さもゆ
2024-11-16 21:27:37
13364文字
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【BF腐】不思議の国のアッシュ

原作59丁目時代の夢オチ。
この後、アッシュは夢の内容も目覚めてから言った言葉も覚えてないけど、英はきっとずっと覚えてる。か、二人とも覚えてて暫くのからかいのネタにされるか。

2019.11.21 たまごのお粥pixiv投稿作品

 侯爵夫人が侯爵殿の首をお刎ねにならせあそばれたので、黒ウサギは急いで夫人の新しい旦那様を探しに行かなければなりませんでした。
 それは彼の一番重大な仕事でしたし、今まで彼が探し出してきた夫人の旦那様は三人いましたが、尽く夫人の怒りを買って首を刎ねられてしまいましたので、今度は自分の首が危ないと思ってのことでした。この世界ではどんなに動きが鈍い芋虫でも、四歩目からは蝶になって羽搏けますから、動きの素早いウサギの彼にはもう後がありません。いつも首から下げている時間の足りていない時計の短針が、なんとなく一周するまでに、きっと新しい侯爵殿を見つけなければいけないでしょう。
 ですから、黒ウサギの彼は風に擦られて黒毛が白毛になってしまうんじゃないかしら、という勢いで、彼の世界にある穴を飛び出して行きました。



「侯爵夫人、侯爵夫人、侯爵夫人の夫となる者はいないか!」
 彼が飛び出したのはどこかの家の洗濯機からでした。黒ウサギの飛び込んだ穴は彼が住む世界とどこか知らない別の場所を繋いでいるので、彼はもう自分が出てきたところを詳しく確認するのは諦めていました。ただ猛獣の穴倉や臭い溝穴よりは、ちょっと湿気た洗濯機の出口は幾分もマシだったなあという認識です。とにかく彼は知らない家の知らない機械から飛び出して、大声で触れ回るしかありません。
「侯爵夫人の新たな侯爵殿! どうか婿に来てはくださりませんか、衣食住は快適なほど提供させて頂きます。夫人は世界で一等お美しい! 侯爵夫人の侯爵殿──首が少しお悪くなるかもしれませんが──ぜひ我が国へ!」ダンッと床を蹴って飛び上がります。
 するとそこへ、恐ろしく色の綺麗な若者がやって来ました。部屋の入口に立ち、物騒なことに拳銃を構えた格好のまま、黒ウサギを驚いて見ています。
「は……? 英二?」なんとハスキーな声でしょう!
 彼は黒いウサギ耳をぴょこぴょこひくつかせ、「合格!」首から下がる壊れた時計を掲げました。「遅刻だ、急がないと!」それはいつも時間が足りていないのでいつも遅刻するのです──呆然と突っ立っている若者の腕を掴み、洗濯機に向き直ります。若者が慌てますが、早い時間のなか生きている彼にとってはあんまり遅すぎる抵抗でした。
「おい、ちょっと待っ」
 若者は洗濯機の中に飛び込まさせられてしまいました。



 錆びた懐中時計など目も当てられないほど綺麗できらきらした金の髪に、鬱蒼と茂る森が焼かれてしまいそうなほど力強くつやつやの緑の瞳。おまけに、海の底で眠る生牡蠣より真っ白でさらさらの肌。見つけた彼は美しいものに拘る侯爵夫人の侯爵殿に、ぴったりの若者です! 
「いいですか侯爵殿、まず夫人に会っても決して何か申されてはいけませんよ。夫人が発言なさるまで黙ってお立ちになっていてください。けれど大丈夫でしょう、あの方は美しいものがお好きですから、きっと……ああでもその赤い上着と靴は……いえいいですね、赤く汚れても目立たなそうだ」
「待て待て待て」
 森の中の道を、若者の手を掴み握って歩いていたところ、ぐいぐい後ろへ引っ張られます。黒ウサギは立ち止まりもせず首だけそちらへやりました。「はい、なんでしょう」
 若者は髪と同じ色の柳眉を複雑に寄せていました。
「分かってる。これは夢だろ、いつも見る悪夢とは違うタイプの……あいつはコングたちとスーパーに行ってたはずだ……
「何をぶつぶつお呟きに?」
「その変な喋り方やめてくれ」
「変な? ひどい、僕なりに侯爵殿に敬意を払って……
「俺は侯爵殿じゃない。というか、なんだ、それ……ちっとも……その耳と尻尾、本物?」
「そうですね、夫人に認められるまではまだ侯爵殿ではないかも。なんとお呼びすればいいですか?」
「アッシュ。……脚もウサギか。本物なのか?」
「ぎゃあっ」
 断りもなく頭から伸びる耳を掴まれ、黒ウサギは驚いて若者の手を離し、脇道まで飛びずさりました。茂みに尻餅をつき、不躾で手癖の悪い若者を睨み上げます。
「なんてことするんですかっ、ウサギの耳を掴むだなんて!」
 耳を握った手を開いたり閉じたり、そんな顔をしたいのはこちらの方なのに、気味の悪そうな顔で見下ろしてくるものですから、黒ウサギはむっと鼻に皺を寄せ、ダンダン、ウサギの脚で草地を叩きます。
「きみだっていきなり耳を鷲掴まれたら嫌でしょう、ばか!」
「悪い。本物とは、思わなくて。夢の中の本物って、よく分からないけど」
「本物ですよ、耳も尻尾も脚もだ。ちょっときみと体のつくりが違うからって、偽と疑われては堪ったもんじゃない!」
「それは、そうだ。ごめん。悪かったよ」
 若者はまだ妙なものを見る顔つきでいましたが、謝罪は素直だったので、黒ウサギはそれ以上文句を言うのはやめて、服を叩きながら立ち上がりました。若者の目線は彼より高く、更に侯爵夫人よりも高そうです。態度は失礼でしたが、考えてみると、傍若無人で冷酷非道な夫人の旦那様になるには、やはり、ふてぶてしいくらいが丁度良いような気がしてきましたから、彼はなんだか希望に満ちてきました。この若者は外見だけでなく内面も夫人に気に入られるかもしれません!
「さあ、行きますよ。うかうかしていられない。森は雨が降りやすいんです」
 ウサギは嬉々として手袋の手で若者の手を握りました。そのまま促して歩こうとしますが、若者は動こうとしません。怪訝な顔をしています。
「行くって、どこへ。ああ、いや、そんなことより、訊きたいことが」
「なんです? 時間がないんです」
「その顔で、その喋り方、ヘンだよ」
「またきみは! そういうのは偏見というのですよ」
「俺の夢だろ、これ。思い通りにならないから絶対そうだ。質問も許されないのか?」
 時間のない時計をちらりと見ました。「……じゃあ、ひとつだけなら」
 若者が言いました。
「ウサギの耳もあって人間の耳もあるって、ごちゃごちゃしないか? どっちかにした方が本物感が」
「行きましょう」
 黒ウサギは取り合わずに地面を蹴りました。

 雨が降り始めました。
 侯爵夫人のお城へと続くこの森は、いつだってじっとはしていられません。悲しがり屋なのです。というのも、いつだって太陽がこの森にだけ意地悪をして温かな光を当ててくれないので、森は「なんだいべらぼうめ、お高く留まりやがって。ふん」といじけてしまうのです。
「ですから、ここはいつも暗くて、すぐ雨が降るんですよ」
 せっかく見つけた侯爵殿をつい逃がしてしまわないように、がっちり片手を繋いで先を歩く黒ウサギは、雨粒の当たるウサギ耳をぴるぴる揺らしました。「はあ」疑問や不可解さをいっぱい抱いているらしい若者は、それでも大人しく着いてきてくれています。「雨が……何?」
「降るんですよ。降っているでしょう?」
「ああ、確かに。これを降るって言うのなら」頬を逆さに滑っていく雨粒に、目を瞬かせます。「地面から雨が『降ってる』」
 土を踏み固めて作られた一本道からも、その周りを囲む茂みからも、太陽に見放されてひとりでに成長したりしなかったりの木々からも、しくしく雨が生まれては上に飛んでいきます。薄暗い森のなか、水滴自体が淡い光を放ち、時折風に吹かれては弾け飛び、若者と黒ウサギのズボンの裾から膝まで濡らしていきます。若者はがりがり頭を掻きました。「俺にこんなメルヘン趣味があったとは思えない……」その髪の毛先を伝って雨粒がのぼっていったりします。金色の光が弾けていくような光景に、黒ウサギはわあっと声を上げました。
「綺麗だなあ。いつもはこんなもんじゃないんです。地面から降っては木の葉の裏に当たり、落ちてはまた上がっていく。そうなるともう上から浸水して川のようになるので泳いでいくしかないんです。でも今日は控えめだ。きみのこと、森は太陽だと思っているのかも」
「なんだって?」
「太陽ですよ。きみは綺麗な色をしています。温かそうだし、僕や侯爵夫人と違って暗闇でも見失わずに済みそうだ。うん、そんなところも侯爵夫人にぴったり! 月のようなお方ですから」
「待て待て、だから、その顔と声で……。さっきからなんなんだ? 侯爵殿とか夫人とか」
「侯爵殿は侯爵夫人の旦那様で、侯爵夫人は侯爵殿の奥様です」
「そんなことは分かってる」
「何が分からないんですか?」
「全部だよ」若者が言いました。「ここに来たことさえ……そもそも俺は寝てたか……? 分からないことだらけだ」
 あんまり頭は賢くないのかもしれない、と黒ウサギは思いました。でも、いいでしょう。夫人はたくさんの知恵を持っていますから、その相手は多少馬鹿な方が釣り合いが取れていい具合になりそうですもの。それに、ここは不思議の国があり、不思議の世界が広がっています。彼が言う「分からないことだらけ」はその実ひどく簡単そのものです。分からないものは、分からないし、分からないことは、分からないことです。たったそれだけのことですから。
 ですが、なんといっても、侯爵夫人の黒ウサギは侯爵夫人のため働くので、せめてこれだけはと口を開きました。
「侯爵殿。どうか侯爵夫人のことを否定なさらないでくださいね。あの方はご自分を認めない存在が大嫌いなのです。衛兵たちも怖がる始末。だから誰か、たった一人の旦那様でも、傍にいてあげないと……
 若者はまた眉を顰めました。
「つまり、何か。俺はその自己中心的な侯爵夫人とやらの、旦那候補というわけか」
「そうです!」
 黒ウサギは手を繋いだままぴょんと跳ねました。腕を引っ張られた若者はよろめきながらも、複雑そうに言います。
「お前の口から聞くと、なんだか嫌な気分になるな」
「なぜです?」
「分からない。あいつを手放したくないっていう、俺の醜い欲かも。なあ英二、今からでもその姿変えられないか?」
「何言ってるんですか? 僕は黒ウサギ、英二とやらじゃありませ──ああ、ちょっと待って」
 一度大きく飛び上がって──その際若者の振り回された手の関節がぐきりと音を立てました──彼は立ち止まり、振り返りました。「今、なんと? 手放したくない? ……誰を?」
 どこか剣呑な黒く大きな目を向けられて、若者はたじろぎつつ、答えました。
「友人兼、同居人兼、……まあとにかく、そんなやつだよ」
「友人兼、同居人。手放したくないと?」
「いつでも離れられる、気ではいるんだ」
「しかし傍におきたい! 恋人ですか?」
「違う」
「一等大事な人?」
「ああ。ああ、そうだよ」
「良くないな」黒ウサギはぼやきます。「侯爵夫人を一番にして貰わないと良くない」
 若者は曖昧に頷きます。「良くないことは、分かってるよ」それだけは充分分かっている、というふうでした。簡単なことです。彼は良くないことを分かっている。それだけです。
「分かっているなら、夫人のことを一番にしては貰えませんか?」窺うように見つめ上げます。
「いや……」困って眉を下げました。「それができたら、いいとは思うけど」
「できますよ!」 
 黒ウサギは跳ね上がりました。ぴんと立った耳が上がりゆく雫の邪魔をし、水滴がその時だけ黒く反射し輝いて、ほかの色の雫とぶつかり弾け、ちょっとした花火になります。きらきらきら、のぼっていき、暗い葉と葉の隙間を縫ってはあるのかないのかどっちつかずの空に吸い込まれ、失敗した水滴は葉の裏側に当たって生まれ故郷に逆戻りでした。地面から降る雨は徐々に雨足を強めていきます。若者は目を眇めました。
「できますとも、侯爵夫人の侯爵殿になってくだされば」
 それだけが充分分かっていること、と信じて疑っていないふうでした。

 森を抜けました。
 最後の茂みを抜ける頃には木々に当たった水滴が葉に多く留まり、彼の言った通り上は川のようになっていましたから、背の高い若者は少し身を屈めて歩かなければならなりませんでした。それでも、いつもはここを通る者は泳いでいくと言うので、どうやら悲しがり屋の森はそれほど悲しんでいないようでした。証拠に、若者が森を進むごとに寂しかったのか雨が強くなり、抜ける際には、上に溜まっていた水が波打ち、下からの水と混ざり、海の様相を見せたので、森はよっぽど若者を太陽として思っていたのでしょう。
 背後で、森の領域だけ見えない箱に入れられたように暗く輝く海になっているのを見返してから、相変わらず手を引いて歩いて行く黒ウサギに、若者はぐっしょり濡れた靴をべしょべしょ鳴らしながら訪ねてみます。
「それで、侯爵夫人の家は?」
「お城はまだ少し先です。その前に服を乾かさないと。煙草園に寄りましょう」
「煙草園?」
「煙がうるさいのが難点ですが、暖かいところですから」
「煙が、ね」 
 もうどうにでもなれと濡れそぼった頭を振り、枝葉に覆われていない空を見上げてみますが、そこは薄桃色ののっぺりした雲が広がっているだけでした。
「太陽は? 今何時だ」
「太陽はここから反対側の夜を照らすので大忙しでしょう。今は……」雫の滴る懐中時計をがしゃがしゃ振ります。「七時……六十五分。いや、五百七かな」若者は後ろから彼の抱える大きな時計を覗き込み、「その時計壊れてる」数字のでたらめさと痙攣している針を指摘しますが、黒ウサギは大事そうに時計を首へかけ直すだけでした。
「これは侯爵夫人から貰ったものなので。それに時計は壊れるものです」
……薬の幻覚でも見てる気分だ。侯爵夫人てどんなやつ?」
「横暴です!」水滴を跳ね散らかしながら叫びます。「それに、残虐で、怒りっぽく、小うるさい! ウサギ使いが荒いんだ、あの方は」
「へえ。なぜそんなやつのもとで働いてる? やめればいいだろ」
「駄目ですよ、僕には侯爵夫人の侯爵殿を見つける使命がある」
「見つけたらお払い箱か?」
「そんな言い方……でも……そうかもしれない。僕は侯爵夫人の黒ウサギなので、夫人にいらないと言われたら、僕にできることはもう何もありません」
「それは良いことか?」
「良いですね。けど、嬉しくは、ないかな」
「あいつもそう言うのかな」
「きみの一等大事な人ですか」
 若者は答えませんでした。
……侯爵夫人てのは残虐なんだろ。怖くないのか?」
 首を勢い良く縦に振られました。
「怖いですよ。首をお刎ねになられる時なんか、特に。まるで自分の首までお刎ねになりそうな勢いなんですもん」
「へえ」
 それは、と若者は思いました。それは、誰かの首を刎ねる公爵夫人が怖いのではなく、それによって公爵夫人も傷つくことに恐れを抱いているのではあるまいか、そうして、この黒ウサギが文句を言いつつ夫人のことを大層大事に想っていることにまで気がつきます。
「公爵夫人てのは幸せ者だな」
「なぜです?」
「お前みたいなのがいるから」
「きみにもいるんでしょう」
「いるよ」そして俺なら、そんなウサギを放し飼いになんて、できない。若者は自分の考えに嫌気がさし、顰め面をしますが、前を向いた黒ウサギには見えなかったのでしょう、明るい声が飛んできます。
「大丈夫。きみの大事な人も、きみが幸せならほかから『幸せ者だなぁ』と言われますよ、きっと」
「良いことか? それ」
「悪いことではないはずです。少なくとも、一方にとっては」
 じゃあ、もう一方にとっては、良くないことかもしれないじゃないか、若者は言おうとして、やめました。なんだか煙のにおいが漂ってきます。
「ああ、もうすぐで煙草園ですよ」
 道の先に、ぽつんと一軒、屋根がとんがった古めかしい家が建っているのが、見えてきました。

「煙草屋さん。服を乾かすために、園に入っても良いですか」 
 一階の出窓に向かって声をかけると、カーテンを閉じている様子もないのに真っ暗な窓が内側から開き、ぬっと刻み煙草を吸うためのパイプが突き出されました。そこから煙がひとつ噴き上がり、ゆらりと『OK』の文字を形作ると、パイプを握る手首から先が窓の内へと戻ります。黒ウサギは丁寧に礼を言ってから、一本道から逸れた草地へ若者を引っ張って行きました。
 若者は引っ張られながらちらりと出窓の中を覗いてみますが、家の中がどうなっているかは確認できず、家主の姿も見れません。仕方なしに彼に着いて行きます。ぐしゃぐしゃと、濡れた靴で潰された草地が不快な音を立てました。
「今のが、煙草屋?」
「はい。愛想がないでしょう」
「愛想どころか、姿もないように見えた」
「愛想がないから、姿がないんです」
「そういうことじゃ、ないだろ……
「そういうことで、いいんです」
 黒ウサギは言い聞かせるように頷くと、長いウサギ耳を、繋いでいない方の手でぺたりと押さえました。「きみも耳を塞いだ方がいい。うるさい煙にやられますよ」ぐしゃぐしゃ、こつんっ。靴先が何か硬いものに当たりました。
 下を見ると、草地から煙草が生えていました。太いパイプや、短い葉巻、シンプルな紙巻、壺が綺麗な水煙草……様々です。一本ひょろりと生えていたり、くたりと転けていたり、密集して花のようになっているものもあります。それらを踏まないように進む黒ウサギとその後を着いて行く若者の足元で、じじっと火がつき、彼らが通った傍から煙を吐き出していきました。
 むわりと熱気が広がります。
「くさいよ」  
 肺はすぐに煙でいっぱいになりそうでした。
「我慢してください。害はありません」
「そんな馬鹿な。煙草は有毒だぜ。いい思いもない」
「ふむ。なら、案外いいことを囁かれるかも」
「何に?」
 白い煙を掻き混ぜながら歩くうち、のぼってきた煙が若者の目の前まできました。口と鼻を押さえていた若者の前を揺蕩い、どこか惑う素振りをすると、『How are you?』文字を作って訊いてきます。若者があっと思った時には、その煙は右の耳に入り込んで行きました。「げっ」痛くはなかったですが、温かな空気を吹き込まれたように感じた若者は、驚いて耳を叩きました。
『happy birthday to you』
 耳の奥で、そんな囁きが聞こえました。
 ぽふぽふ、右から入ったはずの煙が、左から出て行きます。不思議と、その間に、三回は同じことを囁かれたことが分かりました。
「どうでした?」
 黒ウサギが自分の耳を守りながら顔だけ振り返ります。煙たいせいで若干涙目です。ごほっ、若者は咳をしました。口から煙が飛び出しました。
「誕生日おめでとうって」
 飛び出た煙が『Thanks』と形作ってから、薄ぼけて消えて行きます。
「それは、めでたい」
「けど誕生日じゃない」
「誕生日じゃない日に誕生を祝われる、素晴らしい! つまり、きみはいつでも生まれることができるということだ」
「こんなこと、英二の見た目してるやつに言いたかないけど、頭大丈夫か?」
「失礼な。耳は本物だと言ってるだろ」
「そうじゃなくて。いや、こんな夢見てる俺の頭がおかしいのか」
 若者は頭を振り、ぶつぶつ零します。「いつもの夢よりは、いいけど……」その呟きを拾い上げた黒ウサギは、興味深そうに押さえた耳を撫でました。「夢ですか。どんな?」
「悪夢さ」その時だけ、感情が抜け落ちたような顔で言いました。「昔の……あれやこれや」耳に入りたそうな煙を手で払います。
「良くないことですか?」
「悪夢だからな」
「怖い夢?」
「オニイチャンには刺激が強いよ」
「気になるなあ」
「あいつは夢の内容なんて訊いてこない」 
「なぜ?」 
「それは、……簡単なことだ」
「ほう」
「俺が答えたくないことを、あいつは分かってる。それだけを分かってるんだ」
 黒ウサギはにんまりしました。
「では、きみはその一等大事な人がそれだけを分かっていることを、分かっているわけですね」
「言葉遊びみたいな会話やめないか?」
「楽しいじゃないですか」
 しゅるりしゅるり。若者の手を擦り抜けて、またひとつ煙が耳へ入り込みました。今度は左からです。『that's right!』ぼやけた反響を頭の中に残して、右から抜けていきます。「今度はなんと?」「その通り」「ほらね」
 黒ウサギは器用にウサギの耳を手で押さえ、更にはウサギ耳の端で人間の耳まで塞いでいましたから、煙が入り込む余地がなく、彼の周りは不満げに揺らいでいました。気がつけば、辺りはもくもくと白くなり、体の芯から暖かくなっていきます。
 彼の前で、不満げな煙が文字を表しては、溶け込んでいきます。『Goofy rabbit(お間抜けウサギ)』『How about dinner?(夕飯はいかが?)』『There is a hole in his newspaper(彼の新聞には穴が開いている)』『knock knock knock...(ノックノックノック)』
『Do you have a gun?』
『It's about time. Goofy rabbit(そろそろ時間よ、お間抜けウサギ)』
「うるさいな、分かってるよ」
 黒ウサギは迷惑そうに煙を蹴り上げました。煙がわあっと散り散りになり、若者は全ての文字を追うことができませんでした。煙の言葉は誰かに向けてのものか、それともただのひとりごとか、意味などないのか、誰かが誰かに向けてのものを周波数のようにキャッチしているのか、正解は分かりませんでしたが、若者宛ての文字を見たような気がしたのです。──銃は持ったか?
「なあ、今、」 
「いけない、本当に遅刻する」黒ウサギは壊れた時計を見て、若者の手をぐいと引きました。「侯爵夫人がお待ちです」
 煙が冷やかすように膨らみました。
『Are you getting married?(結婚するの?)』

 すっかり乾いた服と靴で草地をさくさく歩き進めて行くと、やがて視界の端から端まで広がる緑の垣根が現れました。それに囲まれた奥に、どうやって建っているか不安になる形をした高いお城が建っています。遠目に見てもまるでガラクタが積み重なったよう。
「公爵夫人は美しいものが好きなんです」
 取り繕うように言いました。
「美しいか? あれ」
「中は綺麗なんです、とても。それに薔薇の垣根が年中咲いているので、その周りも綺麗です」
「ひょっとして、赤色にしなきゃ首を刎ねられる?」
「いえ、青です」
「青?」
 言いながら黒ウサギは自分の背丈より高い垣根に頭から突き込んで行ったため、若者も頭から葉っぱの中へ入らされました。ぴしぱし枝葉が当たりますが、すぐに垣根を抜け、広い庭園をウサギに促されるまま進みます。垣根やアーチ、花壇、至る所に青い薔薇が咲いています。公爵夫人の一番好きな色でした。煙くさかったのが、一瞬で芳しい香りに変わるくらいの、青い薔薇園です。
「世界中の植物学者が腰抜かすぜ、こんなの」
「どうしてです?」
「不可能だから。現実にはまだない」
「まだ、ということは、可能かもしれないってことですね」
「まあ、いつかは……誰かが夢を叶えるだろうな」
「きみの夢は?」
「何?」
「きみの夢」
 夢の中で夢の話をするのか? 若者は思いましたが、近づいてくる奇妙なお城を振り仰いで答えました。
「とりあえず、侯爵夫人がいいやつであることを、願おうかな」

 薔薇の垣根を背にして門扉まで辿り着いたところ、ひとりの門番が佇んでいました。
 門柱に体を預け、やる気のなさそうな態度をしています。
「やあ、こんにちは」
 黒ウサギが声をかけると、門番は呆れたようにつるりとした頭を掻きました。
「お前、また連れて来たの」
「もちろん。夫人の相手を見つけるのは僕の大仕事だからね」
「それが怒りを買ってんだけどなァ……分からず屋とはお前のことだよ」
「僕が分からず屋なら、夫人も分からず屋だ。通っていい?」
「どうぞ」
 門番が門を僅かに押し開きました。その間を通り抜けようとする黒ウサギは、しかし、いくら引っ張っても若者が動かないので地面を踏むだけとなりました。「どうしたんですか、侯爵夫人の侯爵殿」
……ショーター」
 若者の目は門番に釘付けになっています。
 門番はというと、特徴的なスキンヘッドを掻き掻き、サングラス越しに若者を見ているふうでした。
「お前が……今まで、夢に出てきたことなんて、なかった」
 息の仕方を忘れたみたいな言い方でした。
 それから更に何事かを言おうと口を開きますが、そこから次の言葉が出ることはなく、見兼ねた門番が軽い足取りで若者の後ろへと回ります。ぽんぽん、肩を叩きました。
「まあ、侯爵夫人に気に入られることなんざないと思うけど。頑張れよ」
 そして、若者の背を軽く押しました。黒ウサギに手を引かれ、若者の脚が動き始めます。
 一度だけ振り返ると、門番は親指を突き立て、歯を見せて笑っていました。
「帰りのために、門開けといてやるよ」
 帰りは帰りでも、無事に帰れたらいいなあ、前を行く黒ウサギがぼやきました。

 侯爵夫人が許可を出すまで口を開いてはいけないこと。
 侯爵夫人の言うことを否定してはいけないこと。
 侯爵夫人のやることなすことを怖がってはいけないこと。
 などなど。
 お城に入る前にいくつもルールを設けられましたが、若者はガラクタの寄せ集まったお城に入り、正面で煌びやかな玉座に座る侯爵夫人の姿を認めた途端、一番初めに言いつけられたことを即破ってしまいました。
「ユーシス、お前かよ」
 傍に控えていた黒ウサギがぎょっとして飛び上がりました。慌てて耳打ちしてきます。「こ、こ、公爵殿。どうか黙っていてください。首を刎ねられたくなければどうか……」そこへ高い玉座から低い声が降ってきます。
「黒ウサギ」
 夫人の呼び掛けに、彼は背を伸ばしました。
「は、はい」
「また僕のために公爵を探して来たの」
「はい」
 どうやら夫人は若者には目もくれていないようです。苛立たしげに溜め息を吐いています。
「何度言ったら分かるんだ、僕にはそんなの必要ないと」
「ですが公爵夫人、公爵夫人は公爵殿がいないと公爵夫人でいられないじゃないですか」
「そんなもの必要ない。僕にはきみがいてくれたらいい」
「僕はただの黒ウサギだ」
「ただの黒ウサギがいいんだよ」
「良くはありません」
「でもきみは僕のウサギだろ」
「ですが──」
「こいつはお前のじゃない」
 しいん、言葉の応酬が止まりました。
 黒ウサギが壊れた時計の針のように若者を振り向き、『謝って』、と口の動きだけで示して来ますが、若者はそうしませんでした。
「こいつは、お前のじゃない」
 断固として認めない、強い口調でした。
 玉座に座っている侯爵夫人がじっと若者を見つめています。「じゃあ……」戦慄く唇が開きます。「誰のだと、言うんだい」
 若者は暫し、黒ウサギ曰くの月のようなお方であるその黒い瞳と見つめ合って、諦めたように苦々しく言いました。
「分からない」
 ついでとばかりに付け加えます。
「それと、俺も侯爵殿じゃない。アッシュ・リンクス。誰の侯爵殿でもないぜ、侯爵夫人」
「ああ……」 
 黒ウサギが絶望して小さく嘆きました。「首を刎ねられる」
 好き勝手なことを言われた侯爵夫人はすっくと立ち上がり、踵で床をかつんと打ちました。びくりと黒ウサギが震えます。若者は方眉を上げるだけでした。
「今度の侯爵候補は端から無礼と見える」
「だろうな。お褒めに預かりまして」
「黒ウサギ、本当にこんなやつが僕の侯爵だと?」
「いえ、だって、それは……色が、綺麗でしたので」
「僕は黒色と青色さえあればいい」
 若者が傍でたじろぐ黒ウサギの腕を掴みました。
「こいつはお前の幸せを望んでる」
 そして、と続けます。
「お前の幸せが、こいつの幸せとは限らない」
 侯爵夫人の姿が歪みました。
「何か、ほかに……傍にいるための方法が、あるはずだ」
 その時です。
 インク壺の液体のように歪み切っていた侯爵夫人が、玉座からの階段を滑り落ちるようにして駆けて来ました。不意に正面に迫られた若者は対応できず、きゃあっと叫んだ黒ウサギの声を聞くだけでした。
 若者に覆い被さるような侯爵夫人の顔は月を思わせるものではなく、その背後に広がる闇を思わせ、そして若者は思い切り表情を引きつらせました。目の前のものは顔の形を作っていないのに、どこかで見た顔だと感じ、そうするとそれがもう知っている顔にしか見えなくなったのです。あらゆる顔です。若者が今まで殺してきた人間の。
「できるわけがない」一番初めに殺した男の顔が言いました。
「誰かを大事にするやり方なんて、知らないくせに」いつ殺したか覚えていない女の顔が言いました。
「お前には、不可能だよ」かつては仲間だった青年の顔が言いました。
「そんなことは……
 若者が下唇を噛み締め、言いました。
「分かってる」

「首をッ、刎ねよ──!!」 

 侯爵夫人が金切り声で叫びました。

「逃げてえ!」 
 黒ウサギが若者の背を扉へと押し出します。押し出された若者はその勢いのまま扉へと駆け、黒ウサギの侯爵夫人を宥める声を後ろに、お城を飛び出しました。それまで気配のなかった衛兵たちが侯爵夫人の命令を実行するべく差し迫ってくるのを感じながら、ひたすら門へと駆けて行きます。弾かれたように、ただ、首を刎ねられては堪ったもんじゃないと思いました。
 門が見えて来ました。門柱の傍で、門番が手を振って何かを叫んでいます。
「おーい、銃は持ったか?」
 若者は「ない!」叫び返しました。ここに来る前には、確かに持っていたような気がしましたが、そんなことは些細なことです。不思議の夢なら仕方ない。そしてそれは、もうすぐ覚めるでしょう。
 若者が門を通り抜ける間際、門番が世話焼きな笑みを浮かべて銃を押しつけてきました。
「大事なもんだ。持ってねえと」
「死ぬまで?」
「どうかな」
 言葉のわりに、頼りがいのある手が、ばしんと、若者の背を叩いていきました。






 アッシュは目を覚ましました。
 目を覚ましたのはいいのですが、体が鉛のように重たく、頭の奥にまで鼻水が詰まっているような気持ちの悪い感覚に襲われ、盛大に呻きます。
 すると、ベッド脇へ持ってきたのでしょう、普段は別の部屋にある椅子に座っていた英二が、ハッと顔を覗き込んできました。
「アッシュ。目が覚めたの?」
 その黒目は安堵で滲んでいました。アッシュが何か言おうとしますが、出るのは掠れた息と咳ばかり。代わりに身を起こそうとしてみますが、英二にやんわり止めさせられたので、諦めてベッドに沈みます。
「きみ、きっと無理し過ぎたんだよ。覚えてる? 僕がスーパーから帰って来たら、倒れてて……
 言われてみればそんなような気がしてきました。
「ひどい熱だぜ。どうして黙ってたんだよ……
 気づかなかった僕も不甲斐ない、と英二が落ち込んでいます。
 アッシュは自分の両手が銃など持っていないことを確認し、身を捩って、躊躇いがちに、英二の手を取りました。
「お前が……」数度、空咳をします。「お前がいないと、俺は悪夢も見られない」夢の延長線上の言葉に、当然夢など見ていない英二は、心配そうに首を傾げました。
 アッシュは、英二がいないと、悪夢を見ることができない。
 虐げられ、嬲られ、殺される夢はたくさん見ます。けれど、その反対は。虐げ、嬲り、殺す悪夢は、彼がいなければ、見ることがなかったでしょう。それが“悪夢”だと、認識できなかったでしょう。いつも、思っていたことでした。
「英二、お前は俺を……
 人間にしてくれる。アッシュは言いませんでした。ほかにももっと、相応しい言葉や質問が、あるような気がしたので。
 まだ意識が不明瞭だと思った英二は、慌ててベッドサイドから水差しを取ろうと腰を上げました。
「水、飲む? お粥もあるよ、薬飲む前に少しでも食べた方が」
 アッシュの手から英二の手が離れたのは一時でしたが、それを何倍にも長く感じたアッシュは、遠ざかる指先を捕まえていました。
「ん、どうした?」
 英二が訊いてきます。
 アッシュは先ほどまで夢を見ていました。
 熱で朦朧としています。
 耳の奥で、答えられなかった質問が揺蕩っています。──『Are you getting married?(結婚するの?)』
……するなら、」
「え、何?」
 アッシュが言いました。
「結婚するなら、お前とがいい」

 がしゃーん!

 水差しが落ちて割れました。