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さもゆ
2024-11-15 21:52:17
19047文字
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【A英】駆けろ! ハムスター
※この話の主人公はハムスターです。
※この英ちゃんデデニープリンセスみが強いから注意。
※A英要素は添える程度。
※アニメと原作が混ざってる59丁目時代。
※ハムスターの口がちょっとお悪いよ。
あと、リトルマーメイドのパートオブユアワールドという歌と、不思議の国のアリスのお誕生日じゃない日の歌、を知っていた方が楽しめるのかな?と思います。
2019.7.31 たまごのお粥pixiv投稿作品
ハムスターは飽き飽きしていた。
ペットショップで売れ残っていたところを、心優しい少女に救われ何不自由ないこの家で飼われて早数年。
何年経ったかハムスターには数字を数える習慣がないので明言できないが、それでもペットショップで他のハムスターから「お前はいつ買われていくんだ」「タダ飯食らいめ」「ハムスターではなくドブネズミなのではないか」などと罵られるあの地獄の日々が、遠く感じられるほどの年月が経っていたのは確かだった。
健康に気を遣った量のひまわりの種を与えられ、部屋内で運動できるスペースをくれ、明るく優しい少女と、最初は嫌がっていたが今ではこっそりひまわりの種をくれるママさん、定期的に部屋内を改造してくれるパパさん(新しい滑車はひどく走りやすくて止められないのが難点だった)、ハムスターはハムスター生においてこれ以上ないほどの幸せを手に入れた。
だが、あんまりにも平和すぎた。
ハムスターは争いを好まぬ。武器である歯は食べ物と柵を齧る力しかあらず、部屋内に侵入してきた小さな蜘蛛にも黙って片隅を提供する始末。ハムスターは平和主義者であった。
しかし、あまりに穏やかな日々が続いていくうち、ハムスターの小さな胸と頭にじわじわ不安が生まれていったのである。
もしやこの平和な時間は、これから訪れる巨大なる不幸の前触れなのではないか。
巨大も巨大。ハムスターを優しく包み込んでくれる少女の両手より大きな不幸が、そのうち自分をぺしゃんこにしにくる。そうに違いない。だって、自分は、売れ残りハムスター。仲間内からも貶され別種のオウムにまで「ブサイクブサイクゥ!」と甲高い声で鳴かれたことまである、決して無償の幸福を甘受して許されるほど愛くるしいハムスターではない。
一旦そう考えると、地獄だったあの日々が妙に懐かしく、救いあるように思えて、平和な生活に飽き飽きしてしまう気持ちが占領していった。
ところでハムスターには、この家に来て平和と、もう一つ手に入れたものがある。
それは親友である。
唯一無二のその存在は、この家に最初から飼われていたジャーマンシェパード。名はハム。どういう経緯でその名前をつけられどういう意味があるのかは知らないが、ハムスターは彼の名前が自分の種族の総称と似たような音だなと気づき、以来彼の名前を呼ぶ時は楽しくなりながら呼んでいる。彼の方は自分の名前に異を唱えるのは、飼われて数日でやめたと言っていた。いい名前なのに。
ハムは最初、突然やってきた小動物に対してあまり興味を示さなかった。
それどころか、彼はこの家の護衛のような眼差しと振る舞いで、飼い主である家族に忠実で、その家族がハムスターを受け入れているのだったらなんでもいいというふうだった。こちらとしても中型犬にちょっかいをかけられるのは生命の危機を感じるので、願ったり叶ったりだった。二匹は大人しく生活していた。
しかしそのお互い我関せずの均衡は、ちょっとした拍子に崩れた。
家が揺れたことがあった。
家の中に人間は一人もいないのに、自分の部屋だけでなく家全体がカタカタ揺れていて、簀子(すのこ)から伝わる震動と眩暈のする視界、様々なものが軋んだ音を発する異様な瞬間だった。覚えのない恐怖と不快がハムスターを動けなくさせた。
この時間帯はいないと分かっていながらも少女にチィチィ助けを呼ぼうとした時、黒い塊が揺れなどものともせず駆け寄ってきた。ハムだった。彼はハムスターのいるゲージに寄り添い、まるでそれが当然かの如く揺れが治まるまで傍にいてくれた。
彼はこの家の護衛だった。家族に何より尽くしていた。その家族に、ハムスターも入れられていた。
ハムスターのことなど素知らぬふりをしていたくせに、怯えるハムスターに気づき言葉もなしにただ傍についていてくれたのである。絶大な安心を得、我関せずの関係が崩れ去った瞬間だった。ハムスターは柵越しにジャーマンシェパードに寄り添った。
「あ、ありがとう」
こちらの言語は犬によって通じないことがあるとペットショップで思い知り、それでもまあいいかと諦めていたハムスターは、この時ばかりはどうか伝わってくれと口にした。
ちらりと利発そうな黒目がこちらを向いた。
「いいってことよ」
初めて交わした会話はたぶんお互い聞き慣れなくて、でもちゃんと意思の疎通が取れていた。へ、とハムが舌を出す。いつも精悍な顔立ちをしている彼がハムスターに僅かに笑いかけていて、ジャーマンシェパードという犬は案外可愛い顔をするものだと思った。
二匹はその日を境に友となり、親友となったのだ。
その親友を困らせるのは充分承知だったが、ハムスターは言わずにはおれなかった。
「ここから、出してくれないか」
家に人がいない時間はすっかり二匹でいるようになり、今もゲージの傍で伏せているハムは、唐突な申し出にぴくりと耳を揺らす。
「レイラが帰ってきたら出して貰えるだろう」
「そうじゃないんだ」
「何が、そうじゃない?」
「この家から、出たいんだ。一旦」
いつもハムスターの言葉を静かに聞き入ってくれる彼は、全て分かっている様子でわざとらしく鼻を鳴らした。「一旦? 何故?」「きみは散歩に連れて行って貰えるからいいだろうけど」「なら今度一緒に行けるよう訴えてみよう」「そうじゃないんだ」「だから何が」彼はハッキリした答えが欲しいようだった。ハムスターは何も入っていない頬袋をもごもごさせたのち、決心して言う。
「危険を冒したい。ずっと、このままだと、俺はそこの干し草に包まれて、死ぬ気がする」
「死んで欲しくはないが、いい死に方じゃないか」
「そうなってもいいよう、今のうちに、自分を戒めておきたいんだよ」
「難儀な奴だな」
ハムは後ろ脚で耳をぼりぼりかいた。
妙な沈黙が落ちる。
彼はよく黙考する。そして考え至ったことは、いつも家族やハムスターのためになるのだ。
「
……
いいぜ。私が部屋から出してやる」
ハムが言った。
ハムは賢い犬だった。
人間の言うことをよく理解し、それを行動に移し、褒美を貰ったりする。
だが彼は褒美などなくとも周囲を気遣い家族を守っている。地震(これは後から知った単語だった)の時、見返りも求めず真っ先にハムスターに駆け寄ってきたように。そして今、ハムスターの身勝手で無謀で無計画な願望にも付き合おうとしてくれている。
鼻先と手を駆使し部屋と家のドアを開けてくれた彼は、ハムスターが未踏の地に出て行く直前、こう言った。
「好きなだけ離れるといい。私はお前のにおいを追えるからな」
いつまでに帰ってこいとか、馬鹿なことはするなとか、他にもっと言えることがあったはずなのに。
親友を慮り尊重してくれる彼に、ハムスターは感謝をこめて頷いた。
途方もなく長く平らな道が続いている。
簀子と違い、つるつるしていて、気を抜けばハムスターが虫かごの底を這う甲虫のようになってしまいそうな道だ(ペットショップの彼らは独特な言語で、滑る底をぎいぎい罵っていた)。ハムスターは慎重に、しかし出来得る限り素早く、その床を蹴った。
この廊下は知っている。少女に連れられ、何度か通ったことがある。しかしそれはもっと高い位置からの眺めで、奥まで見通せて解放感さえあった。今は、ただ、長く、遠く、広いくせに圧迫感があるように感じた。
いいさ、と思う。
俺は本来、こういうのがお似合いのはずなんだ。
今の幸福を当たり前として慣れ切ってはいけない。そうなったら、きっと、後々とんでもない不幸が来た時、何倍にも絶望してしまう。恐ろしい。ずっと続く幸せなんて、あるはずがない。定期的に酷い目に遭っておかないと駄目なのだ。
とっとことっとこハムスターは駆け続ける。とっとことっとこ。てってけてってけ。目的地は決めていないが、なるべく早く幸福の巣から離れてしまいたかった。
走って走って、そうして平坦な道がどこまでも続いている最中、不意に急ブレーキをかけた。音がする。微かに振動。
……
これは人の足音だ。
ハムスターは素早く視線を巡らし、身を潜めるところがないと悟るやなるべく壁際に寄り引っ付いた。
廊下の奥から一人の人間が歩いてくる。パパさんより小柄で、ママさんより細かった。顔は見えないが、男の子だ、と思った。
ハムスターはチッと舌打ちしたくなった。人間の、子供、それも少年なんてろくでもない奴ばかりだ。ペットを値踏みする無垢な瞳、ガサツな手つき、オウムに「ブサイク」の言葉を無計画に教え込ませた野蛮さ! まるでいい印象がない。
それに比べてハムスターを拾ってくれた少女の優しさと言ったら! 全世界のひまわりの種を掻き集めたって足りないくらい素晴らしい人間なのだあの子は。
できれば小さな男の子にはなるべく近づきたくなかった。しかしその人間が歩いてくるにつれ、おやおや、と壁から身を乗り出す。あいつ、そんなに小さくないんじゃないか。
むしろ、少女と同い年くらいに見える。14、5歳。頭にある毛は黒く、半袖から伸びる両腕には袋が引っ下がり、それほど力持ちでもなさそうだった。
ふむ、なるほど。ハムスターは閃いた。
自分は不運に巻き込まれたい。
そして人間の男の子が得意じゃない。
これは絶好の機会ではないか? ペットショップの古株、ゾウガメの兄さんが「我々にも神はいる。自然界から我々を見て下さっている」と時たま漏らしていたが、まさに今、自然界の動物神がコンクリートに囲まれたちっぽけなハムスターに微笑まれなさったのだ。そうに違いない。
少年が扉の前で立ち止まる。ポケットから鍵を取り出している。扉が開く──ハムスターはその瞬間、全力で駆け出した。そして、閉じられようとする隙間に滑り込んだ。
背後で扉が閉じた。
勢い余って立ち止まれず、つんのめって壁の出っ張りに激突した。しびびび、痛みで毛が逆立つ。同時に本能的な危機感を覚えた。少女の家じゃすっかり忘れていた感覚だった。
「えっ」
声が降ってくる。ハムスターはちらりと目線を上にやった。
黒髪、黄色い肌、ハムスターの周りにいる人間よりのっぺりした顔立ち、大きな黒目は確実に子供のそれだった。もとから大きいであろう目が更に更に見開かれて──同様に口も──ハムスターはペットショップで泣き喚く子供の姿を思い出した。少年の喉がひゅっと鳴った。
「
……
ね、ねっ、ネズミだあーーーー!!?」
聞いたことのない言語だったが、驚愕と恐れがふんだんに込められているのだけは分かって、ハムスターはしたり顔をした。そうか、お前、俺が苦手か! いいぞもっと嫌になれ、俺を不運な目に遭わせてくれ!
少年は買い物袋を抱き寄せると後退りし、ハムスターとは反対の壁に張り付いた。視線をそろりと廊下の奥にやり、玄関扉にも移し、またこちらに戻す。目と目が合う。
下がりきっていた黒眉が、訝し気に潜められた。
「いや、違う
……
え
……
ハムスター
……
?
……
ネズミとハムスターの違いってなんだ」ぼそぼそと何か言っている。なんてブサイクな生き物なんだ、信じられない、猫だって不気味がって食わねえぜ、とかなんとか罵っているのだろう。それにしたって何語なのだろうか。大抵の動物語と少女たち家族の話す英語なら理解できるのに。
膠着状態は続き、見つめ合ったまま、やがて少年が恐る恐る腰を屈めた。
「ど、どこから来たの」
きみが行くべきところは地獄だね。と言われた。たぶん。
もちろん分かっているとも、髭を震わせ肯定する。少年は益々困った顔をした。
「ええと、待って、そうか、動物にもお国言葉があるよな、英語だ英語
……
」
乾いた唇をぺろりと湿らせている。食われる、ハムスターは悟った。
「
…
Where did you come from?」どこから来たの?
沈黙が落ちる。
ハムスターはその時思考が一時停止していた。相手の方も動きを止めていた。
……
どこから来たの、と訊かれた。恐らく。どことなく不安な発音があったけれど。
てっきり完全に意思疎通できないものと思っていたばかりに、唐突な会話についていけない。大概、人間は、言葉が通じようと通じてなかろうとペットに話しかけてくる。少女もそうだった。売れ残ったハムスターを見つけ、すげない態度の自分に話しかけ、人の言葉を話せないハムスターとお喋りしているふうだった。それが楽しそうで、ハムスターは嬉しくなり、もっと人間の言葉を理解しようと思ったのだ。
貰われてからは、ジャーマンシェパードの親友ハムにも言語を教わっていた。
目の前の少年は、床に膝をつき、まさか通じているとは思っていないだろうに、英語を続けた。
「どこから入ったの? きれいだし、たぶん、誰かに飼われてると思うんだけど
……
困ったな、ええと、
……
待って、きみ、どっかで見たな」
ぎくりとする。
「確か
……
、そう、レイラのとこのハムスターじゃないかっ? そうだ、うん、
……
良かった、ハムスターだ!」
途端に表情を明るくさせている。ハムスターはこの少年のことを知らなかったが、少年はハムスターと少女のことを知っているらしい。まずいぞ。そんなの、この人間が言い出すことが一つに決まってしまう。少年はそろりと立ち上がり、買い物袋を隅に置くと、両手の平をこちらに向け扉ににじり寄っていく。ペットショップの店員が飛びかかろうとしてくる大型犬に対するのと同じ動作だった。
「お願い、いい子だから、そこで待ってて。今からウォーカーさん家に伝えに行くから
……
頼むからそのまま、じっとしてて」
悪いがそれには従えない。少年が行ったところで、今家には人語を話せる者がいないけれど、まだあの幸福の巣に帰るわけにはいかない。
ハムスターは身を翻して玄関マットを飛び越え、闇雲に廊下を突き行った。「ちょっ、なんで!?」後ろからの悲鳴にただ「チィッ」と返す。ハムスター語で、放っといてくれお坊ちゃん、というスラングである。
てんで見当違いなところを探している。
ハムスターは単純にカーテンの裏に潜り込んだというのに、あの少年ときたらテレビ台の下、テーブル足の影、冷蔵庫の隙間などを確認し、部屋中をうろうろと彷徨っていた。
「嘘だろうごめん、僕が悪かった。だってハムスターとまともに対面したことないんだもの
……
」部屋のどこかにいる無断侵入の小動物に向け発している英語は、情けない声色だった。
ハムスターは日光を浴び温かいカーテンの裾を鼻先で押し上げ、少しだけ顔を出した。
少年はあらぬ方向に話しかけている。
「きみをどうにかしようっていう意思はないんだ。ただ、ほら、きみの家はここじゃないだろ? 経緯は分からないけど、この状況って、すごく困る。正直どうしたらいいか
……
まずはきみを見つけて、箱の中にでも入って貰わないと
……
ねえ、顔を見せてくれない?」
お前が振り返って下向けば見えるよ。
ハムスターは必死な後ろ姿をまじまじ観察した。この人間、どうにも変だ。ここまで他人のハムスターに語りかけるのも珍しい。元々ひとり言が多いタイプか、油断させて動物をぞんざいに扱うタイプか、ただ単にちょっと馬鹿か。
……
もしくは、少女のように、心優しいタイプか。
ひどい人間であれと願う。さもなければ、飛び込んだ意味がない。
部屋中を見渡す。この部屋以外に通じる扉はどこも閉められていた。懸命な判断だ、こちらは籠城するしかない。ハムスターは鼻先を引っ込めた。
「参ったなあ、うかつに動けないぞこれは
……
というか、僕、ハムスターを触れるのか
……
?」
少年はしきりに玄関がある方角を気にしているようだった。「アッシュいつ帰ってくるだろ
……
あいつハムスター捕まえられるかな
……
」また聞き慣れない言語で呟いている。Ash(灰)と聞こえたので、予想するにハムスターの丸焼きについて考えているのだろう。見かけによらずエグい食生活を送っている。ハムスターの少女になるべく近づかないでほしい。
守られている沈黙に諦めがついたのか、「分かった」少年は手を打った。
「オーケー、そっちがその気なら僕は僕の好きにする。でも、いいかい、これだけは理解しといてほしいんだけど、僕はきみに危害を加えるつもりは毛ほどもないんだ。
……
これは、そう、僕のために言ってる。わざわざ、言葉にして。伝わってるか分かんないし、万が一伝わってても、この人間やべえなって思われるのは御免だし、だから、
……
仲良くやろう。よろしく」棚の後ろに向かって言った。
この人間やべえ。
好きにする、の言葉の通り、少年は時折部屋の気配を探りつつ、住人らしく動いていった。
買い物袋から物を取り出し、仕舞うべきところへ仕舞っていく。一人にしては量が多かった。ハムスターは危険を承知で少年に付かず離れずしながら(驚くことに床を走るハムスターに一切気づかない。間抜けだ)、鼻をひくつかせた。
鼻はあまり自信がない。親友のハムは凄いことに、どこぞに隠されたおやつだって嗅ぎ分けるし、洗濯物の中からおもちゃだって見つける。ハムスターが藁の中に隠し持っていたクッキーにだって気づいた。
なんとなく嗅いでみたところで、彼のように分かることは少なかったが、空気中に一等強いにおいが漂っていた。なんだろう。
……
腐ったにおいだ。
ハムスターはテーブルの下に蹲った。初めて嗅ぐ悪臭だった。ここに住む人間は、きっと、ことごとくとんでもない。ママさんの化粧のにおいが全然マシに感じる。そこでハムスターはあっと気づいた。
この少年、なぜ今の時間帯に部屋にいるのだ。
ハムスターは数字を数える習慣がないので曖昧だが、ハムスターの家族──パパさん、ママさん、少女レイラ──は昼間のうちはほとんど家にいない。レイラが言っていた。私には、学校というものがあるのよ。子供はみんなそこに行って、青春ってやつを送るの。
……
あなたも一緒に行けたらいいのに。
少女は出かける前、必ずハムとハムスターに手を振っていた。今朝もそうだった。
では、この子供は?
親がいないのはおかしなことじゃない。人間の大人には仕事がある。子供は学校へ。
……
まあ、全ての子供が同じ時間に同じ場所に行けるわけじゃないことは、分かっている。ペットショップにいた頃にも、ペットを飼う代わりに学校へ行くのよ、と母親に諭されている子供がいたし。
……
そもそも、黒髪黒目の少年は、アメリカ人なのだろうか。いや、これを考えるのも無駄だろう。何せ、アカミミガメの口癖が「俺たち全員がミシシッピ生まれなわけじゃない」だったので。人間も様々だ、そしてそれはハムスターには関係のないことだ。
と、その時、視界が暗くなりハムスターは咄嗟に転がった。
たった今まで自分のいた地点に逆さになったコップが被さる。油断した! ハムスターはテーブル足に回り込んだ。
「あああごめん待って待って、ごめん、今のは、今のは卑怯だったよね、待って、落ち着いてほしい」
這いつくばった少年がゆっくり下がっていき、コップを後ろ手に隠す。「ごめん」片方の手の平を見せてくる。
「今のは、卑怯だった。ごめんね。そうだ、うん、声をかけるべきだった。大丈夫、怖がらないで、いい? 僕は、これから、」緩慢にコップを現した。「これで、きみを、閉じ込める。少しの間だけだ、ウォーカーさんを呼びに行くまでの。紙コップだし、穴も開けた。狭いだろうけど、我慢してほしい。オーケーだね? 三つ、ワン、トゥ、スリーって数えたらいくから。ワン
……
」ナマケモノのように腕を伸ばしてくる。「トゥー」ハムスターはちらっと後ろを向いた。
スリー、の息が歯の隙間から零れる前に、ハムスターは後方に逃走した。
「なぜ!」
少年が嘆いた。コップが空振る。そりゃ逃げるに決まっている。恨みがましい声がした。
「僕が
……
たとえばディズニーの登場人物なら
……
歌で手懐けられるのに
……
」
少年のタイプが分かった。
ただ単にちょっと馬鹿、だ。
ハムスターはディズニーを知っていた。
というのも、少女が好んで見ていることが多いため、物語に出てくるほぼ全ての人間が踊り狂い歌いまくる非現実的ハッピーエンド、という認識を持てていた。それだけじゃなく、人間以外の動物も人間のように振る舞ったりする。動物を誑かすのがうまい組織だ。少女に、あなたは白馬に変身できないわよね、と残念そうに言われた時は、杖を持った怪しげな衣装の人間がいやしないかと、熱心に窓の外から街並みを眺めたこともあった。
女の子の憧れなの、とハムスターの少女はうっとり笑っていた。
男の子はどうなのだろう。
「あんまり、小動物に好かれたためしがないんだ」
少年がキッチンで何事かを行いながら、どこにいるかも知らないハムスターに話しかけている。
ハムスターは少年の足元にあるゴミ箱の裏に隠れていた。つくづくこの少年はオマヌケだと思う。目の前に落ちてでもやらないと気づかなそうだ。
「ネズミも、実はすっごく苦手で」
ざく、ざく、と小気味良い音が降ってきていた。
その音に同調するように髭を震わせながら、ハムスターはへッと鼻で笑った。ネズミが得意な人間など、多いわけがない。この街は凶悪な溝鼠がそこら中を走り回っているのだ。ハムスターもその姿を見たことがある。奴らは、汚く、粗野で、傲慢で、──そして自由だ。
「昔、寝てる間に噛まれたことがあってね。屋根裏でも足音が凄くてさ
……
。だから、急に飛びかかられた時は、女みたいな悲鳴上げて飛び上がっちゃったりして、」少年の声が不自然に低くなった。ハムスターは見つかったか、と少しドキリとするも、変わらずざく、ざく、と軽快な音が続いていくので小さな胸を撫でおろす。パパさんより大きくはない足を視線だけで辿り上げ、様子を窺った。黒髪に隠れた顔はどんな表情をしているか分からなかったが、ハムスターは強制的に、ちょっと悲しいような、そんな気持ちにさせられて肌が痒くなった。
よくあることだ。
ペットショップでも、近くにいた店員がひっきりなしに溜め息を吐いていたりすると、空気に溶け込んだ何かが柵も硝子も擦り抜けて、ペットたちの気を落ち込ませたりする。特に影響があったのは、ぶーぶーとよく鳴くネザーランド・ドワーフの子兎で、いち早くそういう気配を察しては、その時ばかりはじっと黙って大人しくしていたものだ。あの子兎は、いいやつだった。ハムスターを馬鹿にはしなかったし、少し世間知らずな面もあったが、早々に優し気な夫婦に貰われていった。きっと、夫婦の心に寄り添い、幸せに暮らしていることだろう。
ハムスターは心なしか、しんなりした毛を舌で舐めて、
……
チッと舌打ちした。なぜ見ず知らずの、少々頭のおかしな少年の感情に振り回されなければいけないんだ。そもそも、今のひとりごとのどこに悲しくなるようなことが? 分からない。人間の感情はコオロギが跳ね飛ぶより突発的な差を見せつけてくるし。ただおかしいだろう、苛々するのだ。さっきまであんなに間抜けを晒してたくせに。
ハムスターは、人間が、ひとりきりで何かを耐えようとするのが好きじゃない。
少女もそういう癖を持っていた。時折、ハムやハムスターがいることを忘れて、ひとり顔をくしゃくしゃにさせる。どうして? 俺たちじゃなくとも、ママさんやパパさんだっているのに、なぜひとりきり、そんな辛そうな顔するんだ? 俺たちでは、寄り添えない? ペットショップの比較的優しい店員は、ペットは人に寄り添うためにいるのだと言っていたけど、その時俺は寝言は寝て言えとひまわりの種を吐いたけど、今じゃその通りだって思っているんだよ。ハムもそうさ。ハムが教えてくれたんだ。俺たちは、きみをひとりにはさせたくないんだ、決して
……
。そして、
……
そして?
「あっ」
ざくり。
それまで響いていた音の調子が外れたため、ハムスターはハッとして考えるのをやめた。
小さく声を漏らした少年は、「ひー、絆創膏」大して慌ててない様子でキッチンを離れてゆく。左手の人差し指を口に含んでおり、ああ、さっきのは包丁で野菜でも切っていて、それが指にまで及んだのかと悟った。ママさんもたまにおっちょこちょいな時があったので、想像するのは容易い。
けれどママさんが怪我をすると、娘のレイラや夫のパパさんが必ずそばに寄って声をかける。
少年はこの広い部屋にひとりきりだった。
ハムスターは前歯を剥き出しにして、一瞬ちらついた己の行動をむしゃむしゃ食ってやりたくなった。少年のそばに駆け寄って、大丈夫かどうか見に行ってみようか、などと。むしゃあっ。
なぜ俺が。ハムスターはハムスターの家族以外のことにまで気を揉めるほど、ハムスター好しじゃない。
しかし、そうだ、と思い直す。
俺は不幸を探しているんだ。不幸の中に身を投げ打って、有り余る幸福ととんとんか、これからのため余分に幸福を返済していきたいのだった。ならば、あの不可思議な少年に近づくのが、正しい行動だ。
そうだ、そうだぞ、うん。別に、気になっているからじゃない。
ハムスターは自得すると、ゴミ箱の裏から身を翻して、遠ざかる少年の後を追った。
「しまった。ああ、くそ、なんで絆創膏買ってこなかったんだろ
……
忘れてたな」
棚の中を右手だけで掻き分ける少年が、やがて悔し気に呟いて諦めたようにリビングの椅子に座った。
「まず
……
」ちゅうちゅう左手の指先を吸っている。
ハムスターはそれを、テーブルの上のティッシュ箱の影から観察していた。ここからだと少年の顔がよく見える。レイラとは比べ物にならないくらい、のっぺらしたつまらない顔だ。あどけないが、眉根を寄せる表情はどうしてか大人にも見えた。
影から尻尾が出てしまっているハムスターにも気づかずに、少年は宙をじっと眺めている。
静かだった。またハムスターの肌がむず痒くなり、毛が芯を失っていく。もしかしたら、少年はずっと、こんなふうにしているのかもしれない、と思った。
ひとりごとを漏らしながら、ひとりぶんの静けさに、ぽつねんと。
「
……
アッシュ」
また灰について零した少年は、廊下へと続く扉と、壁に掛けられた時計を見やり、自嘲じみた態度で首を振った。口から離した人差し指に、赤い粒がみるみるうちに盛り上がって指に伝うのを、辟易した様子で眉間に皺を増やしてから、再び咥える。
ハムスターは、そこで、ああ、と閃いた。
両手に持った買い物袋。しきりに玄関に向かう目。アッシュ。
アッシュって、人名か。
なんだ、じゃあ、ハムスターを丸焼きにして消し炭にしようと言った単語じゃなかったのか。
じゃあ、じゃあ、
……
この少年、ただ単にちょっと馬鹿で、とてつもなく間抜けで、誰かの帰りをひっそり待つ、悪人でもなんでもない善良な子供なのではないか。
ハムスターは髭を震わし、玄関をちらと見て、駆け出そうか迷った前足をしまい込んだ。
まあ、いいだろう。
そのアッシュとやらが帰ってくるまでここにいるのも、わりと不幸だ。だって、ハムスターは全然少年のことなど気にかけていないし、そんな少年のそばにいることは中々に不運だろう。そう思っておくことにしておくのだ。
少年はさっきまでのひとりごとが嘘のように黙りこくっている。目もどこか、こことは違うところを見ていた。ハムスターはティッシュ箱から飛び出した。不幸に飛び込んでいく気概だったはずが、ほとんど脊髄反射のようなものだった。
少年の目の前まで駆け寄り、二本足で立ち、鼻をひくつかせる。おら、捕まえてみろ。俺はここにいるぞ。
ぼんやりしていた黒目がゆっくり瞬きし、そして徐々に見開かれていくのを、愉快な気持ちで見つめる。高くない鼻はつまらないが、その大きな目が零れんばかりなのは存外面白い。
「は、はむ、は」少年は驚きで緩んだ口を押さえ、掌に「ハムスター」と囁いた。その指からはもう赤い液体は垂れていないが、滲んではいるようだった。大事にしろよ、怪我が痛いことを知っていたハムスターはチィっと鳴いてやる。
その鳴き声をどういうふうに捉えたのか、少年は慎重に腰を引くと、立ち上がり、後退った。まだハムスターとの距離を測りかねている。
「きみから、来てくれるなんて」
静かな空間がぱっと明るく切り替わる。
「ちょっと待って、今、コップを」ハムスターは前足を下ろして踵を返した。「ごめんごめんごめん、待って、どこにも行かないで」この上なく情けない声音だ。「お願いだから、僕の目の届くところにいてくれ」ハムスターは尻を落ち着けた。
あからさまにホッと息を吐いた少年は、だからといって素手で掴むのも躊躇ったようで、忙しなくハムスターと玄関の方を見比べる。「ど、どうしよう
……
でもあれかな、今ウォーカーさん家ってみんな出かけてるんじゃ
……
」お、賢いな。全くその通り! 行ったって無駄だぜ、オマヌケ坊ちゃん、チィっとスラングを放つ。
少年は迷った挙句に、脱力し、それから意を決したのか拳を握った。「ちょっと待ってて。絶対だよ。
……
伝わってんのかな」伝わってるよ。
そしてキッチンへ消えていく。
戻ってきた時には、ハムスターがちゃんとそこにいることに笑顔を浮かべ、いそいそと手に持っていた物を掲げた。
「ねえ、これ欲しい? 二十枚はあるの」
奇妙に甲高い声だった。無理が祟ったのか、こほっと咳き込んでいる。
「はは、なーんて
……
、僕はディズニープリンセスかよって」
手に持っていた物の一枚を、そっとテーブルに置く。ハムスターは罠をしかけられたと思った。
キャベツである。
つやつやの、筋が通った、柔らかそうな葉っぱ。
小さくちぎられたそれが、少し歩けば届くところに倒れている。
懐柔しようとしている。善良な子供だと思った矢先に、まさかこんな策略を謀ってくるなんて。
ハムスターはじり、と尻ごと下がった。
少年はハムスターの逃げ出しそうな雰囲気を掴んだのか、殊更ゆっくり、手を差し伸べてきた。「よく見て
……
」指は何かを握っている。
キャベツの上に到達すると、指を解き、それを置いた。
「素敵だろ。これでもっと完璧」
キャベツの上に、小さなサツマイモの欠片が乗っていた。
「だけど、足りなかったら、にんじんの欠片もあげる」
ハムスターは完全に敗北した。
「僕はね、別にディズニーが特別好きってわけじゃなくて、妹に付き合わされて覚えていったんだけど」
機嫌よい声が飛んでくる。
ハムスターはすっかりくつろぎながら、少年のひとりごと──最早、明確にハムスターに喋りかけにきている。いつもひとりで呟いているとしたらホラーだが、そのぶん溜め込んでいるものが多いとしたらなにぶん不憫だ、聞いていてやるからなんでも喋ればいい──を寛大な心で受け入れていた。食べ物で絆されたわけじゃない。キャベツは大変瑞々しかった喉が潤った。
「前までは特になんともなかったのに、ここに来てから、あのおとぎ話の世界が羨ましくなったりしてさ」
キッチンから、ママさんが作業するのと同じ音が空間を伝ってくる。ざくざく、とんとん、ことこと。
ハムスターは綺麗にたいらげたテーブルの上で、腹ばいになって耳を傾けていた。食べ終わっても逃げようとしないハムスターを見て、少年があまりに安堵したようだったから、動く気を失くしたのである。
「あの世界って凄いよな。歌と踊りで分かり合っちゃって。現実じゃ舞台俳優でなきゃ無理だよ。僕でも、それくらいは分かるんだ」
だから惹かれるんだろうね、と繋げる。
「あんな完璧なハッピーエンドが、現実でも起こってくれたらと
……
」
ハムスターは身を起こしかけた。
なんて情緒不安定な人間だろう。少年はまたこちらの毛をしんなりさせている。
けれど、それも一瞬だった。
「なんてね。それはそうと、結構好きな歌があるんだ。歌詞ってちゃんと聴くべきなんだよな」
甘いようなしょっぱいようなにおいとともに、あたたかなものが漂ってくる。
ハムスターは安心してテーブルに突っ伏した。
「それで、ふふん、今日が何の日か分かる?」
知るものかよ。
「なんと今日はな
……
なんでもない日なんだ!」
この人間だいぶ頭がやられている。
「いや、ハムスター侵入記念日とかにはなるかもしれないけど」
そいつはいいや、不幸のどん底に落としてくれ。
「でも、誕生日でもない、建国記念日でもない、はたまた恋人が祝うような日でもない、僕とアッシュのなんでもない日なんだ」
……
そのなんでもない日なのに、お相手は中々帰ってこないんだな。
それとも、中々帰って来ないのが、通常の“なんでもない”なのか。どちらだろう。
ハムスターは髭を揺らした。
キッチンから、意志の強い、ともすれば祈りのような声が流れてくる。
「僕は、二人の誕生日以外の363日を、なんでもない日にしてみせるぜ。なんでもない日万歳、おめでとう! っつって祝ってやる。
……
祝ってやりたい」
言葉の裏で、どれだけの過去があるかは知らない。
しかし重みがあって、空気に溶け込み、毛をそよがし、それが歌みたいだ、と思った。
「それで誕生日も含めて、365日、なんでもないように祝えたら、
……
一年に一回の誕生日を祝うより、昔の最悪なことがあった日数を、いつか越えられるんじゃないかって思うんだ。どうかな?」
どうも何も。
お前がいいんなら、いいんだろう。
昔の最悪なことがあった、日数? ハムスターは数字を数える習慣がないが、少女に飼われ、ハムと出会い、ともにあの家で暮らす日々が、とうに過去のことを追い越しているのを知っている。
だから、追い越したところへ、戻ろうと。戻らねばと。
このままじゃ、幸せな日常を、なんでもない日として甘受してしまいそうだと。
そんなの、恐ろしいだろう。だって自分は売れ残りハムスター、別種のオウムにまで「ブサイクブサイクゥ!」と見下される、決して幸福を当たり前だと思ってはいけないペットなのだ。
でもそのハムスターを、なんの見返りもなく受け入れてくれた、助けてくれたジャーマンシェパードのハムは、一体どうなのだろう。
ハムスターの幸福を守ってくれている大切な親友は、俺のことを、どう思っているのだろう。どう見ているのだろう。
「チッ」
ハムスターは舌打ちした。何か大事で完璧な結論が出そうなのに、いまひとつ欠片が足りない。先ほど食べた、小さなサツマイモのような、その部分が足りない。
その時、ガチャリと、重低音がした。
この部屋じゃなく、もっと奥、玄関の方からだ。それから、人の気配。
おい、とハムスターは起き上がり、キッチンに髭を向けた。お前、帰ってきたんじゃないのか、お前のアッシュとやらが。
背後でこの部屋の扉が開けられる音がした。
ハムスターは振り返る。
その人間が近づいてくるにつれ、ああ、こいつは人間界の美形だ、と小さな頭で思った。鼻筋はすっと通り、瞳は切れ長、何より、色が綺麗だ。少女が、この人カッコいいでしょうと見せてきた挿絵の王子様に似ている。それでもハムスターにとって一番美しいのは少女だったが──部屋に入ってきた男は、それこそディズニーで陽だまりのなか軽やかに歌い踊っていてもおかしくない見目をしていた。
自分の家のくせにどこか不慣れな動作を見せた男は、キッチンの方へ顔を向け口を開いたところで、ゆっくり首を前へ戻した。
つまりはハムスターを認めた。
その瞬間、男のまとう空気が一転した。陽だまりが張り詰め、身の内に隠し持っていたらしい鋭利な氷が温度を下げる。
ハムスターの毛が逆立つ。
……
ああ、この男。
よほどあの少年が大事なのだ。
どういう事情、どういう過去、どういう感情が存在しているのか全く想像もつかないし興味もないが、それだけは確かなことに思えた。そして、ひどく警戒している。なんでもない日を過ごさせてくれる少年と男の部屋に、いつもはいない生き物がいることに、不審感を持っている。猫のようだ。ペットショップの猫は気位が高いやつらばかりだったが、この男は、野良猫に近い。テリトリーに勝手に侵入するものを許さないんだあいつら、窓の外を飛ぶ烏がよく愚痴を零していた。
男が訝しさに顔をしかめ、近づいてくる。
「ハムスター
……
?」
安心しろよ。ただのハムスターだぜ。
「なんでこんなとこに」
口の中で呟き、ハムスターをまじまじ観察することで部屋に害成すクリーチャーではないと判断したのか、張り詰めたものが徐々に緩んでいく。
「アッシュ?」
キッチンからの呼びかけにより、それは完全に緩んだ。
氷の切っ先など溶かして跡形もなく、そんな鋭利なものもとからありません、といった純粋な不審で片眉を上げている。
「英二」
呼ばれた少年がエプロンで手を拭きつつ、「帰ってきたんなら一声かけろよな、おかえり」とアッシュの帰りを待ちわびていた時間を巧妙に隠してやってきた。
テーブルの上のハムスターと、対峙する男を交互に見、少年、英二はぎくっと身を強ばらせる。
「
……
いくらきみがリンクスでも、ハムスターを食べるのは、」
「誰が何を食べるって?」
「だって、睨んでなかった?」
「睨みもするさ。なんだよ、こいつ」
「ええと、話すと長くなりますが
……
」英二が身振り手振りでなんでもないふうに話していく。
二人の会話を聞きながら、ハムスターは思案に暮れた。
俺の家族であり、守り役であり、親友であるハムは、今頃どうしているだろう。
外はいつの間にか夕方の陽射しが照っている。レイラももう帰っているかもしれない。ハムスターは不幸も甘んじて受けるが、レイラをひとりにはさせたくなかった。ハムとともにそばにいたかった。
そして、そして
……
。
「
……
と、まあ、ハムスター確保のために僕はずっときみを待っていた次第で」
「待て」
「えっ? これ以上何を待つっていうんだい。どっちかがウォーカーさんを呼びに行けば
……
」
「そうじゃねえよ。どうしたんだ、それ。指。切れてる」
「ああ、ちょっと包丁で
……
あー、絆創膏買うの忘れちゃってて。反省してる」
「そのうち俺はお前に果物ナイフでさえ握るなって言いそうだ」
「え? 困るよ。誰がきみにご飯作るんだよ。林檎も剥いてやれないだろ」
「
……
マザー」
「そう、僕がマザーだ。存分に労わるがいい」
ハムスターは目にした。
きっと生まれも違う、年齢も離れている、言語も本当は異なる、家族か友人か恋人か分からない男が少年の手を取り、うやうやしく指先に唇を近づけたのを。
皮膚は、触れ合っていなかった。わざと、寸前で、ちゅっと音が鳴った。
「わっ。マザーじゃなくプリンセスだったのかな」
「俺を王子にしてくれる?」
「きみならなれるよ。
……
キザな台詞なのに似合うってのが、くそう、って感じだ」
「はは、台無しだよオニイチャン」
あまりに平和な時間がそこには流れていた。
なんでもない、いつもの、少年が祝い守ろうとしているもの。
男が外部からの侵入を、防ごうとしているもの。
平和で、穏やか、幸福に包まれていて、ハムスターは無性にハムに会いたくなった。そして、ようやく、出しそびれていた不完全な結論に、サツマイモの欠片がはまり込んだ。
ハムスターは幸福がずっと続くわけないと、そう思うことでいつそれが失くなっても必要以上に絶望しないための、臆病な考えの持ち主だ。
しかし、たとえば少女のためなら、親友のためなら。元々は不遇だったのだから、自分から暗いそこに落ち込んだとて構いやしなかった。
けれどハムスターは知っている。レイラは、ハムスターにそばにいてほしいと思っている。ひとりで泣くのを堪えている時ですら、本当は、我慢しないで縋りたくなっているのを、分かっている。ハムスターが自ら離れていくのを、望んでいない。だから余計に何もできないのがもどかしくて、そういう時、いつも不甲斐なくなる。
ハムだってそうだ。
彼はいつも凛々しく、賢く、物事を一歩引いて最善を選び出すが、その最善はいつだって誰かのためだ。レイラのため、パパさんのため、ママさんのため、ハムスターのため
……
。
干し草に包まれていつ死んでもいいよう、今のうちに危険を冒したい? ふざけている。俺はいつも自分のことばかりだ。それをして、彼がどう思うか、分からないわけじゃあるまい。いつかも数字で測れない死に目のために、今、このなんでもない幸福から、逃げ出すのか? 馬鹿だ、本当に
……
。
ハムスターは知っていた。
何が、大切なハムのためになるか。
ひとりにさせたくないのは、レイラだけじゃない。
ハムスターはテーブルから飛び降りた。
床に数回バウンドし、小さな両足が軋みを上げたが、気にしなかった。
「ハムスター!」
少年が驚いて叫ぶ。
ハムスターは駆けた。二人の足の間を縫って、開きっぱなしの扉を突き入り、廊下をひたすら走った。玄関に辿り着く。閉まっている。「チィッ」前足で引っ掻いた。
「ちょちょ、ちょっと待って、どうしたの」
「
……
出たいんじゃないか?」
「あ、開けていいものなのかな、これって」
さっさと開けろ少年!
「開けてやれよ。どっか脱走しそうだったら、捕まえてやるから」
「わ、分かった。じゃあ
……
」
錠が開いた。隙間ができた。ハムスターは開き切る前に体を捻じ込み、飛び出した。
勢い余ってつんのめりつつ、ただただ戻りの一本道を走る。目指すは我が家、レイラと、ハムのもとだ。とっとことっとこてってけてってけ、廊下はひどく滑りやすくて何度も足を取られた。ハムスターは腹の毛が擦れるのも構わず走り続けた。
遠くで、ひとつの扉が開いた。
そこから注意深く出てきたジャーマンシェパードが、くんくんと鼻を床に押しつけている。耳は後ろにいる誰かに向けられている。
「ねえ、どう? においする? もう、ほんと一体どこ行っちゃったの
……
」
レイラの泣き声がハムスターにも届き、それと同時だった。
精悍な顔立ちのハムがこちらを向く。「──ハム!」駆けろ駆けろ駆けろ、駆けろハムスター! ハムスターは安心しきってくずおれそうな自分の足を激励した。俺から帰るんだ! じゃなきゃ、意味がない!
だというのに、きみは、当たり前のように俺に駆け寄ってくる。
比べ物にならない、大きな一歩だ。それがぐんぐん二匹の距離を縮める。「わんっ」滅多に吠えないハムが、犬の言葉で、帰ってきたぞレイラ、だから言っただろう? と後ろへ得意気に伝えた。
「ハム! ハム、ハム
……
、ああ、ハム!」
「なんだよ、おい、どうしたんだ」
ハムスターは、剣幕に困惑しているハムの足に、とうとう縋り寄った。
「悪かった。ごめん。俺はきみに、ひどい仕打ちをした」
「何?」
「俺はね、ハム。きみとレイラと一緒にいるのが、どうしようもなく幸せで、不安だったんだ。でも、それは、きみもだろう、ごめん
……
」
宥めようとしてくれる鼻先に、小さな手でぎゅうとしがみつく。感極まって涙が滲んだ。
「きみだって、こんな俺が、いつか馬鹿みたいな理由でいなくなるんじゃないかって、不安だったはずなんだ。本当にごめん、俺は
……
俺はこんなだけど、きみとずっと一緒にいたいよ。あの幸福が大好きなんだ。きみとともに、レイラと笑い合っていきたい。もう自分から逃げ出すような真似は、しない。
……
約束する。ひまわりの種に誓ってもいい。きみのそばにいる」
鼻にしがみつかれたハムは、しばし黙考したのち、べろりと泣いているハムスターを舐めた。
そして言う。
「約束しなくとも、ちゃんと戻ってくるって信じていたさ。それに、言ったはずだぜ、私はお前のにおいを追える。どこにいようと、探し出して、連れ帰るよ。
……
自分のために、そうしてしまうだろうな。いいのか? そんな私のそばにいても」
「もちろんだ、親友。きみのそばが一番安心するんだ」
「はは、レイラが嫉妬するぞ
……
いいだろう、私もお前をそばで守れるのが、一番安心する。
……
おかえり、親友」
「ああ、ただいま!」
種族も言語も飼われた年数も違う二匹は、そうして、しばらく、ひしと抱き合っていた。
ウォーカー家のハムスターが脱走した事件は、一人娘のレイラにとっても想定外のことだったらしい。
泣きじゃくりながら五歳も年下の女の子に頭を下げられて、英二は隣に立っていたアッシュが笑い出すほど大慌てした。
自分たちの部屋へ戻って行く少女と、ジャーマンシェパードと、ハムスターを見送りながら、英二はようやく息を吐けた。ハムスターが玄関にいた時は、本当に、どうしようかと思ったのだ。大事にならなくて良かった。
扉が閉まる直前、丁寧に頭を下げたレイラに、手を振って応える。
一人と二匹が見えなくなり、英二は手を下ろした。
「
……
ハムって言うんだってね、犬の名前」
「ああ」
「ハムスターの名前が、シェパードだってね」
「ああ。ハムが好物だからハム。そんでハムスターを飼うってなった時に、ちょうどいいからシェパードにしようってなったって、そう言ってたな」
「
……
まあでも、ツーカーの仲を表してるみたいで、いいよね。レイラも今じゃ気に入ってるって言ってたし」
「それはそれとしてネーミングセンス死んでるだろ」
「んぐっ、言わずにおいたことを
……
」
笑いを堪えようとしている英二を促し、アッシュは自分たちの家の扉を開けた。思いついたように、ニヤリと笑う。
「どうぞ、プリンセス」
英二は堪え切れず噴き出した。
「ぶふっ、ちょっと駄目だよ、も、ほんとに今日、僕はプリンセスみたいだったんだから
……
思い出せば出すほど、おかし、ひはっ」
「改めて聞かせてくれよ、どんな日だったんだ? 今日は」
「ふふふ、いいとも。あ、その前に」
「なんだ?」
「おかえり、アッシュ」
「はは。
……
ただいま、英二」
二人の背後で平穏を包んだ扉が、優しく閉まっていった。
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