さもゆ
2024-11-16 21:36:59
41809文字
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【スティレオ】惚れ薬の副作用

「調べた限りじゃなかったけど?」

スティーブンさんが目が合ったら駄目な惚れ薬にかかったけど、目隠ししてレオと仕事する話。スティ(→)(←)レオのとっても無自覚まだできてない。

2020.2.13 たまごのお粥pixiv投稿作品

 レオナルドの前で、スティーブン・A・スターフェイズが目隠しをしたままサブウェイのサンドイッチを食べている。

 という状況は、結果である。

 さて、物事には順序というものがある。
 ここHLにおいて、それは科学や魔術や数学に倫理、あらゆる観点から無視されがちだが、今回に関してはきちんと、何ものにも空白にされることなく順序立てて事が起こっている。ので、せっかく立てられている順序をのけものにせず、比較的簡単に説明しよう。
 まず最初。今朝未明、HLの地盤を這い巡る水道パイプのいくつかが、「自分たちを足蹴にしているくせに上の住人らは好き勝手にどたどたやりすぎだ」と反旗を翻した。誰だって、何だって、近隣住民とは節度を持って過ごしたいし、過ごしてほしいというものだ。彼らは長らくの間我慢していたが、今朝、とうとう、その錆びついた管を激震させて地表に突撃した。
 その次に、まさか自分たちの足下に怒れる無機物な近隣住民がいるとはついぞ考えもしなかった、突撃された地上の施設。そこは非合法でファンキーな(注、この場合の意味は『型破りな』とする)薬品を製造していた、まあ表面的にも限りなくグレーだったのだが調べ上げると底にヘドロが詰まったドス黒さを持つ快楽主義的研究所で、当然汚水もよく流していたし『どたどた』していたため、地下にとってはトップオブ加害者として見られていた。
 そして三つめ。その非合法で快楽主義で犯罪の温床となっていた研究所は、もちろん地下から実力行使で訴えられる前に、既にHLの超人秘密結社ライブラによって、完膚なきまでに制圧されていた。むしろ、ずっと耐え忍んでいた寛容な彼らの堪忍袋の緒をぶち切った切欠は、制圧で生じた戦闘と言っても良い。地面の下で眠る彼らにとって地上は正義か悪かで分けられておらず、あるのは喧騒か静寂かだけだ。ライブラがどちらか? そんなのは決まっている。大喧騒 ・・・。観客がいたら満場一致で可決になる。
 かくして凝縮した喧騒が響き渡る、深く暗い地下から地表へ進撃した彼らは、研究所の床を捲り上げ、体内を駆け巡る循環水を存分に放出させた。吐き戻し、ぎいぎい抗議を唱え、ひとの腹の上で毎秒毎秒うるせえんだよと捲し立てた。そこらの異界人や人間には到底言葉として認知されることのないものだったが、彼らは、彼らこそ騒ぎ立てる場が必要だったのだ。
 長めになるが最後に。
 現場はライブラの副官、スターフェイズが指揮していた。なんてことはない。適材適所。結果としてはいい傾向だった。やっと制圧し大人しくさせたと思った場が揺れ、床が崩壊し、醜悪なパイプから水が噴き出た刹那、彼は最大出力で血凍道を発動させ、湧き出る水の流れを凍結し、そこから、怒れるパイプを一度で黙らせる力の持ち主だったからだ。
 地下よりよほど冷たいものに体内を脅かされた彼らは文字通り冷静になり、憤慨を見事に自制した。
 ところが、研究所の親玉や幹部数人が逃げ込み、スターフェイズが追い詰め、そして床が一面凍ったその場所は地下室であり、薬品棚が並び、手狭で、換気も間に合わないような場所であった。……何が連鎖したか? 衝撃で大量の薬品瓶が床に落ちて割れた。スターフェイズは防護服もガスマスクもしていたが、一斉に割れ、撒き散らされた何とも知れない薬品をみすみす気化させるほど、愚かではない。彼は濡れそぼった氷の床、空気中の重怠い薬品の混じった水分、それら全てを凍らせるため再度脚を振り下ろす。そこは一瞬で絶対零度の領域となり、彼の独壇場と相成る。逃げ込んでいた研究所の数人は皆一度目のわざで氷結されており、ただ心臓と脳がとくとくと動いているだけの体で、凍りつく部屋を見ていることしかできない。だから、まあ、すっかり忘れていたのだ。
 地下室の薬品棚はいわゆる失敗作や子どもの玩具になりそうなもの、大した効果を持たず、製造者が記憶の彼方に押しやっていたものばかりである、ということを。
 しかしそういうものは、こういう時に大いなる力を発揮する。
 その時スターフェイズが凍らせようとした最後の棚には、反作用を持つ僅かばかりの思念体 ・・・・・・・・・を宿した薬品が、割れた瓶から中空を漂い、使命を全うできるのを今か今かと待っていた。そして時は来た。空気中に散らばり気化していたそいつは、凍らされ、礫となり、自身の反作用を存分に生かし――死に際の抵抗、使用されるばかりである薬品全群の無念! ――スターフェイズの圧倒的な力で一方的に凍らされたのを活かし、垂直抗力のもと、鋭利な氷の刃となった。
 スターフェイズの目には突如として自分の能力が自分に牙を向いてきたように見えた。動揺は数瞬、だが致命的なロスタイム。見事に魔術的な反作用を擁した氷は、一方方向を辿り、動揺したものの避けたスターフェイズのガスマスクを抉り取る。やった! 消えかけた思念体は最期に喜び、壁に砕け散っていく。そうして。
 水道管や薬品の思惑など露ほども知らない人間であるライブラ副官は、攻撃してきた氷の行方を面食らって見届け、ついでにふと視線が気にかけてしまった箇所に転がる、割れた硝子の中の、凍った二つの目玉に移って目が合った。

 それは例の如く、研究者たちが失敗作として興味をなくした産物、ともすれば扱いが難しい厄介者であった。
 端的に言えば惚れ薬。
 薬がなぜ目玉の形をしているのか、それをシュールに思う気持ちは大事だったが、この街でそんなことを一々疑問にしていてはおそらく精神がやられる。割愛。

 はてさて、おそろしく丁寧に、誰も気づかぬうちに順序立てられたドミノの結末・結果には、ライブラ執務室で目隠しをしたスティーブン・A・スターフェイズに行き着くことになるのだが。
 研究所地下で目玉型視神経興奮作用剤 ほれぐすりに目が合ったことで処方相手だと見なされた彼は、かろうじて割れ残った瓶にラベリングされていた注意書き(『Don't look eyes!』)を映したのち、瞼を閉じたまま今度こそ完璧に場を治めライブラ事務所へと帰ってきたわけで。
 そんな事の顛末を比較的簡単な説明で聞いていたはずのレオナルド・ウォッチ少年が理解したことといえば、結局、『今のスティーブンさんは惚れ薬の影響で目が合ったものに惚れてしまう』という、目の前の状況結果のみであった。







「困ったもんだよな。これじゃあ新聞も読めない」
 ソファに座っているスターフェイズが、目隠しをした状態で器用にサンドイッチを頬張っている。
 そうならざるを得なかった概要を受けたレオナルドは、軽く自分の許容量を超えた戸惑いに、一瞬我らがリーダーの執務机に助けを求めたが、クラウスは先ほどレオナルドに彼を任せて、ギルベルトとともに午後からの用に出て行ってしまったではないか。「スティーブンを助けてあげてくれ」って、一体何を助ければいいんですかクラウスさん。サッパリですクラウスさん。だって、僕が助けられることって、そのサンドイッチ買ってきた時点で終わってますよね。ねえ。
 目が合わないことをいいことに、彼の目許と傷の半分を隠している黒い帯をまじまじ眺めやる。傍らで棒立ちになったまま、そんな軽装備で視界の防御になるのか、といらぬ不安を覚え妙にそわそわした。
「文字だけ追えばいいんだけど、うっかり写真か何かと目が合っちゃ堪ったもんじゃないからね。指名手配写真とかさ。ははは、ぞっとするな」
 隠れた目と高い鼻の下にある薄い唇が、言葉のわりに呑気な笑い声を発したことで、レオナルドはようやく緩い金縛りから解かれた。
「あの、なんでそんな悠長なんですか。惚れ薬ですよね、惚れ薬」
 彼は食事の手を止めると、突っ立ったままのこちらへ正確に顔を向ける。
 真正面から上司の目隠し姿を受け止めたレオナルドは、なんだか変におかしな気分になって、少し仰け反ってしまう。
「まあ、解析や処置の仕方なんかは、人狼局と連携して進めてもらっているしね」
 なるほど、それでチェインがいないのだ。彼女なら、彼を心配して、希釈してでもひっそり、一目様子を見に来ただろう。
「研究所の残党や危険薬の売買ルートも、ザップやツェッドに探りに行ってもらってるし」
 道理で昼時なのに集りに精を出す先輩や、それを一緒になって窘めてくれる後輩がいないはずである。
「クラウスは、通常業務をこなしてくれるし」
……K・Kさんは」
「うーん」
 スターフェイズは唇を曲げ、ここに来て初めて難色を示した。
「そりゃ遅かれ早かれ耳にするだろうけど。言うのか? 俺が『惚れ薬の餌食になった』って? ううん……それはちょっと……それならHLPDの警部補殿に言った方がマシ」
「そんなにっすか。や、比較があんま分かんねーですけど。……あの、自宅待機とか、」
「ここでしかできない書類仕事とかあるからなあ」
「仕事するつもりっすか!?」
「そりゃ、もちろん。あの頼りない研究者たちの朧げな研究記録でも、『目が合ってはいけない』ことだけは確かなんだ。ま、目隠しもあるし、幸いここには個人用の部屋もある。たとえみんながいても、まあ、目さえ伏せてればなんとかなるだろ」あっけらかんと言ったあとに、ただし少年、と言い含める。「僕が目隠しを外してる時は、近くに来るなよ。きみ、ほかより小さいからな。伏目でも合っちまいそうで怖い」
 う、事実すぎて無意味な反論も起こせない。
 レオナルドは歯をぎりぎり鳴らしてこくこく頷いた。彼にだけでなくほとんどのメンバーに見下ろされる身長の、この状況においての危うさはよく分かる。何せレオナルドもスターフェイズも相手の目を見ながら話すタイプだ。それで惚れた腫れたになったらお互い堪ったもんじゃない。
 顔は向けているがレオナルドの必死の首肯を見えない彼は、少年? と思いのほか、なんだか申し訳なさそうに訊いてきた。言葉に対してではなく、これは、そう、不安だ。ピンときたレオナルドは「分かりました! いつもの倍糸目で過ごします!」とザップが聞いたら爆笑して揶揄してきそうなことを大きく言った。ふ、とスターフェイズが唇を緩める。「それ、目がなくなっちまうんじゃないか」この人も大概失礼だ。
 しかし、そうだよな、と心構える。
 いくらレオナルドがこの先順当に十三年送ったとしてもなれそうにない冷静沈着な大人、ライブラの副官、スターフェイズだとしても。
 少しも不安でないわけが、ないのだ。
 しかも、よりによって、人の感情を支配する薬。そんなもの、状況に怯えているレオナルドより深く深くあらゆることを危惧し、辟易していることだろう。目隠しがなくとも伏目でいればいいとは言うが、それはライブラ所内でのみ許されること。ヘルサレムズ・ロットの街に一歩でも出れば顔の上部に丸い眼球が二つくっついている生き物の方が少ない。惚れ薬同様、視線が合う目がそこかしこに点在していることだってある。一人じゃ満足に帰ることもできないだろう。
 ここで、大丈夫ですか、と訊くことは容易だ。
 返ってくるであろう言葉にレオナルドがそうですか、と言うのはもっと容易だ。
 黒い帯が巻かれている目許を見ていると、煩雑な思考が繋がりを持ち、辿っていくのは視力を失った妹のことである。だから妙な気分になるのかな、とも思う。最愛の妹は、いつも強かった。でも、あの日、あの時だけは。神々の義眼を押しつけられ、一気に濁流のごとく流れ込んできた暴力的な視覚情報に酔い、嗚咽しながらくずおれた、あの時だけは。唐突に暗闇に支配された世界で、兄の苦痛に藻掻く声だけを聞き、それまで毅然としていた妹は泣きながら「お兄ちゃん」と足を動かすこともできず、レオナルドへ手を伸ばしていた。手を掴み合うまでに、あんなに時間を要したことがない。
 あれほどの絶望をほかに知らない。
 思考が行き過ぎた。このことについて考えるといつもそうだ。今は自分の不甲斐ない感傷ではなく、目の前の人の強さを邪魔せず、かつ僅かでも力になることが先決だ。となると、やはり自分が訊くべきことは心配や不安ではない。
「何か、俺にできることありますか」
 レオナルドはソファに座る彼の、前髪から覗く見慣れない額を見下ろした。
 サブウェイの包み紙をかさりとさせた彼は、じゃあ、と言う。
「珈琲でも、淹れてきてもらおうかな」 
 ……別に、大きなことを望まれると期待したわけではないが。
 お安い御用っす、レオナルドは空振った心地で了承した。

 珈琲両手に戻ると、食事を再開していたスターフェイズが顔を上げる。
 レオナルドのスニーカーは緩衝材のせいでライブラの綺麗な床を踏んでも音がしない。けれど、両手に珈琲を持っているからと誰に聞かせるでもない言い訳をしながら、わざと靴底を擦るようにして歩いて行った。きゅっ、と音が鳴るように。するとスターフェイズが口の端を親指で拭いながら言った。
……そんなに、気を遣わなくていいぜ。普段通り過ごしてくれて構わない」
 ばれている。
 レオナルドは下唇を突き出し、いや、だって、と言ったはいいものの、それきり続く言葉を見出せずに押し黙り、彼の前のテーブルに珈琲を置く。「ここ、置いときますからね」「ありがとう」礼は気軽そうだった。
 普段、普段通り。
 ついさっき、ほんの少しでも不安を抱えていると判断したが、視力以外の感覚で他者の気配を察知している彼は、目隠しをしていることを除けば本当に普段通りだ。
 つまり彼はいつも気配を澄ましながら過ごしているということだ。レオナルドには分からない、癖のようなものだろうということは分かる。ライブラの超人たちはそれを違和感なく自然に馴染ませている。
 だから感性が一般人のレオナルドからしたら、それって疲れないかなあと阿保のように思うことがある。疲れないから馴染んでいるのだろうが、レオナルドにはやはり分からない感覚だ。
 こちらの微妙な気持ちまでは察していない(いたとしても、彼こそこちらの心境を「よく分からない」顔して放っとくだろう)スターフェイズは、残り少ないサンドイッチを綺麗に口にしながら、もう片手を慎重な動作で珈琲に伸ばした。レオナルドは慌てて自分のカップをテーブルに置き、手助けしようと傍に寄るも、あ、と声を漏らす。考えるより早く掌を上にして差し向けていた。
 いくら完璧超人で気配に敏感なスターフェイズでも、見えていない状況で、パンからはみ落ちそうな野菜の気配までは察せまい。彼が食む完食手前のパン端から、レタスが零れた。
 と、レオナルドの手に落ちる。セーフ! ソファの背凭れで体を支えながら声を上げる。流れで横を見れば、間近に口許へ伸びる傷痕が見え、そのまま首筋に走る暗色の刺青まで映してしまい、また、あ、と声を漏らす。果たして彼とここまで接近したことがあっただろうか。ない。記憶を探るまでもなく、ない、と断言できる。
 濃紺の瞳は見えない。レオナルドは何度目か、妙におかしな気持ちになってそわついた。数秒。
 その数秒はあの副官が硬直しているという貴重な時間だったのだが、自分の違和に気を取られていたレオナルドには急速に感じられた。
「すまん。落としたか」身を引きながら言う。
「あっはい。レタスが」掌を見ながら、どうしようともだつく。スティーブンさんが食べ物零すの珍しいすね、と感想を言うのが正解とは思えない。 
「どこに落ちた?」
「ああ、えと、はい、あの、キャッチしました」
「ん」  
 珈琲に伸ばされていた手が淀みない動作でレオナルドの腕に触れる。そこから手首へ辿っていく。なぞられるような仕草にびくりと緊張した。
 やがて、硬い爪の先が掌の皮膚をこすり、指先がレタスをつまみ上げた。
 ひょい、と。
 彼の口の中にレタスが消えた。
 それも数秒だったが、レオナルドにとっては遅く、逆に彼にとっては速く感じられた。無自覚にだ。そのため何ら不思議もなく普段通りに時は進むが、ついとはいえ、ほかのことを一泊遅れて自覚したスターフェイズは再びすまん、と謝った。彼にしては焦った声音だった。
「行儀悪かった。すまん、ありがとう。手を洗っておいで」
「え、いや、そんな気にすることじゃ」
 掌についたソースと目隠しを交互に見る。本当に気にしていない。レオナルドは手づから物を食べることにうるさく言うほど繊細でもなければ潔癖症でも神経質でもない。むしろそういうこと気にするのは、あなたの方じゃないんすか。
 口がもだもだする。妙な心地が大きくなる。レオナルドは彼のことを完璧超人な大人だと思っているが、近寄りがたいと思っていた時期はとっくに過ぎている。彼がライブラのことを使命とは別に大好きなことを知っていたし、自分も忌まわしい目の事情とは別に、ここの人たちが大好きだと自認していたからだ。でも、今のは、そういうんじゃないだろう、と煩雑な思考のひとつが言う。そういうのって? ……なんだよ。俺はただ、スティーブンさんのテリトリーに入っても大丈夫だと、判断されてるだけだろ。嬉しいはずだろ。嬉しいよ。この人に認められるのは、クラウスさんやザップさんにそうされるのと同じくらい嬉しいさ。職場の人間と仲良くなれるのは、そうだろ。うん。解散。終了。
「拭けば大丈夫っすよ。あ、珈琲取りましょうか?」 
 レオナルドが身を起こし、いつもの距離感に戻ると、妙なことは何もなくなった。それにとても安堵する。
「いや、大丈夫だ。少年、昼は?」 
「僕は食べてから来たんで」
「そうか。僕も食べ終わったら仕事に就くが、きみは今日非番だろう」
「まさか俺の仕事サブウェイのおつかいで終わりですか」
 ちょっと非難するように言うと彼は肩を竦めた。
「まさか。言われたろう、クラウスに」
 へ、と口を開ける。
「きみは今日、仕事をする僕を助けてくれ。誇れよ少年、きみは手際がいいぞ!」
「えええ」 
 もしかしなくともレタスをキャッチした手際っすよね、それ。
 目隠し越しの楽しげな笑顔は、納得し兼ねるレオナルドの唸りを黙殺した。

 

 ぜってえ面白いことになると思ったのによ、とは電話越しのザップの言である。
 電波に混じって爆発音が聞こえ、遠くでツェッドの咎める声が響いているあたり、戦闘中に電話をかけてきたのは明白で、まあでもそんなことを言えるくらいの余裕はあるというわけだから、レオナルドははあと気のない返事をした。
 そろりと、執務室の脇に連なっている個室の扉がきっちり閉じられていることを視認し、書類仕分けの手を止め一応耳を傾ける。『スターフェイズさんに伝えてくれ、万事うまくいってるって』と直接本人に電話しないのは、それより不満がメインだからだろう。証拠に、先の残念そうな言葉を皮切りに、電話の向こうでぶうぶう言い始める。
『だって惚れ薬だぜ、惚れ薬! べっつにここじゃ珍しいモンでもねえけどよー、あの人がそれを引っかぶったってのはもう駄目だろ、もー面白い予感しかねえだろ、っと!』
 段ボールを潰したような断末魔が響き、うわっと端末を耳から離す。ちょっとザップさん、不満はいいっすけどそっちに集中してくださいよ、レオナルドが言うとわーってるよ俺がそんなヘマするかよ、おら魚類そっち一匹行ったぞ! と声を上げている。空を切る音や風の唸りのあと、何事もなかったようにザップのつまんなそうな声が『なのによ』と続けた。
『っンであの副官様は目隠しなんざしてるんだよ。面白くねえー』
「ザップさんあんたね……。や、もう。ぶれなさすぎて感服っすわ……
 おいおい褒めるなよ、ザップはそう言ったが遠くで『もっと言ってやってくださいレオくん』とツェッドの憤慨が聞えてきたので、あちらはスピーカーにしているのかもしれない。ツェッドさん、お疲れさまです。レオナルドは苦労性の後輩に労いもこめ、褒めてねーですと首ごと振って否定した。
「これが結構まずいことだって、俺でも分かるんですもん。ザップさんだってそう思ってんでしょう?」 
『あー?』
 ザシュッ、レオナルドが聞き慣れている、血刃が肉を裁つ音がした。
……惚れ薬ですよ。僕はフィクションでよくある効果くらいしか思いつきませんけど、目が合ったら~なんてオーソドックス、誰かと目が合った瞬間好き好きーってなっちゃうんすよきっと」好き好きー、の部分を甲高く言ってみると、向こうで爆笑のあとふと真顔を想像させる間隔があった。『だはははは! ……きもちわりいこと言うなよお前』
「ほかの人ならともかく、スティーブンさんがですよ。ライブラの指揮官、スティーブンさんが。ライブラ外の誰かを薬のせいで好きになっちゃったら、もうたぶん、情報漏洩どころの騒ぎじゃないでしょ」
 むしろ、今あの副官が目が合った者に骨抜きになると知られれば、敵対勢力がこぞって間者を送り込んでくるかもしれない。ハニートラップの阿鼻叫喚。
 スターフェイズが惚れ薬に見舞われるというのは、ほかの者がかかるより本人の冷静さがメリットになるが、それ以外は圧倒的にデメリットの方が多いだろう。
 ザップとて、それくらいのことは分かっているはずなのに。
『んなこたぁ、てめえに言われるまでもなくわーってるわ』 
 呆れ返った声音で言われる。
『俺はね、陰毛頭ちゃん。つまんねーって言ってんだよ。つまんねえんだよ。こんなネタそうそう起こらねーぞ。スターフェイズさんだぞ? お前あの人が旦那以外に好き好きーってなってんの想像できるか?』好き好きー、の部分を甲高く延ばした。レオナルドは「きもちわりいこと言わんでください」と返した。そのあと、すぐに付け加える。「想像できねっす。というか、無理でしょう」
『それだよ!』
 ザップが叫んだ。かちり、ジッポの蓋が開く。敵の悲鳴も重なった。彼は絶好調らしく、更にツェッドの不平が聞えた。
『このHLでも起こらねーことが起こりそうになってんだぞ! これが面白がれずにいられるかっての! はーっはっはっはっは! 想像しただけで笑いが止まんねー! サブいぼもだけど! やべっ燃やしすぎた』
 レオナルドはこの場にスターフェイズがいなくて良かったと心底思った。思うと同時、思い切りため息を吐き出す。なんというか、この先輩は凄い。本当にぶれない。ザップ・レンフロはいかなる状況でもザップ・レンフロだ。褒めているわけではないが、体の力が抜けたのは確かだった。感心するべきことでもないのだけれど。調子に乗るから口にはしないが、彼の気楽さは一種の才能だと常々思っている。それも、人にいい作用をもたらすタイプの。
 自分は思ったより深刻になっていたらしい。
「ザップさん。ぞっとしながら楽しんでんの、マジやめた方がいーっすよ。もうそれマゾ通り越して狂気っすよ狂気」
 だから軽口を叩きつつ、ソファの背もたれに体を預ける。すぐに電話を切るつもりだったが、もう少し先輩の愚痴につき合ってもいい気がしてきていた。幸い、気を張っていたおかげで、スターフェイズから任された、彼を助けることになる書類仕分けは、順調に進んでいる。ちょっとくらい休憩もいいだろう。レオナルドは端末を持ち直した。
「で、ザップさんが考える面白いことって、どんなのなんすか」
『んあ? そりゃおめー、決まってんだろがい。番頭がどこの馬の骨とも知らねえやつに惚れて、旦那にぶっ飛ばされることだろが』
 んん? レオナルドは糸目と糸目の間に皺を刻んだ。当然だろ、とばかりに言われたことの内容の、意味が分からない。どうかすれば誤解を受けそうな台詞である。
 スティーブンさんが、馬の骨に惚れたら、クラウスさんにぶっ飛ばされる? レオナルドは既視感を覚える。なんかいつぞやもこんな勘違いをしかけたような……。脳裏に十三王の一人、少女の姿をした色恋に狂わしい怪人、偏執王アリギュラが浮かぶ。そう、確か、彼女が、クラウスがブローディ&ハマー あたしの男を奪ったとかなんとか言っていた時の、あれだ。あれは彼女が言った通り面白い勘違いだった。とんだ修羅場だと一瞬戸惑ったものだ。
 それと同じ勘違いをしている。とレオナルドは正しく自分の考えが勘違いであることを悟っているが、しかし寸劇のようにイメージができつつあった。惚れ薬のせいでライブラとは無関係の女性(もしくは同性、異界人、なんだかよく分からない生き物)に恋をし、夢中になり、そしてクラウスが愛に浮かされた瞳を持ったその彼を、あの大きな拳でぶん殴る。背筋に悪寒が走った。具体的に何に対して怖気づいたのか。スターフェイズのあの濃紺のたれ目が熱を持つところか、ライブラの副官をリーダーが傷つけるというファンタジーより空想的な行動か、そんなことになったらライブラは親を二人同時に失うのも同然なのではないかという懐疑か、どれか、あるいは全て。レオナルドはぞっとして端末に縋りついた。いかん。いかん、これは勘違いだ。なんでイメージできてしまったんだろう。あの二人がそんな短絡的な事態に陥るわけがない。なのに。
「ザップさん」
 情けない思いで先輩の名を呼んだ。
『レオ? ンだよ』
「なんか今、離婚危機のある家庭にほっぽり出された気分です。スティーブンさんが一番だと想う人がほかにできても、たぶんクラウスさんはとめどない包容力でそれを応援するんでしょうけど、っていうかそれが現実的なんですけど、でもなんでかクラウスさんにぶん殴られるスティーブンさんも容易に想像できちゃって、そんな、俺、どうしたらいいんでしょう。ザップさん。スティーブンさんは誰かに恋したらぶっ飛ばされちゃうんですか? でもスティーブンさんの一番は揺るぎなくクラウスさんじゃないですか。なのに、けど、いっ、いまは、惚れ薬にかかってて、そ……そんなん、おれ。い、いやです。いやですよ」
『レオ、お前……
 どもりながら捲し立てた言葉は支離滅裂だった。だが必死さは伝わったのかスピーカーから神妙な空気が流れてくる。戦闘が終わったのか、さっきまでひっきりなしに轟いていた騒音も聞こえず、沈黙が訪れる。何か言ってくださいザップさん、レオナルドが耐え切れずなんでもいいから急かそうと口を開いた、ら。
 耳元で大爆発が起こった。
『ひいっやははははアーーーーッッッ!!!!』
 それは怪鳥の鳴き声に近いザップの笑い声だった。
……おまっ、ぶくっ、ふぐッちょっタンマ無理むりあはははは!! おまっお前! 面白いこと言うね!! ぶくくくっぐふっひい……ッだはははは! だは!! アッカンこれあかんやつだわっひいッひッひーッ!!』
…………、」鼓膜を突き破らん勢いの電話を離し、ぼそりと呟く。「そのまま呼吸困難で死んでください、どうぞ」
『同意見です』と怪鳥の鳴き声の後ろからツェッドの声が届き、存外近場からのそれにレオナルドはツェッドさんと呼びかけた。なぜそれほど笑っているのか皆目見当もつかないが、馬鹿にされているのだけはひしひし感じるので、優しい後輩にそのまま電話を代わってもらおうと泣きつきかけた。しかしザップの声が遮ってくる。
『そうかー、ぐひっひ……! ひ、れ、レオナルドくんは、ぱぱ、パパとママが別れちゃうのがっイヤなんでちゅねえ! パパとママっつーかパパとパパ……! 旦那と! 番頭が! アヒーー!! その時点で家庭崩壊だわ!! 家の子になりたくねえー!』 
「ううう、うるせー! うるせえですザップさん! 例え話でしょうが! 別に二人がデキてるなんて思ってませんよ!」
『これ以上笑かすんじゃねえよ!!!』
「知らねえよ! だっ、大体あんたが妙な言い方するからじゃん! スティーブンさんが惚れた相手をクラウスさんがぶっ飛ばすなんて、そんなんもう三角関係待ったなしのドメスティックバイオレンスじゃん!!」
『ひえっへ!!!!!!』
 引き攣れた音を残して笑いが途切れた。ひゅー、ひゅー、と虫の息が微かにしている。電話の向こうでクズな先輩が笑いすぎて死にかけているのだろう。ざまあない。
『あー、レオくん?』
 代わりに、やっと、救いである躊躇いがちの声が耳に届く。レオナルドはほっとして端末を近づけた。
「ツェッドさん」
『あの、別にレオくんがそういう勘違いをするのは、おかしくないと思います』
「ツェッドさん……
『でも、ええと、レオくんはあの場にいなかったからしょうがないんですけれど』
……ツェッドさん?」
『あながち、間違いじゃないというか。むしろ妥当というか、相応しい表現というか、的を射ているというか……
 レオナルドは背中にじっとりと嫌な汗をかいた。一体、なんの話ですか。紡ぐ前に、彼が言う。
『そういう話が、あの人本人の口から直接出たんです。スティーブンさん。万が一、自分が誰かに惚れたら――
 あっ、ちょっと! ツェッドが途中で叫んだ。震動と衣擦れ。掠れてがすがすになっているザップの声がおい陰毛、と笑う。
『正直お前が何を怯えてんのかサッパリだったが、わりかし面白い馬鹿事だった。さんきゅ、暇潰しにはなったぜ』
 この先輩に礼を言われるなどHLが一日平和であること以上に珍しいのに、全く嬉しさが湧かないのが悲しい。大体あんなに爆笑していてしゃあしゃあと。
『まあなんだ、魚類が言ったことが気になんなら番頭に直接訊きゃあいい。その方がお前、離婚危機なんて抜かせなくなんだろ』
……ちっともわけが分からねーんすけど。それに、僕、怯えては……何に……
『レオ。お前の一番の人間は?』
「ミシェーラ。なんなんですか?」
『じゃあ、スターフェイズさんの一番は』
「クラウスさん。だからなんの話、」
 ちゃんと分かってんじゃねーか、ザップが言った。
『ライブラ全構成員が分かってることだ。何を不安がる必要があるってんだ』
 ああだからっ。
 レオナルドは喚きたくなった。だからっ、おれ、なんの話か分かんねえんですって。言える余裕はあった。現にザップはこちらの言葉を待つような間を空けてくれている。本当に本当に本当に。なんなんだ、この先輩は! 彼にそんな気はないだろう、もし自覚があったならもっとチンピラ全開に接してくるはずだ、だから先輩にその気はない。レオナルドを慰めている自覚がない! そして気味の悪いことに、レオナルド自身も何を慰められているのか分かっていない。無意識に気を遣われている事実だけが先走り、内容と心情が追いついていない。そのため悩んだ。悩んで、それらしい正解を見繕うことにした。
「で、ですよね。スティーブンさんが、クラウスさん以外の人を選ぶわけがないっすよね」
 そうだ。
 それはレオナルドがミシェーラを見捨てることと同じなのだから。
 そんなのは有り得ない。
 たとえ、異常が日常の、ヘルサレムズ・ロットだとしても。
 電話の向こうで、ザップが笑った。
『そういうこった! だから俺は面白いことになんねえかなって期待してんだけどなー。オメーちょっと番頭の目隠し外して街歩いて来いよ』
 ……いや全く。どうしようもないぞこの先輩は。
 いっそ安心するほど、堂々巡りにクズしている。
  


 一人用の作業部屋は、パソコンとカップを置いただけでいっぱいになってしまう小さな机と、キャスターつきの椅子のみがある、狭い個室だ。レオナルドは使ったことがなかったが、時折、執務室に訪れた構成員が使用しているのを目にしたことがある。
 時刻は昼の三時を回り、ここに来てから約三時間は経過していることを知らせる。
 スターフェイズが惚れ薬と目が合ったのが今朝のこと。薬の作用時間がどれほどなのかも調査中と言う。人狼局が優秀なのは紛れもない真実だが、彼はいつまで目隠しで生活しなければならないのだろう。惚れ薬のことばかりかまけているわけもいかないのだ、進捗によっては一日二日では難しいのではないか。
 そうなると、スターフェイズはその間ずっと目隠しをしている、しなければならないということになる。
 それは、ちょっと。ちょっと困るような、とレオナルドは考える。
 右手は、彼がこもっている部屋の扉に伸びたまま、固まっている。ノックをしなければならない。声をかけて、さっきザップさんから万事うまくいってるって電話が、と言わなければならない。
 でも、それをするとなると、あの目隠しをした姿の上司と対面しなければならなくなる。
 一体なんなんだ?
 困るって、何が。ちょっとどころじゃないだろう。あの人はライブラの副官なんだぞ。組織にとって大打撃だ。でも、それだけじゃない。
 俺個人が困っている。
 何をだろう。レオナルドは糸目と糸目の間にぐぐぐと力を入れた。
 非番中にサブウェイのおつかいを頼まれ、事務所に着いたらクラウスから事情を説明され、その隣にいる目隠しをしたスターフェイズを見たその時から、レオナルドはずっと。妙になっている。
 先ほどのザップとの通話でそれはより顕著になり無視できない感覚にまでなっている。もだもだ、むずむず、そわそわ。擬音にするならそういった妙な感覚は、どんな理由をつけてもレオナルドをしっくりさせない。
 目隠しをしている姿が、ミシェーラを思い起こさせるから。
 副官という立場の人が、厄介なものに見舞われ組織的に不安だから。
 そして、もしも、スターフェイズが誰かの目を見てしまったら、……あの人の一番が、クラウスさんじゃなくなってしまうから。
 なんだ? レオナルドはノックしようとしたまま動かない右手を見た。握り拳をおもむろに開き、そこに答えを見出すように凝視する。
 最後の。電話の時もそうだった。クラウスさんがスティーブンさんの一番じゃなくなるのが、俺は嫌なのか? 嫌だろう。嫌に決まっている。そんなのは世界の崩壊だ。誰だって世界が崩壊するのは嫌だ。実際の世界が崩壊するとまではいかなくとも、第二次崩落の予期にはなりそうだ。それくらい有り得ないことで、だからこそ同じくらい、気づかぬうちに、ふと、起こり得ることだ。
 でも、ザップさんが。ザップさんがそんなことは起こらない(と隠喩的に)言ってるんだ。わざわざ、俺にとっての一番の、ミシェーラを引き合いに出して分かりやすく言った。だったら、起こらない。惚れ薬にかかったスティーブンさんは、その効力が切れるまで、誰の目も見ない。そんなことは分かっている。あの人はそんなヘマをしない。自分たちがライブラを家族と見立て、そして起こりもしない離婚危機に怯えるのも、よく考えたらやはり無意味で取り越し苦労だ。だって何度も言うがそんなことは起こらない。
 じゃあ何に怯えてるんだ?
 そんなことは起こらないと分かっているのに、なぜスターフェイズの唯一無二がクラウスじゃなくなるのを嫌だと思うのか。そこには組織的な理由ではなく、もっと個人的な感情が存在している。それは、なんだ?
 そもそも、ミシェーラを思い起こすからスターフェイズの目隠し姿が妙に感じるというのもおかしな話だ。盲目になったというわけでも、眼球がなくなったというわけでも、ましてや神性存在と一方的に契約させられるような悲劇でもない。目隠しの向こうには、夜になったばかりの空のような、あの群青色の両目がきちんと揃っている。
 レオナルドは右手を閉じたり開いたりした。義眼で見るまでもなくただの線まみれの、ところどころ皮が厚くなっている武骨な手だ。身長のわりには大きいと言われることがある。でも、何も掴み取れなきゃ、意味がない。答えがあるはずだ。全てのことに納得できる、幻影に塗れた本物が。
 ――たとえば、あの瞳が。
 夜闇を薄く凍らせたあの瞳に、篝火が灯るとする。戦闘時のような苛烈な赤ではなく、この街の冷たい霧を染め、存外穏やかにさせる温かな赤だ。スターフェイズが恋をしている。先ほど、誰かに恋をしているスターフェイズなど想像できず、なぜかクラウスにぶっ飛ばされる姿は想像できたが、“誰か”を仮定せずに、恋をしているスターフェイズを想像してみる。
 熱を帯びた瞳。緩く笑む頬。優しい声音に、レオナルドよりよほど大きく骨張った、繊細な手つき。
 手とは、繋ぐためにあるだろう。恋をした場合。すると、やはり、想像してはいけない“誰か”にその手が伸ばされる。スターフェイズは笑っている。一人の男として、幸せそうに、はにかんで、手を繋ごうと指先を差し出す。
 その瞬間、レオナルドの想像の、恋をしているスターフェイズがクラウスの猛攻にぶっ飛ばされた。
「え、ええ……えー……
 な、なんなんだ。
 なんだ、なんだ、どういうことだ?
 自分の掌を穴が開くほど見つめる。集中した視神経が誤作動を起こし義眼を発動させる。掌に青い光が漏れ、皮膚の皺、筋肉の流れ、血管の交差、骨の節を順繰りに見通した。答えが見つかりそうで見つからない。
 つまり、これは、このイメージは。
 恋をしているスターフェイズがクラウスにぶっ飛ばされるのは、もしや、自分の願望では?
 ……なぜ?
 しかし、ザップとツェッドが気になることを言っていた。レオナルドの願望かもしれない、そしてザップが面白がるそのイメージが、なんだかスターフェイズ本人の口から語られたようなことを――
 ――そこまで! 思案を途切れさせる硬質な音が、軽く目前からもたらされた。コンコン。義眼が閉じる。ハッとして掌からドアへと視線を移した。
 コンコン。閉じたドアの内側から、ノックがなされている。
「あー、少年?」
 部屋の中から戸惑った声がした。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ? 僕が開けたドアにぶつかりたいってんなら、無理に止めやしないが」
 
 ところで、あまり義眼を人前に晒してはいけないレオナルドは、驚愕を段階的に癖づけるため、度合いが低い時は口が自然と開くようになっている。驚愕レベルが最高値に達すると目をかっ開きところ構わず視野混交 シャッフルしてしまうからだ。だからといって自分の驚き具合を操作することはできず、もちろん、口があんぐり開いているだけでも、相当驚いていることになる。
 個室の入口に立ったレオナルドは、ぎょっとして大口を開けていた。
 狭い部屋の、小さな作業机に乗り切らない分の資料が、床を埋めているからではない。
 椅子に座ったスターフェイズが、体をこちらに向けている。
「す、スティーブンさん、目隠し……
 猫背になって膝に腕を置いている彼の俯きがちな顔には、あの黒い帯が巻かれていなかった。癖毛が眉間に垂れ、影を作っている。合間に覗く両の瞼はしっかり閉じられている。そのことに過剰なまでに驚いていた。
「め、目隠し……
 おかしい、おかしい、おかしいぞこれは。
 もだもだ、むずむず、そわそわ。
 この妙な感覚に、目隠しは関係ないのか?
 困惑極まっているレオナルドの前で、目を閉じているスターフェイズがあっけらかんと言う。
「ああ、きみだって分かってたし。閉じてりゃいいんだ、わざわざつける必要ないだろ?」
 そりゃ、そうだ。
 テーブルで紙束の下敷きになっている黒い布の端を発見し、そうですよねと頷く。惚れ薬にかかっていようがこの人の仕事量は変わらない。どこまでもいつも通りだ。いつも通りじゃないのは自分だけだ。
 中に踏み入るのは床にある紙のせいで(そのはずだ、おそらく)躊躇われ、レオナルドはそこに突っ立ったまま彼の閉じた瞼へと視線を落とした。
「あの、さっき、ザップさんが」
 万事うまくいってますって、電話が。
 伝えると、彼は満足そうに口の端を上げた。
「そうか。力のいる荒事はあいつらに任せるに限るな」
「電話向こう、爆発とかが、ドカンと。ツェッドさん大変そうでした」
「いいコンビだよ、あの二人。しっかしあいつ、なんで僕に直接電話しないんだ」
「いやー、はは……
 あなたの状態をネタにしているからです、とはザップがクズでも言えない。レオナルドとて庇えるところは庇いたいのである。
 乾いた笑いをどう思ったのか、それともレオナルドよりザップのことを知っているからか、全てお見通しとばかりにスターフェイズは肩を竦めた。
「あいつに好かれてるな、きみは。ほんとに」
「そんなことないっすよ」
 反射的に口にした言葉は謙遜として使ったものではなかった。照れ隠しでもない。レオナルドはザップに後輩として好かれていることを知っている。だが、そんなことないと答えたのは、彼には飛躍しすぎていたかと思い、言い直す。
「そんなことないっす。ザップさん、ちゃんとスティーブンさんのことも好きなんですよ。僕だけじゃないです」
 スターフェイズは顔を上げた。
 面白いくらいに、わけが分からないという顔をしている。
 確かに、と思う。今の自分の台詞、脈絡がないのではないか?
 彼は純粋に「好かれてるな」と事実を告げたまでだろう。自身がザップに好かれていない、と思っているような口振りではなかった。しょうがないなあいつは、と親のような気苦労さえ見えた。スターフェイズの中で、電話ひとつでザップがレオナルドに親しみを持っていることを再認識させたのは、少し照れくさい気持ちではあるけれど。あの人、あなたのことも好きなんですよという言葉に行き着くには、わけが分からない流れだ。
 レオナルドは慌てた。でも本心だった。撤回するには真実すぎた。
 だったら、ちゃんと、自分にも彼にもわけが分かるようにしなければならない。
「ええと……ちょっと待ってください」
「ああ、うん。大丈夫か?」
「大丈夫にしたいです。何か……質問してください。わけが分からないと思ってるんでしょう」
「まあね」
 彼は猫背を正して椅子に座り直し、背もたれに体重をかける。会話を続けようと椅子の軋みが言っている。レオナルドは急に自分の第一の用――ザップの伝言を伝える――を終えたことを意識し、彼の仕事量を慮った。
「あ、いや、でも。忙しいなら、別に、」
「いや。ちょうどいい。休憩にしよう。きみと話すのは、分からないことが多くて、存外好きなんだ」
「そー……っすか……
 複雑だ。果たしてそれは休憩になるのかとか、よく彼と話している時にこちらの言い分を「分からない」顔で聞かれるけれどあれは別に疎ましがっているわけではなかったのかとか、なんだ良かった安心したわーとか、何もかもが複雑だ。
 それを今から、少しずつ紐解いていこう。レオナルドは居住まいを正した。
「では、質問を、どうぞ」
 彼は瞼を閉じたまま天井を仰ぎ、突き出た喉仏を曝け出した。レオナルドはさっと視線を逸らす。また、そわそわ、している。
「じゃあ、まあ、普通に。なぜザップが僕のことを好きって話になった?」顔を戻して眉間にも口端にも皺を乗せた。「自分で言うとあれだな、ぞっとするな」
 彼のどこを見ても落ち着かないのかもしれないと思い、「ええーと……」目を床に落としたまま口を開く。
「スティーブンさん、当たり前みたいに僕が好かれてるなんて言うから」だから、「当たり前みたいに、あなたもちゃんと好かれてるんですよっていう、」話に、な、なります。
……そうだとして」大人らしい整然な声。「それを今言う意味は?」
 それは、とレオナルドは考える。
 それは、たぶん、ザップとの電話が尾を引いている。
 レオナルドは自分の内側にあるものをなんとか綺麗にろ過してから声に出そうとするが、なんと説明して良いか迷い、結局、出てきたものは到底綺麗になっていない、じゃりじゃりのままの雑多な言葉たちだった。
「こんなこと言ってるのがバレたら、たぶん、僕は、あの人の血紐で簀巻きにされてハドソン川に流されるんすけど」
「お、おお」
「これは、僕もなんすけど。どころか、ツェッドさんだって薄っすら思ってますよ。つまりですよ、ザップさんも、口では『家の子になりたくない』とか爆笑してましたけど、……それにあの人は『離婚危機なんて抜かせなくなる』って言ったんだ」
「少年?」
「つまり、つまりです。俺たちはみんな、ここを家族のように思ってる。クラウスさんとスティーブンさんを、親のように」
…………、いやちょっと待って鼻水出そう」彼は鼻を押さえた。
 レオナルドは待ってやらない。大事なことを言うように強く口にする。
「だから、好かれてるのは僕だけじゃなくて、スティーブンさんもなんです」
 そしてすらすらと堰が切れた。
「これを今言う意味は、あなたが惚れ薬にかかってるからです。スティーブンさんは誰にも惚れない。好きな人は、もしかしたら、いるのかもしれない。でも僕は分かってるんです、あなたの一番がクラウスさんだって。クラウスさんと世界を差し置いて誰かにいれあげるなんて、きっと、ない。でも、もし。もしもってことがあります。もしクラウスさん以外の誰かのもとへ行ってしまうなら、僕はその時、すごく後悔します。なんでもっとあなたたちが好きだって言わなかったんだろうって。僕たちには二人が必要なのに」
 だから想像の中の恋するスターフェイズはクラウスにぶん殴られていたのだ。あれはレオナルドの負け惜しみだ。こんなに好きなのに、自分たちを置いてほかへ行ってしまうことを子どもじみた癇癪で怯えていた。そうなるなら、クラウスにぶん殴られてしまえばいいと八つ当たりした。最低な正解だ。
 レオナルドは、クラウスを一番にしているスターフェイズに安心し、そして、好きだなあと思うのだ。
 スターフェイズの一番がクラウスでなくほかのどこの馬の骨とも知れない相手になるのが、心の底から嫌で、もしもそうなるなら、そうに、なるなら。あの凍った瞳に炎を灯す相手がクラウスのほかに、いるならば。
 そんなの、自分だっていいわけではないか。
……は、」
 今。
 ……何を考えた?
 あまりに傲慢で唐突に浮かんだ捻くれに、レオナルドは信じられない気持ちで顔を上げた。数歩歩けば届く距離に、目を閉じたスターフェイズが椅子に座っている。筋の通った形の良い鼻を押さえ、前髪の奥、瞼をぎゅっと閉じている。指の隙間で頬の傷が引き攣れている。考える人だ。石像とはポーズが違うけど、この人は今何かを考えている。よく分からないことについて、必死に。
 それを見て、レオナルドは一切の思考を放棄した。自分はおかしい。目隠しをしたスティーブン・A・スターフェイズを見た時から。離婚危機、などと、馬鹿げたことを案じるほどに。クラウスじゃないのなら、自分をその目に映しても良いのではないか、なんて、そんなのまさしくクソガキだ。融通の利かない癇癪持ちの子ども。小さい頃に似たような思考に陥った覚えがある。まだまだ甘えたい盛りの時に妹が生まれ、両親を取られたように思った、少しばかり面白くない拗ね方。スターフェイズを誰かに取られるとはそういうことだろう。そういうことにしておいた。レオナルドは目の前で考えている男を見つめ、それきり考えるのをやめた。一種の防衛本能だった。
 対して男はしばらく考え込んだのち、唸り声を上げた。
「つまり、……懐柔しようとしている?」
 いっそ愉快なほどの低音。
 鼻水の危機は去ったのか、両手を膝の上で組み、こちらに向き合って再び猫背になっている。表情からは伊達男の部分が削ぎ落ち、ただの疲れて悩める大人の皺を作っている。
 閉じたままの瞼をそっと窺い、ああ、まだ妙な感覚だけが消えていない、とがっかりする。自然、返事は気落ちしたものになった。
「はあ。懐柔っすか」
「お前の言い方だと、まるで、俺にライブラにいてほしいから好きだと言っているように聞こえる」
「ん……いや、その通りじゃないですか。僕らスティーブンさんがいないと駄目っすよ。誰かに惚れなくなるなら、懐柔でもなんでもします。好き好きーって」甲高い声を出すと、彼は思い切り唇を引きつらせた。
「自分がとんでもないこと言ってるって、自覚してるか、レオナルド」
「正気にさせねーでください。親が離婚危機なんす、なりふり構ってられんでしょう」
「きみの親は別にいるだろう」
「ライブラの親はあなたとクラウスさんです」
「クラウスだけだ」
「じゃああんたは、なんなんすか」
 ぐう、彼はまた唸った。
「スティーブンさんて、クラウスさん大好きでしょう」レオナルドが言った。「クラウスさんも、スティーブンさん大好きなんですよ」
「お前、そんなな、知ったようなことを、」
「だって知ってますもん。見てりゃ分かりますもん。あんたら、両想いですよ。僕はお二人が楽しそうにしているのが好きっす。だから、スティーブンさん。クラウスさん以外のこと、好きにならんでください」
「お前……」頭の後ろを掻きむしった。「K・Kに聞かせてやりたいね」傍目に見てもヤケクソだった。
 レオナルドは知らずのうちに張っていた肩を丸める。「なんか、スッキリしました。言いたいことほとんど言えた気がします」
「そうか。僕は逆に悶々としてる」
「わけが分かりませんか」
「ちっともだね。大体、なんだ、……待て待て、じゃあきみらは俺とクラウスがホモ野郎だって思ってるってことか?」僅かに英語が崩れた。
 彼はわりとスラングを放つし、中指も立てるし、ザップと違って血凍道はいざという時にしか使わないが、それとは別に足癖が悪い面もある。ザップは下品な不良だが、レオナルドはたまにスターフェイズのことを上品な不良だよなと思っていた。
「ホモ野郎とは……考えたことありませんでした。ザップさんたちもそうだと思います。だって、恋愛とか、そういうふうには……」そこでハッと今まで考えつかなかったことを恐る恐る訊ねる。「まさか、え、お二人は、そういう……
「違う」
 スターフェイズは気分悪そうに断言した。
「たまにそうやって見てくるやつもいるけどね、断じて違うよ。むしろこれが恋愛ならどれほどいいか……
「そうなんすか」
「だって、そうだろ。俺があいつに向けてる愛情が俗っぽかったら、」彼は言葉を選ぶ素振りをした。「……もっと、うまくいってるはずだ。色々と」
 そうだろうか、とレオナルドは思った。彼の言う「色々」が何かは分からないが、恋愛の愛情の方が、ほかのどの情より難しそうに思える。(というのも、レオナルドは淡い恋心を抱いたことがある程度で、世の中の惚れた腫れたにさほど詳しくはないので、厄介そうなイメージだけ持っているからだ)友情は極めてもどうにもならないが、恋情は極めたら結婚にいきつき、時には別れたり愛憎劇を繰り広げたりする分、うまくいく道が狭そうに思うけれど。大人にとっては――彼にとっては違うのだろうか。
……じゃあ、スティーブンさんは、今は誰かに恋してたりは」
「してないよ」
「惚れ薬にかかっててもですか」
「しないよ。ああ、もう、分からないな」
 スターフェイズは濃紺を隠した顔でこちらを見上げた。
「きみが僕らのことを大好きなのは分かった。僕らの関係を、まあ、最上級の友情としよう、それに惚れ薬によって亀裂が入り、ライブラが危険になるかもしれないと想像したのも分かった。けど、分からない。少年、きみ、一体何を不安がってるんだい」
……不安がってるように、見えましたか」
「そう聞こえた ・・・・
「分からないんです……」躊躇いがちに呟く。
「きみも分かっていないのか」
「スティーブンさん。スティーブンさんは、恋をしたら、クラウスさんにぶっ飛ばされちゃうんですか」
「は……?」
「そうだ、だって、ザップさんとツェッドさんがそんなような話を。あと……」レオナルドは暗色の髪と同じ色をしている、短く量の多そうな睫毛を見下ろした。「俺、変なんです。あなたの目が見えないと、なんか妙な感じになるんです」これって、呪いか、惚れ薬の他者に対する副作用か何かだったりしませんか、言いかけていた唇は突如鳴り響いた警報に痙攣し止まった。仕事隙間の質疑応答休憩時間が、寸の間も置かず張り詰めた空気に支配される。
 スターフェイズの端末が胸ポケットで震え、彼は副官の顔でそれを取った。
 HLの異常な日常の喧騒が、端末の向こう、窓の外、地下深くから聞こえてくるようだった。



※   
 
 
 
 街の地下を張り巡る水道管たちしか知らない話をしよう。
 今朝とある研究所に強行突破し不服申し立てを行い、スターフェイズに氷漬けにされた彼らとは、違う彼らの話だ。
 紐育の街が一夜にして崩落し、再構築されたのは、何も地上に限っての話ではない。地下も同等にいじくられ、くそったれな地上を支えるための地盤を魔術的にも建築的にも異次元的にも強化された。そして、地面の中にも等しく生物というのは生息している。
 彼らは概ね地下の生活を穏やかに過ごしていた。当たり前である。地面の下が戦乱状態ならば、たちまち地上は支えを失い文字通り崩落するだろう。地下はいつも平穏を擁すのを心がけ、なるべく穏便に、喧騒を遠ざけようと生きてきていた。(極たまに、今朝のような暴挙に出ることもあるが、普段の地上の無体具合を見れば可愛いものだ)
 よって、これは彼らの意思ではない。
 穏健派の彼らは仲間のいくつかが凍結され帰ってきた時、既に留飲を下げ水道管らしく体内の水の流れを静かに感じていたのである。
 彼らは強い。HLの何とも知れないものが混ざった液体を受け入れ、循環させ、蛸足の潜む海と折り合いをつけて排出する。彼らは身の内を流れる液体の影響を受けない。たとえば工場排水。生活水。汚水。異界人の体液や、麻薬に毒薬、酒、時には呪詛のようなものが溶け出たものまで。それら全てを受け容れ、流し、決して破裂することがない。彼らは強く、寛容だった。
 彼らを脅かすものはいつだって地上からもたらされる。
 そして、地上は往々にしてそのことに気づかない。
 彼らだけが知っている話だ。
 ライブラが追い、スターフェイズが根を回し制圧させ、今もその残滓を片付けているとある研究所。この施設がいかに狡猾に愉快にともすれば間抜けに悪事を働いていたか、そんなのはライブラや地上の誰かが知っているためさして重大ではない。問題なのは、かの施設で扱っていた薬品が、非常に厄介な手順で彼らの体内に取り込まれたということだ。故意か事故か、そんなことは彼らにとってどうでも良く、そこに至るまでの経緯も騒がしくなければいつもの通り受け流してみせる。水道管は善悪を判断しない。よって彼らは厄介な液体の混ざった水をいつもの通りその身に巡らした。普段通り。
 けれど誰も想像しないのだろうか?
 強く、静寂を好み、いつだって地盤を支える一部である彼らにも、崩す体調があるということを?
 彼らは初めてその感覚を知った。加えて自分たちが存外弱いことを学んだ。彼らはもう約三年間もストレスを抱えていた。自明の理。
 HLの生活用水に異界産の悪質な混入物、研究所の残り汁のように捨てられ続けていた薬品群、そしてストレス。全ては流されることなく混ざり、絡みつき、結託し――
 ――水道管たちは、いわば。吐き戻したいくらい、気分が悪かった。




 
 
 
 このスーパーカブにライブラの副官を乗せて走るのは始めてのことだ。
 座席の取っ手をしっかり掴んでいる副官は、巨躯を縮こめて後ろに乗っていたリーダーとは違い、そこまでの重量がなくスピードに関わってこない。ただ、ぴかぴか光る革靴を履いた長い足が窮屈そうで、だからというわけではないがレオナルドは後ろへ声を張り上げた。
「大丈夫ですか、スティーブンさん!」
 何を案じられているのか察したスターフェイズは、参った、と素直に困り声を発した。
「いやー、目隠しでジェットコースター乗るより怖いな」
 だったら、やはり大人しく事務所で指示を飛ばしているべきだったのだ。レオナルドはやんわりそう言おうかと思ったが、すぐにいやいやと口を噤む。この人が選んだ、今が最善だ。
 警報と電話によって壊された問答時間は跡形もなく、今やいつも通りの異常な日常が起こす驚異的な時間が流れ、二人は秘密結社の一員として騒動へと向かっている。警報・電話ともに、解決には異能の力が必要だと知らせてくるものだったからだ。
 レオナルドは電話に応対していたスターフェイズの台詞が忘れられない。相手はおそらく、いや確実に最近共同戦線を組むことの多いHLPDの警部補だった。状況説明に嫌味に貸し借り、組織に与する大人同士の一筋縄ではいかない会話。こちらが有利になるよう事を運べたのか、スターフェイズは口許に笑みを乗せてこう締めくくった。『僕に惚れられたくなきゃ、現場から目玉を持つ生物をなるべく退けてくれませんかね。それで手を打とう』
 レオナルドはもう少しであんた正気ですかと上司に訊ねるところだった。
 何も、あなたが行かなくてもいいでしょう。目隠しのまま行って、それで戦えるんですか。頭を占めた言葉は出来損なって口から飛び出た。『何で行くつもりですか。目隠ししたままなんて、死にますよ』スターフェイズが問う。『きみ、今日何で来た。地下鉄か』『バイクっすけど』『決まりだな。タンデムしようぜ、少年』その時のスターフェイズのさり気なさと言ったら! たとえ目が見えなくともこちらに否を取らせない威圧がさり気なく織り込まれていた。レオナルドはげっと顔を引きつらせて何度も首を縦にし、目隠しを結び始めていた彼にも分かるよう叫んだ。『ッサーイエッサー!』
 ボスといい補佐官といいクズな先輩といい、どうしてこうも人の後ろに乗りたがるのだろう。(乗りたがっているわけではないが状況がそうさせてくる)左右上下に斜に前後、時には異空間、HLの運転はそれだけで全方向から命の危機に晒されるというのに、彼は口では怖いと言いつつ目隠しのまま平然とタンデムしている。
 それをしてもいいと思われているくらい信頼されているのか、それともそう思わせることで利用しているのか、もうどっちでも良かった。ただ安全運転を迅速に遂行するのみである。ライブラの副官を交通事故で死なすなんてことになったら、くすりとも笑えない。
「あの! 現場に着いたらどうするんですかっ?」
 まさか彼が何の策もなく飛び出したとは思えず、とはいえレオナルドはそもそものところ現場で何が起こっているかも知らされていなかった。詳しくは、だ。大まかに『旧パークアベニューの大通りの水道管が乱心している』ことだけは知らされている。わけが分からない。
 丁度信号が赤に変わる。停り、見上げると、信号機に寄生しHL中の道路交通情報を把握している異界生物が、赤い光のなか目玉をぱちくりさせていた。あれと目が合っても惚れちゃうのかな、レオナルドは薄ら寒くなる。次、右折しますから、と振り払うように言うと、スターフェイズもああと答える。
……どうもこうも、相手は水道管だ。やることはひとつだよ」
「そりゃ……っ、あなたが行くんですからそうなんでしょうけどぉ」
「適材適所。惚れ薬にかかっていようがいまいが、今回は僕が適応してるんだ、仕方ないさ」 
「ほ、ほかの皆さんは?」
「もちろん呼んである。ただ到着は遅れるだろうな。だから少年、」
 レオナルドは嫌な予感がした。
「きみだけが頼りだ」
 腹の底が窺い知れない声音でそんなことを言われて、レオナルドは、信号が変わった瞬間ちょっと事故を起こしそうになった。

 HLPDの規制線が張り巡らされている地点まで来た。本来なら向かえば向かうほど野次馬が多くなるのだが、今回はスターフェイズの電話が受け入れられたのか現場周辺は閑散としている。
 ……周辺に限っての話だ。レオナルドとスターフェイズの耳は規制線の奥から轟いてくる騒音を正確にキャッチしている。これが水道管が乱心している音なのだろう。
 線の外側でバイクを停めると、脇に停車しているパトカーに見知った影を見つけ、レオナルドはあっと声を上げた。
「ダニエル警部補」
 後ろでスターフェイズが身動ぎ、話さなきゃ駄目かなあなどとぼやいている。
 パトカーの彼はこちらに気がつくと、手を上げて不機嫌そうに(これは最近気づいたことだが、彼は不機嫌そうなのがデフォルトであり、実際はそれほど不機嫌ではないのかもしれない。しかし、まあ、レオナルドにはまだ本当に不機嫌なのかそうでないのか見分けがつかないので、いつもの仏頂面に見える)大股で近づいてきた。
「おうスカーフェイス。あの電話は一体どういう意味だ、中々に気色悪いこと、を……
 バイクの上から二人揃った顔を向けられたロウは言葉尻を窄めると、レオナルドのゴーグル越しの糸目と、スターフェイズの黒い目隠しを交互に見やり。そして同情をふんだんにこめた眼差しをレオナルドに定めた。
「なあボウズ、いくら職場の冷徹な上司だからって、嫌なことは嫌って言わねえと。法廷で合意の上だと見られるぞ。それともそういうプレイか?」
「ロウ警部補!」スターフェイズがわあっと声を上げる。「おかしな邪推をしないで頂きたい!」
「順当な邪推だろ」彼は噛んでいた煙草を上下させる。「お前の趣味がそんなだとは思わなかったが」
「違いますよ」レオナルドはスターフェイズの名誉を守るべく口を開いた。が、なんと言えばいいか分からずもごつく。「あの……ちが、違うんです」
「うまいフォローができないなら何も言わないのが得策だぜ」と言ったのはロウで、泰然とした態度からどうやら本気で誤解していたわけではないことが分かる。あのスターフェイズを隙あらば揶揄おうという姿勢は、K・Kと似通ったふうに見え、大人組のその距離感はレオナルドには届かないもののため新鮮に思えた。(だからといってあの揶揄いの仕方はこちらの心臓も痛くなるので切実にやめてほしかったが)
「それで、スターフェイズ。お前なんでそんなもんしてやがる。ゴーグルの代わりじゃねえだろう」
「実は惚れ薬のせいで目が合ったらまずいんだよね」
 レオナルドは隠しもしない彼にぎょっとした。
 警部補は眉をひそめる。
……ちょっと待ってろ。うちの部署でとびきりの美人呼んでくるから。冗談か?」
「本気だよ」
「ほーう」逡巡したのち、くしゃりとしかめっ面になる。「くそ、惚れられたら相手が可哀相で誰も呼べねえ」冗談みたいな台詞だったが本心のようだった。
 レオナルドにはスターフェイズに惚れられた相手が可哀相という発想がなく、なるほど確かにそうかもしれないと妙に納得してしまう。というより、ライブラの男どもに惚れた・惚れられた相手はことごとく可哀相だな、と思う。かたや世界の均衡を守る男、かたやその補佐を務める男、かたや金に女に酒に薬にだらしがない(フォローをするならあれでいて面倒見がいいチンピラ)男、あとは主人に忠実な好々爺に、武器マニアの大男、極悪犯罪者と一心同体の青年に、ああ、未だ人の機微には少し疎いが心優しい後輩は……この街でそんなの気にしてはいられないが……まだ十三歳。そして自分は妹ひとり守れず盲目にさせた腰抜け野郎。駄目だ。誰も彼も相手が幸せになる未来が見えない。
 スターフェイズもそう思ったのか、やけに自信ありげに頷いた。「その通りだよ警部補。部下が可愛いだろ?」おかしな脅しだった。それでいいのかスティーブンさん。可哀相云々は置いておいて、彼に惚れられるのは結構嬉しいことなんじゃないだろうか、意識の外で浅く思う。
「そんなわけだから。あなたのとこの部下にも、事が終わるまで待機していて貰いたい」
「なるほどな。ま、構わねえさ。今回はうちの出る幕じゃねえ」
「水道屋は呼んだの?」
「呼んで解決できるならとっくに呼んでる」
「ただ水が噴き出してるってわけじゃないんだよな」
「ああ。あれに触れられた異界人はことごとくパーだ」
 何かとても不穏な言葉が聞えた気がする。
「人間に影響は?」
「今ンとこは確認されてない」
「それだけ分かればどうとでもなる。レオ」
 呼ばれ、振り返ると、彼は既にバイクを降りていた。
「ここからは徒歩だ。きみの貴重な移動手段を壊したくはないし。行くぞ」
「うえっあっハイ」 
 終わったあとのことはよろしくお願いしますよ、警部補。擦れ違いざまに言い添え、スターフェイズはすたすたと歩いて行く。レオナルドは慌ててバイクを路傍に駐車させ、煙草をふかしている男に駄目もとで訊いた。「あの、終わるまで、僕のバイク見ててもらうことって……
 彼は仕方がなさそうに肩を竦めた。
「こんなんでも警察だ。目の前でスリなんざさせねーよ」
「ありがとーございます!!」レオナルドはこの日一番の歓声を上げた。 

「ところで、少年。僕たちはほとんど二人で組んだことがないわけだが」
 規制線の内側へ入り、その背中に追いつくと、スターフェイズが柔和に切り出した。
 レオナルドは隣に並び歩きながら、前を向いている目隠し男を見上げる。
「はい」
「きみ、いつも、ザップにどういうふうに守られてる」
「え……」質問の意図が読めず、どうって、と答える。「自己責任で。なるべく、血法の餌食にならないように」
「そうか。僕の時も概ね一緒で頼む」
「うえっ」
 素っ頓狂に声を跳ね上げたレオナルドを、彼はついと見下ろした。
「なんだ。不満か」
「いッいや、不満とかそういうんじゃなく……え、スティーブンさん、僕を守るつもりですか」
 今の訊き方はまるでスターフェイズにその力量がないかのような訊き方だった。気づいたレオナルドは急いで取り繕おうとしたが、彼がこちらの思案を先んじてなんでもなさそうに笑う。
「目隠ししてても、戦闘力だけはきみよりあるぜ」
「でも、」
「それに、僕を助けてほしい」
「は……
「目が開けられないんだ。敵の位置とか教えてくれ」
「う……」アリギュラの暴走車の時とは違うイエスの言わせ方だ。無言の抵抗を試みたものの、結局レオナルドは小さく「ハイ」と答えた。スターフェイズが満足そうに前へと向き直るのを見届け、ひっそり下唇を突き出してやる。
 この人は無策で事に当たらないが、当然の如く無茶も無謀も無理もする。今回は無茶の部分が大きくはないだろうか。勝機があるからそんな状態で非戦闘員のレオナルドを伴って来ているのだろうが、それにしたって不安要素がありすぎる。目隠しのまま本当に戦えるのかとか、戦えるように全力でサポートするつもりだが自分の義眼の使い方は万能じゃないのにとか、それを知っているはずなのに「助けてほしい」などと言うのは意地が悪いけど本心なのかとか、大体乱心している水道管とパーになっている異界人の説明をしてもらっていないだとか、それと、それに……
 レオナルドは目許を隠している黒い布をじっと見上げる。
 万一、事故で誰かしらの目と目が合ってしまったら、とか。
 あの群青の瞳が熱を灯す瞬間にもしも立ち会ってしまったら、レオナルドはどうなるか分からない。離婚危機かと危ぶむだけであんなに情けなくザップに言い縋ったのだ、現場に居合わせたら泣き喚くかもしれない。誰ぞを口説くスターフェイズ。あとから来るであろうクラウス。修羅場。泣き喚く自分。……家庭崩壊。
「うう……
「エッ泣いてるのか?」
 隣の伊達男はぎょっとしたようだった。レオナルドは鼻水が垂れていないか口の上を擦って確かめた。大丈夫だ、垂れていない。
「イエ……まだ泣いてないっす」
「これから泣く予定なのか。えーと、あー、ハンカチやろうか?」
「いらねっす。いらねっす」
「二回も言うほどか……
 慰めるのが下手くそなのはチェインに対してだけかと思っていた。レオナルドはもう何も言わずに歩みを進めていく。思えば、スターフェイズは伊達男であり、その垂れ目からは想像できないほど屈強、人心掌握に長け、家事もできるし(ライブラでは彼からたまに料理のお裾分けが配られる。彼のところの家政婦が作ったのかと問うと、彼は歯切れ悪く自分が作ったことを述べ、それを初めて聞いた時レオナルドは「やべえ」「すげえ」「うまい」しか言えなかった。彼は座りが悪そうにしていたが、もしかしたらあれは照れていたのかもしれない。マジか)とにかくライブラの冷徹な副官という立場を退ければ純粋にモテる要素しかない。(いや、いや、待った、HLの外基準で考えるとあの頬の傷と刺青はマイナス要素……でもないか……見方を変えても別の素敵な面に見えてしまう、全くルビンの壺のような男である)なのに、これはおそらく彼自身は自覚していないのだが、スターフェイズという男はプラスの感情に疎い気がある。
 たとえば、チェインからの憧憬。(これに関して言えば、レオナルドは反則技の――レオナルドが一員になる前からのチェインの癖、ライブラ執務室で希釈して憧れの人をほんの少し見つめること――義眼で知ってしまっただけなので、ほかの者が気づいていないあたり彼女はよほど優秀な諜報員だ。スターフェイズが気づかないのも仕方ないかもしれないが、それだけは誤解ないように)
 街で助けに行った幼い者からの感謝。老人からの労い。
 他者からのどころか、この間の飲み会では「楽しい」という言葉が咄嗟に出てこず『なんかあれだな、心臓に羽毛が生えたみたいだな』などと零しK・Kに『分かる英語で喋ってくれる? アンタそれ一言で済む話よ』と半ば憐れまれていた。『一言? 何?』『Happy』『...Happy』ひょっとするとこの男は自分の喜楽にまで疎い時があるのである。
 慰めるのが下手で、人心を掌握するのが得意のくせに自分に関する利用できない感情には疎い。伊達男の少ない短所だ。
 そんな男が、長所も短所も曝け出して、目が合った者に薬で作られた好意を伝える。
 うう。
 目隠しをしたスターフェイズは嫌だが現場で暴れている誰かに恋するスターフェイズも嫌だ。
 なぜこうももやもやするのだろう。スターフェイズにとっては半日近く、レオナルドにとってはその更に半分、彼の目がちっぽけな布に隠されているだけなのに。
 レオナルドはもぞもぞする胃の辺りを押さえて決意した。
 決してハンカチが要らないよう、自分にできることを限界突破してでも頑張ろう。
 クラウスに元気なスターフェイズをお届けするのがレオナルドの最終目標なのだ。



 端的に言おう。
 水道管が乱心している。
 
 二人が進むにつれ轟音は近づき、霧は湿り気を帯び、地面は水分を帯び始めた。
 レオナルドはそれだけで充分不気味に思っていたのだが、隣の男が目隠しも蒸れたりするんだなさっさと取りたい、目を閉じるだけでいけるんじゃないかなあ、とぼやくので更に気を揉んだ。絶対取らないでくださいよ、と念を押しはしたけれど彼も本当は目隠しに辟易しているのだ。この件が無事に終わったら惚れ薬案件を速やかに取りさばくだろう。だから、早く、現状を何とかしないと。
 と、辿り着いたそこでは最早水が意思を持って曲がりくねっていたのである。
 大通りにいくつもあるマンホールは弾け飛び、そこから怒涛の勢いで水が噴き出している。
 一帯は水浸し。だがその水は地面に留まらず、宙空を踊り滑っている ・・・・・・・・・・。霧を薙ぎ払うほどの風圧と水圧の流れもあれば、小雨のように降りしきる流れもあり、それらを生み出す地面のマンホールたちは乱心という表現が相応しい荒れ方だった。原理は謎だが、水を盛大に芸術的に吐き戻している。
 そういう光景が、およそ五百メートル先で起こっている。あそこ一帯だけ雨雲があるように水が暴れている。しかも、それだけではない。
 見えていないスターフェイズはポケットから手を出すと、レオナルドの背中に手を添え身を屈めた。「どうなってる?」
 装着したゴーグルに手をやる。周囲の人払いが済んでいるとはいえ、義眼をいつ見られないとも限らない。レオナルドはわざわざ身を屈めてくれた男に素早く報告した。「やばいです。あの水」
「具体的に」
「ぐっちゃぐちゃです。普通に見れば普通の水なんですけど、これで見る限りあれは……ウエッ……なんかよく分からんもんがごちゃごちゃ混ざってます、あれ絶対飲んだらアカンやつです、飲んだら死にます。むかし教科書で見たガンジス川より酷い」
「飲まないよ。そんなにか」
「はい。肉眼じゃ見えない異界の微生物に、油っぽい何か……てかてか光る……術のようなものまで……、あれって地獄から出てるわけじゃないですよね?」
「言い得て妙だな。ここが地獄ならそうなる」
 否定してほしかった!
「あれほんとに人間に影響ないんすか」
「分からん。それを頭から被ったポリスーツは何事もなかったようだが」
「生身じゃねえ! の、飲んだら死にます」
「まあ、現場に少なからずいた人類は無事だったんだ、大丈夫だろ。口も閉じるにこしたことはないけどね」
 初めて耳にする被害報告にじゃあ水の中で暴れているあれらはそういうことかと仮説を立てる。そう、結界のように展開している水の内側、暴れているのは水道管だけではなかった。
 その場で居合わせた異界人たちだろう。組織やデモにしては纏まりがない。十数人(匹や羽、なんと数えればいいか分からない見目のやつもいる)が、ある者は傍らの建造物に突っ込み、ある者は地面を転げ回り、ある者はひたすら叫んでいたりと、皆正気を失った様子で水とともに暴れ狂っている。原因は明白。あの魔的な噴水だ。
「テロにしては規模が小さいな。最近環境系の組合が悪さしてるっていう情報もなかったし……普通に水道管が破裂したかな」
「じゃあ事故っすか。僕らの下にはあんな水が流れてるんですか。もっと環境に優しくなろう……
「中にどれくらいいるか分かるか?」
「十……六人」
「よし。インカムはちゃんと付けたな」
「はい」
「クラウスたちを呼んではいるが、まあ、あいつらじゃ大元の水は止められないだろう」
「はい」
「きみの役割は?」
「相手の位置の伝達、自己責任回避」
「オーケーだ。くれぐれも無茶はしないように」
 およっ、レオナルドは義眼をおさめて振り仰いだ。「し、しなくていいんすか」
 腰を曲げているせいでいつもより近い副官は、目隠しでも分かる呆れた顔をする。
「当たり前だろ。今の僕じゃ充分にきみを守れないかもしれない。無茶してる暇あったら逃げろ」
「ど……っ」何かを言いたかったのだが喉が詰まった。少し見上げた先には癖のある前髪が垂れた黒い布とそこから覗く古傷、滑り台だったら止まらず事故りそうな形良く高い鼻筋と、呆れて曲がっている薄い唇がある。まただ。レオナルドは上唇と下唇を巻き込むようにして黙った。
 変だ。妙な感じだ。おかしくなっている。
 濃紺の瞳が見えない。義眼なら透かせる。見てはいけない。
 もだもだ、むずむず、そわそわ。きりきり。
 自分の体内からしてはいけない音がしてくる。
「おい、レオ?」
 ずっと背中に添えられていた手が肩を揺すったために、レオナルドはくっついていた唇を無理やりにでも引き開けた。「了解っす。僕ぁ逃げられるなら逃げますよ」言うと、彼は曖昧な返答に一瞬顔をしかめたが、諦めてため息を吐いた。「よろしく頼むぞ。きみに怪我させたとなっちゃあ、クラウスに申し訳が――」そこで口を噤む。スティーブンさん? 途切れたことを訝しみ、呼びかけると、ああ、と彼が生返事を寄越した。「……あの、どうかしました?」
 水の向こうでは轟音が鳴り響いている。傍らの建物が崩れかけている。あまり悠長なことはしていられなさそうだが、彼はそうして数秒間だけ動かず喋らず銅像と化していた。
 やがて、すっと体勢を正したため、高くなった見えない目線を追うようにレオナルドが顔を上げると、彼はこちらを見下ろしてそうかと呟く。
「ライブラがきみの言う家族 ファミリーなら、僕は、クラウスときみこそが、と思ったんだけれど」  
 えっ。
 この「えっ」は実際に口から飛び出た。
 急な話題の転化についていけなかった「えっ」と、急は急だがもしや先ほどの休憩時間から話しをぶり返してきたのかという「えっ」と、それにしたって時間差がありすぎるし彼の中で話が繋がっていようがこちらとしては言葉の意味が分からないぞという「えっ」だった。
 しかしそんなことは我関せずなスターフェイズは、面白くなさそうに両手をポケットに突っ込み、肩を丸めた。
「でも、それはなんか嫌なんだよな。あいつをとられると思ったのか……うわ、ガキじゃあるまいし」
 そしてすたすた歩いて行ってしまう。
「えっちょっスティーブンさ、」
 レオナルドにはわけが分からない。背が高く猫背ぎみの後ろ姿がやっぱり少年と話すのは分からないことが多いなあと零しているが、それはこちらの台詞であり、ただなんとなく彼のクラウスに対する親愛が透けてみえるような言動だったし、彼がそのまま戦闘に踏み込もうとしているのも察したので、せめてこれだけはと後ろ姿へ声を上げた。
「スティーブンさん! 誰も見ちゃ駄目ですよ!」
 大丈夫だよ、彼は後ろ手を振って答えた。



 さて。
 事態はあっけなく収束に向かっているように思われた。
 少なくともレオナルドは口では渋ったもののそう大事にはならないだろうと思っていたし、たとえ目隠しをしていようがあの氷の副官がちょっと錯乱している程度の異界人たちに後れを取るわけがないと思っていた。事実、その通りだ。

 スターフェイズはまず足を踏み下ろし地平を凍らせた。もちろん、後ろで控えていたレオナルドの靴裏が凍りつかない加減でだ。するとどうなるか? 彼の口から白い吐息が漏れ出る間に、蓋を弾き飛ばし噴出していた地下水が凍結、連鎖、宙空を舞う液体全てが氷の堅牢へと変貌を遂げた。湧き出ていたもの、小雨のように地から降っていたもの、脇の標識を抉る勢いで滑空していたもの、それら全ては一瞬で凍りつき、霜を下ろし、一帯を零度以下まで落ち込ませ、離れているレオナルドの隙だらけな首裏を粟立たせ歯の根を噛み合わなくさせた。冷気がぶわりと地を這い吹き荒んでくる。レオナルドは一歩後退ったが、スターフェイズはそれより大きな一歩で前方へ踏み込み。下半身が凍っても狂乱から抜け出せていない大型異界人の、狂騒として倒れ込んできた上体を蹴り飛ばした。たちまち全身が氷像となって時止まり、それを見届ける依然に見ていない彼は氷像を足蹴にして向こう側に消える。
 一連の流れを震えながら見ていたレオナルドはそこでようやく我に返り、あの人俺にサポートされるの向いてねえよ! と半ばキレながら追いかける。氷像にされた大型異界人の氷張り痙攣している目玉を寸の間目にしたあと(おーいおいおい同情じゃあるめェな、とザップの幻聴が聞えた。正直彼の無神経な物言いと熱い炎が恋しい)すぐさま副官を視界におさめようと首を向ける。大型異界人の足元に隠れるようにして膝をつき、義眼を展開させた。
 視野を広く。高度を高く。全体を見渡すために。彼の布に隠れた視力の代わりになれるように。
 視界を拡大し、縮小し、選別し、地面や宙に囚われ満足に動けず狂乱している異界人たちの視線に引きずられそうになりながら、いいやこっちが支配する側だと眼窩に嵌った両の義眼を駆使する。氷漬けにされた飛行型の異界人の視界を借りることも考えたが、それよりはとレオナルドは己の視点を広げ続けた。氷の堅牢の端から端まで。そして半ばまで進んでいた男に合わせ、全方位を精密に見守る。
 目隠しをしているスターフェイズは目隠しをしていたってスターフェイズだ。
 今日だけで何度思ったことだろう。何度でも思ってしまう。
 彼は静かにそこにいた。静かに、痛烈に、半分凍傷になっていようが構わず正気を失くして暴れている異界人たちを、正確に凍結へと追い込んで行った。
 張り巡らされている氷柱下がった堅牢を難なく掻い潜り、それが震動や破壊される音で進退を見極め、脚を振り下ろす。
 レオナルドの出る幕がない。
「全身に目玉でもついてたりして……
 凍える息を吐きながらの呟きは、インカムを通して彼の耳に届いてしまったようだった。俯瞰の視界、彼の口元が薄っすら弧を描く。『人間やめてないつもりだけどね』言ったあと、突っ込んできたスライム状(ただし半分凍ってジェラートのようになっている)異界人を蹴り砕いた。地面にばらけて悲鳴を上げる。
 全て死なない具合でやっているのが、また恐ろしい。
 体を真っ二つにしても生きている異界人がほとんどだが、それにしてもだ。スターフェイズはクラウスより体力や力技が劣るかわりに、誰より技巧が凄まじい。本当に。どうしてこの場に自分がいるのか甚だ疑問だ。だってスターフェイズを補うものは全てクラウスが持っているし、その逆も然りだ。レオナルドの出番など――
――っ、足元から来ます!」
 叫ぶや否や、彼は低く飛んで技を繰り出した。たった今まで彼がいた箇所に無数の凍剣が降り注ぎ、服を着たなまず(タイかヒラメ。レオナルドにはそういうふうに見える魚型異界人)を串刺しにする。『仕留めたかい』「はい」『その調子だ Good少年 boy』降り立ち白を吐き出す副官は機嫌が良さそうで、レオナルドはむげっと口を曲げた。「……そーやって褒められる歳じゃねーですよ」ささやかな無線越しの反抗は彼の頓着ない『そーだったか?』に相殺された。(まさか本気で訊いてきたわけではあるまい。えっ、冗談だよな?)レオナルドはそうやって必要なのか不必要なのかハッキリしないサポート役を務めるに徹した。スターフェイズの背を預けたり隣り合わせで戦うのがクラウスなのは、当たり前のことだ。自分は精々それを見ることしかできない。自分の重要な役割だった。
 スターフェイズの剣舞のような攻撃が続いていく。彼は余裕であり、神経を研ぎ澄ませ、時にはレオナルドの指示に身を委ねていた。
「あまりそこから左手に行かない方がいいです。建物が崩れそう」
『了解。残り……五人か?』
「正解っす。でも一人は氷に阻まれて動けそうにありません」
『ん。思ったより簡単で良かった』
「スティーブンさんにとっちゃ、こんなの、思うまでもなく簡単だったんじゃないんすか」
『まさか!』――……エスメラルダ式血凍道、絶対零度の風 ヴィエントデルセロアブソルート――レオナルドが言ったら確実に舌を噛みそうな異国語が耳に届き、音声と視界の動きが一致する。それで終わりだった。全てはレオナルドに被害もなく氷に閉ざされた。『結構不安だったよ。目が見えてりゃ、最初から全員凍らせてるさ』凍りついた世界でスターフェイズは肩を竦めた。
 彼の風は広範囲を瞬時に無力化する。それをしないのは、ほかの技に比べコントロールが難しいのか仲間が近くにいた場合巻き添えにしないため。今回は、きっと、相手方が不能になったかきちんと気配と聴覚をもって確かめるために、だろう。そう予想をつける程度には、自分はスターフェイズのことを分かった気でいるのかもしれない。
 とにもかくにも、毒水によって錯乱していた異界人たちは全員大人しくさせられた。時間にして、僅か十五分。一人当たり一分も掛かっていない速やかなる収束だ。レオナルドは拍子抜けして傍らの異界人にもたれかけた。
「なんかやっぱり、僕いらなかったんじゃないですか」
『どこかだ。ちゃんと見てたのか? 充分助けられた』
「そっすかね。そうだといいんすけど……」言いながら、広げていた視野を徐々に狭めていく。熱を持つほどではなかったが、目の奥が少々痛んだ。ゆっくり、着実に、定めていた視線を離し、自分本来の世界に戻していく。ゴーグルを外し、その途中、何かが引っ掛かった。ん? 凍結している地面の揺らめく光ではない。もっと奥、もっと下だ。義眼をズームする。見えすぎるものを選り分ける。地面の下。凍っている管。その中で脈打っている水の流れを捉えた。まるで血管のようだと思う。その瞬間、レオナルドの喉からほぼ叫声が飛び出た。
「スティーブンさんッ!!」
 
 ドガンッ!
 間髪容れずレオナルドの背後にあるマンホールが内側から弾け飛んだ。
 濁流が襲いくる。インカムは彼の焦りを拾った。
 暗転。







 まあ、人間として考えてみてほしい。
 吐き戻すくらい気分が悪い時に、喉や腹を絞められたら、より死にそうにならないだろうか。
 つまりは、そういうことだった。




 
 

「おいレオッ、レオナルド! しっかりしろ!」

 どの感覚よりも真っ先に、意志とは関係なく視覚が起動を始める。
 最初に見たのは群青。夜の帳が下りた色。それを認識した途端、どっと安心感が溢れ出た。溢れ出るままに口を開こうとして、肺に侵入してきた冷気にひどく噎せ返る。
――レオ!」
 おや、この人はこんな声の出し方をする人だったかな、とぼんやり思った。偽物じゃないだろうな、とも。脳が疑った通りに義眼は働き、きりきりと収縮を繰り返す。本物だ。本物のスターフェイズだった。
 レオナルドの薄く開いた瞼から漏れる光に照らされ、夜の色が仄明るく瞬く。安堵したように、黒髪と同じ色の吊り上がっていた眉が下がった。
「おい、義眼なんて作動させてどうした、何を見てる?」
「す、」げほっ、ごほっ、咳を二、三度。「……、スティーブンさん……」視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚も正常に機能し始めた。「み、水も滴るいい男っすね……」レオナルドの目に映る彼は全身ずぶ濡れだった。
「軽口が叩けるなら問題ないな」彼は脱力して、レオナルドの肩を掴んでいた手の力を緩める。
 がちり、レオナルドの歯の音が鳴った。噛み締めた隙間から白息が漏れ出ていく。そろりと辺りを見渡し、うわあと恐れ混じりの感嘆を吐いた。
 辺り一面、道路も、信号も、標識も、両脇の店舗も、何もかもが凍りついている。
 氷の世界。紛れもなく、眼前の彼が生み出した世界だ。
 冷たさは、ない。冷気とともに烟っている霧は温かな赤に満ちていた。夕焼けだろう。そして、目の前には、空より一足早い夜がレオナルドを見ている。
「えーと……
 手足は惑って動かなかった。レオナルドは地に蹲るスターフェイズに抱き留められている。それを正しく認識していた。血凍道の使い手の体は温かく、レオナルドの体温を上昇させている。「何がどーなって、こーいうことに……?」面白いくらい声が震えている。
 対して動揺も何もしていないスターフェイズは、いつも通りの ・・・・・・何を考えているか分からない濃紺の瞳でこちらを見下ろしてきた。
「水道管が新しく破裂し、きみは流されかけた。被害が広がらないうちになんとかしたよ。分かるかい?」
「わ、分かったことにしときます……
「宜しい」
 スターフェイズがなんとかしたと言ったらなんとかなっているのである。
 ということは、全てに決着が着いたということになる。「ぼ、僕、どれくらい気を失って……?」「五分くらいかな」「すみません……」結局、最後の最後で足手まといになった感覚が拭えない。そりゃ水道管破裂など予期できないが、自分がこうはならなければスターフェイズの目を露わにさせることも――
 ――夜色の、瞳?
「ウワァアーーーーッ!!??」
 絶叫も絶叫、大絶叫。
 レオナルドの目に映る彼は目隠しをしていなかった。
「すすすすてぃーぶんさ、スティーブンさん! 目隠し! 目隠しは!?」
 若干引き気味に体を仰け反らせ、彼は憮然と言い放つ。
「そりゃ、取るだろ。さすがに見えないままは難しかったんだよ」
「だからって! だからって! ああやっぱり全部僕のせいじゃないですか! あんた一体誰を見たってんです!?」
「少年、」
「この現場で目が合うっつったらあんたが凍らせた異界人! ぼかぁ嫌ですよ自分が凍らせたトチ狂った異界人相手にメロメロになるスティーブンさんなんて!!」
「レオ、」
「うえええんこりゃ離婚危機だ家庭崩壊だ、クラウスさんになんて詫びれば……!」
「レオナルド!!」
 びくっ。レオナルドは口も目も開けた。「な、なんすか」
「だから、きみだって」スターフェイズが厳しく名を呼んだのとは裏腹に、困り顔で言った。「目が合ったの。さっき」
 絶句。
 レオナルドは思考も舌の動きも止め、氷像にされたかと見紛うほど見事に静止した。
 見兼ねたスターフェイズが気遣わしげにレオナルドの瞼を閉じさせる。糸目に戻っても群青はそこにあった。
 脳が考える働きをやめても体の方はそうはいかず、どっと冷や汗が噴き出た。心臓だけは死にかけている頭を慮り、必死になって血液を循環させ、どくどくと忙しなく拍動を続けている。内臓がカッと焼け焦げた。熱い。暑い。寒い。冷たい。顔色を赤くさせたり青くさせたり。何かを言わなければならない。舌がもつれる。
 だって、変なんだ。レオナルドは泣きそうになった。
 目が見えないのを妙に感じていたはずなのに、目が見えても、変わらず妙な感じになっている。
 だって、だって。自分は勘定に入っていなかった。彼が目を合わせるのは、有り得ない“誰か”か、恋情がなくとも我らがリーダーのはずだった。自分なんて見ていいはずがなかった。
 それなのに、彼の瞳を見た瞬間のあの安堵は、一体なんだ。何事もなく助かったから。それはあるだろう。半日以上ぶりに見る彼の瞳をやけに懐かしんだから。それもある。それらだけじゃない。
 ――クラウス以外の誰かに目を向けるなら、自分だっていいわけではないか。
 ……浅ましい。それだけはよく察した。それ以外はよく分からなかった。やはり考えたくなかった。自分の心情の細部まで見通すことは神々の義眼でも拒絶を示した。
 ただ、目の前の男は、レオナルドの想像していた恋するスターフェイズとはかけ離れた星の輝きを、その瞳に宿している。
……少年、」
 肩を掴んでいた手が腕へと滑り、もともと抱き竦められていた体勢が更に密着する。柔らかな癖毛がレオナルドの額をくすぐった。でこがぶつかる。冬の、においがする。
 ごきゅっ、レオナルドの喉がみっともなく鳴った。
……惚れ薬ってのは、たとえば」スターフェイズが興味深げに言う。「相手の服をびりびりに破きたくなる類いかと思ってたんだが」
「へ、………………?」
 ……と、言いますと? 訊ねると、彼は視線を下向けレオナルドの首元の布をつまんだ。
「ちっともそんな気が起きない。むしろきみ、これ結構布地が薄くないか?」
 俺の攻撃範囲にいる時寒いだろ、彼が言った。
 レオナルドは。
 レオナルドは、その時、手足はきちんとかじかんでいるのに、寒さなど微塵も感じていなかった。彼に覗かれた首筋から目の奥へ熱の塊が駆け巡る。「す、」すてぃーぶんさん、発音を忘れたような呼びかけは、しかし、自分の喉から発された奇声によって掻き消された。「うぶえッ」
 見開くスターフェイズの目の前でレオナルドは宙を飛んだ。飛ばされた、と言った方が正しい。
――どッああぁあああ!?」その浮遊感は親しみたくはなかったが慣れたそれだった。自分の腹に赤く脈打つ紐が巻きついている。氷の世界から温かく烟った霧へと視界が反転する。端で、白銀が夜に飛びかかっているのが映った。
「確かに俺ァ面白いことになんねえかなって思ってたけど職場内の上司と後輩の非合法ホモ事情はマジ勘弁っすわ!! これでも後輩がかわっ……いくはなくはないないクソ生意気な陰毛バカヤローのために、覚悟番頭ォオ!!」 
「ザップさん……ッ!!」ねえそれって結局罵倒してるだけになってますよ、あとなんかアンタ勘違いしてるう! 言葉はまたもや衝撃による奇声で発し損ねた。「どふゥっ」「大丈夫ですか、レオくん!」「つぇ、ツェッドさん……」何パイダーマンよろしく血糸とシナトベで滑空していた後輩に受け止められる。体から離れた血紐の行方を追うと、ザップが血刃を振るっているところだった。
「何ちんたらしてやがンだ魚類、さっさとそいつ連れてけェ!」
「言われなくとも!」
「おい待てザップ何か誤解が……!」
 スターフェイズも即座に脚を振り上げている。
 血刃を構える手とは別の手に巻き戻ってゆき大きく蛇行する血紐は、握られたジッポによって炎を纏った。蒸気。噴煙。氷の世界が真っ赤に揺らめく。視界は不良を極めた。だがレオナルドには関係がない。義眼はしかとこの世で最も高貴な赤色 ・・・・・が白煙から飛び出すのを認めた。
 レオナルドの眼下で、目隠しをしていないスターフェイズが、ライブラリーダー、クラウス・V・ラインヘルツに、ぶっ飛ばされた。    







 幻界病棟ライゼズの完全秘匿の病室で、手も足も胴も頭も包帯ぐるぐる巻きにされたライブラの副官、スティーブン・A・スターフェイズが横たわっている。
 その傍らには小さなパイプ椅子に巨躯をおさめ、汗を飛ばしまくって背中を丸めているライブラのリーダー、クラウスが座っている。
 眼鏡の奥の目つきはいつも通り決して良くはなく、顔色も目の前の怪我人よりいっそ悪いふうだった。揃えた膝の上で組んだ手を強く握り締め、更に更に身を縮こめる。「……スティーブン」あんまり消沈した声音だった。
……本当に、すまなかった。私の早とちりが過ぎたのだ。申し開きのしようもなく……
 ともすれば体中から罪悪感の圧が出そうだった。
 それを受けたスターフェイズはよせよクラウス、と親密に返す。
「何度も言うけど、きみのせいじゃないって。誰も想像しなかったろ、まさか惚れ薬の効果が半日で切れるだなんて」
 そうなのである。
 スターフェイズがザップの攻撃を避け、反撃しようとした刹那、彼はクラウスの横からの猛攻に吹き飛ばされた。受け身を取る暇もなく全身強打、意識は喪失。そして病院で目覚め心なしか泣きそうになっているライブラお抱えの諜報員チェインから、やっとこさ調べ上げた惚れ薬に関する概要を聞かされたのだ。効果は半日。もとより研究員のお遊びで作られたようなジョークグッズで、強力なものではなかった。つまり、レオナルドと個室で問答を繰り広げていた時には、とっくに効力は失せていたのである。
 スターフェイズはチェインの前でため息を吐きそうになり、それは情けないとぐっと堪え、おそらく不甲斐なさで胸を痛めている年下の部下に言った。「あー、頼むからそんな泣きそうにならないでくれ。今ハンカチの代わりになるものが、包帯しかないんだ」スターフェイズとしては元気づけようとして言った言葉だったが、どうやら彼女には逆効果らしかった。滅多に彼に向けては表情を崩さないチェインがくしゃりと顔を歪めたため、スターフェイズは結局情けなく慌てて下手くそな慰めを駆使するしかなかった。
 そして彼女と入れ替わるようにして見舞いに来たクラウスは、もう三十分ほど、そうして罪悪感で体を丸めている。
「大体、俺が頼んだんじゃないか。自業自得だぜ、この怪我は」
「しかし……
「むしろ感謝したいさ。きみは約束を守ってくれた」
「だが……
 親友を傷つけるのは、本意では、なかった。クラウスが重々しく言った。
 そうかあ、とスターフェイズは思った。そうか、俺、きみに本意じゃないことさせちまったか。
 なんだかこちらまで罪悪感に駆られそうだった。スターフェイズの前、クラウスが組んだ手で鳩尾の辺りを押さえている。「あー……」スターフェイズはもう仕方ないなと頑固な紳士の罪悪感をこの際つついてやることに決めた。
「そんなに胃を痛めるなよ、クラウス。僕も折れた胸が余計に痛む。ははは」
「ぐぬう……!」
 たちの悪いブラックジョークは優しいリーダーにとって拳より効くのである。



 一方、レオナルドは。
 勘違いとはいえあのスターフェイズに歯向かったことを戦々恐々としているザップとともに、ライブラ執務室のソファに蹲って屍のように死んでいた。いや生きてはいるのだが。もうずっと死にそうになっている。ギルベルトがかけてくれた毛布が生命線の繋ぎのようになっている。それを頭から被り、真向かいで同じく死んでいる先輩に弱々しく呼びかけた。
「ザップさん……
「あンだよ陰毛頭……
「お二人が離婚しなくて良かったです……
「そーかよ……
「なに、それ。なんの話?」死んでいるザップの頭の上に陣取っていたチェインが、不思議そうに首を傾げた。傍のソファに座っていたツェッドが、それはですね、と説明を始める。
 レオナルドはうううと呻いた。恋するスターフェイズなど想像の産物、最初からいなかった。クラウスにぶっ飛ばされたけど。ぶっ飛ばされるに至った謎だった理由も三人から聞いてすっきり解明したし、その理由はやはりクラウスとスターフェイズの何ものにも壊せない、レオナルドが見ていて輝かしく好ましい絆によるものだった。自分がずっと悩んでいたものは全てなくなった。そう思ったのに。なのに。
 もだもだ、むずむず、そわそわ。とくとく。
 あの目隠しをしていない夜色の瞳を思うと、妙な感じになる。しかも、新しい擬音が増えている。
 なんなんだ、一体。なんなんだ、ちくしょう。
「チェインさん……
 レオナルドは、ツェッドから事情を聞き、笑いを堪えている彼女に訊いた。
「あの惚れ薬、目が合った人に対しての何かしらの作用とか……ないんすか」
 チェインはきょとんとして答えた。







 最後に。
 ライブラの非戦闘員、やむを得ず昼から出勤だったが、朝は非番だったレオナルド・ウォッチ少年だけが先ほどまで知らされなかった話をしよう。
 今朝のことである。
 スターフェイズがとあるファンキーな研究所を制圧し、惚れ薬にかかった状態でライブラに帰還した時のことだ。
 電話でザップを叩き起こし呼びつけ、ツェッドにも水槽から出て来てもらい、心配するクラウスをソファに座らせ、目隠しをしたスターフェイズは毅然と告げた。自分は今、目が合った者に惚れる状態になっている。当然の如く部屋内は緊張と衝撃が走ったが、ほかが口を開けるより早く続けた。
「そこで、きみらに頼みたいことがある。特にクラウス、きみにだ」
 その様はどこまでもライブラ副官だった。
 見えていないだろうに、クラウスへと顔を向けている。
「あ、ああ。何だろうか」
「俺が万が一誰かの目を見たら、ぶちのめせ」
 ヒュッ……ザップか、ツェッド、あるいは両方の喉から、吸いそびれた空気が音を鳴らした。クラウスは目を見張り、牙の覗く口で「だが、」と言い募る。おい違うぞ、スターフェイズが遮った。
「ぶちのめすのは相手じゃなく、俺だ。え、勘違いしてないよな?」
 少なくとも斗流兄弟弟子は勘違いをしていた。二人は戦闘員として彼の強さを知っているし、なんならその横暴さも、冷徹さも、ライブラのためなら生死の推量を一瞬で優位になるよう見極める非情さも、察している。だから彼が目を合わした人物をそうしろと言ってきても、何もおかしなことではなかった。
 だがクラウスにとってはどちらの解釈でも一緒なのか、「ぶちのめすのか、きみを、私が」胃が痛そうに倒置法を使った。
「そうだ」あっけらかんと頷く。「俺は誰にも現を抜かすつもりはない。ライブラのためだ。分かってくれるな?」
 そうした方がいいのは、秘密結社としては、当然だった。
 しかしクラウス本人としては承服し兼ね、誰かに恋をするそんな非常に珍しいというか自分が知る以上初めてであろう事態に薬で陥れられた友人を、その時になって自分が殴るなど、良心が痛まないわけがない。きりきり痛む胃を押さえ唸っていると、「頼むよクラウス」スターフェイズは少々縋るように懇願した。
「俺の愛情はきみやライブラに対するものでいっぱいなんだ。それを薬で捻じ曲げられるなんてゾッとしない。強制的に浮気させられるみたいなもんだよ。憐れに思ってくれ」
 ザップは余計なことを口走る前に歯を食い縛って耐えた。ツェッドはハラハラと見守っているが、なぜそんなに真面目にいられるのだろう、と思う。こんな面白い案件。不安がる要素は何もないように感じる。だって、スターフェイズが目隠しをしてまで惚れ薬の効力を防ごうとしているのだ。そんなの、万が一も何も、彼は絶対誰の目も見ないだろう。迂闊な事態にはならない。せっかくこの先ないようなとても面白い案件なのに、面白いことにはならないのをザップは確信し、一人残念がった。そしてやはり、起こらないことのあらゆる可能性まで考え、そんなことを信頼故に頼み、クラウスに断りづらくさせる言葉選びをしたのも、お人が悪いとしか言いようがない。しかしまあ、本心だろうな、今の録音して姐さんに聞かせてやりてェな、ザップは食い縛っているのも限界で葉巻を咥えた。
 限界を迎えたのはクラウスもだったようで、懊悩するのをやめ、重たい口をようやく開く。
「分かった。……約束しよう、スティーブン。きみが惚れ薬のせいで本意無しに何ものかに惚れた場合、私はきみをぶちのめす」
 ぐふっ、ザップは火のついていない葉巻を吐き出しかけた。真面目な顔で、真面目な声で、紳士が随分凶悪なことを言う。スターフェイズは目隠し越しでも分かるほど満足そうに「約束か。ありがとう」と頷き、次いでザップとツェッドに向き合った。
「お前たちにもこれから処理してもらいたいことがある。まず――
 任務を言い渡されながら、自分たちをこの場に呼んだのも用意周到だなといっそ呆れた。約束についての言質要員、スターフェイズ本人の意向を知らしめ、クラウスができなかったりその場にいなかったりした場合、お前たちが俺をふん縛れよ、ザップにはそう聞こえた。彼は世界はなんでも起こるとよく口にするが、絶対に起こらないと自分が信じていることにも、こうやって対策を残す。ザップには面倒でできない手腕だった。
 面白くねーの。
 ザップはつまらない気持ちで、あとで非番を貪っている後輩に愚痴ってやろうと決めた。