人間どんなに慌てふためく事態に陥っても、精神不定の頂点さえ超えてしまえば逆に冷静になるものである。
ひとしきり二人はそれぞれウワーッと叫び、お互いの喋る言語が異なることを察したあと、ひとまず部屋の中を各々見て回った。
何もない四角い空間。扉は一枚のみ。二人してドアノブを回すも、鍵がかかっている。
そして、壁に一枚の貼り紙。
英二はびくびくと、距離を置いて立つサングラスの男を窺った。色が濃すぎて、目が合っているのか分からない。
先ほど思い思いに喚いた時の彼の言語は、おそらく英語だった。
対して、自分は純日本人。更には貼り紙に書かれている文字も日本語。どう考えても自分が歩み寄らなければならないだろう。何せ英語は世界共通語、義務教育レベルでほんの少しなら理解できるのだから。
「あの」
警戒されているのは馬鹿でも分かった。
パーカーのポケットに両手を突っ込んでいる。不良然としている。同い年くらいか、いくつか年上か。
「あー…… American?」
英語を話すからと言って全員が全員アメリカ人じゃないことくらいはもちろん承知している。けれど、知らない部屋で、知らない男に、大して知らない言語で話しかけるこちらの勇気を察して欲しい。
顔がこちらを向いているため、英二を観察しているのかもしれない。サングラスに向けていた視線を居た堪れなくなって男の足元に落とす。
「... Yes」
イエス、と言われた。
アメリカ人? ……そうだよ。
「そっか」
英二はうんうん頷いた。堪え切れずに口元が綻ぶ。なんてことはない、小学生でもできる一言のやり取りだったが、この状況では大きな一歩に思えた。
アメリカ人。肌の色は黄色っぽいし、アジア系かな。
どうして知らないアメリカ男とこんな部屋に閉じ込められたのか、そもそもこの部屋の外はどこなのか、そこのところ全く不明だが意思疎通ができるということは何より大事だ。
英二がホッと胸を撫で下ろしていると、男はポケットから手を出して、おもむろに頭をかいた。
「Do you?」
あなたは?
「じゃ、Japanese」
日本人です。
男はふむと顎を撫でた。
「Can you speak English?」英語は話せますか?
「Just a little」少しだけ。
「... How is Chinese?」中国語は?
「……にーはお。しぇしぇ。うぉーあいにー。炒飯」こんにちは。ありがとう。愛してます。チャーハン。
男は警戒して硬そうだった口角をむずりとひくつかせた。えくぼができてしまっている。一寸遅れてぶはっと吹き出した。
「OK」分かった。「Will you ask me the same question?」同じ質問をしてくれませんか?
男はゆっくり、聞き取りやすいように話してくれていた。
英二は言われたことをひとつずつ頭の中で翻訳していって、閃きを得る。
「Can you speak Japanese?」日本語は話せますか?
「A little」少し。
男が言った。「……コンニチハ、アリガト、マイニチミソシルツクッテクダサイ、スシ」こんにちは。ありがとう。結婚してください。寿司。
正しく意訳しただろう頭を俯け、我慢する。駄目だった。げほっと噎せる。英二は肩を震わせて笑い出した。毎日味噌汁作って下さい、だって。どこでそんな日本語的プロポーズを覚えるんだろう! ひいひい笑う英二の前で、サングラスをかけていても分かるほど満足げに肩を竦めた男は、「Anyway」ところで、親指で貼り紙を示した。
「What is that?」あれは何ですか?
「あー……」
滲んだ涙を拭い、笑ったおかげで緊張が少々解けた体ごと紙に向き直る。
どう言ったもんかな。
あちらさんは日本語が読めない。紙に書かれたことを下手くそな英語で伝えられたとして、それは本当にそう書いてあったのか? と逆上されても仕方ない状態だった。自分なら、騙されているのではないか、と確実に疑心暗鬼に陥る。
「ええっと……」
さり気ない動作で指先を唇に持っていき、歩み寄ってドアノブを掴む。唇から指を離した。ドアノブを回した。開かない。
「駄目か……えーと、あの、」男を振り返る。
相手はアメリカ人。スキンシップが日本より断然多い国。万が一がある。
「What's your name?」あなたの名前は?
男はちょっと眉を寄せた。
「...... Shorter won」
「しょーたー・うぉん?」
「Yes」
「ショーター・ウォン!」英二はばっと両腕を広げた。「僕は英二! my name is エイジ・オクムラ。Nice to meet you!」自分でも急にフレンドリーさを押し出したなと思ったが、かなり不審だと自覚したが、どうしようもなくて両腕を広げたまま彼に近づいた。
見ず知らずの日本人にぎこちなく迫られたアメリカ人は、僅かにたじろいだようだったが、「Nice to meet you too, Eiji」歩み寄りながら右手を差し出した。
そっちか、握手! 英二も左手を差し出す。
がっし。ショーターの手は大きく、皮が厚く感じた。行き場のなくなった右手でも包み、ぶんぶん腕を上下する。「HAHAHA, Your hands are big!」あはは、きみの手は大きいね! 「...... Your hands are small」あなたの手は小さいですね。きみがでかいだけだよ!
笑いながらどちらともなく手を離す。
しんと静まり返る。英二は万が一にかけていた可能性が完全なるゼロになったことに多少狼狽えた。「あ、あのさ、」必死に英文を構成していく。
「Americans ... don't hug or kiss ええと、at the time of greeting?」アメリカ人は……挨拶の時にハグやキスをしないの?
ショーターは首を傾げ、「Oh, I see」ああ、なるほど「Take2, Start!」テイク2ってなんだ?
脳内翻訳処理が遅れた間に、ショーターはばっと両腕を広げ頬と眉と口を満面の笑みにした。
「Hi! Eiji, You should be careful if you are hug by Americans who meet for the first time」
アメリカ映画かはたまた日本人が思い描くアメリカ人みたいに、力強く抱き締められる。
「ぱ、ぱーどぅん?」
ゆっくり喋って貰えなかったため何一つ理解できなかった。「You have no sense of crisis. I'm sorry to doubt you」背中をぽんぽん叩かれた。何かしらを謝られたことは分かったので「あ、I don’t mind」とりあえず悪いことをされた覚えがないので気にしてないよと背中を叩き返す。男からはなんだか香辛料か煙のようなにおいが微かに漂った。
体を離す。この距離だとサングラスの奥にちゃんと瞳があって、切れ長のそれが英二を見下ろしているのが分かった。にこりと人懐こいのか胡散臭いのかどっちつかずの笑みを向けられる。
「American hug. How was it?」アメリカ式ハグ。どうでした?
今度はちゃんと聞き取れる速度と発音だった。背中にあった腕はもう離されている。しかし英二はショーターの服を掴んだまま、躊躇いがちに訊いた。
「あー、その、Don't you kiss?」キスしないのですか?
腕を回している体がぎくりと強張った。
分かっている。
この小僧は何を抜かしてやがるんだ。
そんな雰囲気をひしひし感じる。
英二はきちんと分かっていた。アメリカ人とて、別に誰彼構わず挨拶の時にハグやキスをしないということを。同性なら尚更だ。
一縷の望みだった。
てっきり挨拶の時はするもんだと思っている無知な日本人。それに付き合うアメリカ人。
頼む! 祈る気持ちで上目に見やる。
「It is a kiss ... of nice to meet you. ええと、Should I do it from me?」それは……あなたに会えて嬉しいのキスです。僕からするべき?
この英語って意味伝わるのか? いやもうこの際伝わらなくてもいい、僕からぶちかましてやろうか、英二の焦っているように見えない頭がその実焦りまくり、変に大胆な方向に振り切れた時だった。
「Do you want to kiss so much?」そんなにキスしたいのですか?
相手が心底不信感丸出しで訊いてきた。
「そんなわけない」
英二はつい突っ込んだ。だが日本語は理解されない。咳払いして、にへらっと笑いかける。
「I want to taste a movie scene」映画の一場面を味わいたいんだ。
ええいままよと浮かべた表情をどう思ったのか、わけが分からない部屋でわけが分からない初対面の日本人のわけが分からない言葉に、ショーターは「Not sure ... Are you serious? Sane? Have you anything to do with that paper? ... Shit. I wish I had studied Japanese」英二と貼り紙を交互に見ながらぼやいた。合間に「くそ」と聞こえた気がするので十中八九ぼやかれたのだと理解した。
これはもう、信じて貰えるかどうかは置いといて、貼り紙の文を伝えた方がお互いのためかもしれない。
「その、…… I'm sorry. ショーター、あの、ええと、キスを…… I and you have to kiss ... じゃないと、えーっと……」
服の背中をつんつん引っ張りながら、要領を得ない説明をしようとすると、彼は困り切って天を仰ぎ、それから仕方ねえなというふうに笑った。
「OK.OK. I will not break the dream of the dreaming boy」分かった分かった。夢見る少年の夢は壊さないでおきます。「Because I am a hero」私はヒーローなので。
ショーターはおどけるように言うと、再び英二の背中に腕を回し、頬にキスを落とした。
「Kiss you for friendship」友情のキスをあなたに。
ぱっと腕と体を離し、そのままサングラスが扉を向く。
がちゃん、と錠が開く音がした。
「... Understood. If we don't kiss, we can't get out of the room.」……なるほど。私たちがキスをしないと部屋から出られない。「Correct answer?」正解ですか? 英二を振り返る。
紙には、日本語で、『肌にキスをしないとこの部屋から出られません』と書かれていた。
「Correct」正解です。
「It's a bad hobby...」悪趣味だ……。
「I agree with you」全く同感。
頷き合い、行こうぜとポケットに手を突っ込みあっさり歩いて行く男を、英二は逡巡したのち呼び止めた。
「ショーター!」
「Yes?」
駆け寄り、右腕を掴む。
「I will send a kiss of friendship from me too」僕からも友情のキスをおくります。
そして爪先立って右頬にえいやっとキスをした。
サングラスの奥で目が丸くなった気配がした。
英二はへへっと頬をかく。
「I did something like a movie」映画みたいなことしちゃった。
ショーターが、盛大に、やれやれと首を振った。
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