともどうにも放っておけないから、しばらくこれは続くだろうが。
でもやっぱり、この葉巻のにおいを嗅ぐと、自分はザップの傍にいるのが当然なのだなと、傲慢や自惚れに似た感覚を抱いてしまう。
……
安堵する。
なぜだろう。
クラウスの姿を見る時に感じる絶対的な安心とは異なるものだ。あそこまで強大で、清廉で、ともすれば神々しいものではない。それに姿を見て安心するのは、レオナルドが知っているライブラの者であれば大抵安心する。それが窮地な場合、自分は大丈夫だと、まだやれると思う。
けど一番。
ザップの傍と、葉巻のにおいと、煌めく炎が──、
……
なんなんだ。
……
傍にいたい、と、
……
思う。たぶん。
「そんでお前は何にメソメソしてたんだ」
不機嫌極まりない声音は唐突だった。
「
……
訊いちゃいます?」
「帰ろうかな。メリンダに呼ばれてる気がする」
「呼んでないです呼んでんのは俺です」
本当に帰ろうと腰を上げたザップの腕を掴み座り直させ、引き留めたのに中々次の言葉を発さないレオナルドの手を、鬱陶しそうに振り解いて「で?」と促す。「勿体ぶったとこでたかが知れてる。さっさと吐けや」ひどい言い方だと思う。けれどもだつく口を開かせるには充分だった。
「エリオットさんの、」
「オウ」
「弟さんの、ヴィクターさんが
……
死んで
……
」
「んなこたァとっくの前から知ってんだろーが」
「そ、
……
、でも、彼はまだ、これから先もずっと、悲しんでる」
月と同じ色の瞳が胡乱気に半分になる。「
……
そーだとして、オメーまで泣く道理はなんだっつってんだよ」
言ったら馬鹿にされる。どころか、なんだか不味い空気になる予感がする。
しかしさっきまで泣いていた心は相変わらずぐずついていたし、それに伴う口は止まってくれない。
「だ
……
って、つらい、でしょう。あの人は、たった一人の家族を、ある日突然喪って。三年経っても、ちっとも薄まらない悲しみ抱えて、後悔して、じ、自分が、死ねば良かったって、」
「
……
そりゃおめー、同情か」月に剣呑な光が宿る。
「ちがっ、」反射的に反論しかけ、ぐっと堪える。「
……
だって、気持ちが少しだけ、分かるんですよ。弟じゃないけど、僕には妹がいる。ザップさんも知ってるでしょう」声が上擦った。「ミシェーラ、あいつ、俺なんかよりよっぽどできたやつで、昔っから
……
足も
……
なんで俺じゃないんだろうって、思ってたのに。俺は目まで、
……
あの子から奪って、
…………
エリオットさんは、弟さんを死なせたことを、自分が代わりになれたらって、思ってる
……
」
言っている間に徐々に下がっていった頭は、言い終わったあと完全に項垂れていた。
引いていた涙がまた滲んでくる。横の気配はやがて、ハッと鼻で笑った。それはレオナルドの予感通りだった。
「そんじゃ結局、お前はあの男に自分の境遇重ねてメソメソしてたんか。同情じゃねーか。むしろそれより、たちわりぃぜ、レオ」
「
……
分かってます」
「分かってんならな、」
レオナルドは項垂れたまま、それを遮った。
「でもザップさんは、知らないじゃないですか」
「
……
なに?」
隣から苛立ちが雪崩れてくる。
自分でも支離滅裂っぽいなと思っている。
言い合いをしたいわけじゃない。話をしたがったのは自分だ、聞いて貰いたかったのも、それを悟らせたのも全部レオナルドだ。レオナルドの言葉に、ザップは正しく怒ってくれると知っていたから。
エリオットに同情している。
自分の過ちを重ねて見ている。
それを指摘し、罵ってくれると信じていたから。
……
でも。
知らないことだらけ、なのだ。
「ザップさんは、
……
エリオットさんたち兄弟のこと、何も知らないじゃないですか」
「性別と名前、年齢に家族構成、職場。
……
こんだけ知ってりゃ充分だろ」
「そんなこと、ないです。俺はもっと知ってます」
「そりゃお前が、」ザップはがりがりと白髪を掻いた。「
……
レオナルド、お前何が言いてェんだよ。端的に話せ」
レオナルドは口を開いた。「ザップさんは、エリオットさんのこと、何も知らない」
顔を上げ、白い睫毛に縁取られた両目を見上げる。「そんで、俺のことも、ほんとは全然知らないんだ」ぼろ、と涙が零れ落ちる。
「俺は
……
、ザップさんたちのことより、エリオットさんのこと、知ってるんですよ」
子どもみたいな泣き声混じりだった。
そう言われたザップは。
髪と同じ色の眉を寄せ、月の瞳を更に細めて、心底意味が分からない、という顔をした。
まあレオナルドでもそういう顔をするわな、と後になって反省した。
あのあと、心底意味が分からない顔をしたザップが何事かを言う前に、事務所の扉が開いてクラウスとスティーブンが帰ってきたのである。
ソファでメソついている少年と戸惑っている青年じゃあ、普段の二人を見ていなくたって明らかに泣かせたのは青年の方だなと思ってしまうだろう。
だからなークラウス、お前はもうちょっと小狡くなった方が組織のためだぜ、と疲れた顔で言いながら入ってきたスティーブンはそんな二人の姿を認めたのち、隣のリーダーを肩で小突いて「後輩を泣かすあーいうクズには直情的でいいんだ」と嘯いたので、ザップがわっと喚き声を上げた。スターフェイズさん何しれっと嘘ぶっこいてんですか!?
……
嘘じゃないだろう、お前また少年虐めてたのか。はーっ!? 俺が暇さえあればコイツ虐めてるみたいな言い方やめてくれます? つかマジで今回は違いますから! 大体ねぇもとを辿れば──ッ。
……
おいどーしたクラウス、胃が痛むのか? 全くきみはほんっとに繊細なやつだなあ、ギルベルトさん胃薬あります? ほらあるって。
……
というわけだ。スティーブンはニッコリ笑顔をこちらに向けた。何を喧嘩したか知らんが、クラウスの胃をこれ以上痛めてくれるなよ。
ええっ? レオナルドは一人置いてけぼりになって惑ったものの、ザップと一緒に引きつった声でハイと答えていた。喧嘩ではなかったが、あの微妙な空気はそれきりになったのだった。
そりゃあああいう顔をするくらい意味が分からなかっただろうなと後になって思う。
エリオットの話をしていたのに、最終的に要約すれば「僕はザップさんたちのことを知らない」となるのだ。
つまりはそういうことだった。
レオナルドは、いじけている。寂しく思っている。おかしな具合になっている。
エリオットのことは家族も出身もハイスクール時代のエピソードまで知っているのに、数日前に出会った彼よりうんと長い時間を過ごしてきたライブラのみんなのことは、その実何も知らないのだ。
今まで気にならないわけではなかった。
でもあまり、深く入り込んではいけないのだろうと、どこか一歩引いて見ていた。
訊いたら、それが本当かどうであれ、なんでも答えてくれるだろうとは思う。
けれど、でも、そういうことじゃない。
レオナルドはザップのことを何も知らないのに、どうして彼は自分を知っているんだ。
そんなのは簡単だ。
レオナルドが一般人だから。
でも、全てじゃないんだ、と幼い子の癇癪のように訴えたくなる。
ザップはレオナルドのことをよく知っているが、それは全てじゃない。
あの人は、俺があの人の傍にいたいことなんて。煙のにおいを吸って安心することなんて。
どうせ知らないんだから。
ヴィクター・ターナーの瞳は青く、勝ち気で、それがちょっとミシェーラにも似ているなと思ってしまったら、もう駄目だった。
彼は弟の話を、自分は妹の話を、二人きりの埃っぽい資料室で、陽の下で笑い合うように話し合う。時には雨のにおいのする話も、雪が降って切ない気持ちになるような話もした。
幻覚の方はあまり上達していない。
レオナルドはヴィクターの姿を幻視させる度に罪悪感に駆られていた。動かなくても、息をしていなくても、エリオットは幻覚の弟を瞳を潤ませて眺めている。
……
偽物なのに。その言葉が喉に引っ掛かり、こんなことはもうやめましょうと言いそうになる。写真や動画に残った弟を見る方が、きっといいはずです、と。
それでもそう言い出せないのは、やはり自分が彼の立場だったらと置き換えて考えてしまうからだ。両親はいない。頼れる親戚もおらず、年の離れた弟だけが人生の希望で、守るべき者だったエリオット。
それなのに弟のヴィクターは死んでしまった。
弟を亡くした傷は深く、塞がることもなく、きっと血が溢れ続けている。
自分の行動が、それを拭っているのか、更に傷口を抉っているのか、レオナルドには判断できない。
幻覚のヴィクターを見る彼の目は幸福に光っているが、それだけではない。それだけではないと気づいているのに、それが何かは分かっていない。エリオットにはまだ。
レオナルドに知らせていない何かがある。
「これ以上は、難しいかな」
だから何度目かの動かない幻覚を目の前にして、エリオットからそう言い出した時は、かろうじて顔に出さずに済んだが少々驚いた。
瞼を閉じ、一秒、二秒。幻覚を解いた視界、こちらを振り返ったエリオットは涙に暮れた目でレオナルドをじっと見ている。
エリオットさん、なぜかくっつきがちな唇では彼の名を呼び損ね、下手くそな発音を聞いた彼は「レオナルド」と逆に強く名前を呼んだ。
足の裏を床から引き剥がして、逃げ出したくなる。まただ、と思う。
時たまに、エリオットと対峙していると、どうしようもなく彼から離れたくなる。
それは彼とエレベータの中で出会った時から感じているれっきとした、感情より大切な本能の部類に仕分けされるのだが、エリオットの悲しみに同調しているレオナルドには衝動というものに突き動かされることがなかった。理性と感情が、逃げるべきでないと憐れんでいる。資料室の最奥、ここからは見えない扉の方へと目線をやってしまったのは、せめてもの本能の妥協からくるものであり、それに気づいたエリオットがもう一度、今度は愛称でレオと呼んでくる。
その親愛めいた呼び方に、張りつく唇をなんとかこじ開けてみせた。「な、なんですか」
「こんなこと、意味がないと思ってるだろ」
図星だ。図星だが、弟を亡くした兄にはイエスともノーとも返せない。「
……
エリオットさん」
「でも、違うよ。意味ならある。俺の心は確かに救われてる」
扉の方角から、足元、足元から彼へ。
移した視線の先、目いっぱい涙を溜めているエリオットはどこまでも穏やかに佇んでいる。
「ありがとう、レオ。きみのおかげだ」
「僕は、
……
僕は、何も」
「いいや」首を振る。「話を聞いてくれた。きみと話している間、きみに見させてもらっている間、弟は確かに生きていた
……
」ぱち、ぱち、瞬き。水滴が頬を伝い落ちていく。それを無造作に拭い、腕を広げて歩んでくる。
脚が動かない。
薄茶の瞳はきらきらと濡れている。
空気は吐いてしまいたいほど悲しみで満ちている。
なのに、エリオットの、最初レオナルドを見た時から変わらない光を湛えた双眸が、異質で、ちぐはぐ。
……
気味が悪いんだ、と思い至る。
腕が伸びてくる。囲い込まれる。見上げた瞳はレオナルドをしかと見下ろし、そして言う。
「なあ、レオ。
……
きみはその義眼のこと、どこまで知ってる?」
「
……
どこまで、って。
……
エリオットさん、」離してください、と半ば無意識に告げた。
エリオットは困ったふうに笑って、その返しは望んでいないとばかりに首を横に振る。レオナルドの背に回る腕に力がこもり、糸目を縁取るまつ毛が義眼を晒すまいと震え、開けてしまいたくなる瞼を堪えて彼を見つめ上げる。
「
……
話が、飛んでると思います。飛躍してる。エリオットさん。ヴィクターさんの幻覚は
……
」やめるんですか、と訊こうとしたが、一旦区切り、言い直す。「もう、やめるんですよね」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうして? ああ、これ以上は難しいかなって言ったから?」
「意味がないからです」
思い切って言ったつもりなのに、彼は眉一つ動かさなかった。
「意味ならあるよ。さっきも言ったけど、俺は救われてる」
「嘘だ」
レオナルドはよく分からないままに口走った。思考が、憶測が、推察が、口に追いついていない。「エリオットさん。あなたは何を望んでるんですか。この目に何を見てるんです」口を動かしている間に次から次へと頭から追い出された言葉が逃げ走っていく。「エリオットさん、」それをそのまま口から出した。「弟を亡くしたのは悲しい。でもだからって、わざわざこの目で幻を見たいのはどうしてですか、僕にある興味ってなんなんですか。たとえ僕を弟に重ねて見ても、声は誤魔化せない、動作はコピーできない、癖も好きな食べ物も思い出も、違うんですよ。
……
こんなのは、意味がない」
掠れた息を吐く。
「
……
死んだ人を蘇らせるなんて、できっこない」
できたのは、写真を立体にしたことだけ。
自分が何か恐ろしいことを言ったと気づいたのはエリオットが嬉しそうに笑ってからだった。
レオナルドは、エリオットがヴィクターを
蘇らせようとしている
・・・・・・・・・・
、と思っている。たった今自分が言ったことは、つまりそういうことだった。
冒涜している。
自分の両目に、その一端を担う眼球が埋まっている。
言い知れない予感と得体の知れない嫌悪に胃が引っ繰り返りそうになり、背に回された腕がどうにも怖くなってもがく。意外にも腕はあっけなく離され、勢い余ってよろめいたレオナルドはそのまま後ろに下がって距離を取った。笑んでいたエリオットはそんなレオナルドに大丈夫? と眉尻を下げて訊いてくる。大丈夫じゃない。こんなにも動揺しているのが自分だけという状態が信じられない。
何度か床の段ボールや工具入れに毛躓きながら壁際まで後退し、なんの気休めにもならないが首元のゴーグルを掴んで動こうとしない相手を見据える。エリオットは悲しそうだ。悲しそうで、困っていて、そして嬉しがっている。
「話が繋がるんだよ、レオ」
ここは資料室の最奥だった。書架に阻まれ、何度も目線をやった扉からは最も遠い、秘密の幻視会には打って付けの場所。入口からここまで整理をしていくには日数が足りなかったが、エリオットの弟思いを知るには充分で、その思惑を全て知るには不充分すぎた。
通路の真ん中にいるエリオットが、声も張らず、穏やかに言う。
「神々の義眼。きみはどこまで知ってる? 幻覚、透視、オーラ、諱名
……
およそ目に関することならなんでもできる。それくらい? それくらいだよな。きみが教えてくれたのは。まあ、そんなのは、大体の本や人の噂にのぼるもんだよ
……
」
どこか夢見がちな口調は、涙にとろけて光る瞳が伏せられたことにより、眠たげだった。だが不意に、彼は初めて苛立ったように足を揺らした。
「ガミモヅの件、俺は知ってるよ」
瞼がゆるりと上がる。色素の薄い瞳は、蛍光灯の明かりのせいだけではない仄暗さを孕んでおり、レオナルドは男の口から出た言葉もあってびくりと肩を跳ねさせる。
「
……
神々の義肢。目のほかに色々あるんだって、びっくりしなかった? 俺はしたよ。すごく興奮した。ずっと探してたんだ。
……
きみだってそうなはずだろ」
「
……
何を、言ってるんですか」
「きみは妹の視力を取り戻すために、義眼の情報を得るためにライブラに入った。情報が欲しかったはずだ」
「それは、」
「スターフェイズが苦労させられるわけだ。我らがリーダは愚かなことをした。自分たちにとっても有益になるチャンスを、あの拳で粉砕したんだから」
「あの人たちを馬鹿にするなッ!」
腹の底から沸き上がったのは怒りだった。カッと瞼を開き切り、幾何学模様が燐光を発する前に、しかしエリオットが右腕を突き出す。肘の関節が有り得ない方向に曲がり、皮膚が捲れ、骨が組み代わる歪な音がしたのは一瞬で、レオナルドは開いた瞼を痙攣させてその様を見ていた。──生体銃。
「視界混交、ってやつはしない方がいいぜ。暴発のもとになる」
『いい人』で『普通』に見えるエリオットが不格好で不躾な武器をレオナルドに向けている。
「
……
いつから、」喉が震え、まるで身を切るようなつらさを感じ、それが情けなくて義眼を向けた。「いつから、そんな、」
「“いつから”か。腕のことなら、昨日から。きみに見られちゃすぐ気づかれるだろうと思って
……
」
それはつまり、最初から、いいや、レオナルドがエリオットを知るもっと前からということだ。
エリオットはこの瞬間を待っていた。
待ち焦がれて、ようやく一歩を踏み出せる予感に、口の両端を上げている。
「話の続きといこう。話をしよう、レオ。まだまだ知らないことがいっぱいあるだろ」今更急がなくても平気だ、エリオットは笑って言う。「どこまで話たっけ? そう、ライブラのリーダはいい人だけど、馬鹿なんだよな」
「やめろ」
「牙狩り本部の方もたまげただろうね。まさか捕縛しないでぶっ飛ばすなんて
……
みすみす貴重な資料をさ。きみは絶望しなかったのか? 妹の目に繋がることかもしれなかったのに。憤らなかった?」
「やめろ、」
「スターフェイズも、スターフェイズだな。ラインヘルツも知らないうちの一人だろうから、そこはレオ、きみと一緒だね。彼は副官としてとても優秀で、恐ろしい。でもやっぱり相当な馬鹿だ。知ってた? 馬鹿なボスのために、要らない後始末とか受けちゃってさ。揃いも揃って、」
「やめろってば!!」
「やめようか」
あっさり、エリオットは頷いた。
急激に上がっていた心拍と、叫んだ喉、こめかみを鈍く痛がらせていた激情が、行き場を失って拍子抜ける。肩で息をし、見開いたままの目でエリオットを睨むが、自分でも分かるほど力がなかった。
弄ばれている。彼にその意思があるかどうかは疑問だ、むしろあってほしいし、本当になかった場合は純粋な狂気にただただ恐怖を覚えるのみだが、彼はこちらの感情を掻き乱し疲弊させている。疲弊。
何を戸惑っているのだろう、と思う。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
どうしてこんなに怒っているのか。
レオナルドは思った。
……
俺はライブラを、信じていないのか?
ごめんね、とレオナルドを見ていたエリオットは言い、薄茶の瞳から仄暗さが消えた。
「きみを追い詰めたいわけじゃないんだよ」彼はまた穏やかに微笑んで言った。「ごめん。それで、神々の
……
きみの目の話に戻ろう」
歪な銃を構えたまま、返事を待たずに続けていく。
「きみは言ったね。まあ要約すると、幻覚だけじゃ生きているふうに見せられないと。そりゃあそうだ。幻覚は声がないし、触れないし、音も発せず、においもない。ジャンキーが見る幻の方がよっぽど本物だ」
「だったら、」
「レオ。なあ、だったら目だけに縛られるなんておかしな話だと思わないか?」
「何
……
」とうとう泣きたい心地になってくる。「何を、言いたいんですか?」
「ほかの義肢を集めてみようよ」
こともなげに言った。「手に足に耳に鼻、皮膚、喉、内臓もあるかもしれない。脳ももちろん、神経も」名案だろ、と瞳を輝かせる。「足はきみも欲しいんじゃないか? 妹さんが立って歩けるかもしれないぜ」
それで、とエリオットは言う。
「ヴィクターを蘇らせるんだ。僕の弟をだよ。絶対に生き返る。神々の義肢を全て集めれば、死者を生者にすることだって、神を一柱つくりあげることだって、なんだってできるんだ」
熱っぽい語りはそこで一旦おさまり、部屋には静寂が訪れた。
星の煌めきを宿した薄茶の瞳が飽きもせずレオナルドを見ている。対して全宇宙の神秘と理不尽とくそみたいな私情を煮詰めて丸く捏ね回した青い双眸は、緩やかに下がりゆく瞼によってその光を閉ざさせた。糸のように細い眦をつり上げることもせず、ずっと縋り掴んでいたゴーグルから緩慢に手を下ろす。
たぶん、自分は冷静だ。
冷静に、この男をぶちのめせないかと考えている。
レオナルドは怒っている。エリオットはライブラの一員のくせに、クラウスとスティーブンを馬鹿にしたからだ。そしてレオナルドは悲しんでいる。弟を亡くした兄の悲しみを、分かち合いたいからだ。
けれど彼の一連の発言はレオナルドの広く深い許容と理解努力の範疇を超えた。これはレオナルド一人の問題ではない。それこそボスや副官を介して話し合いたい。だって
……
義眼はレオナルドのものであり、ライブラのものでもある。こんなのは個人同士の話にしては大きすぎる話題だ。
なんとかしてあの人たちを呼ばなければならない。
……
本当に?
本当にって、なんだ。
先ほどから違和感がある。胸の中、肺腑の奥、頭蓋の隙間、じりじりと何かが気づけと訴えかけてきている。
なんだろう。
考えろ。
「話の
……
腰を、折るようなんですけど」
静寂を打ち破ったレオナルドに、エリオットは首を傾けるだけで応じた。続ける。
「エリオットさんは、僕があなたについて行くと、思ってるんですか」
「うん」
「なぜ」
「だってきみ、不審を抱くだろう」彼は同意を求めるように銃口を振った。「ここに来てどれだけのことを
……
義眼の情報を知った? 自分が体よく利用されてるだけだって思わない?」
「あなたの
……
話には、根拠がない。義肢のこととか、それは、一体どこ情報なんですか」
「牙狩りの本部。僕と一緒に行こう。あそこにはきみの求めるものが、もっと多くあるはずだ」
求めるもの。
知らないこと。自分がまだ知り得ていないこと。
なぜか脳裏にザップの姿が翻る。
「僕は
……
」何か重大なことを見落としている。
「
……
囮にされてるって、気づいてないの?」
「えっ?」
場にそぐわない頓狂な声が飛び出た。「なに
……
、なんですって?」
エリオットはいい加減疲れてきたのか、構えていた腕を下ろし、憐れむように肩を竦めた。
「僕だって馬鹿じゃないよ。脅しはきみに効かない。だからこうして話をしてるんだ。きみが自分から僕について行くと言ったら、副官は分からないがボスは必ずそれを許す」聞き分けのない弟を見る眼差しを向けてくる。「だからって揺さぶりをかけてるわけじゃない。分かるだろう、レオ。きみ囮にされてる」
エリオットを誘き出すための。
「
…………
、」
レオナルドはショックを受けて息を呑み黙り込んだ。
エリオットが気遣わしげな視線を投げてくるが、数秒の無のあと、へらり、とぎこちなく糸目を歪めて笑い返す。
レオナルドは、つまり。
それだ! と思っていた。
どうして気づけなかったのだろう! かなりの馬鹿だ!
脚から力が抜けてずるずるとしゃがみ込む。頭を庇うように抱え、顔を伏せる。
彼の目には懊悩するひ弱な子どもに見えているだろう。
「
……
っ、」
いやしかし、恥ずかしい。とんでもない羞恥だ。抱えた顔から火が出そう。
レオナルドが感じている違和感、気づけていなかった重大な見落とし、それは全部、自分が囮にされていることに思い至らなかった、もどかしさと不甲斐なさの主張だ!
細かいことはこの際どうでも良かった。大事なのは、自分がエリオットを誘き出すための餌であったこと、これだけだ。この事実に気づけたことはとても大きい。こんな大きさのことに紙一重で気づけなかった自分に反吐が出る。いつもそうだった。レオナルドは寛容で人当たりが良い。けれど、決められた線を決して自分から踏み込んでは行かない。そういうところを最愛の妹は亀の騎士と評していたかもしれない。耳の奥で幻聴がする。
……
お兄ちゃん、お兄ちゃんはのろまな亀だから、引かれた線をじっくり見るのよね。この場合の線っていうのは、たとえば人と人との関係だとか、誰かの過去だとか未来だとか、現在だとか、とにかくその人にとって大事なものよ。だからお兄ちゃんはその線を守ることで言えば、立派な亀の騎士ね。何せ踏み込まないから。
……
ミシェーラ、今度は何に影響されたんだよ。
日本の少女漫画! 日本では本当にこれが現実に起こってるのかしらね? もどかしいったらありゃしないの! それでねお兄ちゃん、よく聞いて。ハイハイ、なんだよ一体。
……
いい? お兄ちゃん。その線はね、きっと少し段差になってるの。
……
だから亀の俺には越えられないって? もう、最後まで聞いてよ! お兄ちゃんあのね、亀にはとっておきの武器があるのよ。
……
甲羅? ちっちっち、甘いわ。まあそれも最大の武器だけど、それよりもっと凄いのがあるじゃない、段差のある線なんて少しでも越えてしまえば向こうの領地に入ったことになる、それができるとっておきの武器がね!
……
おい少女漫画要素どこいった? 物騒な話になってないかこれ?
事は物騒な話になっている。
この街にいれば日常茶飯事、晩飯時の話題にも上がらない慣れた話だ。
耳の奥の、鈴を転がすような妹の声に吐息だけで笑いかけて、レオナルドは顔を上げる。
自分は囮だ。
それを疑っていない。
知らされていないことだったが。
でもそんなのは今更だ。
もとから、知っていることの方が極僅かなのだから。
何かがあったら、なんでもいいからあらゆる手段を用いて助けを呼ぶこと。
その課せられた約束事は、知っているうちのひとつだった。
「エリオットさん、俺
……
」
腕を伸ばす。いつかの彼のように、縋るように伸ばした腕を見た彼は、とろける笑みを浮かべて近づいてくる。立ち上がろうとしないレオナルドの前に腰を屈め、片腕だけ生身の手で取って、レオ、と呼んでくる。レオナルドは彼を見上げ、腕だけでなく、首をめいっぱい伸ばして鼻先を突き合わせた。
「エリオットさん、俺、あなたについて行きます」
鼻先を擦り合わせるようにして言う。
──線を、越えた。
お兄ちゃん、亀は首が美しいのよ、首が。妹の称賛が聞える。
「俺、あなたと一緒に義肢を探す。クラウスさんたちには、自分の意思で出て行くことを告げます。あなたが言ったように、あの人たちはきっとそれを咎めない」
「ああ、レオナルド。本当に?」
「本当です。僕には妹がいる。あなたの弟を喪った気持ちの、助けになりたい」
吐き出す息の温度まで知れそうな距離で、だから、と囁きかける。
「エリオットさん、どうか僕に見せてくれませんか。弟さんの
……
ヴィクターさんの亡くなった時のこと。知りたいんです。今までたくさん幸せな話をしたでしょう、でも、それだけじゃ助けにならない」
「レオ
……
」
「蘇らせるなら、まず、僕は、彼が亡くなったことを受け止めなければならない」
エリオットは床に膝をつく。それでも尻をつけているレオナルドよりは背が高いため、見上げ、懇願して腕を引っ張る。伸ばしている首の筋が服の内側で突っ張るのも構わず、必死に名を呼ぶ。
「エリオットさん」
彼は迷って歪めた顔のまま、いいのかい、と訊いてくる。
「つらい光景だよ、本当に
……
つらいんだ」
「はい。いいんです。
……
俺に見せて」
そっと瞼を押し開けると、漏れ出た青い輝きに、エリオットは泣きそうな顔をしてレオナルドの額に額を合わせた。青い瞳。彼には弟の目を思い起こすもの。幸せだった過去、奪われた未来、停滞する現在。
エリオットは薄茶の瞳を青く染めた。
「いいよ、僕を見て。
……
知ってくれ、ヴィクターの死を」
レオナルドは義眼を発動させた。
「別に俺はあんた方のやり方に異を唱えたいわけじゃないんですよ」
異界生物の体液塗れの袖口で頬を拭いつつ、言う。白地はすっかり砂埃や血飛沫や煙にいぶされ汚れていたが、ザップはそれを気にするような人間じゃなかった。頬を拭ったのも汚れを取るためではなく、戦闘で変に引きつった表情筋を解すためだ。
「なんか事情があってのことでしょうし、旦那まで加担してるってこたァよっぽどのことなんでしょうし。そーいうのは説明されんのも面倒なんでいいんすけど」
じゃりじゃりと靴底で氷塊を踏み締め、話しかけている相手、スティーブンの横に立つ。
「でもあいつ、かなりあの男に同調してるみたいでしたけど。ほんとに大丈夫なんすか」
自分より数インチ背の高い上司は(この数インチが170台と180台の差を分けているとなると実のところ悔しい気持ちになるのだが)、隣に立ったザップに眠たげな目をやってくる。ふうー、遊ぶように白い息を吐き出し、「お前こそほんとにそう思ってるのか?」スーツのポケットに億劫な仕草で手を突っ込んだ。
瓦礫や死骸、なんかよく分からない物質、いつものように世界の危機を救った現場で、ザップは今日は出番がないとライブラの資料室に引っ込んで行った生意気な後輩を思う。
泣きそうに、ただでさえちんけな面を更にくしゃつかせて、ザップたちよりエリオットのことを知っていると宣ったことを思い出す。
意味が分からない。
あの時レオナルドが何を言いたかったのか、まさか言葉の通りの自慢じゃあるまいな、と考えたところでデジャヴを感じた。──俺はお前よりスターフェイズさんのことを知ってる。なんで急に自慢されたんすか俺。あの時点で、ザップはこの件に関して「エリオット・ターナーを警戒しろ」としか言われていなかったが、その一言と見させられた資料、スティーブンがレオナルドに弟のことを話したという点を結びつけ、ああこの人たちは他者の悲しみに同調しやすいレオナルドを囮にするつもりなのだなと判断したけれど。
……
一泊遅れて、スティーブンの問いかけに、ザップは仏頂面で短く「イエ」と答えた。よく分からないが、だからといってあのレオナルドがエリオットに傾倒、それもライブラを放ってまで入れ込むとは本気で思っていない。これは感情より、ザップが信じている大切な本能によるものだ。レオナルドはライブラを裏切らない。
そんなことはこの副官もボスも分かっているだろうから、この問答は不毛だ。なので別のことを訊く。
「心が痛まねえんですか」
「クラウスを見てなかったのか? ここ最近ずっと胃痛を悪化させてるぞ」
「カワイソウですね」
「
…………
、」濃紺の瞳が一瞬眇められたものの、次には目を丸くしてザップを見下ろしてくる。「気づかなかった。ザップお前、機嫌悪いのか」
ザップは砂利と血と唾の混じったものをペッと明後日の方向に吐き出し、どうにも極たまに無神経な物言いをする上司へ勢いのまま「そーですよ」と素直に答える。それにも益々意外なものを見たと目を丸くするスティーブンは、「
……
悪いな、お前の可愛い後輩、無断で餌にして」と重々しく言った。真面目なトーンに顔をしかめる。見当違いも甚だしいと思う。誰がそんなことで機嫌を悪くすると。
別にひとつも恨んじゃいない。
スティーブンとクラウスがなんの説明もなしにレオナルドを利用していることに、本当に露ほども、これっぽっちも責める気持ちにはなっていない。
なぜならそれは、上司二人が決定して行動しているものだからだ。
感情と理論、この二人の判断には間違いがなく、誰にでも秘密結社のボスであることを馬鹿正直に自己紹介するクラウスがこの方法を取っているとなると、尚更だった。クラウスも絡んでいるということは大きく信じられる。
皆にとって最善の策なのだろう。
これが最善の策となった理由も経緯も、本当に興味がない。ザップが好むのは暴れることだ。楽しく暴れる、それ以外はわりとどうでもいい。そして自分はあの後輩の根性強さも知っている。ということは身を案じているわけでもない。
では何に機嫌を悪くしているかというと、そこはちょっと自分でもよく分からなかった。
がりがりと白髪を掻く。ぱらぱらと砂礫が落ちる。
そもそも、自分の機嫌が悪いと気づいたのはついさっき、戦闘中、もう一人の小生意気な後輩で弟弟子であるツェッドに「ちょっとそれやめてくれませんか」と言われてからだった。「あ? それって」「
……
無意識ですか。師匠を見てるみたいで、いや、師匠が嫌なわけじゃないんですけど、それ凄く嫌です」「何をわけの分からんことを──」ザップはツェッドの指差した方を見てピシリと硬直した。自分の血が数瞬、青く爆ぜている。絶望した。「ウワ師匠と一緒じゃん」「だから言ってるんです」師弟ってこういうところが似るんですね。マジかよー反吐が出るよーエッ何じゃあお前機嫌悪くなると風でアレできんだろ、師匠と同じやつ。僕は機嫌悪くならないです。バッカおめーいくら魚類でも腹立ってどーしようもねえことくらいあんだろが。ないです、で、あなたは何に腹が立ってどーしようもねえ、なんですか。
ザップはそれに答えられなかった。
「
……
スティーブンさんて、」
それは今も答えられないので、やはり違うことを訊く。
「あいつのこと、結構好きですよね」
訊くというよりは断定、そしてやけに明け透けで子どもっぽい言葉の選択に、上司は眉をひそめた。
「それがどーした」
憮然と、わけが分からなそうに返され、おそらく自分も同じ顔をしながら「あいつのこと、どれくらい知ってます?」と訊いた。
スティーブンは眉根を寄せる。
「
……
どれくらいって」
「性別、名前、年齢、家族構成、職場。こんだけ知ってりゃ充分だと思いません?」
「それを俺に訊くのか」
「そりゃアンタはアンダーボスだから、たとえばあいつのファーストキスがいつで相手が誰でそれが何かの手札か切り札かはたまた脅威になりはしないかって、調べて知り尽くすのが仕事ですけど」
「アンダーボスて」マフィアじゃないんだぞ、と苦笑して歪む頬の傷と傾けた首から覗く刺青はまさしくそれだ。「それに俺は少年のこと、あまり知らないよ」「俺はスティーブンさんのことわりと知ってますよね?」「知るか。本人に訊くのかそれ」「だってあいつ、」ザップは口がこんがらがるのを感じた。
「あいつ、俺らのこと何も知らないって言ったんすよ。なのにぽっと出のあの末端野郎のことはよく知ってるって」
正確にはそうは言っていなかったが。
スティーブンはぱちくりとザップとは正反対である暗色のまつ毛を瞬かせた。
「お前
……
」
「なんすか」
「つまり、あー、こういうことだろう」
これから言うことに自信がないのか、探るように顎に手をやってザップをまじまじ眺めてくる。
「ザップお前、思った以上に少年のこと好きだろう」
「
……
見てくださいよこのサブいぼ、野菜炒めの具になりそうなくらい粒立ってる」
「不味そうだな」
「そーじゃないでしょう」
「美味そうだって言ってほしかったのか」
「それはそれで不味い」極めて不味い。「何がどーなって俺があの陰毛糸目ドチビをす
……
」さっきまで使っていた言葉が出てこず、むにゃむにゃ言い淀む。「
……
そーいうことになるんですか」
何かとても、極めて不味いことを知られてしまった感覚がある。自分は知らないのにだ。
「ははあ」だというのにスティーブンは得心し面白がるように瞳を細めた。「安心しろ、ザップ。ライブラの中でレオナルドのことを誰より知っているやつは、たぶんお前だよ」
「はあ?」
「というかお前たちにとって、そーいうのは重要じゃないだろう。何を思い悩んでるんだ?」
「何って?」
「ああ、僕はこれ以上言わないよ。自分で知っていくんだな。それにしても、そうか、さっきの質問なんだっけ? 『心が痛まないか』? もちろん痛い。あー痛いなあ。とんでもなく、ええと、かなり痛い」と言いつつ押さえるのは口許で、笑っているのがバレバレだった。本当は心に痛む部分があってもそれを悟らせないのがこの上司で、それを知っているからわざわざ訊いたのに、今は本気で嘘くさく見える。「スターフェイズさん、一体なんなんすか」怪訝を丸出しにして訊くと、スティーブンは困り笑いを向け明朗に言う。
「いやあ、すまんなーザップ。お前のレオナルドを勝手に利用しちゃって」
バチッと。
ザップの視界が弾けた。
靄がかった思考が、という精神面の方ではなく、まあそれもあったが、物理的にだ。強烈な光が弾け飛び、ぐるりと世界がでたらめに回り、うげっと悲鳴を上げながら堪えようとした足がもつれ素っ転ぶ。どころか転落した。ここは瓦礫の山だった。
「おおおいザップ!?」最早上か下か右か左かも分からないところから珍しく焦った声が飛んでくる。「どーした?! すまんそんなにショック受けさせたか?!」そうですけどそうじゃない、という返事はせり上がる嘔吐感で言えずに飲み下す。視界が強烈に回っている。
回されている。
「あ、
……
、にゃろう
……
ッ!」
混交ではない。攪乱だ。ザップ一人に対して、レオナルドが盛大に義眼の力を使っている。
──もっと分かりやすく助けを呼べよ、と喚いたのはザップの方だった。居てください、ってなんだありゃ分かるか馬鹿、あんな静かに助け求めれるやつだと思わねーだろ、いつもみてーに助けてくださいザップさあんて泣き縋ってくるもんだと思うだろこっちは!
ええ
……
とレオナルドは眉も糸目も下げて返した。なんかかなり理不尽で横暴なこと言われてるぞ
……
じゃあザップさん、俺が分かりやすく助け求めたら助けてくれるんすか。
時と場合と謝礼内容と気分による。
ほらあ! そーいうとこだよ!
……
ってかそれは僕も一緒っすから。時と場合と状況内容と、感情によりますよ。それらがどーにもならんくなったら、ザップさんに盛大に助け呼ぶんです。そうでしょ。
…………
おー。
ま、でも。レオナルドはからりと笑った。もしそんなことになったら、マジでみっともなく泣いて縋るんで、覚悟しといてくださいね。
だからって、これは。
助けに求めている相手を再起不能にしかけていては愚の骨頂ではないだろうか。
「あンのクソ童貞陰毛野郎
……
、うげ、っ、
……
」ザップは吐きそうになりながら瞼をきつく閉じ宣言した。「ぶっ飛ばしてやる」
成功した。
眼前の彼に気づかれることなく、過去視をしながら街を探しザップの目を掻き乱すことができた。こんな状況じゃなければ、手放しで褒めてほしいくらいだ。今まで二つのことを同時にやったことはなかった。
いつかは瞼を閉じたまま力を使えるようになるかもしれない。それが無理だったから、義眼を曝け出し、ほかのことに使っているとは勘づかせない状態に持っていく必要があった。できれば、エリオットに完全に心を開いたと見せかけられて、そして取り逃すことのないように。
騙したようで心苦しい。エリオットに言った言葉には嘘と本心が綯い交ぜになって、慣れないことをした自分に半端なく罪悪感がある。誰かに有罪にされたい。でも、と思う。有罪判決をされる前に、ひとしきり、このわだかまった感情を喚き散らしてしまいたい。
「レオ」
頬に宛がわれた指に力がこもる。集中して、と言われているのだと気づき、彼の肩に縋っていた腕を伸ばし、レオナルドも男の両頬を手で挟んだ。皮膚の触れ合いにゾッとしつつ、そんなことも感じなくなるくらい集中する。もうザップの視界は弄っておらず、レオナルドはただ疑われないように、そして相手の集中もこちらに向くよう過去視に専念した。
三年前、たった一晩で世界の情勢を混沌たらしめた紐育を見ていたエリオットの視界は、ひどく揺れている。
街は紐育の様相とはかけ離れ、ネオンの光で満ちていたはずの夜は炎と魔術、燐光で極彩色にざわめいていた。
地は割れ、建造物は崩壊、夜闇かあちら側か分からぬ亀裂から何かが蠢き、駆け抜けていく。
駆けているのはこの視界の持ち主、エリオットも同様で、悪夢と化した街を必死に進んでいるのが文字通り見て取れた。
闇、爆発、逃げ惑う人々、逃げているのは人間だけじゃない、異界人もだ。初めて見る光景に視界はぶれ、滲み、ひどく動揺しているものの、ずっと何かを探すようにしきりに瞬きをしては、崩落中の街に視線を走らせていく。
「う、あ」
こういう景色は、HLで見慣れていると思っていた。
でも間違いだ。レオナルドは義眼を逸らしそうになるが、エリオットの手はそれを許さない。
ここは異界と人界が交わる境界都市だが、人間の数が圧倒的に少ないと改めて思い知らされる。レオナルドが普段見る景色の、道端に転がる死体は異界人がほとんど、しかもその死体は喋ったり動いたり、死体らしくないものばかり。
紐育は違う。人間の街だった。その街はあっけなく崩れ、道端に人の死体が無惨に取り残されている。綺麗な状態のものは皆無に等しく、そう思えるくらい人が死んでいた。
瓦礫に挟まった生白い腕、血の滴る布を抱え放心している母親、車体に押しつぶされ毛髪がフロントガラスに張り付いている運転手、折り重なって倒れている家族、変な方向に曲がった脚。
視界が揺らぐ。涙が溢れ、目の持ち主、エリオットは乱雑に両目を拭う。ぼやける視界が忌々しいとばかりに何度も何度も何度も。
そうして道に転がる死体を確かめていく。逃げ惑い、あるいは動けないでいる人々の顔を確認しては、よろけながらも歩みを止めずに進んでいく。
「
……
っい、やだ、も、」
顔の潰れた男が映る。髪は黒いが、肌の色は黄色い。
違う。彼の探している弟は白い肌だ。
「いやだ、やだ、あ、」
腹の抉れた青年が映る。髪は黒く、肌も白い、けれど光のない濁った眼は黒い。
違う。彼の探している弟の目は青だ。
「ああ、あ、いやだ
……
」
レオナルドの胸が苦痛で喘ぐ。義眼の縁から涙が滲む。目の奥が熱を持ち、そこと繋がる脳が異質な情報量に警鐘を鳴らす。
死体に群がる鼠、鼠ではない何か、異界の生き物、飛来する物体、死体、死体、肉の塊、夥しい血、異界に飲み込まれる死者と生者。禍々しく燃える炎。噴き出す煙。霧、霧
……
。
ようやく、とうとう、揺れのひどい世界が緩慢になる。
立ち止まり、ぼやける視界が捉えた場所には、ひとりの青年が倒れている。
その下の地面は液体に塗れ、黒々と濡れている。
「あ、あ、いやだ」
記憶の中のエリオットもそう呟いたのだろうか。叫んだのだろうか。
歩く。もつれる。転げそうになりながら駆け寄る。
だらりと力なく投げ出された手足は曲がり、右の肘は裂けた肉から白っぽい骨が覗いている。
うつ伏せだった。後頭部はひしゃげていた。髪は血で固まっていたが、黒色だった。手足は赤かったが、白かった。
レオナルドの、幸せな兄弟の記憶を見ていた脳が、信じたくないと叫ぶ。同じくらい、正確な識別をする義眼が、そうだと訴えかけている。
煤と血と傷に塗れた腕が青年を抱き起す。
首が垂れ、頬が露わになる。
震える指が顔にかかった黒髪をどかす。右頬は削れていた。でもやはりそうだった。間違えるわけがなかった。唯一の弟の顔を、分からないわけがない。
見開かれている左目は青色。
十九歳の青年、唯一の家族である兄を持ち、紐育で生きていた、確かに生きていた、弟のヴィクター・ターナー。
ヴィクターは死んでいた。
エリオットの腕の中で、動かず、息をせず、声も発さず、瞬きもしない。
「ああ、あ、あぁあ」
レオナルドの眦から滂沱の涙が溢れた。喉が痙攣し、意味のない母音が漏れる。上から頬に冷たい雫が落ちてくる。開いた瞼の上にも落ち、目に流れ、自分の涙と混ざりあって伝っていく。
「エリオットさん、エリオットさん、エリオットさん
……
」彼の頬を挟んでいた手で顔を押しのけ仰け反ろうとする。レオナルドの頬にある手はもう掴む強さだった。「やめて、もういいです、もう
……
」青に照らされた薄茶はしとどに濡れそぼり、歪に弧を描いている。とっくに壊れている泣き方だった。レオナルドは懇願した。「お願いです、もうやめて」
「どうして、なあ、どう思った?」
「いやだ
……
」
「ひどいよな、つらいよな、見えてるだろ? 脚を見てくれよ、ヴィクターの脚、分かる? 捩じ切れてるみたいになってるよな、普通はそうはならない、頬も、右目も潰れて、手は皮膚が剥がれてる、頭蓋もぼろぼろだったんだ、普通は、普通に生きてて、こんな死に方はしないんだよ」
「エリオットさん
……
もう
……
」
「こんな、こんな死に方をするようなやつじゃなかったんだ、そりゃいつかは死ぬよ、でも、俺の知らないところで、こんな壊れた玩具みたいに死ぬようなやつじゃ、」
義眼がしゅうしゅうと音を立てる。
熱を持ち始めた瞼の裏側が、溢れる涙をぬるめて焦がす。肉が焼けるのも時間の問題だった。
過去視がレオナルドの制御から離れかけている。彼の見てきた絶望の濃い場面ばかり再生されていく。死体、死体、死んでいるヴィクター。死体、死体
……
ヴィクターの濁った青い瞳。もう二度と光を宿すことのない、虚ろで落ち窪んだ暗がりの眼窩。
「うああ、あ、」
ミシェーラ、レオナルドの口が知らず妹の名を紡ごうとした時、急激に見ていた過去が消し去られた。
轟音が資料室の空気を揺らし尽くす。書架が倒れ、資料が舞い飛び、エリオットの体が吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
唐突に解放されたレオナルドはしかしそれすら把握できず、蹲り、嗚咽を吐くしかできずにいた。息ができない。瞼が閉じられない。血が、肉が、炎が、煙が、眼球に焼きついて離れてくれない。
「おいレオてめェふざっけんなよ助け呼ぶならもっと殊勝にだな」
酒と煙草で焼けた、掠れがかった低い声を誰かと考えるより先に、鼻水でぐずついた鼻がそのにおいを拾い上げた。
鼻の奥をつく、重い葉巻のにおい。
「ざ
……
、」みっともなく助けを呼んだ。「ざっぷさ
……
、ざっぷさん、ざっぷさん」回らない呂律。
目がうまく見えない中、腕を伸ばす。今度はほんとに縋りつく動きだった。まるであの日のような感覚に、涙がぼろぼろ零れ続ける。義眼を押しつけられたあの日。あの瞬間だけ。いつも強かな彼女が、唐突に落とされた暗闇と、そんな中で一気に視覚情報が引っ繰り返って嘔吐くレオナルドに、お兄ちゃん、と呼ぶ声が。初めて聞くくらい、震えていた。今すぐ車いすに座る彼女のもとへ跪いてその手を取りたかったのに、伸ばした腕は、目まぐるしい視界では中々辿りつけなくて、それで、もう二度とミシェーラの綺麗な青い瞳が見られないんじゃないかと怖くなって、それで、それで
……
。
「
……
レオ、レオ、オイ」
手が掴まれる。腕を引っ張られる。あの日の幻覚も消える。でもまだ見えない。
葉巻のにおいに包まれる。ひぐりと喉が鳴る。がむしゃらに自分の体を支えてくれている存在に縋りついた。
「ざっぷさ、ざっぷさ
……
ん、うう、ぐ、う」
「おい、落ち着け。息しろ。できるだろ深呼吸。十九年間やってきただろうが、吸って吐く、できるな? ほらやれ」
「だ、できな
……
っ、だって、ひ、ひとが、たくさん、
……
人がっ、死んでだ
……
!」
「ああ? 何言ってんだてめェあそこで伸びてる奴ならちゃんと殺さずに仕留めただろが」
違う違うと首を振る。「うっ
……
、だくざん、死んでたんです、おれ、何も、知らなかっ
……
ひ、く、う、ごめ、なさ」自分でももう感情がぐちゃぐちゃでわけが分からなくなっていた。
「
……
おい、オイあーもー、落ち着けって、つかお前どこ見てんだ。おいレオ」
「う、ざっぷさ
……
ざっぷさん、み、みしぇーら、は、?」
「ミシェーラちゃんならお前が無事に故郷に帰しただろ。支離滅裂野郎め、お前今何見てんだ」
ザップさん、と答えたかった。
視界は不明瞭で、輪郭が乏しく、色さえあやふやだった。
「わ、わかんな
……
なにも、みえな、」
涙が止まらない。
喉がひゅうひゅう音立てる。心臓が痛い。つらい。苦しい。
……
このまま。
ちょっとだけ、死んでしまいたい。
レオナルドの思考はそこまで落ち込んでいた。
「
……
ッチ。歯ァ食い縛れや、童貞」
そしてそれを品位もなく引き上げてくれるのがザップ・レンフロだった。
「んえ、」
唇がぬるりとしたものに弄られる。涙ではない、と思った。涙にしては熱く、意思を持ち、肉の湿った感触がする。それはレオナルドの涎と唾とひょっとすると鼻水に塗れた唇を舐めとり、喘いで正常じゃない呼吸を奪い去った。
「う」
つまりびっくりしすぎて完全に息が止まった。ついでに涙も引っ込んだ。
舌だ、と思った。
「え」
ザップの舌がレオナルドの鼻の下、唇を舐めている。
「
……
ぶえっ」
豚のような鳴き声が詰まった鼻から飛び出す。
舌が上唇を舐め、何かに挟まれる。何かはもしかしなくともザップの唇で、ちゅうと吸われた。このちゅう、の音を聞いて耳たぶがカッと焼け焦げたように熱を持ち、同時に吹き込まれた葉巻のにおいに頭がくらくら酩酊する。体から強張りが抜けていく。残酷な記憶が追いやられていく。
「んっ」
上唇の裏側を抉るように舐られ、先ほど言われた言葉を思い出し慌てて歯を食い縛った。そうしないと舌が奥に入って来そうな、そんな脅す仕草だったからだ。食い縛った歯列と、粘膜の裏側を、熱くて分厚い舌が舐め擦っていく。まるで口を塞がれている。
息ができない。
鼻は詰まっている。
鼻水がずびび、と行き場を失って音を鳴らす。
「ざ
……
ざっぷひゃ、」あんまりにも声が間抜けすぎてせっかく引っ込んでいた涙がじわじわ戻ってきてしまう。「や
……
くるしい」
「んー」唇を擦り合わせたまま、器用に訊ねてくる。「息したい?」
息。
したい。
っていうかしないとマジで死ぬ。
「した
……
したい」
「いいぜ」
唇が離れた。レオナルドは遺憾なく大口を開けてぶへあっと息を吐いたんだか吸ったんだか、とにかく酸素を取り込もうと肺を動かした。
「存分に吸って吐けよー、良かったなーHLに肺を侵す空気が流れてなくて」
その動きは自然と深呼吸になり、泣きじゃくっていたせいで明らかに血の巡りが滞っていた脳は喜び、働き、真っ先に目の神経へ伝達を流す。視界がクリアになる。瞼を開ける、閉じる、開ける。瞬き。糸目。ずっと見開いていたせいで乾燥したのか、糸目からぶわりと涙が溢れたが、それきりだった。
不意に、床につきそうなくらい伏せていた顎が、硬いもので持ち上げられる。白い。ザップの靴先だった。ぐいと上向かせられ、見上げた先、人の顎を足で持ち上げふてぶてしく片足で立つザップがいる。
「ごきげんよう、俺のクソ後輩。俺が誰だか見えてるか?」
「ご、
……
ごきげんよう。僕の、クソな先輩。ザップ・レンフロ
……
」
惚けて言うと、彼は喉の奥で笑った。
「よく見えてんじゃねーか。クソは余計だけどな」と靴先で顎を小突いた。「そんで、お前の名前は」
「お
……
、俺の、名前は、レオナルド・ウォッチ。アンタの後輩」
「そこはクソつけとけ」自力で頭を上げられると判断し、ザップは足を下ろして仁王立つ。「酸素は足りたか? 足りねえなんてことはねーわな。視界良好? 脚は動くか? そんじゃさっさと立て。顔面踏まれたくなけりゃあ」
レオナルドは言われるままよろよろと立ち上がった。
よく見ればザップの全身は煤けていたり血塗れていたり砂っぽかったり、現場から押っ取り刀(彼の場合刀が自身なので本当に便利だと思う)で駆けつけてくれたのがありあり分かる様相で、レオナルドは頭一つ分上にある褐色の顔を、凝視してしまう。
「ザップさん、」
彼の操る炎のもとでは赤く見える双眸は、今はもゆる小麦色をしてレオナルドを見下ろした。
「あんだよ」
「なんで
……
」
「何が」
「なんで
……
えっ
……
エッ俺にキスしたの?」
自分で言っていて非現実さに顎が外れるかと思った。
「な、なんで? えっなんで?」
「なんでなんでうるせーなオウムかおめえ」
「だだ、だって、」
「ありゃ人工呼吸だろ」
「そっ
……
れは嘘だ
……
息の根止めに来てたでしょ
……
」
「だから。息したいって思わせてやっただろ」
「それは
……
その通りですけど
……
、ええ
……
?」
そういう問題なのか? 要領を得ないレオナルドに、ザップは苛立たし気に溜め息を吐くと、あのなーレオ、レオナルドの胸倉を掴んで睨んだ。
「お前は俺が拾ったんだから、勝手に死なれちゃ寝覚めが悪いんだよ」
「へ
……
」
「あとよく知りもしねえ相手を知った気になってほいほいついて行くな。お前なんか、今回あれだ、知ってるとか知らねえとか、なんかそーいうことに拘ってるみてえだったけど」
ザップは言った。
「そんなもんはどーーーーでもいい。お前を一番最初に見つけたのは誰だ? 拾ってここに連れて来たのは? 俺だろうが。お前は俺のだよ、レオナルド・ウォッチ。その事実のほかは、心底どーでもいい」
お分かり? 横暴な口振りのわりに小首を傾げて見せられた。
レオナルドはもしかして今世界で一番殺されやすい隙だらけの、というか隙しかない立ち姿でこれまた呆然と「へ」と言った。別にへから始まる言葉や単語を言いたいわけではないけどとりあえずへとかはとか、えとか、全くもって意味のない一音を漏らして間を繋ごうとした。けれどたかだか一音。一秒しか間が持たなかった。なんの間を持たせようとしているのか、たぶん、なんだかおかしな心臓が心拍数を上げて血潮を巡らし皮膚をカッカと赤くさせるまでの間だ。
レオナルドはちらりと部屋内を見回した。
燃えていない。分かってはいたが体温上昇は外的要因ではない。
いやいや外的要因だろう。目の前のザップのせいなのだから、レオナルドのおかしな内臓のせいではないはずだ。
「ざ、ざ、ザップさんは、」
レオナルドは掴まれている胸倉の、首から上が熱くなるのを死にたい思いで感じていた。
「ザップさんは、じゃあ、俺のなんなんですか」
ああ? 白く細い眉が寄せられる。
「お、お、俺。知りませんよ。俺がアンタのとか、そんなん
……
」
「知ってる知らねえじゃねーんだよ。事実なんだから受け止めろや。得意だろ」
「そんな、だって、」ずるいじゃないですか、という言葉は既のところで飲み込んだ。
ずるいじゃ、ないですか? そうだ、ずるい。
だってアンタ、俺がアンタの傍にいたいって、なんでか知らんけどそーいうこと思っちゃうくらいに好かれてること、知らんでしょうに。
なんでそーいうこと言うんですか。
なんで
……
。
──事実。
レオナルド・ウォッチはザップ・レンフロに拾われた。
間違って、だが。それでもそれは紛れもなく事実だった。
レオナルドはザップのことをほとんど知らない。ライブラにどうやって入ったのか、ここに来る前は何をしていたのか、そもそもザップ・レンフロは本当に本名なのか? 誰に名付けられたのか、家族構成も、出身地も、なぜ戦うのかも、本当に何も知らなかった。
でも自分はこの人に拾われたんだ、と強く思う。
一番初めに見つけてもらった。偶然、たまたま、奇遇にも。
それ以上の事実ってあるか?
部屋隅から呻き声が聞えた。
胸倉から手が離され、ザップが視線を向けた方を見やると、床にくずおれていたエリオットが意識を取り戻す最中だった。
「ふんじばっとくか」
一瞬隣の先輩が何を言ったのか分からなかったのは、自分的に重大な、ここ最近ずっと頭と心を悩ませていたもやもやしたものが、すっかり、きれいさっぱり晴れたからだった。自分は何を悩んでいたんだろう。レオナルドはぱちくりと瞬きをして、「はあ
……
」と溜め息とも返事ともつかぬものを落とした。それをイエスと取ったザップがしゅるりと血糸を伸ばすのを見て、ようやくハッとして「ままま待ってください」制止をかける。
ザップは不機嫌そうになんだよと返しつつも指先から血を止めないので、レオナルドはその腕にかじりついた。
「ま、待ってください、殺さないで
……
」
「
……
誰が殺すっつったんだ。拘束するだけだ」
「あ、そ、そうか」腕から手を放す。「あの、でも、話しをできる状態に
……
」
ザップの目が赤く揺らめいた。ぎょっとして義眼を開く。青に照らされた瞳はいつもの小麦、月だった。たぶんこの目でなければ見逃す色彩の変化は、この場合、彼の感情を如実に表している。一瞬の激情。彼は怒っている。
うるさそうに顔をしかめ、レオナルドの開いた瞼に空いている手をかざしてくる。
「あいつと何を話そうって? 同情もいい加減にしろよレオ」
「ち、違います。普通の、ちゃんとした話です」
「普通の? 飽きるほど話したんじゃねーのか。何せお前はあいつのことよーく知ってんだからな」
「そ、そうじゃないです、違います。ちゃんとしたってのは、あの人の、えと、勧誘を断りたいっていう話で
……
」
ジッポの蓋の開く音がした。
カチ、カチ。
……
大変に怖い。
「あの、ザップさん」
怯えて呼ぶと、目の上の手がどいた。
「
……
四十秒でけりつけてこい」
アンタあの会社のジャパニメーション好きっすよね。レオナルドは頷いた。当然レオナルドも好きだった。「
……
せめて三分間は待ってやるでしょ」
「エリオットさん」
腕と胴に赤い拘束が施されたエリオットは、変わらず薄茶の瞳でレオナルドを見上げてきた。壁に背を預け、痛むのか、時折目端を痙攣させている。
彼の前に膝をつき、ごめんなさいと零した。
「エリオットさん、僕、あなたにはついて行けません」
自分たちと離れたところで監視しているザップの、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえる。
エリオットは悔しそうに薄茶を陰らせた。
「あれは演技だった?」
「
……
ところどころ」
「きみは優しいな」
レオナルドは押し黙り、そんなことはないと首を振る。
そんなことはない。
優しければ、わざわざエリオットの苦しみを突かず、本気で彼のために事を成すだろう。自分は彼にまやかしの希望を見せ、そして突き落とした。彼の、弟を亡くしてから縋っていた唯一のものを。
「
……
聞かせてくれよ。俺と一緒に行けない理由。こんな街に住んでても、やっぱり人間を蘇らせるのはご法度だった?」
「
……
現実的な答えです」
レオナルドは薄茶を見据える。
「エリオットさん。あなたは牙狩りの本部へ行けば義眼の情報をもっと知ることができると言った。それが嘘でも本当でも、僕個人の尊厳や人権が守られるとは限らない。義眼の能力だけを搾取しようとするやつは腐るほどいるんです。逆に、恐れ、破壊しようとするやつらも」
でも、と続ける。
「ここは、ライブラはそんなことはしない。世界の均衡のためにこの力を利用する組織だけれど、決して僕を蔑ろにしない。義眼ありきの保護だとしても、ここのみんなは僕を見てくれる」
世界の均衡を守り、個人の均衡を尊重する。
秘密結社ライブラは、あんまり居心地が良すぎるんだ。
「俺はここを離れません」
体温が上昇する。力が漲る。声が張る。
「俺はライブラが好きです。そしてその一員だ。時々くそみたいだけど、それでも愛してる。
……
ああ、これは感情的な話ですけど」
レオナルドは言った。
「ここには、俺の幸運がいるんです。くそったれな、悪夢みたいな、欲望を具現化したみたいな、俺の最初の幸運が。
……
誰だって、幸運の傍からは離れたくないでしょう」だから、と言う。「俺は、あなたとは、行けません」
口を閉ざすと、静寂が訪れた。
やがて、脱力するように、諦めて笑うエリオットが、拘束され竦められない肩を揺らした。
「
……
じゃあ、きみより先に、その幸運を口説くべきだったな」
レオナルドはからりと笑う。
「無理だと思いますよ。あの人、女の人が大好きなんすから!」
ザップ・レンフロはレオナルドの幸運だ。
彼のおかげで荒唐無稽なライブラに辿り着けた。彼がクズなおかげで、結果的に自分は妹を守れた。
その事実以外に、知っていようが知らなかろうが、大切なことなんて、きっとないだろう。
後日。
「だからって僕が怒ってない理由にはなりませんからね」
レオナルドは今、執務室の中央テーブルに仁王立って憤慨している。床にではない。テーブルにだ。少しでも自分の視線が高くなるよう、ギルベルトに断りを入れて立たせて貰っている。
目の前のソファには胃を押さえ縮こまるクラウスと、居た堪れなさそうに頬の傷を引きつらせているスティーブンと、どうでも良さそうに鼻をほじっているザップが狭苦しく座っている。
三者三様見下ろして、レオナルドはぐわっと義眼も口も開けた。
「一件は落着しましたけどねえ! 僕はアンタ方を責める権利があると思うんですけど!?」
「そ、その通りだ、レオナルドくん」
「ああーいいんですようクラウスさん、そんな思いつめないで。これは形だけの詰問すから!」
あっさりそう言ったレオナルドは別に高度な脅しをしているわけでもなく、本当に言葉通りの憤慨の仕方で、わざとらしく腰に手を当てふんぞり返るなどしていた。
しかし自身の所業が許せていない心優しきライブラリーダはぐぬうと呻いて汗を飛ばすしかない。確かに、ボスと副官が仕組んだ一件は、誰の血を流すこともなく穏便に落着したが、それでもボスにとっては「構成員を自身の意思なく囮にした」というのが心苦しいらしかった。騙しているということにもなるからだ。
その隣で丸まったボスの背中を撫でているスティーブンは、珍しく、本当に珍しく、普段なら絶対に起こり得ない(身長的な意味で)上目遣いで窺うようにレオナルドを見やる。
「
……
それで、僕らは何を詰問されるんだい」なんでも甘んじて受けるよ、と言うくらいにはこの副官も思うところがあるらしい。
レオナルドは義眼で三人を見下ろし、きゅっと糸目に戻ると、手を後ろで組んだ。
「ぼくが、
……
僕がエリオットさんについて行くと言ったら、アンタ方は送り出してくれたんすか」
「それは、」
「どうするつもりだったんです。ぼかぁエリオットさんのこと、普通に好きですよ。ちょっと不気味だけど、
……
家族思いの、いい人だ」
エリオット・ターナーがどのような処分を下されたかは、聞かされていない。ひどいことにはなっていないと思う。組織的には分からないが、だってレオナルドはエリオットにひどいことをされたとは思っていなかった。この件に関して、レオナルドは本当に、何も知らなかった。
でもそこは重要じゃない。
「僕の意思で、ここをやめると言ったら、どうなってたんです」
答えたのはクラウスだ。
「きみの意思を尊重する」
間髪容れず言われ、レオナルドとスティーブンの口が引き結ばれる。こちらを見上げる緑の瞳は荘厳で美しく、嘘偽りがなく、真実で満ちていた。
……
胃を押さえる手は強まったようだが、それを見て少なからず胸がすく思いになる。ひどい我儘だ、と思う。
レオナルドは義眼の能力と自分の権利を守ってくれるこの秘密結社が好きだ。
好きだから、相手にもそう思ってほしいと思ってしまう。
……
ここで、出て行くレオナルドを引き留める、と言われても、そんなのはレオナルドが信じているクラウスじゃないとややこしく面倒なことを思うのだろうが。
でも、胃の痛みを誤魔化せられないくらいには、出て行かれたら困るということだ。
……
それに。
こんな変な拗ね方をせずとも、自分が好かれていることくらい、分かっている。ガミモヅの件以来、しばらく。必殺技を叫ぶ間もなしにクラウスの一撃でぶっ飛ばしたあの件は、どうやらほかの構成員の腹に据えかねたらしい。ただ単に攻撃をできなかった腹いせかもしれないが、あの後しばらく、ザップもツェッドもスティーブンもチェインもK・Kも、ギルベルトでさえ、たとえばカツアゲや巻き込まれや事件の時に颯爽と現れては、レオナルドに危害を加えようとするものを適当な理由をつけてぶっ飛ばしていった。(チェインは「一度心臓掴むとやみつきになるんだよ。別にレオを助けたかったわけじゃない」と理由づけていたが、照れ隠しの理由にしては狂気的すぎる。レオナルドはありがとうございますと慄いた)
だから。
……
ちゃんと分かっている。
「
……
なんて旦那は言うけどな」
鼻をほじっていたザップが、億劫そうに口を開いた。肘掛けにだらしなくもたれかかる。
「まあ、思うところはあれど、スターフェイズさんも旦那の意見に従うだろーけど」
小麦の瞳が至極怠そうに見上げてくる。
「おめーは俺のだから、あいつと無断でここを出ようってんならそれ相応の
……
いやシンプルにぶっ殺すぞ」
どっちを、とは訊けなかった。
なぜかスティーブンが噴出して鼻を押さえた。
そしてクラウスがえっと驚いた。
「どうします旦那。こいつの意思を尊重するってんなら、俺の意思も尊重してくれなきゃ不公平っすよ。俺とこいつどっち取ります?」
「むぐ」
「
……
おいザップ、面白いがクラウスをこれ以上困らすな」
「出るよね本音が
……
」
おもむろに。レオナルドはテーブルから降りると、傍に控えていたギルベルトにすみませんと言って雑巾を借りた。自分が立っていた場所を念入りに拭いて、雑巾あとで洗って干しときますとつけ加える。私が洗っておきますよ。いえいえ、これくらいは僕が。行儀の悪いことしちゃってほんと面目ないです
……
。
「じゃ、僕ツェッドさんと昼飯行ってきまーす」
はっ? ザップが後ろで声を上げた。レオナルドは構わず扉へと歩いて行く。
「え、詰問て、あれだけでいいのか? 少年」
スティーブンの困惑には素直に振り返り、こくん、頷く。
「はい。知りたかったのはそんだけです。大丈夫ですよ、僕はエリオットさんに、誰とも知らねえやつにほいほいついて行ったりしませんもん。ちょっと気になったから訊いただけっす」
「
……
そう」濃紺の瞳は、彼がレオナルドに対してわりとよく向ける、わけが分からないというふうにきょとんとしていたが、自得するように背中をソファに預けた。「きみって図太いよなあ」優しい、ではなく図太い、と言われる方が合っているな、とレオナルドはひっそり思ってハイと笑う。
「そーなんです。俺って図太いんです。だからクラウスさん、ほんっとーに、そんな気に病まんでくださいね」
「きみが
……
そう言うなら」クラウスはようやく丸めていた背中を少し正した。
レオナルドはにッと歯を見せて笑う。
「俺ちゃんと知ってますから。俺がライブラが好きで、皆さんが俺のこと好きってこと。それ以外はどーーでもいいんですよ」
おいそりゃ俺の台詞のパクリじゃねーか、と言って立ち上がったザップに背を向け、レオナルドは脱兎の如く駆け出した。
「んじゃまあそーいうことで! 昼行ってきまーす!」
「ハッ? おいレオ! 俺は!?」
知らねーですよ! とレオナルドは叫ぶ。
ぼかぁこれから、アンタの知らねー話を愚痴りに行くんですから!
Nobody knows
「ツェッドさあん、ファーストキスの相手が最低最悪な野郎って、どう思います?」
「
……
それは控えめに言って最低愛悪なのでは?」
「ですよねー
……
」
レオナルドはガクリと項垂れた。抱えた頭の耳が赤くなっているのは、ひょっとすると誰も知らないことである。
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