パタン、僅かに感じた瞼の重みに読んでいた本を閉じる。自分以外の気配がない静まり返った部屋では、その音がやけに大きく感じる。眠気の正体の答え合わせをしようと上を見上げると、秒針のない時計は業界用語で言うところの「てっぺん」を迎えようとしていた。
(もうこんな時間だったか……)
数時間前、灯世からLIMEに「部長会議後にAporiaでの飲み会に参加する流れとなった」という旨と「夕飯は明日食べる」との旨が謝罪の言葉と共に送られてきた。
早々に夕飯とシャワーを済ませてしまった俺は、持て余した時間で灯世に勧められた本を開いたわけだが、思ったよりも集中して読んでいたみたいだ。
普段本を読まない自分から見てもよく出来たストーリーだと思う。よくあるミステリー小説かと思えば、幾つもの伏線とミスリードが読み手の予想を外し、だからといって読み手が情報を整理しなければならないほど複雑な内容でもなければ、物語や登場人物のキャラクターとも整合性がとれている。何より、灯世が自分に勧めてくるほど気に入った内容をなぞる時間は悪いものではなかった。
ただ、日常生活での読み書きには不自由しない日本語も、活字となれば勝手が違う。日本に来て数年生活をしていても見慣れない単語や漢字、文学の醍醐味であろう粋な台詞回しも、積み重なれば無意識に脳を疲れさせる。終盤に差し掛かった山場のシーンではあるがまた後日にしようと、閉じた本を手に立ち上がる。
(……寝るか)
まだ帰らない灯世を迎えたい気持ちもあったが、これ以上待つのは灯世が気を揉む時間だ。俺が好きでしている事なのだから気にする必要なないのだが、それで灯世が今後の外出に気を遣う結果は望んでいない。
寝室のドアノブに手をかけようとした時、スウェットのポケットに入れていたスマホが立て続けに震える。間を開けて5回程受信を知らせるとまたシンと静かになった。チャットの通知だろう。おそらく芦佳あたりの。比較的自分に連絡を寄越す灯世や城瀬は一つのメッセージに要件を入れるので、1度に数件通知を残す事はほとんどない。こんな時間になんの用だと思いながらも、緊急を要する仕事の可能性もゼロではない。スマホを取り出し、今だ初期設定のままの画面を撫でると、想像した名前ではなく、そこにはカラフルなアイコンと「相沢」という文字。
『遅くにすみません!』
『灯世さんちょっと飲みすぎたみたいで、迎えって来れたりします?』
『意識はしっかりしてるんですが1人で帰すの怖い感じでして』
『俺1人で2人担ぐの厳しくて(汗)』
最後には愛嬌のある犬のイラストが頭を下げるスタンプが送られている。どうやら俺の予想したメッセージの送り主は、既に"荷物"となっているらしい。一緒に住むとこんな所まで似てくるのか、単に似たもの同士なのか。
当然、断る理由もなく、着替える為にクローゼットから適当な洋服を取り出し返信を打ち込む。
『今から向かう。少し狭いが相沢と芦佳も乗っていくか』
数秒後に返された賑やかなスタンプを横目に車の鍵を持って家を出た。
Aporiaに到着しドアを開けると、部長会議後の集まりにしては大所帯の飲み会が行われていた。端っこのテーブルで腕を組み、虚ろな視点で空を見る灯世は珍しく随分と酔っているようだったが、周りを囲うメンバーを見て呼び出しの理由に妙に納得する。城瀬に吏来、新開にミカ。まぁなんとも気持ちよく酒を飲むメンバーに囲まれたものだ。部長会議とやらはなんだったのだろうか。ミカや新開においては、こちらも相当酔いが回っているようで、更に端でノンアルコールをチビチビと口にしている節見に絡んでいる。なるほど、部長会議の名残も見られる訳だ。
「灯世、迎えに来た」
テーブルに近づき声をかけると、灯世の肩がぴくりと動き、顔をゆったりと上げる。
「ゆう……?」
ぼんやりとした目つきだが、どうやら俺の事は認識しているようだ。
「立てるか?帰るぞ」
「ん…………おかえり」
投げかけた言葉への、チグハグな答えに少しだけ面を食らう。アルコールで赤らんだ顔に、眠気もあるのか少し潤んだ瞳。形の良い眉はハの字に緩められ、嬉しそうに笑みまで浮かべている。
(相当飲んだな……)
珍しいこともあるものだ。ここまで酔っても眠ることはしなかったようだが、今この瞬間に身に危険が降りかかっても、対処するため立ち回るのは難しいだろう。
……それだけこの場所が灯世にとって気の許せる場所になりつつある。感慨に浸るのもそこそこに、誤魔化せないくらい感じる複数の視線。
勿論、気の抜けた灯世も、寝惚けて的外れな会話をする灯世も、初めて見る顔という訳ではない。ないのだが……。おそらく灯世は完全に「自宅でリラックスモード」に入っている。肩の力が抜けて、言葉遣いも声色も柔らかく、少しだけ甘えたがりになる灯世を見るのは好きだ。おそらく灯世も、俺がその時間を好んでいる事を理解している。だが、今は自宅でもなければ2人きりでもない。いっそ民衆の雑踏の方が幾分も良かったと思う。自分の事も灯世の事も良く知る人間からの生暖かい視線は居心地が悪い。
「灯世、ここは自宅じゃない。帰ろう」
「……ん?」
「立てないなら担ぐ。気分は悪くないか」
「……ゆう」
「なんだ」
いつもであれば隣に座り、肩を寄せ、摺り寄せてくる頬を撫でる。眠ければそのまま寝かせてしまう。灯世1人くらい運ぶくらいわけない。
しかし今は自宅ではない上に同僚達の前だ。あくまで"介抱"と取れる対応を取ることに専念する。状況さえ把握できてない灯世には悪いがコレを"いつもの一コマ"とさせてもらう。……つもりだった。灯世が両手をこちらに伸ばして来るまでは。子供によく見られる、所謂「抱っこして」のポーズ。担ぐとは言った……。確かに言ったのだが、さも当然のように抱っこの要望を享受されると思っている灯世に嫌な汗が出る。灯世がなかなか手を取られない事に不思議そうに目を細める間に、他のテーブルで飲んでいた者の視線まで突き刺さるように増えていく。いや、まだ……まだ、誤魔化せる。
「……灯世」
「きょうも、ゆうのへやでねる」
誤魔化せ……なかった……。せめて今日「は」と言って欲しかった。今更、焼石に水ではあるが。こちらの心労は露知らず、なかなか"抱っこ"をして貰えない灯世は拗ねた顔に変わっていく。やめろ「いつもはすぐしてくれるのに」みたいな顔をするな。俺の矜持もあるが、灯世の矜持だって出来れば守ってやりたいんだ。しかし、その望みとは裏腹にもう何年も感じで来なかった気恥ずかしさでいっぱいになる。らしくないと分かっているからこそ、こんなにも居た堪れないのに、俺は目の前の手を振り払うことは出来ないくらいには毒されている。
「あら、有、耳が赤いわよ」
「有も少し酔ったんじゃないかな」
「灯世も可愛いとこあるねぇ」
後ろから野次が飛ぶ。そこに揶揄の色がないからこそ、余計に耳を塞ぎたくなる。顔どころか、耳まで熱を持っているのは自分が1番分かってる。分かってても血管まで意識は通せない。城瀬だって、車で来たのは知っているはずだ。吏来に至っては愉快犯だろう。もはや言い訳も苦しい。何を言っても墓穴を掘るだけだ。
目の前の酔っぱらいよりも血を巡らせながらもなかなか動きのない俺に、痺れを切らした灯世は、自ら覚束ない足取りで立ち上がる。がばっと覆い被さるようにこちらに体重をかけ、満足そうに喉を鳴らしたかと思えば、俺の唇に自分のそれを軽く押し当てた。ふに、と柔らかい感触がして、離れていく。
「……とも、せ」
「…………」
こちらの抗議も言わせないうちに、灯世はすーすーと俺の肩にのし掛かり寝息を立て始める。先ほどまで賑やかだったはずの店内は水を打ったかのように静まり返り、灯世の寝息だけがやけに穏やかに響いている。ずっしりと重くのし掛かる体重を支えながらなおもまだ、注目の的になっている自分を残して。
「……向こうの国では、日常的な挨拶だ」
苦しすぎる言い訳は、後日、思いの外記憶が残っていた灯世の口からも告げられたらしい。
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